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フランツ・W・ザイヴェルト:『ドイツ農民戦争』

 

 

 

 

 

 

 

 

【14】 マルティン・ルター ――

「いちばに出かけて、民の口を見よ」

 

 

 「農民戦争の序曲」のクライマックスないしカデンツというべき 1513-15年の一揆がようやく終息した 1517年、これまで反乱の火種さえ見えなかった北東ドイツ・ザクセンで、「宗教改革」の火ぶたが切って落とされます。ルターの「95箇条の提題」です。

 

 ルターの「95箇条」はあまりにも有名で、誤解も多いと思うので、いくつか前註しておいたほうがよいでしょう。

 

 まず、マルティン・ルターの人となり。ルターは農民出身と言われることが多く、エンゲルスも当然にそう思っているようですが、事実は、彼の父は鉱山業者で、たいへんに上昇志向の強い人でした。つまり、マルティンは、草創期のブルジョワ(有産市民)家庭で厳しい躾 しつけ を受けて育ったのです。

 

 「95箇条の提題」は、一般には、ウィッテンベルク(ザクセン地方、ハレ市の近く)城教会の門にルターが貼り出したとされ、ラテン語で書かれていたが、すぐさまドイツ語訳が印刷されてドイツ中に広まったとされています。しかしこれも、現在では疑問とされているのです。

 

 というのは、「95箇条」の内容は、討論会への参加を求める告知で、そのあとに、95項目の神学上の論題がテーゼ〔~である、という断定形〕の形で並べられているものです。印刷されたラテン語文書が、ルターの上司や主だった神学者・聖職者に送付されたのは事実です。が、戸外に貼り出されたという確証は無い、との見解もあります。あるいは、掲出自体はあったとしても、それは、当時の神学者の間で公開討論会を開くさいの通常の手続であって、一般人に読ませる意図はなかった、とする見解もあります。

 

 「論題」の内容については:

 


松田智雄によれば、「論旨は純粋に教義の問題としてとりあげられ、論じられている」『世界の名著 23 ルター』「解説」,中央公論社。中には現実的な提題も含まれているものの、全体としては教会法や教義を論じたもので、とくに「許し」は教会法や贖宥状では得られるものではなく神の意志によるものだ、という考えが貫かれている、としている。』

wiki「95か条の論題」.    

 

『ルターは、多くの民衆が言っていたことを1枚の紙にとりまとめただけであり、その最初と最後にルターの名前があるという以外に、文書全体を貫く思想といえるほどのものは無かった。しかしそのことがかえって、多くの階層の様々な人物に、自由な解釈を可能にしたとも考えられている。与えた影響として重要だったのは、論題の中身というよりは、ルターの意図には反していたかもしれないが、教会に対する批判を公言してもよいのだ、ということだった。

フリーデンタール『マルティン・ルターの生涯』, in:wiki「95か条の論題」.  

 

 

 上記 wiki に「95箇条」の翻訳が出ているので、関心のある方は見てほしいですが、ざっと見たところ、「贖宥状(免罪符)」と、その販売のための説教を批判する項目が多いのは事実です。しかし、批判と矛盾するような項目もないではなく、ルターの根本思想である「信仰義認論」も、うっすらと感じさせる項目はあるものの、ハッキリ述べられてはいません。一貫した思想を述べた文書とは思えないのです。

 

 しかも松田氏が言うように、現実の教会のあり方(免罪符販売など)を批判するような調子は希薄です。むしろ、全体として、「純粋に教義の問題」を学問的に論じているように見えるのです。

 

 したがって、この文書自体は、ルターが神学者を対象に公開討論会を開催するにあたって、予定する議題を列挙して参加を呼びかけたもの、と考えてよいようです。(ただし、この討論会は、開催されていません。一般社会に予想外の反響を引き起こし、物議をかもしたせいなのでしょうか)

 

 もっとも、当時の異端派運動や民衆秘密結社について、前2回に見てきたことからも判るように、当時のドイツの人びとは、下層民衆に至るまで、こうした宗教的・神学的な問題に、強い関心をもっていました。たとえ、教会外の一般人には、学問的内容までは理解できなかったとしても、この文書が民衆に影響を与えなかったとは言えません。少なくとも、れっきとした教会の修道士までが異論を言い始めたぞ、ということで、これからはもう、こっそりと言わなくてもよいのだ。おおっぴらに「免罪符」や「教会に対する批判を公言してもよいのだ」と民衆に思わせた点で、この文書は大きな影響力を持った、とのフリーデンタールの指摘は、首肯してよいのではないでしょうか?

 

 

 

 

 ここで想起するのは、「民衆の口を見よ(dem Volk aufs Maul schauen)」というルターの有名な言葉です。

 


『人は、母親に家で、子供たちに路地で、俗人に市場 いちば で問いかけ、彼らがいかに語るか、彼らの口をしっかりと見、しかるのち翻訳しなければならない。』

wiktionary.    

 

 

 これは勿論、聖書を翻訳するために、近代ドイツ語(新高ドイツ語)を創成した方法を述べているのですが、言葉をていねいに聴き取れば、民衆が話題にする話の内容も記憶に残るはずです。こうしてルターは、人びとが市場でウワサしあう教会や聖職者への揶揄や不満を日常的に聞いていたので、それらを神学的な提題の形に昇華させたのではないか? …ルターのアウトプットが民衆に影響を与えた以上に、インプットもまた、民衆の遠慮ないおしゃべりから来ていたと思うのです。「ルターは、多くの民衆が言っていたことを1枚の紙にとりまとめただけ」――とのフリーデンタールの言は、あながち言い過ぎではないと言えます。

 

 けっきょく、はっきりと言えることは、ルター自身は、あるいは教会を改革する希望はあったとしても、カトリックとは別の教会を作るつもりは当初はなく、まして全ドイツ社会を揺り動かすほどの “世直し” を引き起こす意図はなかったということです。彼は、いまにも燃え上がろうとしていた燃料の山に、そうとは知らず1箇の火種を投じたのです。

 

 

 

【15】 マルティン・ルター ――

あらゆる武器をとって襲い、我らの手を彼らの血で洗え」

 


『ルターが 1517年、はじめてカトリック教会の教義と制度に歯向かった時、彼の反対論は、まだ何ら定まった性格を持っていなかった。〔…〕〔ギトン註――改革運動の〕最初の瞬間には、全反対分子が結合され、きわめて断乎たる革命的エネルギーが用いられ、またカトリックの正統信仰に対立する・これまでの全異端派集団が代表されねばならなかった。〔…〕ルターの逞しい百姓気質は、彼の活動の・この最初の時期に最も激しく発揮された。「彼ら(ローマの坊主ども)の暴虐沙汰がこれ以上つづくなら、諸王・諸侯が武力介入せよ、武装して、〔…〕この悪人どもを襲撃し、言葉をもってではなく武器をもって一挙にけりをつけよ。〔…〕我々はなぜ、〔…〕法王、枢機卿、司教、そしてローマのソドムに犇 ひしめ く輩のごとき有害な堕落の教師どもを、あらゆる武器をとって襲い、我々の手を奴らの血に浸して洗わないのか?」

 

 〔…〕ルターの投げた雷は落下した。全ドイツ人が動きだした。一方では平民と農民が、彼の坊主への宣戦布告に、キリスト者の自由についての説教に、反乱の合図を見た。他方では、穏健な市民や大部分の下級貴族が彼にくみし、諸侯までが奔流に巻き込まれた。〔…〕党派が分立し、おのおのが代表者を見つけた。

 

 

ウィッテンベルクの城教会 /Wikimedia      

 

 

 ルターは、そのいづれかを選ばねばならなかった。彼は〔…〕一瞬もためらわなかった。彼は運動の民衆的分子を見捨てて、市民と貴族と諸侯の側にくみした。ローマ殲滅戦を叫ぶ声は〔ギトン註――ルターの口からは〕聞かれなくなった。ルターは今や平和的発展と消極的抵抗を説いた。』1521年、「騎士戦争」に向けて蜂起準備中の反カトリック騎士フッテン、ジッキンゲンらの招きに、ルターは、こう答えて断った。『「私は福音が暴力と流血によって擁護されることを好みません。言葉によって世界は征服され、言葉によって教会は維持されています。教会は、やはり言葉によって旧に復するでしょう。」〔…〕

 

 もろもろの制度や教義のうち、どれを残しどれを改革すべきかをめぐる・あの駆け引きとたくさんの取引きが、あの忌まわしい折衝、譲歩、陰謀、妥協が始まった。その結果が「アウクスブルク信条」、すなわち改革派ブルジョワ教会の最終的妥結文書である〔…〕御用宗教改革の町人的(spießbürgerlich)性格は、この商談にこのうえなく明からさまに現れていた。』

フリードリヒ・エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, in:『マルクス・エンゲルス選集』,第10巻,1966,新潮社,pp.35-37.

 

 

 1517年、『95箇条の論題』を提起した直後のルターは、「武器をもって一挙にけりをつけろ」と、あからさまに暴力を煽っていたのに、わずか数年後の 1521年には、「キリストの福音が暴力と流血で擁護されることを私は好まない」と言って、反乱騎士たちの誘いを断っているのです。この間に、ルターの身に何があったのでしょうか?

 

 エンゲルスは、ルターは裏切り者だ、としか言いません。しかし、裏切るには裏切るだけの動機があるはずです。エンゲルス流に「階級闘争史観」で考えてみても、ひとつにはルター自身の出自があります。小市民の家庭で、厳しい躾を受けて育っているルターには、農民や都市貧民の大衆暴動も、一部下級貴族(騎士)の任侠臭い蜂起も、がまんならなかったはずです。エンゲルスは、ルターは農民出身だと誤解していたので、それがわからなかったのかもしれません。

 

 もうひとつには、暴力の向け先の問題があります。ルターの↑最初の発言をよく見ると、攻撃の向け先はもっぱら、ローマにいる法王庁の高官ばかりです。ソドムうんぬんと言っていますが、当時、法王や法王庁の高官が公然と男色や少年愛を謳歌していたことは、ボッカチオ『デカメロン』などに詳しく書かれています。ルターとしては、ドイツの皇帝や諸侯を味方にしてローマを襲撃し、法王庁に暴力革命を起こす肚だったのではないでしょうか。しかし、ドイツで、農民や騎士が「宗教改革」に火を付けられて蜂起に立ち上がる気配を見せると、ルターの気持は変っていかざるをえません。

 

 そして、具体的事件プロセスとして、より重要なのは、ルターの希望的観測に反して、ドイツの皇帝(神聖ローマ皇帝)が、宗教改革に反対したことです。その結果、ドイツの諸侯は、皇帝・法王に忠誠なカトリック派と、宗教改革側に付いたプロテスタント諸侯に分かれることになります。ルターは、皇帝側から身を脅かされながら、プロテスタント諸侯の賛同を得ていくことを考えなければならなかった。宗教的以上に、そういう政治的配慮が強く働いたと言えますが、その詳細は次節で見ることとしましょう。

 

 

フリードリヒ・マルターシュタイク:『ウォルムス国会』

1521年、皇帝と諸侯の前で申し開きをするルター


 

 こうして、1517年に「宗教改革」全体の火付け役として登場したルターは、市民〔ブルジョワ〕派の「アウクスブルク信条(アウクスブルク信仰箇条)」が成立した 1530年以降は、3大勢力(旧体制・カトリック派、市民の改革派、平民・農民の改革派)のうちの市民派の代表者となったのでした。

 


『ルターは、いまや市民 ブルジョワ 的改革派の公然たる代表として、合法的(gesetzlich)前進を説くようになった〔…〕都市の大衆は穏健な改革に味方した。下級貴族もますますこれにくみし、諸侯の一部はこれに加わり、他の一部は動揺していた。少なくともドイツの大部分では、彼らの〔ギトン註――市民改革派の〕成功は確保されたも同然であった。〔…〕

 

 当時の一般的な社会的・政治的状態にあっては、いかなる変化もその結果は必ず諸侯の利益となり、その権力を増大させずにはおかなかった。市民的宗教改革も、平民的・農民的要素からはっきりと分離すればするほど、ますます改革派諸侯の統制下に陥った。ルター自身も、ますます改革派諸侯の下僕となっていった。

エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,p.37.  

 

 

 

【16】 宗教改革の初期過程――

勃発、分派形成、プロテスタント諸邦の成立

 

 

 じつは、前節のエンゲルスの叙述は、時期的には「農民戦争(1524-25)」の先までカバーしてしまっています。高校の世界史で宗教改革を習った人は、えっ? と思うかもしれませんが。

 

 日本の歴史教育は、事件の名前を追うことが中心になっているので(そのほうがテストがしやすいから 笑笑)、エンゲルスが語るような「流れ」中心の歴史だと、かえって見当がつきにくくなるかもしれませんね。そこで、ちょっと年表を掲げてみましょう:
 

 

《第Ⅰ期》 11世紀-1516 「宗教改革」の前史

  • 1012-20年 南フランス・リムーザンで「カタリ派(アルビジョワ派)」拡大。
  • 1145年 ローマでブレシアのアルノルトが法王庁の市政権力を奪い、「元老院」を復活。
  • 1176年頃 南フランス・リヨンで「ワルド派」が飢民救済と伝道を開始。
  • 1209年 法王庁とフランス王、「アルビジョワ十字軍」を編成して「カタリ派」と「ワルド派」の殲滅戦(~1244)。
  • 1215年 法王庁、「ワルド派」に異端宣告。
  • 14世紀半ば イングランドで「ロラード派」の宗教改革運動が始まる。
  • 1381年 イングランドで「ワットタイラーの乱」。
  • 1414年 コンスタンツ公会議でヤン・フスに異端宣告・火刑。
  • 1419-1439年 法王・ドイツ皇帝 vs ボヘミア・フス派の「フス戦争」。
 
  • 1476年 中部ドイツ・ニクラスハウゼンで「笛吹きハンス」の蜂起。
  • 1491-92年 オランダで農民一揆。
  • 1493年 アルザスで「ブントシュー」の最初の蜂起(事前に発覚・鎮圧)。
  • 1497年 フリースラント(蘭~北独)で農民一揆。
  • 1503年 ライン右岸ブルッフザールで「ブントシュー」の2度目の蜂起。
  • 1513年 アルザスフライブルクで「ブントシュー」の3度目の蜂起。
  • 1514年 中部ドイツ・シュトゥットガルトで「貧しいコンラト」の蜂起、領邦議会を掌握。同年、ハンガリー全土で、ドージャ・ジェルジの農民反乱。スイス・ルーツェルン等で農民一揆、市政を掌握。
  • 1513-15年 オーストリア南部で農民一揆。
 

《第Ⅱ期》 1517-1555 「宗教改革」初期

  • 1517年 北ドイツ・ウィッテンベルクで、ルターが「95箇条の論題」を提起。
  • 1519年 「ライプチヒ討論」:法王側がルターを呼び出して論戦。ルター、教会批判を先鋭化。
  • 1521年 「ウォルムスの帝国議会」:ルター派を禁止(ウォルムス勅令)。ルター、自説撤回を拒否し、帝国追放刑となる。騎士フッテン、ジッキンゲンが身柄保護を申出るがルターは拒否、ザクセン公フリードリヒの保護を受け入れる。
  • 1522-23年 「騎士戦争」:指導者:フッテン、ジッキンゲン
  • 1524-25年 「ドイツ農民戦争」。
  • 1526年 第1回「シュパイアー帝国議会」:ウォルムス勅令を撤回。→ルター派諸侯、領内の教会をルター派に統一。
  • 1529年 第2回「シュパイアー帝国議会」:ウォルムス勅令を復活。→ルター派諸侯のプロテスト(抗議行動)。以後「プロテスタント」と称される。
  • 1530年 アウクスブルク帝国議会:プロテスタント側が提出した「アウクスブルク信仰箇条」を皇帝は拒否。
  • 1531年 プロテスタント諸侯が「シュマールカルデン同盟」を結成して、カトリック(皇帝、法王)に対抗。
  • 1546-47年 シュマールカルデン戦争 
  • 1555年 アウクスブルクの和議:プロテスタントかカトリックかを、各領邦諸侯の選択に任せる。

 

 

アウクスブルクで、枢機卿の審問を受けるルター 1557年、彩色木版画。

 

 

 《第Ⅰ期》は、前回・前々回の諸事件をまとめてみたのですが、異端派が広まる→弾圧→一揆・反乱が発生→鎮圧→一揆が領邦議会や市政を権力奪取‥‥ というように、右肩上がりに事態が大きくなっていくのがわかります。ルターの「95箇条」は、まさにその頂点に達する直前に投ぜられた点火剤であったのです。

 

 そして《第Ⅱ期》。法王と皇帝は、ルターが元凶だと見なし、ルターを屈服させれば事態は静まると考えて、呼び出しては自説撤回を迫りますが、成功しないうちに、諸侯にも、下級貴族(騎士)にも、農民にも広まった火種は、あちこちで火を吹くことになります。この間、ルターを、チェコのフスのように処刑できなかったのも、皇帝は、これら上から下までの騒擾の火消しのために、諸侯に譲歩せざるをえなかったからです。

 

 鎮圧のすえ、皇帝と、最後に残ったプロテスタント諸侯とのあいだで、「シュマールカルデン戦争」になりますが、その終戦後に結ばれたのが「アウクスブルクの和約」:新教か旧教かは諸侯の選択によることとなります。ここまで来てもなお、個人の信教の自由は認められなかったので、宗教戦争はなお1世紀にわたって続くこととなります。

 

 (諸侯にだけ選択権が与えられると、プロテスタント諸侯の領内では、カトリックの貴族や有力者が、他領のカトリック諸侯と結んで陰謀を企てる。カトリックの領内では、プロテスタントの貴族がプロテスタント諸侯の援助を受けて叛乱する。というわけで、むしろドイツ全土が内乱状態になってしまいます。その結果が「三十年戦争」です。)

 

 さて、このへんで、当時のプロテスタント教会の雰囲気を、耳で感じ取っていただくことにしましょう。ルター自身も作詞・作曲をしています。有名なのは讃美歌「神はわが矢倉」(↓4:09~)

 

 

 

 

 

【17】 ルターと「農民戦争」

 

 

 1514-15年の「農民戦争」は、はじめ、カトリック諸侯の多い西南ドイツで始まりました。この地方では、諸侯が、ルター派もその他の異端派も新教派も激しく弾圧したので、新教側は、地域と階層のちがいを超えて手を結びやすかったと言えます。



『農民戦争が勃発した時、――それは諸侯、貴族の大部分がカトリックの地方だった――ルターは調停者の役割をひきうけようとした。改めを勧める説教は、大きな反響を呼び起こした。彼は断乎として〔ギトン註――それら領邦の〕諸政府を攻撃した。一揆は、諸政府の弾圧のせいだ、諸政府に立ち向かっているのは、農民ではなく神ご自身だ、というのだ。その一方で、一揆はやはりもちろん神に背くもので、福音に反する、とも言った。けっきょく彼は、両派が譲り合い、穏便に和解するように勧めた。

 

 しかし一揆は、〔…〕たちまちのうちに拡散し、ルター派の諸侯・貴族・都市が優勢なプロテスタント地方に広がり、みるみる、市民的な「慎重な」改革の手に負えないものとなった。ルターの居所〔ウィッテンベルク――ギトン註〕のすぐ近く、テューリンゲンには、ミュンツァー配下のもっとも強硬な叛徒の一派が本拠を設けた。あと少し〔ギトン註――叛乱側の〕成功が続けば、全ドイツは焔に包まれ、ルターは〔…〕裏切り者として槍で追い立てられ、市民的改革は、農民・平民的革命の津波に押し流されてしまったことだろう。

 

 もう、慎重に、などと言っている場合ではなかった。革命に直面しては、昔からの敵意はすべて忘れ去られた。〔…〕市民と諸侯、貴族と坊主、ルターと法王は、「農民の殺人強盗団に対抗して」同盟を結んだ。「なし得る者はみな、こっそりとでも公然とでもいいから、あ奴らを叩き潰し、絞め刹し、刺し刹せ狂犬は撲刹しなければならぬのと同じだ!」とルターは叫んだ。〔…〕百姓どもに誤った慈悲心だけは持つなというわけだ。「〔…〕百姓には麦わらが相応だ。あ奴らは言葉に耳を貸さず、道理をわきまえない。やつらには、笞 むち の音を、鉄砲を聞かせてやる必要がある。〔…〕あ奴らに鉄砲をぶち込め、さもないと、あ奴らは千倍もひどいことをしてくるだろう。」』

エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,pp.37-38.  

 

 

 とはいえ、ルターは依然として、聖書の翻訳によって、農民・平民に限りない恩典を与えていました。彼らは聖書を読むことによって、現存の厳しい階級格差の社会が、昔からのものではないことを如実に知ったのです。イエスの行動と説教から、宗教的権威も財産も公的権力も絶対ではないことを感じ取りました。彼らはそれを、現実社会の領主や役人や金持ちに向けたのです。

 

 ところが、……



ルターは聖書の翻訳によって、平民の手に有力な武器を与えていた。彼は、この聖書によって、当時の封建化されたキリスト教に、最初の数世紀の謙虚なキリスト教を、崩壊しつつある封建社会に対して、〔…〕封建階層制などまったく知らない社会の像を対置して見せたのであった。農民はこの武器を、諸侯、貴族、坊主に対して全面的に利用した。

 

 ところが、いまやルターはそれ〔聖書の文句、つまり武器の刃――ギトン註〕の向きを変えて農民に向け、神の任じたもうた “おかみ” を讃える真の熱狂的讃歌を聖書から捏造した。〔…〕神の慈悲に基づく諸侯権力、じっと服従すること(der passive Gehorsam)、農奴制さえもが、聖書を引き合いに出して神聖化された。


 農民一揆ばかりでなく、ルター自身の〔ギトン註――かつての〕聖俗の権威に対する反抗のすべてが、その中で否定された。民衆運動ばかりか、市民 ブルジョワ の運動も、諸侯に売り渡されたのである。』

エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,pp.38-39.  

 

 

 

ヴィルヘルム・ピッタン 「トマス・ミュンツァーの説教」1958年 油彩。

 

 

 

【18】 今後の更新について

 

 

 いつもご高読ありがとうございます。

 

 『農民戦争』の次回は、宗教改革のもう一人の指導者:トマス・ミュンツァーを特集します。ミュンツァーは「農民戦争」の指導者でもあるので、いよいよこのテーマの本体に突入することになります(やっと?←)

 

 とはいえ、じつは斎藤幸平さんの『マルクス解体』が少し残っていました(もう忘れちゃいましたか?)。ちょうど、マルクスのほうでも「ザスーリチ草稿」で農民問題を扱っていました。マルクスとエンゲルス、2人の語り口を比較してみるのもおもしろいでしょう。そういうわけで、今後2回で『マルクス解体』の残りを片付け、『農民戦争』に戻るのは2月はじめになる予想です。今後ともよろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

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