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〔8〕 法と社会と倫理――「パースペクティヴ」の管理

 

 

斎藤幸平 「ポスト真実」をつくり出した相対主義を、新実在論はどうやって乗り越えるのかを説明してもらえますか。
 

ガブリエル 古い理論を捨て、新しいスタートを切るために、リセットボタンを押しましょう。それが新実在論の呼びかけです。〔…〕

 

 そうすると気づくのは、人それぞれに違う・日々の利害関心をもっているということです。それぞれ違った利害関心をもっているために、「パースペクティヴ」〔同じ物体に対して、さまざまな角度からの「見え」――ギトン註〕が生み出されます。ここで言う「パースペクティヴ」とは、〔…〕私が「自己中心的指数」と呼んでいるものです。〔…〕

 

 まず私が、私の行為者性の中心です。〔…〕私は動物で、生き残りの確率への関心が内蔵されています。もしそれが、私の心を占めていることのすべて〔…〕なら、〔…〕私は他者と闘います。

 

 斎藤幸平 ホッブズの自然状態のようですね。
 

 ガブリエル そうです。実際、経済の次元では、こういうことが生じています。〔…〕


      それゆえ、各人のさまざまなパースペクティヴの管理が必要となります。この管理においては、それを規制する上部構造があるはずです。それが、法の支配と呼ばれるものです。

 

 斎藤幸平 異なったパースペクティヴがぶつかった時に、いきなり戦争状態にならないように、お互いを調整するような強制力をもつルール決めを行なっておくということですね。

 

 ガブリエル しかし、法の支配は、倫理的な考慮に基づいていない場合、機能しません。それゆえ、倫理的領域と法的領域のあいだでの態度調整が必要となります。〔…〕


 斎藤幸平 だから、あなたは民主主義を、さまざまなパースペクティヴのあいだを取り持つ・絶え間ない管理や調整の過程として描いているのですね。すべてを包括する「世界」が存在しないからこそ、人々はパースペクティヴの調停に政治的にかかわることを必然的に要請されるわけですが、その基礎にあるのが倫理です。

 

 ガブリエル そうです。もちろん、このパースペクティヴの管理は、事実に基づいたものでなければなりません。

 

 

  

 

 

 斎藤幸平 しかし、あなたが主張する「自明の事実」に基づく政治は、現実には機能していませんよね。

 

      たとえば、気候変動です。気候変動が生じているのは〔…〕自明の事実ですが、気候変動を食い止めようとする政治機運は盛り上がってはいません。自明の事実に基づく政治が機能しないのは、なぜでしょうか。

 

 ガブリエル 〔…〕自明なものが、見えるところから隠されているからです。自明なものが、〔…〕自明でないものとして提示されています。〔…〕現代の抱える大きな問題のひとつは、自明なもの、つまり交渉のしようがないものが、交渉の対象に変えられてしまっているということなのです。

 

 斎藤幸平 〔…〕だから、新聞なども、両論併記で逃げようとする。懐疑論者からの反論が面倒だからでしょう。でもそのせいで結局、何が真実なのかわからなくなってしまう。〔…〕

 

 ガブリエル 人々がそんなふうにドラマティックにものごとをとらえる状態〔気候変動に関する情報は、グーグルの世論操作だ,ビル・ゲイツの陰謀だ,云々と信じる状態――ギトン註〕は危険です。真実を手に入れることがもはや簡単ではないとみんなが信じてしまうと、代表民主制への信頼が失われてしまうからです。

 

 斎藤幸平 とはいえ、すべてがそれほど自明なものではなく、人工妊娠中絶、同性婚などの・政治的議論になっているものがたくさんあります。実際、こうした重要な問題について、私たちは合意に達することができていません。〔…〕

 

ガブリエル 〔…〕もちろん、すべての事柄が自明なわけではありません。

 

      しかし、どんな政治活動であれ、その活動のゴールは自明なものを見つけ出すことだと認識しておくべきです。そのうえで、もし最後まで合意にたどり着けないことが残ったら、容赦ない選択を迫られる、そういう場面も出てくるでしょう。〔…〕

 

      〔ギトン註――その結果、〕その政権は、間違った選択をするかもしれませんが、民主主義が機能していれば、私たちは、後で軌道修正することができます。

 

 斎藤幸平 別の政党に投票すればいい。

 

 ガブリエル ええ。〔…〕このプロセスこそが、政党政治の理念を具現化したものです。有権者も政治家も、いつでも間違えをおかす。〔…〕そういう誤謬性を考慮に入れたうえで、私は政党政治の理念を完全に支持したいと思います。

 

      自明性の政治は、それが自明なものに依拠しているからといって、簡単なものではないのがおわかりいただけたでしょうか。

 

 斎藤幸平 私たちは現実を把握できると措定しているという意味では、現実を知っている者同士が熟議することが民主主義をより良いものにすると考える・熟議型民主主義をあなたは支持しているように聞こえます。〔…〕

 

 ガブリエル ええ。現実を知る者同士の熟議は真理を導き出します。とはいえ、熟議することそれ自体が真理なのではありません。〔…〕真理は、熟議のプロセスのなかで目指されているものです。たしかに、真理は言説を超越しません。とはいえ、真理は、その本質から言って、言説によって構築されるものではないのです。〔…〕

 

 斎藤幸平 やや極端な例を挙げれば、いくら熟議がなされたとしても、その結論が、〔ギトン註――ユダヤ人が存在するかぎり悲惨な出来事は無くならないから〕ユダヤ人を殲滅せよ、というようなものであれば、それは真理ではないということですね。』

斎藤幸平・編『資本主義の終りか? 人間の終焉か?――未来への大分岐』,2019,集英社新書,pp.186-193.  

 

 

 


 ↑引用の最後の部分でガブリエルの言う・「真理は言説を超越しないが、真理は、言説によって構築されるわけではない」という意味は、斎藤さんがそれを引き取って述べている発言から推すと、次のようなことでしょう。

 

 いかに徹底した完全な「熟議」が行なわれたとしても、かならず正しい結論(真理)が出るという保証はない。(自明な真理という意味での)正しいのとは・正反対の結論に、みなが説得されてしまう場合だってありうる。結論が出ない(ので、多数決によって誤った決定をする)場合もある。「熟議」は、真理を生産する工場ではないのだ。

 

 逆にいえば、「熟議」をせずに真理に至る場合も、ないわけではない。

 

 真理とは、その性質上、「熟議」とは別のものなのだ。真理は、「熟議」とは別の場所にある。ただ、真理を発見するために、多くの場合に有効な手段として「熟議」があるにすぎない。

 

 たしかに、真理は言説を超えない。真理とは、「真なる言説」以上のものではない。とはいえ、「熟議」が真理を創造するのでもない。つまり、いずれの言説が真であるかは、「熟議」の結論には左右されない。

 

 民主主義のこのうえない重要性を、その限界とともに、私たちはつねに認識している必要があるのです。

 


『斎藤幸平 倫理的な諸原則は、人間が人間らしく生きるための条件だからこそ、すべての人間をカバーする・真に普遍的なものでなくてはならない。〔…〕
 

 ガブリエル そうなんです。〔…〕たとえば、子どもを拷問してはならない。ましてや遊びで拷問してはならないということは、誰もが同意するでしょう。〔…〕さまざまな倫理的な問題について根本的な合意が、全人類のあいだに存在するのです。

 

      同じことが人権にも当てはまります。人権とは〔…〕人間が人間としての生を営むための必要条件であり、奪うことのできない絶対的なものなのです。


 斎藤幸平 なるほど。〔…〕普遍的理念を擁護する新実在論は、そういう意味では、啓蒙主義的な近代のプロジェクトを継承していると言えますね。』

斎藤幸平・編『未来への大分岐』,pp.193-194.  

 

 

 ところで、「自明な政治」というガブリエルのこの提案に対して、私は大きな疑問を抱いています。その美しい響きにもかかわらず、「自明な政治」は、政治的言論に対する抑圧的な傾向を強める――悪くすれば、言論統制さえ正当化する――危険があると思うからです。

 

 たしかに、ミニマルな倫理、ミニマルな「自明な事実」というガブリエルの主張は、首肯できるものでした。しかし、「自明性」を政治の領域にまで広げるのは、適切なことでしょうか? 私は疑問に思います。政治の領域で争われる問題の大部分は、「自明」なものではありません。ある政策決定が、一般的には倫理原則に沿っている場合でも、それによって具体的に倫理に反して侵害される人びとは生じえます。倫理と政治は、別個の領域だと考えるべきです。にもかかわらず、すべての政策課題が「自明な」合意をめざして調整された場合、成立した「自明性」から漏れた人びとは、不満の声を上げることすら難しくなります。「みんな」が自明なこととして決定したのに、何を言っているんだ? 頭がおかしいのか? という同意圧力を四方八方から浴びることになるからです。

 

 

米ハーヴァード大学で行われた・ガザ地区のパレスチナ人を支持するデモ

(2023年10月14日撮影) (c) Joseph Prezioso / AFP

 

 

 いま、良い例がニュースになっています。イスラエルのガザ侵攻以来、アメリカの大学では、イスラエル支持、パレスチナ支持、双方のデモや大衆活動が活発化していますが、連邦議会下院は、ハーヴァード大,ペンシルヴェニア大,MITなど名門大学の学長を召喚して、「キャンパスでユダヤ人の虐刹を求めるデモや発言をした学生を懲戒できるか」と質問しました。学長たちは、「状況によって異なる」「発言の文脈による」と答えたのですが、そのために議員からも、また学内でも、世論からも批判を浴び、何人かの学長は辞任を余儀なくされました。批判は、即座に「イエス。懲戒できる」と答えるべきだったと言うのです。そして、下院は、学長たちの慎重発言を糾弾する決議を通過させました。

 

 しかし、アメリカには連邦最高裁の確立した判例があって、この種のアジテーションは、「虐刹」等を惹き起こす「明白かつ現在の危険」がある場合でなければ〔殺人等の教唆で〕処罰することはできない。処罰すれば、表現の自由の侵害になるとされているのです。しかも、キャンパス内であっても、学外と同じ自由が保障されなければならない、という判例もあります。くわしくは、こちらの記事を見てください。

 

 それだけではありません。学生の懲戒は、学長の独断で決められることがらではない。独断権限のない学長が公の場で、「イエス。懲戒します」などと断定的な発言をすれば、学内の懲戒委員会に対して不当な圧力をかけることになります。学長たちの答弁は、まったく適切なものだったと言わなければならないのです。

 

 このように、現実の社会のしくみはたいへん複雑であり、その複雑な仕組みによって人権が守られているのも事実なのです。ところが、それを「自明な」倫理の快刀一振りで裁断しようとするのは、たいへん危険なことです。どんな理由があろうとも、「ユダヤ人の虐刹を求める」のは「自明な」倫理に反する。禁止するのは当然だ……という “美しい” 論理が大手を振って罷り通る社会こそ、危険です。そんなことをすれば、何のために最高裁があり、何のために議会があるのか、何のために大学の自治があるのか、わからなくなるからです。

 

 むしろ私は、「自明性」は、ミニマルな「事実」認識と「倫理」に限るべきで、政治に持ち込むべきではない。政治の領域では、「自明性」を求めるのではなく、手間はかかっても忍耐強く世界観と社会構造を議論し、具体的に政策を追究するべきだと考えます。

 

 

 

〔9〕 マルクス vs マルクス・ガブリエル

――マグロ 対 ウナギ

 

 

 ここで、斎藤幸平さんとマルクス・ガブリエルは、おのおのの立場の違いをあえて際立たせ、意見交換を行なっています。この興味深いやりとりにフォーカスしてみましょう。



『ガブリエル 実際、私たちがいる状況は、生死の選択という分岐点にいるわけです。気候変動やテロなどの脅威に直面しているのですから。〔…〕

 

      もちろん、私たちは生き延びたい。そうであれば、私たちがどちらを選択すべきか、それは〔…〕自明のことなのです。

 

 斎藤幸平 今の話から想像すると、ガブリエルさんは、この危機において人々が間違った選択をしているのは、十分な情報が与えられていないからだ、と考えていらっしゃるようですね。〔…〕気候変動のせいで、次世代が苦しむ。そういう危険性が周知されていないから、自明な・正しい選択がとれない。そんなふうに思っていますか?

 

 ガブリエル はい。廃棄された大量のプラスチックのせいで、50年以内にマグロが消えてしまう、という情報が周知されれば、次世代のために日本人も、プラスチックの使用をやめることになるでしょう。かんたんなことです。〔…〕

 

 

 
 

 

 斎藤幸平 私はその点については、少し意見が違います。具体的に言えば、プラスチックを消費しつづけるように人々を仕向ける・構造的な力があると思います。

 

      たとえば、ウナギが絶滅の危機にあるという事実が繰り返し報道されているにもかかわらず、日本人はウナギを食べ続けています。「いま食べなければ、もう食べられないかもしれない」と宣伝している。資本主義が駆動しているのです。

 

      気候変動の危険性をすでに知っているにもかかわらず、私たちは飛行機に乗るし、SUVを運転し、多くのモノを消費しています。つまり、ここには構造的な要因があるはずです。〔…〕

 

 しかし、マルクスが指摘しているように、これは資本家個々人の道徳が欠如しているがゆえに起きていることではありません。目下の利益のために行動するよう、彼らも駆り立てられている。そうしないと、他の資本家との競争に生き残ることができないのです。

 

 ガブリエル 〔…〕構造的な問題が存在するのは、人々に十分な情報が行きわたっていなかったせいではありませんか。ウナギの絶滅の危機が周知されていて、政治家たちに生物学者たちが適切にアドバイスをしていたならば、ウナギを乱獲してはいけないという法案を、政治家はとっくの昔に可決していたでしょう。

 

      〔…〕しかし、〔ギトン註――社会構造、すなわち構造的な〕因果連鎖を変えるには、正しいレベルで知識を取り入れる必要があると私は思います。問題は構造的ですが、その構造が存在している理由は、自明の政治が行なわれていないからなのです。

 

      だからこそ、マルクスは、真っ当な政府の形態をつくり出すため〔…〕よりよい社会の構造を築くために、〔…〕社会の構造について科学的議論を深めたのです。〔…〕

 

 斎藤幸平 別の例で考えてみましょうか。気候変動がもたらす危機の深刻さが一般に知られる前から、理解していた団体や人々が存在します。そしてその脅威を知っているからこそ、問題を隠蔽し、二酸化炭素排出で』将来やり玉に挙げられるだろうと予想した『石油会社などは、気候変動についての懐疑論』多額の助成金を与えて拡散させ、『ロビイング活動も行なってきました。

 

      資本主義は利潤を追求するシステムであり、〔…〕利潤獲得と地球の持続可能性が相反するものになれば、〔…〕持続可能性のほうを犠牲にするでしょう。


      人々が問題を正しく認識するようになれば、事態は自動的に解決するというのは、楽観的すぎる。〔…〕アドルノの言葉をもじれば、「誤ったシステムの内に正しい生き方は存在しない」※ のです。

斎藤幸平・編『未来への大分岐』,pp.197-201.  

 ※註「誤ったシステムの内に…」: 「社会全体が狂っているときに、正しい生活というものはありえない。」〔テオドール・W・アドルノ,三光長治・訳『ミニマ・モラリア――傷ついた生活裡の省察』,1979,法政大学出版局,p.42:Aphorismus 18.〕 「これまでの歴史が、失敗に終った文明化の歴史であって、全体は真ならざるものであり[Apf.29]、しかも個人は、ただその全体に組み込まれることによってしか生き延びることができないとするなら、はたして、意味のある生活を送ること…正しく生きるための考察を行なうことなど、可能…なのであろうか。…自分の頭でものを考え、自分の責任で行動することを、社会の諸関係が阻もうとしている以上…」〔R・ヴィガースハウス,原千史・他訳『アドルノ入門』,1998,平凡社ライブラリー,pp.114-115.〕

 

 

  

少年時代のアドルノ

 

 

 問題意識は共通しているのに、真っ向から対立する2つの観点からの考察が応酬しあっています。しかし、何度か読み直してみると、「どちらが正しいのか?」という関心では、このクダリを消化できないことがわかります。

 

 「システム内の人びとの利潤追求活動を必然化する」資本主義システムと、「情報が覆い隠され、問題の正しい理解が妨げられること」――この2つの要因が、たがいに絡み合って、「危機への対処」を遅らせてしまう・私たちの社会の構造的欠陥が、浮かび上がって来ないでしょうか。

 

 ウナギの話で言えば、クジラ→マツタケ→ウナギ→マグロ?→‥‥と、伝統的な食材が次々に消えていくなかで、私たちが「早く食べておかなければ」と思うのは、食品産業の宣伝に洗脳されているせいではないし、将来世代が享受できない特権を喜んでいるのでもない。端的に言って、食欲とはそういうものだからです。しかし、これらの経験から、食欲に対する刺激以外の “教訓” ――生物種の減少は人間の生活をも脅かすこと。そこには、人間のどんな活動が寄与しているのか? といった――を得るためには、単なる「正しい情報」の取得だけでは足りない。情報から考察を引き出すリテラシーを、私たちが持たなければならない。(それは、平板な倫理・道徳とは異なるものです。たとえば、なまの経験を、「歴史」としても見る二枚腰の想像力が必要です。)

 

 双方それぞれ、また↑第3の立場が提起する対処の仕方は、時と場合によって、効果の強弱、実施の難易度に相違があるでしょう。しかし、いずれの立場に立っても、自分以外の立場が「無効だ」ということは言えない。どれか一方のやり方だけで解決するとも思えない。できれば、それぞれの努力が実を結ぶことが望ましい。そう言えるのではないでしょうか?

 

 

 

〔10〕 もしかすると、「AI」こそが最大の危機だ!

 


『斎藤幸平 人間が現実に直面するだけの強さをもっていると思いますか? 私が恐れているのは、最善の選択肢とは何かを決定する時に、その重要な決定を人間がするのではなく、AIに任せてしまうのではないかということです。

 

      〔…〕自明の事実は往々にして、深刻な事実です。しかし、その深刻な問題に取り組まず、事実を否認して楽になりたいという誘惑に人間は負けてしまうことが多い。〔…〕どんな帰結をもたらすかといえば、AIの決定にすべてをゆだねるという事態なのではないでしょうか。自分たちの意思で、自分のことを決めるという自由を放棄し、AIに人類の未来を任せてしまうかもしれません。〔…〕

 

 ガブリエル ええ、人間はあらゆる決定をAIに任せて、みずから決める自由を手放そうとするでしょう。しかし、現実には、AIはうまく決定を行なうことはできない。人間のほうがうまくやれると私は考えています。

 

      なぜなら、AIは倫理をもっていないからです。選択をするのには、倫理が必要なのですが、倫理をプログラムすることはできません。倫理的選択のためのアルゴリズムは存在しないのです。

 

      倫理をもっているのは動物だけです。〔…〕

 

      AIは死にません。〔…〕不死身の存在であれば、どう生きるかは問題とならないので、倫理をもつことはできません。〔…〕

 

 

  

 

 

 斎藤幸平 そもそもAIには意識がありませんね。

 

 ガブリエル 基本的に言えるのは、デジタル回路は意識の担い手にはなりえない、ということです。意識こそが、思考と知性の前提として必要です。〔…〕

 

      コンピューターとロボットは、完全に非精神的な存在です。精神がからっぽの、ゾンビのようなものなんです。

 

 斎藤幸平 意識を持たないAIが、人間の代わりを果たすようになると、どうなりますか?

 

 ガブリエル 非常に危険です。〔…〕

 

      ドローンを使った軍事行動やサイバー戦争が可能になったのが現代です。そういう時代に、アルゴリズムが独立性を獲得していること、そのアルゴリズムに私たちが服従していることを、忘れてはなりません。しかも、私たちがコンピューターに服従させられたのではない。私たちが自分たち自身をアルゴリズムに服従させているのです。

 

 斎藤幸平 アルゴリズムを内面化して、自分たちもロボットか何かのように思考し、判断するようになっていくということですね。

 

 ガブリエル こういう動きに対する正しい抵抗の方法は、啓蒙主義を最大化することです。つまり、他者の指図や手引きに頼らず、自分の知性を使うということを徹底すべきなのです。

 

      ところが、科学技術の進歩という神話が、自分の頭を使って考えるという能力を妨げています。人工物に文明のあり方をゆだねる文明、つまり哲学的・倫理学的な省察を隅に追いやる文明は、遅かれ早かれ、精神無きサイバー独裁に乗っ取られてしまうでしょう。〔…〕

 

      でも、AIは野放しです。現段階なら、まだAIにブレーキをかけ、〔…〕愚かなプログラムを書かないよう注意することができます。もし野放しにしていれば、最終的には、人間がみずから生み出したもの・に従属した・全面的な監視社会に住むことになるでしょう。

斎藤幸平・編『未来への大分岐』,pp.201-207.  

 

 

 

〔11〕 ふたたび、政治と倫理について

 


 ここで、話題はふたたび「政治」と「倫理」の関係に戻ります。さきほど↑よりは、ガブリエルの発言は明確になっています。さきほどは、彼の「自明性の政治」を批判しましたが、ここで改めて見て、皆さんはどう思われるでしょうか? 私の感想は、最後に書きます。

 


『ガブリエル 政治は、限られた資源の分配を扱うもので、正統な意見と〔ギトン註――別の正統な〕意見の間に横たわる不一致を調整し、管理するものです。つまり、政治にはさまざまな選択肢がありえます。〔…〕政治は、資源の分配に関係しているので、〔…〕経験に依存しないで決めることはできず、だからこそ、政党政治が必要なのです。〔…〕

 

      一方、政治と対照的に、倫理は主にアプリオリなものです。倫理においては、正統な不一致は存在しません。ふたつの意見が一致しないなら、片方の主張が間違っています。倫理的な真理が、あらかじめ、アプリオリにあるからです。〔…〕

 

 

Boîte à miroir en bronze figurant Éros 

sur un dauphin. Corinthe. IIIe siècle av. J.-C

 

 

 斎藤幸平 政治的なものは、倫理的な問題にはならないのですか?

 

 ガブリエル ええ、そうです。〔なりません。――ギトン註〕女子教育を禁止する政治は、〔…〕本質的には、これは政治的な問題ではありません。女子に教育を与えるべきかどうかは〔男子と同様に教育の機会を与えられなければならないことは――ギトン註〕、倫理的な問題です。〔…〕

 

 斎藤幸平 こうした倫理的問題を、制度で解決するとしたら、どんな制度が考えられますか?

 

 ガブリエル それは「みんな」でしょうね。倫理的な判断をするための明確な基盤を「みんな」がもっているならば、間違いをおかす人は出てきません。いや、〔…〕ごくわずかなはずです。〔…〕

 

      99%の人々が倫理のリテラシーをもっている社会を想像してみてください。そういう社会で、女子教育を否定する政党があったとします。〔…〕誰もその党に投票しないでしょう。その党に対して訴訟を起こし、さらに、女子教育を否定するような政策を支持すること自体を違法にするでしょう。

 

 斎藤幸平 倫理の普遍性を擁護するという意味で、新実在論は啓蒙主義を再起動するものですね。真理、平等、自由、連帯という普遍的理念をポストモダンの危機を乗り越えて実現していくことを求めている。

 

 ガブリエル ええ、そうですとも。新実在論は啓蒙であり、かつ存在論に基づいた現代哲学です。

斎藤幸平・編『未来への大分岐』,pp.212-214.  



 以上、斎藤さんの 2019年の対談集から、とくにマルクス・ガブリエルに的をしぼって紹介してきましたが、どんな感想を持たれたでしょうか? たしかに、(2) で扱った純哲学の部分、とりわけ「SFO存在論」は注目すべき考え方だと思います。しかし、政治論、社会論となると、底の麤 あら さが透けて見える感じがしないでもありません。さいごの↑「みんな政治」などは、ガブリエルが全否定していたナチスの法的イデオローグ:カール・シュミットの「喝采 かっさい 民主主義」に近い。大衆に基盤をおく独裁専制のイデオロギーと、紙一重の違いです。


 そうは言っても、この本は、「読書メーター」でも評価は低くないのです。“斎藤幸平の修業時代” ――斎藤さんが、当代一流の著者たちと対談・対決しながら自らの思想を磨いていった遍歴実録――として読めば、これはこれで楽しめる好著なのではないでしょうか。
 

 

 

 

 

 

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