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〔5〕 「共同幻想論」者のヒサンな勘違い

 


 「社会構築主義」とは、「人種も性別も民族も、そういうものがあると私たちが思いこんでいるだけだ。そもそも社会全体が、人間の作り上げたフィクションだ」という考え方で、日本で馴染みのある用語に言い換えれば、「共同幻想論」です。「人種、性別、民族、‥‥」といった・差別偏見のモトになりやすい観念の虚構性を暴いた点では、この見方は、有益な戦略でした。しかし、この考え方を信じ込んでしまうと、「国家も社会も、われわれの共同幻想にすぎない。みんなが幻想から醒めれば、そんなものは存在しなくなる」という軽薄な楽観主義に陥ってしまいます。社会改革も、革命運動も、ばかばかしくてやっていられなくなる‥‥そういうテイのものなのです。

 

 私が印象深く覚えているのは、学校での「いじめ」問題がクローズアップされてきたころ、かの吉本隆明氏が、ある保守県の市民運動団体に招かれ、「いじめ」問題をテーマとして講演することになりました。ところが、やってきた吉本氏は、「いじめなんて、たいした問題じゃない。むかしの子は、いじめられたって平気だった。今の子は弱すぎるんじゃないのか? 云々」という話をして聴衆を唖然とさせたのです。

 

 「共同幻想論」者にとっては、社会問題も、その解決策も存在しないのです。そもそも「学校」じたいが共同幻想なのですから、学校で何が起きようと、先生と生徒が刹し合おうと問題ではない。幻想から目覚めて学校に行くのをやめればすべては解決する、というわけです。

 

 しかし、国家も社会も、単なる「幻想」ではなく、人間が取り組む価値のある強固な実体です。逆にいえば、国家・社会を存在させるほどの「幻想」は、けっして吹けば飛ぶようなものではない。人間の考えひとつで変えたり消したりすることはできない。太陽系や、気候変動や、生物の寿命と同じように、人間の意識とは独立した実在なのです。

 

 

 

Michel Gourlier     

 

 

『斎藤幸平 社会構築主義」』とは、『すべてのものは、社会的に構成されたものであるという主張です。人種、ジェンダー、エスニシティの歴史性と社会性を開示する・この戦略は、社会変革の可能性を切り拓きました。

 

      とはいえ、このタイプの思考は、〔…〕社会的、文化的および歴史的状況によって、すべてが異なるという〔…〕相対主義にも共通の特徴です。

 

 ガブリエル 社会構築主義には多くの問題があります。〔…〕人間がつくった社会も、』ビルを建てるようにして『構築されたものです。社会はテーブルのように人工物です。』つまり、『心理的な実体というより、テーブルに近い存在だといっていい。〔…〕

 

      著名な社会構築主義者であるジョン・サールジュディス・バトラーは、〔…〕社会的事実を人間がつくり出した幻覚のように捉えています。

 

 斎藤幸平 すべては人々の社会的行為が生み出す幻覚だと。

 

 ガブリエル 〔…〕すべてのものは、指をパチッと鳴らすだけで吹き飛ばすことができる幻覚だと信じています。でも、そんなわけがありません。

 

      社会構築主義者は、社会的なものの抵抗について誤解しています。社会的なものはすべて実在的なものですが、実在的なものは何であれ、理論化に抵抗するのです。

斎藤幸平・編『資本主義の終りか? 人間の終焉か?――未来への大分岐』,2019,集英社新書,pp.169-171.  

 


 私たちの素朴な生活意識は、眼の前にあるテーブルは「実在」していると感じます。なぜでしょうか? 「さわれば、わかるじゃないか」と、あなたは言う。それを物理学的に説明すると、あなたの手がテーブルの板から抗力を受ける…手の表面の原子が、テーブル板の表面の原子から電気的斥力を受ける…、それをあなたの手の神経が感じて脳に電子信号を送る、ということでしょう。

 

 つまり、「実在」とは、人間の意識に対して「抵抗」を示すもののことです。これが “なまの事実” であり、ガブリエルの哲学は、この素朴な “なまの事実” に立脚します。

 

 したがって、テーブルのような物質的なものでなくとも、人間の意識に対して「抵抗」するものは「実在」です。したがって、国家も社会も「実在」するのです。それらは、どのように「抵抗」するのか? 「消えろ!」と言って指を鳴らしても消えない‥それも「抵抗」です。しかし、国家や社会が人間の意識に対して行なうもっとも重要な「抵抗」は、理論化を拒否することです。

 

 国家、社会は、人間たちがどんなに工夫して、何百年かけて理論化を試みても、つねに理論からはみ出して予測を裏切るのです。

 

 

斎藤幸平 実際、私たちは日々生活しているなかで、いろいろなことが思いどおりにならずに、悩んだりするわけですが、それこそがいろいろなものが実在していることの証拠であり、その実在的なものの抵抗力は、理論によって解釈したところで、なくなりません

斎藤幸平・編『未来への大分岐』,p.171.  

 

 



 また、社会構築主義者――共同幻想論者――は、つぎのように言います。自然は変えることができないが、国家も社会も、人種やジェンダーに基づく差別・抑圧も、これら「社会的に構築されたもの」は、私たちが社会的行動を変えることによって変更することができる、と。


 変更や改革の可能性を開いた点では、この考え方は評価できますが、変更の方法は、たんに「行動を変える」ことではうまくいきません。パーム油の採取が、途上国の現場で強制労働を促している、という事態を変えるために、私たちがパーム油を消費するのをやめる、料理に使う油の量を減らす、といったことで、どれだけの効果があるかは疑問です。

 


『ガブリエル 「何かが自然的であれば、それは必然である」〔「自然」は自然法則に支配されているから、人間の自由にはならない。――ギトン註〕と考えているのが、第1の誤りです。〔…〕

 

      社会的なものを、偶然性や歴史性と連想づけるのも問題含みです。〔…〕社会的なものが、自然的なものよりも変化しにくいわけではないのです。〔…〕

 

      相対主義社会構築主義は、事実のあるところに事実を見ないという帰結をもたらします。〔…〕人々から、現実を見る力と、問題に対応する力をそいでしまうのです。』

斎藤幸平・編『未来への大分岐』,pp.172-173.  



 つまり、ガブリエルは、「自然は自然法則に支配されている。人間の社会は自由で、人間の意志によって変えることができる」という対立的な考え方(二元論)を採らないのです。「法則」「必然」とは、ガブリエルの哲学においては、長期的な安定以外のものではない。のちに見るように、ガブリエルの哲学は、私たちの眼の前の事物や事実を、高い所から支配するような・特権的な法則や神の領域を認めないのです。

 

 したがって、「自然」とは、変化しにくい社会であり、「社会」とは、より変化させやすい自然である。おおざっぱに言えば、そうなるかもしれません。しかし、未開社会や古代エジプト王国は、百年単位で変動する現代の気候よりも、ずっと安定していました。変化しにくい社会もあり、人間の影響で・たやすく変化する自然もある。ガブリエルによれば、「自然」と「社会」を対立させて考えるのは間違えです。

 

 こうして、問題は、カテゴリーや法則以前の・「自明の事実」に立脚する、というガブリエルの原点に戻ってきました。


 

インドネシア・カリマンタン島の油椰子農園
 

 

 

〔6〕 「実在論」――しかし、「世界」は存在しない。

 


 マルクス・ガブリエルの哲学は、「新しい実在論」と特徴づけられます。ポスト・モダニズムによって蔓延した「相対主義」を克服し、私たちを、宇宙浮遊のような状態から、もとの素朴な地上生活にもどすもの、と言ってもよいかもしれません。


『斎藤幸平 蔓延する相対主義に反対し、事実そのものを擁護するべきだ。そういう議論を立てているのが、あなたの新実在論です。〔…〕あなたのプロジェクトは、「ポスト真実」に辟易している人にとって実に魅力的です。〔…〕これは、〔…〕私たちの日常生活における経験を擁護するものです。〔…〕

 

 ガブリエル 実在論とは、存在するものの承認です。それは、事実を否定しないという立場です。実在論者とは、事実を受け入れ、その言葉のもっとも一般的な意味で、そこにあるものに態度を喜んで合わせる、という立場なのです。〔…〕

 

 癌を患っていると判明した時に、〔…〕癌に罹患した事実を認め、どの病院にするのか、手術を受けるか、抗癌剤治療をするのか、といった問題を考えなくてはならない。そのように問題に取り組むなら、あなたはこの件に関して実在論者です。

 

 斎藤幸平 では、あなたの「新しい」実在論は、これまでの実在論とどのように違うのですか。〔…〕

 

 ガブリエル 古いほうの実在論は、人間の認識能力・精神・意識から、現実の独立性を保証しようとしていますが、新実在論はその保証だけをめざす議論ではありません。〔…〕

 

 事実は「そこに(out there)あるのではなく、「ここにも(in here)〔主体・心・社会の中にも――ギトン註〕あるのです。〔…〕

 

 斎藤幸平 人間の意識から独立したものだけが存在すると考える・かつての実在論に拠って立てば、人間なしには成立しない人権や道徳は実在しないということになってしまう。でも、それでは、日常の経験を十分に擁護できませんね。

 

 ガブリエル ええ、そのとおりです。対照的に、新実在論は、次のような考えから始まります。「本当に存在するあらゆるものに対して、私たちが自分の態度を合わせたら、どうなるか? バナナや銀河系』だけでなく『道徳や民主主義や『ファウスト』など、すべてのものに対して実在論的な態度を一般化したらどうなるだろうか?」

斎藤幸平・編『未来への大分岐』,pp.161,174-176.  

 

 

  

 

 

 ‥‥答えは、私たちが毎日の日常生活でとっている態度そのものです。私たちは、『ファウスト』物語を読んだり、映画を見ている時には、そこに進行しているストーリーに自分の態度を合わせます。ファウスト博士さながら、グレーチェンという少女を見つけて、どうやって近づこうかと思案したりします。バナナを見ている時には、手でつかんで食べるという、バナナに合わせた態度をとりますし、道徳や民主主義が問題になった時には、それについて自分の意見を考えたり、人の意見を聞いて議論します。道徳を食べようとしたり、バナナや銀河系を他人と投げ合うようなことは、ふつうはしません。これらはみな「実在」の対象であり、それぞれが別の「領域」〔Sinnfeld, field of sense 意義の領野(「意味の場」という訳もある)〕に実在します。さまざまな「領域」を渡り歩きながら、お腹の足しになるものもならないものも、現実的なものもフィクションのものも、それぞれに態度を合わせていくのが「実在論者」です。

 

 そこで、ひとつ、大きな問題に私たちは逢着します: バナナやカップラーメンが台所の隅に存在する「領域」、銀河系が他の島宇宙とともに実在する「領域」、ファウスト博士とメフィストフェレスとグレーチェンがいる「領域」、‥‥さまざまな「領域」がありますが、それらの諸「領域」を包括する全体としての《世界》は、実在するのか? 全体的な《世界》というものの存在を認めるか? という問題です。

 


『ガブリエル 「〔ギトン註――私たちが〕実在論的態度をとるべき、あるひとつの全体的な対象や領域が存在すると、実在論者は考えるべきなのか?」

 

 私の答えはノーです。我々は全体を統合することはできません。なぜなら、そのような領域や対象〔パルメニデスの「一 いつ なるもの」,スピノザの「神=自然」のような――ギトン註〕は存在しないからです。

 

 斎藤幸平 それが「世界は存在しない」という・あなたの有名な挑発的主張の意味するものですね。ここで言う「世界」とは、全領域を包括する領域という定義です。

 ガブリエル そうです。〔…〕すべてを包括する全体性としての「世界」は存在しないのです。』

斎藤幸平・編『未来への大分岐』,pp.176-177.  

 

 

 もしも、全体的な《世界》が実在するとしたら、ガブリエルの言う意味での実在論者は、その《世界》に自分の態度を合わせなくてはなりません。しかし、それは不可能なことです。私たちが日々接しているのは、個々の「領域(意義の領野)」以外ではないからです。あるいは、不可能ではないとしても、無理に、直接に知ることのできない《世界》なる全体を信じて、それに全身全霊合わせるとしたら、宗教かオカルトになるほかはない。あるいは、ヨガか禅のようなものになるでしょう。

 

 政治的には、全体主義に親和的な態度をとることになります。なにしろ、そういう全体的な《世界》は、私ひとりのものであってはならない。誰にでも妥当すべく、他人にも通用させなければならないからです。

 

 そんなことはできないので、《世界》の存在を認めることはできないのです。

 

 しかし、そうだとすると、私が日常接するがゆえにその実在を認めている諸々の「領域」についても、価値の序列やヒエラルヒーを認めることは、できなくなります。フィクションであろうと、現実であろうと、カップラーメンとバナナが存在する「領域」も、民主主義、道徳、自由といった抽象的な対象が存在する価値の「領域」も、すべての「領域」は対等に実在する。ある領域が他の領域を「基礎づけ」たり、統括したり、といったことは認められません。

 

 その意味で、ガブリエルは、みずからの世界観を「平坦な存在論」と呼んでいます。


 

 

 

 

〔7〕 「意義の領野」の存在論(SFO)

 

 

『斎藤幸平 ここでの重要なポイントは、世界は存在しないけれど、それ以外のあらゆるものは存在するということですよね。そして、何から何まで疑う懐疑論者とは違って、私たちは事実を知ることができるし、すでに多くの事実を知っている、と新実在論では考える。

 

 ガブリエル 私たちはあらゆる事実を知ることができるし、現実の把握を困難にするような障壁が、私たちと現実のあいだに存在するわけではない。〔…〕

 

      ものごとが実際にどのようなものであるかを、通常の手段で正確に知ることができるのだと。ここでいう通常の手段とは、私たちの知覚や科学の手法などを指します。読書や映画鑑賞という手段〔…〕も含んでいます。〔…〕

 

      簡単にまとめれば、私は「新実在論」を、二重のテーゼとして定義しています。

 

      ひとつめは、私たちは事物を、事物そのものがあるままに知ることができる、ということ。ふたつめは、私たちが知ることのできる多くの実在的なモノが、すべて単一の領域(世界)に属しているわけではない、というテーゼ。

 

      これが、ポスト・モダニズムの克服に向けた私の貢献です。

 

 斎藤幸平 つまり、あらゆる領域を包括する世界は存在しないものの、物理学、文学、料理、ギター演奏などの日々の生活のなかで私たちの態度を合わせることができる領域がたくさんあるというわけですね。あなたは、そうした領域を「意味の場〔Sinnfeld, field of sense 意義の領野〕」と呼んでいます。


 ガブリエル はい。存在するということは、「意味の場」において現れることです。

 

      現実は、限りなく多数の「意味の場」から成り立っていて、いくつかの「意味の場」が網の目のように互いに重なり合っています。それぞれの「意味の場」には規則があって、その規則に従うと、特定の命題が真か偽かを私たちは判断することができます。これが、現実についての客観的事実を確立する方法です。

斎藤幸平・編『未来への大分岐』,pp.178-180.  

 

 

 しかし、私たちの「現実」が多数の「意味の場(意義の領野)」から成り立っていて、それぞれの場(領野)に真/偽の基準があり、これら「領野」のあいだには価値の優劣はなく対等なのだとすると、けっきょくのところ、ポスト・モダニズムの「相対主義」と同じことになってしまわないでしょうか? ある「領野」には、「南京大虐殺」「軍慰安婦」といった真なる歴史的事象が存在する。べつの「領野」では、それらは偽であって存在しない。それらが存在したというウソをつく歴史家と自称被害者・遺族だけが存在する。そしてこの2つの「領野」は重なり合って存在する、‥‥このようなことにならないでしょうか?

 

 じっさい、ガブリエルによれば、そのとおりなのです(⇒:菅原潤『マルクス・ガブリエルの哲学――ポスト現代思想の射程』,2023,人文書院,pp.20-45.)。なぜならば、それが、私たちの知る「現実」そのものだからです。

 

 

 

 

 それでは、そういうアナーキーな現実を認めることと、ミニマルな「自明の事実」、ミニマルな倫理原則に立脚することとは、どう整合するのか? ホロコーストや虐刹は存在する/しないという二様の「領野」は、無差別・対等のまま放置されるのか?‥

 

 ガブリエルは、ホロコーストや慰安婦は「自明の事実」であって、絶対的に真であって、論証の必要のない事実だと言うけれども、その主張は、↑上記の多数の「領野(意味の場)」の並立・重なり合い・対等と、いったい、どう整合するのか?!

 

 この点について、ガブリエル斎藤さんが突っこんで討論している部分を引用してみましょう:

 

 

『斎藤幸平 それは、「ポスト真実」の状況に近いように聞こえます。世界を除いてすべてが存在し、「意味の場」のあいだにヒエラルキーは存在しないと〔…〕そうすると、ホロコーストを否定する歴史修正主義者たちの見解が、他の見解と同じくらい、ある意味では真実であると言えてしまう。

 

 ガブリエル 「すべてが存在すること」イコール「すべてが真実であること」「存在するものは理にかなっている」ではありません。それ〔後者――ギトン註〕は単に間違っています。〔…〕存在するものすべてが真実だとは限らない〔…〕

 

 斎藤幸平 なるほど、つまり、歴史修正主義者の頭の中には、誤った信念が存在する、というのは事実だ〔…〕新実在論は、無数の「意味の場」を土台にしているけれども、無数の真実を認めているわけではない。

 

 ガブリエル そのとおり。


 斎藤幸平 無数の真実を認めないけれども、真理か否かは、あるパースペクティヴ(ものの見方)が、「意味の場」の客観的構造と一致するかどうかによって、判断できるというわけですよね。そういったものは、たしかに私たちが知ることのできる客観的事実だと。』

斎藤幸平・編『未来への大分岐』,pp.182-184.  

 

 

 どうでしょうか? 納得できたでしょうか? ‥‥私はじつは納得していません。ガブリエルの哲学は、彼自身の知識人としての良心と、うまく折り合っていないようにさえ思えてしまいます。まだ私の読みが浅いせいかもしれません。

 

 なにしろ、ガブリエルの主著3冊(“Fields of Sense”,“Fiktionen”,“Moralischer Fortschritt in dunklen Zeiten”)は、まだ日本語訳も無いのですから。書店の哲学の棚には、訳本のかわりにドイツ語の原書が並んでいるほどです。その1冊を買ってきました。ひさびさのインゼル新書に、アタックしますかね。

 

 ちなみに、「パースペクティヴ」という・現象学のなつかしい用語が出てきました。ガブリエルは、フッサールを否定していると、↑前記の菅原氏の解説本でも言われているのですが、私はどうも、ガブリエルの言説のはしばしにフッサールの影を感じてしまうのです。日常の素朴な生活感覚に依拠しようとするのは、後期フッサールの「生活世界」を思わせますし、「世界は存在しない」という挑発的な提題は、中期フッサールの「現象学的還元」と呼応しています。「還元」されて無化した世界を再構築するにあたり、フッサールカント哲学の構造に依拠しましたが、ガブリエルもまた、ミニマルな “絶対倫理” に関しては、カントに多くを負っていると自ら述べています。

 

 

 

 

 

 

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