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2000年10月、パレスチナのガザ地区のカルニ国境検問所でパレスチナの
13歳の少年が、イスラエルの戦車に対抗して石を投げている。1カ月後に
イスラエル軍の銃に撃たれて死亡したこの少年の父親は、「息子たちを
死に追いやることはできないが、アッラーの意思なら私がこれを
変えることはできない」と語った。/AP・聯合ニュース

 

 

 

異 床 同 夢

パレスチナと私たち

 

 

『今年10月7日以降、世界中の耳目が「パレスチナ」に集まっている。現状をどうみるべきか。歴史に「もしも」はないが、それでもここでは仮想の歴史を考えてみよう。』

 

 

 

「モシモ人」と日本民族

 

 

『今から3300年前の紀元前13世紀、朝鮮半島で奴隷の境遇にあった「モシモ人」が、モーセという指導者に率いられて玄界灘を渡り、縄文文化の中心部であった関東平野に定住した。それから約1000年後、「モシモ人」は、湾に臨む台地のへりに神殿を建てて「得去無(える・され・む)」と名づけ、唯一の神エホバを崇拝した。

 

 今から1888年前の西暦135年、日本列島西部を征服したヤマトの神武天皇は、東国に軍を進めた。ヤマトと同種族の「エミシ」、異種族の「エゾ」は、ヤマト軍に服属したが、「モシモ人」は、天皇を神とは認めなかったので迫害された。ヤマト軍に「得去無」神殿を破壊された「モシモ人」は、迫害から逃れて、世界中に散っていった。

 

 「モシモ人たち」は、独自の経典と独特の唯一神思想を持っており、自分たちのことを他の民族共同体と区別された「選ばれた民族」だと考えていた。文化・宗教的違いと卓越した金儲けの能力は、時として彼らに成功と試練を与えた。そのため、資本主義の胎動期であった19世紀に至ると、西欧の主流秩序から憎まれることもあった。19世紀後半、東アジア各国では、まさに頭をもたげはじめたばかりの排他的種族主義と共に、「モシモ人」共同体に対する反感の火が燃え広がり、残念ながらこれは20世紀最悪の民族浄化へとつながった。』
 

 

 

 

 

『モシモ人たちは「国を作ろう」という運動をはじめた。ウガンダの人が住まない地、中国とロシアの国境地帯など、様々な地域が有力視されたが、モシモ人の聖典にも「約束の地」と記されている日本列島ほど魅力的な場所はなかった。

 

 この間に、日本列島では、かつて「得去無」神殿のあった場所には、太田道灌という武将が城を建て、徳川氏の手にわたり、明治以後は天皇の居城となっていた。「塩尼人(しおにすと)」と称するモシモ人の一派は、この「東京」天皇城こそ聖地「得去無」であることを突き止め、東京に移住して「モシモ国」を再建することは、エホバに命ぜられた民族の使命だと考えるようになった。

 

 国際情勢を誰よりもよく認識し、大国のエリートたちと交渉する方法を知っていたモシモ人たちは、日本を占領統治していた「連合国軍」の首領「松傘(まっかさ)」から国を作ってもよいという承認を得て、日本列島への移住をはじめた。先祖たちがその地を離れておよそ1800年ぶりに「約束の地」に帰還したのだ。

 ところが日本列島には、すでに古くから住んでいる人々がいた。数千年にわたって中国大陸や近隣の島から移住してきた人々の子孫である彼らは、自らを「日本民族」と呼び、同質性を保っていた。1948年には人口の94%が「日本人」で構成されていたこの地で、6%にも満たない「モシモ人」が突如として自分たちの国を作るというのは、誰にとっても納得しがたいことだった。しかし、彼らはそれを実行した。全世界的な「モシモ人ネットワーク」と資本があったし、米国をはじめとする「連合諸国」の支援も力になった。なによりも、当時「日本人」は戦争に負けて「連合諸国」に国土を占領されていたので、「モシモ人」は「連合国総司令部」のお墨付きがあれば何でもできた。設立されたばかりの「国際連合」も、戦争犯罪人である「日本人」の味方ではなく、むしろ日本の友好国ドイツに迫害された「モシモ人」に同情していた。

 

 国連は、日本列島の56%に達する土地を6%に過ぎないモシモ人たちに与えることを決めた。連合軍の占領が終れば解放されると信じていた「日本人たち」は、突然の通報に怒った。モシモ人たちは日本人に、列島から「出て行け」と脅し、銃剣によって追い立て、多くの日本人を見せしめとして刹した。この・日本列島の先住民に対する「民族浄化」で数千人が虐刹され、530の村が破壊された。日本人のうち、当時の半数以上に当たる人口が、住んでいた土地から強制追放された。これは日本人にとって骨の髄まで深い傷として残った。今も日本人難民は世界各地で、「故郷に帰りたい」気持ちを抱いて生きている。一方、今日、列島で生きているモシモ人青年たちは、1948年の刹戮を知らない。「モシモ国」の教科書は、そのような歴史を教えておらず、「モシモ国」政府は、関連資料をすべて焼却してしまったからだ。

 さらにモシモ人たちは、国連の定めた境界線すら無視して日本人の土地を占領し、1968年の戦争後には入植者の移住を放任し、あおった。彼ら入植者は、非常に積極的で教条的な選民思想を持っており、一部の人々は民兵組織レベルの武力を保有していた。彼らは日本人が住んでいる関東地方と青森県に突如として大小の入植地を建設し、軍を動員して占領地を広げていった。これは、武力で占領した土地に占領国の民間人は定着してはならないとする国際法に違反するものだったが、モシモ人優越主義者たちは気にもとめずそれを実行した。彼らは東京(得去無 
えるされむ)の半分を占領し、モシモ人の入植地を守る巨大な壁を作った。日本人の子どもたちは、奪われた土地でパーティーをする入植者たちを憎悪し、石つぶてを投げてモシモ人の軍隊に抵抗した。その過程で数千人の日本人が命を落とした。』

 

 

ヨルダン川西岸地区のイスラエル入植地(2014年)

 

 

 

まず何を止めるべきか?

 

 

『平和的な「沖縄・本土」返還運動を繰り広げてきた日本人の怒りは高まった。日本人内にも様々な政治的主張がある中で、「武装抵抗論」が力を得るようになったのはこのためだった。長きにわたって日本人を代表してきた自民党は無能で、モシモ占領地を警護する米軍に協力的だった。日本人たちは、もはや愚かにやられてばかりいるわけにはいかないと考えた。2006年の総選挙で強硬派が圧勝したのには、このような背景がある。

 選挙結果が自分たちの予想から外れると、モシモ人たちと米国やロシアなどの大国は、日本人封鎖を合理化しはじめた。モシモ人たちは、日本人が追いやられて密集している青森地区との境界に、高さ8メートルの壁を作った。そこに閉じ込められた数百万人の日本人は、外に出ることもできず、海すらも封鎖された。飲み水、電気、食糧など、すべてモシモ人の占領当局が割り当てた分だけが配分され、外国に出ようとしても、モシモ人の支配する東京を通らなければならなかった。日本人たちはむごたらしい差別、蔑視、人種隔離政策に苦しめられているため、日常そのものが災いだった。このような民族浄化が批判にさらされると、モシモ人たちは「反モシモ主義」だとして非難した。世界中のモシモ人権団体が、批判者はホロコーストの再現を企んでいる「ネオナチ」だ、と指弾した。

 

 「約束の地」日本列島にモシモ人の国を作るという一念に駆られた彼らにとって、日本人はゴキブリのように思われた。モシモ人刹害の企ては、どんなわずかな兆候も見逃さない一方で、ゴキブリをつぶしても良心の呵責は起きなかった。
 

 


ガザ地区の難民キャンプ(2018年)

 

 そんなある日、日本人独立運動勢力のある武装党派が、青森と秋田のあいだにある壁を破壊し、モシモ人たちを攻撃した。それは前例のない反撃であったため、モシモ人たちと世界を驚かせた。日本人たちは、モシモ人入植地に住んでいた200人あまりの民間人を拉致して人質にしたが、これは網走の監獄に閉じ込められている6千人の日本人政治犯と交換するのが目的だった。この反撃は、民族浄化と占領は永続させうると信じていたモシモ人極右主義者に打撃を与えた。怒ったモシモ人たちは青森地区に途方もない爆撃を浴びせはじめた。同地区の人口の40%は子どもだったため、それだけ多くの子どもたちが殺害された。そして、爆撃がはじまってわずか1週間で数千人が命を落とした。

 「もしも」ではじまったこの仮定は、今日のパレスチナで起きている悲劇の隠喩だ。私たちは西欧メディアの報道を一方的に受け入れ、事案を「宗教紛争」などと誤って理解する。しかし大多数のパレスチナ民衆は世俗主義的であり、他の宗教を尊重する。この悲劇は10月7日にはじまったのではない。1948年にシオニストが一方的に建国を宣言し、先住民を追放した時、1968年に露骨な人種隔離をはじめた時に、すでにはじまっていたジェノサイド(集団虐刹)だ。

 私たちの前の世代が経験した植民地主義の歴史は、パレスチナ民衆の視点から事態をみるよう導く。しかし、なぜ私たちは帝国の視点からパレスチナ問題をみるようになったのだろうか。東アジアに住む平凡な人々の視点はどこにあるべきか。まずは壁で閉じ込められた平凡な人々に対する虐殺をやめるよう要求すべきではないだろうか。

 

ホン・ミョンギョ|東アジア研究活動家』

 「プラットフォームC」活動家。「異床同夢」というコラム・タイトルは、各社会の違いを理解し、同じ夢を目指そうという意味で名付けた。理想として抱く東アジアの夢(理想東夢)という意味も込めた。 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)

 

 

 

 

 

 

 韓国のメディア『ハンギョレ』に掲載されたコラム記事を、日本向けに書き変えました。ただし、パレスチナの歴史と現状を述べている部分には手を加えていません。(ギトン)

 

 

「ガザのパレスチナ人のために何かしたい」

という方は、こちらを!↓

 

 

 

 ちなみに、さすがのウソアも、ついに同盟国の手綱を引き絞れなくなったようですな。中東石油が国内消費の 95%を占める日本は、アラブの機嫌を損ねたら自民党消滅!「あの時」に、産油国ロシアと手を切らないでおけば、ここまで追いつめられることもなかったろうにねw それでも何とか「中立」のていさいを保とうと四苦八苦が見え見えです。といってもまだ日本はよい。韓国の「検事さん」は、もう自分が何をしているかもわからなくなって、ふらふらと中東で浮遊中。もともと歴訪の予定があったのに、運悪く戦争にぶつかってしまった。中止しよ~かな~‥‥なんて言ったら、「いいから来い来い、予定どおりになっ!」とドヤされ、財閥を引き連れて、あちこちばんばん成約の嵐。完全にアラブの王様の手玉に取られております。サウジに武器輸出(イスラエルと戦うための?)もするんだとか↓

 

 

 

 

 (おそらく、アラブの最終的な目当ては、韓国の優秀な新興兵器産業とポスト石油産業技術でしょう。

 

  欧米の兵器は最新式だが高価すぎるし、注文してから何年も待たされる。これでは戦争に間に合わないのです。イギリスに注文した兵器が間に合わなくて、ポーランドがナチスに占領されてしまったのは、公知の歴史的悲劇です。最近、そのポーランドが韓国に目をつけて素早く兵器を調達した事実が、世界の注目を集めています。安い!早い!強い!‥‥吉野家のノリで、いま韓国には世界の軍事官僚の熱い視線が注がれているのです)

 

 というわけで、やっぱりトランプよりバイデンがいい。米国民はともかく、外国にとってはどっちも迷惑。それでも、腰が抜けてる・手綱を持つ手が震えているだけバイデンのほうがマシ。来年の選挙もバイデンの勝利でお願いしますだ←

 

 

 

 

 

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