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〔18〕 薔薇の理性――ソルニット『オーウェルの薔薇』

 

 

 「パンと薔薇!」 あるいは、「パンも薔薇も!」


 20世紀初頭、アメリカの女性参政権運動の中で生まれた・この標語は、またたくまに労働運動に広がり、1970年以後の公民権運動でも繰り返し唱えられました。1917年、ロシアでボリシェヴィキ党が、「パン、土地、平和と、すべての権力をソヴィエトに!」と訴えていた時、アメリカの田舎では、女も男も、「すべての人にパンと薔薇を!」と叫んでいたのです。

 

 1910年、参政権を訴えてイリノイ州の農村を回っていた女性活動家ヘレン・トッドに、彼女を泊めた百姓家の女中マギーが、こう言います:


『「女が投票するってのは、みんながパンと、それに花も持てるようになるってことだね。」〔…〕

 

 『アメリカン・マガジン』の記事で、トッドはこの〔…〕思いを綴った。「この国に生まれるすべての子どもが、一人ひとりが声をもつ政府のなかで、人生の〈パン〉――つまり家、シェルター、安全――と、人生の〈薔薇〉――すなわち音楽、教育、自然、書物――を受け継ぐ、そういう時代の到来を〔女性参政権は〕促進する。」〔…〕

 

 詩人のジェイムズ・オッペンハイムは、〔…〕おなじ『アメリカン・マガジン』に、「パンと薔薇」と題する詩を発表した。

 

       〔…〕

 私たちが行進し、行進し、やってくると、数えきれない死者の女たちが

 〔…〕泣きながらやってくる

 あくせく働かされて、彼女らの精神は芸術も愛も美もほとんど知らずにいた――

 そう、私たちがたたかうのはパンを求めて――けれど私たちは薔薇を求めてもたたかう。

 

 〔…〕これは綺麗なスローガンだが、激しい主張でもある。生きていて身体的に満たされるだけでなく、それを超える何かが必要で、その何かを権利として断固要求しているのだ。それはまた、人間が必要とするすべては数量化可能な有形の物質や条件に還元しうる、という見方への反論でもある。

レベッカ・ソルニット,川端康雄・他訳『オーウェルの薔薇』,2022,岩波書店,pp.103-105. 

 

 

 もっと早い時期に、アメリカの「8時間労働制」運動では、次のように歌われていました:

 

 

『かつかつで生きていくだけで

 1時間とて考える時間がない。

 私たちは陽光を感じたい

 花の香りをかぎたい。』

レベッカ・ソルニット,川端康雄・他訳『オーウェルの薔薇』,2022,岩波書店,p.106. 



 そんなこと、あたりまえじゃないか。当然だろう、と私たちは思います。しかし、当時の労働・社会主義運動家は、「自分はいかに、楽しみを犠牲にして、みんなのために献身しているか」「自分は資本家から、いかに虐げられてきたか」を実際以上に強調して、大衆の信頼を得ようとするのが通常でした。下部党員が、少しでも余裕のあるところを見せると、「おまえはブルジョワだ」という非難が浴びせられました。いかに貧乏で、いかに苦労しているかを競う・いわば「負の競争」が、左翼インテリ全体の習性のようになっていたのです。

 

 そのなかで、「もっと余裕のある生き方をしよう」と訴えかけるのは、勇気のいることだったのです。

 

 

薔薇があらわしているのが、喜び、くつろぎ、自己決定、内的生活、そして数量化しえぬものだとすれば、それらを求めてのたたかいは、〔…〕オーナーや雇用主のみならず、そうしたものは必須ではないと難じる左翼の他の諸派を相手にしたたたかいでもある。他の人びとが苦しんでいるときに〔…〕楽しみを得ようとするのは無神経でけしからぬと言い張る人は、これまで左翼のなかにもつねにいた。それはピューリタン的な立場である。〔ギトン註――彼らの言うところによると、われわれが〕人びとに示すべきは、自分自身の禁欲、ないし喜びなき状態であって、人々の解放へとつながる何らかの実践的貢献ではないというわけだ。』

レベッカ・ソルニット,川端康雄・他訳『オーウェルの薔薇』,p.109. 

 


 しかし、「貧困と非人間的な境遇」からの解放をめざす運動が、その内部で、じっさい以上に「貧困」を装い、まるで「非人間的境遇」に価値があるかのようにふるまうのは、矛盾したことです。未来に向かおうとする運動が、自由で喜びのある生活――すなわち「薔薇」――を軽蔑し忌避しながら、将来においてはそれが実現されるのだ、われわれが実現させるのだ、と宣伝することは、完璧な論理矛盾でしかありません。薔薇を踏みつけて進む隊列の先に、豊かな花園があるなどという甘い期待は、かならず裏切られます。

 

 

 

 

 このような・左翼運動家のピューリタン的禁欲主義は、彼ら――つまり〈啓蒙〉――を、対極にあるはずの修道僧――〈信仰〉――に近づけてしまいます。対立する双方が禁欲主義に凝り固まると、かえって妥協も討論も難しくなります。そこからは、何ら新しいものは生まれないし、“未来” はやってこない。

 

 しかも、左翼運動のなかで・この種の禁欲主義を支えているのは、悪しき「功利主義」、すなわち最も資本主義的なイデオロギーなのです。「薔薇」がなぜ攻撃されるかといえば、「薔薇」は、政治運動と「革命」に役立たないと見なされるからです。余裕があったら、そのカネは全部、党に寄付しろ……極端にいえば、活動家たちは大衆に、そう言いたいのです:

 


『こうしたすべて〔左翼の禁欲主義・ピューリタン主義――ギトン註〕を下支えしているのは、功利主義のイデオロギーであって、喜びと美が反革命的で、ブルジョワ的で、退廃的で、自分勝手で、そういう欲求は根こそぎにして軽蔑すべきだとする考えである。

 

 革命家気取りの人は、数量化できるものだけが大事だとしばしば主張する。人類は理性的存在であるべきで、自分が大事に思うものや自分の流儀よりも、〔ギトン註――世間で〕重要だと見なされているものに満足し、決まりに合わせなければならぬというのだ。

 

 「パンと薔薇」の薔薇には、〔ギトン註――量的に〕多くを求めるだけでなく、もっとニュアンスのある、とらえがたいものを求めようという主張が込められている。ローズ・シュナイダーマンの表現を借りれば、「ただ存在するのでなく、生きる権利」を求めているのだ。つまり、私たちの人生を生きるに値するものとするのは、ある程度まで計算できないもの、予測できないものであり、しかもそれが何なのかは人によって異なるという主張であった。その意味で、薔薇はまた主観性、自由、自己決定権をも意味する。

 

 オーウェルはしばしば薔薇の擁護者を買って出た。〔…〕「パンと薔薇」において薔薇が意味することを称賛した。無形の、ありふれた楽しみ、いまここで得られる喜びである。〔ギトン註――社会主義の週刊誌に寄稿した〕1946年春のエッセイ「ヒキガエル頌」のなかで彼は、春の先触れとして〔…〕冬眠から出てきたヒキガエルを、その金色の眼の美しさを、春と喜び自体を讃えた。〔…〕

 

 〔ギトン註――オーウェルは、そのエッセイで書いている:〕「季節の移ろいを楽しむのは、悪いことだろうか。もっと言えば、政治的に非難されることだろうか。誰もが資本主義の桎梏の下であえいでいる、あるいは、あえいでいるべきときに、クロウタドリの声や、10月の楡の黄葉のように・金のかからない、〔…〕階級的視点と〔…〕は無関係な・いろいろの自然現象のおかげで人生が楽しくなることもある、と言ってはいけないのだろうか。〔…〕どこかで「自然」を褒めるようなことを書くと、たちまち罵倒の手紙が舞い込んで、きまって「センチメンタル」という言葉にぶつかるのだが」』

レベッカ・ソルニット,川端康雄・他訳『オーウェルの薔薇』,pp.109-112. 


 

 『動物農場』『1984年』などを書いた作家ジョージ・オーウェルは、イギリスの上流階級の家系に生まれましたが、彼が生まれたころには彼の家は没落して貧困化しており、奨学金をもらって名門・イートン校に進学しました。1937年には、スペインの内乱に人民戦線の側で参加し、ファシズムのフランコ軍と戦います。ところが、オーウェルの参加した分遣隊はトロツキーの流れをくんでいたため、スターリンのソ連と「共産党軍」から弾圧を受けていました(人民戦線内部の内ゲバ)。戦闘で負傷してフランスへ移ったオーウェルは、スペイン内戦の経験を書いたルポルタージュ『カタロニア讃歌』がベストセラーとなり、作家の地位を確立しますが、以後、ソ連の「正統派共産主義」に対しては、批判的な論調を展開します。

 

 近未来小説の代表作『動物農場』『1984年』いずれも、ソ連の全体主義国家の未来像を、SF的手法で描いたものです。

 

 

 

 

 オーウェルが批判してやまないのは、ソ連の全体主義国家にしろ、共産党の「正統」マルクス主義にしろ、「功利主義」に侵されて数量化と効率性のみを重んじ、人間にとって大切な「計算できないもの」「予測できないもの」、物質以外の「無形の幸福」「いまここで得られる喜び」を無視していることです。

 

 ソ連の政府も各国の共産党も、芸術や文化を、自分たちの運動と「革命」に役立つかどうかを物差しにして、短絡的に評価しました。「あらゆる芸術は、共産主義の目的に役立たなければならない。そうでない芸術は、人民にとって必要がないし有害だ」と、彼らは断罪したのです。

 

 

〔ギトン註――オーウェルの小説〕『1984年』〔…〕中の全体主義社会は、個人の私生活を支配し萎縮させようとする。〔ギトン註――そこでは〕自分の頭でものを考えること、プライバシー欲望情熱喜びを追求することは、危険な叛逆行為となる。〔…〕

 

 人間性を造り直そうとする社会は、あらゆる精神に手を伸ばし、再編したがる。〔ギトン註――そのような〕権威主義社会はパンを管理しうるが、〔薔薇を管理することはできない。――ギトン註〕薔薇は、個人が自分で自由に見つけ』るほかには見つけようのないものである。薔薇は、権威ある処方箋に基いて『処方されるものではなく、むしろ発見され育てられるものである。「〔…〕私たちにわかっているのは、想像力が、ある種の野生動物と同様に、捕われた状態では繁殖しないということだけだ」とオーウェルは〔…〕述べた。〔…〕薔薇は、プライバシーと自主独立とともに花開く一種の自由を意味する。』

レベッカ・ソルニット,川端康雄・他訳『オーウェルの薔薇』,pp.120-121. 

 


  オーウェルが擁護した「薔薇」とは、「パン」のみの功利主義が無視してきた「計算できないもの」「予測できないもの」、物質以外の「無形の幸福」「いまここで得られる喜び」、「人によって異なる趣向」「主観性」「自由」「自己決定権」「プライバシー」といったものです。そのような意味での人間の「幸福」は、物質的欲望が満たされた・安定した状態よりも‥‥

 

 

『歓喜により近い。それは予測しがたい形で爆発し、静まる。そして危険と困難のただなかに現れうる〔…〕

 

 〔ギトン註――それは〕一時的だからこそ貴重であったもの〔…〕欲望や歓喜のように、その本質からして流動的で制御不能なもの

レベッカ・ソルニット,川端康雄・他訳『オーウェルの薔薇』,pp.120-121. 



 ‥‥なのです。だとすれば、そのような「幸福」――つまり「薔薇」――は、「革命後」の未来などにあるのではなく、「いま・ここ」で、現に困難に逢着して苦しんでいる人びとの・変転常 つね なき生活のなかにこそある。その「カネのかからない幸福」を見過ごさずに見出してゆくことによってこそ、未来に、より広く誰もが「幸福」を享受しうる状態を、もたらすことができるのではないだろうか?

 

 

 

 

 

 

〔19〕 薔薇の理性――「ここがロドスだ。ここで跳べ」

 


 さて、ヘーゲルも、『精神現象学』ではありませんが、のちの講義録『法の哲学』で、「薔薇」に言及しています。そこでの「薔薇」が象徴するものは、オーウェルソルニットと同じではありませんが、本質的な部分で通じあっています。

 

 (2)〔12〕で少し書きましたが、ヘーゲルの時代のドイツでは、ロマンチシズムが一世を風靡していました。理性的な論証を重視するヘーゲルのような哲学に対抗して、ロマンチシズムの思想家たちは、むしろ感情のほうが重要だと主張しました。彼らのなかには、封建的な諸邦に分裂していたドイツを統一して、イギリス、フランスのような人権と議会政治を導入しようとして戦った人びともいました――エンゲルスのような社会主義者も参加していた――から、いちがいに「ロマンチシズムは復古的な反動思想だ」とばかりは言えないのです。


 

『理性を偏重するヘーゲルらの哲学に対する反動として、感情のような非論理的で偶然なものを重視して、社会を変えようとするヤーコプ・フリードリヒ・フリースのような人が抬頭していました。ここには、理性と感情の激しい対立があるわけです。

 

 だからこそ、弁証法の出番です。啓蒙的理性を特権視して、感情や信仰を退けるだけでは不十分です。そもそも、理性のあり方を見直さないといけない。

 

 ヘーゲルが提示する新しい理性の姿が、「薔薇としての理性」です。

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,2023,NHK出版,p.98. 

 

 

 ヘーゲルの「薔薇」が象徴するものは、オーウェルソルニットと同じではありませんが、核心の部分では通じあっています。



『本稿は、国家を一つの それ自身のうちで理性的なもの として概念的に把握し、かつあらわそうとする〔…〕〔ギトン註――そういう私の著述意図は、〕あるべき国家を構想するなどという了見からは最も遠いもので〔…〕国家がいかにあるべきかを国家に教えることをめざすのではなく、むしろ、国家という倫理的宇宙が、いかに認識されるべきかを教えることをめざしている。

 

  Hic Rhodus, hic saltus.

 〔ここがロドスだ。ここで跳べ〕

 

 存在するところのものを概念において把握するのが、哲学の課題である。というのは、存在するところのものは理性だからである。個人にかんしていえば、だれでももともとその時代の息子であるが、哲学もまた、その時代を思想のうちにとらえたものである。なんらかの哲学が自分の現在の世界を越え出ると思うのは〔…〕おろかである。個人の理論が実際にその時代を越え出るとすれば、そして彼が一つのあるべき世界をしつらえるとすれば、このあるべき世界は〔…〕たんに彼が思うことの中にしかない。

G.W.F.ヘーゲル,藤野渉・他訳『法の哲学 Ⅰ』,2001,中公クラシックス,p.27. 

 


 ちょっと驚かれたかもしれませんが、ここまでの部分では、ヘーゲルの講義は、前節のソルニットオーウェルとはまったく無関係なように見えます。ヘーゲルが言うのは、こういうことです。お偉い学者が講壇の上から、「国家は人民の幸福を増進するために存在すべきだ」、あるいは、「この世に正義を実現するためにあるべきだ」等々、理想的なことをいくら述べ立てても、そのような国家はどこにも存在しない。学者の頭の中にだけある抽象的な存在にすぎない。

 

 私がこれから話そうと思うのは、そんなことではなく、現に存在する「プロイセン王国」という理性的国家である。というのは、現実に存在する自然界が、法則に支配された理性的存在であるのと同じように、人間の社会や国家にも何らかの意味で法則があり、現実的な存在は「理性」そのものにほかならないのだから。

 

 ヘーゲルのこの講義には、明確な政治的意図がありました。ヘーゲルは、1818年、プロイセン王国文部大臣アルテンシュタイン男爵の招聘を受けてベルリン大学正教授に就任し、『法の哲学』のもとになる講義要綱を出版しています。当時、ドイツ諸邦では、前述のフリースらの愛国思想に共鳴した過激な学生運動がさかんになっていました。田舎町ニュルンベルクで高校教師をしていたヘーゲルを抜擢して、最高学府の正教授にしたアルテンシュタイン男爵の意図は、学生運動対策として、学生たちに穏健な「オトナの世界観」を吹き込んで鎮静化させることにあったのです。

 

 ヘーゲルの講義要綱は、文部大臣の期待通りだったといえます。要綱出版後もヘーゲルは、青年たちに感情的熱狂を煽るフリースらの愛国思想・革命思想を激しく批判して、「理性による訓育」に努めます。↑上の引用は、そうした背景を踏まえて読む必要があるのです。

 

 引用にある「ここがロドスだ。ここで跳べ」は、『イソップ寓話』にある文句で、「自分はむかし、ロドス島の高跳び大会で優勝した」と自慢する人に対して、それを聞いた人が、「じゃあ、ここがロドス島だと思って、ここで跳んでみろ」と言った、という話です。ヘーゲルは、遠い過去や未来の「あるべき国家」を云々するのではなく、「いま・ここ」で――プロイセン王国で――現に機能している「国家」理性のありようを分析してこそ、まっとうな学識を身につけられるのだ、と言っているのです。

 

 

BTS, V.    


 

『さっきの慣用句は、少し変えれば、こう聞こえるであろう:

 

  Hic rosa, hic salta. 〔※〕

 〔ここに薔薇がある、ここで踊れ〕


 理性を現在の十字架における薔薇として認識し、それによって現在をよろこぶこと。この理性的な洞察こそ、哲学が人々に得させる現実との和解である。』

ヘーゲル,藤野渉・他訳『法の哲学 Ⅰ』,中公クラシックス,p.28.  

 

註※ このラテン語は、原文にはない引用者の補充。ヘーゲルはドイツ語訳だけを記している。

 

 

『引用の一文が示すように、理性が世界に現れてくる姿は、すべてを物質に還元してしまう科学主義の冷たい世界ではありません。科学主義の世界では、人間の居場所はなくなってしまいます。

 

 ヘーゲルの哲学がめざす喜びや楽しみに満ちた理性は、人間を否定した先にあるものとしてではなく、「現在の十字架」のうちに、つまり有限な人間の苦難や悩みのうちに見出すべきものです。もちろん、「現在をよろこぶこと」は哲学だけでなく、芸術、宗教、政治、経済といった精神の次元と切り離すことはできません。人間の苦しみと喜びという対立を統合する「薔薇で踊る」理性像は、すべてをエビデンスやデータで説明し、予測しようとする現代にこそ、その重要性を増しているのです

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,2023,NHK出版,pp.98-99. 

 

 

 つまり、ヘーゲルは、青年たちに「理性」を説くために、フリースらの「感情」優位の過激思想を批判したのですが、ヘーゲルの場合、相手を批判するということは、その相手の考え方を理解し我が物としたうえで・乗り越えることにほかなりません。つまり、ヘーゲルは、自分の〈啓蒙〉的理性の問題点を自省し、「感情」優位の思想からも学んで、新しい「薔薇の理性」――「喜び・楽しみにみちた理性」「薔薇で踊る理性」――への扉を開いたのです。

 

 ここでヘーゲルは、前節のソルニットオーウェルと同じ地点に立ったと言えます。

 

 ただ、ヘーゲルと、オーウェルらとの間には、視点の違いがあります。ヘーゲルの視線は、現在の人びとの「よろこび・楽しみ」以上に、その「苦難と悩み」――「現在の十字架」――に対して向けられているのです。


 

〔ギトン註――感情(信仰)と理性(概念)との一体性というプロテスタンティズムの原理は、〕ルターが感情と、そして精神の証とにおける信仰としてはじめたもの、それは、さらに成熟した精神が概念においてとらえようとし、そうして現在のなかでおのれを解放しようとし、これによって現在のなかにおのれを見いだそうと努めているものと、同一のものである。

 

 なまはんかの哲学は神からそれたほうへ導くが、〔…〕真の哲学は神に導く、ということは有名な言葉になっている。それは国家についても同じことである。

 

 〔…〕真理にだんだん近づく哲学などでもっては理性は満足しない。他方また、この現世ではたしかに万事がひどいか、せいぜい中くらいの状態だということは認めるが、そこではどうせましなものは得られないものとし、それゆえただ現実との平和が保たれさえすればいいとするような、冷たい絶望でもっても理性は満足しない。認識が得させるものは、もっと熱い、現実との平和〔※〕である。』

ヘーゲル,藤野渉・他訳『法の哲学 Ⅰ』,中公クラシックス,p.29.  

 

註※ 「したがって問題は、理性と現実とのなまぬるい和解ないし接近ではなくて、〔…〕思惟の諸要求も、現実の諸要求も、弱め和らげられることなく、そのどちらもが本気で受け止められる。〔…〕そのことによって、両者のより深い諸連関と、両者がたがいに頼みとし合っているあり方とが、その根底から〔…〕真実の「平和」として把握される。」〔中公版・訳者註(51), p.40.〕

 

 

 こうして私たちはヘーゲルとともに、「完全にはわかり合えない他者と共存」し、「意見の対立と社会の分断を乗り越える」「相互承認」の方法を模索するなかで、「良心」という態度に逢着しました。「良心」は、ルターのプロテスタンティズムが拓いた・個人の主観性の原理です。「自分が正しいと思うことを、みずからの判断で行なう意識」です。↓放送【第4回】では、「良心」「告白」「赦し」がキーワードになります。


 

 

 

 

〔20〕 分断・対立のなかで行動する「良心」

 

 

『「良心」とは何でしょうか。〔…〕伝統や宗教にしたがうのではなく、つまり、自分が正しいと思っていることを、みずからの判断で行なう意識を指します。

 

 良心は、みずからの判断が「みんなにとっても正しい」と思うから、そのように行為します。

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,p.108. 

 


 しかし、「良心」は、自分が絶対に正しいなどとは考えません。なぜなら、自分は有限な存在であり、他の人間たちもみな有限な存在であって、誰ひとり「絶対に正しい」人間など存在しないことを知っているからです。

 

 

『つまり、〔ギトン註――「良心」は、〕私たちが見ているのは、個々の「じぶんにとって」の世界であり、神のような無謬の立場に辿り着くことはできない、という事実を受け入れているわけです。私たちはそれぞれの視点から世界を理解し、そのなかで、有限な理性をもつ存在なりに 世界を変えていこうとする。〔…〕

 

 有限な情報をもとに、有限な判断しかできない「私たち」は、間違うことも多々あります。とりあえずの判断に足る情報を集めて、それをもとに行為しているので、後になって〔…〕これまでの行動を変えたりすることもある。


 また、みながそれぞれに有限な視点から見ているので、意見がぶつかることは避けられません。〔…〕科学的なエビデンスを重視する人もいれば、宗教的な視点を重視する人、伝統的な知を重視する人もいる。そこでは必ずコンフリクト(対立、衝突)が起きます。

 

 〔…〕近代社会はコンフリクト社会なのです。私たちは、とにかく他者とぶつかりまくって生きている。それでも他者と共に生きていくためには何が必要か。それは、「不和」に対する耐性と、相互の信頼です。〔…〕

 

 近代社会においては、自分の価値観や 既存の社会規範から距離をとって、反省的に考えることが必要です。〔…〕これは、ヘーゲルのいう「疎外」の肯定的な面です。

 

 ただし、それが行き過ぎて、すべての知や規範を流動化させてしまう相対主義者や懐疑論者になってもいけません。つまり、距離をとらなければいけないけれど、同時に、どこかで安定もさせなくてはいけない――〔…〕

 

 啓蒙は、もう一歩のところまで来ていたともいえます。他者をとかく論破したがる人々のように、自分の立場を正当化するために、何でも流動化させるようなことはしなかったからです。一応、安定はさせた。安定はさせたのだけど、相手の立場を踏まえて自分自身の主張から十分に距離をとる――という『ことができませんでした。

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.105-107. 



 たしかに、「啓蒙」は、たんに既存の規範に根拠がないことを暴露して、そこから離れるだけでなく、それに代わる普遍性のあるもの(誰にでも通用するもの)を、科学と論理に基いて提示しようとしました。「啓蒙」は、みずからが普遍的でありたいと望んだのです。だから、「啓蒙」は、その時々で主張の根拠を変えてしまうようなことはなく、(少なくとも本人のつもりでは)首尾一貫しています。それが「安定」ということです。

 

 しかし、「啓蒙」は、自分の主張から距離をとって、自分を他者の眼でも見る、という点で不十分でした。近代人は、既存の伝統的規範に対して距離をおくだけでなく、自分がもつ無意識の規範、先入見、価値観に対しても距離をおき、つねに自分を疑ってみる態度が必要なのです:

 


『それゆえ、啓蒙は信仰に対して的外れな批判を繰りひろげ、〔…〕結局、〔ギトン註――「信仰」のような〕意見の異なる相手を 信頼することも、相手から信頼を得ることも できなかったわけです。

 

 だとすれば、必要なのは、他者との差異を踏まえつつ、自分の立場を保持しながら、お互いにみずからの主張の正当性の根拠を提示する――』ことだと言えます。 

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,p.107. 



 しかし、それは、どのようにしたら行ないうるのでしょうか?

 

 

 

Henry Scott Tuke (1858-1929)     

 

 

 ここでヘーゲルが提示するのは、「良心」という意識の態度、そして、「良心」と「良心」との「対話」によってコンフリクトを解決し、新しい共通のものを見出してゆく階梯です。

 

 そこにおいて問題となるのは、「告白(自己批判)」と「赦し」です。

 

 あらかじめ誤解の無いように言っておきますが、ヘーゲルの言う「自己批判」は、現在の一部の政党や党派で行なわれる「自己批判」とは、まったく異なるものです。ヘーゲルの言う「自己批判」とは対話であって、相互になされなければなりません。一方的に片側――弱者、少数者、党員――だけが自己批判して、相手――党、強者、多数者――がしなかったならば、双方が「良心」でありつづけようとする限り、集団は分裂するほかありません。双方が自己を否定しなければ、「止揚」は起きず、新しい共通の地盤は見いだされないからです。

 

 もし、それでも分裂しないとすれば、それは「自己批判」ではなく「奴隷化」です。その集団は、「主人と奴隷」の関係に退化してゆくほかはありません。


 ‥‥というわけで、次回は、「良心」の対話――「告白」と「赦し」の弁証法――を見ていきたいと思います。
 

 

 

 

 

 

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