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〔7〕 「私は思う」から「〈私たち〉のなかの私」へ

 


 斎藤幸平さんの「第2回」は、〈論破がもたらすもの――「疎外」と「教養」〉と題されています。ここ数年、テレビの討論番組などで、「論破」を売りにする人びとが跋扈している、その「論破好き」「論破屋」が何をもたらすのか? という問題提起です。

 

 じつは、私はテレビを見ないので、そういう人たちの存在を知りませんでした。斎藤さんの結論を言えば、「論破屋」は不毛です。彼らの「論破」は「論破」が自己目的で、共通認識に辿り着くことをめざしてはいないからです。建築道具を手にしていながら、手当たり次第に壊すことしかしない狂人――刃物を持ったキチガイと言えばよいでしょうか。

 

 しかし、そうした人びとが出て来る根拠というものはあります。彼らの持っている建築道具は、けっしてまやかしのものではない。それが「教養」「懐疑」といったものであり、人間「精神」が必ず経過しなければならない一階梯なのです。


『ヘーゲル以前の近代哲学は、ルネ・デカルトの「我思う、故に、我在り」という言葉に象徴されるように、「私」を中心とした個人主義モデルで展開されてきました。この「私」には、仕事も、性別も、国籍もないのが特徴です。カントの超越論哲学も、理性の働きを歴史や社会から切り離して考察し』ています。

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,2023,NHK出版,p.48.

 

 

 これに対して、イギリスのジョン・ロック、デイヴィッド・ヒュームらは、人間の認識は経験の積み重ねによって形成されるとして、経験を重視しましたが、彼らがじっさいに取り上げたのは、「手を離すとリンゴは床に落ちる」といった・日常の個人的な経験であり、他者との関係は捨象されていました。彼らもまた、「知」は個人的なものだと考え、他者から切り離された個人を考察の対象としたのです。

 

 

『個をベースに社会をとらえていくと、社会は「私」の自由を制限する、基本的に邪魔な存在となります。〔…〕

 

 でも、本当に他者は邪魔な存在でしかないのか。「私たち」なき「私」など存在しないのではないか。〔…〕

 

 ヘーゲルが重視したのは「理性〔※〕の社会性」です。ヘーゲルによれば、個々の「私」は「私たち」のもとでさまざまな認識や知を獲得し、「私たち」の次元でこそ自由を獲得できる〔…〕つまり、知の獲得や自由の実現には、他者との共同が不可欠〔…〕

 

 デカルトやヒューム、カントを読んでも、他者との関係において知が形成されるという視点や発想はあまり見られません。〔…〕

 

 そうした個人主義を、ヘーゲルは徹底して斥けます。むしろ、「私」が私であるためには、「私たち」の一部でなければならない、と考えます。』

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,2023,NHK出版,pp.48-49.

 

 

註※ ヘーゲルによれば、「(主観的)精神は、内面のさまざまな意識の段階をかいくぐって、理性に高まる」(岩波・哲学思想事典)。「理性の社会性」は、ここでは人間「精神」の社会性、と言い換えて理解してよいと思います。つまり、「知は、他者との関係において形成される」という視点です。

 

 

 

 


 つまり、ヘーゲルの言う「精神」とは、個人の精神である以上に、社会の精神なのです。「精神(ガイスト)」とは、〈わたし〉個人の「こころ(マインド)」ではなく、いわば「私たち」である何かなのです。

 

 かといって、それは、人間を超越した存在、というわけではない。ヘーゲルの「精神」を、全知全能の神のように理解する人がいますが、それは間違えです。「精神」とはあくまでも、人間たちの営みのなかに、人間たちが相互に関係しあう営みとして存在するものです。

 

 

精神とは何か。一言でいうとそれは「私たち」のことです。

 

 私たちはさまざまな活動(学問、芸術、政治、宗教など)を行なっていますが、精神はそうした社会的な共同作業を通じて、歴史上に現れてくる集合体を指します。つまり精神は、人間に特有の社会的行為の総称といってもよいでしょう。さまざまな社会的活動を通じて、「私たち」は、真・善・美などをめぐっての自己理解をさまざまな形で展開するのです。

 

 その際、私たちは、好き勝手に「何が美しいか」や「何が正しいか」を主張することはできません。判断には他者にも共有される根拠が必要だからです。その根拠は、歴史、社会、文化など、共に生活する他の人々と織りなす社会的空間と切り離すことができません。「私」の美や善をめぐる理解は、「私たち」(精神によって規定されているのです。

 

 それでも、時に、私の理解とあなたの理解は衝突する。場合によっては、その衝突が自分の自明な前提や根拠を揺るがし、新しい共通認識をもたらし、今までとは違った行為や判断につながっていく。それが新しい精神の姿を生み出します。〔…〕

 

 精神は個々の「私」の判断や行為に深く関わり、社会制度や文学作品、あるいは世間の風潮という形で具体的に現れてくる――〔…〕なぜならば、「私」であることは「私たち」であることと切り離せない〔…〕からです。』

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,2023,NHK出版,pp.45-47.

 

 

 

 


 

 

〔8〕 「協働」には方法論が必要だ。

 

 

 ヘーゲルは、「精神とは、絶対的な実体である。」と言っています。しかし、「絶対的な実体である」ことは、一枚岩であることを意味しません。その内容には、これ以上はないほどの分裂・対立を含んでいます。なぜなら、「精神」を構成する個々の人間は「完全な自由と自立性」をもっているからです。しかし、内に対立をふくみつつも、その対立は統一されている。――その統一された状態を、「絶対的な実体」と言っているのです。


 

『つまり精神とは絶対的な実体であって、その実体においては、みずからがふくんでいる対立、すなわち・あいことなった、それぞれに(für sich)存在する自己意識という対立が存在し、おのおのがかんぜんな自由と自立性をもちながらも、その対立が統一されている。絶対的な実体である精神とはすなわち、「私たちである〈〉であり、〈〉である私たち」なのである。〔熊野訳・ちくま学芸文庫(上),p.297.――ギトン註〕


 ここに出てくる「絶対的な実体」とは、私が考えたり行動したりする際の背景にある一連の規範であり、私が何かを判断する際の根拠として、まず頼りにするものです。〔…〕

 

 他方、規範を共有しつつも、近代社会では「おのおのがかんぜんな自由と自立性」をもっているので、みなが自由に判断し、ふるまいます。〔…〕すると、〔…〕対立が生じることもあるでしょう。〔…〕けれども、精神とは「その対立が統一されている」状態だとヘーゲルはいいます。つまり、意見のことなる「私たち」が、それでも一つの社会を形成し、時代や地域ごとで一般的妥当性をもつ価値観や規範〔…〕を生み出しているということです。


 もちろん、意見の対立が差別や排除を生んでしまう場面も多々あります。なので、どのようにすると対立を調停し、他者と自由な協働関係を取り結ぶことができるのかが問題になります。これに取り組むのが「精神」章なのです。』

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.50-51. 


 

 つまり、「自由で自立」した近代人どうしが他者と協力し合うには、どのようにしたら「他者と自由な協働関係を取り結ぶことができるか」――という「方法論」が必要なのです。

 

 そうした協働の「方法論」は、何を見たら書いてあるのか? ‥‥たとえば、共産党のような伝統のある政党ならば、「規約」「綱領」という定まったものがあって、それを共通の理解の基盤とすることができます。除名された党員が、除名の可否を争う、という極端な対立場面でも、双方が主張の根拠とするのは「規約」と「綱領」です。A氏は規約に違反した。いや、違反していない。という形で議論が展開されます(⇒:松竹伸幸氏オフィシャル・ブログ)。

 

 そういう定まったものがまったく無い場合、たとえば、さまざまな職業の市民が集まって、読書会なり、署名活動なりをしようという場合には、決まって誰かが言うのは、「たがいに自主性を尊重して、ゆるい連合を作りましょう」ということです。それは、裏を返して言えば、おたがいに干渉しないことにしよう、ということですから、集まって何かをしようという目的とのあいだでは、矛盾をはらんでいます。「干渉しない」を優先すれば、たいしたことはできないし、集まった目的のほうを優先すれば、深刻な対立が起きたり、対立したくない人たちが集団から離れてゆくことになります。

 

 しかし、ここでヘーゲルが言っているのは、私たちの社会そのものが成立している以上、私たちは知らず知らずのうちに、互いのあいだの対立を調停し、「統一」を成立させているのです。なぜバラバラに分解しないで「統一」が成立するのかといえば、そこには、私たちの先祖や、私たちに影響を与えた諸国の人びとの、試行錯誤にみちた長い長い歴史的経験があるのでしょう。

 

 つまり、ヘーゲルの考えでは、ある時、ある場所で人間たちの社会が成立している以上、そこには、統一された「絶対的な実体」としての「精神」が存在する。一人ひとりの〈私たち〉は、統一しようなどと思っていなくとも、そういうものが成立しているからこそ、社会が存在しているのです。

 

 そうだとすれば、私たちは自分の足もとの社会の「精神」の成り立ち、「統一」のされ方を研究することによって、「おのおのが自立した他者」と「自由な協働関係」を結ぶには、どうしたらよいかを、知ることができるはずです。そうやって知った「方法論」を、今度は意識的に適用すれば、私たちが望むような「自由な協働関係」を構築していけるでしょう。

 

 これが、フランス革命の前後にわたる混乱と対立の時代(つまりヘーゲルの同時代)を分析対象とした「精神」の章における・ヘーゲルの問題意識なのです。
 

 

 

 

 

〔9〕 「疎外」――鉄壁の規範から「離れる」こと

 

 

 ある時代・ある地域における「絶対的な実体」である「精神」とは、広い意味における「規範」にほかならない、ということを前節で確認しました。それは、政党の「規約」のようなはっきりしたものではありませんが、私たちは知らず知らずのうちに、「いま・ここ」なる社会の「規範」に従っています。たとえば、スーパー(食料品の量販店)での買い物の仕方は、私たちの時代のこの国での・そうした規範の一部であるといえるでしょう。籠を持って、店の中を自由に歩き回って、自分の欲しいものを籠に入れ、そこでは代金を支払わずに、レジを通過する際に支払いをする。こうした買い方が、店の入口に規則として掲示されているわけではないのに、誰もがこの規範に従っています。籠を持ったままレジを通らないで店の外に出て帰宅しようと思えばできるのに(後ろから警備員が追いかけて来ますがw)、そういうことをする人はいない。棚から商品を取る際に、引き換えに代金を置いてはいけないという規則は、どこにも書いてありませんが、そういうことをする人もいません。

 


『前近代社会に生きる人々は、所与の規範や規則から距離を取ることができず、社会的役割が性別や身分によって、固定化されていました。伝統が「自然」だとされたのです。

 

 しかし近代になると、私たちは「実体」としての規範から、自覚的に距離を取ることができるようになっていきます。〔…〕規範と一心同体の状態から離れていくことから、ヘーゲルはこれを「疎外(Entfremdung)」と呼びました(〔…〕熊野訳↓では「疎遠」とも訳されています)。

 

 〔…〕ヘーゲルは「疎外」という言葉をむしろ肯定的な意味で、自由への扉を開くものとして用いています。というのも、既存の価値観やルールとは距離をおくこと(疎遠になること)で、人間はさまざまなことを自由に自立して考えられるようになるからです。ヘーゲルは「精神とは自然的な存在から疎遠になること」であり、それを可能にしているのが近代の「教養」であると述べます〔熊野訳・ちくま学芸文庫(下),p.98.――ギトン註〕〔…〕

 

 現実的世界は、個体性をつうじて生成したものでありながら、自己意識に対して直接に疎遠となったものであり、それは自己意識にとって 揺るがしがたい現実性という形式をそなえている。

 

 とはいえ同時に自己意識が確信しているところでは、この現実はみずからの実体をなすものであるから、自己意識はその現実を我がものとすることへと立ちむかう。自己意識が現実に対するこの威力へと手をのばすのは、〔みずからを〕形成すること(Bildung)をつうじてであって、この側面から教養(Bildung)がどのように現象するかといえば、それは自己意識がじぶんを現実に適合するようにし、しかも根源的な性格と才能がふくむエネルギーが、じぶんにそれを許すかぎりでそのようにこころみる、といったものとなるだろう。

 

 現実世界の規則や規範は、個々の「私」がしたいことを拘束したり、「それをしてはいけない」と圧力をかけたりする「揺るがしがたい現実性」として現れます。つまり、私は規範を自在には変えられません。けれども、「現実を我がものとすることへと立ちむかう」――〔…〕

 

 私たちは精神の一部としてさまざまなことを判断し、行為しています。前近代社会と違って、自立して自由にふるまうことができるけれど、好き勝手にふるまっていいわけではない。実体(規範や規則)としての精神は「私」の行為を拘束し続けます。

 

 とはいえ、〔…〕近代社会の特徴は「かんぜんな自由と自立性」です。それをベースに「この規則はおかしい」「そんな価値観は変えていくべきだ」と声をあげ、行動を起こすことができる。つまり、規範に拘束されつつも、規則を操ることができるわけです。

 

 かつては「黒人は白人より劣っている」「同性を好きになるのは不自然だ」という規範が存在し、受け入れられていました。しかし、そういう考え方や価値観は、「おかしい」と多くの人が声をあげた結果、社会はだんだん変わってきます。〔…〕

 

 「実体」が、〔…〕別の仕方で規定されるようになったのです。これが「疎外」がもたらした可能性です。それに伴って、人々の日常的なふるまいにも変化が見られるようになり、そうした時代の精神を映して、法制度や文化も変わりはじめています。〔…〕

 

 疎外された人間は、社会の規範を変えることができる。』

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.52-54. 

 


 「規範」――つまり、法律や規則のようなはっきりしたものではないが、社会の暗黙の了解事項となっているもの――が変わる、ないし変えるということが、最終的に重要なことなのです。これは忘れてはならないことです。

 

 

 

 

 

 西欧諸国やアメリカ、さらには台湾のような国でも、同性婚が法律で認められるようになったころ、日本の同性愛者たちの多くは、これに無関心でした。無関心なだけではなく積極的に反対する声さえ、「にちょうめ」界隈からは頻繁に聞こえていました。しかし、かれらは自分たちを痛めつけたい、不幸なままにしておきたいというマゾヒズムの発露で、そう言っていたわけではありません。

 

 いかに良い法律ができても、世の中の人の考え方や価値観――つまり「規範」――が変わらなければ、自分たちの不幸は何ら改善されない。むしろ場合によっては、事態があからさまになることによって、不当な攻撃や偏見が、いままで以上に厳しく向けられるのではないか、――彼らはそれを恐れたのです。

 

 当時、私はといえば、制度や法律が改められることによって、世の中の価値観が変化してゆく作用は非常に大きいということを、ツイッターなどで訴えたのですが、ほとんど反響はありませんでした(イイネが付かなかったw)。まもなく私のアカウントは(裏に隠れたクレーム攻撃がたくさん寄せられたのでしょう)ツイッター社(の日本法人)によって凍結されてしまいました。今現在もそのままです。

 

 とはいえ、「規範」が変わらなければ何も変わらない――というのは、まったくそのとおりです。法律や制度の改革を求めることも、それ自体が目的なのではなく、「見えない規範」が変ってゆくことを目標とするプロセスの一階梯と考えるべきです。ですから私は、最近の「理解増進法」の制定も、たとえ内実は「無理解増進法」の側面があるとしても、それも有意味な一階梯だと思っています。

 

 

 

〔10〕 「教養(ビルドゥング)」とは何か?

 

 

『「私」が正しいと個人的に確信する「思いなし」が、社会的・客観的に通用するような「知」として承認されるためには、どのような条件をクリアする必要があるのでしょうか。

 

 ここで重要になるのが、先の引用にもあった「教養(Bildung)」です。ヘーゲルのいう教養は、意識のあり方の一つです。学問や芸術を修めているという意味ではないので注意してください。

 

 原語の Bildung は「陶冶」や「形成」とも訳されます〔英語の「ビルディング」「ボディ・ビルダー」と同語源。自分の身体や精神を「造る」ことです――ギトン註〕。つまり教養の意識は、単に自然的、動物的な欲望に身を任せるのではなく、できるだけ良いものをめざそうとします。一方では目指すべき規範に適合するよう自分を律し、同時に自分の力で規範を自分に合うものにできるだけ変えていこうとする。あるいは、社会における自分の役割を引き受けつつ、今より良い状態になることを目指して現状を変えようとする。それが教養という意識のあり方です。

 

 〔…〕伝統的慣習から疎遠にな』った疎外された近代社会では、みなにとって自動的に「正しい」ものは存在しません。〔…〕絶対的な基準がないので、何が善で何が悪かは、私たちがたえず吟味し、繰り返し再評価を行なっていく必要がある。〔…〕

 

 私たちは、〔…〕所与の規範や既存の価値観から「じぶんが自由であることを知っている」ので、賛成か反対のどちらを選ぶこともできるし、態度を保留することだって可能です。教養の意識は、できるだけ良い選択をめざしますが、どのような理由で、どの選択をするかは基本的に「私」の自由だと考えるのです。』

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.55-56. 

 

 

 

 

 

 ここでヘーゲルは、「国権」と「財富」の意見の対立という例を持ち出しています。「国権」とは、絶対主義政府の立場に立つ官僚で、一部の企業家が富を独占して不平等が広がると社会秩序が維持できなくなるので、経済活動には可能な限り規制を加えようとします。これに対して、「財富」はブルジョワジーの企業家の立場で、一切の規制をなくして経済活動を自由にしたほうが、自分も儲かるし、社会全体としても経済成長して豊かになると主張します。これは古典的な意見の対立でして、最近の世界のように、竹中平蔵のような人が「国権」の頂点の地位から「財富」の主張をするようになると、こういう比喩は通用しなくなるのではないかと、私は思います。

 

 しかし、ともかく、「国権」も、「財富」も、自分こそが正しいと主張するわけです。「自分は善だ」と主張する表向きでは、どちらも「高貴な意識」です。が、いったん裏に回ると、「国権」貴族官僚は、じっさいには王様に気に入られて民衆のあいだで名声を博したいがために、そういう主張をしていたりします。「財富」も、目的とするところはあくまでも自分が高額の利潤を手にすることなので、場合によっては自国を貧困にして外国に投資することを厭いません。これらの場面では、「国権」も「財富」も、「下賤な意識」を発揮しています。

 

 しかし、世間の人びとは、「高貴な意識」は善で、「下賤な意識」をもつ者は悪だとみなしがちです。そこで、意識がどちらに転ぶかによって、高潔な政治家が下賤な太鼓持ちになったり、下賤な守銭奴が進取の気性にみちたイノベーターになったりします。「高貴」と「下賤」は、常に反転する。それが近代社会の習いなのです。

 

 

『こうした反転現象によって、安定した価値判断から疎外されることが近代の本質であり、それが〔…〕なくなることはない、とヘーゲルは言います。

 

 だとすれば、一つの善悪の判断に固執するやり方は不十分だということです。真っ向から対立するような意見にも学びながら、私たちは事態を多角的にとらえる必要があります。なぜならば、〔…〕対立する見方は、「そのいずれもが、本質的な契機であることにかわりはない」からです。〔…〕

 

 多角的に事態をとらえるためには、自分が是としていること、善だと思うことが単なる「思いなし」や「先入見」ではないかとつねに疑ってみる必要があります。〔…〕私たちは全能の神ではないので、すべての認識はなんらかの形で間違っている可能性があるからです。〔…〕この有限性〔人間は有限な存在だから、無限の真理に達することは永久にない。――ギトン註〕を受け入れるのが「純粋な教養」の立場です。〔…〕

 

 もはや私たちは、いかなる所与の価値観も疑いなしに受け入れることのない疎遠な状態におかれている。ですから私たちは、安定を保証してくれる真理などないことを学び、物事を懐疑的に考察することで自己形成していく必要があります。これこそ、近代の個人が伝統や常識を疑って、新しい真理を見つけ、新しい規則をつくれるようになった原動力なのです。ここに自由があるのは間違いありません。

 

 けれどもヘーゲルは、一転して釘をさすことも忘れていません。〔…〕要約するならば、常識を疑ってみることは大事だが、懐疑的に考えさえすれば正しい答えや真理が見つかるわけではない、というものになります。ここに教養という意識の限界が浮かび上がってくるのです。』

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.59-61. 


 

 

 

 

 

〔11〕 「教養」の限界、懐疑と冷笑――『ラモーの甥』

 

 

『ヘーゲルによれば、論破を目的とした議論は何も生みません。議論のための議論のことを、彼は「エスプリに富んだ(Geistreich)会話」と呼びました。〔ギトン註――「精神」を意味するフランス語 esprit に、ドイツ語で〕精神を意味する Geist を掛けた皮肉です。

 

 ヘーゲルの念頭にあったのは、上流階級の人々が集まった18世紀フランスのサロンです。そこで繰り広げられていたのは、まさに議論のための議論でした。社会問題を話題にしているときでさえ、彼らは本気で問題を解決しようなどとは考えていません。彼らが求めていたのは「正しさ」ではなく、アイディアの奇抜さや弁舌の巧みさであり、いかにエスプリに富んだしかたで相手を論破するかが重視されていたのです。

 

 同じことは、現代のネット空間にもあてはまります。〔…〕

 

 『精神現象学』では、「エスプリに富んだ会話」の一例として、小説『ラモーの甥』が分析されています。

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.61-62. 

 

 

 『ラモーの甥』は、啓蒙思想家ディドロの小説ですが、バロックの作曲家・オルガン奏者として著名なラモーの実在の甥をモデルに、彼と、哲学者の「私」との会話だけで書かれた小説です。「甥」は、さる大金持ちに寄食している・うだつの上がらない音楽家ですが、言うことだけは一人前で、同時代のあらゆる著名人物を風刺し嘲笑します。それでいて、自分が寄食しているパトロンの貴族は、もちろん俎上に上げません。


 世間で認められた・あらゆる価値を否定する「甥」にとって、人間が従う原理とは、動物的な欲望のほかには無いのです。

 

 

『ラモーの甥は、金持ちに寄食する冷笑家のボヘミアンです。良識人の「私」から、「人は有徳であるべきだ」と諭された彼は、つぎのように応じます。

 

 徳や道徳は、万人のためにつくられたものでしょうかね? そんなものは、もてる奴がもち、保存できる奴だけが保存するもんです。〔…〕さあ、哲学万歳、ソロモンの智慧万歳。いい酒を飲み、うまい料理をたらふく食い、きれいな女どもの上を転がり回り、やんわりした蒲団に休む! それ以外、すべては空 くう の空 くう ですよ。〔本田喜代治・他訳,岩波文庫〕

 

 動物的欲求こそがすべての善悪の根幹にあると考えるラモーの甥は、「この世に普遍的な道徳などない」と主張し、哲学者の「私」を論破するのでした。〔…〕

 

 〔ギトン註――「純粋な教養」という・この精神にあっては、〕いっさいの事物空虚さは、自己自身の空々しさである。つまり、自己が虚ろなのである

 

 そのばあい「自己」とは、それだけで存在する(für sich seiend)自己であり、その自己はすべてを評価し、あらゆるものについて〔…〕その矛盾について言いたてるすべを知っている。しかもこの矛盾こそが、実在や規定の真理(Wahrheit)なのだ〔「ラモーの甥」のような空虚な「純粋教養」が述べ立てる矛盾は、たしかにそれ自体は真理であり、実在の根本原理である。――ギトン註〕〔…〕すなわち〔ギトン註――ラモーの甥は、〕対自的存在自体的存在から分離され、思いこまれ目的とされたことが、真のあり方(Wahrheit)から切り離されているしだいを知っているのである。〔…〕おのおのの契機は、すべて他の契機との対立において存在している。〔ギトン註――ラモーの甥の〕自己はこのことを、〔…〕正しく言明するすべを知っているのだ。〔…〕つまり自己が実体的なものについて見知っているのは、それが統合を欠き抗争をはらんでいるという側面である。〔ギトン註――ところが〕この抗争を、実体的なものは、じぶんのなかで統合しているのだ。この統合という面を〔ギトン註――ラモーの甥は〕見知っていないから、自己は実体的なものを判定することにかんしてはよく心得ているものの、実体的なものを把握する能力は、そのぶん喪失してしまっているのである。――

 

 自己には、このような空虚さがあり、その空々しさがその場合いっさいの事物の虚しさを必要とする。そのことで自己はすべての事物から、「自己」の意識を手にするにいたるわけである〔熊野訳・ちくま学芸文庫(下),pp.152-153.――ギトン註〕。』

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.63-64. 

 

 

 ヘーゲルからの引用の最後の部分を、私の卑俗な言い方で言い換えれば、坊さんだろうと哲学者だろうと王様だろうと、みんなみんな、うまい食い物と酒と女だけがめあてじゃねえか。道徳も勲功も学識も、そんなものありゃしねえ。一皮むきゃあ、みんな空っぽだ。オレだって空っぽだが、正直なだけ、他の奴よりましじゃねえのか? ‥‥ということでしょう。そのような「空虚な自己」が成り立つためには、世界のすべては空っぽでなければならないのです。

 

 

 

 

『彼の空虚な自己は、エスプリに富んだしかたで、あらゆるものについて矛盾を指摘し、自在な評価をくだしていきます。〔…〕あらゆる常識から距離を取るという意味で、ラモーの甥は教養疎外の完成形にほかなりません。けれども、そのような自己は、矛盾するものを「統合」することができず、矛盾を分裂状態に放置している、〔…〕それでは新しい規範(実体)を把握することはできません。すべては空虚となり、そのような立場を擁護する自分だって空っぽの存在になってしまいます。〔…〕

 

 〔ギトン註――冷笑家たちの目指す社会、すなわち〕それまで是とされてきたもの〔…〕がすべて瓦解し、どうすれば他者と共通理解を取り結ぶことができるのかもわからない社会など、望む人はいないでしょう。〔…〕

 

 やたらと論破を試みる人は、〔…〕反論すること自体を目的としていて、相手との共通認識に辿り着くことはめざしていません。それゆえ、自身の意見を反省して修正したり、他者との意見の違いを調停する態度がないのです。〔…〕

 

 懐疑主義は重要です。例えば、伝統や常識の名のもとに差別が温存されていたら、疑いの目を向ける必要があるでしょう。


 ただし、すべてをひたすら疑っていたら、規範やルールが底抜けになって、社会全体が不安定化してしまうので、何らかの形で別の「真理」を固定化していかなければなりません。ところが、他者を論破することばかり試みている人々からは、固定化に向けた他者との協働が見えてこない。これこそが、「教養」の意識の限界なのです。』

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.65-67. 

 

 

 

 

 

 

〔12〕 「自然に帰れ」――「自由」からの逃走か?

 


 フランス革命後の 19世紀:ドイツでは、啓蒙主義に対する反動として、ロマンチシズムの思潮が風靡しました。ひとことで言えば、騎士道の昔をなつかしみ、「中世に帰れ」と叫ぶ「反動的」風潮です。しかし、「反動」は必ずしも悪いことばかりではありません。進歩の行き過ぎた面、見落とされた面に目を向ける点で、反動――反作用は、人類にとって必要な歴史運動なのです。

 

 とくに、私がヨーロッパのロマンチシズムに見る重要な点は、アジア・アフリカ社会との接触から、みずからの社会を反省し、ヨーロッパ文明を相対化する視点が見られることです。

 

 もともと 16世紀以来の対外進出の過程で、(一方では、接触した非ヨーロッパ社会を残酷に破壊しながら)ヨーロッパ内部では「善き野蛮人」という一種の理想化が行なわれ、文明のもたらす害悪が批判される傾向がありました。その流れの先にあるのが、ルソーの「自然に帰れ」という標語であり、文明がもたらした私有財産の不平等を鋭く批判したのです。

 

 19世紀になると、ヨーロッパ全体としては、非ヨーロッパ世界への進出と支配を強め、植民地として地表面を分割しつくす勢いになります。その原動力となったのは言うまでもなく、ヨーロッパ自身の産業革命による飛躍的な経済成長でした。

 

 そのような経済成長と植民地支配の拡張が一方にあるとすれば、ロマンチシズムは、その対極にある思潮と言えなくもありません。文明、工業化、植民地進出、――こうしたものに対するアンチテーゼは、当時、ユートピア社会主義を除けば、ロマンチシズムのほかには無かったように思われます。

 

 しかし、斎藤幸平さんは、ルソーとロマンチシズムに対して、たいへん批判的であるようです。すくなくとも、斎藤さんの祖述するヘーゲルは、そうで、(わずか3ページ足らずの部分ですが)私には納得できないものが残ります。

 

 経済学者としての斎藤さんは、公式マルクス主義者もふくめた「経済成長至上主義」の “常識” に叛旗を翻し、敢然とこれを批判しておられます。斎藤さんのそうした議論に深く同調するだけに、なおさら、この部分には納得できないのです。

 

 とはいえ、そこでルソーなどを題材として述べられているエッセンスの主張は、『精神現象学』の体系に沿ったもので、もっともと思われます。そこで、この部分については、核心部分の論旨を引用するにとどめておきたいと思います。

 

 

『私たちは、これまでの自分をみずから超えていく力をもっていますが、人間を学び成長させるような「ほんらいの経験」は、これまでの自分を否定することでもあります。〔…〕

 

 今までの自分を捨てなければいけないという不安が、私たちのうちに「真理への恐怖」を呼び起こします。これが勝ると、自分の誤りを認めたくない、変わりたくないという「制限された満足」に固執する態度が現れてくる。〔…〕教養がもたらした近代の自由を拒絶し』ようとする。

 

しかし、『私たちは、教養の矛盾を〔…〕乗り越えなければなりません。そのためには、他者と共有可能な客観的な知(真理)を見つける必要があります。そのためには、論破ではない形で他者との関係性を再構築しなければなりません。』

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.69-70. 

 

 

 次回は、「ラモーの甥」のような全否定の虚無を・超えたところに現れる2つの〈意識のあり方〉:「啓蒙」と「信仰」について考えます。

 

 

 

 

 

 

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