東 大 寺 講 堂 址 大仏殿の奥にある。現在、保存整備工事中。
以下、年代は西暦、月は旧暦表示。
《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。
- 710年 平城京に遷都。
- 717年 「行基集団」に対する第1禁令。
- 718年 「行基集団」に対する第2禁令。
- 722年 「百万町歩開墾計画」発布。「行基集団」に対する第3禁令。
- 723年 「三世一身の法」。
- 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位。長屋王を左大臣に任ず。
- 728年 聖武天皇、皇太子を弔う為、若草山麓の「山坊」に僧9人を住させる(東大寺の前身)。
- 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。「藤原4子政権」成立。「行基集団」に対する第4禁令。
《第Ⅲ期》 731-752 大仏開眼まで。
- 730年 平城京の東の「山原」で1万人を集め、妖言で惑わしている者がいると糾弾(第5禁令)。
- 731年 行基弟子のうち高齢者に出家を許す詔(第1緩和令)。
- 736年 審祥が帰国(来日?)し、華厳宗を伝える。
- 737年 疫病が大流行し、藤原房前・麻呂・武智麻呂・宇合の4兄弟が病死。「防人」を停止。
- 738年 橘諸兄を右大臣に任ず。諸國の「健児」徴集を停止。
- 739年 諸國の兵士徴集を停止。郷里制(727~)を廃止。
- 740年 聖武天皇、河内・知識寺で「廬舎那仏」像を拝し、大仏造立を決意。金鍾寺(のちの東大寺)の良弁が、審祥を招いて『華厳経』講説(~743)。藤原広嗣の乱。聖武天皇、伊賀・伊勢・美濃・近江・山城を巡行し、「恭仁宮」に入る。行基、恭仁京右京に「泉大橋」を架設。
- 741年 「恭仁京」に遷都。諸国に国分寺・国分尼寺を建立の詔。「恭仁京」の橋造営に労役した「行基集団」750人の出家を許す(第2緩和令)。
- 742年 行基、朝廷に「天平十三年記」を提出(行基集団の公認。官民提携の成立)。「紫香楽宮」の造営を開始。
- 743年 「墾田永年私財法」。紫香楽で「大仏造立の詔」を発し、廬舎那仏造立を開始。「恭仁京」の造営を停止。
- 744年 「難波宮」を皇都と定める勅。行基に食封 900戸を施与するも、行基は辞退。行基、摂津國に「大福院」ほか4院・付属施設3所を起工。
- 745年 「紫香楽宮」に遷都。行基を大僧正とす。「平城京」に都を戻す。平城京の「金鍾寺」(のち東大寺)で、大仏造立を開始。
- 749年 行基没。聖武天皇譲位、孝謙天皇即位。藤原仲麻呂を紫微中台(太政官と実質対等)長官に任ず。孝謙天皇、「智識寺」に行幸。
- 752年 東大寺で、大仏開眼供養。
《第Ⅳ期》 750-770 称徳(孝謙)天皇没まで。
- 754年 鑑真、来朝し、聖武太上天皇らに菩薩戒を授与。
- 756年 孝謙・聖武、「智識寺」に行幸。聖武太上天皇没。
- 757年 「養老律令」施行。藤原仲麻呂暗殺計画が発覚、橘奈良麻呂ら撲殺獄死(橘奈良麻呂の変)。
- 758年 孝謙天皇譲位、淳仁天皇即位。
- 764年 藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱。道鏡を大臣禅師とする。淳仁天皇を廃位し配流、孝謙太上天皇、称徳天皇として即位。
- 765年 寺院以外の新墾田を禁止。道鏡を太政大臣禅師とする。
- 766年 道鏡を法王とする。
- 769年 道鏡事件(天皇即位の可否で政争)。
- 770年 称徳天皇没。道鏡失脚、左遷。光仁天皇即位。
- 772年 墾田禁止を撤回。
- 773年 行基を顕彰し、菩提院ほかの荒廃6院に寺田を施入。
東 大 寺 西 塔 址 奈良市水門町
駐車場の奥に基壇が残っている。手前にも、不明の石仏が埋もれている。
【124】 古代農村社会の実体――
「流れる農民」vs「固める律令」
聖武天皇の「墾田永年私財法」発令は、聖武即位の前年に「長屋王政権」が出した「三世一身法」の改訂ないし延長の意味をもちます。そして、「三世一身法」には、平城京造成工事と律令管制の拡大整備に伴なう人民負担・加重のもとで、動揺する地方農民層を安定化させようとする思わく(結果として逆効果になった)がありました。
「長屋王政権」を打ち倒して、独自の独裁政治を志向する聖武といえども、こういう経済政策の面では、何も分からないシロウトにすぎません。政治・外交・官僚人事等のように、思いつきで政策を打ち出すわけにはいかないのです。とくに斬新な進言をする側近もいない以上、前政権の政策を引き継ぐほかはなく、その弊害を繰り返すか、むしろ増悪させる以外にできることはありません。
そういうわけで、今回から次回にかけて、723年「三世一身法」以来の動きを振り返って、奈良時代・土地制度史の流れを、ざっと見ておきたいと思います。
『和銅・養老期〔708~723年〕において、地方農民の動揺不安がいちじるしく高まった〔…〕それはもともと律令制において、農民に課せられた負担が過大であった上に、平城京の造成その他で、さらに負担が増したことによると考えられる。
律令制下の農民の収入と負担とについては、これまで多くの学者によって、いろいろの計算がなされてきた。〔…〕口分田の収入は家族の食糧を充たすに足りないという計算、〔…〕それほど不足はしないという計算などそれであるが、いずれにしても豊かであったとは考えられない。その上に、租・庸・調・雑徭を根幹とする負担は過大であった。そして、それがとくに正丁の上に強くのしかかった〔…〕
庸・調は正丁に対して課せられた〔が、庸布などは國・郡でまとめて生産する場合もあった。――ギトン註〕〔…〕雑徭をはじめとする労役は、〔…〕正丁がみずからの手足を下して遂行しなければならぬ義務であった。〔…〕調庸の運搬は、遠隔の地方であれば、数か月をむだにする労役であった。〔そのほかに、毎年60日労働の「雑徭」、「衛士・防人・健児」等の兵役、中央官庁での下働き「仕丁」などがあった。――ギトン註〕このように数えあげれば、戸内の正丁は何人あっても、おそらく〔つねに誰かが――ギトン註〕何らかの労役に出なければならず、口分田の耕作などの自家の生産活動に従事するひまは、ほとんどなかったと思われるのである。』
『坂本太郎著作集 第1巻 古代の日本』,1989,吉川弘文館,pp.157-158.
このような状況のもとでは‥‥:
『本籍を離れて他郷に逃げだし、浮浪人となる者も続出した。〔…〕神亀・天平〔724~748年〕の計帳でも、逃亡者の記載が多く、とくに正丁が多い。』
『坂本太郎著作集 第1巻 古代の日本』,1989,吉川弘文館,p.159.
もっとも、坂本氏の著作(原著 1960年)が現れた後の半世紀間に、おぼろげに分かってきたことは、古代の農民は実際にはひじょうに流動的・非定住的だったということです。そして、租税・力役の収取は、厳密に農民から1対1で取っていたわけではなく、有力者(首長層)を介して総量で取っていました。したがって、戸籍上の人数が実際にいなければ、いる人から必要な量を取るだけのことです。ただ、郡司・国司と中央の間では戸籍によって一切を決めていましたし、官僚は戸籍という律令の建前に固執しましたから、農民に対しては可能な限り建前どおりに、本籍地で租税と力役を納めることを強制しました。
『浮浪の続出は、一方では貴族・寺院の大土地所有を促進させる効果を招いた。〔…〕和銅2年〔709年〕の禁制に、畿内や近江の有力な百姓が浮浪や逃亡の仕丁を使役したとあるのは、主として自己の所有地の開墾・耕作に使役したものと考えられる。』
『坂本太郎著作集 第1巻 古代の日本』,1989,吉川弘文館,p.159.
このような・本籍地を離れて流浪する人びとは、力役に駆り出された役民や仕丁・兵士などの逃亡によっても生み出されました。庸・調の運脚夫に行き倒れや逃亡者が多かったことは、こちらで見ました。彼らもまた故郷に帰り着く者は稀で、多くは盗賊化するか、畿内の有力者・有力農民の庇護のもとに入って隷属したと思われます。
『労役にかり出された農民のなかには、現場から逃亡する者が続出した。〔…〕天平 6年〔734年〕の出雲國計会帳は、5年・6年にかけて中央から出雲に下した公文書を列挙しているが、その中で仕丁(じちょう)・雇民・衛士(えじ)の逃亡を報じたものが、かなりの部分を占めている。そして、逃亡しても、彼らは郷里にかえったのではない〔郷里に帰れば捕まるから帰れない。公文書は、出雲から来ている〇〇が逃亡したから郷里に戻ったら捕えよという連絡――ギトン註〕。和銅 2年〔709年〕の禁制によると、畿内や近江國の百姓が浮浪人や逃亡の仕丁をかくまって、私に使役し、かえさない、とあるから、逃げても〔…〕近くの有力な百姓に抑留せられて、その駆使に甘んじなければならなかったのである。
それどころか、無事に労役を勤めあげて帰る者にしても路粮をもらえないので、國に達する方法がなかった、という状態である〔…〕にもかかわらず、逃亡しなければならぬほど、役務は苦難に充ちていたものと思われる。』
『坂本太郎著作集 第1巻 古代の日本』,1989,吉川弘文館,p.158-159.
大 枝 関 址 京都市西京区大枝沓掛町
山陰道の起点「大枝駅」。行基集団はここに「大江布施屋」を設けて
行路の調庸運脚夫の援護・救済にあたった。
つまり、本籍地を離れて流浪する人びとを囲い込んで使役したのは、大寺院や貴族だけではなく、いわば中小企業……零細な有力農民に至るまでが流民を抱え込んで、事実上の奴婢:下男・下女として使役していたのです。逆に、流民のほうも、そうして受け入れてくれる有力者はどこにでもいるからこそ、それをあてにして本籍地を飛び出すことができるのです。つまり、社会全体に、そういう体制(生産関係)があったわけです。
現代の社会でサラリーマンが、離職してもまたどこかの会社に潜りこめると思うから、転職に踏み出すのと同じことでしょう。ただ、当時の生産関係は、現代のような「自由な雇用」とはかなり違うものです。かといって、唯物史観のドグマが教えるような「奴隷制」でもない。その実態を知るのは難しいのですが、これ!と言えるような・均一なものではありません。雇賃が支払われる場合もありますが、借金のカタに拘束する場合もあります。小作農のような農地の賃貸しもあります。ひじょうに多様な局面をもった社会実態だと考えておけばよいと思います。
(11) に出した奈良時代の集落復元図↓を、ここでもう一度見てほしいのですが、当時の集落――もっとも整然とした畿内の条里制地区――は、このように 8~10棟からなるユニットの複合体でした。各ユニットは、大きな家のまわりに、小さな家や、もっと小さい小屋のようなものが数軒集まってできています。ここから想像できるのは、主家のもとに傍系親族の家や、血縁外の従属的な家がかたまって暮らしていて、経済活動は、このユニットが一体となって行なうような社会編成です。
このような「むら」―「いえ」の編成では、外から流れてきた流民や流浪家族を受け入れて従属構成員として利用することは、わりあい容易だったのではないかと思われます。
奈良時代中期の集落 滋賀県守山市 服部遺跡 (同HP)
野洲川が琵琶湖にそそぐ河口部デルタ上に立地する服部遺跡
には、奈良時代中期~平安時代の合計約60棟の掘立柱建物が
検出されている。条里の方向に沿って整然と並び、壁のある
しっかりした構造で、大きな建物は庇(ひさし)付き。
【125】 「勧農」と開墾――律令国家のアキレス腱
『以上の農民の窮状に対し、政府のとった政策は、〔…〕原則的には逃亡・浮浪の者を〔本籍地に連れ戻し、あるいは逃亡先で――ギトン註〕土地に緊縛し、貢納を確保する大方針をもって臨んだ。そして霊亀元年〔715年〕5月に立てた浮浪対策はいわゆる土断法であって、浮浪人はその浮浪先で3ヶ月以上をたてば、その場で調庸をおさめさせるという方法であった。』
『坂本太郎著作集 第1巻 古代の日本』,1989,吉川弘文館,p.160.
つまり、律令国家としては、可能な限り律令のタテマエどおりを押し通そうとし、それで税貢・力役の収取に支障がある場合には「土断」(現地で処断する)のような方法もとった。ともかく、帳簿と書類による農民の管理を徹底すれば、取るべきものが取れるという考え方です。
しかし、それでは経済的にうまくいかないことは明らかです。農民は苦しければ耕地を捨てて流れてしまうし、耕作する人がいなければ田は荒れる。村の田が荒れて疲弊すれば、残った農民も苦しくなって、歯が抜けるように出て行ってしまう。この悪循環を断ち切るには、荒蕪地の開墾を組織するとか灌漑工事をするとか、支配者の側で「勧農」ということをしなければならないのですが、奈良時代の段階では、この点がたいへん不十分だったのです。
奈良時代に、どこでも行われていた「勧農」政策は、「公出挙(くすいこ)」でした。春に官倉から種もみを貸し出して、秋に利子分を乗せて回収する。冬の間を食いつなぐのさえ容易でなかった当時の零細農は、「公出挙」がなければ播種もできませんでしたから、その意味では必要な制度でした。が、多くの場合に「公出挙」は高利貸しに変質しています。ひどい場合には元本を渡さずに利子だけ取る。「勧農」どころか、農民の負担を増やして、いっそう困窮させることになります。
開墾に関しては、「三世一身法」以前の班田農民は、いったいどうやって開墾をしていたのか、首をかしげるほどです。
もともと、唐の律令では、「均田制」(日本の「班田収授」)のなかに開墾が組み込まれていました。実際の受田額を超えて余力があれば、空き地を開墾してよいことになっていました。しかし、日本の「班田制」では、定められた面積の既墾地を「口分田」として支給され、死没によって公に返すというだけです。「口分田」以外の開墾をしてよいのか悪いのか分かりません。これでは、じっさいの運用は、かなり杓子定規になりえます。
『日本の律令の班田制は、中国の均田制を手本としたものであるが、両者の間には構造的な違いがあった。唐の均田制における成年男子の「応受田額」(受田すべき田積)一百畝〔6~6.67ヘクタール――ギトン註〕は、井田法に淵源する理想額で、「已受田額」(実際に受田した田積)はその半分程度と推定されている。したがって開墾しても一般には応受田額を超えることはなく、開墾田は開墾主の已受田のなかにそのまま編入された(すべての土地は王土なので、自分で開墾した田も受田である)。唐の均田制は日本の墾田永年私財法に相当する内容を実質的にはふくんでいたのである。
日本の律令田制は、〔…〕熟田(既墾田)だけを収受する制度としてつくられた。口分田の男は2段〔約20アール。段=反――ギトン註〕、女はその3分の2という班給額も、〔…〕実際にその面積の熟田を班給しようとする制度であった。』
小口雅史・吉田孝「律令国家と荘園」, in:網野善彦・他編『講座 日本荘園史 2 荘園の成立と領有』,1991,吉川弘文館,pp.12-13.
機械化以前の農業で1家族に耕作可能な面積は、最大で1町(約1ヘクタール)と云われていますから、唐の場合の6ヘクタールといえば、よほどの広さです。しかも、それが「正丁」一人分です。これだけあれば、開墾するのに不自由はないでしょう。
これに対して、日本の律令の「口分田」20アールというのは、かなり狭い。古代農業が、面積当たり収量の少ない粗放耕作だったことを考えあわせると、たしかに、口分田だけでは食えないかもしれません。農業でまともにやっていこうとするなら、開墾は必須でしょう。
ところが、日本の班田農民が受ける口分田には、唐の「応受田額」のような “伸びしろ” はないのです。律令をいくら見ても、開墾をしてよいのかどうか分からないし、開墾した田が誰のものになるのかも分からない。開墾したとたんに役人に取られて、他人に班給されてしまうのでは、開墾をする意味がありません。
ですから、「三世一身法」ができるまでは、一般の農民は、没収が怖いので開墾を控えていた可能性があります。
原 池 大阪府堺市中区八田寺町
地元では「ばら池」と呼んでおり、行基集団造成の「茨城池」とする説がある。
行基建立の「家原寺」「華林寺」に近い灌漑用貯水池。
【126】 「三世一身法」と “喰い合う世界”
『〔723年4月〕17日 太政官が次のように奏上した。
このごろ人口がだんだん増え、田や池が不足しています。天下の人民に勧課して田地を開かせましょう。新たに溝・池を造って開墾を営む者があれば、多少にかかわらず給(あた)えて、三世に伝えさせ、旧(ふる)い溝・池を手入れして使う場合は、その一身かぎり給(あた)えましょう。
この奏を可とした。』
宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, p.249.〔一部改〕
「給」(与える)と言っているのは、律令政治のレトリックで、開墾したらその土地の占有を認めてやるということです。「勧課」するというのも、けっきょくは単に、やらせる、させてやるということです。
723年の「三世一身法」は、人口の増加によって・班給すべき「口分田」が足りなくなってきたので、朝廷は、開墾を奨励するために農民の所有慾に訴えたのだ、と通常は言われています。
しかし、よく考えてみると、この説明は腑に落ちません。①新規の溝・池を造って開墾すれば3代まで、②既存の溝・池を改修した場合は1代かぎり所有を許す――ということですから、開墾地はすぐには公のものにはなりません。「口分田」は増えないのです。「口分田」となるのは、早くて、開発主が死んだ時。遅ければ3代先です。まさに “国家百年の計” ですが、100年後に、どの田が誰の何代前に開墾されたとか、記録もないのに(口分田ではないので、田籍の帳外になるはず)分かるでしょうか?
したがって、「三世一身法」が「永年私財法」になってゆくのは、時間の問題だったともいえます。しかし、そうなるともう、「口分田」を増やして律令田制を立て直すのとは逆の方向を向いてゆくことになります。
したがって、「三世一身法」は、口分田を増やす政策といえるかどうか、はなはだ疑問ですが、開墾を奨励する――というより “合法化” する――政策としては、大いに有効であったと言えます。農民としては、これでようやく大手をふるって開墾ができることとなり、開墾した土地は、生きているあいだは没収されずに耕作することができるのです。
ただ、ここでも大きな問題があります。じっさいの農村の社会編成との関係です。↑上で集落想像図を見たように、じっさいに耕作も開墾も、行なうのは数家族がまとまったユニットが単位です。主家が、奴婢や従属的な家を率いて、農業経営も灌漑作業も行なうのです。開墾と言っても自分だけの労働ではない。どれだけおおぜいの流民を引き込んで、上手に使って、開墾を行なうかによって、農民の間に差が生じてきます。開墾が盛んになればなるほど、格差は拡大するでしょう。
もっと深刻なのは、大寺院、大神宮、貴族といった・いわば大企業も、ここに参入してくることです。開墾は、新規の池や灌漑施設を造成することのできる大寺社・貴族のほうが有利になります。制度上も「三世」の所有を保証されるのですから、既存の施設を利用するほかない・零細な班田農民は、とうてい太刀打ちできないでしょう。
『耕地増加の経済策としては有効であったといえよう。
けれど、〔…〕その結果は、このような開墾を行なうことのできる者はだいたい有力者であるから、有力者に水田が集まり、貧窮の者は相かわらず貧しい状態を脱しなかったという点で、社会政策としては全く失敗であったといえよう。』
『坂本太郎著作集 第1巻 古代の日本』,1989,吉川弘文館,pp.161-162.
行 基 坐 像 13世紀 大阪府立狭山池博物館
唐招提寺所蔵木像のレプリカ
【127】 借財の祟り――因果応報
「三世一身法」施行後の農村の “激動” 状況をうかがうことのできる説話が『日本霊異記』に収録されています。そこには行基も登場します。本日の最後に、この説話を見ておきたいと思います。
日本霊異記 中巻 第三十
「行基大徳、子を携ふる女人の過去の怨を視て、
淵に投げしめ、異(めづら)しき表(しるし)を示しし縁」
《あらすじ》
〔1〕行基大徳は難波の入江を掘り広げて船津を造り、人びとに仏法を説いて導いておられた。僧俗貴賎を問わず多くの人が集まって、説法に耳を傾けていた。
あるとき、聴衆のなかに河内國若江郡川俣郷の女人がいて、子連れで聞きに来ていた。ところが、その子は説法中に泣き叫んで、行基の声が聞こえないほどだった。その子は、十歳を過ぎているのに自分で歩けず、たえまなく泣きわめいては、母親の乳を吸い、ものを食べていた。行基は、
「や、その嬢人(をうな)、その子を連れ出して淵に捨てなさい」と言った。人びとはこれを聞いて、慈悲深い大徳様が、どうしてそんな無慈悲なことをおっしゃるのだろう、と怪しんで、ささやき合った。女人も、子がかわいくて、淵に投げ捨てることはできず、そのまま子を抱いて説法を聞いていた。
〔2〕女人は翌日もやって来て説法を聞いたが、やはりその子が喧(やかま)しく泣きわめくので、人びとには説法が聞こえなかった。行基は女人を責める声で、
「その子を淵に投げ捨てなさい」と言った。母は行基の言うことを怪訝に思ったが、じっと我慢していることもできず、子を外に連れ出して、淵に投げ込んでしまった。
すると子供は、しぶとく流れの上に浮き上がって手足をばたばたさせながら、眼を大きく見開いて悔(くや)しがり、
「残念だ。あと3年取り立てて食おうと思ったのに」と言って、溺れ死んだ。母は驚いたが、法会に戻ると、行基は、
「子供を投げ捨てたか?」と確かめたうえで、「おまえは前世に、あの男から借財をして元利返済しなかったので、債権者がおまえの子に生まれて(乳と食べ物の形で)債務を取り立てていたのだ。あの子はお前の昔の貸主だ」と説明した。
〔3〕このように、借財を返さないで死ぬと、かならず後世で報いを受ける。『出曜経』に、「他人に一銭の塩の借りを負って死ぬと、牛に生まれ変わって、もとの貸主の下で塩を背負ってこき使われ、労務で返すことになる」とあるとおりである。
行基と著者・景戒の説明を聞いても納得できないほど異様な話ですが、ここで述べられているのは、「因果応報」という原理の厳しさ、そして「借財・債務」の恐ろしさです。前者は仏教の問題ですが、後者は、この時代の社会的問題です。開墾が盛んになり、拡大生産の可能性が開けると、経営を拡張して豊かになる農民も出てくる反面、経営に失敗して没落する農民も増えます。貧民は富者から借財して返せなければ、↑〔3〕の牛のように、貸主に隷属して駆使されることとなります。富者は、おおぜいの隷従者と広い田地を集積してますます豊かになっていく。このような「農民層分解」の過程が、「三世一身法」と「墾田永年私財法」の実施によって、急速に進行したのです。
「借財」を返せずに苦しむ人びとが、奈良時代の農村にはいちじるしく増えて社会問題となったことが、こうした説話を生み出したと言えます。
行基が、「おまえの子は貸主の生まれ変わりだから、淵に沈めて殺してしまえ」と言っているのは、異様に残酷な教えのように思われます。しかし、この説話の意味は、そんな説法の言葉が吐かれるほど、この時代の農村の矛盾――格差と競争――は深刻だったということでしょう。
すでに (23)【72】で述べたように、たがいに自己主張してまとまらない農民たちの結節点となって、「互恵平等」の理念を説いて和合させ、灌漑・開墾の事業を組織した点に、後期「行基集団」の宗教的社会活動の意味がありました。しかし、そうした活動は、決して「きれいごと」を説くだけで遂行できたわけではない、ということが、この説話から判ります。
行基は時には、激しく争う債権者と債務者の間で、あの者はお前に害をするから(不正をするから、ではなく !!)亡き者とせよ、とまでアドバイスすることがあったのかもしれません。
手塚治虫『ブッダ』より。
他方、この説話は、宗教的な教義の点でも注目に価します。債権者、債務者ともに、「輪廻」の原理に従って生まれ変わるなかで、「因果応報」の原理が貫徹していきます。
「親の因果が子に報い‥」ではないのです。仏教の本来の「因果応報」は、前世→現世→来世という「輪廻」に沿って成立する現象です。そこでは、親子の縁も家系もまったく無関係です。本来の仏教は、先祖崇拝とは何の関係もありません。先祖崇拝というのは、中国で、仏教のなかにスベリ込まされたインチキ教義であって、そうやって不純物が混じった汚染済み仏教が、朝鮮・日本に伝えられたのです。「親の因果が子に報い‥」は大ウソです。
しかし、この説話では、仏教本来の「輪廻」の教義にしたがって「因果応報」が語られています。それは、行基の教えがそうだったからだと推定できます。むしろ行基の言動は、「親子の縁」「親子の愛」を否定するようにさえ見えます。
こう言うと怒る人がいるのかもしれませんが、‥しかし、よく考えてみてください。仏教の本来の教えというのは、そういうものだったかもしれないのです。そもそもの仏教の起こりは、シャカ族の王子であったシッダルタが、妻子を捨てて求道の旅に出た決断、すなわち、執着を断ち切るという「出世間」の行為にあったことを、私たちは思い出してよいはずです。
いま述べた後半の「宗教的側面」については、後日、行基の思想・信仰について論ずるさいに、再び取り上げたいと思います。
よかったらギトンのブログへ⇒:
ギトンのあ~いえばこーゆー記
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!