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久 米 田 池     大阪府岸和田市池尻町

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

《第Ⅰ期》 660-710 平城京遷都まで。

  • 667年 天智天皇、近江大津宮に遷都。
  • 668年 行基、誕生。
  • 682年 行基、「大官大寺」で? 得度。
  • 690年 「浄御原令」官制施行。
  • 691年 行基、「高宮山寺・徳光禅師」から具足戒を受ける。
  • 694年 飛鳥浄御原宮(飛鳥京)から藤原京に遷都。
  • 701年 「大宝律令」完成、施行。首皇子(おくび・の・おうじ)(聖武天皇)、誕生。
  • 702年 遣唐使を再開、出航。
  • 704年 行基、この年まで「山林に棲息」して修業。この年、帰郷して生家に「家原寺」を開基。
  • 705年 行基、和泉國大鳥郡に「大修恵院」を起工。
  • 707年 藤原不比等に世襲封戸 2000戸を下付(藤原氏の抬頭)。文武天皇没。元明天皇即位。行基、母とともに「生馬仙房」に移る(~712)。
  • 708年 和同開珎の発行。平城京、造営開始。行基、若草山に「天地院」を建立か。
  • 710年 平城京に遷都。

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。

  • 714年 首皇子を皇太子に立てる。
  • 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
  • 716年 行基、大和國平群郡に「恩光寺」を起工。
  • 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧。第1禁令)。藤原房前を参議に任ず。郷里制を施行(里を設け、戸を細分化)。
  • 718年 「養老律令」の編纂開始? 行基、大和國添下郡に「隆福院」を起工。「僧綱」に対する太政官告示(第2禁令)。
  • 720年 藤原不比等死去。行基、河内國河内郡に「石凝院」を起工。
  • 721年 長屋王を右大臣に任ず(長屋王政権~729)。元明太上天皇没。行基、平城京で 2名、大安寺で 100名を得度。
  • 722年 行基、平城京右京三条に「菅原寺」を起工。「百万町歩開墾計画」発布。「僧尼令」違犯禁圧の太政官奏を允許(第3禁令)。阿倍広庭、知河内和泉事に就任。
  • 723年 「三世一身の法」。藤原房前興福寺に施薬院・悲田院を設置。
  • 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位長屋王を左大臣に任ず。行基、和泉國大鳥郡に「清浄土院」「十三層塔」「清浄土尼院」を建立。
  • 725年 行基、淀川に「久修園院」「山崎橋」を起工(→731)。
  • 726年 行基、和泉國大鳥郡に「檜尾池」を建立、「檜尾池」を築造。
  • 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。行基、和泉國大鳥郡に「大野寺」「尼院」「土塔」および2池を起工。
  • 728年 聖武天皇、皇太子を弔う為『金光明最勝王経』を書写させ諸国に頒下、若草山麓の「山坊」に僧9人を住させる。
  • 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原武智麻呂を大納言に任ず。藤原光明子を皇后に立てる。「僧尼令」違犯禁圧の詔(第4禁令)。

《第Ⅲ期》 731-749 孝謙天皇に譲位するまで。

  • 730年 光明皇后、皇后宮職に「施薬院」「悲田院?」を設置。平城京の東の「山原」で1万人を集め、妖言で惑わしている者がいると糾弾(第5禁令)。行基、摂津國に「船息院」ほか6院・付属施設(橋・港)7件を起工。
  • 731年 行基、河内・摂津・山城・大和國に「狭山池院」ほか4院・付属施設8件(貯水池・水路)を起工。山城國に「山崎院」ほか2院を建立。藤原宇合・麻呂を参議に任ず(藤原4子政権~737)。行基弟子のうち高齢者に出家を許す詔(第1緩和令)。
  • 733年 行基、河内國に「枚方院」ほか1院を起工ないし建立。
  • 734年 行基、和泉・山城・摂津國に「久米多院」ほか4院・付属施設5件(貯水池・水路)を起工ないし建立。
  • 736年 審祥が帰国(来日?)し、華厳宗を伝える。
  • 737年 聖武天皇、初めて生母・藤原宮子と対面。疫病が大流行し、藤原房前・麻呂・武智麻呂・宇合の4兄弟が病死。行基、和泉・大和國に「鶴田池院」ほか2院・1池を起工。
  • 738年 橘諸兄を右大臣に任ず。
  • 739年 諸國の兵士徴集を停止。郷里制(727~)を廃止。
  • 740年 聖武天皇、河内・知識寺で「廬舎那仏(るしゃなぶつ)」像を拝し、大仏造立を決意。金鐘寺(のちの東大寺)の良弁が、審祥を招いて『華厳経』講説。藤原広嗣の乱聖武天皇、伊賀・伊勢・美濃・近江・山城を巡行し、「恭仁(くに)」を造営開始。行基、山城國に「泉橋院」ほか3院・1布施屋を建立。
  • 741年 諸国に国分寺・国分尼寺を建立の詔。「恭仁京」に遷都の勅。「恭仁京」の橋造営に労役した 750人の出家を許す(第2緩和令)。
  • 742年 「紫香楽(しがらき)」の造営を開始。
  • 743年 墾田永年私財法」。紫香楽で「廬舎那仏」(大仏)造立を開始。「恭仁京」の造営を停止。
  • 744年 「難波宮」を皇都と定める勅。行基、摂津國に「大福院」ほか4院・付属施設3所を起工。
  • 745年 「紫香楽」に遷都か。行基を大僧正とす。「平城京」に都を戻す。
  • 746年 平城京の「金鍾寺」(のち東大寺)で、大仏造立を開始。
  • 749年 行基没。聖武天皇譲位、孝謙天皇即位。藤原仲麻呂を紫微中台(太政官と実質対等)の長官に任ず。

 

 

久 米 田 寺          岸和田市池尻町

行基 734年起工。「だんじり」の「行基参り」で有名なこの寺は、

「四十九院」の繁栄が現代もつづく数少ない例。↑1706年再建の大門

 

 

 

【72】 狭山池の改修と「互恵」システム

 

 

 大阪狭山市にある「狭山池」は、以前、こちらで詳しく述べたように、7世紀初め、聖徳太子の時代に創建されたものです。したがって、行基が行なったのは、その改修工事――具体的には、堰堤の嵩上げと配水調整池の掘削――でした。

 

 『行基年譜』によると、731年2月に「狭山池院」と「尼院」を起工しています。年代は明記されていませんが「狭山池」も挙げられています。2院とほぼ同時に修築工事が始まったのでしょう。


 そこでまず、2院の場所ですが、学説では、↓「蓮光寺」と「狭山神社」が候補に挙がっています。しかし、私はどちらも違うと思います。

 

 

 

狭 山 池 院       『行基菩薩行状絵伝』 家原寺蔵、鎌倉時代 14世紀

 

 

 ↑この『絵伝』に描かれた「狭山池院」は、他の寺院と違って、土壁の剥離や縁側の穴が描きこまれています。つまり、14世紀には荒れた状態になっていた「狭山池院」を、絵師はじっさいに眼にして描いたことがわかります。そして、院は池岸に面して描かれているのです。この位置関係は正確なものだと考えてよい。

 

 だとすると、「蓮光寺」も「狭山神社」も、池から離れすぎています。

 

 そこで、第3の候補となるのが、「狭山池」堰堤のすぐ脇にある「池尻城跡」↑です。『絵伝』が描かれた少し後のようですが、山城が築かれて楠木軍と北朝軍が戦っています。調査の結果、13-15世紀の建物遺構が確認されましたが、8世紀の須恵器・土師器も出土しています(大阪狭山市教育委員会・編『行基伝承』,2017,p.29)。「狭山池院」が荒廃したあと、そこに「池尻城」が築かれたと思われるのです。

 

 「狭山池」堰堤のすぐ近くで、吉田靖雄氏の言う「工事現場事務所」として適切な位置です。

 

 

 

 

 大阪狭山市が行なった「狭山池」堰堤の解体発掘調査↑では、「行基集団」の行なった嵩上げは、高さ 60cm,幅 12.6m,長さ約 300mに及んでいたことが判明しています。

 

 

『土の量にすれば約 2000立法メートルの土を積み上げたことになる。断面の痕跡は小さなものだが、人力のみの作業とすれば相当の大工事であった。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.124. 

 

 

 しかも、飛鳥時代の創築工事と同じく、手間のかかる「敷葉工法」で行なっています。「狭山池」堰堤が近代に至るまでダムとして立派に機能してきたのは、代々の修築・嵩上げ工事が、手を抜かずに丹念に行なわれてきたことによるのです。

 

 ところで、↑「行基改修」の上、3層目の嵩上げは、「天平宝字の改修」(762年)で、この年 4月、「狭山池の堤が決壊したので、のべ 8万3000人を動員して修造した。」と『続日本紀』に書かれています。発掘による断面観察では、高さ 4.1メートル、幅 54メートルの嵩上げが確認されました。堤防を高くしただけでなく、幅を倍近くに拡張しています↑。

 

 

『天平宝字 4年の工事は雑徭を徴発して行なわれた公的工事であったが、これに先立つ行基の工事は私財や私の労力を費やした工事であった。その資材と労力を提供したのは行基集団に属する人々であり、池水を受ける地域の人々であった

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,pp.120-121. 

 

 

 上の断面図を見れば、行基集団といえども、量的な規模では、一般人民の力役を徴発する官製の工事にははるかに及ばないのかな、と思ってしまいます。しかし、官製の工事は、堰堤が決壊するというような災害が起きるまでは腰を上げないのですから、やはり地元民としては、行基集団のほうが当てになるのでしょう。

 

 ところで、「行基改修」の翌 732年 12月に、「狭山下池を築いた」という記事が『続日本紀』に出ています。狭山池の堰堤の下に、池から流下した水を貯留・配水するための小池を造ったということでしょう。この工事は、前年の「行基集団」の嵩上げ工事に刺激された官司が行なったのか、それともこれも、実質は「行基集団」が組織した工事なのかはわかりませんが、いずれにせよ「行基集団」の影響下に行われた工事でしょう。

 

 

『この下池は、大阪狭山市にある太満池〔↑地図参照――ギトン註〕か、堺市野田にあった轟池かとされる。〔…〕近世近代の狭山池の水は、直接田地を灌漑するのではなく、調整池である下池へ流れこみ、そこからさらにより下流の下池へ配水され広範囲への灌漑が可能になった。近代には狭山池から直接に池水を受ける調整池は 133か所あったという。〔…〕

 

 行基集団の私的工事がさらに公権力による灌漑工事を誘発したことは事実である。狭山池と同下池の工事は、河内西南部の住民の生業の安定と増産という利益をもたらした。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.125. 

 

 

1767年ころの「水掛かり」を示した絵図。この時代には、右端の狭山池から3つの

取水堰を通して、3系統の用水が、末端にある多数の下池に流れこみ、

黄色で表示された村々の水田を潤した。

 

 

 以前にこちら〔馬子と聖徳(17)【47】〕で、飛鳥時代に築かれた「菅原池」と「広大寺池」を対比して述べたように、古代に成立した灌漑体系は、その後、中世社会に推移する過程で、2つのタイプ・発展方向に分かれるように思われます。溜池の創設に関わった村落・地縁集団が、独占的利用を享受するようになる場合(広大寺池・稗田村タイプ)が、一方にあります。しかし他方では逆に、特定の集団の独占を排して、灌漑域・諸村の互恵的共存をはかるようになる場合(菅原池タイプ)があることを指摘しました。それで言うと、「狭山池」は明らかに互恵本意の「菅原池タイプ」です。

 

 ここで興味深いのは、「菅原池(蛙股池)」の維持・利用を指導したと思われる菅原氏は、土師氏から分岐した一族であり、その権威の象徴は天満宮・菅原道真公ですが、他方で行基由来の「喜光寺」を根拠寺院としていることです。

 

 ここで誤解を解いておきたいのですが、どちらのタイプになるかは、溜池の貯水可能量のような自然的水文条件だけで決まるわけではないのです。水が少ないから独占したくなる、水が豊富だから気前良く分ける、ということでは必ずしもないのです。もちろんそれも重要な要素ですが、むしろ、多くの下流村落に水を分けなければならない、という認識から、雨水も無駄にせずにしっかりと溜め、堰堤を嵩上げして貯水量を増やす努力をする。そういう「互恵」という理念に基づく結果が「菅原池タイプ」である、とも言えるのです。

 

 「菅原池(蛙股池)」は水が豊富なわけではなく、そこに流れ込む河川は存在しない。いったん池の水を全部流し出してしまうと、また溜めるには3年かかる、ということを指摘したと思います。

 

 「狭山池」の灌漑配水体系は、中世・近世を通じて互恵本意の「菅原池タイプ」として発展した。その発展の起点には、「行基集団」の関与があり、発展の指導理念として行基流の「互恵平等」思想があった。そう言ってよいのではないかと思います。

 

【追記】 「宗教的確信は社会発展の転轍手である」(「人間の行為を直接に支配するものは、利害関心[Interessen]であって、理念[Idee]ではない。しかし、“理念” によってつくりだされた “世界像” は、きわめてしばしば転轍手として軌道を決定し、そしてその軌道の上を利害の[Interessen]ダイナミクスが人間の行為を推し進めてきたのである」:M.Weber『世界宗教の経済倫理・序論』)というウェーバー《宗教社会学》の基本テーゼは、こんなところにも顔を出しています。“唯一” の “発展史観” なるものを掲げて現実を裁断しようとする教条追随者は、愚かで盲目です。しかし、歴史に何らの軌道の発見も志向の分析も求めることなく放棄した者は、歴史を学ぶ目的を喪失した「精神無き機械」にすぎません。

 

 

 

鶴 田 池     堺市西区草部

 

 

 

【73】 鶴田池、鶴田池院の場合

 

 

 ここで、前節に述べたことの反例にふれておきたいと思います。

 

 堺市西区草部の「鶴田池」は、信太山の北麓の谷を高さ約 10メートル、長さ約 300メートルの堰堤で堰き止めた溜池で、「鶴田池院」は 737年に起工されていますから、「鶴田池」の造成も同じころでしょう。

 

 現在では、↑上の写真のように、ゴルフ練習場のネットで厳重に囲い込まれてしまって、池畔に近づくこともできません。ここが行基の鶴田池、との石碑の一つも建てるよう、市が指導したらよいと思うのですが。。。 大阪狭山市のような “池でもっている市” と違って、堺市のような広域市では、そこまで手が回らないのかもしれません。

 

 奈良時代の池創設時の灌漑域は、池尻の「日部(くさべ)郷」、すなわち現在の大字「草部」などわずかな範囲だったと思われます。「草部」地区には現在も延喜式内社「日部神社」があります。また、池と院の起工に先立つ 730年には、「行基集団」と思われる「日下部首麻呂」以下 709人の「知識」が『瑜伽師地論』の写経を行なっており、これが建造事業の出発点になったと思われます。「鶴田池院」は、「日下部」氏の本拠「日部」集落に建てられたのでしょう。

 

 近世になると、「鶴田池」の上流に「元禄池」など3池が造成され、4池が通水して、貯水量も灌漑域も拡大したのですが、水の分配に関しては、池に近い「草部村」など――つまり古くからの受益村――に絶大な権限がありました。

 

 

〔ギトン註――江戸時代には〕鶴田池によって灌漑を受ける地区は、草部村・上村・長承寺村・北王子村・原田村・富木村・野代村等7か村の地区で、水利に関する賦課金は古来 72軒に分かったのであるが、最も上流にある草部村は賦課率が低く、下手にある部落ほど賦課率が高い。野代村のごときは最も下手にあるため、水がこないこともあって、予備のために新池・谷池・宮池等の補助池を持っていたにもかかわらず、その賦課率は草部村の倍額に相当していた』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,pp.143-144. 

 

 

鶴 田 池        堺市西区草部

国道で分断された南側部分。こちらは、ゴルフ場ネットで封鎖

されていないが、これを眺めても「鶴田池」の広さは分からない。

 


 このようなヒエラルヒー的しきたりが支配するようになったのは、元来の「行基集団」の原則、すなわち「鶴田池院」の権威が、早い時期にすたれてしまったためなのかもしれません。

 

 14世紀・南北朝時代に大鳥荘所属の地頭が書いた陳情書によると、当時、鶴田池の用水管理権は、古来から「池司」職のものであり、「池司」職には「料田」が与えられていた。この「池司」職は、「大番舎人」〔摂関家に従属する名主で、荘園内で特権を認められていた〕が握っていたというのです。したがって、平安時代にこの地域が荘園化するとともに、鶴田池院」は、用水管理の権限を喪失していったことが考えられます。

 

 

鶴田池院、早い時期に衰微して用水管理権を失ったのであろう。』

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,p.228.  

 

 

 その後、江戸時代の 1727年に「草部村」と他5村が――おそらく水の配分または賦課金の分担率をめぐって――紛争したさいに、「行興寺」の「双方え御教訓」によって和睦しています。この「行興寺」は、「日部神社」の神宮寺として現在もありますが、吉田靖雄氏によれば、「この寺は鶴田池院に関係する寺であったかもしれない。」(『行基と律令国家』,p.272,註(149).)

 

 しかし、「鶴田池院」の後身の寺が紛争の仲裁に入り、双方を説得して和解させたとしても、それによって「草部村」と下流の村々のあいだにあるヒエラルヒー的格差を解消させる説得が行なわれたとは考えられません。「古来からの」特権と格差を前提とする説得でなければ、当事者を納得させることはできなかったはずです。

 

 近世に、「鶴田池院」の後身の寺が紛争解決の役割をもっていたとしても、それはもはや「行基集団」の「公平互恵」の理念とは全く縁のないものになってしまっていたのです。

 

 

行 興 寺           堺市西区草部

 

 

 

【74】 久米田池と久米田院

 

 

『久米田池〔↑トップ写真参照――ギトン註〕は、岸和田市池尻町と岡山町にまたがってある。周囲約 4キロ、面積 46.8ヘクタール、灌漑面積 3.6平方キロで、その周辺の溜池のなかでは群を抜いて大きい。』

千田稔『天平の僧 行基』,1994,中公新書,pp.141-142.  

 

 

 「久米多院(澄池院)」は 734年に起工されています。久米田池の堰堤の上に起工されたという伝承もあって、もしそうだとすると、久米田池の建造が先に行われたか、あるいは「狭山池」と同様に、「行基集団」が行なったのは、以前からあった池の改修だったことになります。ともかく、池尻に接する位置関係は現在の「久米田寺」と同じで、「久米多院(久米田寺)」は、当初から池堤・池水の管理にあたっていたことを意味します。

 

 『行基年譜』には、「久米多院」と同じ泉南郡の付属施設として、「久米多池」「物部田池」「久米田池溝」「物部田池溝」を記しており、「池溝」は、「広五尺〔1.8m〕」という幅、「長二千丈〔7.0km〕」「長六十丈〔2.1km〕」という長大さから、池水を田に配分する用水路網と考えられます。

 

 「久米田寺」は、13-14世紀においても池堤の修営に関与していたことが、史料上も立証されます。「勧進(かんじん)」を行なって「一紙半銭」を募って池堤の修繕料を集めたり、池堤の修繕を行なうよう朝廷に陳情したりしています。「鶴田池」の場合とは異なって、行基由来の「」が、長く中世末まで池の管理を管掌していたのです。

 

 

久 米 田 寺  金 堂        1770年再建。

 

久 米 田 寺   開 山 堂(行基堂。1822年再建) と 久米田池修築記念碑。

秋祭りに、この開山堂前の広場で行なわれる「だんじりの行基参り」には

13台の「だんじり」が参加。「池郷12村」との関係は?

 

 

 そのような寺のかかわりは、近世にも大きな影響を及ぼしています。

 

 

『中世〔16世紀――ギトン註〕に、池水を受ける村々が久米田池郷と称する組織を作ったようで、〔…〕1710年の「久米田池絵図」に池郷十二村立会の記述があり、池の管理運営にあたっていた。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.140. 

 

『1792年には、池郷12村が組織されて、管理運営に従って〔従事して――ギトン註〕いたことが認められる。』

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,p.222.  

 

『近世には久米田池の「古法古格」なる定めがあって、池のある洪積台地から西方の沖積低地にかけての 12郷が灌漑される、いわゆる水がかりであった』

千田稔『天平の僧 行基』,1994,中公新書,p.142.  

 

 

 この「古法」とは、池の修理費用は、「池郷12村」のうち 11村が負担し、「多治米村」は「湯茶接待の女衆」を出すだけでよく、費用は免除されるという習慣でした。これは、古くはもっぱら「多治米」の住民が修造の労力を負担していた功績に報いるためとされます。

 

 このような「池郷12村」の結合は、近代になっても生きており、驚いたことに、昭和27-28年の「久米田池」改修工事は、この「池郷12村」(当時は岸和田市の12町)の慣行にもとづいて、12町が組合をつくって遂行したそうです。

 

 そして、‥‥現在は、どうなのでしょう? もしかして、あの「だんじり」の「行基参り」(⇒動画)は、「池郷12村」の名残り? ――地元の方に聞いてみたくなりました。

 

【追記】 動画↑について。正面の緑色の屋根は「大師堂」で、「開山堂」は画面左方。奥は狭いので、「だんじり」はそこまで行かないのでしょう。しかし、「開山堂」前の位置で、屋根の人も飛び跳ねるし、歓声はたけなわ。開山・行基へのお礼参りを目的とする祭礼だということはよくわかります。

 

 

野々宮神社          堺市中区深井清水町

 

 

 

【74】 深井尼院と薦江池:郷土 “愛” のふしぎな論理

 

 

 734年起工「深井尼院」は、泉北高速鉄道「深井」駅スグにある「野々宮神社」が、その場所です。場所しか残っていないのは、ここはもともと「深井尼院」の後身「香林寺」だったのですが、16世紀初めの兵火で焼かれた野々宮神社が避難してきて間借りした。その後、明治の「廃仏毀釈」で「香林寺」は廃絶し、いまはお寺の建物一つ残っていません。庇を貸したら母屋を取られちゃったんですな。

 

 「深井尼院」の付属施設「薦江池」は、場所もわかりません。駅前の「水賀池」が「薦江池」だったら、ちょうどいいんだけど。。。 えっ、そういう説があるんですか? なさそーですよぉお‥ そもそも、「水賀池」が、そんな昔からあったという証拠がない。ところが、ところが、池畔には↓こういう碑が立ってます。

 

 

 

 

『水賀池の築造時期は明らかではないが、堺市史によると家原寺に生まれた僧行基の数多い土木事業の一つとして和泉国深井郷薦江池が掲げられている。

 

 このことから、七世紀後半から八世紀頃にかけ、その築造体験に基づいて、現在の規模の用水池が完成したものと考えられる。』

 

 

 ウ~~ン、これは判じ物ですねえ。「その築造体験に基いて」誰が、この池を掘ったの? 行基が、としか読めないんですがねえ。いやいや、行基が造ったなんて言ってませんよ。池がひとりでに完成しちゃったんです。しかも「現在の規模」で!!!!……そういうこと????

 

 

水 賀 池        堺市中区深井水池町

 

 

 

 

 

 

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