東大寺 大仏殿 現存の大仏殿は 1709年の再建。
創建時建物と比べ、高さ、奥行きはほぼ同じだが、幅は約 2/3。
以下、年代は西暦、月は旧暦表示。
《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。
- 710年 平城京に遷都。
- 714年 首皇子(のち聖武)を皇太子に立てる。
- 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
- 716年 行基、大和國平群郡に「恩光寺」を起工。
- 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧。第1禁令)。藤原房前を参議に任ず。郷里制を施行(里を設け、戸を細分化)。
- 718年 「養老律令」の編纂開始? 行基、大和國添下郡に「隆福院」を起工。「僧綱」に対する太政官告示(第2禁令)。
- 720年 藤原不比等死去。行基、河内國河内郡に「石凝院」を起工。
- 721年 長屋王を右大臣に任ず(長屋王政権~729)。元明太上天皇没。行基、平城京で 2名、大安寺で 100名を得度。
- 722年 行基、平城京右京三条に「菅原寺」を起工。「百万町歩開墾計画」発布。「僧尼令」違犯禁圧の太政官奏を允許(第3禁令)。阿倍広庭、知河内和泉事に就任。
- 723年 「三世一身の法」。藤原房前、興福寺に施薬院・悲田院を設置。
- 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位。長屋王を左大臣に任ず。行基、和泉國大鳥郡に「清浄土院」「十三層塔」「清浄土尼院」を建立。
- 725年 行基、淀川に「久修園院」「山崎橋」を起工(→731)。
- 726年 行基、和泉國大鳥郡に「檜尾池院」を建立、「檜尾池」を築造。
- 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。行基、和泉國大鳥郡に「大野寺」「尼院」「土塔」および2池を起工。
- 728年 聖武天皇、皇太子を弔う為『金光明最勝王経』を書写させ諸国に頒下、若草山麓の「山坊」に僧9人を住させる。
- 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原武智麻呂を大納言に任ず。藤原光明子を皇后に立てる。「僧尼令」違犯禁圧の詔(第4禁令)。
《第Ⅲ期》 731-752 大仏開眼まで。
- 730年 光明皇后、皇后宮職に「施薬院」「悲田院?」を設置。平城京の東の「山原」で1万人を集め、妖言で惑わしている者がいると糾弾(第5禁令)。行基、摂津國に「船息院」ほか6院・付属施設(橋・港)7件を起工。
- 731年 行基、河内・摂津・山城・大和國に「狭山池院」ほか4院・付属施設8件(貯水池・水路)を起工。山城國に「山崎院」ほか2院を建立。藤原宇合・麻呂を参議に任ず(藤原4子政権~737)。行基弟子のうち高齢者に出家を許す詔(第1緩和令)。
- 733年 行基、河内國に「枚方院」ほか1院を起工ないし建立。
- 734年 行基、和泉・山城・摂津國に「久米多院」ほか4院・付属施設5件(貯水池・水路)を起工ないし建立。
- 736年 審祥が帰国(来日?)し、華厳宗を伝える。
- 737年 聖武天皇、初めて生母・藤原宮子と対面。疫病が大流行し、藤原房前・麻呂・武智麻呂・宇合の4兄弟が病死。「防人」を停止。行基、和泉・大和國に「鶴田池院」ほか2院・1池を起工。
- 738年 橘諸兄を右大臣に任ず。諸國の「健児(こんでい)」徴集を停止。
- 739年 諸國の兵士徴集を停止。郷里制(727~)を廃止。
- 740年 聖武天皇、河内・知識寺で「廬舎那仏」像を拝し、大仏造立を決意。金鍾寺(のちの東大寺)の良弁が、審祥を招いて『華厳経』講説(~743)。藤原広嗣の乱。聖武天皇、伊賀・伊勢・美濃・近江・山城を巡行し、「恭仁(くに)宮」に入る。行基、山城國に「泉橋院」ほか3院・1布施屋を建立、「泉大橋」を架設。
- 741年 「恭仁京」に遷都。諸国に国分寺・国分尼寺を建立の詔。「恭仁京」の橋造営に労役した 750人の出家を許す(第2緩和令)。
- 742年 行基、朝廷に「天平十三年記」を提出(行基集団の公認。官民提携の成立)。「紫香楽(しがらき)宮」の造営を開始。
- 743年 「墾田永年私財法」。紫香楽で「大仏造立の詔」を発し、廬舎那仏造立を開始。「恭仁京」の造営を停止。
- 744年 「難波宮」を皇都と定める勅。行基に食封 900戸を施与するも、行基は辞退。行基、摂津國に「大福院」ほか4院・付属施設3所を起工。
- 745年 「紫香楽宮」に遷都。行基を大僧正とす。「平城京」に都を戻す。平城京の「金鍾寺」(のち東大寺)で、大仏造立を開始。
- 749年 行基没。聖武天皇譲位、孝謙天皇即位。藤原仲麻呂を紫微中台(太政官と実質対等)の長官に任ず。孝謙天皇、「智識寺」に行幸。
- 752年 東大寺で、大仏開眼供養。
東大寺 南大門 1199年再建。 「大華厳寺」とある扁額は、古記録に基く再現
【116】 「大仏造顕の詔」――
「動植ことごとく栄えんことを欲す」
このへんで、聖武天皇の「大仏造顕の詔」(743年10月15日)をとりあげて分析しておきましょう。
『〔…〕誠に三宝〔=仏・法・僧〕之威霊に頼(よ)りて、乾坤〔=天地〕相泰(ゆた)かにし、万代之福業を脩(おさ)めて、動植咸(ことごと)く栄えしめむと欲す。
粤(ここ)に天平十五年〔…〕十月十五日を以て菩薩の大願を発し、廬舎那仏・金銅像一躯を造り奉る。国の銅を尽して象(かたち)を鎔(い)、大山を削りて堂を構へ、広く法界に及して朕が智識とす。遂に同じく利益(りやく)を蒙りて、共に菩提を致さしめむ。
夫(そ)れ、天下の富を有(たも)つ者(ひと)は朕なり。天下の勢を有つ者は朕なり。此の富と勢とを以て此の尊き像を造らむ。事や成り易く、心や至り難し。但(ただ)恐るらくは、徒(ただ)に人を労(つから)す有りて、能(よ)く聖を感る無く、或は誹謗を生(おこ)して却(かへっ)て罪辜に堕(おと)さむことを。是(こ)の故に、智識に預かる者は懇ろに至誠を発し、各〻介(おほい)なる福を招き、宜(よろし)く日毎(ひごと)三たび廬舎那仏を拝むべし。自(みづか)ら当(まさ)に念を存して各〻廬舎那仏を造るべし。如(も)し更に、一枝の草・一把の土を持(もち)て造像を助けんと情願する人有れば、恣に之を聴(ゆる)せ。國・郡等の司、此の事に因りて百姓を侵擾し強(しひ)て収斂せしむること莫(なか)れ。遐邇(かじ)〔=遠近〕に布れ告げて朕が意を知らしめよ。』
青木和夫・他校註『続日本紀 二』,新日本古典文学大系 13,1990,岩波書店,pp.430-433.[一部改]
「詔」の主要な部分は↑上記のとおりです。まず「動植咸く栄えしめんと欲す」ですが、動物も植物もみな栄えよということで、ここには「一切衆生悉有仏性」「草木国土悉皆成仏」の思想(如来蔵思想)が現れています。これらは『涅槃経』の章句らしい(私はまだ直接見ていません)のですが、『華厳経』でも根本思想のひとつです。
ちなみに、いまネットで諸種の解説を見ると、空海が最初にこの思想を日本にもたらしたなどと書いてあります。その他さまざまな細かいことが書いてあって頭痛の種になります。しかし、空海の「真言宗」に限らず、「天台宗」「禅宗」「浄土宗」など、日本のほとんどすべての仏教宗派は、「如来蔵」思想の広くかつ深い影響を受けています。現に、空海より1世紀前の聖武天皇の「詔」に、これが書かれているのです。
聖武天皇のこの「詔」に現れているのは、真言密教や天台教学のような厳密な教義ではなく、もっとおおざっぱな・いわば汎神論的な万物皆仏的な思想だと見ることもできるでしょう。そういう意味では、もともと中国の道教思想――『荘子』「斉物論」――のなかに、そうした「万物は一体である」という考え方があるわけで、『荘子』思想を下地にして、その上に『華厳経』を乗っけてインド仏教を理解しようとしたのが「華厳宗」にほかならない。鎌田茂雄氏は述べておられます:
『『華厳経』の性起(しょうき)という考え方、あらゆるものが仏性(ぶっしょう)に光り照らし出されていく。〔…〕これが全宇宙を覆っているのだという考えが、〔『華厳経』の一章である〕「性起品」にあるわけである。仏性が現存在として起こっているという考え方で、山も川も仏性の現起になる。この考え方は、中国人に古来からある〔ギトン註――人間は〕自然と一体であるという考え方と一つに密着した。〔…〕
そうなってくると、山川草木も仏になってくる。山は仏の相(すがた)だという考え方が生まれ、川の音は仏の説法だと、こういうことが北宋の文人・蘇東坡によって歌われている。山も川も仏なのだ、そして人間も仏なのだ。全部仏になってしまう、そういう考え方が生まれてきたわけである。人間の苦悩をあまり認めない、一種の楽天的な世界観になっていく。〔…〕
この性起の考え方というのが『華厳経』のいちばんの中核にある。人間は本来仏性を持っており、人間の存在というものは、仏性が現実在として起こっているものなのだ。こういう世界観が導いていく帰結として当然、悪はすがたを消す。これが「性起品」の世界なのである。』
鎌田茂雄『華厳の思想』,1988,講談社学術文庫, pp.76-77.
もっとも、中国の仏教諸派の「如来蔵」思想には、いわば汎神性の濃淡があって、遣唐使や入唐留学僧がもたらした玄奘の「法相(ほっそう)宗」などは、「如来蔵」を否定するに近い。玄奘は、人間のなかにも、本性によって成仏不能な者がいると言うのです。そういう差別を主張します。それが社会観に反映すると、貴族―良民―奴婢(ぬひ) というヒエラルヒーを正統化して、厳格に守らせようとします。律令国家には、この思想が適合的だったわけです。奈良時代には、入唐留学僧を通じて玄奘の影響が強かったですから、官寺・大寺の高僧は、成仏の素質がある/ないということについて、多かれ少なかれ差別的な考えをもっていたと思われます。
元興寺 東塔址 飛鳥寺は平城京に移転して元興寺と改称。
唐・玄奘のもとで学んだ道昭が「法相宗」を伝え、元興寺は
法相宗の中心寺院となった。
ところが、聖武天皇は、そこから逸脱しているようなのです。成仏に関しては、‥解脱・成仏という仏の法の前では、人間はすべて無差別である。人間どころか動物も植物も成仏する。じつは、植物まで含める点で「華厳宗」をも超えているのですが、ともかくも、こういう聖武天皇の思想は、おそらく行基とは、共鳴しあう接点になったと思われます。
たとえば、当時の寺院には「寺奴」といって下働きをする奴婢が必ずいるわけですが、行基以外の寺院は彼らが僧侶になることは絶対に認めない。奴婢には仏性(ぶっしょう)がない、成仏する素質がないのだから、奴婢の「得度」はナンセンスだというわけです。ところが「行基集団」は寺奴もどんどん得度させています。その証拠を(9)【29】で見たのを覚えているでしょうか?
じつは『続日本紀』を見ると、この「紫香楽宮」造営の時期には、一部の奴婢や賎民を解放する(良民=班田農民とする)詔勅が、何度か出されています。これが聖武天皇の政策だとすれば――おそらくそうでしょう――「行基集団」の志向と一致することになります。もっとはっきりと、‥この「紫香楽宮」造営が、奴婢の解放をうながす事業であったことを示す事実もあります。しかし、それは後ほど、東大寺――東大寺は逆に、奴婢を奴隷身分に留めおくために精力を費やしています――との関係で見ることとしましょう。
林邑(チャンパ) ベトナム中部クァンナム省ホイアン市近郊の農村
(Ziegler175 - Wikimedia)
【117】 「大仏造顕の詔」――
「天下の富を有つ者は朕なり」
『粤(ここ)に〔…〕菩薩の大願を発し、廬舎那仏・金銅像一躯を造り奉る。国の銅を尽して象(かたち)を鎔(い)、大山を削りて堂を構へ、広く法界に及して朕が智識とす。遂に同じく利益(りやく)を蒙りて、共に菩提を致さしめむ。』
青木和夫・他校註『続日本紀 二』,新日本古典文学大系 13,1990,岩波書店,pp.430-431.[一部改]
「大山を削りて堂を構へ」――このコトバは誇張ではなかったことが、「甲賀寺」の地形調査によって判明しました。山を削平して寺地を造る。その工事の大半は、この「詔」の時点ですでに完工していました。
「法界」とは、仏法の及ぶ世界ということです。日本に限らない。少なくとも当時の中国からインドまでは含んでいるわけですが、‥古代世界の全域から、大仏造立の協力者(智識)を募りたい――聖武天皇は本気でそう思っていたでしょう。
すでに 736年には、聖武の意を受けた入唐僧らの招聘に応じて、中国の道璿、インドの菩提僊那、林邑〔ベトナム中部〕の仏哲らが遣唐使船で来日しています。この人たちは唐において、必ずしも高位の僧、ないし教界の権威ではありませんでした。のちに来日した鑑真とは、その点が異なります。
彼らを難波津で迎えたのは行基でした。なぜ行基なのか? 当時すでに「第1緩和令」が出ていたとはいえ、行基はなお日本仏教界の異端児です。他の高僧も、大寺の僧も迎えに来なかったのは、なぜなのか? ‥日本仏教界の閉鎖的・権威依存的性格は、当時から顕著だったということなのでしょう。
逆にいえば、行基と「行基集団」の、教界の権威にとらわれない・経典本位の姿勢を、ここに見ることができます。
「大仏造顕の詔」以後では、鑑真が多数の弟子を引き連れて来日したのが、行基没後の 753年です。
大安寺 東塔址 行基に迎えられた菩提僊那らは、平城京・大安寺に住した。
『夫(そ)れ、天下(あめのした)の富を有(たも)つ者(ひと)は朕なり。天下の勢を有つ者は朕なり。此の富と勢とを以て此の尊き像を造らむ。事や成り易く、心や至り難し。但(ただ)恐るらくは、徒(ただ)に人を労(つから)す有りて、能(よ)く聖を感る無く、或は誹謗を生(おこ)して却(かへっ)て罪辜に堕(おと)さむことを。』
青木和夫・他校註『続日本紀 二』,新日本古典文学大系 13,1990,岩波書店,pp.430-433.[一部改]
「天下の勢を有つ者は朕なり」――「勢」とは、人を従わせる力のことで、現代語の「権威」「権力」を併せた意味です。天下のすべての富は朕のものであり、すべての権力は朕にある。この絶大な自信は、聖武ならではかもしれません。他の天皇の「詔」には、ここまで明からさまに言ったものはなさそうです。
‥‥朕は、この世の富も権力も独り占めにしているのだから、国じゅうの銅を集めて廬舎那大仏を造るくらいは、わけのないことだ。しかし、事を成すのは容易だが、「こころ」が至るようにするのは難しい。権力を行使して事業を進めれば、人民を疲れさせるばかりで、人びとは聖なる造仏に参加したという感慨を持たない。そればかりか、こき使われた怨みを抱く者も出てきて、そうなったら朕としては、彼らを誹謗の罪で処刑せざるをえない。これでは「大仏造顕」の本意に反する。
じっさい、聖武天皇のこの危惧は的中しています。
橘諸兄の息子・奈良麻呂は、聖武が娘の孝謙天皇に譲位した後の 757年、謀反の疑いで捕えられていますが、「長屋王の変」とは異なって、謀議のうえ蜂起を準備していたのは事実であったようです。その奈良麻呂は訊問に対して、反乱を謀議したのは「藤原仲麻呂の政治に無道が多い」からだと答え、「政治の無道」とは、「東大寺の造営で、人民はつらい苦しみを受けたので、朝廷に仕える氏人たちはとても憂慮していた」と述べています。また、謀議に加わった疑いをかけられた佐伯全成は、「去る天平17年(745年)に〔天平16年の記憶違い――ギトン註〕聖武天皇が難波京に移った際、奈良麻呂が謀議を持ちかけてきて、〔近頃、都が転々とするために住所が定まらず、人民は憂い苦しんでいるのに、天皇は皇嗣〔あとつぎ。阿倍皇太子がいたが、奈良麻呂らは女性の皇太子を認めないのであろう――ギトン註〕さえ定めていない〕と述べて、大伴・佐伯の一族を糾合して黄文王〔亡・長屋王の子――ギトン註〕を新天皇に立てる反乱に誘われたが断わった」と述べています。(『続日本紀』天平宝字元年7月4日条)
やはり、遷都が繰り返されたことは、官人たちの動揺を引き起こさずにはいなかったのです。そして、大仏造顕の場所が東大寺に移ってからは、大仏と東大寺の造営に対しても批判が多かったということが分かります。
『是(こ)の故に、智識に預かる者は懇ろに至誠を発し、各〻介(おほい)なる福を招き、宜(よろし)く日毎(ひごと)三たび廬舎那仏を拝むべし。自(みづか)ら当(まさ)に念を存して各〻廬舎那仏を造るべし。如(も)し更に、一枝の草・一把の土を持(もち)て造像を助けんと情願する人有れば、恣に之を聴(ゆる)せ。國・郡等の司、此の事に因りて百姓を侵擾し強(しひ)て収斂せしむること莫(なか)れ。遐邇(かじ)〔=遠近〕に布れ告げて朕が意を知らしめよ。』
青木和夫・他校註『続日本紀 二』,新日本古典文学大系 13,1990,岩波書店,pp.432-433.[一部改]
この部分は重要なので、栄原永遠男氏の現代語訳を見ておきましょう:
『この智識に参加する人は、心からの誠意をこめて廬舎那大仏を造り、毎日三度ずつ拝め。たとえひと枝の草、ひと握りの土のようなごくわずかな協力でも、造像を助けたいと願えば受け入れる。国内の人びと全部が智識として参加することを期待する。』
栄原永遠男『聖武天皇と紫香楽宮』,2014,敬文舎,p.248.
興福寺 東金堂 726年、聖武天皇が元正太上天皇の病気平癒を願って創建。
現在の建物は、1415年の再建。
【118】 聖武の遠大な目標――“国民” の創出
すでに (24)【77】で述べたように、解釈上問題となるのは、
『智識に預かる者は〔…〕、各〻介(おほい)なる福を招き、宜く日毎(ひごと)三たび廬舎那仏を拝むべし。自(みづか)ら当に念を存して各〻廬舎那仏を造るべし。』
の部分です。「智識」〔「智識」とは何か?⇒(24)【78】〕に参加する人は、たんに天皇のために貢いだ・捧げたというのではなく、それぞれが御リヤクを、功徳(くどく)を得るのでなければならない。そのために、それぞれが毎日3回、廬舎那仏を拝め。みずから念を込めて廬舎那仏を造れ。――
聖武が考えているのは、かつての古墳造営のような無私奉公を求める事業にはしたくないということです。それぞれが自分の――ないし自分の一族の――私利を追求することが動機でなければならない、というのです。この点でも、聖武の思想は「行基集団」の求める理想に対応しています。「行基集団」が勧めた「智識」とは、農業灌漑・交通路整備などによって、参加者みずからが直接利益を受ける事業でした。行基のみならず、聖武もまた、数世紀早く生まれ過ぎた人であったかもしれません。
しかし、重要なのはそれにつづく2文です。そのままの意味にとれば、参加者それぞれが小さな廬舎那仏像を自宅に置いて拝め、とも読めます。おそらく、聖武の真意はそうだったのではないかと私は考えます。
ここを、多くの現代語訳者は、「それぞれが大仏造営に従うようにせよ」などとゴマカして訳していますが、↑上で見たように、栄原永遠男氏は原文どおりに訳しています。
この「詔」の時点では、「甲賀寺」にはまだ廬舎那大仏は立っていません。これから「体骨柱」を立てて、それから造り始めようというのです。「毎日3回廬舎那仏を拝め」というのは、工事現場へ行って骨組みを拝めということではないでしょう。遠方で寄付だけした人は、毎日3回紫香楽に行くことなどできません。
廬舎那仏の絵でもよいから自宅に貼りつけて拝め。あるいは、眼に見える画像などなくてもよい。心の中に、念をこめて廬舎那仏を「造れ」。「華厳宗」の教義によれば、廬舎那仏とは、この大宇宙の全体であり、大宇宙を構成するすべての微粒子であり、おのおのの微粒子が宇宙全体を包含している。そういうものなのですから、眼に見える仏像はあくまで仏の似姿であって、仏そのものではないのです。
のちの時代になると、仏教界にも物質主義(偶像崇拝)が浸透して、眼に見える物体を仏の本体(本仏)と穿き違える見解が出てきました。日蓮という特定の人間が「本仏」である、大石寺にある「板まんだら」が「本仏」である、‥等々、聖武天皇が聞けばそのナンセンスぶりに驚愕することでしょう。
ともかく、聖武の抱いた「仏」の概念は、「華厳宗」に基づく汎神論――汎仏論というべきか――的なものであり、眼に見える世界を超えたものであったのです。
しかし、それならば、「国の銅を尽し、大山を削り」、多大の犠牲を払ってまで大仏像を建造する必要があるでしょうか? ……ここに大きな矛盾があります。
そして、聖武天皇の事業がはらんでいたこの矛盾に、これまた独自的な仏教者である行基が、気づかないでいたとは考えられない。ここに重要な問題があります。行基も「行基集団」も、天皇のすること何でも結構…で付き従っていたわけではないと私は考えます。
弥勒寺官衙遺跡群 弥勒寺東遺跡(美濃國武義郡庁址) 岐阜県関市池尻
平城宮の大極殿・朝堂院をミニチュアにしたような郡庁・官庭。
正面が正殿址、左右:脇殿址。奥には、大量の租穀を貯蔵する「正倉」が並ぶ。
奈良時代中期には「関の東」でも、國府なみの実力をもつ郡が現れていた。
弥勒寺官衙遺跡群 弥勒寺東遺跡(美濃國武義郡庁址) 岐阜県関市池尻
山王山・頂上から俯瞰する。
ところで、この「大仏造顕」事業を通じて聖武が意図していた目標は、仏教的な「ごリヤク」の散布→衆生救済だけではなかったと思います。聖武は、単なる仏教者ではなく、あくまでも帝王です。もっぱら仏法のための事業に見える「大仏造顕」のさきに、聖武天皇は明確な国政上の目標を描いていたと思うのです。それは、――あえて近代的な用語で言えば――「国民的一体性の創出」ということだと思います。
「紫香楽」という・国土の中央にあたる位置に都を置く。そこに、国家の目標となる――ニューヨーク港の入口に「自由の女神」があるのと同じ――大仏像を立てる。大仏像の建立のために、国じゅうの人びとが「自分の事業」として参加する。それによって人々の心に刻まれる、自分もこの国の一員だという意識。……それこそが聖武の目標であったのです。そして、人びとのそのような “国民” 意識は、律令支配をいかに厳格に貫徹しようとも得られるものではない――聖武は、そう確信していたのであり、それは日本古代の帝王・官人の誰ひとりとして到達しなかった認識であったのです。
聖武は、数世紀早く生まれ過ぎた人だった、行基と同様に。‥‥これは修辞でも誇張でもないのです。
福岡市と糸島市の境にある 高祖山(たかすやま) 糸島市三雲から望む。
手前山裾に、吉備真備が築造した怡土城の址がある。
その反面で、帝王としての聖武の最も優れた面は、外征を試みなかったことです。
推古朝以来、歴代の王朝は外征と称して北九州に軍を集め、けっきょく出航には至らない、ということを繰り返してきました。斉明~天智天皇代には、じっさいに遠征軍を送って惨敗しています(白村江の戦 661-663)。聖武より後を見ても、淳仁天皇は新羅征討のため造船を開始し(759年)、道鏡時代の 768年にかけて防備のため怡土城(現・福岡県糸島市)を建設しています。
ところが、聖武天皇の時代には、新羅との外交上の軋轢は多かったのですが、武力行使の準備や防備を行なったことは一度もないのです。
倭国・日本の王権が、しばしば朝鮮半島の政局に介入して外征を行なおうとしたのは、王権の政策が渡来人の影響を強く受けていたためだと私は思っています。渡来人は本国の味方だ、あるいは “手先” だと思う人がいるなら、それは大きな間違えです。渡来人というものは、むしろ本国での政争を引きずって来ているのです。従って、当代の本国の政権とは対立する場合が多いと考えなくてはなりません。
聖武天皇はといえば、彼特有の「帝王至上主義」の半面として、そのように渡来人の意向に左右されて外征・防衛を行なうことに対して、批判をもっていたと思います。だから聖武は、外征の準備も防備も命じたことがないのです。そして、渡来人の影響の強い畿内・西国よりも、より純倭人的な東国に支持基盤を広げようとしていたのです。「紫香楽」は、古来の渡来氏族も、神々の伝承――倭国の神々の多くは、もとを辿れば大陸とのつながりに行き着いてしまいます――も全く無い土地である点が特徴的です。
現在の日本史学者の多くは、7-8世紀に倭国・日本が見舞われた外寇の危機に対処するために、強固な軍国体制を構築したのが日本古代の律令制国家であったと考える傾向にあります。しかし、聖武天皇は、これに対する大きな反例を提供しています。ほんとうに近隣諸国から侵略を受ける危機などが、当時あったのだろうか? もし当時の他の天皇や貴族がそう思っていたとしたら、それは幻想にすぎないし、むしろ渡来人の意向に影響されてそう思いこんでしまったのではないか? 以前から、私はその点が疑問でならないのです。
日本史学者の “眼の曇り” は、現在の国際情勢に対する彼らの誤った認識の反映ではないか? ‥そのようにさえ思われるのです。
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ギトンのあ~いえばこーゆー記
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ギトンの秘密部屋!