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難波宮 朝堂院 西廻廊址     大阪市中央区法円坂1丁目

孝徳・天武天皇が造営した難波宮と、聖武天皇が造営した難波宮

 同じ中軸線のうえに重なって配置されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。

  • 710年 平城京に遷都。
  • 714年 首皇子(のち聖武)を皇太子に立てる。
  • 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
  • 716年 行基、大和國平群郡に「恩光寺」を起工。
  • 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧。第1禁令)。藤原房前を参議に任ず。郷里制を施行(里を設け、戸を細分化)。
  • 718年 「養老律令」の編纂開始? 行基、大和國添下郡に「隆福院」を起工。「僧綱」に対する太政官告示(第2禁令)。
  • 720年 藤原不比等死去。行基、河内國河内郡に「石凝院」を起工。
  • 721年 長屋王を右大臣に任ず(長屋王政権~729)。元明太上天皇没。行基、平城京で 2名、大安寺で 100名を得度。
  • 722年 行基、平城京右京三条に「菅原寺」を起工。「百万町歩開墾計画」発布。「僧尼令」違犯禁圧の太政官奏を允許(第3禁令)。阿倍広庭、知河内和泉事に就任。
  • 723年 「三世一身の法」。藤原房前興福寺に施薬院・悲田院を設置。
  • 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位長屋王を左大臣に任ず。行基、和泉國大鳥郡に「清浄土院」「十三層塔」「清浄土尼院」を建立。
  • 725年 行基、淀川に「久修園院」「山崎橋」を起工(→731)。
  • 726年 行基、和泉國大鳥郡に「檜尾池」を建立、「檜尾池」を築造。
  • 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。行基、和泉國大鳥郡に「大野寺」「尼院」「土塔」および2池を起工。
  • 728年 聖武天皇、皇太子を弔う為『金光明最勝王経』を書写させ諸国に頒下、若草山麓の「山坊」に僧9人を住させる。
  • 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原武智麻呂を大納言に任ず。藤原光明子を皇后に立てる。「僧尼令」違犯禁圧の詔(第4禁令)。

《第Ⅲ期》 731-752 大仏開眼まで。

  • 730年 光明皇后、皇后宮職に「施薬院」「悲田院?」を設置。平城京の東の「山原」で1万人を集め、妖言で惑わしている者がいると糾弾(第5禁令)。行基、摂津國に「船息院」ほか6院・付属施設(橋・港)7件を起工。
  • 731年 行基、河内・摂津・山城・大和國に「狭山池院」ほか4院・付属施設8件(貯水池・水路)を起工。山城國に「山崎院」ほか2院を建立。藤原宇合・麻呂を参議に任ず(藤原4子政権~737)。行基弟子のうち高齢者に出家を許す詔(第1緩和令)。
  • 733年 行基、河内國に「枚方院」ほか1院を起工ないし建立。
  • 734年 行基、和泉・山城・摂津國に「久米多院」ほか4院・付属施設5件(貯水池・水路)を起工ないし建立。
  • 736年 審祥が帰国(来日?)し、華厳宗を伝える。
  • 737年 聖武天皇、初めて生母・藤原宮子と対面。疫病が大流行し、藤原房前・麻呂・武智麻呂・宇合の4兄弟が病死。「防人」を停止。行基、和泉・大和國に「鶴田池院」ほか2院・1池を起工。
  • 738年 橘諸兄を右大臣に任ず。諸國の「健児(こんでい)」徴集を停止。
  • 739年 諸國の兵士徴集を停止。郷里制(727~)を廃止。
  • 740年 聖武天皇、河内・知識寺で「廬舎那仏」像を拝し、大仏造立を決意。金鍾寺(のちの東大寺)の良弁が、審祥を招いて『華厳経』講説(~743)。藤原広嗣の乱聖武天皇、伊賀・伊勢・美濃・近江・山城を巡行し、「恭仁(くに)」に入る。行基、山城國に「泉橋院」ほか3院・1布施屋を建立、「泉大橋」を架設。
  • 741年 「恭仁」に遷都。諸国に国分寺・国分尼寺を建立の詔。「恭仁京」の橋造営に労役した 750人の出家を許す(第2緩和令)。
  • 742年 行基、朝廷に「天平十三年記」を提出(行基集団の公認。官民提携の成立)。「紫香楽(しがらき)」の造営を開始。
  • 743年 墾田永年私財法」。紫香楽で「大仏造立の詔」を発し、廬舎那仏造立を開始。「恭仁京」の造営を停止。
  • 744年 「難波宮」を皇都と定める勅。行基に食封 900戸を施与するも、行基は辞退。行基、摂津國に「大福院」ほか4院・付属施設3所を起工。
  • 745年 「紫香楽」に遷都。行基を大僧正とす。「平城京」に都を戻す。平城京の「金鍾寺」(のち東大寺)で、大仏造立を開始。
  • 749年 行基没。聖武天皇譲位、孝謙天皇即位。藤原仲麻呂を紫微中台(太政官と実質対等)の長官に任ず。孝謙天皇、「智識寺」に行幸。
  • 752年 東大寺で、大仏開眼供養。

 

 

後期難波宮 大極殿址     大阪市中央区法円坂1丁目

 



【115】 「難波遷都」論の登場――実力抵抗に出た良識派

 

 

 もともと、「難波宮」は、孝徳・天武天皇の時代に造営された都で、天武天皇はここに、飛鳥に次ぐ「副都」の位置づけを与えていました。しかし、その「前期・難波宮」は 686年の火災で全焼し、永らく廃墟状態になっていました。その「難波宮」の再建を思いついて実行したのは、聖武天皇自身だったのです。

 

 元正太上天皇らが「難波京」遷都を急に言いだした意図の中には、「難波」ならば聖武自身の功績にほかならないのだから、それを褒めたたえても角は立たないだろう。むしろ聖武は、昔の仕事を思い出して「難波遷都」に乗ってくるかもしれない。そういう狙いがあってもおかしくありません。



『聖武天皇は、即位して間もない〔…〕725年10月、難波宮に御幸した。翌年の10月、〔…〕藤原宇合を知造難波宮事に任命し、難波宮・京の造営に着手した。』

小笠原好彦『聖武天皇が造った都』,2012,吉川弘文館,p.8.  

 


 この時、即位まもない聖武は、「難波京」に 1年と1ヶ月間滞在しています。この治世初期の難波宮」造営事業については、まえに「行基集団」の関係で触れたことがあります。覚えておられるでしょうか? 知造難波宮事に任命された藤原宇合は、難波津の港湾整備工事にも尽力し、そのさいに、同じ場所で寺院・橋等の造営事業を行なっていた「行基集団」とのあいだで交流が生じた。そのことが、「藤原4子政権」による「行基集団」合法化をうながすひとつの要因となったのでした。(⇒:(21)【69】,(19)【62】)

 

 藤原宇合は、遣唐使の一員として、「長安・洛陽」の「複都制」をしいているの実情を見てきているので、その経験に期待しての任命であったでしょう。

 

 

『難波宮・京の造営は、〔…〕732年3月には〔…〕ほぼ一段落したものと思われる。〔…〕726年9月13日、官人らに難波京での宅地が班給された。〔…〕

 

 聖武天皇が難波宮・京を再興する事業に着手したのは、〔…〕天武天皇の事業を引き継ぐことで、〔ギトン註――皇位継承の〕正統性を誇示しようとした可能性は否定できないだろう。〔…〕

 

 平城京へ遷都して 15年が経過し、聖武天皇は、唐の複都制を採用し、中央集権的国家としてより発展をはかることを構想した。諸物資の流通と交通の発展をはかる手立てとして、天武天皇が挫折した複都制を再び採用することにしたものであろう。〔…〕難波津の機能を重視することによって、政治、経済、交通の一層の発展を計画したものとみてよい。』

小笠原好彦『聖武天皇が造った都』,2012,吉川弘文館,p.9-11.  

 

 

 たしかに、↑この「パンデミック以前」の段階では、平城京を主都とし、難波京を副都とする構想もありえました。それだけの財政的余裕があったからです。しかし、今や、「紫香楽」の造営に本腰を入れるために「恭仁京」の造営を中止しなければならない状況のもとでは、2つの都を持つ、あるいは3つの都を持つ、などという余裕はありません。聖武が、“世論調査” の問いとして、「難波遷都か恭仁京か」の二者択一を迫ったことにもそれは現れています。元正太上天皇らが、「紫香楽宮」に対抗して「難波遷都」を持ち出したのも、「都はひとつ」との前提があってのことです。

 

 とはいえ、西国に向いた港湾都市として発展する豊かな可能性をもち、「諸物資の流通と交通の発展をはかる手立て」となりうる「難波」の特性は、「難波遷都」を主張する元正太上天皇らにとって、大きな論拠となったにちがいありません。国家発展の筋道をふまえた「良識派」の論拠として、説得力あるものだったと言えます。

 

 

後期難波宮    発掘/検出された遺構の配置

 

後期難波宮 朝堂院址     大阪市中央区法円坂1丁目

 

 

 さて、元正・橘諸兄らの「難波遷都」の動きは、744年正月15日、「難波宮」行幸のための装束次第司の任命となって噴出します。もちろん任命は聖武天皇の決済を経ているはずですが、いきなり 20年近く前の自分の功績事業を持ち出されて、さすがの独尊帝王も、とっさに反対することはできなかったでしょう。

 

 そこで、聖武天皇方は、閏正月1日、体勢を立て直して「世論調査」による巻き返しに出ます。

 

 「聖武天皇方」と言いましたが、主な要人は、聖武天皇の他には女性皇太子の阿倍内親王と藤原仲麻呂です。阿倍内親王は、忠実いちずな聖武の娘というほかありません。のちには、父から独裁的帝王の資質と思想をうけついで孝謙天皇として即位し、みずから譲位した淳仁天皇を追放・廃位し、血筋のない道鏡に皇位を継がせようとするなど、父にも劣らない独自性を発揮します。

 

 藤原仲麻呂のほうは、あえて「良識派」を敵に回して「聖武方」に付いたのは、政治的野心あってのことだと思います。これを足掛かりに勢力を伸ばし、「平城京」還都後には橘諸兄一派を追い落として政権を掌握します。

 

 

後期難波宮 模型   大阪歴史博物館    (Wikiwikiyarou - Wikimedia)

 



【116】 世論調査で巻き返し

 

 

 「世論調査」の結果は、つぎのとおりでした。

 

‥‥‥..恭仁京難波京平城京

五位以上...24...23

六位以下..157...130

....皆....1...1 

 

 まず、閏正月1日に「朝堂」に百官(官人すべて)を集めて、「難波京遷都」か「恭仁京維持」かを問います。

 


『恭仁・難波の二京、何(いづれ)をか定めて都とせむ。各(おのおの)其の志を言(まう)せ。』

青木和夫・他校註『続日本紀 二』,新日本古典文学大系 13,1990,岩波書店,p.434-435. 

 

 

 その結果は、「五位以上」の高官ではほぼ同数。「六位以下」の下級官吏では「恭仁京」がやや多い。

 

 

『さらに同月 4日には、恭仁京の市で市人に「京を定むる事」を聞いた。みな恭仁京を都とすることを望んだが、難波京と平城京を願う者がひとりずついたという。

栄原永遠男『聖武天皇と紫香楽宮』,2014,敬文舎,p.253. 

 

 

 市場での結果は、ごく自然でしょう。「難波遷都」などという話は誰も聞いていないのですから、今いる都がいいと言うに決まっています。

 

 朝堂での結果は、すでに「難波遷都」派が官人の間に相当に浸透していることを示しています。「難波京」などという話は、これまで出ていなかったのですから、「難波遷都」派の多数派工作がなければ「難波」を選ぶはずはないのです。

 

 聖武天皇の失敗は、「多数決」の習慣がない人たちに対して、世論調査で対抗しようとしたことでした。このシリーズで以前に扱いましたが、日本で「多数決」が理解されるのは、中世の「一揆」以後なのです。数を比べれば「恭仁京」のほうが少し多い――などということは、律令官人には何の影響も及ぼしません。むしろ、「難波遷都」派の人たちは上の結果を見て、「これだけ賛成があれば強行できる」と思って、勢いづいたことでしょう。

 

 こうして、「世論調査」結果は、「難波遷都」派、「恭仁京」維持派、それぞれが自分の都合の良いように解釈するだけです。「難波遷都」に打撃を与えようとした聖武天皇の意図は外れました。

 

 結果を受けて、まず、閏正月9日に、「京職」に命じて、「諸寺と百姓をして皆舎宅を作らしむ」――「恭仁京」での住宅建築を奨励させます。そうしておいて 2日後の 11日には、こんどは難波宮に向けて、天皇が皇族・官人を引き連れて出発するという正反対の行動を始めます。けっきょくのところ、難波遷都」派が押し切って、難波京への移動を開始したのです。天皇としても、“みこし” になって担がれる立場では、まわりが動き出したらもう止めようがないのでしょう。

 

 ところが、この時に、突発的な不幸が襲います。‥不幸には違いないのですが、聖武にとっては思わぬ幸運ともなる不幸だった、と言ったらよいのでしょうか。結果として、聖武は「難波」から抜け出す口実を得るのです。

 

 

安積親王墓 (正面・丘上の木立ち)        京都府和束町白栖

恭仁京紫香楽宮を結ぶ「東北道」の傍らにある。




【117】 不幸か幸いか、一人息子の急死

 

 

 「恭仁京」から「難波京」へ移動する途中で、聖武元正らとともに向かっていた安積(あさか)親王の容態が急変して「恭仁京」へ引き返し、2日後に死亡しました。安積親王は聖武に生まれた唯一の男子で、まだ 17歳の若さでした。安積親王は脚気を患っていたのです。

 

 安積親王の墓は、「恭仁京」から「紫香楽宮」へ向かう大路の途中にあります。これを見ても、安積の急死が聖武に与えた悲痛の大きさが知れます。聖武天皇は、みずからが新都にしようと熱意を注いでいた「紫香楽」のほうへ、少しでも引き寄せて息子を葬ったのです。

 

 聖武は、安積の異母姉である阿倍内親王を皇太子にしていました。女性の皇太子は例のないことですが、聖武はそれだけ後継ぎの確保に真剣だったといえます。阿倍のあとから男子である安積親王が成長してくると、阿倍を次代天皇として盛り立てようとする貴族たちは脅威に感じたかもしれません。


 そこで、安積親王の急死については、昔から暗殺説が唱えられてきました。とくに犯人として名指されたのは藤原仲麻呂です。たしかに仲麻呂阿倍内親王に近い聖武の側近でした。しかし、だからといって「安積暗殺」とは、‥私はそれはありえないと思います。

 

 

『脚気が重症になり循環器系を侵すようになると、脚気衝心といって、一瞬にして生命を落とすことがあるという。安積親王の場合は、それだったのではないだろうか。〔…〕

 

 もし彼の死に少しでも不審な点があり、それに暗殺の疑いがあったならば、聖武は容疑者〔…〕を絶対に許しはしなかったに違いない。長屋王とその一族に向けた聖武の報復の凄まじさを思うべきであろう。

遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇』,1999,角川選書,pp.165-166.  

 


 したがって、藤原仲麻呂がいかに野心満々であったとしても、安積王を暗殺するリスクはあまりに大きく、メリットは小さかったと言わなければなりません。その計算ができない仲麻呂ではなかったはずです。

 

 ともかく、息子の死は聖武に衝撃を与え、「難波遷都」にも優先して安積の葬儀に向かわせることになったようです。「難波宮」で「遷都宣言」が行なわれる 2日前に、聖武は難波を抜け出して「恭仁京」へ向かい、――おそらく葬儀と埋葬を終えたあと――そのまま「紫香楽宮」に入って、「新都」と「甲賀寺」・廬舎那大仏の建造指揮に専心するのです。

 

 結果的には、安積親王はみずからの生命を犠牲にして、父の大仏造顕事業の貫徹に貢献したことになります。

 

 

安積親王墓         京都府和束町白栖

見る角度によって、前方後円墳の形に見えるのも、謎だ。


 

  • 744年
  • 閏1月11日 「難波宮」行幸のため「恭仁京」を出発。
  • 閏1月13日 安積親王が急死。
  • 2月1-2日 「恭仁宮」から「難波宮」に駅鈴・天皇印・太政官印を移動。「恭仁宮」にいる諸司と諸國の朝集使を「難波宮」に召喚。
  • 2月20日 「恭仁宮」から高御座(たかみくら)と大楯を「難波宮」に運ぶ。同じく兵庫の武器を水路で運ぶ。
  • 2月21日 「恭仁京」の人民のうち希望者は「難波京」に移住を許す。
  • 2月26日 「難波宮」を皇都と定める勅。「恭仁京」とのあいだで京戸〔都に居住地を支給される官人等〕の自由往来を容認。
  • 3月11日 「難波宮」の中外門に大楯と槍(ほこ)〔皇都のシンボル〕を立つ。

 

 

 こうして、元正太上天皇と橘諸兄は難波京」に留まって難波遷都の体制を正式に固めます↑。しかし、聖武天皇は、これに対抗して「紫香楽宮」に居つづけて建設を進めるとともに、「難波」に向って説得を続けます。そして結局、その年・744年の 11月には元正を「紫香楽」に迎え、「紫香楽」への遷都を実質上実現することとなるのです。





 

 

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