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薬 師 寺  金堂  東塔        奈良市西ノ京町

716年、平城京遷都に伴なって、藤原京の本薬師寺から移って来た。

722年には朝廷の寺院監督機関「僧綱」がここに置かれた。

東塔が完成したのは 730年。

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

《第Ⅰ期》 660-710 平城京遷都まで。

  • 660年 唐と新羅、百済に侵攻し、百済滅亡。このころ道昭、唐から帰国し、唯識(法相宗)を伝える。
  • 663年 「白村江の戦い」。倭軍、唐の水軍に大敗。
  • 667年 天智天皇、近江大津宮に遷都。
  • 668年 行基、誕生。
  • 672年 「壬申の乱」。大海人皇子、大友皇子を破る。「飛鳥浄御原宮」造営開始。
  • 673年 大海人皇子、天武天皇として即位。
  • 676年 唐、新羅に敗れて平壌から遼東に退却。新羅の半島統一。倭国、全国で『金光明経・仁王経』の講説(護国仏教)。
  • 681年 「浄御原令」編纂開始。
  • 682年 行基、「大官大寺」で? 得度。
  • 690年 持統天皇即位。「浄御原令」官制施行。放棄されていた「藤原京」造営再開。
  • 691年 行基、「高宮山寺・徳光禅師」から具足戒を受け、比丘(正式の僧)となる。
  • 692年 持統天皇、「高宮山寺」に行幸。
  • 694年 飛鳥浄御原宮(飛鳥京)から藤原京に遷都。
  • 697年 持統天皇譲位。文武天皇即位。
  • 699年 役小角(えん・の・おづぬ)、「妖惑」の罪で伊豆嶋に流刑となる。
  • 701年 「大宝律令」完成、施行。首皇子(おくび・の・おうじ)(聖武天皇)、誕生。
  • 702年 遣唐使を再開、出航。
  • 704年 行基、この年まで「山林に棲息」して修業。この年、帰郷して生家に「家原寺」を開基。
  • 705年 行基、和泉國大鳥郡に「大修恵院」を起工。
  • 707年 藤原不比等に世襲封戸 2000戸を下付(藤原氏の抬頭)。文武天皇没。元明天皇即位。行基、母とともに「生馬仙房」に移る(~712)。
  • 708年 和同開珎の発行。平城京、造営開始。行基、若草山に「天地院」を建立か。
  • 710年 平城京に遷都。

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。

  • 714年 首皇子を皇太子に立てる。
  • 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
  • 716年 行基、大和國平群郡に「恩光寺」を起工。
  • 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧。第1禁令)。藤原房前を参議に任ず。郷里制を施行(里を設け、戸を細分化)。
  • 718年 「養老律令」の編纂開始? 行基、大和國添下郡に「隆福院」を起工。「僧綱」に対する太政官告示(第2禁令)。
  • 720年 藤原不比等死去。行基、河内國河内郡に「石凝院」を起工。
  • 721年 長屋王を右大臣に任ず。元明太上天皇没。行基、平城京で 2名、大安寺で 100名を得度。
  • 722年 行基、平城京右京三条に「菅原寺」を起工。「僧尼令」違犯禁圧の太政官奏を允許(第3禁令)。
  • 723年 「三世一身の法」。藤原房前興福寺に施薬院・悲田院を設置。
  • 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位長屋王を左大臣に任ず。
  • 725年 行基、淀川に「山崎橋」を架橋。
  • 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。
  • 728年 『金光明最勝王経』を書写させ、諸国に頒下。
  • 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原光明子を皇后に立てる。「僧尼令」違犯禁圧の詔(第4禁令)。
  • 730年 行基、平城京の東の丘で1万人を集め、妖言で人々を惑わしていると糾弾される。朝廷は禁圧を強化(第5禁令)。

 

 

長屋王墓     奈良県生駒郡平群町大字梨本

 

 

 

【50】 大寺院も高僧も信用しない長屋王

 

 

〔ギトン註――717年〕7月10日、太政官は次のように奏言した。

 

 仏教と儒教では教えの趣が異なっていますが、道理をつきつめると帰するところは同じです。

 

 このごろ僧綱らは自分の居るべきところにいることは稀で、ほしいままに巡り歩いているので、普通に治めることは難しくなってきました。あちらこちら往来し、無駄に時を費やしています。手紙の草案を決裁することもできず、こまごまとした事務が滞るばかりです。いったい僧綱というものは、智徳そなわり、僧侶と俗人の両方を支える棟梁となる人であります。〔…〕ところが居所定まらず、法務が処理されないため、雑事が累積し、ついに令の規定に違反するに至っています。よろしく薬師寺をもって、僧綱が常に住まうべき住居と定めるべきであります。〔…〕

宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, p.242.〔一部改〕

 


 最初の一文は、現下の政局とは無関係なことのように見えますが、じつは、これから進言する主張の伏線になっています。坊主のやってる仏教だって、けっきょくはわれわれ官僚が体現している儒教と変わらないのだ。仏教だの寺院だのに遠慮することはない。法律に違反するやつは、坊さんだろうと仏さまだろうと、皆ひっくくって懲らしめてやれ……ということを言いたいのです。

 

 「僧綱(そうごう)」とは(⇒:(10)【33】)、律令国家の下で寺院・僧尼の監督にあたる「僧正(そうじょう)」「僧都(そうづ)」「律師」のことで、教界の指導的地位にある高僧が任命されていました。彼らは僧侶であるとともに天皇の官吏であり、自らをふくむ僧侶団全体に、国家の定めた律令を守らせる責任を負っていました。太政官――長屋王政権――の上奏文は、この最高責任者を攻撃することから始めます。最高責任を負う「僧綱」がちゃらんぽらんで信用できないのだから、もう仏教界全体が信用できない。われわれが出て行って厳罰を加えるほかないのだ、ということです。

 

 内容を見ると、当時の僧尼の活動状況についてわかることもあります。「僧綱」に任命されるような高僧までふくめて、当時の僧侶たちは、1か所の寺に常住することなく、あちこちの寺院を渡り歩いて、修業と布教と後進の教育に努めていたことがわかります。そうした活動のなかには、山林の道場や庵での禅行・修行、市井での布教、托鉢、看病・治療、布施を募る活動なども含まれていました。これらは、律令によって禁止ないし制限されている行為ですが、じっさいには多くの僧尼が、大乗教理の実践に必須の活動として行なっていたわけです。

 

 ただ、ここでは上奏文は、「僧綱」の所在地を1か所に定める、という策だけを、とりあえず進言しています。それ以上の、もっと徹底した厳しい策は、次項以下で述べられます。

 

 

『太政官はまた次のように奏言した。

 

 人民に徳化を垂れ、教えを広めることは、法規にのっとってはじめて通じ、風俗を導き人を教え諭すことは、守るべき常道に違ったならば成功しません。〔…〕

宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, p.243.  

 

 

 ここからあとは、原文のほうが読みやすいので、読み下しを掲げます:

 

 

『近(このごろ)在京の僧尼、浅識軽智を以て、罪福の因果を巧みに説き、戒律を練らずして、都裏〔みやこのうち,平城京内〕の衆庶を詐り誘る。内に〔仏教界内部では〕聖教を黷(けが)し、外に〔俗界に対しては〕皇猷を虧(か)けり〔国策を毀損している〕。遂に人の妻子をして剃髪刻膚せしめ、動(ややもす)れば仏法と称して、輒(たやす)く室家を離れしむ〔家出をさせる〕。綱紀に懲(こ)ること無く〔律令を恐れない。罰せられても懲りない〕、親・夫を顧(かへり)みず。或(ある)は経を負ひ鉢を捧げて、街衢(がいく)の間に乞食こつじき 托鉢〕し、或(ある)は偽りて邪説を誦して、村邑の中に寄落し、聚宿を常として、妖訛〔でたらめ〕(むれ)を成せり。初めは脩道に似て、終には奸乱を挟(はさ)めり。永くその弊を言(おも)ふに、特に禁断すべし」と。奏するに可としたまふ。太白、昼に見(あらは)る。

青木和夫・他校註『続日本紀 二』,新日本古典文学大系 13,1990,岩波書店,p.123. 

 

 

 「罪福の因果を巧みに説き」――717年の「詔」(⇒:(14)【46】)で指弾されていた「妄説罪福」が、また現れています。この種の僧尼の寺院外活動は、やむどころかますます広がっていたのです。

 

 「剃髪刻膚」――髪を剃って(無許可の)僧尼になる。「刻膚」のほうは、私は皮膚に経文とか仏の絵を刺青するのかな、と思ったのですが、識者の注釈はみな、「焚剥指臂」と同じ、つまり、腕の皮膚を剥いで経文を記す紙の代わりに使うのだと解しています。一部の荒行僧だけでなく、入門したての若僧尼までが、そんなことをしていたとは‥。しかし、そもそも紙というものを庶民は手に入れられなかった時代ですから、皮剥ぎの行が盛行してもおかしくないのかもしれません。

 

 「偽りて邪説を誦して、村邑の中に寄落し、聚宿を常とし」――『三階経』が勧めていたような、村落の中に入りこんで大衆を教化する布教活動が、少なくとも平城京では行なわれるようになっていたのがわかります。集団で村に入りこんで寄宿しながら「邪説」を広めているというのです。しだいに人口が都邑に集中し、周辺農村でも、人びとが流浪・定着をくりかえす流動化現象が進んで、日本でも大衆布教の可能な社会状況になってきたのでしょう。

 

 さて、こうして奏上したところ、元正女帝は「よろしい。禁圧しなさい」と仰った。その時、見よ! 太白(金星)が昼間の空に現れて輝いた、というのです。「太白昼見」は、女性の主人にとっては吉兆です。

 

 ところで、じつは、↑上は「太政官奏」の前半でして、『続日本紀』は上奏文の後半を省略してしまっているのです。しかし、この禁令の重要な部分は後半にあります。『類聚三代格』〔11世紀編纂〕には、後半部分も収録されているので、その内容を吉田靖雄氏の要約↓で見ておきたいと思います。

 


『右の状況を禁遏するため、(イ)京城・諸國に判官一人を分遣し捉搦〔からめとること。追捕〕を加えることにしたい。(ロ)右の輩があれば、関係官司は見任を解く〔解任する〕ものとする。(ハ)僧尼の場合、「詐称聖道、妖惑百姓」の罪と同じく律に依り科罪〔僧尼の恩典を認めずに罰則を適用〕して、犯者は杖百〔百叩き〕を課し、郷族に勒還する〔本籍地に強制送還する〕。(ニ)主人・隣保・坊令〔平城京の町役人〕・里長は杖八十〔80叩き〕を課し、官当蔭贖〔官人が一定額の銅を納めて実刑を免除されること〕を用いない、とする。

 

 〔…〕注目すべきは〔…〕(イ)専当官人派遣、(ロ)関係官司の処罰、(ハ)僧尼処罰、(ニ)主人等の処罰などが明確に決定されていることである。〔…〕〔ギトン註――前段では〕「在京僧尼」と言いながら、〔ギトン註――この後段では〕専当官人は「京城及び諸國」に分遣されているから、私入道〔=私度。国家の許可を受けない出家〕と僧尼の村里浮遊は全国的に見られる現象になっていたのである。


 これに対して長屋王政権は、犯者はもちろん、京職・国司・郡司から里長までを官当蔭贖を用いることなく処罰しようとするのであるから、ここには教団の自浄作用などを信用せず、俗法によって一挙に抑圧しようとする姿勢が明らかである。』

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,p.156.  

 

 

 つまり、もう「僧綱」や各寺の「三綱」を介した「間接統制」ではどうにもならない。地方役人に、「今後はこのようなことのないようにしなさい」などと何度言ってもムダだ。中央から、特命の検事を全国に送りこんで、村に入りこんでいる僧尼も、彼らを泳がせている国司・郡司・里長も、傘下の奴婢に布教されて放置している主人も隣家の者も、みな一網打尽に搦め捕って鞭打ちの刑にする。僧尼は鞭打ちのうえ僧籍を剥奪して本籍地に強制送還する、というのです。

 

 強硬この上ない「律令主義者」長屋王の面目躍如といったところですが、‥たしかに、こんどの禁令は、今までとは違って効果がありました。さすがの「行基集団」も、平城京と大和國では壊滅状態に陥ってしまったことで、効果のほどがわかります。次節では、その状況を見ていきたいと思います。

 

 

滝 寺 摩崖仏   奈良市大和田町   10基以上の光背の線画を明確に認める。
「行基四十九院」の一「隆福尼院」の址ともいわれるが確証はない。

奈良時代の民間信仰の場であったことはまちがえない。

 

 

 

【51】 律令を貫徹した強硬策――教団の潰滅

 

 

〔ギトン註――720年〕8月、藤原不比等が薨じた後は、舎人親王が知太政官事に就任したが、太政官の実質的指導権は大納言長屋王がとり、彼は翌〔721〕年1月右大臣に任じている。従って僧綱の政に対する低い評価は、長屋王の意を体(てい)したものであったとみてよい。

 

 〔…〕不比等政権が教団の自浄機能に期待し、僧綱の主体性を尊重しようとしたのに対して、長屋王政権は、現今の僧綱のあり様が令条に違反していると決めつけるのであって、そこには、教団の自浄機能や僧綱の主体性を尊重しようとする姿勢が見られないといってよい。僧綱に対してこのような厳しい態度をとるのであるから、一般僧尼の不法行為を犯す者に対してはより峻厳である。』

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,p.155.  

 

 

長屋王は行基流の托鉢行者には嫌悪感を抱いていたらしい。天平元〔729〕年、元興寺で法会が開催された際、「賤しき形〔ふうてい〕の沙弥」が〔ギトン註――長屋王邸に〕供養の飯を受けに来たのを見て、「長屋親王」は血の出るほど沙弥を打ちすえたという(『霊異記』)。毎日寺外に出かければ法衣はよごれ体はチリにまみれる。よごれた法衣をまとい髪をのばした托鉢行者らは、「神を敬い仏を尊ぶことは清浄を先となす」との観念をもつ為政者にとって、崇仏に背くやからに感じられたのである。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.112. 

 

 

 722年の禁令の苛酷さは、「律令絶対主義」の現れであっただけでなく、長屋王個人の好悪感情にも大きく影響されていたと思われるのです。

 

 もっとも、722年の長屋王・太政官奏による禁令は、717年の「詔」とは違って行基を名指しで指弾してはいません。それがなぜか(禁令は行基集団には向けられていなかったのか)については、研究者のあいだに意見の違いがあります。が、多くの人は、行基集団はもちろん、その他多数の僧尼・僧尼グループが禁令の対象として迫害されたと理解しています。



『行基の足跡が畿内諸國を出るものでなかったことは、諸種の史料から明らかであるが、〔ギトン註――722年禁令による〕専当官人の派遣は畿内以外の国々にもなされたのであるから、〔…〕養老年間〔717-724〕には、行基の徒に代表されるような民間に活動する大小のグループが広汎に存したことを意味する、』

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,p.157.  

 

 

『長屋王政権は、違反僧尼に対し杖罪を科す厳罰主義をとるのであるから、当然に行基の名があるべきである。それがないのだから、行基に限らず京城内で、幸不幸の因果を説き、自由出家・托鉢行の盛行、捨身供養・集団説法の横行などの状況が広く見られたのである。

 

 しかし行基もこの禁令の対象になったが、科罪されたという記録はないものの、帰郷のやむなきに至ったと思われる。それは長屋王が失脚する天平元年(729)2月まで、行基の行動は郷里和泉と河内國に限定されるからである。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.84.  

 

 

『専当判官が諸國に分遣されて監視に当り、犯罪僧尼を容認した主人・隣保らも同じく杖罪、という政府の布告は、並々ならぬ決意を示したものといえる。畿内と諸國には、行基に類した僧尼集団が活動していたのであるが、彼らはこうした政府の強硬策によって、活動の逼塞を余儀なくされ、郷里に帰るのやむなきに至った者が多かったであろう。当時の行基の集団の規模は定かではないが、たとえば 100人前後と仮定してみると〔これは非常に少なめの仮定。721年に行基が 100名を集団得度させたとする史料がある――ギトン註〕、こうした集団の生活は、当時おそらく万余の人口を抱える唯一の都市・平城京における乞食行〔托鉢――ギトン註〕によって支えうるものであろう。しかし可耕地が少なく、従って人口も少ない和泉に移住して、集団の生活が可能であったとは思われない。』

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,p.160.  

 

 

 つまり、「行基集団」は、平城京で弾圧されたなら、どこか他の土地へ移って “教団” の存続をはかることができたかというと、当時の古代社会では、それは不可能だったと思われるのです。長屋王政権による弾圧の結果、初期の「行基集団」は解体した、少なくとも大和國の大集団は壊滅状態になったと考えざるをえないのです。

 

 

『政治の厳しい抑圧に接して、行基の集団は維持しがたい状態にあった。行基はおそらく集団を解体して、郷里に帰ったのである。

 

 かくして平城京造営に動員された役民を中心とする行基の第一次の集団は解体し、出家の弟子に乞食行を、在家の弟子に布施行を勧める活動も中止されたのである。しかし、この抑圧によって、行基は活動の継続の為には、政府の承認を得なければならぬことを知ったのである。乞食行と布施行の単純な組み合わせでは、活動は拡大されない。活動を継続し、拡大するにはいかなる道があるのか、これが行基の考えねばならぬことであった。

 

 〔…〕この時期を行基の思想行動の第二の画期と見たい。』

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,pp.160-161.  

 

 

宝 幢 寺     奈良県生駒市小平尾町

行基 716年開基「恩光寺」の候補のひとつ。

古代の「くらがり越え」街道に近い。

 

 

 

【52】 捨てる神あれば拾う神あり――抵抗と再起

 

 

 ところで、長屋王政権の禁令・迫害によって、行基自身はどんな処罰を受けたのでしょうか?  行基は処罰されたのか? されなかったとしたら、なぜなのか? ここでもさまざまな意見があります。

 

 行基自身も逮捕され、その結果として本籍地である和泉國に強制送還されたのだ、とする見解もあります。しかし、長屋王の「禁令」によれば、違反僧尼は「還俗(げんぞく)」(僧籍剥奪、教界追放)した上で「杖一百」の刑に処し、かつ「郷族に勒還」するのです。杖刑はたまたま記録が残らなかったとしても、「還俗」されていれば、その後の経歴に影響するはずです。行基は後年、僧官である「大僧正」に任命されていますが、その時には僧籍にあったと考えなければならない。もし「還俗」されたあと復帰を認められた、というようなことがあれば、『続日本紀』が行基没年に載せた伝記に記載しないはずはない。しかし、記載はないのです。

 

 したがって、行基集団には多数の犠牲が出たが、行基自身は逮捕を免れたと考えなければなりません。

 

 それでは、なぜ免れることができたのか?‥‥結論を言うと、いくつかの要因が重なった結果、からくも逮捕を免れたのだ、と考えるべきです。あげてみると、①逮捕される前に和泉國の郷里に逃避した。②和泉國では地方官の保護を受けることができた。③中央貴族にも、行基とその集団を容認する人または少数の人びとがいて、頭目である行基に迫害が及ぶのを遅らせた。

 

 ③から先に説明しましょう。行基流の活動を容認する中央貴族――史料に名前が上がってくるのは、れいによって藤原房前(ふささき)です。712年の最初の禁令「詔」の直後から長屋王政権まで、房前は一貫して太政官の合議に参与する「参議」の職にありました。

 

 

〔ギトン註――717年〕4月の禁令は藤原不比等の主唱によるものであったが、〔…〕不比等の子・房前は、父と異なり行基の活動を容認し外護した〔…〕

 

 藤原房前は養老元年10月に参議に任じ、父不比等の態度と裏腹に行基集団の活動を容認した。〔…〕行基の活動には政権を批判したり社会的動揺をもたらすような性格はなく、仏教的な救済思想のみがあることを看取ったためであった。

 

 藤原兄弟と行基との接点は、養老7年(723)に興福寺に施薬院と悲田院が設置されたことにある。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.85.   


 

 「容認した」とありますが、正面から容認することになるのは、長屋王政権が倒れて「藤原4子政権」が成立する 730年代以後のことです。この段階では、房前が参与した 718年の「太政官告示」でも、律令に違反する僧尼の取締りという政策方向は変っていません。ただ、取締り方法は、いっそう穏やかになっています。そして、房前自身は、むしろ主に私的な行為によって、「行基集団」に対し掩護を与えたのです。


 

大 安 寺    西 塔 址 と 東 塔 址 (赤矢印)
南大門の外に巨大な2基の七重塔がそびえる特異な伽藍配置だった。

 

 

 『行基菩薩伝』には 721年のこととして、「5月3日、朝廷の命により平城京に赴き、2人を得度させた」という記事があります。『行基年譜』は、この記事を承継した上、さらに、5月8日には「大安寺」で 100人を得度させたという記事を載せています。

 

 「2人」と「100人」、どちらが事実なのか? あるいは、引き続いて個別的と集団的の2回の得度を主宰したのか? 『行基年譜』〔1175年成立〕の著者には判別がつかなかったので、両記事を併載したのかもしれません。いずれにせよ、行基を名指した「禁圧の詔」が出ている状態で、朝廷が行基を招いて得度を主宰させたり、「大官大寺」である「大安寺」での集団得度を許したり……尋常とは思えません。

 

 しかし、この2回の得度が事実だとすれば、こういうことも考えられます。「得度」はもちろん国家的認許を得てしなければなりませんから、れいの 三綱連署→僧綱→玄番寮→治部省→太政官 という長々しい官僚機構を通じて申請を通さなければなりません。朝廷から指弾される「悪僧行基」でなくとも、認許を得るのは容易なことではありません。認許が下されたのは、中央貴族の後ろ盾――おそらくは房前の掩護――があったからだと考えなければなりません。

 

 行基としては、傘下にいる大量の私度僧を、100人でも 200人でも一度に「得度」させたいところですが、一方的に要求したのでは、いくら房前の口利きがあっても通すのは難しい。そこで、特別な誰か――房前と親しい皇族の子弟,あるいは天皇が懇意にしている貴族の子弟――の得度を行基に立派に主宰させたうえで、その功績に報いるかたちで、行基集団の得度を許す、というシナリオが考えられます。しかも、太政官が「100名の度者」を詳細にチェックするいとまを与えないために、日を置かずに集団得度を実施してしまう。つまり、メクラ判を押させるために、「大安寺 100名」の実施は 5日後なのです。

 

 しかし、このように強引に既成事実を作ってしまおうとする房前行基集団のやり方は、律令貴族の一部から反感を買ったかもしれません。その反感を糾合して反動に出たのが、722年の「太政官奏」すなわち「長屋王禁令」だったのではないでしょうか。太政官の合議では、長屋王をはじめとする圧倒的な反感を前にして、房前は逼塞するほかありませんでした。後ろ盾であった父・不比等は、720年に薨去していました。

 

 722年「禁令」の結果、うちつづく迫害と厳しい取締りに苦しんだ行基は、ふたたび房前に掩護を求めますが、もはや取締りそのものを妨げることはできません。行基本人に追捕の手が伸びるのを抑えるのが精一杯です。そこで房前が考えた「行基集団」の名誉回復のためのイベントが、723年興福寺での「施薬院・悲田院」設置(吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,p.85-86.)であったと、私は考えます。

 

 

 

【53】 血まみれの皇后――藤原光明子

 

 

 興福寺は、もともと藤原氏の氏寺であったのを、710年平城京遷都とともに、不比等が左京の地に移して整備したもので、この時点では、まだ「中金堂」が建てられたばかり、東・西金堂、五重塔などはまだありませんでした。聖武朝以後には、天皇・皇族発願の堂宇がつぎつぎに建てられて官寺化していきますが、今の段階ではまだ氏寺です。そこで何をしようと藤原氏の私事なのです。律令官僚から文句を言われる筋合いはありません。

 

 そこで、房前は興福寺で、「行基集団」の「布施屋」を見習って、窮民・流民救済事業を開始しました。それが、「施薬院・悲田院」の設置です。とはいえ、大寺院で民衆救済の事業など、これ以前にはまったく行なったことがありません。「護国仏教」は、「放生会(ほうじょうえ)」と称して鳥や獣は救済しますが、王侯以外の人間は救済しないのです。

 

 大寺院の僧侶たちは、「鎮護国家」の法会(ほうえ)と、そのための修学しかしたことがありません。一般民衆の世話や「施薬」など、やれと言われても、何をどうしていいやら分かりません。「施薬院・悲田院」の運営は、じっさいには「行基集団」を招いて、彼らに行わせたのだと、私は想像します。

 

 このイベントを発案したのは房前(『興福寺流記』に云う:施薬院・悲田院は、北家の祖・房前の建立であると。『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,p.85)、彼は行基集団の救済活動を「みやこ」の人びとに見せて、行基に対する誤解を解こうとしたのだと思います。しかし、房前以外の藤原兄弟(不比等の子:武智麻呂宇合(うまかい)麻呂)がこれを許容したのは、彼らは彼らで別の思わくがありました。

 

 父・不比等は生前、首皇子(聖武天皇)を皇太子に擁立するために、故・文武天皇の石川・紀両夫人を嬪の地位から追い、所生の皇子らから皇族の地位を奪うなど、さまざまな陰謀を弄した上、707年には崩御まぎわの文武天皇から(臨終の心神耗弱につけこんで?)2000戸の世襲封戸を与えられて藤原氏世襲財産を巨大化させています。そのため、藤原氏に対する門閥貴族の風当たりは、不比等没後には、これまでになく厳しいものになっていました。

 

 そこで、興福寺の「施薬院・悲田院」救済事業は、藤原氏に投げつけられた陰険非道の誹りを払拭し、民にやさしい為政者のイメージを流布するうえで、これはまたとないチャリティー・イベントとなりえた。それゆえに、藤原兄弟は房前の発案を歓迎して実施させたのです。

 

 なお、同様の「施薬院・悲田院」事業は、のちに光明皇后も行なっています。聖武天皇のキサキであった藤原光明子は、長屋王がクーデターで倒れた直後の729年8月に皇后に即位しており、皇族である長屋王の屍を踏みつけて勝利を叫ぶ「血まみれの皇后」のイメージを免れませんでした。そこで、光明皇后の「施薬院・悲田院」事業(730年)もまた、身に浴びた返り血を拭いおとし、慈愛にみちた「天平の国母」のイメージを宣揚する目的で大々的に行なわれたのです。

 

 

大 安 寺    西 塔 と 東 塔 (CG)
 

 

 

 

 

 

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daniel barkley