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 台風来るから山日和♪(2)にて既報のとおり、登山靴の底がはずれてしまったので、新調した靴の足慣らしに手ごろな岩山を。。。 ということで加波山(かばさん)に出かけてみました。天気予報で連休はどこもかしこも雨か曇り、このへんだけが晴れ間のようでしたから、ふだん足を向けないこの山域へ。


 加波山頂上の加波山神社は、自由民権運動で有名な「加波山事件」で自由党員が立てこもった明治の史跡。少し縦走すれば、山岳仏教の拠点雨引(あまびき)観音に降りられるとあって、天気が悪くても見どころ満載なので、こういう日にはいいかなと。

 

 

 

 シルエットは行程の標高(左の目盛り)。折れ線は歩行ペース(右の目盛り)。標準の速さを 100% として、区間平均速度で表している。横軸は、歩行距離。

 


 水戸線「岩瀬」駅前の案内板↓。ふむふむ、加波山は花崗岩でできた山で、昔から石材業が盛んだとのこと。

 

 

 


 「長岡」で降りた風景。右遠くに、ウラから見た筑波。盾状の女体山、中央の男体山、よく見える。

 

 

 

 

 

 ↑左に目を移すと、きのこ山(右)、足尾山。正面に加波山↓。

 

 

 


 集落の中の道を昇っていく。「加波山神社」やら、それ風の名前の神社が、たくさんある。境内に「一合目」の標石も立っているが、ふつうの家も建っていて、みょうに垢抜けない。

 

 

 

 

 

 ↓ここはまた、飛びぬけてケバケバしい。「元祖・加波山神社」といったところか?

 

 



 ‥‥と思ったら、ここがホンモノの加波山神社です。類似品に注意しましょう。法務省、とある。こんなこと、いちいち法務省が言うだろうか。文科省ならわかるけど。。。 この注意書きのほうがよっぽどマユツバだ。

 

 


 


 気にせず登っていく。正面に加波山。ふもとに神社がいくつあろうと、御神体はこの山でまちがえない。

 

 

 

 

 ↓二合目。「寝不動尊」というのがある。石標には、「加波根不動明王」と書いてある。もとの名は「姓(かばね)」だろうか? 奥に社殿があり、由緒書きによると、加波山中にあった不動尊の石像が洪水で流出し、この地に埋没していたのを掘り出して祀ったという。

 

 鳥居をくぐって行くと、社殿のわきから山路がつづいており、「三合目」で道路に合流した。こちらが古い加波山登拝路のようだ。

 

 

 

 


 ↓三合目。車道に戻る。

 

 

 

 

 ↓「従是(ここより) 右 加波山本宮

           左 加波山親宮」

 

 三合目で、「本宮」参道と「親宮」参道が岐れる。しかし、ここでちょっと寄り道をして、石切り場を見ておこう。

 

 

 


 ↓石切場。現役で石材店が花崗岩を切り出している。きょうは日曜で休み。

 

 

 


 ↓こういう道具で穴をあけて伐り出す。説明書きはないが、見学用に展示しているふんいき。

 

 

 


 ↓伐り出した石材の見本も置いてある。道具で穴をあけた痕がある。

 

 

 


 ↓接写。たしかに花崗岩だ。斑晶がよく見える。白いのが長石。灰色が石英。黒い粒は、雲母と角閃石か?

 

 

 


 三合目に戻って、「本宮」参道を行く。

 

 

 

 

 

 標高は 200メートル前後。シラカシ、アオキ、アカマツ、イヌシデ、ホオノキ、クリ、リョウブ。常緑広葉樹と落葉樹の混淆林だ。↓ヒメユズリハ。

 

 

 

 

 ウリカエデ↓。すべすべした緑色の幹が特徴的。

 

 

 

 

 ↓まだらがきれいなので、ナツツバキかと思ったが、葉を見上げるとリョウブだ。

 

 

 

 

 

 トチノキもある↓。ふつうは水辺に生える。さっきのヒメユズリハも、図鑑には海岸近くとある。このへんは雨が多くて湿っているのだろう。

 

 

 

 

 もう五合目。「本宮」参道は尾根道なので、高度が早く上がる。

 

 

 

 

 ヤブの中の滑りやすい坂道がつづく。

 

 

 

 

 「三十八丁」の丁目石↓。勾配はゆるやかになってきたが、路傍に岩が増えてきた。みな花崗岩だ。

 

 

 


 

 八合目。

 

 

 


 

 

 おや? ブナが生えている。ブナとイヌブナは、葉の脈の数で見分けるのがいちばんまちがえがない。ブナ(太平洋側の亜種)のようだ。こんなところに、ブナの群生。

 

 

 

 

 加波山頂上の祠(ほこら)。ここが加波山神社「本宮」のようだ。御神体の岩。注連縄(しめなわ)がかかっている。

 

 

 

 

 こちらも頂上の御神体。たくさんある。神々の集会場。

 

 

 

 

 

 ふもとが見える。山の東側。難台山の連なり

 

 

 

 

 となりの峰に移ると、「加波山事件」の記念碑がある。

 

 

 

 

 

 「加波山事件七十年記念

 自由之魁(じゆうのさきがけ)

     吉田茂

    昭和二十四年

        船橋市波和講

 

 1874年、板垣退助後藤象二郎江藤新平ら開明派士族の「民選議院設立建白書」提出に始まる自由民権運動は、1880年以後、各地の豪農層に広がり、国会開設のほか、地租軽減、憲法制定、言論の自由などを掲げる自由主義運動の様相を呈した。

 

 ところが、明治14年政変(1881年)で政府内から大隈重信ら立憲派を放逐して実権を握った参議・伊藤博文は、民権弾圧の方針を固め、集会の強制解散、逮捕等を行なう一方、板垣後藤に資金を提供して洋行を勧めるなどの懐柔策で組織分裂を図った。翌 82年には、岐阜で集会演説中の板垣が刺客に襲われて、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んで倒れる事件が発生している。

 

 伊藤政府の弾圧・懐柔策が功を奏してか、民権運動は、板垣らの自由党系と、大隈らの立憲改進党系に分裂し、また、大井憲太郎ら自由党急進派は、各地で武装闘争を展開し、官憲と激しく衝突するようになる(秋田事件、福島事件、高田事件、群馬事件、加波山事件、秩父事件、飯田事件、名古屋事件、静岡事件、大阪事件)。

 

 急進派の諸事件は、ひとくちに「武装闘争」(日本史では「激化事件」という)と言っても、内容はさまざまで、秩父事件のような豪農層の大衆的蜂起から、加波山事件のように、少数のテロリストが要人暗殺を目的として活動したものまであった。

 

 加波山事件は、1884年9月に宇都宮で行なわれる栃木県庁開庁式を襲撃して、県令(県知事)三島通庸と政府大臣らを爆殺する計画から始まった。三島は、当時各地で民権運動を激しく弾圧したことから、怨嗟の的になっていた。ところが、鯉沼九八郎が爆弾製造中に誤爆して病院に運ばれたことから計画が発覚すると、首謀者・河野広躰らは、下館町「有為館」に立て籠もり、「自由の魁」「圧政政府転覆」等の旗を掲げ、警察署を襲撃したり、決起を呼びかけるビラを村々に配布したりした。追手が迫ると、さらに加波山頂上に立て籠もった。

 

 加波山頂に籠城したのは 16名。「有為館」では、豪農の家から恐喝してきた金銭で、牛肉、醤油、酒を買い求め、毎晩酒宴を開いては、詩吟と剣舞に明け暮れる日々であった。山頂では、追ってきた警官隊に直ちに鎮圧されて四散。各地で逮捕され、7名が死刑、3名が無期懲役に処せられた。

 

 この事件は、三島県令と政府には格好な弾圧の口実を与えることとなり、300名におよぶ民権活動家が逮捕された。事件と無関係な栃木県会議員田中正造も逮捕されたが、三島が他県に異動すると同時に釈放されている。(⇒:自由民権運動 ⇒:加波山事件

 

 私は、大学生の時にこの事件の史料を詳しく読んで、参加者たちの身勝手な行動に失望し(刀振り回して遊んでんのか、おまえら)、激怒した思い出があります。ふだんは大人しい学生の思わぬ舌鋒に、指導教授は呆れておられました。「自由」とは言葉だけで、実質はヤクザと同じじゃないか。弾圧の口実を作ってやる以外の、いったい何をしたというのか、‥が私の言い分でした。

 

 しかし、いま改めて考えてみると、自由民権運動のような幅広い運動では、さまざまな考えのグループができるのは、避けられないことです。ともかくも全体として、国会を開設させるという、今日に残る成果を上げたのだし、田中正造のような豪農や地方の平民にまで、民権思想の精神的基盤を培ったことをもって良しとすべきではないか?

 

 このような事件でも、その歴史的意義を誤らずにとらえ、揮毫を引き受けた吉田茂首相(当時)の慧眼には承服する思いです。

 

 記念碑のすぐ後ろに古い祠がある↓。ここに立て籠もったのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

タイムレコード 20221009 [無印は気圧高度]
 「長岡」バス停[40m]815  - 838加波山神社「里宮」[89m]840 - 852寝不動尊[150m] - 858三合目[183m] - 914石切場[262m]926  - 941三合目[180m]948 - 1020五合目[379m] - 1044八合目[516mGPS]1050 - 1106林道終点出合い[616mGPS]1125 - 1145加波山頂[709mGPS]1152 - (2)につづく。

 

 

 

 

 

   

    Michel Gourlier