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兵庫県太子町「斑鳩寺」。聖徳太子は、606年『勝鬘経』『法華経』講義の

報酬として「播磨の田百町」を賜与され、法隆寺建立の原資としている。

播磨の斑鳩寺は、成立した「鵤(いかるが)荘」の経営拠点であったと

思われる。建物は、鎌倉時代建立の「聖徳殿前殿」。

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

 

《第Ⅱ期》 603-611

  • 607年 厩戸皇子、法隆寺(斑鳩寺)の建設を開始。屯倉(みやけ)を各地に設置し、藤原池などの溜池を造成し、山城国に「大溝」を掘る。
  • 609年 厩戸皇子、『勝鬘経義疏』の著述開始。4月、「丈六の金銅仏」(現・飛鳥大仏)が完成し、法興寺(飛鳥寺)に安置。
  • 611年 『勝鬘経義疏』を完成。

《第Ⅲ期》 612-622

  • 612年 百済の楽人・味摩之を迎え、少年らに伎楽を教授させる。厩戸皇子、『維摩経義疏』の著述開始。
  • 613年 畝傍池ほかの溜池を造成し、難波から「小墾田宮」まで、最初の官道「横大道」を開鑿。『維摩経義疏』を完成。
  • 614年 厩戸皇子、『法華経義疏』の著述開始。6月、犬上御田鍬らを遣隋使として派遣。
  • 615年 『法華経義疏』を完成。
  • 620年 厩戸皇子、蘇我馬子とともに『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂(開始?)。
  • 622年2月 没。

 

 

 

【31】『三経義疏』の執筆

 

 

 「疏(しょ)」とは、意味を解き明かすことで、経典のコンメンタールを「疏」「義疏」「注疏」などと云います。

 

『仏教を学ぶには経典とその注釈書・疏が必要である。太子がこうした経典や疏を移入することを〔遣隋使の小野〕妹子に頼まなかったはずはない。〔…〕〔606年の講義で〕講読した『勝鬘経』と『法華経』については、〔…〕当時の中国においてもっとも権威あると思われる疏を持ち帰るように頼んだにちがいない。』

梅原猛『聖徳太子 4』, pp.51-52.  

 

 もともとインドで作られた仏教典は、哲学の論文として書かれたわけではありません。シャカは学者ではなく、シャカの説法を聞く人も大部分は無学な人びとでした。そこが、孔子や孟子との大きな違いです。シャカは、論理よりも喩え話で語りかけます。説法を記録して経典を作る人も、その場にいなかった人にも臨場感が伝わるように、さまざまな工夫を凝らします。仏典は、宗教である以上に物語であり、ドラマなのです。

 しかも、仏典はみな一時にできあ
がったものではなく、流布する過程で、さまざまな宗派によって書き換えや追記をほどこされて成立しています。経典どうしが矛盾するだけでなく、ひとつの経典のあちこちで、シャカは違うことを言っているのです。それを、一貫した意味のあるものとして読むのは、至難のわざと言わなければなりません。

 ところが、中国人は、その・ある意味無理なことを、徹底してやりとげてしまったのです。仏典が中央アジアの砂漠を越え、梵字から漢文に翻訳されて、

 

『首尾一貫した論理を重んじる中国にいくと、そこに首尾一貫した論理を発見しようとする執拗な努力によって疏が書かれる。つまり中国仏教学は、儒教によって訓練されたこういう論理癖を仏教経典の解釈に適用したところに生じた奇妙な学問であるといってよい。』

梅原猛『聖徳太子 4』, pp.80-81.  

 

 王朝は、そうした緻密な論理を駆使する中国仏教学――「天台教学」が確立した時代に当たっていました。第2代皇帝煬帝に用いられた天台山の僧・智顗(ちぎ)538-598〕が、『法華経』を中心として教学を集大成し、「天台宗」の祖となっています。ただ、聖徳太子は、完成された智顗の教学体系までは摂取していません。太子の師であった高句麗僧・慧慈は、その戒名からすると、智顗の先達である慧文慧思と同じ学系と思われます。太子は、智顗以前の北朝系宗派、完成に向かっていた天台法華教学の途上の理論を習得していたと考えられるのです。

 

 「倭国」の人で、大陸の仏教理論を本格的に学んだのは、太子が初めてであったと思われます。仏教に限らず、学者の作る注釈書は、先行する多くの注釈書や、他の経典類をも参照・引用して議論を紹介したうえ、最後に自分の見解を付け加えるのがふつうです。ところが、『三経義疏』は、3つの経典それぞれについて、1つの注釈書のみを参照し、それと経典のテキストだけを引用して書いているのです。ほかの経典を引照することもありません。多数の関連文献の比較検討という、通常のコンメンタールでは緻密に行なわれる作業が、行われていないのです。

 

 『三経義疏』を見ると、「まだ多くの経典やその注釈書の疏の類が移入されないころの日本人の手になる著作であること」〔梅原,p.51がよくわかります。太子の著述は、そういう条件での、草創期のパイオニア的研究なのだ、と言ってよいと思います。

 

『『三経義疏』には誤字や経典の誤解が多くあり、当時の日本人としてはやむをえない経典理解の不十分さがある。

梅原猛『聖徳太子 4』, p.74.  

 

  たとえば、シャカの弟子「舎利弗(しゃりほつ)」を「舎利佛」と書いています。仏舎利と混同したのかもしれませんが、仏教学徒としてありえない誤りです。あるいは、しばしば草本の欄外に「レ」という記号が付いています。これは返り点ではありません。「汝悉知(なんじ ことごとく しる べし)」のように書かれているのです。これは、漢文では「応知」と書かなければならないのに、日本語式の語順で書いてしまって、「レ」で訂正しているのです。

 

 現存する『法華義疏』の草本↓は、中国で造られた紙に書かれているため、中国人が書いたものだ、として、太子の著作であることを否定する学者もいます。しかし、↑こういう誤記は中国人にはありえないので、太子の著述であるという証拠になります。曇徴が倭国に製紙法を伝えたのは、『法華義疏』執筆の4年前です。当時はまだ質の良い紙を国産できるわけもなく、太子のような人が使う紙はすべて輸入品だったはずです。


 

『法華義疏』草本(皇室御物)。これが太子の筆跡!!
右端の題と添え書きを除く本文は、聖徳太子の真筆と
見られる。速筆だが、バランスのとれた闊達な字形。
機敏で確かな論理的思考を思わせる。


 
 
 

【32】《第Ⅲ期》 612-622 ――『法華義疏』とその後

 

 

 ↑上の年表にまとめたように、『法華義疏』は、『勝鬘経義疏』『維摩義疏』を書き終えた後、3冊目のコンメンタールとして執筆されています。経典の大きさも、内容の難しさも、『法華経』は他の2経よりはるかにまさっているのですが、年表から分かるように、『法華義疏』の執筆期間は、『維摩義疏』と同じ1年で、『勝鬘経義疏』にかかった2年よりも短いのです。

 そして、『法華義疏』の内容を見ますと、とくにその後半は、ひじょうに端折った書き方になっている。内容も荒くなっているように見えます。太子がテキストとして用いた代流通の鳩摩羅什
(クマーラ・ジーヴァ)訳『妙法蓮華経』には、27の章〔「品 ほん」と言います〕があるのですが、岩波文庫版『法華義疏』2冊のうち、上巻は「品第四」まで。下巻に残りの 23品が収まっています。あとの章になるほど、太子のコンメンタールは短くかんたんになっているのです。これはなぜなのか?

 ↓梅原氏が指摘するように、『法華義疏』稿了の年に、太子の師であった慧慈高句麗に帰国していることが関係しているのかもしれません。

 

『太子といえども、『三経義疏』を慧慈の助けなしでつくることはできなかったであろう。〔…〕『法華義疏』は他の『義疏』に比べて密度がうすい。とくに後半はたいへんはしょったところがある。おそらく慧慈の帰国が迫り、どうしても早く終えねばならなかったこともその理由のひとつであろう。』

梅原猛『聖徳太子 4』, p.54.  

 

  この推論にも疑問はあります。『上宮聖徳太子伝補闕記』によると、太子が『法華義疏』の執筆を終えたのは 615年4月15日、しかし、慧慈の帰国は 11月なのです〔梅原,pp.47,53-54慧慈帰国の半年前に執筆を終えなければならない理由があったのか? 指導者が身近にいなくなるとしても、今後の執筆範囲について要点の教示を受けておけば、あとは独力で、あるいは学習仲間とともに研究を続けることはできるはずです。やはり、太子自身の関心が『法華経』から、あるいは仏教そのものから離れてしまったと考えざるを得ないのではないでしょうか。

 

 それでは、『法華義疏』を急いで終えたあとの太子の関心は、どこへ向かったのか? 梅原氏は、年表の 620年にある『天皇記』『国記』などの編纂へ向ったと考えているようです。

 

『そしてうち続く隋の敗退、滅亡の知らせが聖徳太子をして深く考えせしめたにちがいない。あの大国・隋ですら滅んだ。〔…〕日本は大丈夫であろうか。〔…〕さまざまな不安が当時太子をつつんだ〔…〕それと同時に、国家とは何か日本とは何かを太子は嫌でも考えざるをえなかったと思う。』

梅原猛『聖徳太子 4』, p.285.  

 

  梅原氏は、太子の編纂した『天皇記』『国記』が、8世紀に成立した『古事記』『日本書紀』のもとになった、主要な源泉だったとしているのです。「天皇」「日本」という王号・国号も太子の創案だとして、聖徳太子をこの面で高く評価しておられます。しかし、私はこの考えは無理だと思います。「天皇」「日本」が使用されるのは天武朝〔673-686〕、早くても天智朝(前々回に見た野中寺の 666年銘文)であり、聖徳太子の時代に使われた証拠はないからです。

 

 『天皇記』『国記』等の史書も、日本史の通説によれば、『古事記』『日本書紀』の源泉ではありません。『古事記』『日本書紀』のもとになったのは『帝紀』『旧事』という記録ですが、これらは太子以前の 6世紀までには朝廷で筆録されていたと考えられています。

 

 しかも、太子は、『天皇記』『国記』等の編纂に、ほとんどタッチしていないかもしれない。というのは、これらは 620年には編纂が開始されただけで、太子(622年、没)の生前には完成しなかったと思われるからです。『日本書紀』の記載の通例として、何年に「寺院を建立する」、という記載は建設を始めた、ないし建てようと決めた、という意味。太子馬子が「天皇記〔…〕等を録す」は、編纂をはじめた、編纂しようと相談した、という意味にすぎません。中心になって編纂を進めたのは蘇我馬子であり、あくまでも私的な蘇我家の事業であったと考えられます。

 

 『日本書紀』には、645年の「大化クーデター」で、蘇我蝦夷が屋敷に火をかけて自害した際、『天皇記』『国記』も焼失しようとして、『国記』だけは部下が救い出した、という記事があります。つまり、これらの史書は、写本が作られることも朝廷に献上されることもなく、蘇我氏の私物として伝えられているのです。

 

 『天皇記』『国記』は、国家的な史書編纂事業ではなく、「『帝紀』『旧事』とよく似た内容をもつ」豪族の私的な記録のひとつにすぎなかったと見るべきです〔『飛鳥の都』,p.29〕

 そういうわけで、『三経義疏』を急遽仕上げたあとの厩戸の関心が、ナショナルな方向にむかったとは、私には思えません。

 隋の使節・裴世清と会って、決してナショナルではない心情を吐露していた厩戸は、あくまでも国外と文明に関心を向ける人であったと思います。「上宮王家」全体がそうであったし、彼らが本拠として建設した「斑鳩」の諸宮諸寺を、「上宮王家」に対抗して台頭した「押坂王家」の本拠「忍坂」や、「押坂」系の天智天武らが政権を営んだ「飛鳥」と比べてみれば、「斑鳩」の開放的で開明的、華美と言ってよい景観には瞭然たるものがあります。

 

 

斑鳩「法起寺」。三重塔と池。

 

 

 それでは、没年までの7年間、太子は何をしていたのか? 『聖徳太子伝暦』には、次のような記事があります:

 

〔608年〕「太子、斑鳩宮に在(ま)して、夢殿の内に入る。此の殿、寝殿(よどの)の側(かたはら)に在り、御床に蓐(しとね)を設く。一月に三度沐浴して入る。明旦、海表の雑事を談語ひ、及(ならび)に諸経の疏を製(つく)る。若し義、滞ること有らば、即ち此の殿に入る。常に金人有りて東方より至り、告ぐるに妙義を以てす。戸を閉ざし開けざること七日七夜。御膳を召さず侍従を召さず、妃(きさき)已下、之に近づくことを得ず。時の人、太(おほい)に異(あやし)む。」』

梅原猛『聖徳太子 4』, pp.55-56.  

 

  これは、『三経義疏』執筆を始めたころのようすですが、「夢殿」は、太子の当時にはなく 8世紀に建てられたものですから、事実ではないでしょう。しかし、その点を除けば、ありえない話ではありません。月に3度、水浴して身を清めてから、寝殿の隣りの建物に籠り、翌朝、外交について部下と協議し、『義疏』を執筆する。経典の解釈がわからなくなると、7日7夜籠りきって、侍従も妃も近づけず、差し入れられた膳にも手をつけない。夢に、「金人」が「東方より至」って、経典の解釈を告げる。‥


 へやに引きこもって瞑想にふける習癖は、『義疏』の執筆が進むにしたがって多くなったのではないでしょうか。そうすると、『法華経』のあとに手がけたのは、もっと神秘的な経典――弥勒経であったことが考えられると思います。もちろん弥勒経とは限りません、『法華経』以後の瞑想の成果は残されていないのですから、太子が何に夢中になったのかは分かりません。仏教ではなく道教や神仙説の書物も考えられます。しかし、いずれにしろ外来の書物です。まだ書物が存在しない神道の神々を思索したわけではないと思います。

 

 

  

斑鳩法輪寺。聖徳太子の妃・膳部郎女(かしわでのいらつめ)の    

住まい「三井宮(みいみや)」のあとに7世紀半ばまでに建てられた。 

残念ながら江戸期以前の建物は残っていない。          

 

 

 

【33】《第Ⅲ期》 612-622 ――『法華義疏』の思想

 

 

 『法華義疏』は、南朝・梁の光宅寺・法雲が書いた『法華義記』という注釈書をお手本にしています。聖徳太子の経典解釈には、かなり独自の部分が多いと言われています。まだ中国の仏教学を十分に摂取する条件がなく、自己流に解釈した部分もあるでしょうし、それ以上に太子の性格から、お手本をうのみにせず、細かい論旨にまでこだわって論理を追求しようとしたあとが見られます。重箱の隅をつついているような部分も見受けられるのですが、梅原氏の指摘を見ると、それ以上に、独自の大きな構想に発展する芽をもっているようです。

 『法華義疏』では、他の2経と比べて、太子独自の構想がうかがわれる部分は少ないのですが、それでも、一般的な解釈とは大きく異なっている、つぎのようなものがあります。


 「安楽行品第十三」、つまり第13章の最初の部分ですが、ここで経典のテキストは、「4種の安楽行」について述べます。「如来(シャカ)の入滅後に、この悪世に残された私たちは、どのようにして経の教えを弘めていったらよいでしょうか?」と文殊菩薩が釈迦に問うと、シャカは、つぎのように答えます。ここでシャカが述べているのは、求法者が守るべき「行動の心がけ」と「交際の範囲」です〔漢訳よりも、もとのサンスクリット文のほうが解りやすいので、ここではサンスクリット文の訳を掲げます。内容は漢訳法華経とほぼ同じです〕

 

『この世においては、如来の滅後には、求法者は行動と交際の範囲を基礎として、この経説を宣揚すべきである。〔…〕求法者が忍耐強く、心が平静で、心を静める根拠を会得して、心に恐れおののくことがなく、嫉妬の心がないとき、そのようになるであろう。また、求法者がいかなる対象にも心を惹かれることがなく、それらのものの固有な特徴をありのままに観察するとき、そのようになるであろう。

坂本幸男・他訳注『法華経(中)』,1964,岩波文庫,pp.243-245.  

 

 つまり、動揺しないこと、そして特定の人やことがらに執着しないことだ、というわけです。これが、「行動の心がけ」。つぎにシャカは、守るべき「交際の範囲」について述べます:

 

『求法者の交際の範囲とは何か。求法者は王者に親しみ近づいてはならないし、王子にも王の大臣・従者らにも、親しみ近づいてはならない

坂本幸男・他訳注『法華経(中)』,1964,岩波文庫,p.245.  

 

 つづいて、さまざまな異教徒や、苦行者、呪文の信奉者、豚肉業者、猟師、屠殺者、「遊芸人や詐欺師」などを挙げたあと、

 

『これらの者たちが近づいてきたときには、その折々に教えを語り、〔…〕恬淡として語るほかには、かれらと懇意になってはならない。

a.a.O.     

 

 としています。ここで問題になるのは、「近づいてはならない者」の第一に「王者、王子、王の大臣・従者」が挙げられていることです。聖徳太子は自分が「王子」なのですから、近づくなと言っても無理、従者を寄せつけないわけにもいきません。太子は、読んで困ったと思うのですが、次のように解釈しています:

 

『十種の親近せざるべきものあり。

 

 一には、国王や、王子や、大臣や、官長に親近せざれ、と。是れ傲慢の縁なればなり。

花山信勝・校訳『法華義疏(下)』, p.184.      

 

 王者等々と交際してはならないのは、傲慢の原因だからであると。逆に言えば、傲慢にさえならなければ「王者、…」と交わってもよい、と取れなくもありません。やはり太子は、「求法者は、権力とは距離をおかなければならない」という『法華経』の意味を、正面から受け止めることはできなかったと言わざるをえません。

 

 しかし、太子の解釈が特異なのはここではなく、この「交際の範囲」の最後の部分についてです。まず、漢訳『法華経』を読み下し文で見ましょう:

 

『菩薩・摩訶薩は、国王・王子・大臣・官長に親近せざれ。〔…………〕若し、女人のために法を説くときは、歯を露わにして笑わざれ。胸臆(むね)を現さざれ。〔…〕(ねが)って年少の弟子・沙弥・小児を蓄(やしな)わざれ。〔…〕常に坐禅を好み、閑(しずか)なる処に在りて、その心を摂(おさ)むることを修(なら)え。』

坂本幸男・他訳注『法華経(中)』,1964,岩波文庫,p.244-246.  

 

 ↑末尾の「常に坐禅……」以下に対する太子の解釈:

 

『十には、常に坐することを好む少乗の禅師に親近せざれ、と。

花山信勝・校訳『法華義疏(下)』, p.184.      

 

 つまり、最後の「十」について、太子は漢訳とまったく逆の見解を述べているのです。「常に閑かなところで坐禅せよ」ではなく、「坐禅したがる禅師には近づくな」!‥これは、読み違えではありません。上の後すぐ、法雲『法華義記』の見解にも触れて、法雲は、まえの9箇条とは違って「十」だけは「応に親近すべき境なり」としている、と書いているからです。「坐禅者」に親近すべからず、というのは、太子独自の見解なのです。

 

 ところが、サンスクリット本のほうを見ると、驚いたことに、インドの原『法華経』は、太子の見解と同じで、漢訳とは逆。「坐禅者」を否定しているのです:

 

『見習いの僧尼や、僧や尼僧や、若い男や若い女に関心を持ってはならないし、かれらと懇意にしたり、お喋りをしたりしてはならない。また、隠遁生活を重視してはならないし、絶えず隠遁して瞑想に専念してはならない

坂本幸男・他訳注『法華経(中)』,1964,岩波文庫,p.247.  

 

 聖徳太子が、インドの『法華経』原典を知っていたはずはありませんが、おそらく、漢訳を深く深く読み込んで、論理的一貫性のほころびに気づき、漢訳の誤訳に気づいた、ということではないでしょうか。驚くべき天才的洞察というべきでしょう。

 

 内容的に言うと、太子の理解、したがって原『法華経』の見解は、仏教者が社会から隔絶した閑静な環境に閉じこもるのは良くないことだ、そのような独善的なありかたは避けなければならない。むしろ社会の中で、――人々と親しく交わって影響を受けてはならないが――法を説き、実践しなければならない、‥‥ということになるのではないでしょうか。

 

 太子の仏教に対する考え方は、ひじょうに実践的なものだった、と言えると思います。

 

 

奥山久米寺址。奈良県明日香村奥山。7世紀前半の創建。塔跡基壇に 10箇の

礎石が残るが、文献・記録が全くない謎の寺。発掘によって、四天王寺式の

広い伽藍配置だったことが判明している。多層塔は、後代に建てたもの。

 

 

 

【34】「三車火宅」のたとえ

 

 

 『法華義疏』で詳しい注釈が書かれているのは、最初の4つの品です。「譬喩品第三」には「三車火宅」の喩え話があって、『法華経』のなかでも親しまれている部分です。まず、喩え話のあらすじを‥

 

 あるところに大長者がいた。その屋敷は広大だったが、ただ一つの門しかなかった。しかも建物は古く、壁は崩れ、柱は腐り、棟と梁は傾いていた。その家に火事が起こった。家の中には 20人近くの子供たちがいた。長者は屋敷の外に逃げ出したが、子供たちは、それぞれの玩具で遊ぶのに夢中で、火事に気づかないし、逃げようともしない。

 そこで長者は、子供たちを腕力でひと塊にして抱え、むりやり外へ出そうと思ったが、門は狭いのが一つしかないし、子供たちは家中に散っているので、無理だと知った。そこで、「火事だぞ、逃げて出て来い!」と声を限りに叫んだが、子供たちは遊びに夢中なので、長者の言うことはまったく無視して遊び続けた。

 しかし、長者は日ごろから子供たちが欲しがっている玩具を知っていたので、「おまえたちの欲しがっている、いろんな羊車、いろんな鹿車、いろんな牛車がいま門の外にあるぞ。出て来て取らないと、あとで後悔するぞ」と言った。

 すると子供たちは、それらの玩具が欲しいあまりに、たちまち争って走り出て来た
。長者は全員が出て来たのを見て、大いに安心し、喜んだ。子どもたちは、「ぼくの羊の車は、どこにあるの?」「鹿の車を早くください」と口々に言った。

 長者はこれに対して、「風のように速く走る牛の車」を全員に与えた。世にも貴重な宝玉で飾られ、ふわふわの寝床をそなえた、リムジンのような大きな車を、真っ白い速足の牛が曳いているのだ。子供たちはみな、この「白牛大車」をもらって、喚声を上げて乗ったが、不思議にも思った。

 シャカは、この喩え話をしたあとで、舎利弗(シャーリプトラ)に問うた。「長者ははじめ、羊・鹿・牛の車をやると約束したのに、それらより立派な白牛大車を与えたのは、ウソをついたことになるだろうか?」

 「いいえ、ウソをついたことにはなりません」とシャーリプトラは答えた。「巧妙な手段(方便)によって、子供たちに焼死を免れさせた(四苦から救済した)のですし、三種の乗り物(三乗)によって声聞・縁覚・菩薩の3者を惹きつけたうえ、全員に最もすぐれた車(完全な悟りに導くブッダの真の教え)を与えたのですから。」

 

  『法華経』は「一乗仏教」を自認します。「大乗仏教」なのですが、「小乗」の諸派、古い「大乗」の諸派も排除せず、すべてを包括したブッダの “真の教え” だと自己主張するのです。いわば、誰でも乗せてしまう救済の乗り物が「一乗」です。この「一乗」の包括性・無差別性を聖徳太子は強調して、「一大乗」と呼びます。たがいに矛盾対立する諸派を、いったいいかなる論理で包括しうるのか? ここで『法華経』が宣揚するのは、ひとつには「方便」という理屈であり、いまひとつには「如来の永遠性」という教義です。
 
 ブッダの本来の真理は、無差別にすべてを包括して救い上げるものなのだが、それをそのまま述べても、煩悩や、諸教の誤った観念にとらわれた大衆には理解できない。そこでシャカは、大衆に理解されやすいさまざまな俗説を案出して、まずそれらを広めた。これらの俗説が「方便」であり、俗説によって大衆を教化するやり方が「方便」です。
 
 そして、『法華経』の中でシャカが自ら語るところによれば、シャカ自身、つまり唯一のブッダは、永遠の昔から永遠の未来に至るまで、変化することなく地上に存在しているのであり、インド王舎城
(ラージャグリハ)の霊鷲山(りょうずせん)に坐して説法しているのである。しかしそれを言っても人びとは信じないから、シャカが誕生した、悟りを開いた、入滅(死)した、等々の「方便」を語ったのだと。この説法〔もちろん架空〕を録した「如来寿量品(にょらいじゅりょうぼん)」を、日蓮宗などは『法華経』の最重要部分として称揚するのです。
 
 このような教説は、一面いかにも欺瞞的で独善的な理屈に見えますが、諸教を争いなく包括しようとする「統一性」、差別を設けない「平等性」は、評価できます。唯一のブッダの永遠の実在を主張する点は、キリスト教などの一神教に近づいているようにも思われます。
 
 太子は『法華義疏』で、この「統一」「平等」を強調していると、梅原猛氏は論じています。「平等」――というより「無差別」と言うほうが近いと思いますが――について述べた説明を引用してみましょう。

 

『一大乗仏教の特徴は平等ということである。そこでは救済の対象からいかなるものも排除されないのである。声聞も縁覚も菩薩もすべてこの一大乗仏教の中に摂受され包摂される。〔…〕かりに声聞・縁覚・菩薩と分かち、それぞれの機に応じて、それぞれ別の教えを説き、それぞれ別の救済を施すのである。しかしその救済には、所詮差別はなくみな平等なのである。

梅原猛『聖徳太子 4』, p.228. 

 

  「声聞(しょうもん)」とは、シャカの説法を聞いて目覚めた人。ただ、その説法はあくまで「方便」の教えですから、「声聞」は、ほんとうの真理を会得したわけではない。「縁覚(えんがく)」とは、シャカの教団とは無関係に自分で悟りを開いた人。直接ブッダの教えに接しなくとも、何らかの「機縁」があって、ブッダの悟りに近いものを会得した人です。『法華経』は、このような悟りを経由することも認めます。そして、「菩薩」は、ブッダのもとで悟りを得るために衆生救済と自修を重ねる人、つまり大乗の修業者のことです。『法華経』は、「声聞」「縁覚」「菩薩」の3者を「三乗」と呼んで、ひとしく「一大乗」の教えのもとに受け入れようとするのです。

 

『太子はあの『法華経』の火宅の譬喩を情熱をもって語るが、これこそ一乗仏教のもつ平等思想のもっとも明快な譬喩なのである。〔…〕父は子供に、鹿のあるいは羊の、あるいは牛の車をやるからといって、子供たちを火の中から救い出すわけであるが、しかし実際に父が与えたものは、平等な大白牛車すなわち大きな白い牛の車であった〔…〕みな平等に大白牛車をもらったことに注意しなければならない。〔…〕

 

 聖徳太子は仏教という思想を日本におけるカースト制すなわち氏姓制の打破に用いたと思う。〔…〕太子はたとえば姓(かばね)の低い秦造(はたのみゃっこ)河勝に、「冠位十二階」第2位の「小徳」の位を与えた。低い(みゃっこ)姓の秦河勝を、臣(おみ)、連(むらじ)などという由緒ある姓をもつ官人の上においた〔…〕太子と同じく熱烈な仏教信者であった聖武帝と孝謙帝は、低い姓の者に高い姓をさずけ、氏姓制を崩壊せしめ、平安時代の中頃には氏姓制は〔…〕意味を失ってしまった。〔…〕

 

 奈良時代に流行する三論や法相の思想では、やはり悟りにはいろいろの段階があり、ほんとうに悟りを開くことができるのは、本来そのような力がそなわっているエリートに限られると考えている。しかし、太子が「一大乗」と呼んで称揚する法華仏教は、『すべての人間には仏性(ぶっしょう)があり、それらはすべて平等に救われるのであると考えている。

梅原猛『聖徳太子 4』, pp.228-230.  

 

 

吉備池廃寺(「大官大寺」跡)。桜井市吉備。639年に舒明天皇が最初の国立寺院として

建設を始め、645年までに完成。壬申乱後の 673年に高市(橿原市木之本廃寺? 紀寺址?)

に移された。この頃になると、豪族や王家の氏寺と並んで、朝廷の勅願寺院の建立が始まる。

 

 

  つまり、『法華経』の「平等」主義の基礎にあるのは、「すべての人間には(あるいはすべての生命あるものに)仏性がある」という思想――「如来蔵」思想です。「如来蔵」と「仏性(ぶっしょう)」は、ほぼイコールの術語。すべての衆生は「如来(ブッダ)」を宿しているがゆえに、いっさいの者には仏となる能力がある、成仏(解脱)できる、というのです。

 

如来蔵と仏性は、大乗仏教の最終段階の思想であり、東アジアやチベットの仏教思想の形成に大きな影響を与えた。ことに中国において、〔…〕近代になって辛亥革命の指導者たちの理論的支柱になったことは注目に値するだろう。

 如来蔵と仏性は、煩悩の汚れに覆われ、迷いのなかにある衆生が、一点の曇りもない智慧のさとりに達した如来あるいは仏の本性を有すること示す術語であり、端的にいえば衆生の位相にある如来、仏を指す。いまだ迷いや苦悩のなかにあるものにとってのさとりや救いの成り立ちを、すでに迷いや苦悩から解放され真理が実現された如来や仏の境位から言明する
〔…〕一つの思想史の円熟期に位置する思想は、先行する歴史のなかで生まれた異なる文脈の諸概念を共存させるための、より高次の概念を生み出す。』

下田正弘:『如来蔵と仏性』紹介文    

 

  「如来蔵」思想は、『三経義疏』のうちでは、『勝鬘経義疏』のほうに詳しく述べられています。

 

『「曰く、无(=無)作の滅諦は即ち如来蔵なり。〔…〕此の如来蔵は已に惑累を超えて独り自ら清浄なり、〔…〕亦此の如来蔵は、煩悩の中に穏在して、惑累を出づるにあらず。」〔『勝鬘経義疏』〕

 

 結局、人間の最高の悟りの境地、無作の滅諦は、如来蔵という思想を理解することである。この如来蔵とは、煩悩の世界のなかに悟りを隠しているということである。〔…〕その隠れたものが顕れると、真の仏となるというのである。』

梅原猛『聖徳太子 4』, pp.124-125.  

 

 「如来」は、「煩悩の中に隠在して、惑累を出」でず――人間世界の煩悩にまみれて、煩悩と惑いの累積のうちにこそ内蔵されている、と言う。それなのになぜ、「独り自ら清浄」でありうるのか? 煩悩に汚染されて清浄でなくなるとしたら、どうして顕在化すると「真の仏」になりうるのか ?! ‥‥これは、いくら考えても解きようのないパラドックス(逆説)です。

 

『しかしそのパラドックスを信じるか信じないかに、真の仏教者であるかどうかがかかっていると太子はいうのである。そして太子は、このようなパラドックスを信じる人を「真子(しんし)」とした。〔…〕

 

 このようなパラドックスこそ真理であり、このパラドックスを理解し、それを信ずる人間こそ、まさに真実の仏教、一乗仏教の信者なのである。〔…〕

 

 日本の仏教は悟りを煩悩と切り離す道を選ばなかった。〔…〕煩悩を離れた悟りの道を求めず、むしろ煩悩のなかにいて悟りを見つける道を見いだそうとしたのである。』

梅原猛『聖徳太子 4』, pp.128-129.  

     

 



 

 

 

 

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