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コース全景


 

「登山口」バス停~延暦寺西塔
 

 

 

 鹿よけに阻まれたので、もとの道路に戻って、尾根筋へ昇っていく。車が通れる勾配に造られているので、なかなか高度が上がらず、まだるっこしい。

 

 ↓ここで、「西塔」から「横川」へ通じる「峰みち」に合流する。奥比叡ドライブウェイ・峰道レストランのすぐ近くだ。「峰みち」は、「西塔」方向へ上がってゆく。辻に、石仏と道標が並んでいる。

 

 




 


 「右 くろ多尓ミち」。変体仮名を混ぜて「くろたに」と書いてある。「奉 道作」。「道作」は人名か? 裏面には、「南無阿弥陀佛」。

 

 

 

 

 ↑向かい側に立つ碑。「京 先達 井筒屋九兵衛講」「[種字 阿弥陀仏] 奉納 南無阿弥陀佛十万遍業」。「講」の石碑。延暦寺の中心部に近づくと多くなる。幕末か明治のものだろう。「ナムアミダブツ」と、ひとりが 10万回ずつ唱えて、10人で合唱すれば「百万遍」。江戸時代以降の比叡山は、趣味と実益(極楽往生!)を兼ねた民衆信仰の中心地となった

 

 

 

 

 「峰みち」。歩きやすく造られている。急な上り下りはない。

 

 すぐ隣りを、ドライブウェイが走っている。

 

 



 ↓「横川 元三大師道」「☞ 是より 三十二丁」

 

 


 

 

 ヒノキ植林だが、ところどころに、太いモミの自然樹が残っている。コンクリート電柱もあるが。

 

 

 

 

 トンネルでドライブウェイをくぐりぬける。

 

 

 

 

 「元三大師得度之霊蹟」↓。ここで得度――悟りを得たという。それより、右面に記されている行程に注目したい。

 

 「是より 相輪橖へ 二丁 元?黒谷 八丁/八瀬へ 廿五丁 横川へ 三十丁」 「相輪橖(そうりんとう)」は、五重塔の屋根より上の部分を独立した塔にしたもの。このあとの「釈迦堂」の裏にある。

 

 

 


 「西塔釈迦堂(転法輪堂)」↓。本尊は釈迦如来。建物は、秀吉が園城寺(三井寺)の本堂を没収して移築させたもの。「信長の焼き打ち」で全焼した延暦寺復興の中心となった。西塔の本堂となっている。

 

 急に人が増えた。

 

 

 

 

 さっき鹿柵に阻まれて行けなかった瑠璃堂をリベンジしておきたい。

 

 いかにも信仰のありそうな、いかついお兄さんを尾行して行ったら、難なく到着↓。途中、道標のない角を曲がったり、いったんドライブウェイに出て、また山みちに入ったり。ひとりでは行き着かなかったろう。信心深い人には仏の導きがあるのだろうか?

 

 帰りがけに、道に迷っている人と何人も行き会って道を聞かれた。お兄さんは、どこかにいなくなってしまった。

 

 

 


 瑠璃堂↑は、建築年代も、建立のいわれも諸説あってはっきりしない、謎のお堂だ。様式から見ると、室町中・後期。延暦寺には珍しい禅宗様式で、どこかの禅寺から移築したのではないかと言われている。本尊は薬師如来。

 

 

 

 

 すぐ隣りに、さっき鹿柵の向こうから見えていた建物がある↑。「正教坊」という建物で、ネット記事によると、現在工事中(⇒:九夏三伏 比叡山彷徨⑥)。さっき引き返した場所が、すぐそこに見える(黄矢印)。通り抜け禁止は、工事の関係か? 建物のこちら側にも、‥‥電気フェンスはないものの‥‥、ネットが張られて、人の出入りを拒んでいる。

 

 「釈迦堂」前に戻って、つぎの訪問先「常行堂」へは、石段でなく、参拝客の来ない山みちをたどって行く。

 

 

 

 

 阿弥陀如来を本尊とする「常行堂」。平面が正方形の「宝形造(ほうきょうづくり)」。屋根はトチ葺き。

 

  「常行堂」は、人が下を通れる高廊下で、↓右隣りの「法華堂」とつながっている。「法華堂」も、トチ葺きの宝形造で、普賢菩薩を本尊とする。

 

 

 

 

 「常行堂」は、「常行三昧(ざんまい)」を行なうための建物。阿弥陀仏のまわりを回りながら、90日間、念仏を唱え続ける。入唐僧円仁えんにん 794 - 864 第3代座主)が東塔に建立したものが最初で、のち東塔・西塔・横川にそれぞれ存在したが、現在残っているのは、「信長焼き打ち」後に再建された・この建物だけ。円仁が伝えたのは、古式の「引声念仏」で、一音一音を延ばしながら、メロディーをつけて唱う。

 

 正確に知らないが、中国や韓国の仏教は、現在でも古式だと思う。韓国のお寺では、グレゴリオ聖歌のような高い音程のメロディーで、読経していた。

 

 対して、「法華堂」は、「半行半坐三昧」を行なう建物。トチ葺きの宝形造で、普賢菩薩を本尊とする。37日間、本尊のまわりを回って「三帰依文」と『法華経』「安楽行品」を唱える行(ぎょう)と、座禅とを併用する。

 

 この2つの行は、中国天台宗の智顗(ちぎ)が定式化した「四種三昧」のうちの2種で、「三昧」(サマーディ)とは、ヨガで、精神統一が高まった状態のこと。

 

 ところで、俗な説明だと、この「常行堂」と「法華堂」が廊下で繋がっているのは、念仏も法華経も大切だ、どちらもおろそかにしてはならない、という戒めを表わしているのだと言って、2堂を併せて「にない堂」などと呼ぶ。弁慶が、廊下のところを支点にして天秤棒のようにかついだ、などと、ありもしないことを言う。(弁慶は架空の人物だ)

 

 このシンキ臭い嘘っぱちの御教訓を聞かされた嘔吐感のせいで、「にない堂」は、さぞかしキンキラの華美な建物だろうと想像していた。が、現物を見て見直した。「東塔」のキンキラとは違う。ここには、くすんだような、落ち着いたたたずまいがある。「西塔」は、権威の傲慢さではなく、真摯な修業の場のふんいきを持しているようだ。

 

 

 


 「浄土院」。最澄の廟がある。円仁が建立した。

 

 ここはほんとうに閑静なたたずまいだ。石庭は、ここに来て見るのがいいと思った。京都の竜安寺や銀閣寺は、人が多すぎて落ち着かない。

 

 

 

 

  「浄土院」からは、長い急な石段を昇って、着いたところが「山王院」↓。もう脚がへとへとだ。

 

 

 

 

 「山王院」には千手観音が祀られているが、それよりも重要なのは、この地の歴史的意義だ。

 

 ここはもと、円珍の住坊だった。昨日、「大比叡」の中腹にある円珍の廟を見たが、たいへん荒れていた(⇒:比叡山,中央突破(2))。円仁円珍は、ともに、入唐して最澄の伝え残した経典を招来した弟子たちで、延暦寺第3代/第5代座主を勤めている。ところが、この二人の大師の死後に、「円仁派(寺門派)」と「円珍派(山門派)」のあいだで、比叡山を二分する争いが起きる。宗教的争論は、実力の内ゲバに発展した。そして、「円仁派」が「円珍派」の拠点であった「山王院」を襲撃して打ち壊すと、「円珍派」は、そこにあった円珍の木造を背負って山を下り、大津の園城寺(三井寺)に移った。以後、三井寺は延暦寺から独立して別寺院となる。

 

 ちなみに、さきほど見た「釈迦堂(転法輪堂)」が、三井寺の本堂を移築した建物であるのも、両寺間の争いが背景にある。延暦寺は織田信長と対立し、三井寺は信長と友好的であった。信長が延暦寺を焼き打ちしたあと、復興をめざす延暦寺の僧たちは、秀吉に取り入って厚遇を受け、秀吉は三井寺の全財産没収を命じたのだ(1595年)。秀吉は、三井寺金堂(本堂)を比叡山上に移して「転法輪堂」とするよう、延暦寺に命じた。

 

 「転法輪」は、釈迦の行なった説法のことだが、仏典によれば、「転輪聖王」とは、正義によって世界を征服する理想的帝王をいう。当時、朝鮮侵攻のまっ最中だった(文禄・慶長の役 1592,97)秀吉は、自らを「転法輪聖王」だと思っていたのかもしれない。

 

 

 


 「山王院」から、いったん下ってドライブウェイに出会う。石の道標↑がある。「☞」にしたがって上り返すと、「東塔」のいちばん高い場所に出るが、もう登ってゆく気力はない。ドライブウェイを歩いて、「延暦寺バスセンター」↓で、ひと休みするとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

タイムレコード 20211015
 (3)から - 1251鹿柵ネット1258 - 1306道路に戻る [638m]※ - 1317「峰みち」出会い1324 [GPS703m] - 1346釈迦堂1400 [659m] - 1415瑠璃堂 [659m] - 1431常行堂・法華堂1436 [669m] - 1444浄土院  - 1450山王院 [711m] - 1459延暦寺バスセンター1525 [684m]  - (5)へつづく。

 

 (無印の標高は気圧高度。GPS高度と気圧高度をともに記録しているが、地形図等で、どちらか正確な標高に近いと思われるほうを選んで表示する。GPSは意外に不正確だと知れる)