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鏡をのぞくと狼の顔が‥ 映画『荒野のおおかみ』(1974).

 



       荒野の狼

 おいらは荒野の狼小走りまた小走り、
 世界は雪にうもれている、
 樺の樹から鴉
(からす)が舞いあがる、
 兎はどこにもいない、ノロジカがいない!
 ノロジカに逢いたくてたまらない、

 一頭でも見つけられたら!
 この歯で、この腕で捕らえるのに、
 そんなすばらしいことがほかにあるだろうか。
 おいらは心底からノロジカを可愛がってやる、
 やつのなよなよした太ももに思いっきり喰らい込む、
 そいつの真赤な鮮血をたっぷりと呑みつくす、
 そのあとは一晩中孤独な遠吠えを続けるのだ。
 せめて兎一匹いればおれは満足だろう、
 やつの暖かい肉は深夜の美味だ――
 いったいどうして何もかもが遠ざかってしまうのか、
 人生をちょっとでも晴れやかにするものすべてが?
 おいらは尻尾の毛も灰色になり
 ものの形も見分けられなくなった、
 何年も前に伴侶
(つれあい)を失(な)くし、
 いまは走り回ってノロジカの夢を見る、
 兎の幻を見る、
 冬の夜
(よ)にすさぶ風の音を聞く、

 燃える喉を雪で潤し、
 悪魔のもとへと俺の哀れな魂を運ぶのだ。


 


 ↑この詩は、もともとヘッセの同名の小説に挿入された詩なんですが、原題 Steppenwolf は、「荒野」ではなくステップ、つまり「草原」の狼です。

 そもそも、オオカミって、荒野や砂漠にいるんでしょうかね? ↑詩を見ても、樹が生えていたり、ウサギやノロジカがいたり、荒野とは思えませんねw

 そういうわけで、音楽のほうは、「狼」と「草原」に分けて考えないとなりませんが‥、「狼」ときたら、ありきたりの↓この曲を抜かすわけにもいきますまい。。。 


 

プロコフィエフ『ピーターと狼』
序 奏
カール・ベーム/指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

 



「『荒野のおおかみ』(Der Steppenwolf)は、ヘルマン・ヘッセの長編小説。1927年に発表。

 この小説も、ヘッセのほかの小説と同様に、発表以来はげしい罵詈と賞讃の対象になった。第一次大戦後再び世界大戦に向かおうとする社会状況や、急速に発達する文明に翻弄される同時代の人びと、自己と社会に対して省察を加えることなく無反省な日々を送る人々に対して、アウトサイダーの立場から強烈な批判を浴びせた作品とみなされることが多い。しかし、作者の意図は、必ずしもそこには無かった。むしろ、この作品は、人生を、永続する一つのものと解するキリスト教的病理と人格形成に疑問を投げかけ、心理学的知見から、それらの脱構築を試みた作品であるとも評される。

 この作品の主人公ハリー・ハラーと、作者ヘルマン・ヘッセのアルファベットの頭文字は、同じH・Hとなる。また、この作品の最重要登場人物であるヘルミーネは、ヘルマンの女性形である。作者は、この2人の人物に自己の内面を重ね合わせ、自己を分析し、新しい道を切り開こうとしたと評されている。

 この作品は、出版直後から激しく論議され、特に1960年代頃に現れたヒッピーたちに大きな影響を与えた。カナダで結成されたロックバンド『ステッペンウルフ』のバンド名は、この小説に由来する。

 しかし、ヘッセ自身は(1962年没)、執筆意図が誤解されることを大変危惧しており、『アメリカで、この本の意味を理解している人間が3人でもいるか疑問だ』と述べていた。」

  ⇒:Wiki:「荒野のおおかみ」一部改



        ネタバレ覚悟の誤導的あらすじ

 正統な読みかどうかは保証の限りでないうえ、物語の結末をバラして推理小説的興味を失わせてしまう最悪のあらすじをお目にかけよう。もっとも、先に結末を確保したうえで、誤導を叩きのめしながら自力で読み進めたい向きには、いいかもしれないw

 この小説には、3つの主要人物と各々が代表する3つの世界がある。

① 語り手ハリー・ハラーの友人である若い「教授」が代表する勤勉実直なドイツ市民の世界。この世界では、各々が自分の領域を守って、与えられた課題をこなすことに専念している。全体としての社会がどこへ向かっているのか、などという“身の丈を超えた”ことがらには、誰も関心をもたない。また、その世界から脱落したハリー・ハラーのようなアウトサイダーに対しては、軽蔑にみちた忌わしい感情をぶつけ、排除しようとする。

② サキソフォンを吹くジャズ・ミュージッシャン「パブロ」の姿で現れるW・A・モーツァルト。彼はじつは、現代社会では“個人”とみなされている人間の人格を、多数の破片に分解してしまい、それらをチェスの“こま”のように操作するゲームの達人である。作者の芸術家的面の分身といえるかもしれない。パブロが代表するのは、生真面目に現実に向き合う真摯さを、心の底から軽蔑するゲームと遊びの世界であり、麻薬とセックスで舞いあがる夢幻の世界である。

③ 作者の分身であり“荒野の狼”であるハリー・ハラーと、そのまた分身である少女ヘルミーネの世界。作者自身の子供~少年時代にまで遡及する、もっとも切実な分身といえよう。①の「教授」の小市民的世界から脱落したハリーは、ヘルミーネの導きによって②の夢幻の世界に引きこまれてゆくが、さいごには、その夢幻の中でヘルミーネを刺し殺し、②の世界からも脱落する。逆にいえば、①のみならず②もまた、作者が“ほんとうに”めざす世界ではなかったのである。

 ありきたりの言い方をしてしまえば、①は“倫理的生活”、②は“美的生活”で、ハリーは、それらのあいだをさまよったあげく、“どちらでもない”と叫んで終る‥‥とも言える。しかし、キルケゴールとは違って、①②を超える第3の段階は、この小説では、示されていない。

 キルケゴールの「神学的段階」になぞらえていえば、ヘッセは、この小説でも、はしばしで仏教に言及してはいる。しかし、この小説では、仏教(小乗的、自己修練的な)は、②の世界に埋没してしまっていて、小説『シッダールタ』に描かれたような独自の世界を繰り広げてはいない。


 市民的な生活に馴染もうとする自分と、その生活を破壊しようとするおおかみ的な自分。二つの魂を持つハリーは、自刹を逃げ道にしておき、それによって、かろうじて精神の均衡を保っている。そして、そういう自分は「荒野のおおかみ」なのだと考えていた。

 ある日、彼を夕食に招いてくれた「教授」の家で、ハリーは、市民的に当たり障りなく描かれたゲーテの肖像画を見て、うちのめされる。「教授」は、「ハラー」という、ハリーと同名の反戦ジャーナリストをこき下ろした新聞記事を見せて、軽蔑と憤りを露わにする。(じつは、新聞で槍玉に挙げられているのはハリー・ハラー自身であり、教授はそのことを知らない、という状況が言外に暗示されている。)

 ハリーは、“市民世界”の中で生きる希望を失い、街をさまよい歩いたすえ、えたいの知れない場末の居酒屋に入りこんでしまう。そこは、麻薬と娼婦と乱痴気騒ぎにあふれかえった場所だった。

 ハリーは、そこで娼婦の少女ヘルミーネと知り合ってジャズ・ダンスを教えられ、彼女に紹介された官能的なマリアとセックスをするが、ハリーは、精神的な少女ヘルミーネに、より大きな関心をもっている。そのあと、ハリーは、ヘルミーネが、楽団のサキソフォン吹きパブロと寄り添って昏睡しているのを目撃する。二人は全裸で倒れており、見るからに濃厚なセックスの後だった。


 パブロは、ハリーを「魔術劇場」に導き、彼の前にモーツァルトの姿で現れる。

 「魔術劇場」の・ある部屋では、戦場で“自動車狩り”が行われている。これは「ブリキの安物文明世界を全面的に破壊する道を開くべく努力している戦争」なのであった。

 次に、ハリーは、自分の人格が無数のチェスの“こま”となり、将棋さし――じつはパブロでありモーツァルトでもある――が様々な局面を随意に形作るさまを見る。サーカスで人間使いのおおかみによって猛獣のように扱われる人間ハリー。少年時代に遡り、初恋の少女と過ごす平穏なひととき。過去のすべての女性遍歴。そしていよいよ彼岸の世界に辿りつく。『ドン・ジョバンニ』の音楽が流れるなか、モーツァルトに出会う。モーツァルトは指揮して月や星を操っている。モーツァルトは、じつはパブロであり、さきほどの将棋さしその人である。

 混沌とした幻想の後、ナイフを手にしたハリーは、ヘルミーネを刺し殺し、裁判にかけられる。陪審団は有罪を宣告し、ハリーが望む死刑ではなく、「永久に生きる刑」に処する。裁判長の音頭で、臨席者全員が爆笑し、ハリーを笑い倒す。

 モーツァルト=パブロが現れて、ハリーを断罪し、なじる:

 「君は笑うことを学ばねばならない。それが君に必要なことだ。人生のユーモアを
〔…〕理解しなければならない。ところが、〔…〕君は、どうでもよいあらゆることに対して覚悟ができているのに、自分に必要なことは、何もわかっちゃいない。〔…〕君は、りっぱな態度で処刑に臨む覚悟ができている。それどころか、百年間禁欲しつつ、自分を鞭打つ覚悟だってあると言いたいんだろう。〔…〕

  まったく、ユーモアのない、ばかな催しには、君は何にでも乗ってくるんだ。君という気前のいい男は、悲壮で、機知のないものには、何にでも財布をひっくり返そうとする。〔…〕君という卑怯者は、死ぬことばかり欲して、生きることを欲しない。ばかな話だ。君は、まさに生きなければならない!」

 モーツァルトは、パブロの姿に変って、さらに言う:

 「あんたはあのときすっかりわれを忘れて、私の小劇場のユーモアをぶち壊し、醜態を演じましたね。ナイフで突き刺し、われわれの美しい絵の世界を現実のシミで汚してしまいました。あの仕打ちは感心しませんでしたね。ヘルミーネとぼくが寝ているのを見て、まあ嫉妬からやったことなんでしょうが。」

 こうして、すっかり断罪されて②の世界からも脱落者の烙印を押されてしまうハリーであったが、それでも彼は、こう呟くのである:

 「ああ、私はすべてを理解した。パブロを理解し、モーツァルトを理解した。
〔…〕その遊戯をもう一度始め、その苦悩をもう一度味わい、その無意味さにもう一度おののき、自分の内部の地獄をもう一度、いや幾度でも遍歴しようと思った。

  いつかは
〔…〕私も笑うことを覚えるだろう。〔…〕

 つまり、彼は、相変らず真摯至極の“鞭打ち行者”なのである。ゲームと遊びを解しないカタブツの老人に、今後なお「幾度でも遍歴」されることになるパブロたちの「劇場」こそ、いい迷惑であろうw

 しかし、逆にいえば、ハリー=ヘッセにとって、この美的「劇場」は、終着駅ではなかった。なぜなら、パブロ=モーツァルトは、彼らの夢幻「劇場」で遊びまくっているだけで、小市民的現実世界に対して、何らの影響も及ぼしえない。
そればかりか、彼らの無軌道ぶりは、結局のところ窮屈な市民社会の“息抜き”でしかなく、むしろ現実の不条理を、裏から支える役目をしている、とさえ言えるのである。
  ⇒:ヘッセ『荒野のおおかみ』,高橋健二訳,改版,新潮文庫. ならびに、ヘッセ「荒野のおおかみ」―プレコの日記 を参考にさせていただきました。



 そこで、「ステッペンウルフ」ですが、有名すぎるこの曲↓は?

 映画「イージー・ライダー」の冒頭シーンに流れてから超有名になったので、どなたもどこかで聞いたことがあるはずですよw

 こういうのが、ヘッセ死後のヘッセ偶像化につながったんでせうねw⇒:ヘルマン・ヘッセ・フェスティヴァル実況 本人が、これを見ないで死んだのは、まことに幸いでした←

 

 

マーズ・ボンファイヤー『ワイルドでいこう』
(Born To Be Wild)
ステッペンウルフ,1969年ライヴ

 

 



映画『荒野のおおかみ』 ジャケット  
 



 後半は「草原」にまつわる曲。ハチャトゥリヤンのバレエ音楽『ガヤネー』から、まだ紹介してなかった中央アジアの舞曲を。

 クレジットには「クルド族の踊り」とあるのですが、『ガヤネー』の舞台は、アルメニア。近年話題になっている・トルコ・シリア国境のクルド人と、同じなのでしょうか?

 調べてみると、クルド人は、トルコ、イラク、シリアだけでなく、イラン、アルメニア、ジョージア、ロシアなどにも住んでいるとのこと。それどころか、イスラエルにはユダヤ教徒のクルド人がいるというから、ほんとに広い範囲に散らばっているんですねえ。なにせ、“自国を持たない世界最大の民族”なのですから‥


 

ハチャトゥリヤン・組曲『ガヤネー』
「クルド族の踊り」
ロリス・チェクナヴォリヤン/指揮
ナショナル・フィルハーモニック管弦楽団

 

 

ハチャトゥリヤン・組曲『ガヤネー』
「クルドの若者の踊り」
ロリス・チェクナヴォリヤン/指揮
ナショナル・フィルハーモニック管弦楽団

 


 ↓『草原情歌』は、NHK「みんなのうた」で放送されて以来、日本でもよく知られていますが、もとは、新疆・イリ地方のカザフ族の歌だそうです。イリ地方‥‥天山北路と言えばイメージが湧くでしょうか。  ⇒:天山北路(画像)

 カザフ族は、カスピ海北岸から、新疆、モンゴル西部まで広がって生活する人びとで、もとは 100%遊牧民だったそうです。

 ↓この音源、日本で歌われているのとは少し節まわしが違いますが、こちらが本来のメロディーらしいです。「みんなのうた」は、中村勝彦編曲のメロディー。

 ところが、驚いたことに、今は、その日本人向けに編曲したメロディーのほうが、中国に逆輸入されていまして、‥‥ヨウツベを見る限り、なんと中国人向け『草原情歌』のほとんど全部が、いまは、日本式逆輸入メロディーのほうになってしまっています。“カラオケ”文化侵略おそるべし !!


 

『草原情歌(在那遙遠的地方)』
王洛賓/作詞
新疆カザフ族民謡
ホセ・カレーラス/vocal

 


「在那遙遠的地方,有位好姑娘,
 人們走過了她的帳房,都要回頭留戀的張望。

 ツァイ・ナー・ヤォユェンダ・ティーファン
 ヨウ・ウェイ・ハオ・クーニャン
 レンメン・ツォウグォラ・ターダ・チャンファン
 トウ・ヤオ・ホイトウ・リューリェンダ・チャンワン

 はるかはなれた そのまたむこう
 だれにでも好かれる きれいな娘がいる

 她那粉紅的笑臉,好像紅太陽,
 她那美麗動人的眼睛,好像晩上明媚的月亮。

 明るい笑顔 お日さまのよう
 くりくりかがやく目は お月さまのよう

 我愿抛弃了财产,跟她去放羊,
 毎天看着那粉紅的笑脸,和那美丽金边的衣裳。

 すべてを捨てて 羊飼いになり
 かわいいあの子を毎日 見つめていたい」

訳詞:青山梓/劉俊南/ギトン(3番)    





      《荒野の狼》から朗読したあとで

 ひと晩かけて自分の詩を朗読する機会が与えられた、
 親愛なる二人の友人が聴いてくれるのだった;
 わたしが次々と読みまくってゆくあいだ、彼らは赤葡萄酒で寛
(くつろ)いでいる、
 わたしは温かくなり、熱くなり、彼らは詩の着想を褒め上げた、
 すばらしい出来栄えだと言い、礼を述べ、小さく欠伸
(あくび)をした、
 そして寝室へ去って行き。わたしはひとり取り残された、
 王冠を取り上げられ、原稿に埋もれる癲狂院
(てんきょういん)の王、
 ああ、彼らがあと一時間いっしょにいてくれたなら!
 わたしはよろこんで、鎮めのワインを傍らに注
(つ)ぎ、
 熱した身を徐々に冷まして再び大地を踏みしめたことだろう!
 ところが彼らはわたしがそれをし終えないうちに、
 逃げてしまった、親愛なる友らは;
 まったくだしぬけに、わたしは地上に墜落していた、
 胸糞悪く、すっかり興ざめして! 陰惨にわたしを見つめる原稿紙、
 わたしはなすすべなくここに坐し、なお坐している、
 わたしはワインをすすり、書きこんだ紙を見つめ、
 すすり、見つめ、朗読なんぞしなければよかったと思い、
 夜が明けるまで一睡もせず横たわろうとしている。



 

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