詩文集(7)――戦場の友へ

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1919年ドイツ・ミュンヘン





     夜半に友を想う

 この禍々しい年は秋が早い……
 夜ひとりで歩いていると、風は帽子に吹きすさび、
 雨は音を立てる…… そしておまえは? おまえはどうしているか、わが友よ?

 おまえはあるいは野辺に立ち、三日月を見ているかもしれない、
 小さな弓の形が森を渡って行き
 野営の紅い炎と漆黒の谷間、
 あるいはおまえは空の下で藁に臥し、眠っているかもしれない、
 おまえの額と兵隊外套に、つめたい夜露が降りる。

 あるいはもしかすると今夜おまえは馬に乗り
 前哨についているかもしれない、短銃を握り偵察をつづけながら
 疲れきった駄馬をささやくようにあやしているかもしれない。
 ぼくにはどうしてもそんな気がするのだ、おまえは今夜招かれて
 広い庭のある異国の城に入りこみ
 蝋燭の明かりの下で手紙を書いている
 館
(やかた)の袖で見つけたタイプライターに向って
 キーをがちゃがちゃと鳴らしている……

 

-しかしもしや、

 おまえはもう静かになって、死んでしまったのではないか、
 おまえのなつかしい誠実そうな眼に、もはや昼の日は照らさない、
 おまえのなつかしい褐色の腕は、だらりと枯れてさがり、
 お前の白い額がぱっくりと口をあく --おお、こんなことなら
 こんなことになるとわかっていたら、あの別れの日に
 ぼくはおまえにもっと何かを言っておくべきだった、口に出すことのなかった
 ぼくの愛、おまえにたいするぼくの臆病すぎた愛について!

 それはもう知っている、わかっているのだと……おまえは笑顔で
 異郷の城から、夜の闇に向って頷き返しているかもしれない、
 湿っぽい森をゆく馬の上で、
 硬い敷き藁の上でまどろみながら、
 おまえはぼくのことを考え、笑顔で頷いているかもしれない。

 

-けれどもしや、

 もしかすると、いつかおまえは戦(いくさ)から帰ってきて
 とある晩ぼくの部屋に入って来る、
 ぼくらはロングウィー、リュッティヒ、ダンマキルヒについて語り、
 おまえは誠実そうに微笑み、すべてはもとどおり、
 誰も自分の抱いた不安のことは語らない、
 戦場での夜の不安と優しい想いについて、
 愛について語られることはなく、ただ一言の軽い冗談で
 おまえは不安も、戦も、重苦しい数多の夜も
 男どうしの友情のいなづまのような戦慄も
 過去未来永劫の無の中へと退かせてしまうのだ。




 ロングウィーは、フランスのベルギー国境に接する城砦都市。1914年8月、第1次大戦開戦とともにドイツ軍の手に落ちた。鉱山・炭坑に近い製鉄都市であったため、ドイツはこの地域の獲得にこだわり、大戦中 1917年にはアルザスのドイツ領・フランス語地域との交換による和平をフランス側に提案しています。結局ドイツの敗戦となり、両方ともフランスに取り戻されることとなったのですがw

 リュッティヒ(リエージュ)は、ベルギー西部の都市。1914年8月、開戦数日後にドイツ軍に占領された。

 ダンマキルヒ(フランス名ダンヌマリー)は、ドイツ領上部アルザスの村、第1次大戦初期の1914年にフランス軍が占領し、野戦司令部を置いています。


 ところで↑上の詩では「男どうしの友情(Männerfreundschaft)」と書いていますが、これが同性愛を隠すための婉曲な表現であることは、「いなづまのような戦慄」といった語句(詩文集(5)参照)によって明らかでしょう。

 しかし、最後の第6連からわかるように、この詩を書いた時点(開戦の約1か月後)では、ヘッセは楽観的すぎました。いや、ヘッセだけではありませんでした。この世界大戦が5年にもわたって続こうとは、当時誰も予想していなかったのです。

 西部戦線の塹壕戦による膠着状態の中で、交戦勢力双方が高唱した“正義のための戦争”は、いつ終るとも知れない悪夢と化したのでした。


 


第1次大戦、ソンムの戦闘――英軍部隊




 幼年時代のヘルマン・ヘッセはスイス国籍を持っていましたが、牧師だった父の意向でヘルマンをドイツの神学校に入れるため、一家でドイツ(シュヴァーベン州)に帰化していました。

 第1次大戦がはじまった時、ヘッセはスイスに住んでいました。

 しかし、ドイツ国籍だったヘッセは、ドイツ人捕虜のための支援事業に協力し、各地の捕虜収容所に書籍を送る無償の事業に忙殺されました。その一方でヘッセは、ドイツの兵役を忌避し、平和と政治批判の文章をスイスの各新聞に寄稿していました。

 しかし、当時ドイツの著名人で戦争を批判する人は稀でした。文豪トーマス・マンも、この戦争は英仏の物質主義に対する闘いだとして、好戦熱を煽る論陣を張っていたのです。

 孤立無援のヘッセでしたが、フランスの平和主義者ロマン・ロランが、ヘッセの自宅に訪ねて来ました、ロランもまた、自国の捕虜支援のためにジュネーヴに来ていたのです。


 

「1915年9月にヘッセは捕虜収容所の仕事その他の用務でドイツに旅行した。その時のドイツ人の生活態度を、戦争の緊張した空気を背後に持ちながら、静かに、落ち着いて生活しているそのようすを、〔…〕好意と同情をもって観察して、〔…〕『新チューリッヒ新聞』に発表した。これに対して〔…〕『ケルン新聞』がヘッセの文章の中の一部をとり上げて、『宿なしの兵役忌避者』と罵った。この『ケルン新聞』の記事は更に各新聞に取り上げられて、ヘッセを『裏切り者』、『節操のない男』と罵った。〔…〕ドイツの 20 にも及ぶ新聞がこの機会に一気にその憎悪をふき出したのである。〔…〕未知の人々から侮辱の手紙が沢山来た。出版者達はこんな忌わしい志操を持っている著者は自分たちにとっては存在しないも同然だ、といった。〔そしてヘッセの本の出版を拒否した――ギトン注〕こういう時にヘッセを弁護したドイツの友人は2人だけだった。」

 ヘッセは 1917年「12月の『平和になるだろうか』という文章では、人々が平和の実現のためにあらゆる努力を傾けるように呼びかける。〔…〕現実に『この世界に於いて戦争の継続を正気で願っている者はほんの僅かにすぎない。』それなのにみんなが怠慢で、臆病で、心のどこかで戦争を許容しているから戦争が行われているのだ。政府の閣僚も、軍隊も、我々傍観者達もそうなのだ。

 『真剣に願えば戦争を終結させ得ることを我々はみな知っている。また真に必要だと感じていることであるなら、どんな実現でも、いや、最も勇気を要する実現ですら、あらゆる抵抗を排して実現させていることを我々は知っている。』」


 ヘッセのこの言葉は、たいへん示唆的です。国家の誤った意思決定を正すために、また政治の流れを変えるために、ツイッターで“がなる”必要もなければ、デモに参加する必要も、ビラ配りに動員される必要もないのです。要はひとりひとりの心がけしだい、各自にできることをすればよいのです。まして、ヘッセのこの時代には、選挙権さえ一般の人にはありませんでした。

 “みんながほんとうは思っていること”が実現しない理由は、ひとりひとりの被害妄想的な臆病と怠惰以外の何ものでもありません。


 「しかしいよいよ〔ギトン注――1918年〕11月に平和がおとずれたとき〔…〕ヘッセにとって一番不思議だったことは、だれひとりとして平和を祝わない、ということだった。」

「ヘッセにとって、昨日までは愛国的な言葉を吐いていたのに、今日は革命的な言葉を吐いている利口な人間ほど侮蔑に値する人はいなかった。」

井手賁夫『ヘッセ』,1990,清水書院,pp.90-94.
 

 

 ドイツの第1次大戦後の状況は、日本の第2次大戦後の状況に、よく似ていたようです。“社会主義者”を自称する人々が、戦争中は無垢の人々を戦争に駆りたて、敗戦と同時に“平和主義”に転向して、わがもの顔に民主主義と平和を唱えたのです。

 これをいまの時代に読みかえれば、昨日は民主主義と平和を唱えていた人々が、こんどはまたナショナリズムをがなり立て、排外主義を煽っている状況を見ないわけにいかないでしょう。






     戦争がはじまって4年目

 宵はつめたく悲しげにすぎ
 雨は降りしきるとも
 わたしは歌をうたう、このつかの間に;
 耳を傾ける者がいようといまいと。

 世界は戦争と不安に締めつけられていようとも
 そこここで、ひそかに
 誰に見とめられるともなく
 愛は燃えている。


 

 

 

 

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第1次大戦――破壊されたベルギー・イーペル市