赤い線(下方)は 11月11日の ,
青い線(下方)は 11月12日の ,
赤い線(上方)は 11月14日の ,
青い線(上方)は 11月15日の ,
各軌跡。.
青い線は 11月12日,赤い線は 14日の軌跡 .
「元明天皇陵」。
ここが元明天皇〔在位:707-715〕の陵墓だというのは宮内庁の指定だが、「延喜式」〔編纂:905-927〕に基いている。江戸時代には、別の場所を主張する複数の学者の異論があったようだ。ともかく、『続日本紀』の同時代記事と元明自身の生前詔によると、土を盛り上げた墳墓ではなく、自然の山に掘った「竈 かま」で火葬を行ない、そのままそこを墓所とした。ところが、現在の「元明天皇陵」には楕円形の墳丘があるようだ。幕末に施した「修補」工事で、古墳の形に成形してしまったのだろうか?
そこから「元正 げんしょう 天皇陵」↓までは、すぐだった。要するに、両陵とも幹線自動車道から来やすいように拝所を作っているのだ。お偉いさんの便宜のためには、そうでなくてはなるまい。
「元正天皇陵」については、「元明天皇陵」のような疑義は出ていないようだ。というより、元正天皇〔在位:715-724〕は、「平城京」を造営・開都した元明天皇のような有名な天皇ではないので、学者の興味を惹かないのかもしれない。
じつは、当初の計画では、ここから JR「平城山 ならやま」駅に抜けて「続やまのべ」の終点にしようと思っていた。「影媛 かげひめ」伝説の終着地は「ならやま」だからだ。しかし、ここから「平城山」駅までの間には、史跡といったら「瓦窯 かわらがま 跡」ぐらいしか見当たらないのだ。しかも、『日本書紀』の「影媛」和歌には、「小佐保」という地名も出ていた。ならば「佐保」へも行っておかねばなるまい。「佐保」から JR の線路を挟んで西には「佐紀古墳群」が広がる。このさい、それも見ておきたい。そういうわけで、このあとも奈良県の「ウォークルート」をなぞって、近鉄「平城」駅まで往くルートとなった。
とすれば、まず「ウォークルート」に戻らなければならないが、「ウォークルート」は、なんと、↑あの高くの「黒髪橋」を通っている‥‥
遠回りして、なんとか上がってきた。「黒髪橋」。わあ、高い高い。‥‥しかし、この鉄骨橋は向こうに傾斜している。足音が響くし、少し揺れているような気がする。
橋の上から北側の展望:
「ならやま」の丘陵を越えた向こう↑は、木津川の低地から京都府方面。
南側の展望:
「ロート・フィールド/スタジアム」↑。左手には、若草山,春日山,高円山,‥‥とつらなる山々。あの山裾に沿って、ここまで歩いてきた。
かつて、ここは「黒髪山」という山だった。明治時代に、「黒髪山」を貫いてトンネルが掘られ、「大仏鉄道」が、関西本線〔当時は「関西鉄道」〕と奈良をつないだ。まもなく「大仏鉄道」は廃止され、残されたトンネル↓は、付近の住民が利用する生活道路となった。
しかし、1960年代になると、日本じゅうを席巻した開発の波はここにも及び、「黒髪山」にはディズニーランドを模した「奈良ドリームランド」が建設された。「ドリームランド」には、近畿一円から遊覧客が集まり、周辺施設は拡張され、「黒髪山」は崩されていった。そして、このトンネルも崩されて切通しとなり、拡幅された幹線道路が通った。
そして、「黒髪橋」が残った。
昭和30年代中頃の「黒髪山トンネル」©www.library.pref.nara.jp / 中村 榮。
「黒髪山」には、『古事記』由来の「狭穂姫伝説」が伝わる。兄妹で皇軍と戦った狭穂 さほ 姫が、戦いの前に自らの髪を切ってここに埋めたのだという。別の説では、「くろかみ」は「闇龗 くらおかみ」〔峰の龍神「高おかみ」に対する谷の龍神〕から訛った名称だという。最近では、「黒髪橋」には夜な夜な女の幽霊が出るとのうわさが囁かれている。いにしえも今も、「黒髪山」には悲話と陰湿なイメージがつきまとう。
ぬばたまの 黒髪山の 山すげに 小雨零 ふ りしき しくしく思ほゆ
『万葉集』巻11-2456, 詠人不識 .
ぬばたまの 黒髪山を 朝越えて 山下露に 沾 ぬ れにけるかも
『万葉集』巻7-1241, 詠人不識 .
橋のすぐ西にある「黒髪山稲荷神社」には、そうした伝説の神々が吹き溜まった感がある。
神社のいちばん奥には、「白瀧大神」を中心に、神名を彫りつけた石碑がぎっしりと並ぶ。
「白瀧大神」は各地にあるが、竜ないし蛇をイメージする民間信仰のようだ。「お金大明神」という名も見える。このほか、「七ツ石」という磐坐もある。詳しくは、こちらを。
「奈良ドリームランド」は 1961年に開園したが、世紀末までには各地に USJ をはじめとするテーマパークが簇生して客を取られ、2006年に閉園。遊具の撤去に費用がかかるなどの理由から、跡地の入札にも応募者がなく、ごく最近まで「ドリームランド」の施設・遊具がそのまま放置されゴーストタウン化していた。そこに、正体不明の集団が入りこんで周辺住民の恐怖を募 つの らせたため、現在は、ご覧の通りの更地に整理された。
閉園後、2013年の「奈良ドリームランド」©wikimedia。
「しくしくと小雨降りしく」黒髪山を崩し均 なら して見栄えのよい遊園地にしても、けっきょくは元の黙阿弥に戻ってしまう。しかも、崩してしまった山を元に戻すことはできない。この半世紀に近い期間の喧騒は、いったい何だったのか? とどのつまり、それは、巨大な廃墟を現出させただけではないか。
「開発」という虚飾の行為は、国土をただ空 むな しくするだけだ。
黒髪に 艶 つや ものどもの つめの痕
と言ったら、言い過ぎか?
廃墟をあとにして、坂をだらだらと下りていく。
「興福院」↓。「こんぶいん」と読む。古くは「弘文院」とも書いた。浄土宗の尼寺で、豊臣氏の庇護を受けたものの「大坂夏・冬の陣」で衰微、江戸時代に再興、現在地に移された。
タイムレコード 20251114 [無印は気圧高度]
(7) から - 1426元明天皇陵[90mGPS]1433 - 1440元正天皇陵[80mGPS]1500 - 1506「奈良坂南」交差点[95mGPS]1510 - 1520「黒髪山稲荷神社」[119mGPS]1523 - 1527黒髪橋[104mGPS] - 1549「興福院」入口★[79mGPS] - 1602「法蓮町」バス停[75m]。
踏査記録⇒:YAMAP
最終日11月15日の軌跡:
15日の行程グラフ↓。
シルエットは行程の標高(左の目盛り)。折れ線は歩行ペース(右の目盛り)。標準の速さを 100% として、区間平均速度で表している。横軸は、歩行距離。
赤い線は 11月14日,青い線は 15日の軌跡 .
「佐保小学校」バス停から出発。
きのうの「興福院」から先をたどるのだが、その前に、近くに「大仏鉄道記念公園」というのがあるので行ってみる。佐保川の橋のたもとに、ポケットパークのような小さな公園があった。
冬のツバキで白いのは、めずらしい。
きのうの「黒髪橋」の切通しになる前の「黒髪トンネル」を通って、さきほどの「佐保小学校」の近くに「大仏駅」があり、ここで佐保川を渡って今の「JR 奈良駅」に通じていたわけだ。京都,大阪から奈良に往く鉄道は、当時すでに2線あったのに、無理をして山越えして新しい線を敷設したのは、当時は「鉄道国有化」前で、3つの鉄道会社が「奈良乗り入れ」を競争していたためだった。
きのうの「興福院」入口に戻って、県指定の「ウォークルート」に繋ぎ、先へ進む。
「ウォークルート」は、以前に奈良市が指定した「歴史のみち」をなぞっている。どういう古道か判らないが、山裾に沿って、寺社の立ち並ぶくねくねした道が続く。「平城京」の北端よりも 200-300メートル離れて並行している。中~近世の街路だろうか? それとも、「山辺道」と同じ古い路なのだろうか?
ガイドには無いが「長慶寺」という寺があったので、入口まで行ってみる。が、鎌倉の「長慶寺」のような駆け込み寺ではなさそうだ。入口に漢文の碑〔なぜか英文もある〕が林立して、無言の障壁になっている。これだけ漢字だらけの碑を見せつけられたら、なみの観光客は敬遠してしまうだろう。
宗旨は融通念仏宗。大正時代に地元の名士(相当の変わり者)が建てた。創建者の没後は閉山、立入禁止だそうだ。詳しくはこちら。
天上 天下 てんじょうてんか 唯 ただ 有此地而已 このち あるのみ
長慶寺
くぼみの中のレリーフ↓が、開創者吉村長慶氏らしい。1世紀近くたってみれば、「つや者ども」のひとりにすぎなかったのか?
大伴家持の歌碑まである。
わがやどの いささ むら竹 ふく風の 音のかそけき この夕 ゆふへ かも
『万葉集』巻19-4291, 大伴家持 .
つぎは「瑞景寺」。江戸時代の創建。黄檗宗 おうばくしゅう の禅寺。
つぎは「狭岡神社」。ようやく古い由緒の寺社に遭遇か。
タイムレコード 20251115 [無印は気圧高度]
1011「佐保小学校」バス停[74mGPS] - 1015「大仏鉄道記念公園」[73mGPS]1030 - 1037「興福院」入口★[78mGPS] - 1059「瑞景寺」[77mGPS]1102 - 1107狭岡神社[90mMAP]1115 - (9) へつづく 。


















































