アメリカの公民権運動。1968年3月29日、テネシー州メンフィス。軍が封鎖した
通りをデモ行進する公民権活動家たち。“I AM A MAN”.©Bettmann / Getty.
【14】 「世界システム分析」への批判――
(δ) 「ポスト」系の諸学派
『カルチュラル・スタディーズと結びついた・さまざまな「ポスト」系の研究の勃興についてであるが、彼らによる世界システム分析への攻撃〔…〕もまた、「国家の自律性」論者〔…〕と同様の議論』を用いてきた。『世界システム分析は、上部構造(この場合は文化の領域)を経済的下部構造から派生するものと把えており、文化的領域の中心的・自律的現実性を無視しているという』のだ。
ウォーラーステイン,山下範久・訳『入門・世界システム分析』,2006,藤原書店,p.63. .
「カルチュラル・スタディーズ」は、ウォーラーステインの「世界システム分析」とほぼ同じころに盛んになった潮流で、さまざまな地域・分野の文化状況について、政治学・経済学・社会理論・文学理論・メディア論・文化人類学・哲学などの知見と手法を領域横断的に利用しながら探究してゆく学派動向です。イスラム,アジア,アフリカ,アフリカン・アメリカ,などの地域・地域集団ごとに、また、先進国マスカルチャー,フェミニズム,ジェンダー・マイノリティ,などの分野ごとにまとまる傾向があります。サバルタン・スタディーズ,サイード,スピヴァクらの「ポスト・コロニアリズム」〔植民地主義・帝国主義に関する、文化を中心とする批判的研究――ギトン註〕や、「ポスト・モダニズム」とも関連しているようです。
しかし、ここでウォーラーステインが取り上げているのは、20世紀後半の「カルチュラル・スタディーズ」から影響を受けて 21世紀に活動中の “第2世代” の著者たちのようです〔本書の原著は 2004年発行〕。ウォーラーステインは個別の著者名を挙げていないので、はっきりと断定はできませんが。。。。私の感覚では、もともとの「カルチュラル・スタディーズ」の主張は、ウォーラーステインにもかなり近いものだったと思うのですが、現在の “第2世代” は、「カルチャー」の個別独自性の主張を強めて、「世界システム」のような全体史的な考え方には批判的になっているのかもしれません。ともかくここでは、ウォーラーステインの云う現在の「ポスト系」について、彼の紹介と反批判を要約しておきます。
『また、彼ら〔「ポスト系」の研究者たち――ギトン註〕は、世界システム分析を、法則定立的実証主義と正統派マルクス主義の双方の欠陥を有する〔…〕「大きな物語」の一変種にすぎないという〔…〕。〔…〕彼らは世界システム分析を経済主義だと批判する。〔…〕彼らは、世界システム分析が、異なる諸文化のアイデンティティの・還元』されえない『自律性を受け入れておらず、それゆえヨーロッパ中心主義的であると非難する。要するに、〔…〕世界システム分析は、「文化」の中心性を無視している、というわけである。
〔…〕世界システム分析は、たしかに「大きな物語」である。』が、『あらゆる知の活動は必然的に大きな物語を伴なう〔「カルチュラル・スタディーズ」や「ポスト系」もまた、語る人ごとに異なる「物語」であることを免れない――ギトン註〕、〔…〕そのなかには、相対的に現実をよく反映しているものと、そうでないものとがある〔…〕。世界システム分析が全体史〔…〕を主張する』のは、「ポスト系」のように『経済的下部構造に替えて、文化的下部構造を据え』て、経済ではなく文化こそが「中心的」であると主張す『ることを拒否しているのである。』むしろ『世界システム分析は〔…〕、経済的分析様式,政治的分析様式,社会文化的分析様式のあいだの境界線を無く』した総合的全体史的分析『を志向している。〔…〕
世界システム分析』のほうから見ると、「ポスト系」は概して『角を矯 た めて牛を殺す』弊がある。『科学主義に反対することと、科学に反対することとは違う。時間を超越した構造という概念〔永遠の真理――ギトン註〕に反対することは、(限られた時間持続する)構造の存在』を否定することではない。『現在の諸個別科学の組織構成は』見直すべきであるが、だからといって、『研究者が共同で達するべき知』などありえないと決めつけるのは不当である。
チェコ事件。ソ連軍が侵入したチェコスロヴァキア,プラハで。抗議する市民と
燃え上がる戦車。1968年8月。©The_Central_Intelligence_Agency.
『文化的個別主義にとっては、〔…〕われわれひとりひとりが他のひとりひとりすべてにたいして、固有の自律的な言説の行使者である。』彼らは、『普遍主義を偽装した個別主義に反対する』。しかし、それだからといって、『あらゆる見方が平等に有効であるとか、多元主義的な普遍主義の探究は不毛であるとかいったこと』にはならないはずである。
『世界システム分析にとっては、これらさまざまな主体〔文化的個別主義が云う「ひとりひとりすべて」――ギトン註〕は、〔…〕さまざまな構造と同様、ひとつの〔ギトン註――社会的〕過程の産物である。それらは、〔…〕システム内部の相互作用の一部である。諸主体はその相互作用から生じ、その上に立って行動する。諸主体の行動は自由であるが、その自由は、その主体の来歴、および・その主体を一部として含む社会という名の牢獄に制約されている。この牢獄を分析することは、諸主体を可能な最大限まで解放することである。』
ウォーラーステイン,山下範久・訳『入門・世界システム分析』,pp.63-65. .
つまり、「世界システム分析」は、経済決定論でも「文化決定論」でもなく、「多元主義的な」全体史的「普遍」(一定の長期にわたって持続する史的構造)の発見をめざすものです。
『世界システム分析にとって、〔…〕時空は、たえず進化しつつ構築される現実であって、その構築自体が、われわれの〔…〕社会的現実の不可欠の一部なのである。われわれが生きている史的システムは、〔…〕時間の流れのなかで同一性を保ち続けながら、なお刻一刻と変化していく。これは逆説ではあるが、〔…〕この〔ギトン註――主体と客観,普遍と変化の〕逆説〔…〕に取り組む能力こそは、史的社会科学の第一の責務である。』
ウォーラーステイン,山下範久・訳『入門・世界システム分析』,p.66. .
【15】 資本主義的「世界=経済」――
「分業」+無限の「資本蓄積」=資本主義の誕生
『われわれが現在生きている世界、すなわち近代世界システムは、16世紀にその起源を有している。近代世界システムは今も、そしてこれまでもずっと、資本主義的な世界=経済であった。』
ウォーラーステイン,山下範久・訳『入門・世界システム分析』,2006,藤原書店,pp.51-52. .
「近代世界システム」とは、資本主義的な世界=経済です。
それでは、「世界=経済」とは何か? ……「世界=経済」とは、「そこに一つの分業があり、したがって資本と労働」および「基本的ないし必須不可欠の諸財の交換が、内部で相当に行なわれているような大規模な地理的領域である。」
「世界=経済の内部には多数の政治的単位〔国家,領邦,所領,都市等〕が存在」する。「近代世界システム」の場合には、それら〔国家〕が「国家間システム」として「ゆるやかに結び合わされている。」
「世界=経済には、政治的および文化的一様性は〔…〕見出されえない」。世界=経済の内部は、政治的にも文化的にもバラバラの状態である。「世界=経済」を、統合されたシステムとして成り立たせているのは、同じ文化を共有するきずなでも、政治的なつながりでもなく、「その内部に構築された分業である。」
「資本主義」とは、「無限の資本蓄積を優先する」システムである。
このような↑ウォーラーステインによる「資本主義」の定義は、近代経済学(ケインズ,サミュエルソン,フリードマン)とは異なるだけでなく、古典経済学(スミス,リカード)ともマルクス派経済学とも異なっています。
古典経済学とマルクス派経済学ではふつう、市場で販売して利潤を獲得する・ために生産を行なう諸個人・諸企業の発生をもって「資本主義」の成立とする。あるいは、「賃労働」、すなわち自らは生産手段を持たず、他人のために労働して賃金を得る「賃労働者」の発生とともに「資本主義」が成立した、と考えます。しかし、じっさいに歴史を調べれば明らかなことですが、「市場目的の生産」も「賃労働」も、「世界じゅう至るところに何千年も前から存在してきた。」例えば日本では、最初の貨幣「和同開珎」が発行されるのとほぼ同時に、「和同開珎」で賃金を支払って、宮殿の瓦を焼く職人を雇ったという記録が現れているのです。このように、古代から世界中どこにでもあった現象を、「資本主義」と名づけることはできません。
それでは、近代の「資本主義」にだけある特性は、何なのか? ……ウォーラーステインによると、それは、「無限の資本蓄積」が優先される、ということです。「無限の蓄積というのは、〔…〕諸個人や諸企業が、より多くの資本を蓄積するために、資本の蓄積を行ない、その過程が持続的で終りのないものとなっているということである。」
ここで「資本蓄積」とは、生産を行ない、生産物を販売して得た「利潤」を資本に加えて、さらに拡大した生産を行ない、こうして資本を増やしてゆくことです。しかも、「資本主義」では、「資本蓄積」が自己目的化しています。たとえば、資本を増やして 10億円に達したら、もう自転車操業みたいなことはやめて、あとは貯めたカネで楽しく暮らそう、と考える人もいるかもしれません。しかし、そういう資本家は、そうすることによって、「資本主義」の現場から脱落していきます。「資本主義」というシステムそのものは、資本蓄積を無限に続けることによってのみ、存続しうるのです。(pp.68-69.)
『史的システムとしての資本主義は、明らかに馬鹿げたシステムなのである。そこでは、ひとはより多くの資本を蓄積するために、資本を蓄積する。資本家は、いわばくるくる回る踏み車を踏まされている白ネズミのようなもので、よりいっそう速く走るためにつねに必死に走っているのだ。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『史的システムとしての資本主義』,2022,岩波文庫,p.64. .
このようなシステムで動く世界(近代世界システム)が成立したのは、ブローデルとウォーラーステインによれば、16世紀の地中海~西ヨーロッパにおいてでした。
しかし、「無限の資本蓄積」が優先される、とひとことで言っても、それが実際に可能になるには、かなり特別な条件が必要だったのです。なぜなら、カネ儲けを、何か他のこと(安楽に生活する,富豪になって尊敬を集める,etc.)のための手段とするのではなく、ひたすら儲けて蓄積することだけを自己目的としてカネ儲けすること(守銭奴)は、人間の本性に反しているからです。
そこで、そういう自己目的の「無限の資本蓄積」を、神聖な義務だと信じさせるような宗教的イデオロギー〔16世紀に登場したプロテスタンティズム〕が資本主義を発生させた、と考えたのがマックス・ウェーバーです。しかし、ウェーバーの宗教社会学のテーゼは、今もって実証されてはいないようです。ともかく、「無限の資本蓄積」の優先、すなわち「資本主義」が成立したのは、16世紀だった。これは史実から証明できることです。
それでは、それを可能にした条件は、何だったのか? ……ウォーラーステインの場合は、ウェーバーのような宗教倫理ではなく、国家が果たした役割に注目します。が、そのことは後ほど述べるでしょう。
インド・中国国境付近のインダス河。インド,ラダク州,カラツェ・アイチ間。
なるほど、「近代以前にも世界=経済が構築され」たことはありました。古代ギリシャ,中世の西ヨーロッパなどにはそれが見られます。しかし、それらはみな「自ら解体してしまうか、武力によって世界=帝国に変容されてしま」ったのです。「長期にわたって存続した唯一の世界=経済が、近代世界システムなのである。」それが可能になったのは、「システムとしての資本主義が根付いて、近代世界システムの基底的特徴として定着したから」である。(pp.69-70.)
『逆に、システムとしての資本主義は、世界=経済以外の枠組みの中では存在しえない。システムとしての資本主義は、経済的な生産者と、政治的な権力保持者のあいだに、特殊な関係を要請するものだからである。もし世界=帝国』の『ように後者〔政治権力――ギトン註〕が強すぎれば、政治権力の利害が経済的生産者の利害に優先してしまい、無限の資本蓄積の優先性は失われてしまう。』
ウォーラーステイン,山下範久・訳『入門・世界システム分析』,p.70. .
たとえば、「世界=帝国」の強大な権力のもとでは、利潤を求める商人,金融業者,商品生産者の経済的利害は、国家や官僚貴族の政治的利害に従属します。力のある商人は自ら官僚貴族であったり、官僚貴族に従属する人びとです。得られた利潤は、資本の拡大のために投資されるよりは、官僚的地位・爵位を取得するために費やされます。日本の奈良時代ならば、大仏や宮殿の造営資金として献上され、商人は引きかえに貴族の地位と、高尚な信仰者の声望を得るのです。利得や蓄財を優先しようとする者は軽蔑されるばかりか、権力によって潰されます。絢爛たる美術品の工房も多くは国家官僚が運営しており、そこでは利潤動機よりも、国家と帝王の栄光を高める動機が卓越しています。
このような権力による圧迫から逃れて、資本主義本位の利潤獲得→資本蓄積(拡大再生産)を続けてゆくためには、資本家は、複数の国家にまたがって活動する必要があります。「資本家は〔…〕複数の国家の存在を必要としている。〔…〕国家が複数存在することで資本家は、〔…〕自分たちの利害と親和性のある利害を持つ国家の側に立つことで、自分たちの利害に敵対する国家の力を迂回することができるからである。」
すなわち、システムとしての資本主義が成立するためには、「全体としての分業体系のなかに複数の国家が存在」していなくてはならない。近世のヨーロッパは、そのような条件を満たしていました。逆に、古代から近世までの東アジアでは、強大な「世界=帝国」が国家間の政治・経済秩序を規整しており、また国家間の距離は遠く、ひとつの「分業体系のなかに複数の」独立した「国家が存在」するという状態には程遠かったのです。
これが、ヨーロッパには資本主義が興り、東アジアではそれが興らなかった理由です。システムとしての資本主義、すなわち「近代世界システム」は、16世紀ころ地中海~西ヨーロッパを中心として成立し、しだいに拡大して、19世紀半ばには東アジア世界にも波及し、そこにあった「世界=帝国」の秩序を解体しながら、諸国を、西ヨーロッパを中心とするシステムに包摂しはじめたのです。
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!