明月院を出て、尾根伝いのハイキング・コースを建長寺へ向かう。表通りから行かないのは、建長寺のいちばん奥に目当てがあるからだ。

 

 

 

 

 ↑路傍の石仏。「やぐら」までいかないが、壁龕を彫って収めている。

 

 

 

 

 山道に入り、照葉樹のなかを登っていく。

 

 


 

 ↓今泉台の団地が木の間から見える。

 

 

 

 

 開発された当時は、「古都鎌倉の危機」と言われた。ブルドーザーが次々に「やぐら」を破壊し、古武士の骨がゴミのように曝された。鎌倉側から坊さんたちが越えて来て、線香を立てて、せめてもの供養をした。その状態がしばらく続いてから、神奈川県がこの尾根筋を買収し、ようやく開発に歯止めがかかった。鎌倉市は、ここをハイキングコースにして、開発批判の世論を支えた。この山道は、まさに「近代史の証言者」なのだ。

 

 

 

 

 

 ↑「勝上山」に到着。建長寺から登って来ると、ここがピークになる。尾根伝いに直進すれば「天園ハイキングコース」。大平山から横浜市・金沢八景のほうへつながる。

 

 ↓頂上からの展望。かろうじて富士山が、その左に箱根が見える。

 

 

 

 

 

 建長寺に向って下りる。鎌倉市街、そして建長寺の伽藍が下に見える。

 

 

 

 

 


 建長寺の最上部は、半僧坊・権現社〔↓下〕とその地蔵堂〔↓上〕

 

 

 

 

 

 「半僧坊」は元代の中国に由来する半僧半俗・半神半人の老人で、留学僧の乗った帰国船に突然現れて嵐を鎮め、浜松の「奥山・方広寺」を根拠地として全国の修験道(山伏信仰)と習合したようだ。詳しくは、こちら方広寺の探訪記とともに書いた。

 

 明治時代には修験道はすっかり廃れてしまったが、浜松の方広寺が「半僧坊」信仰の復興に努め、建長寺は 1890年にそこから勧請して半僧坊権現社を設けた。その当時、全国には「半僧坊」講社数百、信者 5万人あまりと言われた。

 

 建長寺も、開山は元代の中国僧で、開創当時はおおぜいの渡来僧であふれ、中国語が飛び交い、境内は異国のようだったと史書に記されている。しかし、方広寺「半僧坊」とのあいだに明治以前のつながりがあったかどうかは不明だ。

 

 「半僧坊」は山伏とのつながりが深く、ここでも社堂の下の石段の両側に、たくさんの「天狗」像が威勢を張っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 半僧坊の鳥居をくぐって、建長寺の「三門」に向って下りていく。下り坂が一直線に伸びている。

 

 

 

 

 

  建長寺を出て県道を少し戻り、丘陵の切通し坂を越えて〈鎌倉〉の本域に向かう。

 

 

 


 「亀ケ谷坂」↓を越えて〈鎌倉〉の領域に入る。丘陵で囲まれた〈鎌倉〉には、「なになに坂」「なになにが谷 やつ」という場所が多い。みな、古くからある地名だ。

 

 

 

 

 「亀ケ谷坂」。ピークの切通しを越えると下りになる。自転車で昇って来る人はたいへんそうだ

 

 

 

 

 「亀ケ谷」の市街。正面は「源氏山」。

 

 

 

 

 これから行く海蔵寺へと向かう曲がり角(亀ケ谷辻)に「岩船地蔵堂」↓というのがある。元禄時代に建てられたようだが、現在は海蔵寺が再築して管理している。

 

 

 


 

 ↓横須賀線のガードをくぐる。線路際にもタネが散って花を咲かせている。


 

 

 

 


 

 

 

タイムレコード 20250925 [無印は気圧高度]
 (1)から - 1019明月院 入口前[38m]1026 - 1037明月谷登山口[86m 93mGPS]1040 - 1054今泉台分岐[106m] - 1110勝上山[153m 139mGPS]1122 - 1134半僧坊 本堂[119m 100mGPS] - 1145半僧坊 休憩所[105m]1155 - 1202半僧坊 鳥居[70m] - 1213建長寺 三門[48mGPS]1220 - 1227「亀ケ谷坂」入口[35mGPS] - 1313海蔵寺 山門前[35mGPS] 1334 - (3)へつづく。