ウンターエッセンドルフ・聖マルティン小教区教会・外部塔の日時計(1977年)。
Unteressendorf Pfarrkirche außen Turm Sonnenuhr, 1977, Katholische Pfarr-
kirche St. Martin, Unteressendorf, Gemeinde Hochdorf (Riß). ©Wikimedia.
【75】 「ヘルシンキ宣言」と「法実証主義」戦術
「普遍的知識人」を激しく攻撃したフーコーにも見られるように、「68年」以後の西ヨーロッパでは、「知識人」の社会的役割への疑い・また「知識人」の重要性の低下にたいする憂慮と批判が、広範な議論の対象となりました。しかし、中・東欧にこの状況はあてはまりません。社会主義体制は依然として「知識人」に「前衛」の役割を期待(押し付け)していましたし、逆に体制を批判する側も、体制批判は「知識人」の使命だ、という意識に鼓舞されていたからです。
「1970年代中盤から始まる中・東欧の知識人たちによる反体制派」運動は、社会主義,人民民主主義,「人類の解放」を掲げる体制に対して、それらの「額面通りの実現」を要求するという「きわめて単純かつ徹底した」戦術を一様に採用していました。おそらく反体制派の多くは、共産党政府が自らのタテマエを表面的なりとも実現できるとは、もはや考えていなかったでしょう。が、それを要求することこそが、徹底した言論統制下にあっては最も効果的な戦術と思われたのです。
「とりわけ 1975年にヘルシンキ宣言が調印されると」、社会主義諸国の反体制派は、「宣言に謳われた人権の擁護を公然と主張」できるようになり、この武器を最大限に利用しつつ、弾圧に対して防禦しながら事実上の体制批判を強めていったのです。「ヘルシンキ宣言」は、ソ連を含むヨーロッパのほとんど全構成国とアメリカ合州国,カナダが参加した「全欧安全保障協力会議」で採択された最終合意文書です。国家主権の尊重,国境不可侵などの安全保障原則を確認したなかで、とくに社会主義体制に大きな影響をもったのが「人権と諸自由」尊重の原則:「人権はもはや国家の内政事項ではない」――でした。が、東側の首脳たちはこの条項にたいした意味があるとは認めておらず、軽い気持ちで通過させていたのです。
ちなみに、現在の国際環境で、アメリカ等の「人権外交」に対して中国や北朝鮮は「内政干渉だ」と反論するのにロシアがそう言わないのは、この「ヘルシンキ宣言」があるためです。
たしかに、「ヘルシンキ宣言」は、中・東欧社会主義諸国の反体制派にとって有効な武器となりました。しかし、それを有効に使うためには、「法実証主義」という特殊な戦術が必要だったのです。「法実証主義」戦術は、「ヘルシンキ宣言」に先立つ 1960年代にソ連の反体制派エセーニン=ウォルピンによって案出されました。そこで、私たちは先ず、60年代にさかのぼって、彼の先駆的努力を取り上げてみることとしましょう。
【76】 「徹底した服従」こそ革命だ!
―― エセーニン=ウォルピン
『「社会主義的合法性」を馬鹿正直に把えること――すなわち、暗黙の政治的意図をもった一種の法実証主義――〔…〕の先駆者は、1960年代ロシアの詩人にして数学者のアレクサンドル・エセーニン=ウォルピンだった。ウォルピンは、著名な民衆詩人セルゲイ・エセーニン〔※〕と〔…〕詩人ナジェジダ・ウォルピンのあいだに生まれた。〔…〕生まれついての反逆者であり「反ソ詩人」の走りでもあったウォルピンは、ソ連の精神医学者から「精神分裂」〔…〕「精神的無能力者」の診断を何度も下され、1940年代後半にはカザフスタンに流刑となった。その後も 1950年代から 60年代にかけて 4度にわたって精神病院に入院させられた。〔ウォルピン自身の説明では、KGB本部監獄への収容から逃れるために精神病を装った――著者註〕
ボリス・スチェパノヴィチ・ルコシュコフ『春』1960年。 Boris Stepanovich
Lukoshkov, Борис Степанович Лукошков, Весна, 1960. ©Wikimedia.
ウォルピンは、すでに 1960年代初頭に、スターリン憲法を称賛』する『徹底した市民的服従〔ママ〕〔…〕について説明していた。「もし市民が、自分たちに権利があるという想定のもとでふるまったら、何が起こるだろうか。一人がそうしたら、その人は殉教者となるだろう。〔…〕もし数千人〔…〕がそのような態度をとれば、反体制運動となるだろう。しかし、もし全員がそうすれば、国家の抑圧は弱くならざるをえない」』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.196-197.
註※「セルゲイ・エセーニン」: 〔Cерге́й Александрович Есенин: 1895 - 1925〕革命前後のロシアで最も人気のある抒情詩人でボリシェヴィキ政府も国葬にしたが、10月革命への幻滅を吐露する作品も書いており、スターリン~フルシチョフ両政権下で禁書とされた。
なぜ「市民的不服従」ではなく「服従」なのか? なぜスターリン憲法を称賛するのか? ‥‥スターリン憲法第3条には、「すべての権力は……勤労者に属する」と書いてある。では、「勤労者」としてその権利を行使しようではないか。
そこで例えば、1965年に反体制作家シニャフスキーとダニエリが逮捕された時、ウォルピンはモスクワ大学の周辺で、憲法記念日に抗議行動を行なうことを呼びかけたが、その抗議行動とは「法にたいして徹底した服従」をすることだった。当日のデモでは、「ソ連憲法を遵守せよ!」という横断幕が掲げられた。デモ参加者「の多くは学生だったが、ただちに捕らえられ精神病院に連行された。」ウォルピンと参加者たちの主張では、非公開で行われているシニャフスキーらの裁判は、憲法と刑事法に違反しているのだった。彼らは、「訴追された案件にはあえて」意見を述べず、「公開審理」と適正な「司法手続」だけを要求した。
すなわちそれが、「暗黙の政治的意図をもった法実証主義」であり、「[社会主義的合法性]を馬鹿正直にとらえること」であり、「法に対する徹底した服従」「市民的服従」なのです。もしも正面から、反体制言論に対する弾圧の不当性を主張すれば、それ自体が「国家反逆」「社会主義への破壊攻撃」の証拠とされて処刑されかねません。だからといって、遠慮がちに穏和な主張をすれば、社会主義護教論に絡め取られて、体制側の宣伝に利用されてしまいます〔「異論者たちさえもが、シニャフスキーらの犯罪に憤っている」といった…〕。だから、本筋の内容についてはいっさい触れず、ただ「法の定める手続」を守れとだけ要求する。それが「法実証主義」なのです。
『ウォルピンの考えは、国家機構に対する挑戦を表明していただけでなく、ロシアの知識人に対する挑戦をも意味していた。ロシアの知識人は、法的なものであれ何であれ形式主義をうさんくさく見て、むしろ直接的で英雄的な対決(および殉教主義)を好んできたのである。〔…〕ウォルピンは〔…〕「超 メタ 革命」と呼ぶものをめざした。超革命とは、革命をなしとげる方法そのものに革命をもたらすことを意味する』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,p.197. .
ミハイル・ズヴャーギン『河岸に立つ工場』1969年。Михаил Звягин, Завод
над рекой, 1969. ©Wikimedia. 寓意に満ちた絵。赤い小さな家を威圧する
ように、対岸の大工場が煤煙を吹き、水面にも黒々とした影を落している。
【77】 「法実証主義」戦術の発展
1970年代に入るまでには、社会主義諸国の反体制派は、それぞれの地域での圧刹された試みから、3つの教訓を得ていた。
『プラハの春及び 60年代末のポーランドにおける騒乱から、反体制派は3つのたしかな教訓を学んでいた。第1に、体制を率いる「指導的政党」が自らの指導的役割を脱して自己改革を行なう』ことは『期待できない〔…〕。第2に、体制と正面から対立しても勝利できないこと、しかし、勤労者からの圧力はある程度の効果がありうる〔…〕。建前上の労働者国家と最も効果的に対決する方法は、労働者階級からの突き上げである〔…〕。そして第3に、〔…〕最も重要なことだが、〔…〕知識人と労働者のあいだの分断・対立は避けるべきだという教訓である。
反体制派はまた、現存する地政学的な現実を認識した。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.198-199.
「地政学的な現実」とは、東欧で反体制派が苦境に陥っても西側諸国は助けてくれないということ、および、東欧諸国はソ連の支配に完全に屈服していて、彼らをどんなに突き上げても彼らがソ連とは「独自に何かできる余地はほとんどない」ことでした。
そこで反体制派の政治行動は、「法・社会主義憲法・労働者による支配」という体制のタテマエを「額面通りに」実行せよとの要求(法実証主義戦術)、および・的を絞った「改革 リフォーム」の要求に、意識的に「自己制約」された。
「ヘルシンキ宣言」ののち、「1977年にチェコスロヴァキアで[憲章77]〔…〕が結成された。」この団体は、「ムリナーシ〔⇒:(28)【55】【57】〕のような改革派の共産主義者から,トロツキスト,カトリック保守派,そして」当局の弾圧を受けていたアンダーグラウンドのロック・ミュージシャンまでを集めていた〔そもそも設立のきっかけは、投獄されたロック・グループ PPU を支援するためだった〕。設立者たちは、「異なる信念,異なる信仰,異なる職業」の「人びとが、祖国と世界全体の人権および市民的権利の尊重を〔…〕求めて闘う意志のもとに団結した自由で非公式の団体」であると自ら表明していた。
「[憲章77]は、厳格な法実証主義に賛同し、チェコスロヴァキア政府によるヘルシンキ合意の実行を単に[手助けする]こと」が目的だと主張した。その実、指導的メンバーの一人は、「体制を額面通りに受け止めるというこの戦術は、それ自体が抜け目ない駆け引きである」とも言った。彼らは、たとえば「権利に焦点を当てることで、まさにその権利の不在をみなに思い出させたのだ。」
イリーナ・アジジャン『赤い木の葉』1978年。 Irina Azizyan, Red leaves.
Ирина Азизян, Красные листья, 1978. ©Wikimedia.
しかし、それと同時に「憲章77」は、「ウォルピンの法実証主義を超える決定的な一歩」を踏み出してもいた。なぜなら、人びとが「権利の不在」に気づくよう促したのは、「当局の態度の変化を促すためではなく〔当局は、ソ連の意向に反して態度を変える見込みがないことは、先刻検証済みだった〕、[当局を無視して議論を進める]ためだった」からだ。
「ウォルピンが国家機構に向けて言葉を発したのに対して、1970年代の」人びと「は、社会に話しかけたのだ。かつての改革派のようにマルクス主義の言葉で体制に語りかけても、蛙の面に水をかけているにすぎないことに、彼らは気がついた〔…〕。いまや主眼は、道徳的に汚染されていない語彙で普通の市民に話しかけることだった。〔…〕彼らが試みたのは[人びとに、いかにふるまうか〔…〕の指令を与えることであっ」た。社会は[じゃがいもの袋]〔農民層の無気力を侮蔑したマルクスの比喩〕」であることをやめて、「自らの利益や野心を実行できるものへと自己変革しなければならない」のだと。「この発想は、同時期の西ヨーロッパにおける[自主管理]の発想と類似し」ていた。(pp.199-201.)
【78】 「反政治」と「市民社会」
もちろん、共産主義政党の「民主集中制」のもとでは、「前衛党の枠組みの外に政治組織を設立することは、厳しく禁じられていた。」そこで、あらゆる反体制団体は、「自らを非政治的,さらには反政治的組織であると称さねばならなかった」が、まもなくこれらの呼称を積極的に主張するようになった。というのは、「徹頭徹尾全体主義的」な体制は、政治的な言語を社会に深く浸透させようとする体制であり、「全体主義的な政府は、日常生活を政治化する」ことによって初めて表面的な正統性を維持しうるからである。逆に言えば、「日常生活は」、それを非政治化することによって「全体主義に対抗」する「広大な領域となり」えた。そこでは、一見非政治的な活動が広範な政治的帰結を引き起こすこと」となった。「反体制派が焦点を当てたのは、国家そのものの変革よりも、日常のミクロ政治だった。」
その点で、東欧社会主義国の反体制派は、西側知識人と「多くの問題関心を〔…〕共有し」た。たとえば、彼らはハバマスと同様に、全体主義下でもいまだ「破損していない「人間関係によって成り立っている生活世界を守ることを求め」た。
「このような着想は、チェコの哲学者ヤン・パトチカの思想においてとくに重要である。〔…〕パトチカは[憲章77]の最初のスポークスマンの一人」だった。「パトチカは現象学派出身」で、「フッサールとハイデガーの〔…〕思想を、個人の尊厳という理想に資す」べく活用することを試みた。「彼の思想できわめて重要なのが[魂への配慮]」の概念であり、「全体主義に直面して[震撼させられた者たちの共同体]・という理想を考案し」た。「反体制派〔…〕のきわだって道徳的な〔…〕性質に着目し」、その「政治的なものとは反対〔…〕の道徳性」は、「社会を機能させるため〔…〕ではなく、人が人であるためにある」と説いた。パトチカは、「[憲章77]は自発的な連帯の優位性、および、単なる国家主権に対する[道徳的な感受性の主権]の優位性を示す試みなのだと述べている。」
「パトチカはチェコの秘密警察に逮捕され、幾度も苛烈な尋問を受けて死亡した。」当局は、墓地の隣りでオートバイ・レースを開催し、「上空にヘリコプターを展開させて〔…〕葬儀を妨害」した。この段階では、もはやこのような姑息な手段でしか対処できない状況にまで、「非政治化」戦術は当局を追いつめていたとも言える。
ウラジミル・サフネンコ『薔薇』1979年。 Roses by Vladimir Sakhnenko.
Владимир Сахненко, Розы, 1979. ©Wikimedia.
のちにソ連崩壊後最初のチェコ共和国大統領となるヴァーツラフ・ハヴェルは、「パトチカの遺産を継承し、ハイデガーに依拠して近代、とくに人類のテクノロジー依存に対する包括的な批判を体系化した。〔…〕ハヴェルは、〔…〕政治を技術の一種として理解するのではなく、[実践的な道徳性、真実への奉仕、そしてわれわれ人類同士への・それ自体人間的で・また人間的に考えられた配慮]として」政治を「理解することを提案した。〔…〕ここに再び、非政治的と思われてきた価値、すなわち配慮が、潜在的に巨大な政治的含意をもつものとなったのである。」
「反政治」の概念は、「高度な技術や核兵器を意のままにする超大国の対外政策への対抗概念」としても理解された。「ハンガリーの作家〔…〕ジェルジ・コンラードは、こう書いている」:(pp.201-204.)
『反政治とは、政治がそれ固有の領域にとどまるように〔…〕、市民社会のゲームのルールを』守護し改良するという政治『自らの領分を・決して踏み越えないように努め』させ『るものである。反政治とは、市民社会の精神 エートス であり、市民社会は軍事社会のアンチテーゼである。〔…〕軍事化された社会〔…〕の官僚たちは、総力戦を、ゲームにおけるコマの一つの動きと〔…〕しか考えていない。〔…〕軍事化された社会は現実であり、市民社会はユートピアである。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,p.204. .
ハヴェルは、さらに極端なかたちで「反政治」の立場をとった。「彼の考えでは」非民主的な社会主義体制からの「議会制民主主義の回復は、「その後に続く実存的革命と[存在秩序の復活]への最初の一歩にすぎなかった。」彼にとっては、「西側の既存の」民主主義「モデルを〔…〕まねる」ことではなく、〔…〕政党が存在しないことを特徴とする[ポスト・デモクラシー]の実現が目標だった。」(p.206.)
〈政党のない民主主義〉と言うと、一見して哲学的な理想主義か、それともファシズムか、という感じもしますが、21世紀の現在では日本でも、政党離れの傾向が広がっているのではないでしょうか。日本の場合は、諸政党があまりに利権集団化したためですが、共産党が非合理な権力をふるった 20世紀末の東欧でも同様に、もはや政党一般が信用できないという感覚が信念にまでなっていたかもしれません。政治思想家というより劇作家であり、実際政治の世界に打ち込んでいたハヴェル大統領は、案外そういう庶民的な常識から民主主義の未来を見通そうとしていたのではないでしょうか。
ハヴェルは、1978年のエッセイ『権力なき者たちの力』のなかで、チェコの八百屋が店先のショウウィンドウに「万国の労働者、団結せよ!」とのスローガン〔マルクス/エンゲルス『共産党宣言』の結語〕を掲げる行為のもつ政治的意味に注意を促しています。この文句は、共産党体制下ではどこの店にも掲げられていたもので、この八百屋も、党の指導員に言われて、または大勢の流れに自ら従って掲げたにすぎません。しかし、それはハヴェルによれば、「体制のアイデンティティのために、人間としてのアイデンティティを放棄することと同義」であるだけでなく、さらに進んで「一般的な規範を共に形成し、他の市民に対する同調圧力」ともなる行為です。そこで、そのような体制下にあっては、もしもある市民が「国家機構によるイデオロギー的指図に順応することをやめ」たならば、「個人は[真実に生きる]ことができる」。ハヴェルのこの考えは、前回に見たフーコーの「権力」観に通じるものがあります。「真実に生きること」,および権力に順応せずに「真実を語ること」は、全体主義下の抵抗としての「反政治」の重要概念であったのです。(p.205.)
それは、共産党体制による全体主義が無くなったあとの世界においても、「同調圧力」に支えられた権力というものが存在するかぎり、意義を失うことはないでしょう。
よかったらギトンのブログへ⇒:
ギトンのあ~いえばこーゆー記
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!









