ギトンのパヴィリオン


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そこにはいつも きみがいた。。。。。



※ 「詩文集」は順不同です。1回ごとに完結してますから、どの回からでもお読みいただけます。
「詩文集」は、すべて "Hermann Hesse Die Gedichte", hrsg.von Volker Michels, Insel Taschenbuch 2762, Insel Verlag, 6.Aufl. 2013. のレビューです。





HP 【ギトンのお部屋】

ミヤケンとBL週記 ≪ギトンのあ~いえばこーゆー記≫

心象スケッチ写真帖 《ギトンの Galerie de Tableau》

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  • 15Nov
    • 詩文集(60)――【モーツァルト】:魔 笛 [2]

            『魔笛』のチケットをふところに またもういちど、ぼくはおまえを聴きに来たよ 大好きなオペラよ、輝かしき神殿の聖化、 神官たちの合唱、そして愛らしい 魔笛のうたに誘われて。 ぼくはこれまでの長いあいだに何度も この劇を観るのが楽しみでしかたなかった 観るたびに奇跡を経験した そして心ひそやかに誓いを新たにした ぼくをあなたがたの鎖につなぐ従者の誓いを、 太古の盟に属する東方の旅人たちよ、 この円い大地のどこにもあなたがたは故郷(ふるさと)をもたないが いつも新たな秘密の従者を見いだしている。 このたび、タミーノ、あなたとの再会は ぼくをつらい気持ちにさせている。この疲れ果てた耳、 老いてしまった心は、童子の声たちよ、神官の合唱よ あなたがたを昔のように理解できるだろうか―― ぼくはあなたがたの試練にたえるだろうか? 永遠の若さに生きる幸福な精霊たちよ、 われらの世の震動に触れられることなく あなたがたはいつもわれらの兄弟、みちびき手、師でありつづける われらのたいまつがいつか燃え尽きる日まで。 いつかあなたがたに晴れやかな召命の時が来て もはやあなたがたを知る者さえいなくなったとしても 天に掲げられた新たなしるしがあなたがたのあとを追う なぜならどんないのちも若々しい生気を渇望しているのだから。  前回の「日曜の午後の魔笛」は 1926年、↑これは 1938年の作です。前回は、まるで、苦い味の妙薬を口にふくんだように、顔を苦痛にゆがめていたヘッセでしたが、この間に苦痛を乗り越え、新たな境地に踏みこんできたように思われます。   「3人の童子」の歌声とタミーノの魔笛の音を奇跡と感じ、そこに強く惹かれる気持ちは、前回と同じですが、今回は、“神官たちの合唱”にも深い感銘を受けています。そして、 「太古の盟に属する東方の旅人たち」  つまりフリーメイソンに対して、こころ秘かに 「ぼくをあなたがたの鎖につなぐ従者の誓いを」  新たにすると言うのです。 フリーメイソンでは、イニシエーションの試練に合格してメンバーとなった者を「従者(Diener)」と言うらしいです。その「試練」に、自分は耐えられるだろうかと言っています。 もっとも、ここでヘッセが書いている、フリーメイソンに入る誓いは、比喩として読んでよいと思います。ヘッセがほんとうにフリーメイソンに入信したと思う必要はありません。 むしろ、ヘッセが比喩として述べているのは、「3人の童子」の歌声やタミーノの魔笛の音(ね)が象徴する「永遠の若さ」――みずみずしい感性と、何ものにもとらわれない純な心性‥‥そういったものでしょう。もっと限定して言えば、前回聴いた、「3人の童子」の最初のアリアにあった“3つの徳”:ゆるがぬ心と忍耐、そして沈思黙考によって自己との対話を重ねること、そうした努力によって、純な心性を失わぬよう保持してゆくこと――そう言ってよいのかもしれません。 そういうわけで、きょうは最初に、第2幕の初めに歌われる「ザラストロ」のアリア「おおイシス、そしてオシリスよ」を聴いておきたいと思います。ザラストロが、タミーノとパミーナを、神々によって定められた運命のカップルとして祝福し、神官たちの同意を得て、タミーノに入門の試練を受けさせることを決める場面です。 神官たちの賛成の挙手によって決定がなされたあと、ザラストロが歌います↓ この場面も、さまざまな演出があって、日本のお坊さんのようなザラストロが出て来て、拝火教さながらの火の儀式(護摩焚き?!)をするのもありますw しかしここでは、英国ロイヤル・オペラの現代的な演出で観たいと思います。「ザラストロ」は、知識と権威のいっぱい詰まった西洋の老哲学者風。学者の書斎か、ケンブリッジ大学の学寮のような舞台。このようすは、歴史上のじっさいのフリーメイソンに近いかもしれません。 モーツァルト作曲『魔笛』ザラストロと神官たちのアリア「おおイシス、そしてオシリスよ」マッティ・サルミネン/バス 日本語訳を掲げましょう: ザラストロ『おお、イシス、そしてオシリスよ 旅人の歩みをみちびく叡智の精神を 新しいカップルに与えたまえ! 危機においては辛抱強く彼らを鍛えたまえ』神官たち『危機においては辛抱強く彼らを鍛えたまえ』ザラストロ『彼らが試練の成果を見られますよう。 されどもしも彼らが死すべきときは その気高い勇敢な行為に報い 神々の住まいに拾い上げたまえ』神官たち『神々の住まいに拾い上げたまえ』  それでは、前回以後のあらすじを見ていきましょう。       第2幕(第4場~フィナーレ) タミーノとパパゲーノに課された「第2の試練」は“沈黙の行(ぎょう)”。パパゲーノは、がまんできなくなって頻りとタミーノに話しかけ、制止される。そこへ、パパゲーノの試練のために差し向けられたパパゲーナがフードをかぶって登場し、待ってましたとばかり話しかけるパパゲーノを翻弄したあげく、雷鳴とともに消えてしまう。 「3人の童子」が、差し入れの食べ物を持って現れ、“沈黙の行”に従わないパパゲーノをたしなめる。パパゲーノは食事にかぶりつき、タミーノも「魔笛」を演奏して一休み。笛の音に誘われて、パミーナがやって来るが、タミーノは話しかけられても答えることができない。 パミーナは、タミーノが心変わりしたものと思いこみ、悲嘆に暮れて去ってゆく。 黎明となり、「3人の童子」が“夜明けのアリア”を歌っていると、パミーナが登場して、ザラストロ殺害のために母親に渡された短剣で、自分の胸を刺して自害しようとしているのが眼に入る。タミーノに捨てられたと思いこんでいるのだ。 「3人の童子」は、パミーナに、タミーノの愛を信じよと説得し、タミーノが答えない理由は言えないが、私たちといっしょにタミーノのところへ行こうと誘う。パミーナは自害を思いとどまり、少年たちとともに退場する。 “第2の試練”の“沈黙の行”に、タミーノはみごと合格し、パパゲーノは落第した。そこで、最後の“第3の試練”――火の試練と水の試練――に、タミーノは、一人で立ち向かうこととなる。 そこへ、パミーナが現れ、タミーノに同行することを申し出る。神官たちも、タミーノとパミーナが口をきくことを許し、パミーナの同伴を許可する。パミーナはタミーノに、“火と水の試練”には、「魔笛」を吹いて立ち向かうのがよいと忠告する。彼女は、亡き父(「夜の女王」の亡き夫)が鍛え上げた「魔笛」の力を知っているのだ。 二人は、タミーノの吹く「魔笛」の音に助けられ、楽しく手を携えて“試練”を通過する。 他方、“第2の試練”に落第したパパゲーノは首を吊ろうとしているところへ「3人の童子」が現れ、「魔法のベル」を鳴らすように忠告する。パパゲーノが演奏すると、パパゲーナが現れて、二人はめおとの契りを結ぶ。 イシスとオシリスの“試練”を乗り越えて聖化されたタミーノとパミーナを神官たちが祝福し、そこへ夫婦として結ばれたパパゲーノ、パパゲーナも加わり、「夜の女王」と「3人の侍女」は敗北を認め、大団円の合唱のなかで幕が下りる。    さて、「3人の童子」の“第2の登場”のアリア。“沈黙の行”をしているタミーノとパパゲーノのところに現れて、差し入れの食べ物を渡します。 モーツァルト作曲『魔笛』3人の童子のアリア「私たちを二度目にお迎えください」ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場管弦楽団ジェイムズ・レヴィン/指揮 「3人の童子」は、はじめの頃の舞台では、成人女性が演じていたそうですが、現在に近づくにしたがって、ボーイ・ソプラノの少年歌手が多くなっています。モーツァルト自身はといえば、‥‥ボーイ・ソプラノに演じさせる意図で書いたと思うのです。というのは、「3人の童子」のアリアはみな、成人歌手のような大きい声量や迫力を必要としない、静かで優美なメロディーで書かれているからです。 もっとも、ボーイ・ソプラノと言っても、声変わり前とは限りません。声変わり後の男性であっても、特殊な歌唱法を訓練すれば、ソプラノ~アルトの音域で歌うことができるのです。むろん、去勢男性ではありません。詳しくは、↓こちらで説明しています。 ➡➡【ギトンの秘密部屋】声とはどんなものかしら? 現代の舞台では、10代後半以後の、パミーナよりも背の高い若者が「3人の童子」を演じているのを、しばしば見かけます。 モーツァルト作曲『魔笛』3人の童子のアリア「まもなく太陽が朝を告げようとして」1童子/テルツァー少年合唱団員イヴァン・フィッシャー/指揮2000年,パリ・オペラ座童子たち『まもなく黄金の軌道に 太陽が輝いて朝を告げる。 やがて迷信は姿を消すべく 賢い男が勝利する! おお美しき静寂よ、天より降りて 人の心に還れ; そのとき地上は天の国となり 死すべき者らは神々と等しくなる。』第1の童子『しかし見よ、パミーナが絶望にうちひしがれている。』第2,第3の童子『パミーナが、どこにいるんだ?』第1の童子『ぼくの心に見える!』童子たち『彼女は愛を撥ねつけられて苦しんでいる。 なぐさめてあげよう、用意はいいか? ほんとうに彼女の運命はぼくらの心を痛める おおタミーノがここにいてくれたなら! 彼女が来る、わきに退(の)いて 彼女のすることを見ていよう。』(パミーナ、短剣を手に、半狂乱で登場)  「3人の童子」の3回目の登場場面。タミーノが“沈黙の行”をやっているとは知らずに話しかけて、無視されたパミーナは、タミーノが心変わりしてしまったと思いこんで、自害しようとしています。そのようすを見ていた「3人の童子」がパミーナを引き止め、タミーノのところへ連れて行きます。やや長い場面で、動画は2本になっています。 それでは、後半を! モーツァルト作曲『魔笛』3人の童子のアリア「まもなく太陽が朝を告げようとして」2童子/テルツァー少年合唱団員パミーナ/ドロテア・レシュマンイヴァン・フィッシャー/指揮2000年,パリ・オペラ座(パミーナ、短剣を手に、半狂乱で登場)パミーナ『おまえ(短剣)が私の花婿だ おまえによって私は悲痛を遂げよう!』童子たち『なんと暗い言葉を吐いたことか! パミーナは発狂しそうになっている!』パミーナ『もう少しの辛抱よ、私のいとしい短剣、私はおまえのもの、 もうすぐおまえと夫婦になるのだわ!』童子たち『狂気が彼女の脳で荒れくるう 自刹が彼女の額に立っている!(パミーナに) 美しい少女、こちらを見なさい!』パミーナ『私が死のうとしているのは、 私は決して彼を恨むことができないのに 彼は、いとしい私を捨てて行くことができるから!(短剣を指して) これは私の母がくれたもの』童子たち『自刹に対して、神は罰を下される!』パミーナ『愛の悲痛のために破滅するよりは この小鉄で死んだほうがよい。 お母さま!あなたの凶器で私は苦しみ あなたの呪いが私を死に追いやるのです!』童子たち『少女よ、ぼくらといっしょに行きませんか?』パミーナ『ああ!私の悲しみはこれが限度! 不実な若者よ、さようなら! 見よ、パミーナはあなたのせいで死ぬ!(自分の胸を刺そうとする) この小鉄が私を殺せ!』童子たち(パミーナの腕をつかむ)『ああ!不幸な女(ひと)、やめてください! あなたの彼がこれを見たら 悲痛のあまり死ぬでしょう。 彼はあなたひとりを愛しているのだから。』パミーナ『何ですって?彼もわたしを愛していると? なのに、その気持ちを私に隠して 私から顔をそむけたと言うの? 私と言葉を交さないのは、どういうわけ?』童子たち『それは、お知らせできません でも、私たちは彼の姿をあなたに見せましょう 彼があなたに心を捧げ あなたのためとあらば死をもいとわないのを見て あなたは驚かれるでしょう! いらっしゃい、ぼくたちは彼のところへ行きます。』パミーナ『連れて行って。彼に会いたいと思います。』パミーナと童子たち『人間がいかに無力であろうとも、 愛に燃える二つの心を引き離すことなどできはしない。 敵どものたくらみは破綻した 神々がみずからお救いになる。』(退場)  同じ場面を、もう1本見ておきましょう。上のパリ公演と同じく、テルツァー少年合唱団員が童子を演じています。 ↓はじめのがベルリン公演で、「3人の童子」の“3回目の登場”――パミーナの自害を引き止める場面です。童子たちは、背中に天使の羽根を付けています。 そのあとがハンブルク公演の録画で、「3人の童子」の4回の出番を順に収録しています。「童子」を工事作業員にした演出がおもしろい。年齢の設定も子供ではなさそうで、トビ職、大工、電気工事士の若者です。 なぜ工事作業員? ‥‥考えてみたのですが、いまのドイツでは、もう工事作業員は、中東からの移民ばかりなんじゃないでしょうか? しばらく行ってないので、ギトンは実情を知らないのですが、もしそうだとすると、この演出は、建築現場で底辺から社会を支えている人たちの声の中にこそ、真理がある。ドイツ人よ、謙虚になって彼らの声に耳を傾けよ―――という含みがあるんじゃないかと想像します。非ヨーロッパの信仰への寛容を説いた原作の意図を、現代の社会に当てはめた脚色と言えるのではないだろうか?モーツァルト作曲『魔笛』童子/テルツァー少年合唱団員3人の童子のアリア「まもなく太陽が朝を告げようとして」2011年,ベルリン;3人の童子のアリア(全) 2012年,ハンブルク 「3人の童子」に気をとられてしまって、魔笛の出てくる場面を拾っていませんでしたが、最後のクライマックス―――↓“火と水の試練”の場面で、タミーノの魔笛が威力を発揮します。 この場面も含めて、たしかに分かりやすいし、誰でも楽しめるように作られている劇なんですが、デキ過ぎた筋書きなのは否めません。ほんとうに心の底から感動するかというと……、いまいちかもしれませんねw 前回の詩で、ヘッセが、うっかり『魔笛』を見てしまったばっかりに苦痛を味わった、と書いていたのも、わかる気がします。 「3人の童子」は清らかすぎるし、タミーノはいつも“優等生”で勇敢で、欠点も性格もないマリオネットに見えてしまいます。自分は、とてもこうは生きられないよ、と、ヘッセでなくても思ってしまいます。 それでも、今回の2度目の詩のヘッセは、それは人間ならば誰でも、いつかは求めてゆくものなのだ、と、それらの“精霊”たちによって掲げられた理想の価値、“愛”の価値を認めるのです: 「永遠の若さに生きる幸福な精霊たちよ、 われらの世の震動に触れられることなく あなたがたはいつもわれらの兄弟、みちびき手、師でありつづける われらのたいまつがいつか燃え尽きる日まで。 いつかあなたがたに晴れやかな召命の時が来て もはやあなたがたを知る者さえいなくなったとしても 天に掲げられた新たなしるしがあなたがたのあとを追う なぜならどんないのちも若々しい生気を渇望しているのだから。」 とヘッセは書いていました。 モーツァルト作曲『魔笛』「苦難に満ちたこの道を往く者は」パミーナ/ドロテア・レシュマンイヴァン・フィッシャー/指揮パリ・オペラ座 ちょっと長い場面なので、↓日本語訳は、サワリの部分だけ掲げます。5:32-8:02 タミーノ『これが恐怖の扉だ 苦しみと死が私をおののかせる。』パミーナ『どこへいらっしゃるときも 私はいつもお傍におります。 私はあなたの道案内となり; 愛が私を導きます!(タミーノの手をとる) 愛は道に薔薇の花を敷きつめます なぜなら棘あるところには薔薇も咲いているのだから。 あなたは魔笛を吹いてください; 笛の音が道々私たちを護りましょう; それは父が魔の刻(とき)において 千年の楢の樹(き)の最も深い底から 稲妻と雷鳴、嵐と轟音のなかで彫り上げたのです。』タミーノ、パミーナ『さあ行こう、笛を奏でよう。』2人の神官;〔タミーノ、パミーナ〕『灰色の進路の上で、魔笛が汝ら〔われら〕をみちびく。 笛の音の力によって、汝ら〔われら〕は 死の闇夜を通り抜ける。』  「棘あるところには薔薇も咲いている」というパミーナのセリフがおもしろいと思います。“きれいなバラには棘がある”と言うのがふつうなのですが、シカネーダーの台本はそれをひっくり返して、“イバラの道には、トゲもあるが、美しいバラの花もある”と言うのです。 理想を追求するとは、本来そういうものでなくてはいけないでしょうね。ことさらに苦難や苦しみを強調するのでなく、むしろ苦難は“楽しく”乗り越えてこそ、理想の方向へ向うことができる。―――そう考えたいと思うのですw  よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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      テーマ:
  • 08Nov
    • 詩文集(59)――【モーツァルト】:魔 笛 [1]

            日曜の午後の「魔笛」 きょうわたしはまちがえをしてしまった あさはかな望みのみちびくままに 「魔笛」を観に行ったのだ。 それでわたしは劇場の暗がりにすわって あの大好きな音色に心を奪われていた わたしの頬を涙が光ってながれた 魔力にみちた美神が歓迎の会釈をしている それはかつて故郷(ふるさと)だったがいまは異国だ。 おおなんと幸せそうに天使の少年たちは歌ったことか! おおなんと甘くタミーノの笛の音がひびいたことか! これまでに至福を与えてくれた芸術のすべての震えがよみがえり 驚愕するわたしの心をつらぬいて走った それらは燃えあがり、ついで荒れ狂う苦痛となった。 悪臭と、プログラムをざわざわ捲(めく)る騒音のなかで 楽しげな小市民どもは満ち足りて座席に凭(もた)れ 舞台を誉めそやし、ぶらぶらと帰宅してゆく しかし帰るべき故郷も平安も見いだせぬわたしは 花折れば棘に傷つけられることのみ知るわたしは おちつきなく闇をさまよい、憧れという名の すべての槍に胸を刺し貫かれつつ突進し、そこからまた できるだけ速く射殺されるべく逃げ出してしまう。 とはいえ、生まれながらのディレッタントであるわたしは 走りすぎて熱く、くたくたになってしまってから どこやらの赤ワインとコニャックの流れる岸辺に這いあがることだろう。  『魔笛(ツァウバー・フレーテ)』は、モーツァルトが生涯の最後に完成させたオペラだそうです。ヨーロッパではたいへん有名なもので、しょっちゅう上演されてます。モーツァルトの生地ザルツブルクでは、毎年上演されてるらしい。 とくにドイツ語圏では、青少年向けの“オペラ入門”みたいな分りやすい演目としても、好評なようです。 もっとも、『魔笛』は、イタリアの本来のオペラとはちょっと違うんですね。「ジング・シュピール(歌芝居)」といって、ミュージカルみたいなもの。どこが違うかというと、歌の部分と、フシのないふつうのセリフの部分が交互に来る。本来のオペラは、最初から最後まで、すべてのセリフに楽譜がついています。フシのないセリフって無いんですよね、イタリア本来のオペラは。 ところで、上の詩を見ると、ヘッセは、『魔笛』を鑑賞して音楽の世界にひたるどころか、暗澹たる気分に落ちこんでしまったようです。観終った後で、そのままうちへ帰る気にもならず、酒場へしけこんでアルコールの海に沈没してしまうと言うんですから、相当のもんですねw いったい、なぜ?‥……厳密に考えようとしたら難しいでしょうけれども、このあとユーチューブ動画を動員して、この“歌芝居”の細部まで、あれこれと見ていただけば、‥ああ、なるほど、そういうことかと、なんとなく納得するところまでは、ご案内できるんではないかと思います。 『魔笛』を題材にしたヘッセの詩は、もうひとつ、かなり長いのがありますから、『魔笛』については、今回と来週の2回にわたることになります。そこで、今回1回では、どうもよく解らんと、疑問が残っても、来週が解決篇ということでご容赦願います。 それでは、まず、『魔笛』のあらすじから‥‥ 登場人物は、「夜の女王」とその娘パミーナ、手下の侍女たち、他方、彼らが敵対する神殿(じつは太陽の神殿)に拠る神官「ザラストロ」と配下の神官たち、奴隷たち。   第1幕(第3場まで) 舞台はエジプト‥‥のはずなのですが、まるで中部ヨーロッパのような鬱蒼とした森と岩山が出現して、いったいどこの世界にいるのやらわからない奇妙な幕開けとなります。 そこへ、どこの国の王子とも知れない王子タミーノが紛れこんできて、森の大蛇に襲われ、すんでのところで、「夜の女王」の侍女たちに助けられる。 「夜の女王」は、娘パミーナの肖像画をタミーノに見せて、“悪の権化”の神官「ザラストロ」に拉致された娘を、どうか救い出してくださいと涙ながらに哀願。パミーナの絵姿に一目ぼれしたタミーノは、ご安心ください、私が必ず助け出しましょうと固い決意を歌う。 パミーナ救出に向かうタミーノに、「夜の女王」配下の奇態な半人半鳥のパパゲーノが同伴する。出発にあたって、タミーノには「魔笛」が、パパゲーノには「魔法のベル」が渡され、空から「3人の童子」が下りて来て「ザラストロ」の神殿への道を案内する。  これはもう、王子さまが、悪者(魔法使いとか‥)に幽閉されたお姫さまを救出するという、昔からありふれた御伽話の筋書きですね。一座の座長で台本作者のシカネーダーは、一般の観客の趣向に合わせて、導入部分をこしらえているわけです。 当時のウィーンの一般市民には、キリスト教以外の宗教の神官だというだけで、極悪人と見なすには十分だったでしょう。こうして、第1幕は、「ザラストロ」=多神教=邪教=悪者というイメージを存分に吹きこんで幕を閉じるのです。 もちろん、作者のシカネーダーとしては、これは、第2幕で善玉と悪玉をひっくり返し、観客に抱かせた先入観を粉々に打ち砕くための仮構にほかなりません。というのは、シカネーダーはフリーメイソンで、この歌芝居も、正統キリスト教に凝り固まった人々の常識をくつがえして、フリーメイソンの宣伝をする意図で書かれているからなのです。 そうは言っても、タミーノとハッピーエンドで結ばれるお姫さまの名前がパミーナとか‥‥、パパゲーノとつがいになる女性(めんどり?)がパパゲーナとか、‥‥この台本のこしらえは、とにかく、たわいないんです。1幕と2幕で善玉/悪玉がひっくり返るという意外さにみちた展開をもちながらも、深刻な対立はほとんどありません。 難しいことは受け付けない一般市民にも、子供にも、楽しんでもらえるストーリーで、モーツァルトの天真爛漫な楽才にもぴったり合っていたと言えるでしょう。    第1幕第4~6場 「ザラストロ」のエジプト風の宮殿では、奴隷がしらのモノスタトスと手下の奴隷たちが、逃げ出そうとするパミーナを縛って連れ戻そうと大わらわ。と云っても、パミーナの捕獲に一所懸命なのは、彼女に気のあるモノスタトスひとり。手下の奴隷たちは、かしらがパミーナに手を焼くのを見て、“ざまあみろ!”と大喜び。 そこへ、宮殿を偵察に来たパパゲーノが突然現れると、モノスタトスと奴隷たちは、その奇態な姿にびっくりして、パミーナを置いて逃げ出してしまう。 一方、「3人の童子」に案内されてやってきたタミーノが神殿の門を開けると、そこに「ザラストロ」のスポークスマンの神官がいて、「ザラストロ」は正しい人で、「夜の女王」こそが悪者なのだと説得し、二人の長い問答がつづく。 タミーノが「魔笛」を吹くと、聞きつけたパパゲーノとパミーナがやって来るが、遅れて、モノスタトスと奴隷たちが追いかけてくる。二人は捕まりそうになるが、パパゲーノが「魔法のベル」を演奏すると、奴隷たちは浮かれて踊りだし、どこかへ行ってしまう。 そこへ、「ザラストロ」と神官たちが登場し、「ザラストロ」はパミーナに、神殿に戻るようにと、やさしく語りかける。タミーノとパミーナは、たがいを認めたとたん、初対面にもかかわらず走り寄って抱き合う。モノスタトスが二人を引き離そうとするが、「ザラストロ」に制止されたうえに、77回叩きの刑に処される。 一同は、「ザラストロ」の裁きを讃えて大合唱となり、第1幕の幕が閉じる。  たわいない筋書きですよねw パミーナが「ザラストロ」の神殿に捕らえられていたのは事実だったんですが、「ザラストロ」はちっとも悪くはないことになって、奴隷頭のモノスタトスひとりが悪者になってしまうんですね。 タミーノは、一目ぼれしたパミーナと出会うことができ、抱き合ったことで、もう自分の目的を達したようなもの。パミーナは、まだ神殿にいるように「ザラストロ」に説得されて、もう“お姫さま救出劇”は、どこかへ行ってしまいます。 もっとも、「ザラストロ」の神殿には神殿の(フリーメイソンの?)掟てがあるようで、タミーノとパパゲーノは、「ザラストロ」の“入門の試練”を受けることになります―――それが第2幕。タミーノは、イニシエーションを通過してフリーメイソンの一員にならないと、神殿でこのままパミーナと結ばれてゆくことはできない‥‥そういうしくみなのでしょう。 ところで、ヘッセの上の詩にちょっと戻りますが、ヘッセは、 「おおなんと幸せそうに天使の少年たちは歌ったことか! おおなんと甘くタミーノの笛の音がひびいたことか!」 と書いていました。「天使の少年たち」とは、空から下りて来てタミーノをザラストロの宮殿に道案内する「3人の童子」のこと。「タミーノの笛」は、もちろんタミーノに渡された魔笛です。 しかし、 「それらは燃えあがり、ついで荒れ狂う苦痛となった。」  とは、どういうことなのでしょうか?‥ともかく、ヘッセが『魔笛』の観劇で注目した主要ポイントらしいので、これらの出てくる場面を中心に、舞台を見てゆくことにしましょう。 最初にご覧いただくのは、「3人の童子」がタミーノを「ザラストロ」の神殿に案内してゆく場面。道すがら歌われる童子たちとタミーノのアリア: 「この道があなたを目的にみちびく」 モーツァルト作曲『魔笛』3人の童子のアリア「この道があなたを目的にみちびく」ハンブルク国立交響楽団ホルスト・シュタイン/指揮 ↑これは 1971年の上演で、わりあい伝統的な演出のようです。「3人の童子」は、天から下りて来て、そのまま宙を漂っている。中近東風の、あるいは天使のような、白っぽいふわふわした服装です。 まずは日本語訳を掲げましょう:  3人の童子がタミーノの案内をして入場。童子はそれぞれ銀の椰子の枝を手に持っている。3人の童子『この道があなたを目的にみちびきます。 しかし、若者よ!あなたは男らしく勝利しなければならない。 そのために、私たちの教えに耳を傾けなさい: 確固として、忍耐強く、そして寡黙であれ!』タミーノ『愛らしい小さな人たちよ、教えてほしい、 私はパミーナを救うことができるのかどうか』3人の童子『それをお知らせすることは、私たちの役目ではありません― 確固として、忍耐強く、そして寡黙であれ! これをよく考えることです:短く言えば、男であれ、ということ。 そうすれば、若者よ、あなたは男らしく勝利するであろう』(退場)タミーノ『あの少年たちの叡智の教えを 永久に私の胸に刻むとしよう』  「3人の童子」がタミーノにする忠告は3つ:  「確固として、忍耐強く、そして寡黙であれ」  「3」という数は、フリーメイソンでは重要な意味のある数なのだそうです。そして、この3つの銘のうち、最後の「寡黙」ということが重要そうです。第2幕で、タミーノが神殿の“試練”を受ける際にも、“沈黙をまもること”が「第2の試練」として要求されます。 おそらく、“沈黙”は、周囲に対する軽はずみな賛同や、思いこみによる批判を避け、自己との対話を通じて、分別と責任のある判断に達するために、必要とされるのではないでしょうか? つまり、“叡智”に達するためには、“沈黙”が重要なのです。 さて、もうひとつ、↓今度は現代的な演出の舞台を見ておきましょう。 「3人の童子」が、ふつうの子供の服装をしているのが、かえって眼を惹きます。しかも、一時代前の子供の服装というのがおもしろい。 タミーノを“案内する”どころか、ダダっと走って現れたと思ったら、どこかへ消えてしまう。タミーノを翻弄するかのように、すぐ近くを走り抜ける。近づこうとすると、逃げてゆく。つかまえようがない‥ まるで亡霊のような少年たちモーツァルト作曲『魔笛』3人の童子のアリア「この道があなたを目的にみちびく」2003年 ロンドン・ロイヤル・オペラコリン・デイヴィス/指揮 どうやら、モーツァルトやシカネーダーの時代とは違って、現代に生きる人間には、“迷うこと”が不可避のようです。現代では、あまりにも世の中の動きが速く、また、たくさんの雑多な情報が与えられすぎるせいなのかもしれません。 古い時代のように、天から、恵みの雨がふりそそぐように真理が与えられることなどは、ありえないのでしょう。真理は、風のように人のそばを吹きすぎる。うっかりしていれば、まったく気づくこともない。吹きすぎる真理の一端を、かろうじて、つかんだかに思えたとしても、もうその時には、本体はどこかへ消えてしまったあとなのです。。。 おそらく、「3人の童子」とタミーノに対してヘッセが抱いた、痛みをともなう複雑な気持ちも、そういうことと関係があるのではないでしょうか?       第2幕第1~3場 第2幕は、舞台からして第1幕の森とは様変わりして、エジプト風。しげっている椰子の幹は銀色で、黄金色の葉を垂らしている。14座のピラミッドと椰子の葉を敷いた玉座。 神官たちが入場し、彼らの前で「ザラストロ」が、パミーナは、王子タミーノの許婚者(いいなづけ)となるべく、神々によって運命づけられているのだ、と宣言する。だからこそ私は、彼女を、母親である「夜の女王」のもとから引き離したのだと。 「夜の女王」は、「迷信で民の眼をふさぎ、われわれの神殿を破壊しようとたくらんでいる」が、そうはさせない。タミーノもわれわれに協力してくれる。タミーノは、いまや、この「大いなる光の聖所」に入って行こうとしている。エジプトの神々:イシス、オシリスの聖化を受けて神官となろうとしている彼を、われわれは援助してやろうではないか、と。 タミーノが、われわれ聖なる神官の列に加わるならば、「民をたぶらかして、神殿を破壊しようとたくらむ“予断・偏見”」に対して、われわれの「叡智と理性」は大きな勝利を得ることになるだろう、と「ザラストロ」は言う。 二人にイニシエーションの試練を受けさせるという「ザラストロ」の神官たちの説明に、タミーノは納得して「死をも恐れぬ」決心を表明し、パパゲーノはしぶしぶ承知する。 そこへ「夜の女王」の3人の侍女が、タミーノのようすを見に来て、すっかり「ザラストロ」に取り込まれているのに驚き、翻意を促すが、タミーノは取り合わない。怒った「夜の女王」は、娘のパミーナに短剣を渡して、「ザラストロ」に復讐するよう命じる。「夜の女王」の亡き夫は、太陽を支配する力を自分に継がせず、「ザラストロ」の神々に捧げてしまった。それを取り戻すと言うのだ。 しかし、この暗殺計画は、パミーナに夜這いをかけようとしてひそんでいたモノスタトスに盗み聞きされてしまい、「ザラストロ」の耳に入ってしまう。パミーナは「ザラストロ」に許しを乞うが、「ザラストロ」は、「この神聖な殿堂では、人は復讐ということを知らない」と歌って、争いそのものを否定し、彼女をなぐさめる。  まあ、ずいぶんとたわいない筋書きと言うか‥… 第1幕では、娘を拉致された「夜の女王」の依頼で、タミーノが「ザラストロ」の神殿に向ったはずだったのに... そのタミーノが「ザラストロ」の側に付いてしまうと、……タミーノはもともとパミーナと結ばれるべく運命づけられていたから、私(ザラストロ)は、そのパミーナを悪い母親から引き離して、タミーノがやって来るまで保護していたのだ、もちろんタミーノは、光と正義のわが神殿の一員となるのがふさわしい立派な男だ。―――ということになって、「ザラストロ」の側の光を当てて見れば、すべてはひっくり返しになってしまうのです。 ‥教祖さまのご都合次第で、どうにでもなる論理……のようにも見えてしまいますが、 しかしそれを、オペラの舞台で、威厳にみちた「ザラストロ」のバスで堂々と歌われると、人のよい観客は納得してしまう―――そこに、フリーメイソン劇としての作者の意図があったのかもしれません。 しかし、人間どうしが“予断と偏見”によって傷つけあうことは、本来誰も望まないことです。“予断と偏見”を嫌い、“叡智と理性”の光を求めようとするのは、人間だれしもそうありたいと願う心情です。 「ザラストロ」の呼びかけは、時代を超え、思想信条の違いを越えて私たちの胸に響いてきます。おそらく、フリーメイソンというたいへん特殊な宗派の教義に基いていながら、この“歌芝居”が 21世紀のこんにちに至るまで上演され続けているのは、そうした心情の普遍性によるのではないでしょうか。 じっさい、この劇は、私たちマイノリティの胸にもしっかりと響いてくるのです。 (ちなみに、日本語字幕では、そのへんのザラストロの発言が省略されてしまっていて、分らないのですが、↑上のあらすじのザラストロの部分は、ドイツ語台本で確かめましたから、まちがえありません。) ところで、この場面で有名なのは、「夜の女王」が復讐を誓って歌うアリア:「地獄の復讐が、私の心臓で煮えたぎる」です。おそらく、『魔笛』でいちばん有名なのが、この歌。 しかし、歌手にとっては、この歌は並大抵ではないそうです。力量のあるソプラノ歌手でも、これを歌いこなせるのは、声帯が若々しく柔軟で、声量がたっぷりある若年の一時期に限られると言われます。 映画『アマデウス』では、モーツァルトは、サリエリの愛弟子だった天才的な少女ソプラノ歌手のために、彼女にしか歌えないアリアを作曲したというストーリーになっていました。サリエリは『魔笛』を観劇して、それを知り、腹の中で、モーツァルトに対して「夜の女王」にもまさる激しい復讐の焔をかきたてた―――そういう場面でした。 モーツァルト作曲『魔笛』夜の女王のアリア「地獄の復讐が、私の心臓で煮え滾る」ディアナ・ダムラウ/ソプラノパミーナ『でも、お母さま!』夜の女王『お黙り!』夜の女王(アリア)『地獄の復讐が私の心臓で煮えたぎる。 死と絶望が燃えあがる。 もし、おまえによってザラストロが死の苦痛を感じなかったら おまえはもう私の娘ではな~ あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ、あ~ あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ、あ~ あ・あ・あ・あ あ・あ・あ・あ あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あい! おまえは永遠に追放され、捨て去られ、 すべての親子のきずなは粉々に砕け散る~~のだあ あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ、 もし、おまえによってザラストロが死体とならなかったら! 神々よ聴け!この母の復讐の呪いを聴きとどけよ!』(床下に沈んで退場)  ここで、日本語字幕の付いた『魔笛』↓を貼りつけておきたいと思います。ただ、残念ながら画面が暗すぎて、よく見えません。また、字幕は、決して正確な翻訳ではないとご承知ください。ドイツ語台本と照らし合わせてみると、たいへん省略の多いのがわかります。あくまでも、劇の進行の流れを知るための手がかりにすぎません。 『魔笛』の序曲から最後まで、約2時間40分かかります。全部通して見ようとは、しないほうがよいでしょう。ギトンも、全部流して見てはいません。 モーツァルト作曲『魔笛』ベルリン国立歌劇場管弦楽団ダニエル・バレンボイム/指揮1997年 東京文化会館大ホール      笛の奏(かな)で 木立ちと繁みのむこうから 一軒の窓が光っていた その見えないへやにひとり立ち 奏者がフルートを吹いていた。 むかし馴染みの唄のふし なつかしく夜のしじまに流れゆく あたかも国として故郷ならざるなく 道として全うされざるはなきがごと。 その笛の息吹きのうちに 世界の秘められた意味は啓示され 心はすすんでみずからをひらく あらゆる時が現在となった。 よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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      テーマ:
  • 06Nov
    • カウンターが壊れてる?!

       いま《アクセス解析》見たら、きのうのアクセスが 221!! これって、ありえないんですよね。なぜならば:〇 このブログのふだんのアクセスは、ひとケタw せいぜい2ケタ。〇 ジャンル順位は 1839位で、おとといとたいして変ってない。〇 リアルタイムで見てた昨日のアクセス数は、最終が 8.この数字は、おとといと同じ。〇 「いいね」増えてないし、ランキングにも入ってない。〇 記事のアクセス数は、ぜんぜん増えてない!! しかも、おかしなことが多い:〇 フィーチャーフォンが大部分なんだけど、ふだんはフィーチャーフォンのアクセスはほとんど無い!〇 リンク元はアメーバが大部分。これもふだんと違うw このブログのアクセスは、外部からが多いんです。ギトンを見てくださる方は、もともとアメーバ以外だから。 過去に 200 を越えたことは1度だけある。リョウスケ×2さんのイベントの告知を出した時で、これは、リョウスケ・ファンの方々が見にいらしたから。原因ははっきりしてます。でも今回は原因がわからない。というより、無い! 考えられることは、↓くらいなものでせう‥① 何かの理由で、アメーバのすべてのブログに、大量のアクセスが雪崩れこんだ。そして、このブログは、みなトップを見ただけで記事には入らずに、ほかへ行ってしまった。② 誰かがアメーバにハッキングして、アクセスの数字を操作した。③ アメーバのカウンターが壊れた。 ①ではないでしょう。トップに来てすぐ他へ行ってしまうような実質のないアクセスは、アメーバのカウンターは数に入れないはず。 ②も、ちょっとありえないと思う。そもそも、ハッカーの心当たりがないw けっきょく、③ではないかと‥‥ https になってからのアメーバのカウンターは、正直言って、あんまり信用してないんですよねw たとえば、↓こんなことがよくある。〇 午前0時過ぎて、アクセスはゼロのままなのに、0時以後の「いいね」が付いてるw でもまぁ、https になりたてで、今はいろいろと調整に苦労していらっしゃる‥のだろうと。長い目で見ていきたいと思ってるんですがねえ。。。  よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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      テーマ:
  • 02Nov
    • ★ 絶対的な いま のソネット

            絶対的な いま のソネット いつも時は未来に向って流れているのに ひとは時間の向きを錯覚する。 疾走することも滞溜することもあり 向きを変え向きを変え 蛇行と旋廻をくりかえしているのに ひとは天体のような直進運行を幻想する。 いつもこの手とこの眼を逃れ去ってゆく 時を捕まえようと思うなら こころを澄まさなければならない こころに浮かんでは消えてゆくもの それはみな残滓だ、時がふりすてた残りかすだ: 見えないもの かぎりなく澄んだもの いつもその正体を推しはかれないもの なにかわからないがとてもぶきみで怖ろしいもの ふしぎなもの その流動する一点に向って ぼくはいつも引きつけられている。 よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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      テーマ:
  • 01Nov
    • 詩文集(58)――【バッハ】:トッカータとフーガ

            バッハのトッカータの1曲に寄せて 原初の沈黙が見つめる……闇黒の支配…… ひとすじの閃光が、雲のぎざぎざの割れ目から 差しこみ、世界の底、盲目の無をつかみ そこに空間をたちあげる、夜に光の孔を穿つ 稜線と嶺々、斜面と竪坑(たてあな)の現れる気配 大気は薄く蒼くなり、地は密になってゆく。 芽生えつつある胎児を創造の閃光はまっぷたつに 引き裂いて、行動と戦争に駆りたてる: 恐怖に輝いて燃えあがる世界: 光の種子落つるところ、すべては変貌し 統序され、豪華絢爛に彩られる 生命には讃美を、創造主には光と勝利を。 それでも大いなる衝動は、神にむかって回帰の弧を描く すべての被造物に装(そな)わる父への衝迫 それは喜びとなり苦となり言葉となり絵となり歌となり 世界また世界に丸みを与え、壮大な天井画を描きあげるのだ それは本能、それは精神、それは闘いと幸福、それは愛。  題名は、「トッカータの1曲に寄せて(Zu einer Toccata ...)」と、不定冠詞がついてるのに‥‥ 天にも届くようなゴシック伽藍の天井のてっぺんから、まっくらな身廊に一條の光が差しこんでくるような出だし:―――ああ、あの曲だな、とバッハの好きな人ならすぐにわかってしまうでしょうねw バッハの作曲した「トッカータ」と名の付く曲はたくさんありますが、きょうはもう最初からネタバレですね。曲があんまり有名すぎて、はずかしいくらいですが(ヘッセともあろうものが、よりにもよってこんなのを!)、ともかくまずは聞いてやることにしませう: J・S・バッハ、トッカータとフーガ ニ短調 BWV565ヘルト・ファン・フーフ/オルガンハッセルト・ステファヌス教会 ヘルト・ファン・フーフ(1994-)は、オランダの若手オルガニスト兼ピアニスト、2010年16歳でデビュー、2018年夏にハーグ王立音楽院を卒業するまで、聖堂演奏、海外公演のほか、多くの CD,DVD, また Youtube動画を公開しているので、すでに世界中にファンがいることでしょう。ギトンもその一人です。⇒:ヘルト・ファン・フーフ【公式HP】 ずいぶん若いオルガニストですねって?‥いえいえ、そんなことはありません。この曲、バッハが作曲したのは 19歳の時だそうです。これ聴きながら、あのカップクのいいオジサンの肖像画をイメージしないようにw さて、ここでこのまま BWV565 のロック・ヴァージョンやらポップ・ヴァージョンやらに流れこんでしまうと、もうそういうありきたりになってしまいますから、ここは締めて、バッハの他のトッカータを聴いてからにしたいと思います。 いやはや有名すぎるんですよ… このチャララ~♪はw というわけで、英語版ウィキの「バッハ作品一覧」に「トッカータ」で検索をかけてみると、‥17件ヒットしました。そのうち、偽作1件とバッハの作曲かどうか疑わしいもの1件、編曲2件を除き、ユーチューブで見つかった2件を加えて、合計15件が、たぶんバッハ作曲「トッカータ」のすべてではないかと:●BWV538 トッカータとフーガ、ニ短調 「ドーリア風」 オルガン用。  538 1712–1717 Toccata and Fugue ("Dorian") D minor Organ BWV540 トッカータとフーガ、ヘ長調 オルガン用。 540 c.1712–1717? Toccata and Fugue F major Organ BWV541 トッカータとフーガ、ト長調 オルガン用。 541 528/3 c.1712–1717? Toccata and Fugue (Trio BWV 528/3 e. v. as possible middle movement) G major Organ BWV564 トッカータ、アダージオとフーガ、ハ長調 オルガン用。 564 bef. c.1712 Toccata, Adagio and Fugue C major Organ●BWV565 トッカータとフーガ、ニ短調 オルガン用。 565 c.1704? Toccata and Fugue D minor Organ BWV566(初期稿) トッカータとフーガ、ハ長調 オルガン用。 566 1700–1750 Prelude and Fugue (earliest manuscripts: C major; /1 as Toccata in BGA) E major C major Organ  ――――――――●BWV830 トッカータ、ホ短調(鍵盤楽器のためのパルティータ6番第1曲;アンナ・マグダレーナの音楽帖第2冊) チェンバロ用。 830 8. 1725–1730 Notebook A. M. Bach (1725) No. 2 = Partita No. 6 from Clavier-Übung I E minor Keyboard 6 Partitas para clave BWV 825-830. Partita para clave Nº 6 en mi menor, BWV 830 (in E minor/mi mineur/e-Moll) 1. Toccata Partita n. 6 in E Minor BWV 830 BWV910 トッカータ、嬰ヘ短調 チェンバロ/オルガン用。 910 1707–1713 Toccata F♯ minor Kb (or) Org BWV911 トッカータ、ハ短調 チェンバロ/オルガン用。 911 1707–1713 Toccata C minor Kb (or) Org●BWV912 トッカータ、ニ長調 チェンバロ/オルガン用。 912 1707–1713 Toccata D major Kb (or) Org 912a 1704–1707 Toccata D major Kb (or) Org BWV913 トッカータ、ニ短調 チェンバロ/オルガン用。 913 1707–1709 Toccata D minor Kb (or) Org 913a Toccata D minor Kb (or) Org BWV914 トッカータ、ホ短調 チェンバロ/オルガン用。 914 1707–1709 Toccata E minor Kb (or) Org BWV915 トッカータ、ト短調 チェンバロ/オルガン用。 915 1707–1709 Toccata G minor Kb (or) Org●BWV916 トッカータ、ト長調 チェンバロ/オルガン用。 916 1707–1713 Toccata G major Kb (or) Org BWV923/951 トッカータとフーガ、ロ短調 チェンバロ用。 923 8. c.1723? Prelude B minor Keyboard 951 8. 1714–1717 Fugue on a theme by Albinoni B minor Keyboard 951a 8. 1714–1717 Fugue on a theme by Albinoni (early version) B minor Keyboard 「BWV」は、「バッハ作品番号」の略。音楽の種類ごとにまとまって並んでいて、500番台のあたりはパイプオルガンの曲。800-900番台あたりは、キーボード用。バッハの時代のキーボードと言えば、主にチェンバロです。 J・S・バッハ、トッカータとフーガ ニ短調 「ドーリア風」BWV538トン・コープマン/オルガンハンブルク・聖ヤコビ主教会,シュニットガー・オルガン(1689-1693年建造) 「ドーリア風」というニックネームが付いているのは、バッハの書いた古い記譜法の楽譜を、後世の人が読みまちがえて、ドーリア音階だと思ったので付いた名だそうです。いまでは、ドーリア音階ではなく、ふつうのドレミファソラシドの音階だとわかっているんですが、ニックネームがあるのは便利なので、そのままになってるとのこと。「トッカータとフーガ ニ短調」ってだけじゃ、565の「チャララ~♪」とおんなじですからね。とにかく、バッハの曲はたくさんあって、ややこしいw しかし、有名な、いわばシンフォニックな 565番とは対照的に、最初から最後まで同じメロディーを数限りなく繰り返しているだけなのに、ちっとも飽きさせない、それどころか、どこまでもどこまでもぐんぐんと引っぱってゆくこの力は、いったい何なんでしょうね?‥ さて、↓次は、「アンナ・マグダレーナのための音楽帖」に載っている「トッカータ」。アンナ・マグダレーナは、バッハの後妻さんだそうで、若いアンナのチェンバロ練習用にと、バッハが書いたノートなんだそうです。 練習用のノートが、全部新しく作曲した曲で、しかもそれが後世に残る名曲ばかりなんですから、すごいですよねw でも、「音楽帖」の作品は、やっぱり、比較的弾きやすい、かわいらしい小品が多いんですね。ピアノのおけいこで、練習したことがある方もいらっしゃるでしょう。 チェンバロ用の曲ですが、ピアノの演奏で聴いてみたいと思います: J・S・バッハ、トッカータ ホ短調 (パルティータ6番) BWV830ウラジミル・アシュケナージ/ピアノ アシュケナージは、「のだめカンタービレ」の音楽を監修してから、クラシック圏以外でも広く知られるようになりましたが、‥‥どういうわけか、日本の“クラシック通”の人たちは、昔からアシュケナージに評価が高くないんですよね。。。 でも、彼の演奏も指揮も、ギトンは好きですよ。 誤解をおそれずに言えば、アシュケナージは、分りやすいんですよ。はじめて聞く曲でも、マエストロ・アシュケナージが弾くと、メロディーがすんなり耳に入ってきます。旋律の音符を強く弾けば聞こえるだろうってような‥‥そういう簡単なもんではないんですよ。分りやすいからって、決してイージー・リスニングではありません。音楽の本質を、しっかりとつかまえて、伝えてくれていると思います。 もともとバロックが好きで、クラシックはあんまり聴いたことがなかったギトンでしたが、マエストロのお陰で、ひととおりの曲には耳が慣れてきました。  さて、「トッカータ」とひとくちに言っても、じつにさまざまな曲があります。よく知られたトッカータは、「チャララ~♪」みたいなのですが、そればかりではないんですね。対位法がどうたらこうたら… むずかしい定義はあるようですが、もっぱら耳で聞くファンとしては、楽譜を読んで研究するよりも、まずはいろんなのを聴いてみることにしたいと思います。 BWVの 910番から 916番までは、「7つのトッカータ」と呼ばれて、チェンバロ用のトッカータが並んでいます。全部聴いている余裕はないので、2曲だけ選んでみます:J・S・バッハ、トッカータ ニ長調 BWV912グスタフ・レオンハルト/チェンバロクリスティアン・ツェル・チェンバロ(1728年製作)ハンブルク音楽工芸博物館 このチェンバロも古いですね。バッハの時代に作られた古楽器です。博物館に陳列してあるのを、弾いてしまうんですから、演奏者の技術もすばらしいし、それを演奏させる館の考え方も見上げたものです。たいせつに飾って、保存して、徐々に朽ち果てて行かせるだけでは意味がない... レオンハルトは、比較的穏当で標準的な演奏だと言われる古楽器奏者ですが‥、それにしても、ユーチューブに出てる動画を集めて比べていくと、どういうわけか、レオンハルトと、↑さきほどのコープマンの2人の演奏ばかりになってしまいました。カール・リヒターとか、ほかの著名奏者のもあったんですが、細部で比較すると、結局この2人になってしまいます。 まぁ、自分の好みが出てしまうのは、しかたないですね。 ↓つぎの 916番は、いままでのとはちょっと違うタッチの小品ですが、コープマンの演奏の迫力をお聞きください。こんな小品にも、バッハの魂は宿っているんだなあと、あらためて感銘してしまいます。。。 J・S・バッハ、トッカータ ト長調 BWV916 から 1.プレストトン・コープマン/チェンバロ さて、お待ちかね(待ちかねてるのは、おまえだけだろうって?w)。チャララ~♪ のロック・ヴァージョンを聴いてみたいと思います。 なにせ、曲が有名すぎるんで、ロック・ヴァージョンも、雨後のタケノコのようにわんさと出ております。しかし、どれもこれも(失礼!!)シャチホコばった原曲をさらにシャチホコばらせて、眉間にシワ寄せて弾いてる感じで、ギトンはどーも気にいらないのでありますw しかし、↓これは一聴の価値がある! 見れば、視聴回数 283万回と、申し分ない人気ですなあ。。。 演奏している面々の、肩ひじ張らずに音楽に没入してゆく至福の表情をご覧あれ。 J・S・バッハ、トッカータとフーガ ニ短調 BWV565(ロック・ヴァージョン)シンフォニティ(セゴヴィア,2014年 ライブ) 「シンフォニティ」は、「世界初のエレキギター・シンフォニック・オーケストラ(la primera orquesta sinfónica de guitarras eléctricas del mundo)」と銘打ったスペインのバンド。⇒:【公式HP】 ただ気になるのは、ホームページの「Novedades」に出てるライブが 2013年と 14年ばかりなこと。いまはもう解散してしまったんでしょうか?... スペイン語が読めないので、詳細はわかりません。 もひとつ聴いておきましょう↓。クラシック奏者顔負けのヴァイオリン名人、ギャレットのライブから: J・S・バッハ、トッカータとフーガ ニ短調 BWV565(ロック・ヴァージョン)ダヴィット・ギャレット/ヴァイオリンロック・シンフォニーズ・ツアー 2013年,ベルリン  ヴァイオリン+エレキギター+管弦楽という、これ以上はないごちゃ混ぜw しかも、超絶技巧を誇るギャレットのヴァイオリンは、まるでシューマンかチャイコフスキーのコンチェルトのよう。もう、バロックだかクラシックだかロックだか分からない。。。 ほんとに、音楽に垣根はないと納得させてくれる一品です。 ところで、ヘッセの詩のほうが、どこかへ行ってしまいましたw なので、関連するヘッセ作品をもう一つ↓。くだくだと解説するよりも、これを読んで、ギトンの解釈を感じていただければと思います。       1944年10月 これでもかというように雨がたたきつけ 泣き声を上げて大地に身を投げる 川がごぼごぼと道にあふれ出し 氾濫した湖に流れこんでゆく さっきまでは鏡のようだったのに。 いつだったか楽しい日々があり 幸せな世界のように思われたのは みな夢だったのだ。灰色の髪をして ぼくらは秋に立ちつくす:戦争を 身に受け、苦しみ、そして戦争を憎む。 金ぴかをすっかり剥ぎとられた世界 笑っていたのはいつだったか 葉を落とした枝の格子のむこうから 死のように苦い冬が見つめている 夜が手をひらいてぼくらを襲う。 よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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  • 26Oct
    • ★ 丘に咲く華

            丘に咲く華―――ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、      と告げなさい (マタイ 28:10)     天にのぼって往ったのは あれはわたしではなかったのだ われさきにとわたしを裏切った ものたちがそのあとに随(つづ)いた ガリラヤへ飛んでいったのは あれはわたしの兄弟 争いと貧困のなかに共にあり いまも戦火のなかにある わたしの流した血はどこにも行かない ずっとここに、この丘のうえにある 春になれば集まってくる 魚(うお)の卵のように罌粟の実のように 夥しい数の紅い花を咲かせる 燃えあがる無数の小さな愛 こわれた十字架、消されえぬ焔 それはわたしだ よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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    • 詩文集(57)――【ショパン】:大円舞曲、燃えつづける愛

      ショパン            Ⅰ  手にとるままに繰りかえし わたしに降らせ、あなたの 揺籃(ゆりかご)のうた、蒼白い大輪の百合を あなたのワルツの赤い薔薇を。 凋(しぼ)みながらむせるような香気をまきちらす 痩せ細って揺れるあなたの孤高 燃えあがる赤い撫子(なでしこ)の芳香(かおり) あなたの愛の重苦しい吐息を編みこんで。Ⅱ大円舞曲 燭光みなぎる広間 拍車の音、金モール 私の動脈の血が騒ぐ 乙女よ、杯をもて! さあダンスを!ワルツの狂乱; ワインの酔いに私の気分は沸騰し 味わったことのないあらゆる歓びを尽くそうとする― 窓のそとで、私の馬が嘶(いなな)く。 窓のそとでは、夜が くらい野辺をおおう。風が 大砲の轟きをとおくから運んでくる。 戦闘まであと1時間! ―乙女よ、もっと速く踊れ;時が流れ去る 疾風がのはらの藺草を(いぐさ)をゆらゆらと揺らす 明晩はあれが私の寝床になるのだ― あるいは私の死の床に。―よし、音楽だ! 私の熱いまなざしは貪るように 若く美しい紅(くれない)のいのちを呑みこむ その光輝はいくら飲みこんでも飲み足りない もう一踊りだ!さあ早く!蝋燭のあかりも 音も歓びも消えてゆく;月は死に戦慄(おのの)いて 憂鬱そうに光の冠を織りなしてゆく。 ―さあ音楽だ!舞踏の歩みに楼は揺れ 石柱に提げた私の剣がいきりたって鳴る。― 窓のそとで、私の馬が嘶く。  詩はまだ途中ですが、ここでいったん切ります。 ショパンのワルツのなかで、単に「大円舞曲(Grande Valse)」と呼ばれているのは1つだけなので、今度はかんたんです。 Grande Valse , As dur, Opus 42 大円舞曲 変イ長調 作品42 【ワルツ集5番】 「大」というわりには、前の4曲のような豪華さ、華麗さはなくて、ショパンのワルツのなかでは地味な一曲です。 しかし、「燃えあがる赤い撫子」と訳したのは、Feuernelke(火のナデシコ ↓画像参照)。「火」というから、カワラナデシコのようなギザギザの花びらかと思ったら、意外につつましい、サクラソウのような形です。「火」という名前は、燃え上がるような真紅の色からきているのでしょう。 別名を「エルサレムの十字 Croix de Jérusalem」「燃える愛 Burning Love; Brennende Liebe」とも。日本ではアメリカセンノウ、またはヤグルマセンノウと呼ばれる帰化植物ですが、原産はアメリカではなく、中央アジアだそうです。⇒:365花撰:アメリカセンノウ 詩の表面的なハデさとは対照的に、題材とされたショパンの曲も、歌いこまれた花も、‥色濃い情熱を内部にじっとつつみこんで燃えるような、落ち着いた美を感じさせます。 この記事のタイトルも、はじめは「燃えあがる愛」だったんですが、「燃えつづける愛」に改めました。そのほうが、この詩と曲に合ってますね。 ‥‥そこで、そうした点を意識しながら読んでみると、「Ⅱ」の「私」は、――職業軍人か中世の騎士のようですが――、イコール作者(語り手)とは考えにくい感じがします。 むしろ、「Ⅰ」の「あなた」が「Ⅱ」の「私」なのではないか? ‥‥そう考えて訳してみました。 語り手は、戦闘を前にして踊り狂う戦士(「あなた」)に対して、第三者の位置から思いを寄せている。そう読むのは、ホモセクシュアルすぎるでしょうか? でも、ヘッセの原詩の大意には合っているような気がします。 ショパン、ワルツ 作品42 変イ長調「大円舞曲」 ヨウツベに出ている音源のなかでは、いちばん録音の状態が良いので、↑これにしたのですが、残念ながらピアニストの名前がわかりません。 アメリカセンノウ(Lychnis chalcedonica)              ショパン (承前)Ⅲ子守歌 きみの愛らしい子守唄をぼくにうたってよ! ぼくの子供の時が去ってからというもの その唄を聞くのがほんとうに好きなんだ。 あまくふしぎな唄声、こちらにおいで 夜もすがら、おまえだけがぼくの せわしない心を魅了するのだ。 ぼくの髪にそのきゃしゃな腕を置いて ぼくらの故郷(ふるさと)のくにの死せる 誉れと幸せの夢を見させてよ。 そらを往く孤独な星にも似て きみのお伽話の歌のゆらめきが ぼくの沈鬱な夜をかざってくれるとよい。 そしてきみはぼくの枕元に薔薇の花束を! まだ芳(かぐわ)しいうちに置いてほしい 故郷を想って悲哀に沈みこむ薔薇を。 もうすっかり萎れて望郷の病(やまい) にとり憑かれ、壊れてしまったこのぼくは もはや家に帰りつくことはないのだとしても。  ショパンの「子守歌」と呼ばれているピアノ曲は1曲だけ。↓つぎの曲ですが、モーツァルトやシューベルトの子守歌とは違って、最初から子守歌として作曲されたわけではないようです。ショパンが付けたもとの題名は「変奏曲」でしたが、楽譜として出版した時に「子守歌」と題されたのだそうです。 Berceuse , Des dur, Opus 57 子守歌 変ニ長調 作品57 これも3拍子ですが、ワルツのリズムとは、少し違います。3拍子とワルツの違い、わかりますか?w ワルツは1拍目に強い強勢があります。2・3拍目は、それに引きずられる感じ。聞いていると、1拍目が少し長めに感じます。3分の1かける3――ではないんです。 この「子守歌」は、左手の伴奏は最初から最後まで同じで、右手が主題をさまざまに変奏して繰り返すだけの、非常に単純な構成なのですが、 それがかえって、深い森の中の朝のしずけさのような‥、寄せては返す入江の波のような‥、どこかなつかしい安心感に包みこんでくれます。 演奏は、韓国のイム・トンヒョク(임동혁, 林東赫)。 ショパン、子守歌 作品57 変ニ長調(ドンヒョク・リム/ピアノ) ↑胃痛に苦しんでいるような表情を奇異に感じたら、あなたはピアニストというものを知らないんですw 顔の表情を歪めたほうが音が良くなるんなら、見てくれなんか気にしてる場合ぢゃありません。音楽家は音がすべて……それがピアニストの王道というものです。 そういえば、太田胃散のCMは、この曲だったかな?‥いや、あれはプレリュードの7番でしたね。。。 さて、オーケストラ用に編曲したヴァージョンでも聴いてみたいと思います。残念ながら、編曲者の名前も、オーケストラの名前もわかりません。ヨウツベに出品している Hunglikehuang が remix の多重編集で作ったのでしょうか?! だとしたら、すごい実力ですね。 ショパン、子守歌 作品57 変ニ長調(管弦楽ヴァージョン) さいごに、ジャズ・ヴァージョンを聴いておきたいと思います。 最初に「前奏曲7番」の主題がちょっと出てきたあと、左手のジャズスウィングに乗って「ベルシューズ」のメロディーになります。 ショパン、前奏曲7番(op.28-7, A dur) と 子守歌(ジャズ・ヴァージョン)(セージフォルテ・トリオ) よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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  • 18Oct
    • 詩文集(56)――【ショパン】:華麗なる円舞曲

            華麗なる円舞曲 ショパンの舞曲が広間に鳴りさわぐ 手綱(たづな)の切れた野放図なダンス 窓の外は鈍い曇りぞら 萎(しお)れた花冠がピアノを飾る きみはピアノをぼくはヴァイオリンを弾く 弾(ひ)いて弾いて終ることがない 恐れながら待ちうけるきみとぼく どちらが先にこの魔法を断ち切ってしまうだろうか 拍子の進行をどちらが先に止(と)め かがやく灯りを遠くに押しやるだろうか いったいぼくらのどちらが先に、その 答えのない問いを口にするのだろうか。 ショパンのワルツの中で、「華麗なる円舞曲(Valse Brillante)」という題名が付いている曲は、つぎの4曲があります。 Grande Valse Brillante, Es dur, Opus 18 華麗なる大円舞曲 変ホ長調 作品18 【ワルツ集1番】 Trois (Grandes) Valses Brillantes 3つの華麗なる(大)円舞曲: Valse, As dur, Opus 34 Nr.1 ワルツ 変イ長調 作品34の1 【ワルツ集2番】 Valse, a moll, Opus 34 Nr.2 ワルツ イ短調 作品34の2 【ワルツ集3番】 Valse, F dur, Opus 34 Nr.3 ワルツ へ長調 作品34の3 【ワルツ集4番】 2・3・4番も、出版された時は「3つの華麗なる大円舞曲」と題されていたのですが、今日では「華麗なる大円舞曲」といえばワルツ集1番を指すのが普通で、2・3・4番のほうは「大」を取って「華麗なる円舞曲」と呼ばれることがあります。 ヘッセが題材にしてるのは、4曲のうち、どれなのでしょうね? 順に聴き比べてみたいと思います。 まず、「3つの華麗なる円舞曲」のほうから‥ フレデリック・ショパン、ワルツ 作品34の1 変イ長調「華麗なる円舞曲」(エウゲニー・キッシン/ピアノ) あのキッシンがワルツを弾くと、こーなるのか~ て感じの演奏でしたw ワルツてより、ポロネーズか、バラードか、とまごうくらいストーリー性豊かな、迫力にみちた演奏だったと思います。 つぎは 34の2ですが、静かな短調のこの曲は、弦楽四重奏にアレンジしたものを聴いてみたいと思います。 フレデリック・ショパン、ワルツ 作品34の2 イ短調「華麗なる円舞曲」(ストラディヴァリ四重奏団) 3番は、新進のピアニストに登場ねがいましょう。技巧的には4曲の中で最も難しいこの曲を、よく弾きこなしています。喝采!! 有名な「子犬のワルツ」に対して、この曲は“猫のワルツ”とも呼ばれています。 フレデリック・ショパン、ワルツ 作品34の3 ヘ長調「華麗なる円舞曲」(サーシャ/ピアノ) つぎは、ワルツ集1番。ショパンのワルツの中で、もっとも早く発表された曲だそうで、技巧的にはそれほど難しくないのですが(わたくしも、いちおう弾けます)、易しいわりに、聴いてるほうにはいかにもウマそうに聞こえるので、ピアノを弾く人にとってはオトクな曲ですw フレデリック・ショパン、ワルツ 作品18 変ホ長調「華麗なる大円舞曲」(ヤン・リシエツキ/ピアノ) 以上で4曲聴いてみましたが、さて、ヘッセの詩は、どれでしょうね? 早くやめたいのに、ふたりとも自分からやめようとはしない、短調のものういメロディーが延々と続いてゆく3番か?‥‥ それとも、急速に旋回するワルツの流れに引きずられて、どこまでもどこまでも連れて行かれてしまうような1番か? ギトンは、2番ではないかと思います。次々と目まぐるしく曲の表情が変わり、新しい世界が開けてゆくこの曲は、ピアノとヴァイオリンのアンサンブル、どこまでもつづいて行こうとする恋の道行き、しかしいつかは終りになる予感が次第しだいに高まっているのに、どちらからもそれを言い出せない不安の焦燥を想わせないでしょうか? ところで、キまじめなクラシックの演奏がこれだけ続くと、なんだか、いたずらしてみたくなっちゃうんですよねw ‥というわけで、ジャズ・アレンジしたのをちょっと聞いてみたいと思います。もと曲は1番ワルツです。 ショパン、ワルツ 作品18「華麗なる大円舞曲」(ジャズ・ヴァージョン)(バンダ・デ・ジャズ) おつぎは、ロック・ヴァージョン。しかし、モタモタしてますねえ。。。 おまけに4拍子になっちゃってる。ギトンは、クラシックのロック・ヴァージョンを聴くといつも思うんですが、もとのクラシック演奏のほうが、ずっと迫力あるんだよねwww おまいら激しさが足りねえんだよ、激しさが! ‥ちゃって... ショパン、ワルツ 作品18「華麗なる大円舞曲」(ロック・ヴァージョン)      ただよう木の葉 わたしのまえにどこからか いちまいの枯葉がふきよせる 旅をすること、若くあること、愛すること みな時季があり終りがある 吹く風のおもむくままに あてどなくさまよう木の葉 湿った森の底でようやく停まる…… どこへゆくのか、わたしの旅は?  よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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  • 12Oct
    • 詩文集(55)――F=ディースカウがヘッセを歌う

      ペテル・ブカ 前回は女声の歌がつづいたので、こんどは男声クラシック。なんと、あの 20世紀を代表するバリトン歌手、フィッシャー=ディースカウのLPレコードです。これは掘り出しものですねw フィッシャー=ディースカウと言っても、もうクラシック・ファンでも知らない人が多いかもしれません。はじめは第2次大戦中、ドイツ軍兵士として囚えられた連合軍の捕虜収容所で歌いはじめ、戦後の西ドイツで爆発的な人気を博しました。本人は、やはり同時代の現代歌曲のほうを向いていたようなのですが、世界中、とくにドイツ外のファンをとりこにしたのは、彼が歌う、シューベルトなどの古いドイツ・リートでした。 高音域での少しうわずった、テノール歌手よりも甘い声色‥‥それが気持ち悪いという人もいますが、いちど魅了されてしまうと、気持ち悪さが快感に変るのかもww そして、なんといってもバリトンならではの底深いトーンで力強く歌い上げる中低音域。 このLPは 1977年のリリースで、すでに壮年ながら、まだ声量の衰えを見せてはいません。 作曲者のオトマル・シェック(Othmar Schoeck)は、スイスの作曲家で、ヘッセと同世代の人。この歌曲も、第2次大戦前に作曲されています。 しかし、原詩↓は、この「詩文集」でレヴューしているインゼル文庫のヘッセ詩集には、なぜか載っていません。翻訳は、フィッシャー社の『ヘッセ全集』収録のテキストを底本にしましたが、シェックの歌詞とは、わずかな口調の違いがあるようです(翻訳には影響しません)。この詩は、もしかすると、歌曲にするためにシェックに贈られたもので、詩集として出版されてはいないのかもしれませんね。       旅の道案内 みちばたで褐色のこどもたちが 熱した青天井をぼんやりと見つめる あのロマンシュのくに★のことならば ぼくはとてもよく知っている。 そこでは黒い樹々が炬火のように まっすぐに伸び上がって生え きみのすべての夢みる想いは ロマンシュの愛に病んでしまう。 そこでは金褐色の岩石に 青い波が打ちよせている もっとも美しい謡(うた)のなかから きみに多くの詩句がふりかかるだろう。 そして彼らが森と呼んでいる 3本の樹木が立つところ、その下を あまたの美しい女性の姿が 歩いてゆくのを見るだろう。 そのひとりの女がきみの唇に いちどでもキスを与えたならば きみは生涯の病いにおちいり 二度と健康にはならないだろう。★ ロマンシュの国(Welschland): イタリア、南フランス、スペインなどラテン系民族の国々。また、とくにスイスのイタリア語・レトロマン語地域を指す。  ↓レコード店の宣伝のためにユーチューブに出ているサンプル動画なので、第1曲「旅の道案内」が全部入って、第2曲「ふたつの谷間」の頭のところで切れています。それにしても、この掘り出し物を見つけたレコード屋さんは、さすがですねw ヘルマン・ヘッセ「旅の道案内」(オトマル・シェック/作曲)(ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ/バリトン,カール・エンゲル/ピアノ)  さて、フィッシャー=ディースカウほどの大物が登場したとなると、これだけで退場してもらうのは惜しい気がしてしまいます。ヘッセ街道から外れて道草になってしまいますが、シューベルトを1曲だけ聴いておきましょう。 『白鳥の歌』より 「惜別」(フランツ・シューベルト/作曲)(ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ/バリトン,ジェラルド・ムーア/ピアノ)  伴奏のビアノのアルペジオが、町を出て引っ越してゆく馬車のひづめの軽やかなリズムを思わせますが、それにもかかわらず明暗入り混じったシューベルトのメロディーは、詩の内容を忠実に反映しているのです。 レルシュタープの歌詞↓を読んでみれば、これは決して楽しいだけの歌ではない。むしろ、暗く沈むよりもずっとずっと巨きな悲しみを表現し得ているのです。          惜 別ルートヴィヒ・レルシュタープ   アデー(さよなら)、陽気で朗らかな町、アデー! ぼくの馬はもう楽しげに蹄(ひづめ)をひびかせる ぼくの最後の別れのあいさつを受けよ おまえはぼくの悲しい顔を見ることはもうないだろう だからいまだってそんなことは起こりはしない。      〔…〕 アデー、ほのかにひかる明るい窓よ、アデー! おまえはたそがれのなかでなんと悲しく輝いて ひとを小屋のなかにやさしく招いていることか ああ何度ぼくはその傍らを通り過ぎたことだろう そして、きょうこそは最後になるのだろうか。 アデー、星々よ灰色に霞みゆけ!アデー! 数限りないおまえたちの星あかりも 窓のくぐもった輝きの代りにはならない; ここにとどまることが許されないなら、去ってゆかねばならぬなら おまえたちが律儀に付いてきたとて何になろう! アデー、星々よ灰色に霞みゆけ!アデー! ところで、ヘッセ自身は自分の詩に曲をつけたことはなかったのでしょうか? どうも無かったようです。 ヘッセは少年時代から、ピアノもヴァイオリンもよくこなしており、音楽家にならずに詩人になったのは偶然のせいだという言う人もいるくらいです。それなのになぜ作曲をしなかったのか? おそらく、ヘッセ本人は、じっさいに大成した詩人としての才があまりに優れていたために、自分の音楽の才能までは評価しきれなかったのだと思います。ヘッセの詩は、それ自体が音楽感の発露です。そもそもドイツ詩では、音数とアクセントの交替による平仄のリズムは、あってあたりまえ、各行末の脚韻の適切さが、詩の音楽的な面での評価を左右します。 詩が脚韻を必要とする世界の大部分の国々では――アラビアでも中国でも――、詩はけっして誰にでも作れるわけではない、知性と感性の合体した高度なパズルなのです。 日本語にしてしまうとまったく伝えようがないのは残念なのですが、ヘッセのほとんどすべての詩は、脚韻を……しかも、かなりきっちりと規則通りの韻を踏んでいるのです。もしも、音楽性を重視するあまり、意味内容の構成をおろそかにすれば、その無理は直ちに詩の全体的な“すがた”の破壊となって現れます。ヘッセの詩には、そうした失敗がまったく見られない――それは驚異というほかはないのです。 詩の技術(ドイツ語では「芸術」と同じ語です)を体現してしまった成熟期のヘッセにとっては、自分の中途半端なピアノやヴァイオリンの演奏技術などは、あまりにもみすぼらしいものに見えたのかもしれません。↓下の詩では、自分は小説や詩を書くことに忙殺されて、楽器の練習をするひまがなかったのだと言い、もっぱら口笛の技術を研鑽してきたと言うのです。           口 笛 ピアノとヴァイオリン、ほんとうにすばらしいものだが それらにわたしはほとんど関わってこなかった これまでのわたしの生活のめまぐるしさは 口笛を研(みが)く時間しか残してくれなかったから。 わたし自身名人とは呼び得ないし 芸術は長く人生は短いけれども 口笛の芸術を知らぬひとびとを残念に 思う。それはわたしに多くを与えてくれた。 もう長いことわたしは口笛を研鑽し 一歩一歩習熟しようともくろんできた そしていまわたしがめざすのは、自分に向け、   きみに向け、世界に向けて口笛を吹くこと。 ヘルマン・ヘッセ「口笛」(作曲,ギター,ヴォーカル/クラウディオ・ロンカルディ 口笛/ハイディ・ヴルジ) ロックでもカントリーでもクラシックでも、ユーチューブには、まだまだヘッセの詩に曲をつけた演奏が残っているのですが、それは皆さん自身でお探しいただくとして、 次回からは、ヘッセ→音楽 の矢印を逆にして、音楽について書いたヘッセの詩をとりあげてみたいと思います。  よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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  • 04Oct
    • 詩文集(54)――暗黒へのいざない

            眠りにつくとき 一日はわたしをすっかり疲れさせた 夢みる願いが星でいっぱいの 夜を、まるで疲れたこどものように えがおで迎えようとしている 手よ、なにごともやめよ 額(ひたい)よ、なべての思考を忘れよ わたしの官能はいまこぞって 睡(まどろ)みに沈もうと欲する そして目覚めることなき魂は かろやかにつばさを広げただよってゆく 魔力にみちた夜の圏域のその奥底で 昼間の千倍も生きようとして 前々回に予告してありました、リヒャルト・シュトラウスの『4つの最後の歌曲』から聴いてみたいと思います。4曲のうち3曲が、ヘッセの詩に曲を付けたもので、「眠りにつくとき(Beim Schlafengehen)」は、第3曲になります。 ヴォーカルはアメリカのプリマ・ドンナ・マグナとも言うべきジェシー・ノーマン、演奏は伝統ひとすじのドイツ・オーケストラ:ライプチヒ・ゲヴァントハウス、指揮はマズーアと、豪華この上ないキャスティングでお送りします。この音源をかけながらベットに入れば、さぞかし心地よい眠りが。。。 サワリは 3:40 から。 ヘルマン・ヘッセ「眠ろうとして」(リヒャルト・シュトラウス)(ジェシー・ノーマン/ソプラノ,クルト・マズーア指揮,ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団)  「魔力にみちた夜の圏域のその奥底で/昼間の千倍も生きようとして」――と歌い、起きているあいだは人間のぬけがら、夢のなかにこそ私の人生がある‥‥と言いたげなヘッセに対して、底知れぬ暗さをたたえたリヒャルト・シュトラウスの曲は、ぴったりと言うべきでしょうか。 人を超えた“巨人”を讃える二―チェの大作を交響詩にしたり、いつもどこかナチスっぽいこの作曲家、ギトンは、エルヴィスのオープニング以外は好きではないんですが、‥‥それでも何でも、名作曲家にはやはり名作曲家の風格があります。 ともかく、演奏には何も文句はありません。いぶし銀のように輝くマズーアのゲヴァントハウスの前では、カラヤンのBPOなど、金綺羅のチンドンヤに見えてしまう‥(おっと、悪い比較でしたね。チンドンヤさん、ごめんなさいw)そして、ノーマンのソプラノ。声量と言い迫力と言い、現在のクラシック界に、彼女の右に出る者はいないでしょう。  さて、↓つぎはジャズ・ソング風のヘッセですが、ノーマンの絶唱の後を受けるには、これも悪くない。原詩のめざすところを真っすぐに受けとめてたじろがないソング・ライターに、拍手を送りたいと思います。 翻訳は、「詩文集」ですでに出した拙訳の再掲です。      美しの女神(シェーンハイト)に(An die Schönheit) あなたの軽やかな御手をぼくらに! なじんだ母の手から引き離されて ぼくらは暗闇の隈をめぐり 見知らぬ国をさまよう子どもたち。 ぬばたまの闇からあなたの歌う 妙なる調べ:故郷(ふるさと)の曲(うた)が聞こえてくれば それは不安なぼくらの行く手を照らし そっと慰めてくれるのだった。 行き先もなく路もなく 果てしなき夜をさまようぼくら; 慈悲深き女神よ導きたまえ 巨いなるあすの夜明けの迫るまでヘルマン・ヘッセ「美しの女神に」(ナディーネ・マリア・シュミット)  前の「眠りにつくとき」とちがって、夜通し寝ないで歩くという詩の内容ですが、ナディーネの曲づけは、詩の最後の「巨いなるあすの夜明けの迫るまで」を中心にした、明朗な解釈に立っているようです。エンディングで、最後の2行を何度もリフレインしてます。 そのせいか、“魔力”や“魔の世界”を強調するヘッセにしては、カラッとした明るい仕上がりになっています。こういうヘッセも悪くないでしょう。 ギトンなどは、ちょっと物足りない気がするのですが――ほっとしてもいるんですがw――、ドイツ語圏以外の外国では(日本もふくめて)、この顔のヘッセのほうが、受け入れやすいのかもしれません。  よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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  • 26Sep
    • 詩文集(53)――ヘッセを奪い合うメロディ―たち

            階 段 どんな花も萎(しぼ)み、どんな青春も 老年に席を譲る、人生の各段階に 華があり、それぞれの智慧があり徳があり それぞれの時に花開き、永遠(とわ)につづくことはない ひとの心はどの段にも別れと再出発を 覚悟せねばならぬ、 恐れずに、悲しむことなく 新たな繋がりへと進みゆくために. すべてのはじめには魔力がひそむ わたしたちを守護し助けて生きさせる魔力が. 空間から空間へと朗らかに渡ってゆこう どの空間にも故郷のように凭(もた)れることなく 世界精神は束縛も締めつけもしない、段から段へと、 わたしたちを高め、おし広げようとする ひとたびどれかの生の領域にやすんじ、そこに 安住するやいなや、衰えがわたしたちを襲う いつでも旅に出る用意ある者だけが 麻痺した無気力から逃れることができるのだ. わたしたちを新たな空間に若々しく向かわせてくれるものは 死の時をおいてほかにないかもしれぬ わたしたちを呼ぶ生の呼び声は絶えることがない... されば、いざ、心よ、いまこそ別れの時、すこやかであれ! 「階段」と言うと、低いところから高いところへ昇ってゆくイメージがあるのですが、ヘッセは、人生の階段を登って行くほど高い価値に達するというような考えは、あまり持っていないように見えます。 途中に、「世界精神」がうんぬん、「段から段へと、/わたしたちを高め、おし広げようとする」とありますが、それを全篇に及ぼすかどうかは、読者の読み方しだいでしょう。ギトンは、そうは読みません。うしろから、ヘーゲルやら何やらに追い立てられるかもしれないが、その一方で、私たちをやすらかに再生させてくれるもの――ひとはそれを死と呼ぶ――もある‥‥ と、そんな軽やかな読み方もあると思うのです。 そうは言っても、「階段」の、上昇する語感を避けようとして、「段階」「階層」などと訳してみても、けっきょくは同じことです。それらのなかでは、価値の思い入れが比較的少ない語を選んで、「階段」としました。 天上へ昇ってゆく階段ではなく、薄暗い地下へと勇気凛々降りてゆく下り階段をイメージしてもらえたらと思います。 この詩は、原詩で読むとたいへんわかりやすいのです。そのせいか、ユーチューブに朗読テープがたくさん出てますし、この詩に節をつけた歌も、ひとつやふたつではないようです。ここでは、クラシックとポップスから各1曲とりあげてみました。 この詩のように、誕生から死まで、人生の各“段階”を見わたした歌は、ヨーロッパでは好まれる詩のテーマらしく、パーティーの席などで、シロウトのオバさんが自作を朗読して喝采されたり、また、駅頭でシロウトのシンガー・ソングライターが唄っていたりするのを、耳にしたことがあります。まぁ、誰にとっても懐かしい、なじみのテーマなわけです。 ヘルマン・ヘッセ「階段」(アンセルム・ケーニヒ,ベアト・リッゲンバハ)  こういう歌い方、ギトンは好きですね。ジャズ風のアレンジが詩の内容によく合っているように思いますが、どうでしょうか?‥ 原詩のドイツ語のまま、最後まで歌ったあとで、何語かで1節歌っていますが、ギトンには分からない言葉です。詩の一部の翻訳でしょうか?(最後にまたドイツ語に戻って、第1連の最後の2行「すべてのはじめには魔力がひそむ…」を繰り返してエンディングになっています。) この言語、もし聞いてわかる方がいらっしゃいましたら、お教えいただけるとたいへん助かります。 ちなみにこの動画、作曲のアンセルム・ケーニヒがコメントで謝意を述べていますから、著作権違反ではない公式のものです。 ↓つぎは、オーケストラにソプラノのクラシックですが、8分47秒と、若干長めです。クラシックにすると、長い間奏が入ったり、キモの1節は何度も繰り返して絶唱したりとかで、どうしても長くなってしまうんですね。 なので、適当に切り送りして、サワリを聴いていただきたいと思います。忠実に全部流して聴かないとイケナイなどとは思わないことです。ここは、燕尾服を着たコンサート会場ではないんですからw ハンス・レーンダース指揮、「ヨハン・ウィレム・フリゾ」王立軍楽隊、2009年1月28日ライブ(オランダ)。なるほど、弦抜きの吹奏楽団です。歌手の名前が、ちょっとわかりません。 ヘルマン・ヘッセ「階段」(作曲:ヤコブ・ド・ハーン)       夕べ 夕べに恋人たちは ゆったりと野原を歩き 女たちは髪をおろす 商人は帳場のカネを数え 町びとは気が滅入ったように 夕刊の記事を読む 子供たちは手を握りしめたまま みちたりて深く眠りこむ. 皆がみなただひとつの真実を行ない 崇高な義務を追う 乳飲み子、町びと、恋人たち―― わたしだけがちがうのか? そんなことはない!わたしが奴隷のように くりかえす夕べのつまらぬ行ないだって 世界精神には無くてはならぬ それなり意味のあるものさ あっちこっちへうろつきまわり 頭の中では踊るよう うなるは戯(ざ)れた流行りうた 神と己れを讃(たた)えつつ ワインを飲んで、暴君(パシャ)になった 夢を見る 癪(しゃく)のたねを思いつき 苦笑して、もっと飲み 自分の心に語りかけ (それは朝にはできぬこと)、 むかしの嫌(いや)なことなど思い出し 戯(たわむ)れ気分で詩に紡ぐ 月と星々のまわるを眺め かれらの気持をおしはかり かれらと旅をする気分、もう ゆくさきなんかどうでもよい! さて、聴いていただく“音楽化”は、前回も取り上げたフォーク調のルカス&ロベルト・ベッカー。前回と同じCD『耳をすませば――言葉と音のなかのヘッセ』から。 前回の曲づけには、いやはやビックラこいたんでしたが、今度の唄は、かれらのルンブラ調もお手やわらかだしw、なによりも詩の内容とよく合っているので、これはオススメです!! ヘルマン・ヘッセ「夕べ」(ルカス&ロベルト・ベッカー)   う~ん、だんだんわかってきたんですが、ヘッセの詩と言えば、どれもこれも堅くてお行儀良いわけじゃないんです。いや‥、大部分は気楽なウタで、酔ったひょうしに戯れに書きつけたようなのが多いんですよw この詩の中で、かれ自身、「むかしのイヤなことなど思い出し/戯れ気分で詩に紡ぐ」と言ってるとおりです。 「神」とか「精神」とかいう語が出てくると、ぼくたちは思わず畏こまって読んでしまうかもしれないが、ヘッセ本人はそんなつもりは、ちっともない。そのへんに誤解があるんじゃないだろうか……と、現代ヨーロッパの人たちのヘッセ理解が、すこし解りかけてきました。。。 よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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  • 20Sep
    • 詩文集(52)――荒れ狂うヘッセ、冷笑するヘッセ

            ぼくは星 ぼくは天空の一箇の星 地上をつぶさに見まわして地上の世界を侮蔑する この身は永遠(とわ)の灼熱に焼かれつつ。 ぼくは海、夜ごと荒れ狂う 嘆きの海、罪深き生け贄 古き罪に新しきを重ねつつ。 ぼくは貴方らの世から締め出された者 自惚(うぬぼ)れに育てられ、自惚れに騙されて 国無き王となった者。 ぼくは愚かな情熱そのもの 家に竃(かまど)無く、戦(いくさ)に刃(やいば)無く 己れの力は病んでいる。 今回から2回にわたって、ヘッセの詩に曲をつけたものをご紹介します。もちろん、クラシック歌曲もあります。有名どころでは、リヒャルト・シュトラウスの『ヘッセとアイヒェンドルフによる4つの最後の歌曲』。 しかし、それらは次回にまわして、今夜はロックから始めたいと思います。題して:  荒れ狂うヘッセ、冷笑するヘッセ――ユーロ・ロックのなかで 私たちが日本で見る・お行儀のよいノーベル賞作家とは一味違った、“もうひとりのヘッセ”を聴いてみようという趣向‥‥ヘルマン・ヘッセ「ぼくは星」(作曲:アネッテ・ロキッタ,ギター&プログラミング:ティモ・デュグリュン)『ヘルマン・ヘッセ 荒野の狼――音楽と詩による耳で聞く本』より。  この詩は、ヘッセ 19歳の時のもので、若々しい情熱と反逆心にあふれている‥‥ ロックで歌うにはもってこいの作品かもしれません。 ヘッセの詩に曲をつけたユーロ・ロックは、youtube には、ほかにも出ていましたが、これがいちばん、作曲も演奏もととのっていたので、とりあげました。 ロックにしては静かだとおっしゃるかもしれませんが、大陸のユーロ・ロックは、こんなもんです。重い調子のメロディーが、ヘッセの詩には合ってるかも。。。 え? この程度じゃ、つまらない? そいじゃ、↓これはどーでしょ? 同じ詩を、オーストリアのブラック・メタル「ドルネンライヒ(棘の国)」の弾き語りで!!ヘルマン・ヘッセ「ぼくは星」(「ドルネンライヒ」Gitar/Vocal エヴィーガ Violin イーンヴェ) つぎの曲も、はじめにヘッセの詩の翻訳を掲げますが、ちょっとこれは長いです。しかし、長い詩をそのまま全部歌詞にして歌ってますから、あらかじめ全部読んでおく必要があります。 ‥しかも、読んでみるとなかなか宗教的で、ごつい内容なんですが、これをロックにすると、いったいどんなことになるのか、まずは想像しながら読んでみてほしいと思います:          夕べの雲 そんなにもひとりの詩人が思いと工夫をこらすこと 韻と詩行を彼の手帳に書き込むことは 本質をはずれたことと人には思われようけれど 神は理解し甘んじて見まもり給(たま)う. 世界を秤量し給う神ご自身も ときには詩人となられるのだ 夕べの鐘が鳴りわたるとき 夢見るように神は虚空に手を伸ばし 晩の宴(うたげ)をかざる祝祭劇 やわらかな黄金(きん)の群雲(むらぐも)を美しく編みあげ それらは山の端(は)を縁どりし 夕べのひかりに朱(あか)く泡立ち かくて御許(みもと)に達した多くのものを 神はみちびき永らく守護し給う ほとんど無から生じたそれらのものが 天にかかり至福にほほえんでいるように. そして語呂合わせのガラクタと見えたそれらが いまやひとつの魔力となり磁石となって ひとびとの魂を惹き集め 神への思慕と祈りに向かわしめるのだ. 創造主は微笑み、つかのまの 夢から目覚め、落日の祭りは燃え尽きて、 冷えきった遥かの地平から やすらぎに満ちた夜がひろがってくる. たとえ戯れの劇ともせよ、どの映像も、かつて どんな詩人も成しえなかった完璧と美と至福にみちて 神の清き御手(みて)から湧き出(い)づるのだ. よしんばおまえの地上の唄が 速やかに消えゆく夕べの鐘にすぎぬとも それを超えて、光のうちに燃えあがる 雲は、神の御手から吹き寄せる.  夕べのひとときに、胸の底から自然とあふれ出てくる、心洗われるような静逸な祈り。 燃え尽きようとする陽の最後のひかりの中で、詩人のノートに記された覚束ない文字も、この世のものとは思えない光芒につつまれ、それらはまるで、天上の世界から吹き寄せてきたかのように耀くのです。 さて、この詩に曲をつけたのが、↓次なる動画なんですが‥‥、アッハッハ たまげずに聴けたら、たいしたものです... ヘルマン・ヘッセ「夕べの雲」(ルカス&ロベルト・ベッカー)  正直言いまして、ギトンは、↑これには、ほんとにビックラこいたんです。 言葉がわからないかもしれませんが、↑上の詩を一字一句そのまま歌ってるんです。「神は見守りたまう」だの「清き御手から湧きいづる」だの、全てが全てそのままです。咥えタバコでお祈りしてるようなもんだw ただし、誤解してほしくないんですが、この曲、悪いと言ってるんじゃありません。軽快なリズムの中に、そこはかとない哀愁をたたえた、いい曲だと思いますよ、歌詞さえ↑こうでなければ‥‥ww ちなみに、この節回しをつけたのは、シロウトのいたずらでもパロディーでもありません。『耳を澄ませば――言葉と音のなかのヘッセ』という、レッキとした真面目なCDなんだそうです。 いやいや‥‥ こんなもんで驚くのはまだ早いw おつぎは、2016年に、ヘッセの生まれ故郷カルプ(Calw)で開かれた『ヘルマン・ヘッセ・フェスティヴァル』のひとこま。これまた、催し自体はすこぶる真面目なもので、カルプ市の市長(Oberbürgermeister)も出席しています。 カルプ市は、バーデン・ヴュルテンベルク州カルプ県の県都(Kreisstadt)で、フェスティヴァルが開催されたヒルザウ↓は、市の街区(Stadtteil)のひとつ。カルプ市ヒルザウ町ってとこでしょうか。 ウド・リンデンベルク「ジジイはホットだぞ」(2016年ヘルマン・ヘッセ・フェスティヴァル in カルプ-ヒルザウ)  山高帽に、ピンクのジャケットで歌っているのが、ウド・リンデンベルク。どうやらバンドのリーダーで、このフェスティヴァルの主催者らしいのですが‥‥ よく見れば、相当お年の方らしいです。ちなみに、「ジジイ」と訳した原語(グライス)は、「非常に高齢の老人」と辞書には出ていました。この歌↑の歌詞は、ヘッセの詩ではなく、リンデンベルクの作詞だそうです。 バンドもなにやらオジサン・バンドで、‥しかし、観客は、けっこう若い人ばかり。 ともかく、決していいかげんな乱痴気騒ぎなどではなく、現地の市も後援する(らしい)レッキとしたコンサート。ユーチューブには、ウド・リンデンベルクが、舞台の上で、市長から「ヘルマン・ヘッセ賞」メダルを授与されている録画も出ていました。――“授与したければ、勝手にやってろ”って調子でねww そのリンデンベルク翁、さかんに股間を突き出してボッキン山脈を強調しながら、踊りまくってます。あんなにマイクロフォンを振り回したら危なくないだろうかと‥、歌よりもっぱら、そっちのほうが気になってハラハラしますたw  いったい、これのどこがヘッセなんだと言いたくなるでしょうが、‥‥それでも、ホンモノの(˚ヘ˚)市長が出て来て「ヘッセ賞」を授与しているあたり、これもまた、現代ドイツで“ヘッセ”を象徴する公式の場のひとつなんだと、思わないわけにはいかないのです。 ドイツの人たちの中に今も生き続ける“ヘッセ”が、ここにあるのだと。。。 ウド・リンデンベルク「ホンキー・トンキー・ショウ」(2016年ヘルマン・ヘッセ・フェスティヴァル in カルプ-ヒルザウ)  うむうむ‥‥、たしかにこういう一面もヘッセにはあり‥ ありましたんでしょうかねえ??! ともかく、上の『夕べの雲』と言い、このフェスティヴァルと言い、現代ドイツでのヘッセ受容の一面を見る思いです。私たちがイメージしてきたヘッセとの、あまりの違いに、もう愕然!! ヘッセを愛読する日本の紳士淑女の皆さん、いかがでしたでしょうか?w そういえば、ヘッセはヌーディストだったそうですよ。日本で出てる伝記には、そんなこと書いてないんですけどね。全裸で写した写真が何枚も、ユーチューブで公開されてました。(ホモセクシュアルの写真がないのは残念だ‥ ˚_オィ) よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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  • 15Sep
    • 詩文集(51)――砂に刻まれた風の詩(うた)

            砂に書かれた 美しいもの、心を奪うものは みな一時(いっとき)の気配か雨でしかなく たぐい稀なもの、うっとりさせるもの、 優美なものは長つづきしないのだと: 雲や花々、しゃぼん玉、 花火と子供の笑い声、 鏡を覗きこむ女の眼、 その他多くのすばらしいものは 見つけたとたんに消えてしまう 瞬きする間(ま)のできごとで 風にただよう香りにすぎぬことを われらは嗚呼、悲しみとともに知る. 長つづきするもの、硬いものはみな われらにとって内的価値あるものでない: つめたく燃える高貴な石 重くかがやく黄金の地金 数えきれぬあの星々さえ 過ぎゆくわれらには遥かに 縁遠く、魂の奥底に ふれることはない. そうだ、われらのうちの美しきもの、 愛にあたいするものすべてが 滅びに向かい、つねに死と接している なかでももっともたぐい稀なもの あの音楽のひびきは、生まれでた 瞬間に過ぎ去り消えてしまう 流れ、追いかけ、吹きすぎるもの、 かすかな悲しみの渦をのこし われらの鼓動のあいださえ ふみとどまることはないのだから 音また音が鳴りひびきつつ 消え去ってゆくのだから.  長い詩なので、ここでいったん切ります。 内容は、ひとことで言ってしまえばどうということはない、↑この前半部分を見るかぎり、一瞬にして消え去ってゆく音楽のひびきのような、“うつろうもの”への限りない愛を、くり返し唄っているように見えます。それは洋の東西を問わず言い古され、歌い古された詩歌の紋切りのテーマとも言えます。 しかし、この詩の本領は、テーマそのものよりも、その進行のリズムと意外さにあります。意外さのほうは、↓後半を読むとわかってくるでしょう。 言葉のリズムに乗った意外さは、原詩の語順にも関係するので、翻訳ではなかなか伝わらないかもしれません。なんとか再現できるように努めているのですが。。。       砂に書かれた  (承前)  こうしてわれらの心は過ぎ去るもの、 流れゆくものに、生命(いのち)に、 忠実に兄弟のように付き従う 確固として継続するものにではなく.―― 動かざるもの、巌(いわお)、星ぞら、宝石は まもなくわれらを飽きさせる われらは恒(つね)なき風と泡沫の魂、 永遠の変化を追いつづけ 時間を無二の伴侶とする者; 薔薇の花弁のしずくさえ、 一羽の鳥の羽ばたき、 雲のいたずらのような死滅、 雪のまたたき、消えた虹、 飛び去ってしまった蝶の影、 耳をかする通りすがりの 笑い声さえ、われらにとっては 祝祭であったり、愁いをもたらすもの であったりする.自らと似たものを われらは愛す、われらが解するのは 風が砂のうえに書いた文字.  さて、この詩は、さいわいユーチューブに朗読がいくつか出ていたので、2本だけ拾ってみました↓ まず最初に聴いていただくのは、ヘルマン・ヘッセ本人の朗読です。ユーチューブを探しまくって、やっと見つけました(^^)ノ ただ、この朗読動画、はたして多くの人に楽しんでもらえるだろうかという不安はあります(youtube の視聴回数、そんなに多くないですw) 意味が解らなくても、音とリズムで楽しめる‥とは言っても、これだけ長い詩になると、ぜんぜん意味わからずに最後まで聴きとおすのは、しんどいかも‥ おおよその意味でも聴き取れれば、内容の進展につれてヘッセの語調が変ってゆくところなど、たいへん味わい深いのですが... せめて、自分の知っている単語のひとつや2つ、聞こえてくるんでないと、ちょっとこれは難物です。 しかも、ヘルマンさん、この詩では、一語一語を噛みしめるように、ゆっくりと味わい尽くして読んでいるのです。各語に籠められた著者の思いが、手に取るように聴きとれます。意味さえ分かれば、これほどすばらしい著者朗読もないのですが‥ カラオケみたいに、画面に日本語の字幕を入れられるといいんですがねえ← なので、聴いてみて、だいたいふんいきが解ったところで、切って次へ行くようにお勧めしますw ちなみに、一般的に言うと、作者以外の人が朗読する場合には、“味わいながら、ゆっくり朗読”は、かえって禁物です!! とくに、シロウト朗読のばあい、感情をこめてる本人は有頂天ですが、聞かされるほうはたまらないw 自作朗読でない限り、シロウトは棒読みに限る!とギトンは言いたいのです。それが、多くの人に嫌がられずに聴いてもらえるコツだと思います。 自作詩ならよいのです。作者の肉声は、詩の一部と言ってもよいのですから。しかし、他人の詩、‥とくに有名な詩を読む場合に、それはいけません。有名な詩は、読者それぞれが自分のイメージを持ってしまっています。そこに、朗読者の“有頂天”を押し込もうとするのは、デリケートな神経を逆なでするものです。 自己個人の枠を離れて、パーフォーマンスの効果を冷静に計算できるプロであれば格別、それ以外の方は、どうか、ぜひぜひ“ひたりきり”をおやめになって、感情をこめずに、棒読みで淡々と読んでほしいものです。みんな、そう思わないから、ひたりきって朗読するのでしょうけれどもね‥‥ 最近は日本語でも、ミヤザワ・ケンジとか、作者以外のシロウト朗読がハヤってまして、‥‥聴いていて気持ちよくないのでw くわえて、ミヤケンの評判を落としてほしくないのでww ‥‥ いつかこのことを、“あ~いえばこーゆー記”あたりに、しっかり書いておきたいと思ってるほどです。。。ヘルマン・ヘッセ「砂に書かれた」(作者朗読) 次の動画↓は、女声による職業的朗読者のものですが、声がBGMに隠れてしまって、よく聴き取れないのが残念です。しかし、棒読みに近い読み方は、良いと思いました。この詩は、このように、ある程度の速さをつけて淡々と読んでゆくのがよいように思います。 声が小さいので、言葉の意味が解っても解らなくても、あまり違いはないかもしれません←。その点では、むしろ多くの方に聴いていただけるかも。音楽・風景動画とともに、ことばの響きを楽しんでもらえればと思います。 ヘルマン・ヘッセ「砂に書かれた」(アネット・ルイザン朗読)  よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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  • 08Sep
    • 詩文集(50)――【½C記念】秋のはじめ

        こんばんは(^^)o まだまだ蒸し暑い日がつづきますが、おかげさまで 50回目を迎えた《詩文集》です。 セミ・チェント記念は、ヘッセ詩の朗読をお届けします。↓あとのほうには、ヘルマン・ヘッセ本人の朗読テープもあります。 ともかく、まずは視聴してください。意味はぜんぜん解らなくてかまいません。画像を見ながら、原詩のひびきを聴いていると、なんとなく意味が伝わってくるのが感じられるはず。。。 ほんの2分間です。さぁ、とにかくトライ!! ヘッセ「秋のはじめ」(朗読)      秋のはじめ 秋の発散する真白な霧: いつまでも夏ってわけにはいかないんだ! 暮れどきがランプの光でわたしを誘惑する 寒いからはやく家にお入りと。 やがてからっぽになって立つ樹々と庭 野生のワインが家のまわりをしばらくは 照らしだし、それもやがては消えてしまう いつまでも夏ってわけにはいかないんだ。 まだ若かったころ私を歓喜させたもの そこにかつての楽しげなかがやきは いまは無く、わたしを歓喜させることもない―― いつまでも夏ってわけにはいかないんだ。 おお愛よ、不可思議な光よ、それは 何年もの歓びと労苦とをつらぬいて いつもわたしの血液の中に燃えていた―― おお愛よ、おまえも消えてしまうことがあるのか?  ↑ギトンの翻訳を読んで、‥あれっ? さっき耳で聞いたのとフンイキがちがうゾ! と思った方が、もし居たら、それはあなたの耳が良いせいですw ホンヤクなんて、しょせんは不完全なマネゴトにすぎません‥‥  つぎは、ヘルマン・ヘッセ本人の朗読テープを聴いてみたいと思います。 職業的な朗読者とは異なって、途中で声がかすれたり上ずったりしますが、それも含めて詩そのものなのです。 やはり、先に朗読を聴いてもらおうと思います。先に日本語訳を読むと、なにかとてつもない悲観的な内容に思えてしまうでしょう。それは誤解なのです。作者自身の声を聞いて、誤解だということを知ってほしいと思います。 翻訳のあとに解説を付けて、千万言をついやして理屈でわかってもらおうとしても、はたして通じるかどうか、心もとない気がします。それよりも、ことばの音とリズムと、そこに広がる世界に没入してもらうことによって、作者の言いたいことを感得してほしいのです。 あらかじめ、ひとことだけヒントを述べさせてもらえば、‥‥霧の中で“だれもがひとりだ”ということは、歩いている人がひとりしかいないことを意味しません。ヘッセ「霧のなかで」(作者朗読) この詩の訳は、すでに一度出しましたが、あらためて訳し直しました。すこしは、訳文がわかりやすくなったでしょうか?      霧のなかで ふしぎな心地だ、霧のなかを歩くのは! どの繁みも、どの石も孤独のなかに沈む 樹々たちは互いのすがたを見ようとしない だれもがひとりなのだ。 わたしの人生がまだ明るかったとき わたしの世界は友達でいっぱいだった 霧のとばりがおりてしまったいまは もうだれのすがたも見えなくなった。 じつに、闇を知ることのない者は 賢き者とはなりえない 逃れがたく、また音もなく ひとを他の皆から切り離すその闇を。 ふしぎな心地だ、霧のなかを歩くのは! 生きるとは孤独であることにほかならぬ ひとはみな己れ以外の者を知りはしない だれもがひとりなのだ。 よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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  • 03Sep
    • ”光の季節”――大いなる川の岸辺

       「琥珀の海」ってどんな海だろう……などと考えながら読んでいたら、さいごの連で、「大いなる川の岸辺」に出遭って打たれた。ここで「大いなる川」に思い至る感性を、ぼくは知らなかったから。 そういえば、「大河」を見たことがないかもしれない。ライン川もセーヌ川も、たしかに水量は豊富だったが、すごく大きいという感じはしなかった。 行ったことはないけど、ヴォルガ川(中流,マリ共和国)を貼りつけておきます。

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  • 01Sep
    • 詩文集(49)――風に吹き消された一枚の壁画

          アルプスの向こうには それはひとつの山の旅: アルプスの稜線の雪がつめたく 光るとき、もうイタリアの青い海が 視界のはてを限っている! 高みの風と渋い顥気が ほのかな菫の香り、陽に みたされた南の海の 甘い予感をはこんでくる。 そして眼にははるかフィレンツェの あかるい伽藍がうかび たたなづく丘のむこうには幻のように ローマの街がかがやいてみえるのだ。 くちびるはもう無意識に美しい 異国の言葉のひびきを口ずさむ はれやかな快楽の海、その青いしぶきが きみを温かく迎えようとしている。  イタリアといえば、ギトンはどうしても忘れられない1枚のフレスコ壁画があるのです。‥と言っても、じっさいに見たわけではありません。映画の中に出て来た‥‥いや、‥出て来た気がするのです。たしか、『フェリーニのローマ』という短い映画の中だったと思うのですが、それももう、たしかなことではありません。 最初に見たのは、パリの場末館で見た『サテュリコン』の中でした。いや‥これも、記憶違いではないと断言できる自信すらありません。 同性愛の青少年たちが、局部を惜しげもなく見せびらかして縺れ合うノーカットのフィルムは、日本からやってきた“1日10ドル旅行”の未成年者には新鮮でした。そんな濃厚な場面をさんざん見せられたあとで、海岸に停泊しているゴンドラのような舳先の黒い船に乗りこもうと、青年たちが集まって来る清らかに晴れ上がったシーンがありました。エンコルピウスとギトン少年が、おおらかな衣の裾をなびかせて、並んで歩いています。これがこの映画のフィナーレで、それまでに繰り返されたどの縺れ合いシーンよりも強く、印象に残りました。 『Satyricon Ⅰ』というタイトルで上映していましたから、フェリーニのもとのフィルムの前半分だけを上映していたのでしょう。『サテュリコン』の原作テクストを見ると、たしかに第1部の最後で、2人は船に乗ってナポリから逃げ出すことになっています。 記憶では、『Satyricon Ⅰ』のラストは、エンコルピウスとギトンが、船に向かって歩いてゆくところ、その画面のストップモーションが、そのまま静止したフレスコ壁画になって終るのです。 “永遠の愛”などと言ったら、いかにもわざとらしくて、そんな言葉はどこかに消えてしまえ!‥と言うくらい、はるかに超越した憧れを、この場面から深く、深く感じとってしまったのが、いま思えば、“この道”のはじめなのでした。 その同じ場面を静止させたフレスコ壁画が、『フェリーニのローマ』では、現代ローマの地下鉄工事の現場で発見されるのです。 頭にヘルメットを着けた工事の人たちが発見したとたん、壁画は外気に触れたせいなのか、見る見る剥げて崩落してしまうのです。エンコルピウスもギトンも、その晴れやかな表情を静止させたまま、ぽろぽろ崩れて無くなってしまいます。それが、このフレスコ画を2回目に見た『フェリーニのローマ』でした。  外気に触れて剥げ落ちる地下のフレスコ画   映画『フェリーニのローマ』より。      いま、Youtube を探って、ようやく↑これだけ見つけ出しました。 しかし、エンコルピウスとギトンの“壁画”は、どうしても見つかりません。 映画『サテュリコン』より。    『サテュリコン』のラストシ-ンに、↑これがありました。壁画にはちがいないんだけど。。。 けっきょく、ギトンの記憶は、勝手な思いこみだったんでしょーかねー?? それとも、フェリーニの映画ではなかったのか?! フェリーニの『サテュリコン』だったとしたら、音声はイタリア語、字幕はフランス語だったはず。どっちもギトンにはチンプンカンプンで、見ながら頭の中で勝手に物語をこさえていたのかも... しかし、今も記憶の中にしっかりとある鮮明な画像と人物の動き‥ もうこーなったら、フェリーニとも、ペトロニウスの古典とも違うサテュリコンを、自分で書いてしまおうかしら...w      サント・ステファノ教会の回廊 ヴェネツィア       壁の四角いかどに色あせ黄いろく古びたもの かつてポルデノーネの手になった この絵画を時が蝕んだ;きみはわずかに ここにかすかな輪郭とそこに洗いのこされた 絵具の痕跡を認めうるのみ:一本の腕と脚―― 消失した美形のひとの幽霊にも似た会釈を。 楽しげに見上げてほほえむ子供の眼 それは見る者をふしぎな悲しみに誘うのだ。【ポルデノーネ】(Giovanni Antonio da Pordenone: ca.1484-1539):イタリアの画家。教会のフレスコ画や聖壇画を多く手がけ、ティツィアーノ、ティントレットらに影響を与えた。ヴェネツィアにあった彼の壁画作品の大部分は、剥げたり崩壊してしまっている。〔英語版・独語版 Wiki〕 ヴェネツィア,聖ステファノ教会,廻廊  よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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  • 25Aug
    • 詩文集(48)――人は惑い、それでも時は流れる

      リヴォルノ,イタリア fotolivorno.net       オデュセウス リヴォルノ付近      視界のはずれで夕陽にかがやいて 黒いマストの船が水平線を往く その強い魔力はわたしのまなざしを 視えない世界の縁(ふち)に固定させる。 ――わたしは想う、船の舵を握るのは 神のごときオデュセウス、名づけようもない 郷愁が、海また海の脅威を越えて 彼の遠い故国へと誘(いざな)う 彼は運命(さだめ)に屈することなく夜もすがら 鋭き眼差しもて空の星を測る 百たび押し流され脅されてもなお 希(のぞ)みをすてず不安と死とをかいくぐり 嵐にみまわれ先のみえない航海に 目的地と成就の時をきっと見据えている。 いま船はわたしの視界をはずれ 蒼く暗い海へ消えてゆく:彼の運命(さだめ)に わたしの想いはいっぱいになり、かぼそい問いかけとともに 彼の夢ものがたりは空の青に沈んでゆく 運命に堪える者の船の往くてには わたしの希求する幸せがあるのか? ――たぶんね!――では、そこへ連れて行ってくれるのはどの船だ? ――心よ、とりあえず錯誤するがよい、そして苦難に堪えよ! リヴォルノは、地中海に面したイタリア中部の港町で、ルネサンスのメディチ家時代にはトスカナ大公国の主要港として繁栄しました。また近代では、ファットーリ、モディリアーニ(絵画)、マスカーニ(作曲)ら多くの芸術家を輩出しました。 フィレンツェに近いこの港町に、ヘッセが特別な想いをもっていたことはたしかでしょう。でも、どうしてオデュデウスが出てくるのか? 芸術家以外に、リヴォルノを含むトスカナ地方は、イタリアの中では労働運動、左翼運動のさかんな土地だったそうです。リヴォルノでイタリア共産党が結成されたのは、ずっとのちの話ですが、この詩が書かれた 1901年の時点でも、社会党の重要な地盤だったと言えます。ヘッセがそれを意識しているかどうかは、わかりません。しかし、その関連があるとしても、「運命に堪える者の船の往くてには/わたしの希求する幸せがあるのか?」とヘッセは問いかけ、“正しい船を選べば、幸福な未来へ連れて行ってくれる”という安易な期待に疑問を投げかけています。 ヘッセは、労働運動や革命運動を、頭から否定してはいないのです。しかし、活動家が約束する未来を無批判に信じて、“団結”という名の思考停止をすることに対しては、根本的な不信を向けているのだと思います。じっさい、この時点でイタリア社会党の幹部だったムッソリーニは、まもなくファシスト党を結成して、ドイツのヒトラーと並ぶ独裁政権を成立させているのですから。  【付記】ちなみに、最近のイタリアの情勢は、私たちにも暗い影を投げかけているようです。欧州ゲイサイトの新着によると、北イタリアでホモセクシュアルの排除を呼びかけるポスターが拡散しているとか... いわく:「自然を守ろう!」――環境保護のためにホモを無くせと!! なにせサイトがフランス語なので、よく読めなくてごめんなさいw もっとわかったら続報します。 オデュセウスは、トロイア戦争のあと、ギリシャの故郷に向かって船出しますが、途中嵐や、怪しげな精霊の誘惑や、さまざまな困難に逢着して、ほとんど漂流状態になってしまいます。それでも故郷に向かうことをあきらめず、航海を続けるのです。 ある時、船が漂着した島には、この世のものとは思えない美味な蓮の実がたくさんあって、船人たちは、そのあまりのおいしさに、もうこの島から離れる気を失くしてしまいます。ハスの実――中華の月餅にも入っている食材で、たしかにおいしいですが、航海をやめてしまうほどとは思えませんねw しかし、西洋では珍しい植物で、西洋の人は、なにかこの世のものではないような想像をしてしまうらしいです。 そこでオデュセウスはどうしたかというと、ハスの実をむさぼっている船員たちをつかまえて、無理やり暴力的に船に戻して、船出するのです。彼にこのような行動をとらせたのは、“故郷に帰る”という目標があるからにほかなりません。目標があるからこそ、星の位置を観測して正確な航路を求め、船員たちを強制してまで航海を続けるのです。それは、たしかに目的意識につらぬかれた合理的な行動です。 しかし、その目標そのものの合理性はというと、はっきり言って疑わしいのです。じっさい、迷走航海のあと故郷のイタカ島にたどり着いてみると、妻ペネロペは、おおぜいの男たちにかこまれて、言い寄られている真最中。オデュセウスは、男たち全員を殺戮し、男たちを屋敷に入れた侍女たちも全員殺戮して、ようやく安心することができるのです。彼が、片時も手放さなかった目標――幸福な故郷とは、皆殺しをすることだったのか?! 「運命に堪える者の船の往くてには/わたしの希求する幸せがあるのか?」――ヘッセには、オデュデウスの往くてに幸せがあるような気がするのです。目的が正しいかどうか問う前に、オデュデウスの不屈の目的意識と合理的な行動が、そう信じさせるのです。 しかし、オデュデウスは答えます。どの船に乗るか自体が試行錯誤だ。まちがった船を選んで、まちがったほうへ行ってしまう可能性がむしろ大きい。それでも、きみは船に乗るがよい。苦難に堪える航海をするために!!  ヘッセにとって“ふるさと(ハイマート)”とは何なのか? “ふるさと”という言葉が、ヘッセの詩にはしばしば出てくるのですが、それが何を意味しているのか、もうひとつ解るようで解りません。ずっと注視しているのですが。。。 失われた幼年時代、なつかしい幸福な生活――といったイメージも無いことはないかもしれませんが、それ以上に、めざす未来、めざしている幸福の地、‥といったイメージが大きいように思います。 人はいつも“ふるさと”に向かって歩いている。流れる時間そのものが、“ふるさと”をめざしている。しかし、それがどこにあるのかは、誰も知らない。時間じたいが、目的地を知らずに流れてゆく、蛇行してゆく‥‥ ↓下の短い詩に、そういうヘッセの“ふるさと”観が、まとめて表されています:      巡 礼 そして日々は歩きつづけ あっというまに老いてしまう 彼らの最後の者が来るのもまもなくだ わたしが立ちどまって問いをたてているあいだに。 彼らとわたしは手と手をたずさえて 兄弟のように歩いて来た わたしたちを国から国へと駆りたてたのは いつも変らぬ故郷(ふるさと)への渇き。  よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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  • 18Aug
    • 詩文集(47)――旅の技術

            旅の技術(テクニック) 目的のない旅は若者の歓び 若さとともにそれは色あせた そしてただ離れることがわたしの旅になった 目的と意志とを自覚するようになったからだ。 しかし目的ばかりを追求するまなざしから のどかな旅のあじわいは締め出されている 森と流れとあらゆるかがやきが 旅路のどこにでも待ち設けているというのに。 いまあらためて、わたしは旅を習うことにしよう 天空の星々にあこがれるあまり この瞬間の無垢のかがやきが色あせることのないように。 それは旅の技術(テクニック):つぎつぎにやってくる 世界の連なりとともに逃れ去ってゆくこと、憩(やす)んでいるときも 愛すべき彼方にむかっていつも途上にあると知ること。  「技術」という訳語に「テクニック」と英語のルビまで振りましたが、原語は「クンスト(Kunst)」、つまり「芸術」と同じ語です。 天衣無縫の旅人のように、足の向くまま気の向くままに旅ができたのは、若い時のこと。年を取ると、移動の目的地やら、一貫した「意志」やらが目の前にチラついて、そんなあてもない“むだな”ことはできなくなってしまいます。それは、“気ままな旅(ワンダー, Wandern)”のほうから見れば、もはや旅ではなく、単に自分のいる場所から離れて遠ざかることにすぎません。 それでも、あらためて“気まま旅”の良さを取り戻そうとするには、思いめぐらして緻密に練り上げた旅の「技術(テクニック)」が必要なのです。たとえば、できるだけ乗り物を避けて、脚で歩くこと、自動車を使うとしても、アウトバーンは避けて古い小道を行くこと、できるだけ旅の計画を持たず、ホテルの予約をしないこと‥ そういったさまざまな要諦が必要になるのです。 計画的でラクな旅行をしたがる伴侶や子供や友達を連れて行かないことも、要諦の一つかもしれませんねw なにかある一定の目的をもって、それを実現してゆくことが人生の目的であるかのように生きること、それが私たちの社会での“オトナの生き方”なのでしょう。それは、目的のない“気ままな旅”とは正反対の歩き方です。 自由経済、株式会社、官僚制、‥‥といった近代の社会システムが、こうした生き方を不可避にしてしまったのかもしれません。しかし、それは、あらゆる人間の社会において当然な“オトナの生き方”であったわけではありません。そうでない社会は、近代以前にはいくらでもあったのですし、こんにちでも、地球の表面の半分以上の面積を占めているにちがいありません。 そこでは、たとえ休息している時でも、「愛すべき彼方にむかっていつも途上にある」ことを自覚した、“賢者”の生き方が尊ばれるのです。  私たちは、どこに向かっているのか? 現代の私たちは、いつも不安です。豊かな生活、日夜増え続ける膨大な知識とテクノロジー、世間なみの安定した家庭と社会的地位、あるいは心から信ずることのできる宗教や政治思想‥‥そうしたものはみな、ほんとうは不安で不安でたまらない私たちが、その不安を埋めようとして、“補償”を得ようとして、追い求めるものにほかなりません。しかし、どんなに追い求めたところで“補償”は“補償”でしかない、不安がなくなるわけではありません。なぜなら、私たちには、豊かさでも地位でも宗教でもない大切なものが欠けている、そのために不安が起きているのだからです。 古い社会の人々は、おそらく、私たちとは違っていました。かれらには行く手が、彼方が、いつも見えていたのだと思います。たとえ物質的には不十分で、精神的にも、狭く限られた乏しい境遇の中にあったとしても、めざす世界だけはいつもはっきりと、疑いようもなく見えていたのです。それは“進歩”とはまったく別のものでした。      夜の歩行 どこへゆくの? どこへゆくの? やわい夜が湖の畔(ほとり)で、なまぬるい睡眠を 眠る;岸にひろがる平野(ひろの)の森と河と人間たちを すっかり憔悴させてしまった。 ひとつの響きがいま 鈍い地の底から湧きあがり 気圏のなかにしなやかに ひろがっていった:竪琴(ハープ)のように やわらかく、吊鐘のように重々しく。 どこへゆくの? どこへゆくの? ひとつの音が鈍い地の底から わたくしを呼んでいる;それは まっくらな階段を上へ上へとわたくしを 昇らせさらに憧れの彼方へとみちびく… そしていきなり止んだ、音は消えてしまった。 夜の鳥がさわがしく 羽ばたいて過ぎた 向うの丘のうえはすっかり 沈黙の闇に溶けこんでしまった、もはや さわめくことも問うことも誘いかけることもない。  よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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  • 11Aug
    • 詩文集(46)――生きるとはこんなにも軽やかな歩み

      イワギキョウ,加賀白山       リンドウの花 夏の歓びに浸りきり至福のひかりのなかで 息もしなくなって、おまえは立っている そらはおまえの杯(さかづき)の底に沈んでしまったかのよう おまえのうぶ毛を吹く風が この魂のあらゆる罪と痛みを 吹きはらってくれるなら ぼくはおまえの兄弟になって しずかな日々をおまえとともに過ごすだろう 世をわたってゆくぼくの旅は かろやかで幸せな目標を見るだろう おまえと同じく、神の見る夢の庭園を 夏の青い夢となって歩むのだ  ヘッセの詩は、ドイツ語としてはかなりやさしいほうで、初学者でもよくわかる易しい言葉で書かれています。教科書類に採用されたのを見たことがないのは、ふしぎです。カフカの作品はしばしば見かけるのですが‥ 大意を読みとろうとして逢着する困難の多くは、語学的なものではありません。内容を読みとる難しさなのです。上の詩も、すぐには意味が通じなくて、原書に印をつけたまま、何度も折りにふれて読みかえしていたのですが、ひっかかっていたのは、第3連にある「目標(Ziel)」という語だったことがわかりました。入門の 500語の中に入るほどやさしい単語ですし、「目標」という訳語も、辞書の最初に書いてある意味で、どうということはないのです。 「世をわたってゆく……旅」、つまり人生の「目的」「目標」が、死後の“生き方(?)”――在り方だということを思いつかなかったために、理解できなかったのです。 それがわかったとたんに、第1連から第3連まで、この詩全体の印象が、すっかり変ってしまいました。 そして、死後に、どんな在り方をするか、ということを目標に生きてゆくということが、けっして何かとほうもなく偉大なことでもなければ、重々しい生き方でも何でもないことが、すんなりと納得できたのでした。それは、私たちのような凡人が誰でも夢見るような平凡なことなのです。ただ、私たちはふだんそれを意識していないだけです‥ 「神の見る夢」というのは、おもしろい発想です。“神がこの世を創造した”ということを裏返して言えば、この世界はなにもかも、神がまどろんで夢見ているまぼろしの風景の一部にすぎないのだ、とも言えます。私たちはみな、神の見る夢に現れた幻影にすぎないのだ、と。 それならば、「夏の青い夢」となって、神を惑わそうとたくらむことは、まさに人生の目標たるに価する、すてきな企画ではないでしょうか? アルプス・リンドウ(Gentiana alpina) ©Wikimedia Commons  リンドウは、野山に咲く花の中では、比較的じみな部類ではないでしょうか。そんなに珍しい花ではないし、草むらの中で、まっすぐに上を向いて咲いています。高山植物の花の赤やピンクのあでやかさも、可憐さも、あまり持ち合わせてはいないように見えます。 青空は「おまえの杯の底に沈んでしまったかのよう」だと言っているところをみると、ヨーロッパのリンドウも、まっすぐに上を向いて咲くようです。 Wikipedia で探してみた画像が↑上です。ヨーロッパには、リンドウ属はたくさんの種があるようですが、どの種の写真も上を向いて咲いていました。それにしても、あざやかな青ですね。日本でも、高山に咲くリンドウ属――イワギキョウなど――は、あざやかな青い色をしています。高山の空の深い紺青を吸収してしまったかのようです。 あざやかな色はトリカブトを思い出させますが、リンドウの根は毒薬ではなく、漢方の薬材になります。あざやかな色が岩間を彩るころ、高山はもう夏の盛りを過ぎて冬支度に向っているのです。      夏の夜 樹々から垂れているのは嵐がのこした滴(しずく) 濡れた葉叢にひかる月光の冷ややかな親しみ 眼には見えないが深い谷底から沢のせせらぎが 暗く、せわしなく響いてくる。 農場で犬がさかんに咆えだした おお夏の夜、宙吊りにされた星たちよ おまえたちの往く蒼いみちすじ、旅のざわめきのかなたに 私の心はどんなに遠く奪われてゆくことか。  よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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  • 09Aug
    • ★ HIC ET NUNC

            HIC ET NUNC(いま・ここで) 世界はふるびてしまったから ひとは、いま、ここ、に執着している 世界はこちこちになってほころびてしまったから ぼくたちは覆いを閉ざし、いま、ここ、にとどまろうとする 古臭くなった世界にしがみつき称揚するひとたちは 塗りの剥げたテンペラ画を修復しようとあくせく働く 世界が泣いている;しずくに濡れた壁のまえに 安っぽい書割を置いてごまかそうとするやつらは 嵐に洗い流されて去るがよい ぼくらのまえにあるのはすべての植被を 剥ぎとられたはだかの曠野 偉大なひとびとが魂を籠めた壁画のかずかず―― いまむきだしになって 砂のうみに並ぶ よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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