アルブレヒト・デューラー「ペーグニッツ河畔の針金引き工場」1494年。
【7】 近世 1450-1750 ――
「システム」の始動:非対称化と不均等化
この時期は、前半の1600-50年頃までは、「資本主義的世界システム」が始動する「長い16世紀」であり、それにつづく 1600-50年頃から1750年までは、後退・不況期とされる「17世紀危機」です。この全体が「ロジスティック波動」の1周期となっています。しかし、前半「A局面」と後半「B局面」の関係は、そう単純に対称的なものではありませんでした。
『近世のヨーロッパの長期波動〔ロジスティック波動――ギトン註〕に起こった根本的な変化は、その対称性が失われた〔…〕ことである。A局面とB局面の対称性も失われたが、地理的な対称性も失われた。近世でも、拡大のあとに収縮の時代が来た〔…〕のだが、それぞれの局面のパターンは、よほど複雑になった。〔…〕政治や文化の展開との相関関係は見られたものの〔…〕そのパターンは複雑なものとなった。〔…〕その意味を理解するには、空間的パターン化、つまり「中核」と「周辺」という対 つい 概念に言及せざるをえない。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅱ』,2013,名古屋大学出版会,p.xiv. .
つまり、「長い16世紀」とそのあとの「17世紀」収縮期をつうじて、「中核」と「周辺」の分化という資本主義「世界システム」の特質が現れてきたわけです。
『B局面には〔ギトン註――中世とは〕大きな違いがある。中世の長期変動におけるB局面では、人口,経済活動,がいずれも後退していったが、近世の場合、全ヨーロッパ的に言えば、後退ではなく停滞,ないし拡大ペースのスロー・ダウンがあっただけである。
このことは、人口統計に明瞭に読みとれる。1450年から 1600年までの急成長のあと〔A局面――ギトン註〕、1600年から 1750年にかけて、グラフはよりフラットになる〔B局面――ギトン註〕。しかしそこには、黒死病に相当する〔訳者註――人口の激減〕はなかった。〔…〕地域差も大きくなった。北西ヨーロッパには明確な人口減少は無かったのに対し、中央ヨーロッパでは、主として三十年戦争のために人口減少が見られたし、東ヨーロッパや南ヨーロッパではグラフはフラットになっていった。
アルブレヒト・デューラー「牧場の粉挽き場」1498年以後。
土地利用は、ヨーロッパの内部でも、対外的にも、ふたたび拡大傾向になった〔それがA局面のみならずB局面でも続いた――ギトン註〕。近世のA局面は大探検〔「地理上の発見」――ギトン註〕の時代であり、南北アメリカの一部がヨーロッパの生産地図に〔ギトン註――つまり「システム」の外部から内部に〕組み込まれた〔…〕。これに対してB局面は、外延部のさらなる組み込みのペースは落ちたものの、地理的縮小などということは起こらなかった。
土地利用のパターンについて〔…〕、A局面では耕地への転換が進み、B局面ではそこからの撤退が見られたことは〔ギトン註――中世と〕同じである。しかし、詳細に見ると〔…〕まるで違っていた〔…〕。北西ヨーロッパは、〔ギトン註――A局面,B局面を通じて〕耕地と牧場の相互補完的な生産活動に向かっていった。A局面では輪栽農法〔穀作と、クローバー/蕪栽培による地力回復を交互に行なう農法――ギトン註〕やコッペル農法が行なわれたが、B局面となるとさらに集約的な穀草式農法〔穀作と牧畜を交替させる混合農法――ギトン註〕〔…〕が導入された。
ヨーロッパ全体で見ると、この状況は、周辺地域が穀作ないし牧畜に特化し、そこから北西ヨーロッパの都市域での消費のために大量に輸出されることで補完された。〔…〕この結果、いたるところで生産単位の大規模化が起こった。北西ヨーロッパでは、ますます大規模な囲い込みが行なわれるようになり、時にはそれと重なって、〔訳者註――封建的〕特権の再発明などによって大土地所有が再建され、また周辺地域では〔訳者註――東ヨーロッパの〕グーツヘルシャフトと〔訳者註――南北アメリカなどでの〕プランテーションが成立していったからである。
一方では、ヨーロッパ内での商品価格のギャップは著しく縮小した。中世末のヨーロッパには、物価から見た場合すくなくとも3つのゾーンが区別できたが、各ゾーン間の物価のギャップは、1500年から 1800年までのあいだに 6対1から 2対1に縮小した。〔…〕ヨーロッパ内の各地域間での商業活動は活発になったが、こうした活動〔の活発化――ギトン註〕は、〔ギトン註――地域間で〕労働の価格にかなりおおきな格差があったがゆえに成立したものであった〔中核地域の労働者の購買力が増して、食糧・日用品の需要を引き上げ、それらの産品を、購買力の乏しい(物価が安い)周辺地域から吸引した結果、物価は平準化した?――ギトン註〕。こうして、物価のギャップが縮小する』のと反比例して『福祉のギャップは拡大しはじめたのである。
トゥッリョ・ロンバルド〔ca.1455-1532〕「アダム」
A局面では特化が進行しB局面ではそれが後退したことは中世と同じであったが、ことが進行する単位が変わっていたのである〔特化の起きる地理的範囲が、狭い地域から、全ヨーロッパに拡大した――ギトン註〕。中世末には、比較的狭い地理的範囲での特化があったが、近世のヨーロッパにかんしては、きわめて広大な範囲での特化が認められた。
工業についても、同様の変化が起こった〔つまり、中世末には狭い地域内での都市/農村の分化。近世には、ヨーロッパ全体の・中核/周辺への・地理的分化。――ギトン註〕。〔ギトン註――近世でも、〕A局面は、基本的に工業立地の都市化の局面であり、B局面では、農村地域への立地が進行する・いわゆる「プロト工業化」の側面である〔B局面では、工業は農村地域に分散するのだが、近世の場合、とくに英・蘭では、分散によって都市ギルドの規制力が弱まることとなり、プレ産業革命とも言われる農村マニュファクチャーの勃興をもたらした――ギトン註〕。中世末には〔…〕〔訳者註――イタリアからネーデルラントにいたる地域〕への工業の集中が多少は見られたが、近世の北西ヨーロッパへの工業集中とは比較にならない。それに、近世のB局面の場合、「周辺」地域の農村工業が多少復活した〔…〕ものの、それは下級繊維品工業のみで、より利益の大きい・より高価な製品は、主として「中核」地域にとどまった。〔つまり、近世には、北西ヨーロッパ,とりわけ諸都市への工業集中が進行し、その傾向はB局面でも反転しなかった。――ギトン註〕』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅱ』,2013,名古屋大学出版会,pp.xv-xvi. .
このへんの歴史過程に関するウォーラーステインの叙述は、日本で「大塚史学」に慣れ親しんできた者にとっては、じつは少し違和感があるのです。大塚久雄氏によれば、叙述の対象は主にイングランドですが、近世、とくにそのB局面においては、ギルド規制で固められた都市を避けて、農村に先進的なマニュファクチャーが興り、B局面の実質賃金上昇と相まって 18世紀からの「産業革命」の下地を作っていったとされます。大塚氏によれば、それこそが「近代資本主義」の勃興であり、資本主義は都市でなく農村で興った、それを支えたのは西欧プロテスタント企業家の勤倹節約のエートスである、という「大塚テーゼ」につながります。
ウォーラーステインも、この局面を全く無視しているわけではなく、ここでは「いわゆるプロト工業化」という言い方でサラッと触れています。本文でも、第Ⅱ巻, pp.104-105 には関係する叙述があります。17世紀後半の繊維産業の不況にあたって、イギリスの毛織物生産は、「断然早く、決定的に」農村に移動してこれを克服した。フランスも、やや遅れて 1680-1705年には本格的に「農村工業化」して続いた。が、オランダの毛織物業は、労働コストの高い都市に立地しつづけたので、厚手毛織物(ウッルン)を除いて衰退した、と。
ピーテル・ブリューゲル(父)「絞首台の上の鵲」1568。©Wikimedia.
しかし、よりマクロに見れば、資本主義工業は、都市を中心に興った。北西ヨーロッパが、都市を中心に資本主義システムの「中核」の地位を占め、そこでの「中核」地域の労働者――農村マニュファクチャーに雇われる半農半労の者もいたが、多くは都市で雇われる労働者――は、「周辺」地域〔東欧と新大陸〕から吸い上げられた潤沢な剰余価値の分配〔安価な小麦と豊富な金銀地金 じがね〕を受けつつ、賃金労働者層として成立していったと、ウォーラーステインは見ているようです。
おそらく、欧米では、ウォーラーステインのような考え方が主流なのでしょう。どちらを採るかは実証的問題ですが、「大塚テーゼ」が欧米の主流見解に拮抗するには、労働者のみならず、半農半工のマニュファクチャー自営業者,投資家である地主など各階層が、長期波動をふくむシステムの動向にどう対応していったのか、といった・つぶさな情勢分析をふまえた議論を建てる必要があると思います。ウェーバーのようなタイプ論では、現在の社会科学の水準には達しないでしょう。
【8】 近世 1450-1750 ――
「農業資本主義」の興隆
『労働管理の形態の点でも、不均等なパターンが見られた。中世末の長期波動では、A局面は農奴制〔賦役労働制――ギトン註〕の導入を、B局面においては〔…〕その消滅を意味したが、近世の長期波動においては地域差が著しかった。
〔ギトン註――近世の場合、〕より専門化した農業をもつ「中核」地域においては、〔ギトン註――A局面において〕農奴制に戻ることはなく、むしろ、地主 - 資本家的借地農(フェルミエ) - 小作人である直接生産者 という三分割制モデルの方向に向かった。このことはB局面になるともっと顕著になり、ヨーマンと呼ばれたタイプの自営的な農民が消滅した。大半の農産物は市場向けとなったのである。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅱ』,2013,名古屋大学出版会,p.xvi. .
「三分割制モデル」とは、「産業革命」以後の英国農業で成立した:地主/資本家的借地農(farmer, fermier)/農業労働者(賃労働者) という3階層からなる生産関係です。しかし、この 17世紀の段階では、直接生産者はまだ賃労働者にはなっておらず、フェルミエ(ファーマー)は、地主から一括で借りた農地を分割して小作農に又貸ししていました。フェルミエは、農業の専門知識と経営的才覚をそなえた企業家ですから、合理的土地利用と技術投入,小作人にたいする合理的統制によって、地主と契約した金納地代をきちんと納めるだけでなく、自分の手もとに相応の利潤を残すことができました。フェルミエは、農産物の売却によって貨幣を稼ぐ資本家だったのです。地主としても、先祖代々の身分的拘束にしばられた・やる気のない小作人に直接貸し出すよりは、フェルミエに一括で貸し出すほうが、ずっと利益が大きかったし、何よりも収入が安定したのです。
アルブレヒト・デューラー「ニュルンベルクの家並み」。
英国と北フランス~オランダ方面では、「産業革命」によって穀物需要が高まると、フェルミエは、直営農場を広げて農民を賃金労働者として雇う方向に転換していきます。「賃労働」という生産関係が、工業のみならず農業にも広がることになります。
これに対して、南フランスなどの南欧では、「分益小作」という形態が一般的になります。この場合、地代は定額ではなく、じっさいにとれた収穫の一定割合〔½,⅓など〕であり、多くは物納です。「三分割制」と比べて、直接生産者の力が強いように見えますが、じっさいのところはむしろ、地主の力が弱いためにそうなっていると言えます。ヨーロッパ全体の資本主義システムのなかで、これらの地域は「半周辺」であり、十分な剰余価値を確保できないために、地主も直接生産者と “痛み分け” をしなければならない。そのような事情だと理解するのがよい。
『「周辺」部では、強制労働によって換金作物を作る大規模な生産単位が出現した。東ヨーロッパのグーツヘルシャフトにおける農奴、広大なカリブ海域のプランテーションにおける奴隷,〔…〕つかのまであったが「年季契約奉公人」,アメリカの鉱山における〔…〕先住民の強制労働などである。
こうして生産された生産物のおおかたは市場向けであった。A局面では「中核」地域に輸出されたし、B局面になって中核の市場が「閉ざされた」場合は「地域」の市場〔生産地の近場――ギトン註〕に売り出された。こうした地域は自給用の生産をも行なった〔B局面では、自給生産を増やして凌いだ。――ギトン註〕。
B局面で「周辺」の大所領の収益性が下がると、土地所有者たち〔新大陸のプランターや東欧のグーツヘル――ギトン註〕は、労働の搾取を強め』て損失の『補填をはかった。資本主義的「世界経済」の成立とともに、労働者に対する圧力が着実に強化されていった〔…〕。日の出から昼までという中世の労働規範から、終日労働という近世の労働パターンへの移行があり、〔ギトン註――近世の〕B局面になると、後者が「周辺」部へも広がったのである。
さらに、』地域内における専門分化から、ヨーロッパ全体の地理的専門分化へと推移してゆくにつれて、『2つ以上のゾーンが成立する〔…〕。じっさい、「半周辺」という〔…〕第3のゾーンが出現したのである。このゾーンには、折半(分益)小作が一般化していること、資本主義的世界経済の貿易パターンにおける仲介者的役割、「中核」と「周辺」の経済活動を結びつける役割、国家機構と賃金水準などでは・長期的に見ると・「中核」と「周辺」のパターンの中間にあること、などの特徴が認められた。
中世の長期波動と近世のそれとの経済面での大きな』違いとして、もう一つ指摘すべきは、『ブローデルの言う独占多角企業体が〔…〕近世に出現し、資本蓄積の中心になっていくことである。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅱ』,2013,名古屋大学出版会,pp.xvi-xvii. .
ピーテル・ブリューゲル(父)「野外の婚礼ダンス」1568頃。©Wikimedia.
【9】 16世紀の舞踏音楽
このへんで、16世紀の舞踏音楽を聴いておきたいと思います。
1551年にアントウェルペンで出版された Tylman(Tielman) Susato: "Danserye" という曲集ですが、「A局面」にふさわしい闊達な曲(ロンドとサルタレッロ)を選んでみました。ご視聴ください:
ユーチューブの画面の下に、曲のリストがありますから、他の曲も聴いてみることができます。最初の曲(ファンファーレ)と最後の曲(戦いのパヴァーヌ)がお薦めです。
最後から2番目の「ロンド」は、当時たいへん・はやっていたメロディーらしく、いろんな人の曲集に載っています。このまま聴いてもかまいませんが、楽器を変えてみましょう↓
↓こちらは、やや古くなりますが、1530年頃パリの楽譜出版者アタンニャン(Pierre Attaingnant)の曲集から「われ淡色のワインを飲む時 Quand je bois du vin clairet」。踊りの再現とともに。
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!