ギトンのパヴィリオン

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....ヘッセの詩と BL詩 自訳と自作


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そこにはいつも きみがいた。。。。。



※ 「詩文集」に掲載の詩は、ヘルマン・ヘッセ(2013.1.1.著作権保護期間終了)のもので、すべて自訳。作者名等個々に表示しません。
底本は、"Hermann Hesse Die Gedichte", hrsg.von Volker Michels, Insel Taschenbuch 2762, Insel Verlag, 6.Aufl. 2013.



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浜田知明 「初年兵哀歌」。

 

 

 

 笠原十九司『日中戦争全史・上』 高文研, 2017. 

 

 

 

 


 日中戦争(1937-45年)とアジア太平洋戦争(1941-45年)――2つの戦争を引き起こした元凶は、陸軍ではなく海軍だった。海上・航空の軍備拡張という“組織の利益”をはかる謀略が、日本全体を侵略戦争に引き込んだのだ。

 

 陸軍の犯した戦場残虐行為や無軌道な戦線拡張は、たしかに目立っている。しかし、「陸軍は粗暴犯、海軍は知能犯」だった。戦争の開始と拡大にあたって、つねに巧妙に国家を動かして決定的に前進させ、上から下まで一糸乱れぬ統率のもとに戦争を遂行したのは、海軍なのだ。陸軍は、決定的戦争意志を持った海軍に引きずられて暴れた低脳馬鹿にすぎない。

 

 しかし、その海軍にしてからが、“じつは本気で戦争する気などなかった”。ただ、軍備拡張によって自分たちの権力欲と名誉欲をみたそうとし、組織の繁栄を願っただけ‥‥なのだという。戦争を理由に軍備を拡張し、その結果、戦争をすることになったので、退(ひ)くに退けずに突入した‥‥というのだ。

 

 まったく呆(あき)れはてた「なんちゃって」無責任集団が、日本と世界を戦争に巻き込んだ…… それが、ことの真相であったのだ。。。。

 

 

 

 

 

 

【1】 「日中戦争」開戦は、だれの意志か?

 

 満州事変(1931年)と5・15クーデター(1932年)を契機として、日本帝国は、日中戦争(1937~)へ、さらに対世界全面戦争(1941~)への軌道を突き進んで行った。

 

 日本陸軍は、「熱河作戦」(1933年)により満州国の領土を万里の長城まで拡張し、「華北分離工作」を開始して(1935年)、北京周辺に「支那駐屯軍」を派兵した。ところが、蒋介石の中国国民党政府は、日本と正面から戦うことを回避して、対日妥協策で対処した。日本が望む戦争に引き込まれないようにしながら、国際連盟などの国際世論を味方につけつつ、対日戦を遂行できる軍備の増強に努める作戦だったが、そうやって余裕のできた兵力を共産党軍との内戦に投入した。それは、一般の中国人から見れば、侵略者と手を組んで、庶民にとってはどうでもよいアカ狩りに憂き身をやつす姿に映ったのだった。

 

 日本陸軍の謀略によって父・張作霖を爆殺され、満州事変によって故郷の支配地を奪われた元・北洋軍閥の張学良は、国民党⇔共産党が争いながら、中国の国土が日本に切り取られてゆく状況を座視しえず、1936年、上長である蒋介石を監禁して説得し、共産党との「国共合作」に同意させた(西安事件)。

 

 こうして、中国側で抗日戦の体制が成立した直後に、北京郊外の日本の駐屯軍と国民党軍のあいだで「日華事変(盧溝橋事件)」が勃発した(1937年)。「盧溝橋事件」は偶発的な武力衝突だったが、日本側の戦線拡張・援軍大増強によって、たちまち日中全面戦争に拡大した。

 

 当初は、天皇も、陸軍中央も、近衛首相も、みな戦線拡張には消極的で、まず開始したのは和平工作だった。ところが、海軍は、この和平への動きを阻止するために、謀略(大山事件)によって「上海事変(第2次)」を引き起こし、交渉を決裂させたため、全面戦争が不可避となったのだ。

 

 海軍は、自らの“直轄地”である華中・華南を中心に日中戦争を起こし、海上・航空軍備増強の口実にするとともに、とりわけ新規の航空兵力の“実戦訓練”の場として中国戦線を利用したいと目論んでいたのだ。

 

 「ゼロ戦」による華々しい太平洋の航空戦は、中国を“練習台”とし、中国軍民の累々たる屍の上で培われた海軍航空兵力の精華であった。

 

 他方、これに対抗する中国国民党蒋介石も、この頃には軍備増強が進んでいたので、日本軍を華中・華南に引き込んで長期持久戦に持ち込む戦略を描いていた。というのは、華中・華南には欧米列強諸国の権益が錯綜しており、ここで日本が侵略戦争を引き起こせば、英米が中国の味方となって戦うと読んでいたからだ。とりわけ、「国共合作」を結んだ蒋介石が狙っていたのは、ソ連の参戦だった。

 

 こうして、ある意味で双方の思惑が一致し、「日中戦争」が開始された。宣戦布告は、どちら側からも無かった。日本側は、戦争ではなく「膺懲」(悪者を懲らしめること)だというタテマエだったから。宣戦布告すれば、侵略していると認めたことになると考えた。しかし、中国側の国民党政府も、宣戦布告がないほうが、日本の「宣戦布告なき侵略」を国際世論に印象づけることになって、かえって好都合だと考えていた。

 

 

 

 

 

【2】 「南京虐殺」は、天皇の責任か?

 

 

 1937年12月14日昭和天皇は、

 「中支那方面ノ陸海軍諸部隊カ 上海付近ノ作戦ニ引続キ 勇猛果敢ナル追撃ヲ行ヒ 首都南京ヲ陥レタルコトハ 深ク満足ニ思フ 此旨将兵ニ申シ伝ヘヨ」

 と語って南京侵攻を賞讃し、「満足」の意を示した。

 南京侵攻作戦は、陸軍中央の統制を無視した現地(上海)派遣軍の独断専行(それが虐殺強姦が日常化した一因)だったが、統帥権
(とうすいけん)者の「御言葉」によって正当化されてしまった。本来ならば、軍中央の命令に逆らった現地司令官を処罰すべき統帥権者が、違反を罰するどころか誉めたたえたのだ。天皇は、「統制など無視してよろしい」、と言っているようなものだ。以後、「御言葉」は毎度のこととなり、独断専行は、そのたびに正当化された。開戦の責任も、戦線拡大の責任も、戦場不法の責任も、すべて天皇にある。

 それでは天皇が戦争を起こしたのかというと、そうではない。開戦も、無軌道な戦線拡大も、戦場での残虐行為も、天皇は、積極的に命じたのではなく、提案されて裁可し、行なわれたあとで追認し増長させたにすぎない。もとを言えば、戦争を起こしたのは、国民であった。より正確には、国民のうち、選挙権をもつ成年男性であった。

 

 日中戦争とアジア太平洋戦争を起こしたのは、天皇でも「軍部」でもない。日本人の男たちが戦争を起こしたのだ。

 

 

 明治憲法には、統治権(主権)は天皇にあると書いてあるが、帝国議会と内閣を通じて、事実上の国民主権が成立した時代があった。1928年の第1回男子普通選挙から、1932年の「5・15事件」(クーデターによる首相暗殺)までである。この間、「憲政の常道」という不文の規律によって、衆議院の最大政党の党首を首相に任命し、内閣が総辞職した場合には、第2党から首相を任命する慣行が行なわれた。前回のレヴューで書いたように、これは、戦争「前史」が「前夜」に移行する“境い目”の時期、すなわち、日本が「引き返せない戦争への道」を選び取り、歩み入った時期と、ほぼ一致しているのだ!

 では、この期間に、どんなことが進行したのか? 1928年にあったことは、前回に書いた。共産党を弾圧し、労農党など、戦争に反対する無産政党勢力を一掃し、満洲侵略の最初の謀略が行なわれたが失敗している(張作霖爆殺事件)。戦争に反対する勢力を絶滅させて、日本を「引き返せない戦争への道」に引き込んだのは、軍部でも天皇でもなく、国民の「普通選挙」によって選ばれた「政友会」内閣だったのだ。つまり、現在の「自民党」世襲貴族の先祖たちであった。戦前から現在まで、日本の政治の基本構造は、何ひとつ変ってはいない。憲法とは、政治の表面を飾り立てる装飾品にすぎないと言ってもよい。

 29-32年のあいだの最も重要な動きは「統帥権干犯問題」である。これにより、海軍で軍備拡張派が勝利し、「5・15」クーデターを通じて政界を支配するに至った。他方、陸軍は、31年に満洲で2度目の謀略を行なって成功させた(満州事変)。

 「統帥権干犯問題」とは何か? 「民政党」、つまり現在の「民主党」世襲貴族の先祖たちは、1929年7月、前年の「張作霖爆殺事件」を天皇に咎められて総辞職した田中内閣に代わって、民政党・浜口内閣を成立させた。浜口内閣は、幣原外相の“協調外交”のもとで、ロンドン海軍軍縮条約に調印した(30年10月批准)。天皇の直属機関である枢密院は条約を承認したが、海軍内部は、条約に賛成する「条約派(海軍良識派)」と、反対する「艦隊派」に分裂した。これに目を付けた野党「政友会」は、「民政党」内閣が天皇の軍隊統帥権を無視して調印したと主張して倒閣を要求、マスコミも「統帥権干犯」として大々的に報道した。浜口首相は東京駅で右翼に狙撃されて死亡し、「民政党」内閣は総辞職した。

 

 つまり、事実は、天皇が承認した軍縮条約に、海軍の「軍備拡張派」がインネンをつけ、「政友会」――国民に選ばれた代表――がそれを利用して騒ぎ立て、マスコミが煽って、「民政党」首相の暗殺とクーデターを引き起こした。ところが、保守野党「政友会」は、そのすべてを逆にして、「民政党政府が天皇陛下の統帥権を犯した!」と言って騒いだのだ。平成時代の野党自民党(安倍晋三+石破茂)と何も変わらない。昔も今も、やることは同じなのだ。

 

 (歴史は繰り返す。なぜなら、計画的に繰り返している者どもが、社会の中枢を握っているからだ。)


 これを機に、海軍では「艦隊派」が「良識派」を追い出して中枢を握り、“対英米戦争も可能な軍事力”を目標に軍拡を進め、拡張した軍事力(主に航空兵力)の練習場として中国戦線を利用し、日中戦争を、華中華南から東南アジアへと拡大させていった。1932年には、海軍「艦隊派」青年将校が、5・15クーデターを起こして犬養首相ら閣僚(政友会)を暗殺し、33年には日本は国際連盟から脱退した。

 もはや、軍事力の拡張と戦線の拡大を突き進む陸海軍に対して、抵抗するいかなる勢力も、日本には存在しなくなったのだ。

 

 

遼 河

 

 

 著者によれば、1928年[普通選挙]~32年[五・一五事件]を境として、日本は全面戦争への「引き返せない軌道」に、はまり込んでしまった。対英米開戦――「太平洋戦争」開始(1941年)――は、いわば必然的に踏み込んだ通過地点でしかない。すでにその 10年前の時点で、全面的敗戦、すなわち無条件降伏以外に、日本の戦争を終わらせる手立ては無くなってしまっていたのだ。

 

 このように、“必然的進行過程”と化してしまった時代の歴史を、私たちは、いったいどう振り返ればよいのだろうか?
 

 

 

 

 


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