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そこにはいつも きみがいた。。。。。



※ 「詩文集」は順不同です。1回ごとに完結してますから、お好みの回を選んで読んでいただくことができます。


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ミヤケンとBL週記 ≪ギトンのあ~いえばこーゆー記≫

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  • 20Apr
    • 詩文集(14)――海と砂丘と湖と

           砂丘にて まねき寄せる海の音(ね)にゆられて おまえはしずかに辷(すべ)るように、おまえの人生を溯(さかのぼ)る、 おまえの荒々しい運命が咆え猛るのを聞き おまえの奥深い苦悩が解けてゆくのを感じる。 かつておまえを炎のように燃やしたもの かつておまえを魔法のように衝き動かしたもの それらがいま吹き飛ばされ、こなごなに砕かれる、 なにもかも、砂に寄せる波のたわむれだったのだ。 えみを浮かべて、おまえは過ぎ去った時を眺め、 消えてゆく嵐を見つめ、そしてじっと待つ いまや運命がおまえをやさしく揺らし育(はぐく)んでくれるのを、 それともまた、既にもまさる激しい嵐をもたらすのを。 “ゼー”という同じ語が、女性ならば海を表し、男性ならば湖を指します。しかし、それならば海はやさしくなよやかで、湖は荒々しいのかというと、まったく逆です。ドイツ人にとって海とは北海であり、嵐がしばしば船を難破させる北方の荒い海なのです。ワグナーの「さまよえるオランダ人」のイメージです。しかも、海の底にはどんな魔物が潜んでいるかもわかりません。映画『ブリキの太鼓』で、北海の海岸に打ち寄せた瓦礫のゴミのあいだから、にゅるにゅると這い出して来るウナギを獲って食べる場面、食べた女性が嘔吐のあまりトイレで流産し死んでしまう場面を思い出さないでしょうか? アルプスの湖水は、鏡のように静かで、波立つことがありません。‥‥いや? たしか『ウイリアム・テル』に、嵐で激流のようになった湖水を渡って行く場面があったような‥‥? まぁ、それはおいときましょうw 北海海岸の砂丘といえば、アンデルセンの『砂丘の物語』もそうでした:「今でもユラン地方〔デンマークのユトランド半島部――ギトン注〕には、巨人塚や、しんきろうや、砂深いでこぼこ道が縦横に走っている褐色の荒野が、何キロもひろがっているのです。西の方の大きな川が峡湾に流れ込んでいるあたりには、牧場と沼地がひろがっていて、その先は高い砂丘で限られています。のこぎり状の峰をもったアルプス連山を思わせるその砂丘は、海に向かってそばだっています。」  砂丘と海のあいだは、波浪に浸食された粘土質の絶壁になっています。 牛や馬や羊が、わずかな草をもとめて放牧されている砂だらけの荒地につづく海岸には、貧しい漁師の家や納屋が、吹き寄せられたように散らばっています。建物はみな、浜に落ちている腐りかけた廃材や舟板の破片でこさえたものです。それらは難破船の残骸で、遠い昔から、この荒海では毎年かぞえきれない船が難破し、残骸の木材と人の屍を浜に打ち上げているのです。それは、いわば、この地方の“自然の恵み”でした。毎年獲れすぎるほど寄せて来て、大部分は浜辺で腐ってしまうニシンの群れにも劣らないほど豊かな“資源”だったのです。「砂丘は、巨大な砂の大波が急に動きを止めたかのように立っていました。ハマクサやハマムギの青緑色のこわい茎だけが、白い砂地にいくらかの色の変化をそえていました。〔…〕風がいっそう強くなって、身を切るように寒くなりました。みんなが砂浜をこえて帰って行くころには、砂や先のとがった小石が、風に吹きまくられて顔にぶつかりました。海は白い波頭を高くもち上げました。その波頭の背を強い風が切るたびに、しぶきがさっと舞い上がりました。 日が暮れると、空にわめくような、訴えるようなざわめきがいよいよひどくなりました。それはまるで、幽霊の群れが絶望の叫びをあげているようでした。」 主人公のイェルゲンは、この海岸の沖で難破した外国の船に乗っていた貴族の子でした。母親は、船に乗っていた人のなかでただひとり生き残ったのですが、漁師の村でイェルゲンを産むと同時に息を引き取ったのです。漁民たちも、もちろんイェルゲン本人も、両親がどこの国の人なのか、知ることはできませんでした。しかし、村には、ちょうど子どもを亡くしたばかりの夫婦がいて、この肌の浅黒い子をひきとって育てたのです。 じつは、イェルゲンはスペインの高位の貴族の子どもだったのですが、彼自身それを知りませんでした。しかし、彼には、海の向うの世界へ行ってみたいという、抑えがたい衝動がありました。たくましい少年に成長したイェルゲンは、雑役夫として年季奉公の船に乗りこみました。そして、船が停泊したスペインの街で、そうとは知らぬ自分の邸宅の大理石の正面階段に腰かけて休んでいたところ、すぐに邸宅の守衛に追い立てられてしまいました。そして船に戻り、また殴る蹴るは当たり前の水夫たちに虐待されながら、奉公をつづけます。 西ユラン海岸の漁師の家に帰って来ると、まもなく養父母が亡くなり、イェルゲンは小さな家を相続することになりました。そこで、まえから思いを寄せていた少女に求婚したところ、少女は、自分はイェルゲンの親友のほうが好きだが、イェルゲンには持ち家があるから、イェルゲンと結婚すると言うのです。それを聞いたイェルゲンは、親友に家を格安で売払ったうえ、自らは放浪の旅に出てしまったのです。 ところが、旅立ちのまぎわに親友はならず者の男に殺されてしまい、イェルゲンに殺人の疑いがかかって、彼は冤罪の獄につながれることになります。追手が来た時、イェルゲンはすでに渡し船に乗って、隣りの地方との境界の瀬戸の中ほどまで漕ぎ出していたのでした。昔のことですから、隣りの領地へ行ってしまえば、簡単に捕まえることはできなくなります。ところが、イェルゲンは、岸で追手の人たちが大声で呼び戻しているのを見て、自分を捕まえに来たとも知らず、船頭とともにオールをふるって急いで漕ぎ戻し、捕縛されてしまったのです。 イェルゲンを虐待した水夫たちにしろ、邸の玄関から追い払った守衛にしろ、親友のほうが好きだと言った娘にしろ、濡れ衣を着せて捕縛した村人たちにしろ、とくにイェルゲンを憎む理由があったわけではありません。意地悪をしたのでもありません。彼らとしては、それぞれの立場では当然の、あたりまえの行動をとったにすぎません。イェルゲンの被った仕打ちは、いわば、彼が生まれた時の海の嵐と同じようなものだったのです。 アンデルセンが持ち出した別の喩えで言えば、何の罪もないウナギが、たまたま人間に出会ったというだけで、捕らえられてブツ切りにされてしまうのと同じことです。 ひとことで言えば、“不条理”が―――アンデルセンはそれを「運命」と呼んでいますが―――彼を責めさいなんでいるのであり、抗うすべはないのでした。彼が善意を尽くせば尽くすほど、善意はより大きな仇となって返ってくるのです。 北の荒海にも、ときには暖かい陽ざしが笑いかけてくる日がないわけではありません。イェルゲンが捕らえられて1年後に、真犯人の男が捕まり、イェルゲンは釈放されます。たまたまその町に来ていた知り合いの商人が、事情を聞いてイェルゲンに同情し、温かく迎え入れます。こうしてイェルゲンは、商人のブレネ氏とともに北方の旧都スカゲンに赴き、ブレネ家の一員として暮らすことになります。ブレネ氏の娘の一人クララが、とくにイェルゲンを気に入って親切にしてくれるのでした。 しかし、明るい太陽の照らす日々は、そう永く続くものではありません。クララが冬を過ごしに行ったノルウェーの親戚の家から、イェルゲンが彼女を連れて帰る途中、船が難破したのです。イェルゲンはクララを助け出す一心で腕に抱えて泳いだのですが、波に揉まれて別の沈没船の船首に頭を打ちつけてしまいます。失神して流れ着いたイェルゲンの腕の中で、クララはすでに死体になっていました。 イェルゲンは、命だけはとりとめたものの、脳をやられて痴呆状態となり、記憶は無く、ただ生きている状態でした。老齢だったブレネ夫妻も、まもなく亡くなりました。「それは春さきの、あらしの季節でした。〔…〕 ある日の午後、イェルゲンはただひとり、部屋のなかにすわっていました。ふと、心のなかに一条の光がさしました。と同時に、少年のころ、よく砂丘や荒野の上に彼をかり立てた、あの落ちつかない気持ちにおそわれました。 『ふるさとへ! ふるさとへ帰ろう!』と、イェルゲンは言いました。だれも聞いている人はいませんでした。イェルゲンは家を出て、砂丘へやってきました。砂や小石が顔にぶつかり、まわりに渦をまいて、舞い上がりました。イェルゲンは教会に向かって歩いて行きました。砂は壁をうずめ、窓も半分かくれていましたが、正面の通路の砂は吹きとばされていました。会堂のとびらには錠がおろしてなくて、押すとすぐ開きました。イェルゲンは中にはいって行きました。 あらしはスカゲンの町の上を、ひゅうひゅううなりながら走って行きました。だれの記憶にもないほどの台風、それこそ、恐ろしい神の怒りでした。けれども、イェルゲンは神の家のなかにいました。外はまっくらな夜になりましたが、イェルゲンのうちには明るい光がさしていました。〔…〕オルガンが鳴りひびいているようでしたが、それは、あらしと海鳴りのとどろきでした。イェルゲンは座席に腰かけました。すると、ろうそくがともされました。〔…〕その時、会堂のとびらや門が残らずひとりでに開いて、死んだ人たちがみな、その当時の盛装をこらしてはいってきました。〔…〕 ――死んだ肉体だけがただ一つ、まっくらな教会のなかに横たわっていました。その上をあらしはたけり、飛砂が渦をまいていました。   ―――――――― 次の朝は日曜日でした。教区の人たちやお坊さんが、礼拝のために教会へやってきました。〔…〕教会の前にきてみますと、とびらの前には、砂の吹きだまりが大きな丘となって、うずたかく積もっていました。」  お坊さんたちは、砂に埋もれてしまった教会堂に入るのをあきらめて、他の場所に新しい会堂を立てることにしました。「イェルゲンは、スカゲンの町のなかにも、砂丘にも、どこをさがしても見つかりませんでした。たぶん、砂の上まで押しよせてきた大波にさらわれたのだろう、と人々は言いました。 イェルゲンのからだは、偉大な石の棺、教会そのもののなかに葬られていたのです。〔…〕 堂々としたドームも、砂でおおわれました。〔…〕その上を、人々は歩いて塔のところまで行くことができます。この塔はお墓をかざる巨大な墓碑のように、砂のなかからそびえ立って、何マイルも遠方から仰ぐことができます。 どんな王さまも、これほどりっぱな墓碑は立てられたことはありません。だれもこの死人の平和を乱すことはできません。だれもそのことを知っている者はいませんでした。今もありません。――ただ、あらしが私のために、それを砂丘の間でうたって聞かせてくれたのです。」大畑末吉・訳『完訳アンデルセン童話集』,5,1981,岩波書店. より      小舟の夜 日は落ち、遠くの山は暮色にけむる なめらかな湖水が濃い紅(あか)に染まる 着飾った舟が滑るように擦れちがう、賑やかなうたの声…… ぼくらはいつやすむのか、わたしの小舟よ? うたの音(ね)は消え、長い影を曳いて 夜のはじめが高い頂きから降りて来る 最終便の汽船がカンテラの灯りをつけて 遠く去ってゆく。小舟よ、ぼくらはふたりだけになった。 夜が冷え込む。わたしはやすらうこともなく 雪嶺(せつれい)の謎めいた耀きへと駆りたてられてゆく さぐるように幽(かす)かな指さきで、死神が 船底をたたいている……なにを震えている、小舟よ?  ――――――――     カロンの入り江 (自作) 木の葉のようにゆらぐ小舟たち! わたしの舟はびくとも揺れぬ……なぜだ、渡し守? 聖なる宮へと向かう小舟たち、楽しげに歌いシャンパンをあける騒々しき人々! わたしの舟はすべるように渡る、音もなく……なぜだ、渡し守? 舳(へさき)に立つおまえのシルエットがゆっくりとこちらを向く ほっそりとした撫で肩の影、おまえの表情は見えぬ 「どうだった、楽しかったか?」 幾千載も経た少年の声がしじまに響く 「もうたくさんだ。なにも良いことはなかった‥」 わたしのうしろからつぶやく、わたしの、わたしでない者の声: 波もない暗い水面に、もうせんに世を去ってしまった幾人もの 友人たちの顔がうかぶ。鈍色(にぶいろ)のそらをつかもうとするかのように 虚空に突き出される渡し守の櫂…… 舟はしずかに回転する もとの岸辺へと漕ぎだす昧爽のカロン がっくりと首を垂れるわたし つぶやくように告げるカロン 「おまえはまだ渡すわけにゆかぬ‥」 よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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  • 19Apr
  • 18Apr
    • 詩文集(13)――クヌルプの思い出に

           旅の途上でクヌルプの思い出に  悲しむな、もうじき夜になれば 青ざめた野山のうえで寒そうな月が こっそりと笑いかけてくるだろう ぼくらは手をつないでやすらうとしよう 悲しむな、やすらぎの時はもうじきだ ぼくらの小さな十字架は明るい街道のわきに ふたつ並んで立つだろう そして雨は降り雪は積み 風は往ったり来たり  ――――――――     悪い時 ぼくらは会話もとだえ 歌を口ずさむこともなくなり 足どりは重い;もう 夜になろうとしているのだ 手をつないで行こう まだぼくらの道のりは長そうだ 雪だ、雪がふりだした! 異国の冬は厳しい ぼくらのまえに灯りと、いろりの 火が見える時はまだ遠いのか? 手をつないで行こう! まだぼくらの道のりは長そうだ ヘッセの小説『クヌルプ』は、1908年に第2章「クヌルプの思い出」が先に発表されました。↑上の詩「旅の途上で」は 1907年の作で、「クヌルプ」の最初の構想は、このようなものでした。 ちなみに、『クヌルプ』は、ヘッセの作品のなかでもっとも早く日本語訳が出た小説で、石川啄木編集の『スバル』創刊号(1909年1月1日発行)に、前年ドイツで発表された第2章の翻訳が掲載されたそうです。 のちに全体が発表された現行『クヌルプ』は、「クヌルプの生涯の3つの物語」という副題がある3章構成で、各章は順に、皮なめし匠、作者、ドクトルの3人の友人のクヌルプとの交友体験として書かれています。先行して発表された第2章は、作者=語り手がクヌルプの放浪の旅に同行する話です。その冒頭部分から引用してみますと↓「まだ陽気な青春時代のさなかだった。クヌルプはまだ生きていた。私たちは、彼と私は、そのころ焼けつくような夏の時期に豊かな地方をさまよい、苦労をほとんど知らなかった。一日中、黄色い麦畑にそってぶらぶら歩いたり、涼しいクルミの木の下や森のふちに寝そべったりした。晩になると、私は、クヌルプが農民たちにいろいろな話を語り、子どもたちに影絵をして見せ、娘たちにたくさんの歌を歌ってやるのに耳を傾けた。〔…〕  ある午後、忘れもしないが、私たちはある墓場のそばを通り過ぎた。つぎの村から遠く離れて、小さな礼拝堂とともに、見捨てられたように畑の間にある墓場で、〔…〕入り口の格子門のそばに2本の大きなクリの木が立っていた。」ヘルマン・ヘッセ,高橋健二・訳『クヌルプ』,新潮文庫 より  語り手とクヌルプは、扉の閉っている墓場の塀を乗り越えて中に入るのですが、初夏の栗の木と言えば、咲いた花序から特有のにおいを出しています。人間の精液の匂いに似ているという人もいます。 クリにかぎらず、大きな樹木は、それぞれ特有のにおいを持っていますが、そのなかでクリは、わりあいに軽くさわやかな甘い匂いだと思います。若者の男どうしの淡い逢瀬にはふさわしい香りという気がするのですが。。。栗の花(オマキ平,奥多摩)        しかし、クヌルプの放浪生活は、友人・他人からは趣味でやっているように見えても、本人にとってはそうならざるをえない宿命なのだと思います: 「主人公クヌルプは、ヘッセの作品の例にもれず、アウトサイダー、はぐれものである。〔…〕定職も地位も富みも得ず、孤独の流浪のうちに路傍に倒れる失意の人である。しかし、文学において、ひとの共感を呼ぶのは、得意の人ではなく、失意の人である。そこにより多く、おごらぬ、つつましい愛すべき人間が感じられるからである。」 高橋健二・訳『クヌルプ』,「解説」  クヌルプは、少年時代にはラテン語学校に通っており、のちにドクトルとなった友人とも机を並べていたのですが、13歳の時に年上の女性を恋し、告白したところ、学生なんか頼りにならない、職人さんの方がいいと言われたので、学校を辞めて徒弟になってしまいました。ところが、彼女はクヌルプを裏切って他の職人と恋仲になってしまったので、クヌルプは徒弟修業にも身が入らなくなり、流浪の人となってしまったのです。 「最初の恋人に裏切られてから,クヌルプは人間が信じられなくなり、ぐれてしまい、〔…〕さだめない旅の職人にしかならなかった。が、行くさきざきで農民たちに話をきかせ、子どもたちに影絵をして見せ、娘たちに歌を歌って聞かせた。みんなクヌルプに宿をかし、ごちそうをし、親しくするのを喜びとした。彼はみんなの間に一脈の明るさとくつろぎと楽しさをもたらした。〔…〕いわば人生の芸術家になった。それでよかったのである。そういう人間も、神は必要とされるのである。」 高橋健二「解説」  ところで、第2章の終りの部分で、クヌルプは、語り手に別れも告げずに突然居なくなってしまったこと、そのために語り手が受けた大きな衝撃が描かれています:「見まわすと、クヌルプがいなかった。〔…〕呼んでも、口笛を吹いても、さがしてもむだに終わったとき、ふいに彼は私を捨てたのだということを悟った。〔…〕 私はひとりぼっち幻滅して立っていた。彼を責めるより自分を責めずにはいられなかった。そして今こそ、クヌルプの意見によるとすべての人がその中に生きている孤独、しかし私はついぞどうしても信じる気になれなかった孤独を、自分で味わわねばならなかった。孤独は苦かった。〔…〕孤独はそれ以来もう完全に私から離れようとはしない。」高橋健二・訳『クヌルプ』より  これは、↑上の最初に出した詩とは、少し違うような気がします。 詩のほうでは、作者はクヌルプ―――あくまで作中の人物。モデルがあったかどうかは判りません―――と、どこまでも手を取り合って旅して行くように描かれています。しかし、小説のほうでは、気ままにどこかへ居なくなってしまう。それを作者は、裏切られたと感じ、自分を激しく責め、孤独に沈むことになる。 小説のほうがリアルなのかもしれません。クヌルプという独特の性格をもつ人物も、リアルな世界の中に置いて生きさせなければならない。クヌルプが、リアルな世界の中で作者以外のさまざまな人と関わりを持ち、影響を受けて自分の道を進んで行ってしまうのを、作者が止めることはできないのです。生きている以上、クヌルプと手に手をとってどこまでも行きたい語り手、あるいは作者だけのものにしておくことはできません。 しかし、詩の中では、作者は自分の感情や願いをそのまま、まっすぐに語ることができ、そこに何の制約もない。リアルな限界は現れない…。現実社会の都合の悪い部分が隠されてしまう――のかもしれませんが、そのかわりに、願いや希望、自分の意志それじたいを、いわば普遍的に語ることができます。それが、散文に対する詩の長所でも短所でもあるのだと思います。 小説でのクヌルプは、リアルな世界のクヌルプかもしれませんが、その世界の“リアル”さは、作者の時代や社会観念に制約されています。ちがう時代の私たちから見れば、詩のほうがむしろリアルかもしれません。ヘッセと同じ時代でも、もしヘッセよりも制約のない眼で世の中を見ている読者がいれば、その人にとっては、ヘッセの散文よりも詩のほうがリアルでしょう。 詩は普遍的に語ることができる―――とは、そういう意味だと思います。詩は、時代を超え、作者個人の制約を超えて、私たちとつながることができるのです。     7月の子どもたち ぼくらは7月に生れた子どもたち 白いジャスミンの香りをひたすら愛し 花ざかりの庭を眺めつつ歩いてゆけば 夢また夢の深みの中へとしずかに迷いこむ ぼくらの兄弟は深紅(スカーレット)の罌粟(けし)の花 燃ゆる花びらはちらちらとまたたく驟雨 麦秋の穂波に、火照(ほて)る土塀に明滅し たちまち風に吹きさらわれてしまう 7月の熱い夜のようなぼくらの人生は 夢いっぱいの輪舞をくりひろげないではいられない かずかずの夢、熱い取入れの祭りに身をゆだね 熟した穂と紅い罌粟で編んだ輪を手に持って よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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  • 16Apr
    • 詩文集(12)――孤独と友愛

      市門(アルトドルフ)     ある夜の徒歩旅行 山間(やまあい)から夜を徹して下りてきたみちは ぼんやりと光るのはらのふちをめぐり 淡い影をおとしているのは闇に沈んだ樹々 古い町のひらいた門に達していた。 長い通りがつづき私はゆっくりとあるいて行ったが 家々のガラス窓はみなまっくらで、ひとさしの 蝋燭の灯りさえ見えない、やすらう場所とてないのだ 街は寝しずまり夜のしじまがひろがっていた。 わたしはその町を出て、のはらをしばらく行ったあと 後ろをふりかえり、あやしくならぶ家々の影、 寝乱れたような暗い切妻の列を見たとき、はじめて 高い塔の上に光が見えた: 塔のひさしの上に起きている人がいた 綱で吊るしたカンテラをゆらしながら 男は遠くを見すかそうとして身をかがめ もうほとんど聞こえない私の足音をききとろうとしているのだった。 まえにも書いたのですが、低山や草原をこえて町から町へと歩いてゆくドイツの徒歩旅行は、自分の技を磨く場所を求めて渡り歩く中世の遍歴職人の伝統にもとづくもので、第2次大戦以前の若者のあいだでは、たいへんに盛んでした。徒歩旅行は、二人、あるいは数人のこともあり、一人で行くこともありました。昼間だけでなく、静けさを求めて夜間に行われることも多かったのです。 当時は、アウトバーンのような自動車道路はもちろん無く、古い町は城壁と、高い塔のある市門を備えていました。 夜間とはいえ、町の中に、どこかあいている居酒屋か旅籠でもあれば、そこで一服して行きたいところです。ところが、↑上の詩では、まったくひとけの無いぶきみな町を通った体験を描いています。 休憩するのをあきらめて、町を通過した後で振り返って見ると、高い塔(おそらく、出口に建てられた市門の)の上に寝ずの監視人が居て、夜間に出歩いている“不審者”が立ち去って行くのを、いぶかしそうに見送っているというのです。 この情景から、まず読みとれるのは、夜に徒歩旅行をする作者と、昼間の世界との関係です。昼間の町の世界は、作者のような若者が気ままに歩き回ることを決して歓迎しないし、作者はいわば“のけ者”として白い眼で見られることになります。ドイツ人の(すくなくとも当時の)市民社会は、各人が自分の持ち場を守り責任を果たすことを何よりも重んじますし、規則と秩序に従わない“ならず者”を許容するようなおおらかさは、そこにはありません。ロマン主義が一世を風靡していると言っても、それは文学や芸術の世界のことで、一般市民はそんなことには無関心です。 作者は、伝統的な古めかしい町の、不愛想でぶきみな印象から、このことを強く感じたということになるでしょう。 しかし、さらに深く読みこんでみますと、この詩はそれだけではないようにも感じられます。塔の上で灯りをかざしている人は、寝静まった町のなかで「ひとりだけ」起きているのであり、去って行こうとする作者の足音に、じっと聞き入っているのです。その人もまた、作者と同様に、このぶきみな古めかしい夜の町のなかで、孤独であり、目覚めている他の人間を求めているとは考えられないでしょうか? 集団となった人間は、個人に対してぶきみな権力をふるいますが、集団を構成するひとりひとりは、よるべなき孤独な個人にすぎないのです。 もちろん、灯りをかざしている人は、おそらく市門に詰めている夜間監視人であり、あくまで職務として不審者の通過をチェックするために、塔の上に上がって来たのでしょう。しかし、そうだとしても、その人もまた生身の人間であることは否定できないはずです。作者の表現のはしばしに、そう訴えている詩人の声を感じないではいられません。 テロ対策といった情勢に強いられ、監視カメラなどのテクノロジーの発達にうながされて、ともすれば地球規模の相互監視社会となってゆくかに見える昨今の世界を思えば、こうしたことはなかなか結論も名案も出るものではないでしょう。としても、私たちは素通りせずに考えて行かなければならない大きな問題のように思います。 巨大な機械のように構造化した世界の中で、それを構成するのは実は生身の人間であること、“孤独な個人”であるこということが、むしろ私たちの未来を重苦しいものにしないための鍵になるかもしれません。 孤独であればあるほど、他者との友愛を求める渇望も大きくなるということ。 下の2つの詩でも、またそのことを考えてみたいと思います。     靄(もや)の中 靄の中を歩いてゆくのはふしぎな心地だ! どのしげみも石も孤独のなかに沈む 樹々たちには互いのすがたが見えない だれもかれもがひとりなのだ。 わたしの世界は友達でいっぱいだった、 まだわたしの人生が明るかったときには。 靄のとばりがおりたいまは もうだれのすがたも見えない。   まことに、闇を識るにいたるまでは だれも賢くはなかったのだ: 闇は逃れがたく、またおごそかに   ひとをすべてから切りはなす。 靄の中を歩いてゆくのはふしぎな心地だ! 生きるとは孤独であること。 人はみな己れ以外の者を識らぬ、 だれもがひとりなのだ。  ――――――――     夕べの会話 雲にとざされた風景に見とれて、きみはなにを見ているの? ぼくはきみの麗しい手にぼくの心を預ける、きみの手のうちで、 えも言われぬ幸せにみたされるぼくの心、 こんなにも熱くなっているのを――きみは感じないか? ふしぎな笑みをうかべて、きみはぼくに心をかえす しずかな痛み…… ぼくの心は沈黙し、冷めてゆく。 よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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  • 14Apr
    • 詩文集(11)――神々の廃墟とユートピア

           神 殿 そこは墜落した神が深い闇に覆われて 道ばたの丈高い草の中に横たわっている、 そこは暗い木立ちが梢をそよがせ 崩れ落ちた神殿の墟(あと)に悲しくたたずむ。 神々の聖なる御息所(みやすどころ)、年古る糸杉は冷ややかな うたを奏でる、この暑い埃だらけの苦悶の道のかたわらに わたしの重い荷物を降ろさせたまえ! あなたはわたしを知らないでしょう、何年ものあいだ この聖所の静けさから遠ざかり、神々を求めて 国々をさまよい、神々を愛し、また罵り、 不信心の詩(うた)の数々をささげ、 その禁じられた異郷の道から立ちもどってきた者を: かつていちづに信じ、やがて背を向けたこの神の森に わたしの重く荒んだ頭をば休ませたまえ。 「墜落した神」とは、太陽に近づきすぎて失墜したイカロスのような伝説中の存在かもしれませんが、あるいはむしろ、ニーチェによって「神は死んだ」とまで断じられたキリスト教の神かもしれません。いずれにせよ、この“御息所”でのひとときは、作者にとって最終的な安息にはほど遠く、ヘッセの迷いと彷徨はつづくのです。 この詩が書かれたのは 1939年4月、第2次大戦勃発の直前でした。3月にヒトラーのドイツはチェコを占領・併合し、4月にムッソリーニのイタリアがアルバニアに侵攻しました。 ドイツでのナチスの政権掌握によって、ヘッセの本の出版が困難になり、印税をスイス・フランに換金することも難しくなりました。「ヘッセはナチスが政権をとって以来、それに対する怒りと反対をかくさなかったが、〔…〕ドイツ国内の彼の読者や友人に対する配慮から、あからさまな反対運動には加わらなかった。〔…〕ドイツから彼の所へ来る手紙は憎悪と中傷に充ちているものもあったが、若い人たちの手紙の大部分はヘッセの忠告と助力とを求めていた。」「1928年から 1939年にかけて、それまで外部的事情に妨げられていた『ガラス玉遊戯』〔の執筆――ギトン注〕がようやく前進して、〔…〕  9月に戦争が始まったときヘッセは初めてバーデン〔毎夏の保養先――ギトン注〕へも行かず、『ガラス玉遊戯』の理想国カスターリエンに専念した。」 このヘッセ最後の長編小説は、「まずヨーロッパ文化の伝統とそれがジャーナリスティックな現代に至って、その間相つぐ戦乱に疲れ果てた世界の人々が新しい文化国家カスターリエンを作り、そこでその象徴的遊戯であるガラス玉遊戯を作り出すまでの過程を、いわばヨーロッパの文化の発展を批判しつつ述べる序の章に始まって、」カスターリエンで“ガラス玉遊戯名人”となった主人公が、やがて「その地位を捨てて、俗世間の有能な青年にその精神を伝えようとする物語である。」「この老年の作品の中に示された瞑想、易経の神秘的知恵、及び西欧の数学と音楽とはヘッセのもつ矛盾や内面的動揺やその生活の永遠の紛争と、二元性との一切を統一する法則性に形成することを助けたのである。〔…〕『シッダルタ』のインド伝説はその終末に於いては道教の教えに向かったのである。そして、『ガラス玉遊戯』は更に明白に中国的思考の著しい影響を示している。」井手賁夫『ヘッセ』,1990,清水書院,pp.172-174,179-180.  『ガラス玉遊戯』に描かれたカスターリエンは、俗世間から切り離され、選ばれた天才だけが入ることのできる桃源郷ですが、そこで最高の地位に上りつめた主人公が、最後には俗世間に戻って、平凡な世間の人以上に平凡な、あっけない死にかた――とるにたらない事故死を遂げる結末を、ヘッセは書きました。⇒:ガラス玉演戯(世界文学案内) 朝日に魅せられて湖水に飛びこんだ少年を追って飛びこみ、誤って水死してしまう主人公の死は、いちじるしく個人的で好感が持てます。また、BL的でもあります。 選ばれた選良が集まってつくる“理想国”という設定には、ギトンはどうも抵抗を感じるのですが、最後の結末がそうなっているのなら読んでみたいかな‥‥と思ったしだいです。     風 景 みずうみと森、丘が織りなす 遠い子どもの頃のようなけしき このひろい世界の隅々まで、おだやかに 神の手にいだかれ安らいでいる。 わたしはじっと魔法にかかったように 何時間でも眺めている、 古い衝動は眠りこみ 古い恐怖は眠りこんでいる。 しかし私にはわかる、いまは圧し沈められている それらは、やがて起きあがってくることが: 私はみどりにおおわれた野を 見知らぬよそ者として歩いてゆかねばならないのだ。 よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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  • 12Apr
    • 詩文集(10)――きみが居ることの幸せを知り

           春 うす明かりの墓穴のなかで ぼくはもう永いこと おまえの樹々、おまえの青い風、 おまえの匂いと鳥たちのうたを夢見ていた いま、おまえは奇蹟のようにひらかれて 誇りと輝きにみち 惜しみなく注ぐ光を浴びて ぼくのまえによこたわる おまえはぼくを再びその眼にみとめ やさしく引き寄せる おまえが居ることのふるえる幸せが ぼくの手肢(てあし)をつらぬいてはしる 「おまえ」とは、春を擬人化して、春に向かって呼びかけているわけです。でも、ここは例によって、「春」は男性名詞だということを、じゅうぶん念頭において読んでいただきたいと思います。1年ぶりに再会したよろこび、そしてうんぬん‥‥ というのを、遠回しに婉曲に表現しているのだと思って読んでも、かまわないはずです。 しかし、これだけ雅やかに、優雅に表現されてしまうと、それに続けてシモネタめいた話を書く気にはとてもならないので、困ってしまいますね← 「おまえが居ることの」って、かなり意訳なんですが(原文は Gegenwart)、ヘッセの本意を取り違えてはいないと思います。これがいちばん大切なことなんです。“ネット彼氏”だとか、“ネット恋愛”だとか、そんな嘘っぽいものを信じたらいけませんよw どんな相思相愛の間柄でも、永いこと会わないでいると、心は離れていくものです。心を凍結することはできませんからね。なぜって、心は人間の一部で、人間は日々生きていて、それぞれの道を歩いて行かざるを得ないからです。そばにいれば、自然と、また意識して、いろいろと調整は可能ですが、離れていてはそうはいきません。時々でも会うようにしないと、けっきょくは別れることになるんではないでしょうか。 浮気をするとかしないとか、関係ありませんw ‥‥とまた、ずいぶんと教訓めいた話になってしまいました。 サクラが散りかけたころになって、東京にもようやく春がめぐって来たようですが、風の強い日が多いですね。けわしい雲が行き交って、毎日のように目まぐるしく天気が変ります。でも、けわしい形相の雲をベランダから眺めていると、こういうけしきのほうが、生きていくにはかえっていいかなという気もします。 おだやかなそよ風と、ぽかぽか温かい日ざし、そんな春らしい春が良いことずくめとは限りません。そういうことに気づかせてくれるものがあることは、まことにありがたいことなのです。私たちの埋没した眼を、もう1段上に引揚げ、見透しを良くしてくれるのが、詩の世界です↓      静かな森 ここで休んで行こう。あそこの森が やさしく翼を広げようとしている。梢が わずかにゆらぐ。のはらの穏やかな風が 木だちと草に寄り添うように、おずおずとわたって来る  このひろびろとした世界の彼方から わたしにやってくるのは、ただひとすじの気はい、 片欠けの声。風にゆられて牧場(まきば)から 草の匂いをはこんでくる このひろびろとした世界の彼方から わたしの若き日の痛みと幸せから かぼそい風にゆられつつやってくるもの わたしには静かな疲労だけが残っている  ――――――――     詩(うた)のノート おまえはいま腰をかがめ ノートの束の紐をほどく わたしのしるした詩(うた)たちが おまえの絹の膝に載る すぎさった時の滲(し)みが、おまえの 心にいまくろぐろと浮かび出る おまえはおどろき、わたしはといえば すでに旅の彼方にあるのだ よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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  • 10Apr
    • 詩文集(9)――魂の響きを聴く

           終 音 くもはとび、切るような風が 病みあがりのからだを冷やす。 しずかな子どものように わたしは休らぎ、病(やまい)は癒えた。 胸の奥の響きだけが わたしの貧しい愛の残滓(ざんし) 高らかなあらゆる歓びが、いまは声をひそめ さびしそうに消え残っているのだ 風と樅のざわめきのあいだから 聞こえ来る名づけようもないその響きに わたしは何時間も何日も、圧(お)し黙ったように 耳を傾け浸っていることができる。 「終音(Ausklang)」は、辞書を引くと「(曲の)終りの音」(独和辞典)、「終結和音」(Duden)と書いてあって、曲の最後に鳴る音あるいは和音を指すようです。何か、「わたし」にとって悲惨な結末となったできごとがあったように思われます。 しかし、ヘッセは、この詩の最後に「浸っていることができる」と言っているように、この・いっさいが終焉してしまった余韻のような響きを、忌わしいものとして避けるのではなく、むしろ積極的に全霊を傾けて聴き取ろうとしているのです。そして、その響きから、こうした機会にしか得られない、人間にとってたいせつなものを受け取ることができるのだと思います。 自我の深みに沈潜して、何が得られるのかと言えば、ふだんは気づかないような魂の奥底の声…自分は、ほんとうはどんなことを望んでいるのか、といったことかもしれないし、あるいは他人に対する優しさのようなものかもしれません。ともかく、こうしたことはけっして無駄なことではないし、時間の浪費でもないと思います。 悲しみを避けようとする者は、ほんとうの喜びを知ることもできません。  ―――――――――――     夜 ぼくは蝋燭を吹き消すと ひらいた窓から夜が流れ込んで来る: 夜はぼくをやさしく抱きしめ、ぼくはその 友となり兄弟となる。 ぼくらふたりは、同じ郷愁を病んでいる; ぼくらは予感にみちた夢を発信し ささやくように太古の時を語る、 ぼくらの父の家に向かって。 「ぼく」の「友となり兄弟となる」のは、詩の字面の上では「夜」ですが、「ぼくらふたりは、」以下は、「ぼく」と旅の“つれあい”、作者と親友の2人を言っているような気がします。 しかし、そうすると「ぼくらふたり」のあいだには血のつながりはないのに、「ぼくらの父」とは、誰なのでしょう? 想像するに、作者の父親のことではなく、地上の人間すべての「父」、つまり神のことではないでしょうか。「ぼくらの父の家」とは、天国を意味することになります。そうすると、天国に向かって「太古の時」についてささやきかけるとは、どういうことなのか? もしかすると、ヘッセはここでキリスト教の常識とは異なるイメージを抱いているのかもしれません。「太古の時」とは、人間が楽園から追放される以前の「時」かもしれないし、そもそも聖書には書かれていないような、もっとむかしのことなのかもしれません。この詩が書かれた 1907年、ヘッセはまだ最初のインド旅行に旅立つ前でしたが、ニーチェなどの読書から、キリスト教を超えたイメージをすでに抱いていたのではないか。「太古の時」とは、ギリシャ神話の神々の時代、あるいはゾロアスター(ツァラトゥストラ)教の神々の劫初をイメージしているような気がします。  ―――――――――――     赤い花 赤いカーネーションが庭に咲いている、 熾火のように燃えたつように耀きながら; 眠ることはなく、待っていることもない、 赤い花は、ただいちずに、 より速く、より熱く、より奔放にと狂い咲く。 煌(きら)びやかな焔が燃えあがる 風にゆらめく紅いほむら 欲情をつのらせて顫えている 花のほむらは、ただいちずに、 速く、もっと速くと燃えさかる。 わたしの血のなかで燃える赤い花 おまえの夢見るあこがれは何なのか? 雫(しずく)になって滴(したた)ることは望まない 河となり、潮(うしお)となって奔流し 耗(すりへ)って泡と消えるのがおまえの夢か? カーネーションは、ナデシコ科ナデシコ属で、日本に自生する「なでしこ」(カワラナデシコ)の近種です。花屋さんで売っているカーネーションは、カワラナデシコとは花の形が違うと思うかもしれませんが、地中海沿岸には、「なでしこ」そっくりの一重咲きのカーネーションが自生しています。 上の詩の「赤いカーネーション」は、「なでしこ」と同じように花びらの先が細かく裂けている形なのではないかと思います↓ 燃え立つような生命の衝動に対する讃美は、この時代のヨーロッパでの仏教思想の特徴だったとされます。19世紀末から 20世紀はじめにかけて、ドイツを中心に仏教に傾倒する人が増え、“ユーゲント(青年)運動”のなかで、仏教の研究やヨガの実践活動が流行します。といっても、受容のソースはインドの小乗仏教で、日本や中国の仏教とはかなり異なるものです。とくにドイツでは、仏教は、本家のインド以上に自我主義的・生命主義的に理解されました。 おそらくその背景には、ヨーロッパでの“生の哲学”の流行や、ニーチェの超人思想、科学におけるエネルギー一元論や進化論の盛行があると思います。 たとえば、スリランカで仏教を修行して帰国後ベルリンに寺院を建てたパウル・ダールケの著書『仏教の世界観』(1912年)によると、「『自我』は〔…〕世界を動かす『力』の顕現の場そのものであ」り、「究極の実在として、絶対化される」「自我において力が顕現する様は」「『燃焼過程』として」「『焔の比喩』によって説明される。」「『自我』は、〔…〕一生その力によって燃焼しつづけて、『自己を爆発させること』によって生き続ける」秋枝美保『宮沢賢治の文学と思想』,2004,朝文社,pp.113,165-6. と述べられています。 ヘッセの上の詩にも、自我の根源的エネルギーによって爆発的に燃え立つ生命のイメージ、白熱した自我の高揚が見られます。しかし、ヘッセはこの詩の最後のところで、こうした生命主義・自我主義に対して、「すりへって泡と消えるのがおまえの夢か?」と、強い疑問を投げかけてもいるのです。 当時、ドイツ仏教思想の生命主義・自我主義は、日本の哲学界・仏教界にも“逆輸入”されて一世を風靡し、北原白秋、萩原朔太郎、室生犀星ら詩人たちの大正初年の作品にまで、熱狂的な生命主義の“讃仰”が見られます(秋枝,op.cit.,p.183)。この流行は、“大正生命主義”と呼ばれます。 しかし、こうした自我主義・生命主義の傾向は、ドイツでも日本でも、民族の“自我”昂揚と結びつき、ファナティックな国家主義を助長することとなりました。日本で、これをよく体現したのは、日蓮宗・田中智学の国粋的“日蓮主義運動”でした。 もっとも、ドイツでは、第1次大戦の敗戦とともに反省が起こり、熱狂的な生命讃美は影をひそめますが、戦勝国になった日本では“対外出兵戦争を支える力”として、しばらく続くことになります。たとえば、昭和初年の大衆雑誌を見ると、中国戦線の日本軍兵士が、燃えさかる焔となって敵を“こらしめる”すがたを描いた漫画が目立っています。太平洋戦争時には「一億火の玉」という標語も唱えられましたね。 こうしたことを思いめぐらしてみますと、ヘッセの上の詩(1918年9月:第1次大戦停戦直前)は、たいへんに興味深いのです。。。 よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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  • 08Apr
    • 詩文集(8)――カフカの城とヘッセの城

           王 子 隣人はみな寝しずまり 家々の窓はみな暗くなった夜半過ぎ まだ頬のほてりも冷めやらず 眠れぬわたしは故国(ふるさと)を喪(な)くした王子 そこでわたしは深紅の夢を身にまとう: 帯に冠、金銀細工 金の縁どりをした裾が 膝でさざめく王族の衣装 いまわたしの心はぴんと伸び 望みと憧れ、力強くまた青じろく、 夜のしじまに声もなく現れるのは 月に照らされた郷愁の国だ ヨーロッパの各地には、現在でもたくさんの古いお城が残っています。なにしろ石造りですから、老朽化して倒れたり、火事で焼けたりしない。何世紀でもそのまま建っています。ドイツの古城の多くは、今でも人が住んでいたり博物館やホテルになったりして、現役で使われているそうです。 ところで、西洋のお城と言えば、ギザギザのついた城壁があって、高い塔が立っていて、周りにはお濠と跳ね橋‥、そんなイメージを描いてしまいますが、それはひとつの典型例にすぎません。じっさいには、さまざまな形の城があって、私たちには、これがお城?!‥ としか思えないようなものも少なくないのです。 中学だったか高校だったか覚えていないのですが、国際文通をしてみようということになって、仲介の協会から紹介されたのが、チェコの男の高校生でした。チェコと言っても、町の名前は知らない地名で、学校の地図帳には出ていないので、チェコのどのへんだったのか、いまだに不明ですw その文通相手から絵葉書が来たことがありました。「ぼくの町の城だ」と書いてあります。絵葉書に印刷された説明はチェコ語とロシア語なので読めません。しかし、その写真を見ると、小高い丘の上に、こじんまりとした平屋の館が建っているだけで、およそぼくらが想像する“西洋のお城”というイメージのものはないのです。塔もなければ城壁もない。ふつうの建物と違う点は、ひらたい丘の上に立っているというだけです。 返事には、日本のどこかの城の絵葉書を送ったと思います。どこの城だったか覚えていませんが、日本のお城はどこも同じようなお濠と石垣と天守閣で、ワンパターンだと思いました。 文通はまもなく途絶えてしまいましたが、“城らしくない城”の絵葉書のことは、ずっと忘れられずに覚えていました。 もちろんチェコにも、ふつうの‥、というかぼくらがイメージするような、上に尖った形のお城もちゃんとあります。たとえば、↓下の写真はプラハの「ヴィシェ・フラト(高い城)」です。 しかし、国際文通から数年後だと思いますが、カフカの『城』という小説を読んでいたら、そこでテーマになっている「城」の見かけ↓が、かつて絵葉書で見たチェコの城とよく似ているなと思いました。 カフカは死後70年以上たっていて、原文は著作権フリーなので、拙訳でお目にかけます。「いまK.は、澄みきった空に、城がくっきりと立っているのを見上げた。薄く層をなして積もっている雪が、建物のあらゆる形をなぞって見せているので、なおさらはっきりと見ることができた。ちなみに、城山の上では、雪は、こちらの村の中よりもはるかに少ないようだった。K.は昨日にもまして、通りの雪の上を苦労して進んだ。〔…〕 城は、ここから遠くに見えるようすでは、全体としてK.の予期したとおりだった。古い騎士砦でもなければ新しい豪壮建築でもなく、ただだらっと広がった建物の集まりで、それも3階建ては少なく、ほとんど背の低い家ばかりが、ぎっしりとかたまっていた。城だということを知らなければ、小さな町だと思うだろう。ひとつだけ塔が立っているのをK.は見とめたが、それは居館の一部なのか、教会の塔なのか、見分けられなかった。鴉の群れが塔を取り巻いていた。 K.はまっすぐに城を見上げながら、さらに歩いて行った。ほかのものは目に映らなかった。しかし、近づくにつれ、城は彼をがっかりさせた。それはまったく見すぼらしい小さな町にすぎなかった。村の百姓家が集まって建っているだけのもので、ただみな石造りらしい点が目立っていた。とはいえ、上塗りの漆喰は、とうに剥げており、石も崩れ落ちそうだった。」 フランツ・カフカ『城』,第1章から(拙訳)  漆喰が剥げたり、石組が崩れ落ちたりというところは絵葉書と違いますが、丘の上にあるふつうの建物、という点は似ていると思います。 そういえば、カフカが住んでいたのはプラハだっけ。この小説はたぶん、チェコのそういう田舎町の城を題材にしているのだろうと、読んで思ったものです。 ところで、ヘッセの詩に出てくる城は、どうでしょうか? ヘッセのほうは、城そのものをテーマにして書いているわけではないので、城の外見はあまり詳しく書いてありません。なので、よく分かりませんが、むしろドイツやフランスのふつうの城のイメージではないかと思います。ヘッセの例をひとつあげてみますが↓、城の高い塔の上部にある格子の入った窓から、幽閉されている人物が外を覗いているような設定です。     再 会 日はすでに姿を隠し 青ざめた山の端に沈む 暮色の庭に荒れた風が吹き 樹々に被われた路と土手 わたしはおまえを見とめ、おまえはわたしを見た、 おまえはおまえの灰色の馬に騎(の)り ものしずかに、また壮麗に 枯れ葉舞うなか城へと向って来る それは悲しい再会だった おまえは青ざめてゆっくりと去る わたしは高い格子窓に立ちつくし 暗くなり、誰も一言も発しなかった ここでもやはり、作者ないし「わたし」と、「おまえ」と呼ばれている騎士との関係はBLだと思います。「わたし」が女性でも通用するとは思いません。この詩のふんいき‥、なんと言うか、枯草の黄色が混じった薄墨の、モノクロの情景がBLなのです。 それはそうとして、カフカの“城”とヘッセの“城”を比べてみると、ほんとうに対照的ではないでしょうか? 〇 ヘッセの“城”は、塔のあるふつうの城。しかし、カフカの“城”は、家がかたまっているだけの“城らしくない城”。 〇 カフカの“城”は、遠くから眺めるだけで、決して主人公は“城”の中に入れないし、“城”にたどりつくことさえできない(そういう小説です)。しかし、ヘッセの主人公(ないしヘッセ自身)は、“城”の中から外を見ている。むしろ“城”に幽閉されていて、外に出られない。 〇 カフカの主人公は、それほど執拗に、“城”にたどり着こうとしてあくせくするけれども、そのわりに、“城”の外見はとても見すぼらしくて、主人公をがっかりさせるほどひどい。しかし、ヘッセにとっての“城”は、いわば“失われたふるさと”であり、いつも憧れの対象として夢の中に現れる美しい存在。 ……ほかにも、比べてみればいろいろと対照ができそうですが、それでは、そこから言える2人の作家の性格の違いは? ‥といったことになると、ギトンはドイツ文学の知識がなさすぎますので、このへんでやめておきたいと思いますw よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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  • 07Apr
    • 詩文集(7)――戦場の友へ

      1919年ドイツ・ミュンヘン     夜半に友を想う この禍々しい年は秋が早い…… 夜ひとりで歩いていると、風は帽子に吹きすさび、 雨は音を立てる…… そしておまえは? おまえはどうしているか、わが友よ? おまえはあるいは野辺に立ち、三日月を見ているかもしれない、 小さな弓の形が森を渡って行き 野営の紅い炎と漆黒の谷間、 あるいはおまえは空の下で藁に臥し、眠っているかもしれない、 おまえの額と兵隊外套に、つめたい夜露が降りる。 あるいはもしかすると今夜おまえは馬に乗り 前哨についているかもしれない、短銃を握り偵察をつづけながら 疲れきった駄馬をささやくようにあやしているかもしれない。 ぼくにはどうしてもそんな気がするのだ、おまえは今夜招かれて 広い庭のある異国の城に入りこみ 蝋燭の明かりの下で手紙を書いている 館(やかた)の袖で見つけたタイプライターに向って キーをがちゃがちゃと鳴らしている……-しかしもしや、 おまえはもう静かになって、死んでしまったのではないか、 おまえのなつかしい誠実そうな眼に、もはや昼の日は照らさない、 おまえのなつかしい褐色の腕は、だらりと枯れてさがり、 お前の白い額がぱっくりと口をあく --おお、こんなことなら こんなことになるとわかっていたら、あの別れの日に ぼくはおまえにもっと何かを言っておくべきだった、口に出すことのなかった ぼくの愛、おまえにたいするぼくの臆病すぎた愛について! それはもう知っている、わかっているのだと……おまえは笑顔で 異郷の城から、夜の闇に向って頷き返しているかもしれない、 湿っぽい森をゆく馬の上で、 硬い敷き藁の上でまどろみながら、 おまえはぼくのことを考え、笑顔で頷いているかもしれない。-けれどもしや、 もしかすると、いつかおまえは戦(いくさ)から帰ってきて とある晩ぼくの部屋に入って来る、 ぼくらはロングウィー、リュッティヒ、ダンマキルヒについて語り、 おまえは誠実そうに微笑み、すべてはもとどおり、 誰も自分の抱いた不安のことは語らない、 戦場での夜の不安と優しい想いについて、 愛について語られることはなく、ただ一言の軽い冗談で おまえは不安も、戦も、重苦しい数多の夜も 男どうしの友情のいなづまのような戦慄も 過去未来永劫の無の中へと退かせてしまうのだ。 ロングウィーは、フランスのベルギー国境に接する城砦都市。1914年8月、第1次大戦開戦とともにドイツ軍の手に落ちた。鉱山・炭坑に近い製鉄都市であったため、ドイツはこの地域の獲得にこだわり、大戦中 1917年にはアルザスのドイツ領・フランス語地域との交換による和平をフランス側に提案しています。結局ドイツの敗戦となり、両方ともフランスに取り戻されることとなったのですがw リュッティヒ(リエージュ)は、ベルギー西部の都市。1914年8月、開戦数日後にドイツ軍に占領された。 ダンマキルヒ(フランス名ダンヌマリー)は、ドイツ領上部アルザスの村、第1次大戦初期の1914年にフランス軍が占領し、野戦司令部を置いています。 ところで↑上の詩では「男どうしの友情(Männerfreundschaft)」と書いていますが、これが同性愛を隠すための婉曲な表現であることは、「いなづまのような戦慄」といった語句(詩文集(5)参照)によって明らかでしょう。 しかし、最後の第6連からわかるように、この詩を書いた時点(開戦の約1か月後)では、ヘッセは楽観的すぎました。いや、ヘッセだけではありませんでした。この世界大戦が5年にもわたって続こうとは、当時誰も予想していなかったのです。 西部戦線の塹壕戦による膠着状態の中で、交戦勢力双方が高唱した“正義のための戦争”は、いつ終るとも知れない悪夢と化したのでした。 第1次大戦、ソンムの戦闘――英軍部隊 幼年時代のヘルマン・ヘッセはスイス国籍を持っていましたが、牧師だった父の意向でヘルマンをドイツの神学校に入れるため、一家でドイツ(シュヴァーベン州)に帰化していました。 第1次大戦がはじまった時、ヘッセはスイスに住んでいました。 しかし、ドイツ国籍だったヘッセは、ドイツ人捕虜のための支援事業に協力し、各地の捕虜収容所に書籍を送る無償の事業に忙殺されました。その一方でヘッセは、ドイツの兵役を忌避し、平和と政治批判の文章をスイスの各新聞に寄稿していました。 しかし、当時ドイツの著名人で戦争を批判する人は稀でした。文豪トーマス・マンも、この戦争は英仏の物質主義に対する闘いだとして、好戦熱を煽る論陣を張っていたのです。 孤立無援のヘッセでしたが、フランスの平和主義者ロマン・ロランが、ヘッセの自宅に訪ねて来ました、ロランもまた、自国の捕虜支援のためにジュネーヴに来ていたのです。「1915年9月にヘッセは捕虜収容所の仕事その他の用務でドイツに旅行した。その時のドイツ人の生活態度を、戦争の緊張した空気を背後に持ちながら、静かに、落ち着いて生活しているそのようすを、〔…〕好意と同情をもって観察して、〔…〕『新チューリッヒ新聞』に発表した。これに対して〔…〕『ケルン新聞』がヘッセの文章の中の一部をとり上げて、『宿なしの兵役忌避者』と罵った。この『ケルン新聞』の記事は更に各新聞に取り上げられて、ヘッセを『裏切り者』、『節操のない男』と罵った。〔…〕ドイツの 20 にも及ぶ新聞がこの機会に一気にその憎悪をふき出したのである。〔…〕未知の人々から侮辱の手紙が沢山来た。出版者達はこんな忌わしい志操を持っている著者は自分たちにとっては存在しないも同然だ、といった。〔そしてヘッセの本の出版を拒否した――ギトン注〕こういう時にヘッセを弁護したドイツの友人は2人だけだった。」 ヘッセは 1917年「12月の『平和になるだろうか』という文章では、人々が平和の実現のためにあらゆる努力を傾けるように呼びかける。〔…〕現実に『この世界に於いて戦争の継続を正気で願っている者はほんの僅かにすぎない。』それなのにみんなが怠慢で、臆病で、心のどこかで戦争を許容しているから戦争が行われているのだ。政府の閣僚も、軍隊も、我々傍観者達もそうなのだ。 『真剣に願えば戦争を終結させ得ることを我々はみな知っている。また真に必要だと感じていることであるなら、どんな実現でも、いや、最も勇気を要する実現ですら、あらゆる抵抗を排して実現させていることを我々は知っている。』」 ヘッセのこの言葉は、たいへん示唆的です。国家の誤った意思決定を正すために、また政治の流れを変えるために、ツイッターで“がなる”必要もなければ、デモに参加する必要も、ビラ配りに動員される必要もないのです。要はひとりひとりの心がけしだい、各自にできることをすればよいのです。まして、ヘッセのこの時代には、選挙権さえ一般の人にはありませんでした。 “みんながほんとうは思っていること”が実現しない理由は、ひとりひとりの被害妄想的な臆病と怠惰以外の何ものでもありません。 「しかしいよいよ〔ギトン注――1918年〕11月に平和がおとずれたとき〔…〕ヘッセにとって一番不思議だったことは、だれひとりとして平和を祝わない、ということだった。」「ヘッセにとって、昨日までは愛国的な言葉を吐いていたのに、今日は革命的な言葉を吐いている利口な人間ほど侮蔑に値する人はいなかった。」井手賁夫『ヘッセ』,1990,清水書院,pp.90-94.  ドイツの第1次大戦後の状況は、日本の第2次大戦後の状況に、よく似ていたようです。“社会主義者”を自称する人々が、戦争中は無垢の人々を戦争に駆りたて、敗戦と同時に“平和主義”に転向して、わがもの顔に民主主義と平和を唱えたのです。 これをいまの時代に読みかえれば、昨日は民主主義と平和を唱えていた人々が、こんどはまたナショナリズムをがなり立て、排外主義を煽っている状況を見ないわけにいかないでしょう。      戦争がはじまって4年目 宵はつめたく悲しげにすぎ 雨は降りしきるとも わたしは歌をうたう、このつかの間に; 耳を傾ける者がいようといまいと。 世界は戦争と不安に締めつけられていようとも そこここで、ひそかに 誰に見とめられるともなく 愛は燃えている。 よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau第1次大戦――破壊されたベルギー・イーペル市

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  • 05Apr
    • 詩文集(6)――漂泊の詩人(うたびと)たち

      ヘラクレスの泉(アウクスブルク)     流浪者の宿 それはなんと縁遠く、ふしぎなけしきなのだろう 毎晩毎晩途切れることもなく 楓(かえで)の影から冷たく醒めざめと 泉が音もなくあふれつづけるのは そして昨日も今日も、ただよう香りのように 月のひかりが破風を照らし 冷たく暗いそらの高みを、かるがると 雲の編隊がとんでゆくのは! それらはみなしっかりと立ち、存在しているのに ぼくらはひと晩のやすらぎのあとは また町から町へとさまよう定め ぼくらを気にかける者もいないのだ しかしやがて何年もしたあとで ぼくらの夢の中にさながらに その泉が、町の門と破風が立ち現れるかもしれぬ そしてずっといつまでも立ちつづけるのだ その風景はまるでなつかしい故郷のように かつてたったいちど異郷の屋根の下に憩うた よそ者の脳裡に現れ、煌(きら)めきつづけるのだ もはや町の名さえ思い出せぬというのに。 毎晩毎晩途切れることもなく 楓の影から冷たく醒めざめと 泉が音もなくあふれつづける それはなんと縁遠く、ふしぎなけしきなのだろう!  シューベルトの歌曲「菩提樹」を想起された方も多いかもしれません。たしかに、↑この詩は「菩提樹」の歌詞を念頭にしていると思います:「市門の泉のかたわらに 菩提樹が立っている わたしはその樹の蔭でまどろみ さまざまの甘い夢を見たものだ     〔…〕 菩提樹は枝葉をざわめかせ わたしを呼んでいるかのようだった: 帰っておいでよ、ここにこそ おまえのやすらぎがあるのだから」菩提樹(ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ)  この歌曲で歌われている「菩提樹(Lindenbaum リンデンバウム,リンデ)」は、セイヨウシナノキという樹種で、日本でお寺などに植えられているボダイジュ(これは中国原産)と同じシナノキ属ですが、別種だそうです。セイヨウシナノキが“やすらぎの樹”だというのはほんとうで、人体に薬効のある物質を発散しているらしい。 Wikipedia によると、セイヨウシナノキの花は、風邪、咳、発熱、感染症、炎症、高血圧、頭痛薬、利尿薬、鎮痙薬、鎮静剤として用いられ、木材は、肝臓・胆嚢疾患に、木炭は腸障害に効果があるとのこと。フランスではハーブティーにするそうです。市門、尖塔と破風(ギーベル)(シュパイエル) とはいえ、郷愁をそそるシューベルトの歌詞(作詩はヴィルヘルム・ミュラー)は、あくまでもロマンチックな詩情の中でのこと。海の向うから眺めるわたしたちには、ロマンチックなけしきだけが見えているのですが、その世界で生きてゆこうとする者にとっては、また別の感想があってよいわけです。 あてもない旅のともがら、“流浪者”である作者たちにとっては、見知らぬ町の入口に滾々と湧いている泉は、日々の仕事にいそしむ町の人々や、高々と聳える市の門や周壁、教会の尖塔などと同様に、縁のない世界であり、このうえなくよそよそしいものに思われるのです。 そういえば、そうでした! ヘッセと言えば“漂泊の魂”。 自分と同じ“漂泊の魂”をもつ友を求め、晴れやかなミドルクラスの社会からは身をひきはなすようにして、世界の果てへと逃れて行こうとする一途な情熱が、彼のどの作品にもあふれています。世界中に多くの読者を得ているヘッセのもっとも魅力的な部分は、そのあたりにあったと思います。 しかし、それは同性愛者の気持ちや交友にも通じるものだと思います。けっして大っぴらにはしたくない。世の中を騒がせたくはないし、干渉もされたくない。そういう気持ちが、いつもぼくらの心にはどこかにあって、共通の核心のようになっている気がします。 そうしたなかで、あえておもてに出てぼくらの存在や権利を訴える友人たちに対しては、心から尊敬と感謝の思いを禁じえないのですが……、それでもやはり核心は核心。世界すべてが寝静まった夜に、ひとり目覚めている‥、あるいはふたりで‥、目覚めて、暗い夜空の果てを見つめているようなこの気持ちの核を、ぼくらは失うことはできないし、それを無くしたら何も残らないような気がします。 二丁目かいわいでは、狭いカウンタースペースにおおぜい集まって、夜通し朝まで騒いでいる向きもあって、そうした場所に縁遠いぼくらには、ちょっと別世界のようにさえ思われます。言ってみれば、それはぼくらの華です。 ギトンも同居人も、あのあたりには行かなくなって久しいのですが、またいつか、隅っこに顔を出してみることもあるのかな?……と、たま~に思うことがあります←     きみにもそれがわかるのか? きみにもそれがわかるのか? ときどき さわがしい歓楽のさなかに 祭りたけなわ、大広間のまっただなかで 急に口をつぐんで去って行くほかはない心地になる そして寝床に身を横たえ眠りもせずに まるでいきなり心臓をわずらった人のように さんざめく笑い声は煙のように消え 涙を止めどなく流しつづける――きみにもそれがわかるのか。   ―――――――――――     異郷の町 そんなにおまえを悲しくさせるのは 見知らぬ町を通る夜半(よわ)の道 家々は音もなく寝静まり 月にかがやく屋根の波 尖塔と破風のかなたに徐(おもむろ)に あやしい雲の群れが逃れゆく それは喪われた故郷(ふるさと)を求めさまよう 巨きな寂しい亡霊に似て ところがおまえはいきなり襲われでもしたように 悲哀の魔法に身をゆだね 荷物を手から取り落すやいなや、とどめなく 悲痛な声で泣きじゃくるのだ よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableauイルデフォンソの泉(ウィーン)

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  • 03Apr
    • 詩文集(5)――いなびかり

           呪われたぼくら 移り気な雲はいきなり青ざめて 稲びかりが森の地平を透かし出す 夜の幻影がおまえを幾千の 悪夢の中へと追いやる、蒸しあつく 重苦しい晩夏の宵のまぼろしだ。  それというのも俺たちは炬火の光明に照らされて 乱れ散る薔薇の桂冠を被せ合ったのだから、 おまえは甲(かん)高い官能の笑い声をあげたのだから。 おまえは眠れぬ夜々を運命の宣告のような 時の鐘を数えてすごすがよい。重苦しい 熱病のような不安の中で、あの夜以来俺を苦しめている あらゆる苦悩がおまえを苛(さいな)むがよい。 あの夜俺はなつかしい城と園(その)と並木路に別れを告げて 黒い馬に乗り異郷へと永(とこしえ)に追いやられたのだ。 前回にひきつづいて、インゼルの詩集に並んでる詩篇を訳してるんですが、同性愛の性愛の詩‥ということで考えてみると、ちょっとした違和感を感じないでもありません。ぼくらの“しとねの交わり”は、こんなに重苦しい、熱苦しいことばっかりかなぁ!?‥というクエスチョンマークです。 彼我の体格の違いということは、考えてよい気がします。“おとこ”らしくない(のがいい!!←)きゃしゃな腕や、柔らかく薄い胸板を愛で合って、かろやかに交わるぼくらとは違い、がっしりした体格の筋肉質の男どうしが組んずほぐれつ交わったら、重苦しくも暑苦しくもなるんじゃないかなとw しかし、そればかりでなく、これは 100年以上も前に作られたという、時代環境の違いも無視できません。100年前と言えば、あっちの国々でもまだ宗教の戒律は厳格で、“ソドムの快楽”にふける自体が、死してのちまで許されることのない大罪とされていたでしょう。そんな迷信は乗り越えたつもりでいる人も、心の奥では怖れの気持を吹っ切れないでいたかもしれません。ヘッセは、キリスト教からはしだいに離れて、仏教に関心を深めていき、シャカの時代の若者を描いた名作『シッダールタ』を書いたりしているのですが、‥それでもやはり彼は牧師の息子ですからねえ。。。 現代ドイツやスイスのゲイたちが、ヘッセの詩をどう評価しているのか、知りたいところではあります。(ネットを通じて訊いてみることもできそうですが…、まぁおいおいとw) しかしそれでもなおかつ‥、ギトンの感想を言わせてもらえば、ヘッセは、著名な作家の中では、同性愛として第一級だと思います。ゲイ界で評価の高いイギリスのE.M.フォースターより、ヘッセのほうが、ギトンはいいと思います。詩人のなかでは、オーデンより好きです。ジャン・ジュネとは‥、あれはいわば最高峰で、聳えてる方向も違うので、ちょっと比べられませんw どこがいいのかと言うと、そのものズバリでなく、どこかワンクッションあるというか、いったん自分の世界から離れて、メルヘンのガラスを透して見ているようなところがいいんです。そこを批判的に言えば、同性愛者として不徹底だとか、宗教的・社会的な制約を超克しきってないとか、いろいろ言えるのかもしれませんが、たとえ不徹底だとしても、その結果として、むしろいいものができたと思いますw たしかに、ヘッセは生涯に2回結婚(むろん女性と)しています。 少なくとも詩や小説や芸術の世界に関するかぎり、不徹底だから悪いとか、乗り越えていないから価値が低い‥というようなことは、決して言えないと思います。あの“社会主義リアリズム”の御用作品や“ナチス芸術”に、後世に残るようなものがぜんぜん無いことでも、それはわかります。 (もちろん、たまにはよいものがあります。エイゼンシュテイン+プロコフィエフの映画『アレクサンドル・ネフスキー』は映像も音楽もすばらしい。ショーロホフの『静かなるドン』は、じつは党公認のあからさまな剽窃ですが、剽窃された作品が良かったのか、ノーベル文学賞を受けています。ナチスの全裸ショタ彫刻の数々は、いまでは二重の意味で御法度ですがw,秘蔵したくなる作品ばかりです) ギリシャの神殿の円柱にほどこされた彫刻のように、破風の重さに耐えて世界を支える神人のゆがんだ表情にこそ、末永く後世の人を感動させる生命の閃きがあるのだと思います。     いなびかり 稲びかりは熱病のように遥かに、 おまえの髪につけたジャスミンが はにかんだ星のように青じろく ふしぎな光をちらちらと投げる 息もつかせぬなまめかしい夜よ おまえのあやしくもふしぎな力に 星の出ない重苦しさに、ぼくらは キスと薔薇とを犠牲に捧げている 祝福も光輝もないキスの数々に ぼくらは口を重ねるやいなや悔いてしまうのだ―― 悩ましげに身をおどらせながら 熟しすぎた花弁を散らす薔薇の数々を。 一滴の露さえ結ぶことなく過ぎる夜! 祝福も涙も見えない愛欲のつらなり! けれどやがて近づいて来る遠い嵐を ぼくらは恐れつつ待ちうけているのだ。 よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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  • 02Apr
    • 詩文集(4)――ナイトハイクと歩行愛

           美しの女神(シェーンハイト)に(An die Schönheit) あなたの軽やかな御手をぼくらに! なじんだ母の手から引き離されて ぼくらは暗闇の隈をめぐり 見知らぬ国をさまよう子どもたち。 ぬばたまの闇からあなたの歌う 妙なる調べ:故郷(ふるさと)の曲(うた)が聞こえてくれば それは不安なぼくらの行く手を照らし そっと慰めてくれるのだった。 行き先もなく路もなく 果てしなき夜をさまようぼくら; 慈悲深き女神よ導きたまえ 巨いなるあすの夜明けの迫るまで   ―――――――――――     深紅(しんく)の薔薇 ぼくは歌を奏でていた。 おまえはじっと黙っていた。おまえの 右の手には、放心した指のあいだに 血色(ちいろ)に熟した大輪の深紅の薔薇が握られていた。 体験したことのない絢爛たる耀きにみちて 生温かい夏の夜が立ち上がり、ぼくらの上に まぶしいひかりの扉をひらく 初めての夜を、ぼくらは迎え舐めつくした それはぼくらの上に乗り、その暗い腕に抱きしめ 放心したように気だるく、そして暑かった―― おまえはおまえの膝の上をそっと払い 深紅の薔薇、その花びらが床に舞った。 高校生か、卒業したての頃だったと思うんですが、いっしょにドイツ語の勉強をしていた友だち――ふたりとも学校の英語はさぼってw勝手にドイツ語なんか習ってました――と、書店の洋書売り場でドイツのファッション雑誌を見ていました。写真ばっかりだから、なんとか読めるんじゃないかってわけです。 そこで面白いことをみつけました。ドイツ語では「美しい」は schön(シェーン) だと日本では習うんですが、ぼくらがふつうに「きれいな女の人」と思うような写真はみな、「シェーン」ではなく「ヒュプシュ」と書いてあるんですね。hübsch(ヒュプシュ) は「小ぎれいな,清潔な」と、独和辞典には書いてあります。 では、雑誌に「シェーン」と書いてあるのはどんな写真かというと、かわいい女の子がニコニコしてるような写真ばっかりです。「美しい」とはちょっと違う。顔の造りのいいのはみな「ヒュプシュ」で、「シェーン」のほうは、「うつくしい」というより「うるわしい」のほうが近いかもしれません。でも、「うるわしい」は古いコトバで、ちょっと今の感覚とは、ずれてますよね?w 少女マンガさながらに、大きな目をきらきらさせてるようなのが「シェーン」なんです。「大きな眼鏡をかけるとシェーンに見える。」という特集のページもありました。ロリっぽい可愛さ、萌える感じ、ドキドキさせる感じが「シェーン」なんだと思います。 男の子で言えば、ジャニーズ系の子役やキッズがまさに「シェーン」ですw 上の詩の題名「シェーンハイト」は「シェーン」の名詞化で、ふつうの意味は「美」とか「美しさ」。でも、英語でもフランス語でもそうですが、「美」とか「幸運」とかいう抽象名詞は、みな神さまの名前でもあります。「死 Deth」と言えば、死神のことです。つまり「シェーンハイト」は、美の女神です。 そこへ、↑上の「シェーン」の話をかぶせますと‥、「美の女神」は、日本語でイメージする「美」よりも受け持ち範囲が広くて、少女やショタに夢中になったり、欲情・快楽を求めて愛し合ったり、芸術や萌え画、“耽美”小説に耽溺したり... といった方面を広く含みますw ところで、やはり 10代の終りごろから 20歳前後にかけてだと思うんですが、親しい友達と二人で、何時間も、あるいは夜どおし朝までとか、あてもなくぶらぶら歩き回ったことはありませんでしたかね?‥しかも、誰とでもではなく、いつも特定の気の合う一人とです。 女の人には、ショッピングでもないのに何時間もぶらぶら徘徊する性癖はないのかもしれませんが、男ならば、よほどまじめなカタブツか、環境が許さないとかでないかぎり、たいていの人がそういう体験を持っていると思うんです。 日本では、歩き回る場所はふつう都会の中ですが、ドイツでは、山や野原を歩き回るらしいです。ぶらぶらと町を通り過ぎて野原に出て、また次の町へ‥、という感じらしいです。これは、古くからの遍歴職人の伝統と関係があるようです。 男2人と言っても、ふつうはノンケ同士ですから、‥ギトンの場合も、その友だちはノンケでしたから‥、夜通し歩くからと言って、アオカンでセックスとか、抱き合って寝るとか、べつにないんですがw、ゲイ同士なら、やってもおかしくはない。↑上の2つの詩(詩集で、隣りどうしに並んでます)は、そういうヘッセの体験に基いているんじゃないかと思います。 上の2番目の詩、「初夜」って相手は女性だと思いますか?‥いやあ、ぼくはぜったい男どうしだと思いますよw 全体の雰囲気もそうだし、いろんな細部、また、主語を「おまえ」でなく「夜」にしてごまかしている部分とか、これは男どうしなのを、はっきりそうとは判らないように書いてます。 ↓下の詩も、そうした“ふたりでワンダーフォーゲル”のテーマです。     ふたつの墓標 はてしなく嶺は波うつ国ざかい 郵便馬車の喇叭がこだまする 人里はなれた峠の杣(そま)のかたわらに 二ふりの白い墓標が立っていた 同じ高さで並ぶ二つの十字の前に立ち 思わず手と手をしっかり握りしめていたぼくら 碑石に記名の文字は無く みかげは風雨に洗われて白かった。 生きて冠された名も知れず、死の因縁も 並び葬られた謂われも杳として知りえない ふたりのともがら、ただ永遠(とわ)に 朽ちることなく並び立っていた。 まるでこの峠を越えるぼくらに示された 永遠の標(しるべ)でもあるかのように。 その夜ぼくらは旅籠の小屋裏で 言葉少なに過ごしたあと初めての 顫えるような交わりをもった。彼の 軟い頬と唇は、涙で少し塩からかった。 ‥この詩、たしかヘッセの詩で、前に読んだことがあったと思うんですけど、いまインゼル文庫のヘッセ全詩集(と言っても全部は入ってませんw)をいくら探しても見あたらないんですね。 それで、しょうがないから、これはウロ覚えが1割、創作が9割です← よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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  • 31Mar
    • 詩文集(3)――血の色ブナ

           血の色ブナ(Die Blutbuche) 血の色ブナの若木が立っているのは ぼくの初恋のせいなのだ そうしてぼくの最初の詩(うた)がうまれたとき ぼくはその樹幹(みき)に彫りつけ、じっと眺めたものだ 春を彩る数多(あまた)の樹々のなかで その樹(き)ほど贅を尽くしたものはない これほどあざやかに夏の夢を抱くものはなく またいきなり枯れ落ちるものもいないのだ 血の色ブナの若木が立っている ぼくの夢という夢の中で: 過ぎ去った5月の風は樹々のもとを離れ ぼくの愛する樹(ひと)のまわりを吹く 「血の色ブナ」(Blutbuche ブルート・ブッヘ)は、日本ではほとんど知られていない樹ですが、セイヨウブナの変種だそうです。1年を通じて葉が赤みを帯びており、葉緑素の緑色と混ざって血の色や紫色に見えるので、こう呼ばれています。「ブルート」は、英語のブラッドと同じで、血のこと。「ブッヘ」はブナです。(↓下に写真) 英語では、「カッパー・ビーチ」。「カッパー」は、銅。“銅色のブナ”というわけです。↓こちらでは「ムラサキブナ」と紹介していますが、まだ日本語の定訳は無いようです。「血ブナ」あるいは「血の色ブナ」のほうが、正確な訳になると思いますw 外国の樹木についての質問とお答え いちおう英語名はあるものの、ドイツにしかない樹木のようで、ウィキペディアも独語版にしか載っていません。説明の一部を訳してみました↓「ブルート・ブッヘ(血ブナ)は、葉が赤っぽいので、そう名づけられている。ロート・ブッヘ(赤ブナ)が突然変異した変種である。この2変種もセイヨウブナ(Fagus sylvatica)であり、ブナ科ブナ属に属する。     〔…〕 葉の赤い色は、酵素の欠乏に起因する。」通常のブナでも、若葉の表皮にはアントシアン類(赤色の色素)が含まれているのだが、酵素によって分解され、成葉には含まれない。その結果、成葉の表皮は透明であり、葉の内部にある葉緑体が透けて見えるので、葉は緑色なのである。ところが、ブルート・ブッヘの葉は、成熟してもアントシアン分解酵素が生じないため、成葉の表皮にアントシアンが残る。そのため、「葉の表皮が不透明になり、内部の緑色は外から見えず、葉は赤く見えることになる。 ブルート・ブッヘは、成長の過程で赤い色を失って行き、しだいに緑色になり、ちょっと見ただけでは普通のブナと区別できなくなる。秋にならないと葉の赤い色がわからないようになる。 ふつう、ブルート・ブッヘの日なたの葉は、日陰の葉よりもアントシアンを多く含むので、〔日なたの葉は赤みが強く――ギトン注〕日陰の葉は緑色が濃い。 ブルート・ブッヘの樹高は 30mに達し、寿命は 200年以上に及ぶ。」Wiki独語版:Blutbuche この説明を見てなるほどと思ったのですが、日本でも、たとえば、春先に紅葉するカエデってありますよね。イロハカエデやハウチワカエデの一部の個体で、アントシアンの多い体質の木なのでしょう。山の中で、ときたま見かけます。 じつは、日本のブナにも、そういうのがあります。日本海側の山に多いようです。春先の若葉だけ、赤い色をしているのです。 ↑上の写真は、新潟県の菅名岳で撮したもの。 しかし、日本のブナ(の一部の個体)の葉が、赤いのは若葉の間だけです。まもなく緑色のふつうの葉になります。また、日本のブナの紅葉は赤みのない黄色ですから、秋になると、ふつうのブナと同じように黄色くなります。 ドイツの「ブルート・ブッヘ」は、アントシアンがとりわけ多くて、しかも成葉になっても分解する酵素がない変種―――ということのようです。それで、一年中赤い。それでも、樹木が成長するにつれて、葉の赤い色は、しだいに薄れてゆくようです。ヘッセの上の詩で「若木」と言っているのは、そういうことなのですね。 ドイツの「ブルート・ブッヘ」(バート・ナウハイム)↓ ところで、ギトンは、ずいぶん前から、山で見かけるブナの赤い若葉が気になっていて、ネットに写真を出したりしているのですが、みんなあまり関心がなさそうなんですねw 登山者のサイトに出しても、「さあ、見たことあるような気がするけど」ぐらいにしか言われませんです← こういう血で染まったような葉っぱが好きで好きでたまらないと思うのは、やっぱり異常なんかなあ‥ と思ってたら、ヘッセが↑こういう詩を書いてたのを知って、安心しましたw これって、ゲイ・テイストなんでしょうかねえ。。。。?     終ることなき愛に        Ⅰ ぼくの肩におまえの重い頭を乗せ じっと黙っていたまえ そうして心ゆくまで味わうがよい 流れる涙のひとつぶひとつぶの 傷ましいほどに甘い嘆きを いつの日かおまえはこの涙が恋しくなって 死ぬほどにも渇き胸を締めつけられるだろうが それはもうけっして還って来ないのだから。          Ⅱ ぼくの髪に指を這わせよ この重い頭に。 ぼくの若き日々であったものを おまえは奪い去ったのだ とりもどしようのない彼方へと ぼくの若き日は、歓び湧き出づる泉は去ってしまった 汲めども尽きぬ黄金の輝きとさえ思われたのに。 そして悲しみと憤りだけがいまは残る 夜につづく夜がいつ終わるともなく: 野獣のように激しく、熱に浮かされて 古びた欲情の爛(ただ)れた動線が ぼくの白昼夢を奔流のように駆けぬけてゆく まれにやってくる休息のひとときには あの青春の日々がぼくに忍び寄る 青じろく遠慮がちな客人は近づくやいなや 苦しそうに呻き、ぼくの心に重しを載せるのだ ぼくの髪に指を這わせよ この重き頭に。 ぼくの若き日々であったものを おまえは奪い去ったのだ よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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  • 29Mar
    • 詩文集(2)

           春 あの褐色の小径(こみち)を踏みしめて、彼がふたたびやってくる 南風吹きすさぶ澄明の頂(いただき)をあとにして: 美しい少年の降り立つところ、凍てついた泉がいのちをふきかえす如く 色とりどりの花は開き、鳥の歌はいっせいに起こる 彼はまたもやわたしの心を誘惑し その透きとおったなめらかな底には ああ わたしを招いている広やかな大地と豊かな産物と そして愛らしいはるかな故郷さえ瞬いているのだ これもヘルマン・ヘッセの翻案。春を男の子に喩えているのは、「春」が男性名詞だからですw(くりかえしますが、 決して正確な翻訳ではありません) その春の少年が、“嵐で透きとおった峰々から降りて来る”というのがおもしろいと思いました。北国の「春」は、こんなにも激しいものなのです。それはまず高い山脈の頂きを占領して冠雪を削り取り、とがった氷の岩壁を裸にしてから、着実に麓へ向って進んで来ます。そして、森と草原は絨毯のような草木の花を敷きつめられ、騒がしい鳥の声がどっと起こります。まるで、冬になる前にあった世界の、予定されていた続きであるかのように。 北国の春は5月。日本でも、東北、北海道の5月はそういう季節です。東京で言えば、桜の開花したちょうどいまが、それにあたるのだと思います。     春の少年 5月の花をどっさりと満載して 木々は真白なヴェールで飾られているのに 華やいだ快楽のすべては こんどやってくる風が吹き散らしてしまうだろう おまえの若やいだ日々も、少年よ おまえのはしゃいだ悪ふざけの数々も それがどんなに優美なものだとしても 一瞬にしてしぼみ、暗黒にひきずりこまれてゆく 苦痛と暗黒のなかでこそ 甘い果実は産み出されるのだが 熟した果実にはどんな痛みも また嘆きのひとすじも失われてはいないのだった。   ――――――――――――――     くさはら 去年のかれ草のやわらかな野は まるくうねりつつ谷へと落ちてゆく 上のほうではまだなにもかも氷りついているのに 谷底ではあちこちリンドウが咲き プリムラの黄金(きん)の花穂がまぶしい それはわたしになつかしい歌のように 天使の華奢な腕を伸ばし触れようとする まるで少女が歌うようにひかり、そして愛らしく わたしの痛みは、あの古傷は そのとき忘れられた悪夢の中に沈む きょう一日のあいだ 一年にたった一日のあいだだけ  おお 春のなしとげる奇蹟の なんと不可思議なことか プリムラはサクラソウの仲間。日本の高山にも、ハクサンコザクラなどサクラソウ属は多いですが、みなサクラソウと同じピンクの花、まれに白花があります。きんいろ、ないし黄色いサクラソウは、たいへん珍しい。スイスではふつうなのでしょうか? よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau

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  • 28Mar
    • 詩文集(1)

           青天の霹靂 遠く遠く逝ってしまった少年の日々の 記憶がいきなりわたしを襲うたびに それは太古の英雄伝説の はれやかに謳い上げる常世 その隈なきひかりにまなじりを落とし わたしは欝な思いに沈むのだ 無知と軽率のあまり犯してしまった 重すぎる罪を悔悟する囚人のように。 フランスの誰だったか‥‥、たしかサルトルが言うのには、人間には2種類があって、ある人々にとっては幼き日々こそが甘美な憧れの対象であって、二度と還らない日々はいつも脳裏に輝いている。しかし、別の人々にとっては、自分の幼かった時代に、反吐をもようさずに回顧できるような記憶は何一つ無い。だから、この後の種類の人々は未来へ未来へとより良い日々を求めて突進するほかは無いのだと。そして、サルトル自身は後者で、たとえば友人のメルロ=ポンティなどは典型的に前者なのだと。 世間でも、また出版界に現れる文章の世界でも、自分の幼少時代の思い出を誇らしげに語るのは、いつも前者の人々に限られています。そりゃそうでしょうw “唾棄すべき幼年時代に対する呪詛”など誰も聞きたくはない。後者の人々は口をつぐむほかはないのです。 ちなみに、この区別は、その人の幼少時代が物質的または精神的に恵まれていたかどうか、事実として情愛に育まれて育ったか、虐待を受けながら育ったか、ということとは別です。あくまでもその人自身が大人になってからどう思うかの違いなのです。たとえば、軍医の父のもと裕福な旧家の長男として恵まれた生い立ちを過ごした中原中也は、  「私は希望を唇に噛みつぶして 私はギロギロする目で諦めていた…… 噫、生きていた、私は生きていた!」                       『山羊の歌』「少年時」 と歌っています。中也は、後者に属する人なのでしょう。逆に、生まれ落ちてすぐに私生児として施設に預けられ、愛情のある養父母に迎えられるもそこを跳び出して放浪の挙句、矯正少年院と刑務所で少年時代を送ったジャン・ジュネは、そうした日々を、ひたすらに甘美な情景の中に思い起こしています。かれは前者の人なのです。 じつは、上にあげたのは、ヘルマン・ヘッセの詩をギトンなりに翻案したものです(決して正確な訳ではありません)。ヘッセもまた、裕福な牧師の家庭に生まれ育っていますが、彼の思い出は、どちらかと言えば後者のほうでしょう。 “幼少時代の思い出は美しいもの”だと世間ではふつう言われますし、そういうものだと思っている人も多いでしょう。嫌がられるのを覚悟で、あえてそれに反論する人も世間にはいないわけですが、じっさいには、後者の人も相当数が存在する。両者のじっさいの人口比は、前者が多数派で後者が少数派だとさえ言えないくらいだと思います。 ‥‥と書いてきたのでおわかりのように、ギトンは後者に属します。     ひとりの友に なんということだ、きみにはぼくが理解できるのか。 ぼくときたら、この海のはるかかなたにある故郷(ふるさと)のことばで語っているのに。そしてまた ぼくがひそかにぼくの神々に祈っているときに きみは誰にも見えないすがたで傍らに立ち その温かい手をぼくの祈る手にじっと重ねているのだ。 ヴァイオリンに弓を滑らせ柔らかな一弾きを奏でるとき ぼくはきみの指が触れてくるのをしばしば感じている また病気で伏しでもしようものなら ぼくはこの苦しみをきみが感じはしまいかと いつも気が気ではないのだ。 よかったらギトンのブログへ⇒:ギトンのあ~いえばこーゆー記 こちらは自撮り写真帖⇒:ギトンの Galerie de Tableau.

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  • 01Mar
    • ギトンのホームページ

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  • 09Dec
    • 砕く人

            砕く人            私の魂はひび割れてしまった。                      ――ボードレール『悪の華』鏡をこなごなに壊してしまった世界の旅人よ時空を旅する人よいまあなたの前で無数のするどい破片が砕け散りそれはあらゆるほうを向いているからある破片にはあなたが映るある破片にはわたしが映るそのもっとも微小な破片にはあなたのうしろのすべての世界が映る世界を映す鏡を割ってしまったあなたはなんと良いことをしたのだろう鏡の向うで世界の隅々に延びていたあの淫靡な動脈もあの傲慢な太陽もすべては破砕されたいまあなたの前の無数の破片には大地もそらもインドの大河も映らないそれら微小な破片の向うにはまだ誰も訪ねたことのないあらゆる奇怪な風景が映りあなたを映す鏡にわたしは映らないわたしを映す鏡にあなたは映らない世界を映す鏡の向うにはあなたもわたしも存在しないのだがあなたの前の無数の破片の向うにはあなたもわたしも世界も妖精も住んでいるこうしてあなたは疲れたからちょっと腰かけるとでも言うように世界を所有した。

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  • 07Dec
    • 播く人

      播く人わたしが種を撒く夜は月が出ていることでしょう虫が鳴いてることでしょうわたしが種を播く朝は地にいちめんの霧がただよいあなたは落粒の音だけを聞くわたしは作物の種を撒くまい初めの春に一粒の芽も出なければ花も麦も育つことはないのだからわたしは雑草の種を撒くわたしは極北の草を撒く凍土の底に種を埋め土緩む日まで待ちましょう春が来るたび待ちましょう凍てついた沼から靄が上がるように煮え沸る河から湯気が漂うように樹々は燃え華は飛ぶ地の底から噴き揚げる透明なほむら凍土をうるおす大地の蜜わたしは老いた小楢の肌膚に耳をあて森の厳かな唸りを聴く梢の露が涙のように降りそそぐとき

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  • 16Oct
  • 12Aug

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