薬師寺 東塔〔上〕奈良時代 730年の建立。現存する数少ない・天平年間の建築物。
當麻寺 西塔〔下〕建築様式から、平安時代(9世紀)の建築と見られるが、心柱
頂部から、7世紀後半とみられる舎利容器が発見されたため、
創建はその頃との説もある。当寺の歴史には謎が多い。
【19】 奈良朝の「護国仏教」――
国分寺,東大寺と仏教の儀礼化
「大化」クーデター以後・蘇我氏に代わって天皇国家の国政を支えた藤原氏は、唐からの律令制度の導入に努めたが、奈良時代中期、聖武天皇のころになると、藤原氏の勢力が強まり、支配機構を不安定化させる要素となってきた。皇族のなかには、藤原氏への反発から律令制度を嫌い、仏教にのめり込む者もいた。聖武自身がそのひとりだったが、皇族の長屋王は、「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」〔…これを仏子に寄す、共に来縁を結ばん:この袈裟で、来世での仏縁を結びましょう〕の文字を刺繍した袈裟千領を遣唐使に持って行かせて、唐の仏教界で評判を得ようとしたほどだ。高僧鑑真が渡日〔754年〕を決意したのは、その結果だったといわれる。
その長屋王は、藤原氏の陰謀で反乱の謀議をでっち上げられ刹された〔729年〕。藤原氏は、仏教に熱心な藤原光明子を聖武にパートナーとして押し付け、聖武の仏教活動に枠をはめる監視役とした。それでも聖武は、ある日突然、都の獄舎にいる囚人全員を釈放してしまうなど、無軌道ぶりをやめなかった。ついに、藤原氏のなかの若い不満分子が赴任先の九州から批判的な上奏文を送ってくると、聖武は反乱と決めつけて直ちに軍勢を差し向け「鎮圧」した〔740年:藤原広嗣の乱〕。その一方では「疫病と天災が続」き、737年には天然痘の大流行によって藤原4兄弟をはじめとする政府高官のほとんどが病タヒする惨事に見舞われている。
「広嗣の乱」の翌年、聖武は、国家鎮護を祈願するため全国に「国分寺」「国分尼寺」の建立を命じた。「建立の詔」には、『金光明最勝王経』と『法華経』を写経し、国ごとに「七重塔」を建てて納めること、両寺の財源として封戸と水田を布施することが盛り込まれた。国分寺は「金光明四天王護国之寺」、国分尼寺は「法華滅罪之寺」と名づけられた。「『金光明最勝王経』は、四天王による護国と、悔過〔懺悔〕による滅罪を説いており」、国家の「けがれを払う」華やかな滅罪儀式は、護国仏教の極致だった。国分寺では、767年以後毎年正月に『金光明最勝王経』による「修正会 しゅうしょうえ(吉祥天悔過会 きっしょうてん・けかえ)」が「五穀豊穣を祈る芸術色豊かな儀礼」として催された。
さらに、「大和の国分寺である東大寺が建立され」、毘盧遮那仏の巨大金銅像(大仏)が造立された。開眼法要〔752年〕では、「海外諸国の音楽が奉納され、この造仏の功徳によって・人々が忠義を尽くし天皇家が安泰であるよう願う歌が歌われた。〔…〕『日本霊異記』が忠臣の話で始まり[不幸の衆生は必ず地獄に堕ち、父母に孝養すれば浄土に往生す]と述べているように、忠義も孝行も仏教と結びついていた。」
大仏造立に関わった人には渡来人が多い。「東大寺の開基である良弁」、東北で金鉱を開発して提供した百済王敬服、寄付とボランティアを集めた行基、いずれも渡来系とされる氏族の出である。しかし、それ以上に重要なのは、新羅系渡来人集団の拠点だった豊前・宇佐に「八幡神」が現れ、大仏造立を支援する託宣を繰り返して「封戸800戸,位田60町を与えられ」たうえ、東大寺の鎮守神として迎えられて境内の「手向山八幡」に祀られたことだ。
「八幡神」は、渡来人集団が伴って来た韓半島の在来神で、民間仏教と習合して伝えられたものと思われます。倭国への仏教公伝以来、古くから民間に伝来していた習合仏教は背景に退いていましたが、奈良朝廷の護国仏教が確立するに及んで、国家との衝突を避けて「神祇」信仰化していったのでしょう。
「八幡神」は「銅山と関係が深」く、また、韓倭交易を担っていた北九州・宗像氏の「宗像 むなかた 三女神」と、しばしば同一神格と見なされます。(pp.168-171.)
東大寺 転害門。757-765年築。東大寺に残る数少ない創建時の建築物。注連縄が
かかっているのは、宇佐から八幡神が勧請された際、この門を通って東大寺に入
ったとの伝承に因み、「手向山八幡宮」例祭の神輿が遷座する旅所であるため。
【20】 平安期の仏教拡散 ――
寺院「大衆」の武力集団化、「口称念仏」の普及
11世紀後半の「院政」時代になると、『天台宗,真言宗,および奈良の諸大寺は、巨大な荘園領主となっていた。これらの有力な大寺では、皇族や有力貴族の子弟が頂点に立ち、その下に学問を主とする学侶 がくりょ、さらにその下に〔…〕儀礼や寺務や所領支配などに携わる堂衆 どうしゅ たちが位置する階級社会となっていた。
学侶と堂衆からなる大衆 だいしゅ は、インドのサンガ〔…〕にならい、平等な衆議によって物事を決定しており、必要な際は武装して攻撃に出向いた。武装した大衆たちは、貢納を怠る荘園などと争うだけでなく、〔…〕強訴で朝廷を動かし、〔…〕対立する寺を襲って塔や僧坊を焼くこともあった。
『平家物語』の古本によれば、延暦寺の「悪僧」たちが 1146年に興福寺の末寺である清水寺を焼打ちした際、彼らの首領は、「罪業もとより所有無し、妄想顛倒より起こる。心性もともと浄ければ、衆生すなわち仏なり。〔罪業などというものは本来存在しない。心の本質は清浄なものであって、人びとはそのまま仏である。〕』という〔…〕天台本覚思想に基く偈 げ を唱えたという。』
石井公成『東アジア仏教史』,2019,岩波新書,pp.180-181. .
「平等な衆議」による諸事の決定は、一種の民主主義が行なわれていたことを示すもので、決定の方法として無記名投票〔1枚の紙を回して、賛否どちらかに線を並書する〕を行なった用紙が現在も残っています。トップ〔おそらく名目的な座主,法主〕が参加しない点も、むしろ「衆議」に実質的な決定権があることを示しています。そして、決議の公正さは、神仏の前での誓約である・という意識によって担保されていました。
集団的な武力行使も、このような 「平等な衆議」決定で行なわれました。平等の資格で決定した以上、実行には全員が参加しなければならないことは暗黙の了解で、のちには「一揆」と呼ばれるようになり、しだいに寺院だけでなく、武士集団や村落農民のあいだでも行われるようになったのです。
インドのサンガ〔原始仏教教団〕が「祖型」としてあるのは事実でしょうけれども、中世以降のインドや中国の寺院等で、このような決定方法が行なわれていたとは聞きません。日本には何らかの「平等主義」の伝統が、もともとあったと考えないわけにいかないのです。しかもそれは、寺院の日常が「厳しい階級社会」であったことと矛盾せずに生きている「何か」であったのです。
『平家物語』に引用されている「心性もともと浄ければ、衆生すなわち仏なり」という偈は、『大乗起信論』によって代表される「本覚」思想であり、東アジア仏教の核心的思想「如来蔵」の発展です。
この「本覚」思想にかんして重要なのは、「最澄門下の努力を集大成し、日本独自の天台教学を」確立した天台宗の僧・安然〔あんねん:841 - 915〕です。「安然は、『大乗起信論』などの影響を受けた〔…〕天台教学」,華厳教学,密教「を統合し、[人々は仏の徳を・隠された形で備えている]とする[本覚思想]を発展させ、[そのままで仏だ]とする思想を強調した。また、[生命を有する者だけが仏になる]とする『涅槃経』や、[悟った仏の目から見れば、山河大地も成道している]と説く中国の[無情成仏]思想〔8世紀後半の中国天台教学〕をさらに」先に進め、「一草一木が実際に発心し修業し仏となる」との「自然豊かな日本ならではの草木成仏説〔草木国土悉皆成仏〕を完成させ、以後の日本文化に大きな影響を与えた。」(pp.176-177,137.)
比叡山 延暦寺 常行堂。「不断念仏」の行場。口称念仏が盛んになると、
天台宗でも、音楽性に富んだ「不断念仏」を創始し、各地の寺院に広めた。
『安然は〔…〕、「天竺や唐では諸宗が盛んになったり衰えたりしてしており、九宗〔くしゅう:南都六宗+天台,真言,禅宗――ギトン註〕が並び行なわれているのは、ただ我が日本のみだ」と断言している。〔…〕新しい仏教が盛んになると古い学派が消えていく中国・韓国と違い、仏教後進国であった日本は、流行遅れになった教理も保持しつづけたため、』そう言うことができたのだ。
石井公成『東アジア仏教史』,2019,岩波新書,p.177. .
平安時代には、浄土信仰も大きく進展した。「奈良末から、三論宗や法相宗の僧のあいだで浄土経典の研究が進」み、仏菩薩を心像として観る「観想念仏」ではなく、「ナムアミダブツ」と唱える「称名念仏」が盛んになった。「比叡山の常行堂↑での音楽性に富んだ[不断念仏]」も各地の寺院に広がっていった。
「天台座主の良源〔912 - 985年〕は、皇族や有力貴族たちと交わり、造寺造像に励んでいた彼らに浄土信仰を指導していたが」、その一方で「凡夫でも臨終時に念仏を十念すれば下品下生の往生ができると強調」した。
良源の弟子源信〔恵心僧都:942 - 1017年〕になると、往生に関して・より無差別に向う。源信は「貴族たちとの交わりを避け」比叡山・横川に隠棲して研学に専念した。彼は、「自らを[悪世の凡夫]と位置づけ〔…〕、念仏結社の[二十五三昧会]を組織して浄土信仰に打ち込んだ。(pp.177-178.)
『10世紀半ば頃から末法意識が高まり、口称念仏が盛んになってくると、その実践や流布に努める者が出てきた。市聖 いちのひじり と称された空也〔903 - 972年〕は、阿弥陀仏の名号を唱えながら各地を回って橋や道路を造り、勧進を募って造像に励んでいた』。『法会 ほうえ では、集まった者たちに念仏を唱えさせていた。
天台宗の良忍〔1072 - 1132年〕は、『華厳経』の「一即一切」の思想に基き、一人の念仏が一切の人の念仏に通ずるとして人びとに念仏を勧め、「融通念仏」と呼ばれた。良忍は、声明〔しょうみょう:ふしを付けて謡う読経――ギトン註〕にも力を入れて〔…〕いる。』
石井公成『東アジア仏教史』,2019,岩波新書,p.178. .
比叡山 横川 恵心堂。恵心僧都(源信)の庵として知られる。現在の建物は、
比叡山坂本・生源寺の旧・大師堂を移築したもの。源信の恵心堂があった
位置も、やや北の旧「延暦寺秘宝館」の場所だという。
しかし、源信が研学に励んだ地の雰囲気は知ることができる。
【21】 『万葉』から『古今集』『今昔物語』まで
―― 日本文学の感性を開拓した仏教思考
奈良~平安時代には、仏教は和歌,説話などの文学にも大きな影響を及ぼした。その痕跡は、『万葉集』でもすでに顕著だ。純日本的歌人のように言われる「柿本人麻呂すら、[川の流れに数を書くような〔はかない〕命であるからこそ 必ずあなたに会いたいと誓ったのだが]と詠って」いる。
『水のうへに 数かくごとき わがいのち いもにあはむと うけひつるかも』
『万葉集』11巻2433. .
「川の流れに数を書く」というのは、『涅槃経』にある比喩です。仏教の「無常」の教理が、「恋心」を見いだし表現する「方法」を与えているのです。それを仏教の側から言えば、「四季に富む日本では」、シャカの教えである万物の「無常」も、「季節の移り変わりと重ね合わせ」て「情緒的にとらえられ」た。つまり、「無常」から脱しようとするシャカ本来の志向は弱められ、むしろ「無常」に没入し沈潜する傾向が現れる。そして、恋愛感情にもまたそのような志向〔「自然」への没入・依存?〕と把え方が定着した、と言えるのです。
『万葉集』でも奈良時代の後期作品になると、「自らの苦しみを恋心ゆえとし、自業自得を痛感して嘆く歌が目立つ。」しかし、それらの歌は、「[自業自得]の[自]の語を[こころから][わがこころから]」という和語にして入れているので、現代人が読むと、それが仏教観念を指していることに気づかない。が、当時の人びとはこれらの語から、ただちに「自業自得」「因果応報」を思い浮かべたのです。ここには、「我への執着を否定する仏教を手がかりとして、逆に自らの心を顧 かえり みて自我の自覚を深めて」ゆく日本文学史の方向が見えています。(pp.182-183.)
『平安時代の文学は、安然の師であった僧正遍昭〔そうじょうへんじょう:816 - 890〕をはじめ僧侶の活躍が目立ち、〔…〕貴族の作品にも仏教の強い影響がみられる。〔…〕『古今和歌集』』に『収録された和歌は、その配列も含め、季節や恋愛を無情なものととらえる仏教色の強いものであり、日本人の季節感や情緒を形づくった。〔…〕
10世紀後半からは〔…〕摂関家〔…〕が〔…〕政治も仏教も主導する時代となった。彼らが主催する法会は、〔…〕音楽や凝った造り物で荘厳するなど、粋を尽くしたものだった。盛大な法会の合間には、僧侶や貴族が『法華経』の内容を漢詩や和歌にして吟じたりしていた。〔…〕『法華経』は、日本人にとっては〔…〕経典であるにとどまらず、美的な情緒を満足させてくれる素材でもあったのだ。』
石井公成『東アジア仏教史』,2019,岩波新書,pp.183,179. .
「平安時代には、仏教説話集も日本風になっていった。」12世紀初めころに成立した『今昔物語集』第3巻30話では、シャカの息子ラゴラが、シャカの臨終に立ち会う涙あふれる様子を描いている。ラゴラは、父の臨終を見るに忍びず、他国に逃れていたが、「釈尊が待っていると諭され、泣きながら帰ったところ、釈尊は〔…〕涙におぼれるラゴラの手を取って、[このラゴラは私の子である]〔…〕[十方の仏よ、この子を愛憫したまえ]と願って涅槃に入」ったという。
仏教では本来、「家族への愛情は執着として否定されていた。」まして、『今昔』の説話ではラゴラは出家の身なのである。ところが「平安時代の日本では、こうした親子の情に篤い釈尊像が歓迎されたのだ。」(p.183.)
『今昔物語絵巻』より。千枝惟久・筆(奥付による。「文永年間[1264-75]之人也」)
国立国会図書館・次世代デジタルライブラリー。
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