「上の展望台」から公園の中を通って「鳥見神社」へ向かう。紅葉はまだ序の口だ。
「鳥見神社」↓。「神武東征」の完成を告げる儀式が行われたという・記紀神話では重要な聖地なのに、ネットには、書物でもおそらく、まともに扱っているものがない。おそらく、このサイトが唯一。正確な名前も、「鳥見山神社」なのか、「鳥見神社」なのか。鳥居の額には「鳥見社」とあった。
神前の池にはスイレンが咲いていた。
公園を散策しながら下りに向う。カヤ類の繁茂も、関東から来ると貴重な風景と映る。ここでは、鹿の食害が無いのだろう。
「下の展望台」の下を通る。ベンチにクリの実が落ちていた。
登りに通った道路の分岐点を、今度は「長谷寺」方面へ向かう。杉、檜の植林と、放棄された農地のあいだをたどる「東海自然歩道」。
ここで舗装の車道から岐れて、杉、檜植林の中の山みちになる。車道が歩きやすいので分岐点を見逃して行き過ぎてしまったが、戻って「東海自然歩道」を忠実にたどる。
植林に、クヌギ,アベマキ,クリ,コナラ,アカマツなどが侵入し、ヤマグワ,ヤブニッケイなどの中層樹も繁っている。「東海自然歩道」とは思えないほど荒れているが、これでも「東海自然歩道」だ。
ところどころ石畳があるので↓、ただのヤブよりは歩きやすい。石畳は、古道のものかもしれない。
クヌギ↓
ヤブニッケイ↓
ヤマグワ↓
木の間から覗くと、いちめんの森林だ。
間伐地を通る。
「高束 たかつか 城跡」という説明板がある。
文字の塗料が薄れていて、写真を貼っても読めないので、記載のまま再現しておこう:
高 束 たかつか 城 跡
古文書によると、昌泰元年(898年)に長谷寺に関係した藤原家賢の居所として構築されたのが、はじまりである。その後、室町時代末期の戦国動乱のとき松永久秀の攻撃を受け永禄7年(1564年)6月1日遂に城は炎上焼失し、城主藤原順賢も討死し、落城したと伝えられる。城の縄張りの痕跡と考えられる山頂は平らに削られており、礎石と思われる石と乗馬石と呼ばれる岩石が残る。
↓正面は、城跡の山頂へ続く路、右は「東海自然歩道」。右へ行く。
集落に差しかかって、眼の前が急に開けた。かなり大きい集落だ。
眼下に「初瀬ダム」が見える。
集落のはずれ、急斜面の途中に神社がある。
「高龗神社」。「たかおかみ」と読むのだろうか?「龗 れい,おかみ」は、水や雨を司る龍神、また、「龗龗 れいれい」は落雷の音を表わすらしい。脇にある石(↑黄矢印)には「口倉神社」と彫ってある。どうやら「口倉 くちのくら」は、この集落の地名らしい。
Wikiによると、「オカミの神」は、『古事記』では「淤加美神」、『日本書紀』では「龗神」と書かれ、イザナギがカグツチ(火の神)を斬り刹したさいに生まれた神だという。龍神ないし水神として、祈雨祭祀の対象とされるようだ。「闇龗神 くらおかみのかみ」と「高龗神 たかおかみのかみ」がある。近畿各地の神社に祀られていて、たとえば京都の貴船神社は「高龗神」を祭神としている。水神として、漁業や航海安全の神ともされているのだろう。
さきほど「鳥見神社」で参照した『かむながらのみち』を見ると、「谷底に棲む龍神が闇龗神、山峰に棲む龍神が高龗神とされ、対の関係であ」り、ともに「止雨祈雨の水神として信仰されてき」たと、たいへん解りやすく説明されている。
ダム湖の岸に下り立つ↓。
上から見下ろしたのと違って、ダムの堰堤まではかなり距離がある。距離感の錯覚があるのだろう。
堰堤に近づいた。
堰堤の上から振り返る。「まほろば湖」という名前がついている。
堰堤を渡って、長谷寺 はせでら へ下りてゆく。
↑長谷寺「仁王門」前。まだ閉門時間前だが、焦って見て回ってもしかたがない。拝観は、またの機会としよう。
駅へ向かう途中、見晴らせる場所があった。左は天神山。中腹に「与喜天満神社」がある。右奥の山は、「高束城址」のある峰だろう。高原上の路を来たから分からなかったが、あんな高いところだったのかと驚く。
タイムレコード 20251009 [無印は気圧高度]
(1)から - 1146「上の展望台」[633mGPS]1200 - 1210鳥見神社[600mGPS] - 1228「下の展望台」[584mGPS] - 1235車道出会い*[552m] - 1237分岐※[541m] - 1316小集落の分岐[489mGPS] - 1354「高束城跡」[487mGPS] - 1440高龗神社[302mGPS]1510 - 1540初瀬ダム[232mGPS] - 1612長谷寺仁王門前[167mGPS]1626 - 1648「長谷寺」駅[180mGPS]。
踏査記録⇒:YAMAP