腰を傷めてしまった。そのうえ熱中症にやられたら遭難もしかねないと思って、山へ行くのは控えていた。身体を動かさないでいると、ますます悪くなる気がする。気温が下がってきたので、ヤマとサトの中間くらいの鎌倉で脚慣らししてみることにした。


 

 

 

 シルエットは行程の標高(左の目盛り)。折れ線は歩行ペース(右の目盛り)。標準の速さを 100% として、区間平均速度で表している。横軸は、歩行距離。

 

 

 

 

 北鎌倉駅で下車。朝の陽差しもまだ夏だ。

 

 

 

 

 ↓円覚寺、三門。禅宗のお寺では、山門を三門と言うらしい。こちらにアップした写真の写りが悪かったので、撮り直しに寄った。

 

 

 

 

 三門を撮っただけで退出するのは拝観料がもったえないが、先を急いでいる。きれいに撮れたから良しとしよう
 

 ↓こちらの道に入って行く。目当ては明月院だ。

 

 

 

 

 

 ↓明月院の入口。奥へ参道が延び、総門、山門がある。いずれも質素な小型の屋敷門だ。


 

 

 

 ↓「本堂」。「方丈」の額がかかっているが本堂とのこと。本尊の聖観音木像(非公開)が中にあるのだろう。

 

 

 

 

 「本堂」内部。丸い窓(円囱,悟りの窓)は禅宗建築(唐様 からよう)のパーツで、大宇宙を現わしているらしい。

 

 

 

 

 嵯峨野の祇王寺を思い出す。紅葉の季節に来ても良さそうだ。

 

 

 

 

 「本堂」の裏に回って見ると‥‥。たしかに、丸窓が空いている。

 

 

 

 

 奥は、花菖蒲の池。今は、ヒガンバナがちょっと咲いているだけ。

 

 

 

 

 

 ↓炭焼き窯。石組みのしっかりした造りだ。戦前まで使われていた

 

 

 

 

 「瓶 かめ の井」。「鎌倉十井」のうち、現在も使われている数少ない井戸。地下のシリンダーの途中が、カメの内側のように膨れているそうだ。鎌倉は水質の良い井戸が少なかったため、江戸時代に 10か所の良質の井戸を選んだうちの一つ。

 

 

 

 

 明月院は「あじさい寺」として有名だが、おどろいたことに、この季節に咲いているのがあった。

 

 

 

 

 ↓「開山堂」。1380年頃建てられた「宗猷堂」を転用したもの。現在の建物がどれだけその面影を伝えているかわからないが。

 

 

 

 

 明月院は、平安末の 1160年に山内首藤経俊 やまのうちすどう つねとし が、「平治の乱」で戦死した父・俊通 としみち の供養のために建てた「明月庵」が前身。

 

 「北鎌倉駅」ができるまでは、このあたりから大船まで「山ノ内」と呼ばれ、頼朝の鎌倉開府以前から「山内庄」があった。つまり、明月院の起こりは鎌倉幕府より古く、円覚寺建長寺よりずっと古いことになる。

 

 その後、鎌倉時代 13世紀に北条時頼時宗父子によって、この近くに臨済宗・禅興寺が建立されると(開山は建長寺と同じ宋僧蘭渓道隆)、「明月庵」は明月院に改号してその支院となった。しかし、禅興寺は衰微して、幕末には明月院の一仏殿として残るだけ、明治元年には廃寺とされた。現在、明月院の↑「開山堂」には、当院と禅興寺の歴代住持の位牌を収めている。

 

 明月院の起源にかかわる山内首藤俊通の墓碑も、すぐ隣に↓安置されている。

 

 

 

 

 

 「やぐら」は、岩崖に横穴を掘った人工の洞窟で、鎌倉にはたいへん多く、墓所や仏堂として使われた。明月院には、鎌倉でも最大級の「やぐら」がある↓

 

 

 

 

 

 正面が「多宝如来」と「釈迦如来」。左の基壇上が「十六羅漢」↓。いずれも基盤の岩石を彫り抜いたレリーフだというから、すごい。京都から俊通の墓碑が将来されるまでは、この「やぐら」を墓所としていたそうだ。

 

 


 

 ハクモクレン


 

 


 

 門前に戻ってきた。明月院は意外な穴場だった。「円覚寺」「建長寺」のような大きな寺では、こんなにほっとした気持ちになることは無い。修学旅行生も来ていたが、その喧騒がじゃまにならない。寺のふんいきの包容力が巨きいのだ。

 

 入口の向かいの藁葺き屋と柿の木↓にも、なんとなく風情を感じてしまう。


 

 


 

 

 

タイムレコード 20250925 [無印は気圧高度]
 「北鎌倉」駅[27mGPS]902 - 円覚寺914 - 934明月院 本堂[43m 37mGPS] - 1008明月院 休憩所[41m]1013 - 1019明月院 入口前[38m]1026 - (2)へつづく。