ポジティブ思考よっち社長 -11ページ目

ポジティブ思考よっち社長

地域笑顔創造企業を目指す50代社長です。ポジティブ思考が生きがいです。

飯場の子

1章 飯場の子と生まれて 

エピソード1



「土建屋とは」

 

 

土建屋とは、いわゆる「土木・建築」に関連する事業を請け負う会社の俗称だ。

分かりやすく言えば、鳶や大工、鉄筋屋、左官屋などの職人衆がそれに当たり、トンネル、ダム、道路、また建築物などを造ることを生業にしている。

 

今は「材工請負」で、材料・工事を両方とも受けるように変わっていったが、当時の土建屋は、どちらかというと材工請負ではなく、手間請けをやることが多く、「役所や企業から仕事を請けた大きい会社の下請」要は職人衆を集めるというのが地元の土建屋の役割だった。土建屋の他の呼び方で「請負師や名義人」とも呼ばれたと聞いている。

 

僕の父親が土建屋を始めたのは1960年代の高度経済成長真っ只中。エネルギー革命や炭鉱閉鎖などで石炭がなくなっていき、建設会社の許可業者数が急増していた時期だ。1990年ぐらいまでの間は許可業者数がどんどん増え、全国で50万社ぐらいあったと思う。

 

この経済成長が意味するところは要するに、右肩上がりで成長していった建設業界は、「雇用の受け皿」でもあったということだ。炭鉱の現場からも労働者が移り、建設業就労人口のピークは1997年で685万人。全人口の5.7%以上、全産業人口の十数%にもなる、国の基幹産業だった。

 

土建屋は多くの職人さんを抱え、地元の労働者や労働力をいわば「確保」している場所というようなところだった。

言っちゃなんだが、作業員には荒くれ者が多かった。いわゆる危険な力仕事だから当然腕っぷしや度胸がなければできない、となれば必然的に頭を使う仕事よりもスコップやつるはしで日々地面と戦う重労働を得意とするタフガイの集団なのだ。

 

当時、土建業の社会的な地位は低かったと思う。なぜなら働く人々が、それこそ事件を起こしかねない者も多くいたし、犯罪経験者も少なくない、その様な者たちが飯場という宿舎で共同生活をしているもんだから近所の住民が「白い目」で見るのも当然である。

土木業の屋号は○○組(うちは甲斐組)や○○土建であったり(今でも変わらないが)どちらかというと建築業を主体としているのは○○工務店(大工業)や○○建設という屋号であった。専門職である鳶工なども○○組が多かった気がする。

 

特に土木作業員は「土方」との呼称もありそれは職業差別的用語にもなっている。しかし戦後の荒廃されてしまった国土を再整備してより良い住環境を取り戻すことも国民の求めるところで、時の政府も国土建設には並々ならぬ努力をしていたのだろう。そのような時代には建設労働者の確保と育成は大きな役目を果たしていたのだ。よく昔食べていく事に困ったら「日雇いの土方をしてでも食っていける」みたいな言葉も僕が子どものころ記憶にあるフレーズだ。しかしそこで働く荒くれどもはやはり個性も強く、一か所で長く働く者も少なく転々と住み込みで素性も問われずに働ける土建屋を渡り歩くもの多かった。そして犯罪系のニュースが報道されると「犯人は一見土木作業員風の男」みたいなニュースが多かったのは事実だ。それゆえに社会的立場は低くても仕方ないとも思う。ニュースでの呼称は変化したが今でも似通った報道がされると胸が痛むものだ。

 

しかし土建屋の社会的役割は決して低くはなかった、建設業でない人々から見れば東京タワーも首都高も青函トンネルも東京ドームも大手ゼネコンが建設したと認識しているはず、それは間違ってはいないが現場の最先端で仕事をしているのは職人集団である土建屋の労働者たちであった。彼らの決死の努力がなければすべての建造物は完成していない。そして危険な現場で命を落とすものも数多くいたのである・・・

昨今の異常気象による災害時も最先端で危険に顧みず復旧作業に向かうのは土建屋の労働者なのだ。

 

そんな国土再整備の時代、全国で土建屋が増えていき各地域で必ずは飯場なるものがあったはずなのだ。昭和生まれの読者の皆さんなら一度は目にしたこともあると思う。

 

僕は現在、父親から預かりし甲斐組の社長をさせてもらっている。人様には「地元密着の建設会社でございます」と紹介しているが、いまだに鉛筆よりスコップが得意なタフガイの集団であることは間違いなく、それを誇りに思っている。

そしてなによりも僕は土建屋という呼称のほうが断然好きなのである。

水無月の墓参

梅雨入りの昼に月例の墓参
父の誕生日の翌日でありました。母の墓前に『オヤジも83歳になったよ』と心の中で唱えたら、何か母からのイメージが来るかと思いきや、しとしと雨と耳にボウボウ風の音しか聞こえてこなかった。母も返答に困ったのだろうと思う。
苦笑いして、感謝して墓参を終えたのだった。



北海道紀行

北の大地ではココロ暖まる先輩方との新たなご縁を結ばせていただきました。
ススキノ、積丹、小樽、ニセコ💛
感謝、感謝、大感謝。

























はじめに
この物語を母、克子に贈りたい・・・
 
「僕の父親は建設会社の創業者で僕はその二代目であります」
この説明だけで僕の人間像を想像すれば、さぞかしボンボンなのだろうなぁ、と思われる方がほとんどだと思う。確かにその見方は間違ってはいない。しかしながらその内容は少しだけ複雑なのである。
 
『ドドドドッ。オイ!早くしろ!バカヤロウ何やってんだ!』
 
僕の小さな頃の記憶をたどる時、それはいつもダンプの音と父親の怒号とともに始まる…
 
僕の父が建設会社甲斐組を創業したのは1967年(s42)の川崎市でありました。まさに高度経済成長時代であり、建設産業は右肩上がりの時代であった。そして縁があり1969年(s44)同じ神奈川県の平塚市に拠点を移すことになる。その2年後に僕は今村善美・克子の第三子長男として生まれた。おふくろは、会社の事務を担当し、赤子の僕と4つ年の離れた長女、年子の次女を育てながら、立ち上げたばかりの会社を必死に切り盛りしていた。だから物心ついた頃の僕の記憶には、自宅で家族と過ごした時間よりも、「飯場」での生活のほうが色濃く残っている。
 
「飯場」という言葉を最近はあまり使わないかもしれない。僕が生まれた昭和の時代には、交通の便が悪い山奥の炭鉱や大規模な工事現場に、日本各地から「人夫」や「土方」と呼ばれる労働者が集まっていた。そして彼らが泊まり込みで作業をする場所を「飯場」と呼んでいた。
 
現在も工事現場には、プレハブの事務所が工事期間中だけ設置されているが、現場の近く併設される簡易宿泊施設は安全衛生管理上、ほとんどなくなり宿泊場所が必要な作業員には冷暖房完備のアパートを提供されており、昔と比べて労働環境が格段に良くなっている。
 
甲斐組の飯場は、事務所と併設で自宅の前にあり、約15人ほどの作業員がそこで共同生活をしていた。そこは、文字通り皆で飯を食う場所で、まかないのおばちゃんがいて、毎日現場の若い衆のご飯を作ってくれたのだ。僕が今でも忘れられないのは、ドバシのおばちゃんと呼んでいたまかないさんで、まだ僕は5歳ぐらいだったのだが、おばちゃんの作ってくれる塩のおむすびが大好きで、おばちゃんを見つけると「おむすび作って!」といつもせがんでいた。飯場は、幼い僕にとって遊び場であり、生活の場であり、その後の人生の原点となる学びの場でもあったのだ。
 
当時の甲斐組は建設会社とはいいがたく、まさに土建屋だった。仕事の環境もかなり悪く、いわゆる「汚い」「きつい」「危険」の3Kどころか、まともな社会人の働き場ではなかったと思う。当然ながら土建屋の社会的な地位も低く、見下されることもあった。飯場の裏に団地があるのだが、子どもが駄々をこねて、グズグズと泣いていると、その子の母親が「いつまでも泣いていると甲斐組に入れちゃうよ」と言うと、本当に泣いている子が黙ってしまう。そんな笑い話があるほど。まさに泣く子も黙る甲斐組だったのだ。
 
実際に、そこに集まる労働者は、他の世界では通用しないような荒くれ者も多く、酔っ払って大暴れするなどというトラブルは日常茶飯事。おふくろは、そんな環境で育った僕が、二代目として甲斐組の跡継ぎになることを望んでいなかった。「大きくなったらお前は、大学を卒業して立派な会社で働くんだよ」と、早くに父親を亡くし、貧しい家庭で育ったおふくろは、自分には叶えられなかった夢を息子の僕に託していたように思う。しかし飯場の子は、荒くれどもをまとめ上げる父親の圧倒的な力強さとその気風のよさに憧れ、いつしか父親と同じ道を歩み始めた。
 
甲斐組は今、昔とは比べ物にならないぐらい労働環境が良くなり、優秀な従業員が集う会社へと変貌を遂げた。そして僕は、社会的には、”会社社長”と呼ばれる立場になったが、気品漂う上流階級の人々が集う社交場よりも、額に汗をかき働いた、泥臭い男たちが集まり、大飯を喰らい、豪快に酒を飲む飯場が、いまだに気持ちが落ち着く僕の居場所である。
 
飯場は僕に人生で最も大切なことを教えてくれた。それは家族や仲間を大事にするということだ。それはいいかえれば愛なのだと思う。その愛は信頼という強い絆を作り出し、どんな困難な事にも、皆で立ち向かえる力を与えてくれる。自分を信じる事、家族や仲間を愛せない人は、どんなに優秀でも、会社や組織、地域、国家、世界を愛することはできない。
 
インターネットには、情報が溢れているが、いくら高度な検索を駆使しても、僕は生きる術、人生を学べるとは思わない。同じ釜の飯を食い、仲間と語り合い、本気で喧嘩をする、そんな人間の持つ五感をフルに使った体験なくして、人は成長しないと思っているからだ。そんな偽りの全能感に満ちた時代だからこそ、僕は自分が育った人間味溢れる飯場の物語を無性に書いてみたくなったのだ。「飯場の子」は、決して勉強ができるいわゆる出来のいい子ではなかったが、人間臭い飯場で育ち、多くの失敗を重ねながら成長してきた子なのだ。
 
さぁ皆さん、本日から「飯場の子」が始まります。単なる無名な男の滑稽な自叙伝です。笑ってください、呆れてください、そして何かを感じてください。昭和、平成、令和と時代は流れ、血と汗と涙で地球を掘り起こす男たちが、大声で笑い、泣き叫び、闘いながら、でっかい仕事を成し遂げていきます。お楽しみに。