飯場の子31 「仕事の師である二人の叔父」 | ポジティブ思考よっち社長

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飯場の子31 「仕事の師である二人の叔父」




 甲斐組に入社し、右も左もわからぬまま怒涛の如くの日々を過ごしていた。

年の後半である11月から翌年の4月くらいまでの約半年間は土建屋の繁忙期でもあり、抱える仕事量も一層多くなる。

笑えないが、その当時3月は60日と揶揄された時代であった。

飯場の生活にも慣れてきた頃、地方からの出稼ぎ組が入ってくる。飯場は大所帯となり、常時30名くらいまで膨れ上がるのだった。


飯場の宿舎【イメージ】


ほとんどが北海道、青森、山形の衆であった。特に山形の衆は昔なじみの人が多く、僕の作業着姿を見て「おおーヨッチくん!」と歓喜の声を上げてくれたのだった。




飯場での暮らし【イメージ】


初めて、年度末の忙しさを経験し、昼間は現場で監督補助を黙々と行い、夜は完成検査に向けての書類作成に勤しむ、まさしく3月は60日を体験した。

若さだけで乗り切れたようなものだが、その過酷さにはいささか参るものがあった。

一方、その3月の引き渡し検査を越えれば、土建屋は一旦落ち着くのだ。

この時期を使って、会社の皆で毎年恒例の湯河原の温泉ホテルに慰安旅行なども行っていた。

【湯河原温泉ホテル東横】


仕事も落ち着いている入社半年を過ぎた5月のある日、常務から呼び出しを受けた。「おい、ちょっと付き合え」。

『何だろう。』と思いながら車に乗せられて着いたところ、そこは当時の平塚では親分格で通っていた日比谷建設という会社だった。

いわゆる、そこの社長と専務に甲斐組の二代目として入社した僕に『ご挨拶』をさせに行ったのだ。

叔父から、『日比谷のオヤジさん、昨年入社した、うちの二代目です。どうぞよろしくお願いします。』と、僕を紹介する。

流石に土建屋の親分格だった日比谷のオヤジさんはハクのあるしゃがれ声で『おお、マンちゃん(父の呼び名)の倅かよ、いい男だな。頑張ってくれよ。』と、声をかけてくれたのだ。

しばらくの談笑のあと、叔父から「タカちゃん(その会社の専務の呼び名)、うちの二代目をナデシコにどうかなって思ってるんだよ。」と、いきなり訳の分からない単語が出てくる。僕は黙って聞いてるしかなかった。

今でもそうだが、どこの地域にも建設業協会が存在しており、平塚の建設協会には「なでしこ会」という建設業二世会(次期後継者の会)があった。

当然ながら会は、ほぼ社長の実子や身内衆で構成されている。

僕の叔父も同会のメンバーであったが、二代目である僕の入社とともに、交代させようと、父と相談していたようだった。

入会には推薦者が必要になる、そこで日比谷建設の専務に推薦して頂きたい、というお願いの意味も含まれていたようなのだ。

叔父の後押しもあり、無事に推薦人になってもらい、僕が初めて「なでしこ会」の昼例会に参加したのは、平成3年の7月くらい、20歳になったばかりだったと思う。

しかしながらその会もまた個性的なメンバーであった。当然、僕よりも一回り以上は年長者の大先輩方であり、見た目は短髪やらパンチパーマのイカついお兄さんたちが20人ほどずらっと並んでいる光景だった。

そこで常務(叔父もパンチパーマ)が笑顔で唐突にこんな挨拶を始める。

「えー、私は今日をもって、お世話になったなでしこ会を卒業させていただき、二代目のほうに席を譲ります。長い間お世話になりました」と。

その挨拶に「センちゃんよ~(叔父の呼び名)寂しいじゃんかよ。」と突っ込まれた叔父はこう続ける。
「これからは、この二代目がしっかり皆さんとよいお付き合いしますんで、よろしく頼みますよ」と。

「うーん、この年齢差の中でうまくやれるのか。」と困惑している僕に構う事なく、簡単なメンバー交代のようなことが行われ、僕は「なでしこ会」に入会することになった。

『なでしこ会』は平塚建設業協会の下部組織であるので、やる事は後継者の親睦や様々なイベントでの実働部隊である。一番大きなイベントは平塚市防災訓練での演習であった。

これは中々大きなイベントで総勢30名くらいの工作隊を編成して倒壊家屋から人命救助をするなど、本格的な演習だった。

初の会社以外の団体活動。

慣れない当初、ヤンチャ時代やラグビー部で培った上下関係の経験が発揮され、年がやたら若いとの後押しがあり、それなりに先輩方から目をかけてもらっていた。

しかし、現実社会の厳しさも経験する事になる。

それは大人の「嫌がらせ」だったのだ。

当時、甲斐組はまだまだ新参の土建屋であり、暴れ者の親父が率いる「イケイケの甲斐組」が疎ましかった会社もあったのだ。当然ながら「敵視」されているのである。

少数ではあったが、そんな人たちからの『嫌がらせ』とは、元気よく挨拶をしてもこれ見よがしに『無視』をされたり、わざと僕に聞こえるように『会社の悪口』を聞かされるのであった。

正直いって悔しかったし、若さもあったので、そうゆう先輩には、僕も反抗的な態度を出してしまっていたと思う。

が、中には「甲斐組の親父がああだからオマエには敵も多いと思うが、オマエは親父さんと同じようにしたらダメだ。ヨッチのキャラを活かして自分の味方をつくっていけ。」と、真剣に助言をくれる先輩もいたのは本当に嬉しかった。

こうした人たちのおかげで、僕は会社では経験できない、同業者との付き合いや社会での所作を学び、大人の世界を学ばせてもらったのだ。

一方、本業の仕事に関しては、甲斐組は怒涛の最中だった。


若さがゆえ朝はいつも眠いが、気合いを入れて6時に起床。
出社の支度をしたあと食堂に向かい朝食。卵、のり、おしんこに白米と味噌汁といった簡素なメニューをかっこんで、事務所へ向かう。

当時の事務所は平屋のプレハブで年季も入っており、本社屋とはとても言えない代物だった。しかし、神棚のそれはいつも綺麗にしており立派であった。

朝の一番乗りはいつも専務なのである。叔父は神棚の榊の水を変えたり、手入れを必ずしていた。そして柏手を打ち一日の安全を祈願する。

僕が入社してからしばらく経ち、この神棚の手入れを叔父から引き継いたのだ。叔父の専務は『いいか、これは大事な役目だ、お前は会社の二代目だからな、毎日神棚に安全の祈願をしろ。絶対に粗末にするな。』と念押しされた。ある言った意味で、二人の叔父は僕の師であった。


同期の荻野や先輩のヤッさんと、今日の現場の再確認をして、測量道具などを用意して、置き場へいく。

置き場はすでに専務やフルヤさんが仕切っており、若い衆の声や、ピーピーと鳴り響くトラックのバック音で、まさに鉄火の事く段取りをして、各現場へ向かうのであった。

当時の現場は平塚市内が殆どで3、4か所であった。

僕が初めて監督補助として、ついた現場は、国道129号線の歩道の下に雨水管を入れる現場だった。
大沼ヤッさん先輩から写真の取り方、師匠の常務からはトランシット(位置を測量する機械)、レベル(高さを測量する機械)の使い方を教わる。
測量表が書いてある野帳を与えられ、自分で関数電卓を使った。

そう、予備校の勉強から逃げた僕が、数学に向き合うわけだが、実際仕事に使う目的意識がしっかりしているものには人一倍努力するタイプで、測量学の本とか引っ張り出して勉強。スポンジのように吸収していった。


【夕方の打ち合わせ】

【左が常務(男前なのだ)机にビールが日課であった】



こうして少しずつ現場に慣れていっている最中、ある事件が起きる。

甲斐組は一昨年前くらいから県の橋の工事を受注していた。
橋の名前は「土安橋」。会社の近くの橋の架け替え事業であり、足掛け4年にわたる工事であった。
甲斐組始まって以来の大型工事で技術的に大変難しい仕事だったのだが、チャレンジャーな親父はその仕事を請けたのだ。

現場代理人として一番技術力のある常務の叔父が入る。そこに若手である僕と大沼ヤッさんと荻野が加わり、4人体制で仕事をするのだが、ヤッさんや荻野は、他の現場が忙しいと、そちらに応援に引っ張られる。


【仮設橋の基礎になるH鋼の検測】手前が常務、奥が荻野氏


【著者 土安橋工事 監督補助】


しかし、叔父は僕だけは他の現場に行かせなかった。多分、この現場を経験させおきたいと考えていたと思う。

平成3年の秋だった。そんな折、常務が「体の調子が悪いんだ。」と突如言い出したのだ。

夏ぐらいに一度検査をしたところ異常は見つからなかったのだが、年の暮れにいよいよ我慢できないほど調子が悪いとなり、再度検査することに。

数日後のこと。
僕は突然、実家に呼ばれる。そこにはオヤジ、おふくろや姉までいる。
「なんだこれ、ただごとじゃない」と瞬時に悟った。

叔父は、末期のすい臓がんだった。

働き盛りの46歳。
本人には病名を伝えないまま入院となる。

叔父は、技術の基礎や現場のプライドを体で教えてくれた人。

そんな叔父の病に、僕は「あの現場を守るのはもう自分しかいない」と気を引き締めるのだが、まだ経験も実績もない。

常務とやってきた、半年くらいの時間、こうして常務の代理として僕が現場を担当することになったのだ。

僕は毎日病院に通い、現場の写真を現像したものを持って行き、叔父に報告してはアドバイスを受けた。

叔父はそれが楽しみだったみたいで、ベッドの上でも現場と変わらぬほど、情熱深く僕に色々指南してくれた。
「この工程が終わったらそれをやれ」「この時は気を付けろ」と。


叔父は年明けに手術することになった。
しかし、ガンはすでに思った以上に進行しており、「もう駄目だ」ということでそのまま腹を閉じたという。
手術後に宣告された余命は3か月。

叔父も自分自身もうだめだと悟っていたと思うが、それでも気丈に「早く現場に戻りたい」という。

橋の引き渡し検査は3月上旬に終わるのだが、継続事業であり、また新年度からは引き継ぎの工事が待っている。
なんとか叔父に安心させたく、僕は必死に働き、無事検査で合格を受けた。叔父は心から喜んでくれた。

3月の後半に慰安旅行で湯河原に行く。甲斐組が定宿にしている「湯河原ホテル東横」だ。
叔父はかなり痩せて弱っていたが、笑顔を絶やさず社員の皆と楽しく宴会を過ごしていた。

そして僕に
「ヨシヒロ、お前しかいない、頼むぞ」と。真正面に向き合い言葉を交わした。

大切な思い出を残し、叔父はその直後の平成4年4月9日、息を引き取った。享年46歳。

若すぎる弟との別れ、三兄弟でやってきた父の喪失感は、今でも想像出来ない自分がいる。

叔父と現場で仕事ができたのは、わずか2年だった。

しかし、土木技術者としての心意気や情熱は一生分もらい、それは間違いなく今でも僕の原動力になっている。