ポジティブ思考よっち社長

ポジティブ思考よっち社長

地域笑顔創造企業を目指す50代社長です。ポジティブ思考が生きがいです。

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 母が亡くなって以降、親父は自我を抑制できないほど現場に来ては荒れ狂うようになった。


 父はこれまでも破天荒な人ではあったが、その頃は機嫌が悪いと下請けの職人の襟首を掴んで振り回したりするまでになっていた。


 母が亡くなった翌年には、甲斐組の職人頭だった片腕のフルヤさんも病気で亡くなり、創業専務のノボル叔父さんも高齢を理由に会社を去っていった。


 創業から甲斐組を支えた人々が周りからどんどんいなくなってしまうなか、僕はその度に専務として、荒れる父から社員をかばい、会社の経営をやりくりしなければならなかった。


 振り返れば大変な時期だった。親父自身も、相当に辛かったんじゃないかと思う。


 しばらくは踏ん張ったが、こんな状態を続けられるわけがない。

親父の振る舞いに、社員たちがついていけなくなっていた。「もうこれ以上は無理です」「会社を辞めたい」……社員たちの悲鳴が聞こえてくる。どうしようもなかった。


 僕自身も「もう限界だ、どうにもならない」とオギノに泣きを入れるようになっていた。


 とにかく、親父の「創業者」としての仕事に対する執着心は、凄まじいものがあった。

体力が衰えていく反動か、何かしらにつけて無理をゴリ押ししてくるのだ。


 こうして、自分のためにも、社員のためにも、会社からの「撤退作戦」を本気で考え始めた。


 その考えに、ヒロユキもオギノも異を唱えなかった。

今後、どうやって甲斐組から身を引くかを、こっそりと税理士を交えて話し始める。


 僕たちの作戦は、僕が起業した「日総プランテック」に、やる気のある社員と共に移ろうという計画だった。


 こうして真剣に計画を立てていくわけだが、互いの意見を出し合ううちに、人は冷静になる。

3人と税理士で協議を重ねる中で、こうした最悪の形ではなく、何か他に方法はないのかと考えるようになってきた。


 その際には、「会社を任せてくれ」という社員全員の血判状を作り、親父に突き付けるといった意見も出たほどであった。


 おふくろが亡くなって2年。僕が42歳、親父が74歳の時、いつも親身に相談に乗ってくれていたある社長から、こんな助言を受けた。


「オヤジと2人だけで、しっかり話したほうがいいと思う。絶対に他人を入れないほうがいいぞ」


 その言葉で、僕は覚悟を決めて真正面から話してみようと思うようになった。きっと分かってはくれないし、大喧嘩になるだろう。


 そんな覚悟の上で、正月を過ぎた一番忙しい時期、意を決して親父の家に行った。


「親父、ちょっと話がある」


「おお、なんだ」


「……親父よ、会社、俺に任せてくれないかな。俺に社長をやらせてくれ」


 すると、今までは何だったんだと思うような返事が返ってきた。


「だから、何十年も前からおめえが社長をやれって言ってるじゃねえか! 60の時も65の時も70の時もおめえに『会社譲る』って言ってきたのに、おめえが逃げ回ってただけじゃねえか!」


 意味は違うが、やはり怒鳴られる。しかも、内容は僕の記憶とかなり違っている。


 折に触れて代替わりの話はこれまでも出ていた。60、65、70と、節目が近づくと自分から「代替わりする」と言っておきながら、実際その都度、結局は「沈黙」してきたのは親父の方だったのだ。


 父が65歳を迎えるときは、メインの銀行にまで行って事業承継の説明をした。銀行も「ヨシヒロさんなら十分に会社経営できます、当行も社長同様に支えていきます」とまで太鼓判を押してくれた。


 しかし、いざ代替わりのための手続きをしようとなると、やはり口を利かなくなる。


 そして、「そんな急いでやる必要もねえんだ」となる。

始まった。まだやりたいんだな……と、その度に僕は黙認してきたのだ。


 70歳の時も同じだった。1年前から「もう俺も引退だ。とてもじゃないけど、こんな年でやってられない。なんで俺が働かなきゃいけないんだ」と言い始める。


 が、実際70歳になると、やはり口を閉ざす。「親父、代替わりの件、どうする?」と問うと、

「おめえはなんでそんなに急ぐんだ、今やることじゃないだろ」となる。

いつものことなので、これも黙認。


 そんな経緯があった中、会社の存亡をかけて覚悟をもってサシで話しに行ったのに、

「お前が逃げ回ってたせいだろう」と、すべては僕の責任に転嫁されてしまった。


 だが、この言葉で父に引退の意思があると確信した僕は、「本当にいいのか」と念を押した。

すると「男に二言はない。明日にでも辞めて一切口は出さねえ。ただ、給料は払えよ」と返ってきた。


 親父との話し合いは1月。

その後、甲斐組社長交代のための準備が始まった。


 これを機に、今村家以外から初めての役員として、荻野を常務取締役に迎えた。甲斐組は5月が決算だ。

5月までに登記を変え、銀行の手続きを終え、6月1日に取引先へ一斉通知・発表ができるようにしなければならない。


 社内ではすでに社長交代の噂が広まっており、社員の気運も高まってきていた。あとは6月1日の対外的な発表を待つのみ、というところまで来た。


 その前に、社員の前で直接代替わりを発表しなければならない。

迎えた5月の最終週の月曜日。

当時、甲斐組では毎週月曜日に朝礼をしていた。つまり、その日は親父が社長として行う最後の朝礼になるはずだった。


 朝礼が始まる直前、僕は発破をかけるつもりで、それとなくこう言った。

「親父よ、今日、社長としての最後の朝礼だぞ」


 何の気なしにかけた言葉だった。が、ふと父の顔を見ると、「えーーーーー!?」という、信じられないような顔をしてこちらを見てきた。


 わかってはいても、「今日が最後になる」という認識がなかったらしい。

動揺したのか、朝礼冒頭の訓示で親父はこう言い放った。


「今日はみんなに大事な話をしようと思ったんだ。でも、今日は日が悪いからやめる! 解散!」


 いきなりの朝礼終了。社員たちはポカーンとしていた。

何の日も悪くない。まあ、こうやって終わるのも親父らしいのかもしれないが、やっぱりケジメがつかない。


 その後、社長室で親父と話し合った結果、「ヨシヒロ、箱根の旅館を獲れ。今週中、いつでもいい」と言い放った。


 いつも世話になっている箱根の「春光荘」という旅館に「今週末、予約取れないか」と電話を入れる。春光荘の社長は僕の高校の友人であった。快く受けていただき、そこで仕切り直すことになった。


 5月31日の金曜日だったと記憶している。当日は30人の社員で箱根に行き、大広間の宴会場で全員を集めた。


 親父からの口上が始まった。

「今日、みんなに大事な話がある。分かっているとは思うけど、俺は昭和44年に平塚で……」


「やっとここでうちのせがれも、まあ跡を継げるくらいに成長したので、俺は今日をもって社長を引退する。明日からは2代目が社長になるから、みんなで支えてやってくれ」


 その時、社員全員が「はい、分かりました!」と声を揃えた。

それが、たまらなく格好良かったのを覚えている。


 次に僕が就任の挨拶をし、宴会が始まった。大いに盛り上がった。

宴会の最中、隣に座っていた父が僕に一つの言葉をくれた。


「ヨシヒロ、土建屋の社長になるってことは、自分の若い衆のクソの面倒まで見ることなんだぞ」


 まさに座右の銘のような、土建屋の真髄を表す言葉だった。

僕は黙って父の目を見て頷いた。あの瞬間は、一生忘れない。


 こうして甲斐組は紆余曲折を経て、平成25年6月、今村佳広二代目社長の新体制としてスタートを切ったのだ。

飯場の子 第9章 38話 「荒れ狂う親父」



 身内が亡くなると、悲しみに沈む間もなく始めなければならないのが葬式なのだ。

例に違わず、お袋が亡くなった直後から、僕にもこの経験にぶつかることになった。

「葬式は葬儀社を決める、から始まる」。なんだか昔映画にもあったような。

そうなると、看護師から「決まっているところがありますか」と聞かれる、平塚では名のある葬儀社の名前を伝えると、すぐに連絡をしてくれた。

1時間も待ったろうか、安置室からお袋を自宅に戻す準備が始まるのだ。

身内で手分けをして家にお袋を寝かせるスペースを作ったり、細かい作業が次から次へと出てくる。

お袋を自宅に戻し終えると、早くも弔問者などが自宅に足を運んでくれるのだった。

弔問に来ていただく方に、ご挨拶をしながら、何よりも素早く大量の作業が必要なのが、通夜と告別式の準備だ。

当たり前だが初めての経験。

葬儀の段取りを決めるのも、ほぼ長男の僕の役目になった。自宅にて葬儀社の担当さんと膝を突き合わせながら通夜告別式の日程や規模などを決めていく。

甲斐組の威信もあり、それなりの葬儀にしなければ。

そんな気持ちを強く持ちながら、お寺の住職と葬儀社と大まかな内容を決めて、親父や姉にも納得してもらった。

次に来るのが葬儀のお知らせなのだ、身内、取引先、建設業界など加盟団体に訃報の通知を打たないといけない。

これは会社の事務室で行った。従弟の浩之常務や荻野など身内衆の数名で通知作業を始めるのだが、経験者もいないので手探りだった。

これがまた気を遣う作業で、送り漏れのないように細心の注意を払うのだ。

そうして迎えた通夜の日、社員も総出で手伝っていただいた。

参列者の数は相当な人数で、供花も130本も届き、大きな通夜になったが、葬儀社の皆さまと社員のチカラでなんとか無事に通夜の儀を執り行うことが出来たのだ。

そして、通夜の日は、線香を絶やしてはいけないので斎場に泊まるのだが、僕は心身とも疲弊し、ヘトヘトであった。

にもかかわらず何故か眠れず、真夜中過ぎまで身内と語り合っていた、そしてようやく朝方に仮眠室で眠りについた。

翌朝はシャワーを浴びて気合いをいれ、10時くらいから告別式を行う。近しい身内や取引先、約100人くらいが参列してくれた。

告別式の後は納棺の儀、葬儀は仏式だったが、母はクリスチャンなのである。




導師である萩原住職に「お袋が好きだったマリア様の額やロザリオを入れていいですか」、と尋ねたら、「どうぞ入れてくれと。お母さんの好きだったものは何でも入れてください。信じるものに境界線なんてないんだ」と言ってくれた。

棺を閉じる時、言葉に表せない気持ちが込み上げた、そして火葬場へ向かう。



平塚の火葬場


人間、焼かれれば当然「骨」になる。

僕はこれまでにも、幾度の葬儀で人が骨になった姿を見たことがあったが、自分の母親が骨になった姿を見た時のショックは計り知れない。

僕はお袋の火葬の間、ある本に書いてあった一文を思い出していた。
葬儀で自分の肉親が骨の姿になったのを見た時に、「ああ、自分もいずれこうなるんだ。」と思ったら、不思議と悲しみが消えていった。と

実際、骨になったお袋を見た姉たちは号泣していた。特に次女の姉は泣き崩れ、「お母さん!」と声を出し、熱い骨に向かって手を出してしまった。

そこには冷静な自分がいた、泣き崩れる姉に僕は、「俺たちもよ、いずれこうなるんだよ。」と呟いた。

姉は僕を睨みつけ「お前はよくそんなことが言えるな」と怒気をぶつけてきたが、僕は先に思い出した一文のおかげで、「お袋の身体はなくなったが魂は自分の心のなかに生きていくんだ」と、静かな心を保つことが出来たのだった。

お袋の葬儀は通夜・告別式で約800人が参列してくれ、自分でいうのもなんだが、立派な葬儀になった。

後日、参列者の人たちからは「立派な葬儀だったね」「素敵な式でした」といった声をいただいたのは、嬉しい気持ちになったのを記憶している。

以前にも話した通り、親父が墓のデザインを凝りすぎたおかげで、母が亡くなった直後はまだお墓は完成していない。

納骨までの間、自宅で荼毘に伏したお袋の祭壇に、よく手を合わせに行っていた。

ここで感動の出来事があった、なんと山梨県は今村本家の菩提寺である妙学寺の古屋智妙お上人が、平塚の自宅まで供養に来てくれたのだった。自宅の小さな祭壇の前で、ものすごいお経をあげていただいた。

古屋お上人は「克子さんあっての、善美さんだからね」と言葉を残し、お茶もそこそこに山梨県に帰っていったのだ。本物の法力を持つお上人様、今でも忘れられない大切な恩人である。

お墓の完成は四十九日にも間に合わず、百箇日にようやく納骨の儀がしめやかに執り行われたのだ。

お袋の納骨が終わったあと、親父から相談を受けた、「墓に観音様を立てられないかな」と。

先述通りお袋はクリスチャンで、マリア様を信仰していた。親父は「墓にマリア様を立てるわけにはいかないから、代わりに観音様を建ててくれ」と、観音菩薩様は慈愛の存在なのだ。

親父のせめてものお袋への想いを現したこの出来事に、僕は驚きと感動を覚えた。

お寺にも相談して快諾してくれたので、仲間の石材屋さんに頼んで「穏やかな顔にしてくれと」と言って作ってもらった。

僕はその観音様を「聖マリア観音」と呼んでいる。


今村善美家の墓右端がマリア観音


こうして、母のためにできることはすべてやったと思う。

生きてるうちは、仕事が忙しく姉と嫁に任せてばかりだったが、お袋が亡くなった時は自分がすべてやったという自負がある。

母が亡くなってもう14年くらい経つが、月命日の墓参りも、これまでほぼ欠かしたことがない。


その一方で、

お袋が亡くなってひと息ついた時から、親父に変化があった。

まさに「魂が抜けたような状態」になったのだ。

僕は悲しむ間もなく母のことに奔走していたが、その間、あれだけ現場で騒いでいた親父が、プツっと現場に来なくなった。

あまりの状態に、二人の姉が、「お父さんは、私たちじゃもうだめだから、お前が一緒にいて欲しい」と、頼み込んできた。

こうして、僕と親父は毎日のように一緒に夜メシを共にした。

行きなれた居酒屋や、時には親父が作ってくれた肴を食べながら酒を飲み、毎回のように、お袋との昔話を聞かされたのだ。





その時の親父との話が、この「飯場の子」の僕の生まれる前の事などを知るきっかけになったのだ。

しばらくが経ち、親父の飲み仲間が見かねて夜の街に連れ出すようになった。




すると、あれだけ毎日のようにあった「お誘い」が、がパタリと消えた。
こうなったらもう僕はお払い箱。勝手なもんだ。


そのころから、父が急激に息を吹き返した。いい方向だったらよかったのだが、残念なことに親父はそうじゃなかった。

元気は回復したものの、さらに切れやすくなり、現場でとにかく狂ったようにわめきだしたのだ。



あの荻野ですら、「もう今の社長の姿は見たくない、前は言ってることに筋が通ってたけど、今は何を言っても伝わらない」と泣きをいれた。

僕も、心身ともに限界に近かった。
毎日のように親父とぶつかって、社内の火消し、現場の対応、クレーム処理。

現場では人も足りない。
寝ても覚めても緊張が抜けない。ストレスで胃が焼けそうだった。




親父は、自分の手で築いてきた信用を、会社を、人材を、まるで、自分の手で壊している。

どうにもならない憤り。
毎日、悔しくて、歯を食いしばって、それでも前に進まなきゃならなかった。

まさに40代の入りぐちは、お袋との別れから始まり、さらに荒れ狂う親父との闘い。

あの時が、本当の試練の始まりだったと、振り返っても思うのだ。

飯場の子 第9章 37話「お袋との別れ」


誰にでも訪れるであろう、別離という経験。

 会社とYEG活動に没頭し続けていた平成21年38歳の時に、突如大きな出来事が起きる。

ある日、姉からいきなり連絡があった。
母の胸に「できもの」がある、ということで平塚の共済病院に診てもらうと。

前述してあるが、僕が24歳のころ、平成7年に母は57歳で脳梗塞になり倒れ、後遺症として右半身不随で失語になっていた。

そんな状態になってからも、姉の補助もあり会社でリハビリ代わりに簡単な事務作業などを手伝っていた。時には車椅子だが社員旅行に行かせてあげることもできたのだった。

母は71歳になっていた。もちろん体力も衰え、会社へも来ることは出来なくなり、実家で過ごし、デイサービスにお世話になり、姉や僕の女房などの介護を受けながら孫たちの成長を楽しみにしていた。

そんな大きなハンデを背負いながらも、長い間笑顔を絶やさず、家族を見守っていてくれた。

たまに実家に僕が行くと、介護用のベッドに横になりテレビで野球を観るのが日課で、大好きなジャイアンツを応援していたことをよく覚えている。

姉から再度連絡がきた。
「お母さん、乳ガンだって。近日に説明するから実家に集まって」と。

聞くところによると、共済病院の検査の結果、母は半身を麻痺していたため、痛みなどを訴えることが出来ずに、見つけた時には病巣がかなり大きくなっていたという。皮肉なものだ。

発症したガンは進行性。切除するのも遅い。医者は様々な母の持病のことを考えたら「全摘は難しい」という。「それでもやるか」と問われた僕たち家族は話し合いの末、結局「やめよう」となった。

母自身も「いい。自然に任せる」という意思を示した。




僕はもとより家事も手伝わない昭和男。今では通用しないであろうが、仕事とYEGに没頭していたので、お袋の事は二人の姉と女房に任せきりであった。

二人の姉、また女房も子育てもあり、家事もある忙しい中、これまでの「介護」にさらに「ガン」との闘いが重なっていく。

しかし、持ち前の今村家族の気力なのだろう。このような壁にぶつかっても下を向かずに前進していく。

たまたま10歳上の親戚に医者の先生がいた。すぐに姉はその親戚のお兄さんに連絡して、母の病状を説明した。
その親戚の兄から隣町の茅ヶ崎市に保険は効かないが、超高濃度ビタミンC療法といったあくまで補完的な治療法なのだが、有効性はゼロではない、と調べてくれたのだ。

家族は少しでもお袋の痛みが緩和できればと、その一心でその病院へ相談し、治療をすることを決めた。毎週の通院や、1時間くらいかかる点滴には、月に2回は僕が姉と付き添うこともした。その結果、治療法が合う場合とそうでない事もある。

半年ほど茅ヶ崎のクリニックにお世話になったのだが、ガンの進行を食い止めるには至らず治療を止めたのだった。




みている家族も分かるように体力も衰えていく。ガンの進行は徐々に、お袋の体を蝕んでいった。

状況はかんばしくなく、共済病院に入退院を繰り返していたが、母自身にも大きな負担になると、オヤジと僕は病院にいさせたほうがいいんじゃないかと説得するのだが、二人の姉は「絶対に家で介護し、家で看取る」と言い切る。

しかし、衰弱しきったお袋は、深夜でも食べたものを嘔吐するようになり、一人にすることはとてもできず、24時間体制での看護になった。

二人の姉、義兄や僕も実家に寝泊まりするようになっていく。

僕は甲斐組の専務として、競争入札で戦い、仕事を受注するために必死で営業に飛び回り、全力で会社を切り盛りしている傍らYEGの専務理事として二足の草鞋で奔走していた。

そんな中でも、食事も徐々に細くなり弱っていく自分のお袋の姿が目に入る。
死が刻一刻と迫る母を家で看取ろうとするのは、時間的にも精神的にもかなり辛かった。

こうして様々なことに抗いながらも弱っていく母を前に酷ではあるが、近い将来やってくる「その時」に備える必要があった。

そう、「墓」だった。

父の実家の山梨にはあったが、平塚に今村家の墓はなかったのだ。
姉たちは激怒する「まだお母さんは生きてるのになんで今、墓の話をしないといけないんだ」と。
そうは言ってもと、オヤジと僕は現実的に墓地探しを始めた。

が、今度はオヤジと僕が対立する。オヤジが「山梨の実家のお寺に墓を建てる」と言い出したのだ。
僕はオヤジに歯向かった「オヤジは山梨から出て、この平塚の地で事業を起こしたんだろ、この地で一国一城の主になったわけじゃないか。」と。議論をしているようで、もうほぼケンカだった。

「お前に俺の気持ちが分かるか。」

これに僕は最後まで反対した。「オヤジの気持ちも分からなくはないけど、家族を持ち生きてきたのはこの平塚だろ。武士ならば己の城を立てたところに墓を建てるのが生き様じゃないのか」と。

長い説得の末、父はようやく折れた。
「じゃあ、オマエが日蓮宗の寺を探してこい」
山梨本家の寺が日蓮宗の為、当然今村家は日蓮宗のお寺でなければならない。それはよく理解していた。

数日後、父から「日蓮宗の隆盛寺ってのがあるからよ、そこ行って見て来いよ」と話してきた。そのお寺がある大神という地区は、会社のある平塚市大島とは近い場所なのだ。



【隆盛寺】


隆盛寺に電話をして事情を話し、萩原是正氏という御住職とお逢いした。
萩原上人は山梨県の日蓮宗総本山である久遠寺で10年にわたりお努めをしたという実績もあり、山梨には縁のある方であった。

話は順調に進み、父を連れていざ墓の候補地を下見に行った時である。
萩原住職から、お墓のサイズを勧められると、ここでオヤジの我儘がさく裂した。

萩原住職が勧めたお墓の大きさが納得できない父は「こんな小さい墓に入れるか」と横を向いてしまう。

そもそも、小さい墓に入れないという意味が分からない。お骨になったら大きいも小さいもあるわけがない。

僕と萩原住職も顔を見合わせて困ってしまった。萩原住職から「社長さん、この大きさのお墓は平塚でどこを探してもありませんよ。」と静かに申し伝えた。

その言葉に、ついにオヤジは「冗談じゃねえ。俺が回って探して来てやる」と、墓の購入をついに断ってしまったのだ。僕は相変わらずの父のワガママ放題の態度にご住職に深々と頭を下げて、スゴスゴと引き返したのである。

しかしだ、不思議なものでこれぞ「ご縁」という出来事が起きる。その親父のワガママ大放出から2日後、萩原住職から僕に連絡があった。

「専務さん、実は社長さんが希望していた大きさのお墓、何とかなりそうです。しかし、専務さん、いやはや大変なお父様ですね。」と同情してくれるのだ。

お寺の檀家さんに「沼田家」という由緒正しき家系のお墓があるのだが、そこのおばあ様が墓終いをしようとしているというのだ。
そのお墓が、まさに親父が求めていた寸法であった。父にその旨を伝えたところ、あれだけ怒っていたのにすぐに寺を再訪。「ここならいい。」と相成った。

沼田のおばあ様はその後、亡くなるのだが、持っていた資産を寺に寄付して本堂の隣に客殿を作ったのである。その名も「常盤御殿」。まさに最後まで由緒正しき家系であったと今でも頭が下がる思いである。

こうして墓を探している間にもお袋の具合は悪化していった。とうとう自宅にいられなくなり入院することに。

迎えた「その日」の夜。
みんながお袋のもとに呼ばれたのだが、意識も戻らず昏睡状態が続いていた。22時になる頃、病状が落ち着いたということでみんな一旦帰ることに。
みなが帰る前にお袋の姉である千葉の伯母さんが耳元で歌った聖歌。聞こえていたのだろう、意識のない母は涙を流していた。




誰か一人はいた方がいいとなり、僕がひとり病室に残った。
病室の中には、酸素マスクとバイタルを取る機械の音だけで静まっている。

病床の横に座り、お袋の顔をずっと眺めていた。
子どもの頃からの記憶がよみがえる。泣き虫で、悪ガキで、反抗ばかりして、決して出来のいい倅ではなかった。

それでもこの僕を心から愛してくれていたんだと、そんな時にならなければその愛の大きさを感じることもできなかった。

最後を迎える、もう話すことも出来ないお袋に「ありがとう、ありがとうございました」と涙が枯れるまで、伝え続けた。




いつしか夜は明け、朝8時を過ぎたころ。家族に連絡を取ってくださいと、看護師から伝えられたので、みんなを呼んだ。

9時を過ぎるころには、家族と身内の皆が続々と集まってきた。

しかしその時、オヤジはまさかの行動をとる。僕を連れて「隆盛寺」へ工事中の墓を見に行こうと言い出したのだ。
オヤジは言い出すと聞かない男、僕を無理やり連れだし、仕方なく墓に行った。

寺に行き建設中のお墓を観ていた時にけたたましく携帯が鳴る。姉からだった「このままだと間に合わない。早く戻って来てよ!」

寺から急ぎ戻る車中、オヤジと僕はほとんど話もしなかった。間に合わないことは二人とも分かっていた。

平成22年11月6日11時、ガンとの闘いも1年半、お袋はこの世を去った。
享年72歳の生涯だった。

僕と父は、結局お袋の死に目には会えなかったのだ。
その時思った、多分父は、母が亡くなるその瞬間に立ち会う事を拒んだんだと思う。
長年連れ添った女房の息を引き取る姿を見ることが辛すぎたんだと。

飯場で生まれ育ち、父の起こした甲斐組を継ぐために奮闘している自分がいた。

まだまだ途上ではあるけども、

この時ある決意が僕の肚にすわった。

お袋の亡骸に誓ったのだ、

「かならず、甲斐組を立派な会社にしてみせる。」と。
飯場の子 第9章 36話「商工会議所青年部(YEG)に誘われて」



 
 建設会社の二代目として家業に従事していれば、例外なくお声がかかるのが、地域の青年会議所や商工会議所青年部などの団体からのお誘いである。

前述しているが、僕は社外活動として、平塚建設業協会の青年部会(2世会)である「なでしこ会」に所属して建設業協会の地域貢献活動など携わっていたのだが、20代後半ごろから、やはり「青年会議所に入らないか。」と所々でお誘いの声がかかるようになってきた。
 
しかし、会社の仕事も当然ながら忙しく、なでしこ会の活動との二足の草鞋だけでも大変な状況だったので青年会議所の勧誘を断り続けていた。
 
が、その後の平成18年(2006年)、僕が35歳の時にあることがきっかけで平塚商工会議所青年部(YEG)に入会することになる。



 
YEGの会員には、なでしこ会や甲斐組の旅行を毎度アレンジしてくれていた旅行会社勤務のキクチさんという人がいた。
 
YEGは毎年、「今年は新規会員を何人入れる」という目標を立てて勧誘活動をしているのだが、キクチさんは翌年度が会員拡大の担当になったらしく。今までより気合の入り方が違った、若干宗教染みているともいえるほど熱心なプッシュがあり、その日も同じく僕への口説きが始まったのだ。



 
「本当に悪いけど1年でいいから入会してよ、合わなかったらやめてもいいからさ」と。

新聞配達の営業でもあるまいし、鼻にかかった愛嬌のある話し方でにじり寄ってくるのだ。
 
話を聞くと、平成19年(2007年)、平塚がYEGの関東ブロックの大会の開催地になり、今まで以上にマンパワーが必要になるという。



 
関東ブロックには神奈川、山梨、静岡、千葉、埼玉、栃木、群馬、茨城があり、7年に1度くらいで各県にブロック大会の開催地としての役割が回ってくるのだが、各県にYEGがあるので、各単会(YEGの呼称)に回ってくるのは80年に1回くらいになる。

平塚は、それを来年に控えているというのだ。
 
いつも世話になっているキクチさん。必死の形相に押され、僕はついに観念してそのラブコールに応じ入会した。
 
 
こうして初めて平塚YEGの総会に参加したのが4月。平成18年度オノ会長年度である。




場所は商工会議所の3階だった。当時の会員数は60人くらいだったと記憶している。
 
最初にカルチャーショックを受けたのが、いきなり大ハッスルで始まる「YEG宣言」の朗読。その後にはなんと歌まで合唱するのだ。
 
まがりなりにも、当時の僕は建設業の青年部会である「なでしこ会」の会長を経験した人間。社外団体への順応力は結構な自信があったのだが、この会員の「大ハッスル」にはとんでもないカルチャーショックを受けた。
 
学生時代にはヤンチャをやり、ラグビーもやり、浪人挫折も経験。社会人になってからはもみくちゃにされながらも現場を学び、社長であるオヤジとも闘ってきたが、こんな集団があったとは。驚愕したものだ。
 
YEGは会社の後継者だけではなく、自らが起業した人も多く、後継者の会である「なでしこ会」とは主旨も毛色も違っていた。

何よりYEGで衝撃的だったのが、職種の幅の広さだった。

しかも、YEGは全国組織。業種もバラバラで飲食店から税理士、自動車販売など。商工会議所青年部に入ったらタウンページがいらなくなるくらいの仲間がいたのだ。


卒業式

 
会は45歳で卒業と決まっている。それまであと11年。この歌や熱気とずっと付き合うのか…そう思うと同時に「平塚にこんなにパワーのある若き社長や後継者がいたのか。」と痛感した。
 
 そんな総会を経て、関東ブロック大会の準備は着々と進んでいった。みんな気合いが入っているなか、僕は入会して1年ちょっとしか経っていないのに、関東ブロック平塚大会のメイン事業でもある大懇親会の総合司会に任命されることに。

司会はもとより企画、構成までやった。余興の発案からコンパニオン集めまで全て任された。
 
会場決めでは、できたばかりの新設された馬入公園の体育館(現サンライフアリーナ)でやろうとなったのだが、屋内スポーツ以外で使ったことがないから市役所は当然NG。

何度も企画書を作り直して、マットを引いて、火気も厳禁にしますと、日産車体の街らしくフェアレディZを屋内に飾るなど、しっかり養生するからとして懸命に交渉。なんとか許可を得た。
 
こうした苦労の甲斐あって、本番は見事大成功。
さすがに1500人の規模のパーティーの総司会の経験はその1度しかない。ともに司会を務めてくれた「アオシマさん」や懇親部会のすべてのチカラの結晶であった。あの経験も忘れることのできないエピソードである。



 
こうした経験を経て「1年でやめていいよ」と言われていた僕は、YEGに完全にヌマっていった。
  
入会から3年目、会員が90人くらいに増えた平成20年(2008年)ごろ、「理事をやってみないか。」との声がかかり、僕は理事になった。

やはり関東ブロック大会の大懇親会の業績は大きかったのかもしれない。
 
理事になると会に「参加」する側から「運営する側」になり、毎月ある例会に参加したり、交流会や研修の委員会などを企画する事が続いた。

そんな活動のなかでも、僕が担当になった初の例会で当時一番力を入れたのが2008年の研修会だった。YEGには多くのメンバーがいるが、情報がばらついていたので、みんなの業種をまとめた「YEG版タウンページ」を作った。これが大好評。かなりの絶賛を受けた。
 
YEGでは、会長を含める三役というメンバーが会を運営する最高幹部になる。
三役とは、会長、専務理事、副会長3名(当時)、という5名で構成される。

この専務理事、副会長は当年度会長の一本釣りで決まるのだ。

大体だが、会長になる人物は、必然的に三役(専務理事・副会長)を3期くらい経験すると会長職への道が見えてくる。僕は平成22年、入会から4年後、39歳の時、シマダ会長年度に肩をたたかれ専務理事になった。
 
そして会社の方だが、その翌年である平成23年に42歳で甲斐組の代表取締役に就任するのだ。

平成23年から平成25年まで、3年間、副会長職を経て平成26年に第24代平塚YEGの会長になった。43歳の時であった。

 自分の年度スローガンは「活性」、サブタイトルとして「縁から絆、学びと感謝」を掲げた。




実際、イベントをやることで絆や学びが生まれていくのを実感。成功も失敗もあるなかでさらに強い絆ができていった。
 
YEG漬けの日々を送り、平成27年に「直前会長」、平成28年に監事をやり、45歳の平成29年3月、11年間在籍した平塚YEGを卒業するに相成った。
 
平成22年の専務理事から三役時代の4年間は、会社代表の二足の草鞋で、本当に忙しかった。会社の仕事は昼間。18時からはYEGの活動が日常であった。

YEGの存在意義は「地域貢献活動」だ。毎月何らかの例会(イベント)があった。
例えば地元の七夕まつりでブースを出したり、シラスボールというご当地グルメを開発して調理・販売したり。時には経営コンサルタントを呼んで、研修会を開いたり、親睦でBBQ大会などすることもあった。


 
これらを企画し準備し、さらに三役会や他地域のYEGや青年会議所との交流などもあり、本当にヤバイくらい忙しかった。
 
その中で、会社とYEG活動が出来る環境を支えてくれたのは、会社を共に切り盛りしてきた、オギノや従兄弟のヒロユキを筆頭にした社員の皆と、家族の理解があったからだと今でも思う。



 
僕の会社である甲斐組は現在「地域笑顔創造企業であり続ける」を企業理念としている、その考えの基盤となったのはやはりYEGの経験が大きく影響している。

そしてYEGを通じてつながった経済人の人脈や人間同士の繋がりや経験は全て財産になっている。

やはり、僕にとってYEGとは、自分の人生の「大学」であったと心から思うのだ。
飯場の子 第9章 35話「娘の誕生~結婚式」


前述したが、僕は平成15年5月に入籍をした。
当然姉や身内からは「結婚式や披露宴はどうするんだ?」などを聞かれるのだが、僕自身は結婚式はやらない考えであった。

理由の一つは僕の両親は結婚式も上げていない、父の兄弟はすべて結婚式を挙げていた。

時代がら、ささやかな式であったと思うが、立派な写真が残っていた。

僕は幼き頃にオヤジに「なんで結婚式をやらなかったの?」と聞いたことがある。
かえってきた言葉は「仕事が忙しすぎてそんな事やってる暇がなかった。」との事、まあ両親をしる僕は「ああ、そうなのね。」という印象だった。

そんなオヤジの言葉を受けていたこと、また女房の背景も考えて、あえて結婚式はやらないと決めていた。

しかし「身内のお披露目会くらいはやろう。」と姉の意見もあり、それならばと食事会の段取りをとって身内のみなに簡単な招待状を送ったのであった。

その食事会を数週間後に控えたころ、またまた事件が起きるのだ。
 
妊娠5か月あたりに差し掛かったころのある日の午後、女房が突然お腹が痛いと言い始めたのだ。
「取り合えず、市民病院に行ってくる。」と女房は一人タクシーで病院に向かった。

午後4時も回ったころか、会社で仕事をしている僕のもとに、病院から電話がかかってきた。「奥さまのことでお話があるので今から来てくれないですか。このまま入院になります」という。
これはただ事じゃない――。
自宅にいる娘たち2人を連れて、市民病院へ向かった。
 
到着した時、真顔の担当医師からこう告げられた。
「奥さまは切迫早産の状態です。すぐに手術しないと母子ともに危険な状態です。しかし今の状況では当院では処置ができないのです」と。
 
その時言われたのが、「今ある選択肢は2つ。「このまま母体を優先して子どもを諦める」か、「手を尽くし手術ができるほかの病院を探してみるか」です。ただ、他の病院がどこになるかは分かりません。もしかすると近隣県ではないかもしれない。それでもいいですか」
 
それを聞いた僕は女房の顔をじっと見た、女房は即答した。

「お願いします、病院を探してください」と。
「北海道から沖縄、日本中どこでもいいから探してください。」

その旨を伝えた医師は、「わかりました全力で探します」とその場を離れた。

気が動転しながら病室のベッドで祈るような思いでいると、30分ほどして慌てた様子の看護師がこう告げてきた。「搬送先が決まりました!」
 
女房はベッドのまますぐに運ばれて行く。
追いかける僕は看護師の人に「病院はどこですか」と聞く。慌てながら看護師は「慈恵医科大学病院です」といった。
しかし、病院に詳しくない僕はその病院がどこにあるのか分からない。看護師にどこにあるのか聞いてもその看護師も「私には分かりません」と言う。
 
すでに救急車が到着しており、僕も同乗。そこで初めて慈恵医科大学病院が東京にあることを知る。
 
救急車には主治医の先生も付いて来てくれた。娘2人は救急車に乗せられないと告げられ、そく姉に状況を電話して娘二人を迎えに来てくれるようお願いした。二人の娘は当然ながら動揺していた、中1、小5の多感な時期。2人は声を上げて泣いてしまっていた。
 
「心配するな、お父ちゃんが一緒に行くから大丈夫だ。ユキネエが迎えに来るから、待ってろ。」と言葉を残し、救急車はサイレンを鳴らして市民病院を飛び出していった。


当然、初めての経験だがサイレン全開の救急車で東名高速を走り抜けていく。
 
 主治医の先生は若かったが、非常に優秀で心優しかった。搬送中もずっとケアしてくれ、僕らを落ち着かせてくれた。
 
緊迫したなか、1時間半は経ったろうか、慈恵医科大学病院に到着。
 
到着するや否や、女房はすぐ処置室に運ばれて行き、僕と付いて来てくれた市民病院の主治医先生は待たされる。
 しばらくすると、同病院の主治医「S医師」が6名ほどの医者を引き連れて登場。市民病院の主治医先生がカルテなどを渡して説明しようとしたところ、

「あ、もう大丈夫ですよ、こちらでやりますから。もうお帰りください」
 
何とも言えない医会の「ヒエラルキー」を見せつけられた。
まさに「白い巨塔」だった。
 



ここまで親身になってくれた先生に心底、感謝の気持ちを伝えた後、「先生、わざわざありがとうございます。どうやって帰るんですか?」と声を掛けた。
 
「タクシーで最寄り駅まで行き電車で帰ります。力及ばずで、申し訳ありませんでした。でも受け入れ先が見つかって本当によかった」と。
 
最後まで優しく逞しかった先生。深々とお礼し、握手して別れた。もう名前も忘れてしまったが今でも会いたいと思う若き御仁だった。
  
その後、再度「僕のいる、ここはどこ?」状態になり、頼りの従弟である浩之常務に電話をした、浩之常務はインターネットで場所を調べて、「すぐに迎えに行きます。」と電話を切った。

慈恵医大の係りの方に「この後手術になります。ある程度時間がかかるから、お父さんは待たれてても、今日はもう奥さまとは会えないと思います」と告げられるも、手術は1.5時間ほどで終了。

それでも少しだけ顔を合わせることができた。女房は涙を流して「ごめんね」と力なき声で僕に伝える、僕も頬につたう涙を拭きながら「本当によかった。」と言葉を交わし、女房は病室へと向かった。

浩之が車を飛ばし迎えに来てくれた、彼に状況は一段落したと伝えると「よかった。心配したんだ」と。あの日のことは、本当に従兄弟である浩之の存在がありがたかった。
 
女房は3か月ほど絶対安静が必要でしばらく入院することになった。が経過はよく、
平成15年9月27日、無事に「ひなちゃん」は誕生した。
このことも、よく耐えた女房や母のいない間の娘との3人暮らし、そして慈恵医大病院の先生方には心から感謝する。 
 
こうしてお披露目のタイミングを逸したのだが、結婚式の話に戻る。
 
ひなちゃんが2歳になる頃、お義父さんがガンになったという知らせを受ける。状況的にはよくなく余命宣告もあった。
 
その時、女房がいきなり「せめてウエディングドレスを着て写真を撮りたい」と言ってきた。
あまり何かをねだってくる人ではないのだが、一度は結婚の晴れ姿を親に見せてあげたいとの想いだったのだ。
 
そんな女房からの想いを聞いた僕は、「そんなんだったらいっそ結婚式までやってしまおう」と火が付いた。相変わらずのイノシシ男である僕はこうなったらとことんやる。
会場はホテルサンライフガーデン、マックスでも200人しか入らない会場に220人招待。結婚式といえば主役は新婦側だろうに、女房側は20人くらいで、あとは全部新郎である今村家と甲斐組の関係者なのである。
 
「あの結婚式はお父ちゃんのための結婚式だったと。あれだけ自分を主張する結婚式はなかったね。」今でも言われる。
 
結婚式は、盛大、かつ大層面白くやった。

スターウォーズが好きな僕は新郎がダースベーダー、新婦はアミダラ姫の格好をしたり、かなり嗜好を凝らした披露宴となった。 



 
一般的な披露宴は、乾杯まで飲めない。それがいやでしょうがないので、来た人からどんどん飲めるようにしてもらった。
ホテル側が斬新すぎて「いいんですか」と言われたので「そんなもん知ったこっちゃない」と、来た順にどんどん好きなものをなんでも注文できるようにしてくれと、今では当たり前の習慣としてある「ウェルカムドリンク」を、当時どこよりも早くやってのけたわけだ。
 
おかげで、披露宴が始まる前には、みんなすでにできあがっており、各テーブルでは宴会が始まっていた。
僕たちが入場するころには大騒ぎ。入場前に会場をのぞき見したところ、タバコの煙で会場はモクモク、お酒をシコタマ飲んで酔っ払いも出ているカオス状態だった。
 
そんななか、司会者が「お待たせいたしました、新郎新婦の入場です」とアナウンス。

ドライアイスの演出とタバコの煙で会場は神秘的な光景に包まれるも、酔っ払いたちの「いつまで待たせてるんだよ!」というヤジに迎えられ、僕らは入場したのだ。
 
残念なことにお義父さん、そして僕の母親は体調がすぐれず、結局参加することは叶わなかったが、披露宴は盛大かつ無事に執り行うことが出来た。

お義父さんには病床で、その様子をアルバムにしてみせた。「ありがとう、ありがとう。本当に嬉しい」と涙を流して喜んでくれた。その半年後に恵美の父は他界したのだった。
 
この披露宴のエピソードの最後に。
この結婚式では引き出物を粋なものにしようと、紙扇子を準備。出席者1人1人の名前を入れたのだった。

こちらでも紹介したが、建設業界で兄分にあたるヤマグチさんが病に伏した時に、「共に旅行をしよう」となった、1泊2日で京都へ一緒に行ったのだ。

最後になってしまったその旅に、氏がその扇子を持ってきてくれて、「ヨッチの結婚式の扇子、まだ使っているよ」と。笑顔で僕に20年前の扇子を見せてくれた。

その粋な計らいには、涙が出るほど嬉しかった。いつまでも忘れないエピソードである。