飯場の子 第9章 38話 「荒れ狂う親父」
身内が亡くなると、悲しみに沈む間もなく始めなければならないのが葬式なのだ。
例に違わず、お袋が亡くなった直後から、僕にもこの経験にぶつかることになった。
「葬式は葬儀社を決める、から始まる」。なんだか昔映画にもあったような。
そうなると、看護師から「決まっているところがありますか」と聞かれる、平塚では名のある葬儀社の名前を伝えると、すぐに連絡をしてくれた。
1時間も待ったろうか、安置室からお袋を自宅に戻す準備が始まるのだ。
身内で手分けをして家にお袋を寝かせるスペースを作ったり、細かい作業が次から次へと出てくる。
お袋を自宅に戻し終えると、早くも弔問者などが自宅に足を運んでくれるのだった。
弔問に来ていただく方に、ご挨拶をしながら、何よりも素早く大量の作業が必要なのが、通夜と告別式の準備だ。
当たり前だが初めての経験。
葬儀の段取りを決めるのも、ほぼ長男の僕の役目になった。自宅にて葬儀社の担当さんと膝を突き合わせながら通夜告別式の日程や規模などを決めていく。
甲斐組の威信もあり、それなりの葬儀にしなければ。
そんな気持ちを強く持ちながら、お寺の住職と葬儀社と大まかな内容を決めて、親父や姉にも納得してもらった。
次に来るのが葬儀のお知らせなのだ、身内、取引先、建設業界など加盟団体に訃報の通知を打たないといけない。
これは会社の事務室で行った。従弟の浩之常務や荻野など身内衆の数名で通知作業を始めるのだが、経験者もいないので手探りだった。
これがまた気を遣う作業で、送り漏れのないように細心の注意を払うのだ。
そうして迎えた通夜の日、社員も総出で手伝っていただいた。
参列者の数は相当な人数で、供花も130本も届き、大きな通夜になったが、葬儀社の皆さまと社員のチカラでなんとか無事に通夜の儀を執り行うことが出来たのだ。
そして、通夜の日は、線香を絶やしてはいけないので斎場に泊まるのだが、僕は心身とも疲弊し、ヘトヘトであった。
にもかかわらず何故か眠れず、真夜中過ぎまで身内と語り合っていた、そしてようやく朝方に仮眠室で眠りについた。
翌朝はシャワーを浴びて気合いをいれ、10時くらいから告別式を行う。近しい身内や取引先、約100人くらいが参列してくれた。
告別式の後は納棺の儀、葬儀は仏式だったが、母はクリスチャンなのである。
導師である萩原住職に「お袋が好きだったマリア様の額やロザリオを入れていいですか」、と尋ねたら、「どうぞ入れてくれと。お母さんの好きだったものは何でも入れてください。信じるものに境界線なんてないんだ」と言ってくれた。
棺を閉じる時、言葉に表せない気持ちが込み上げた、そして火葬場へ向かう。
平塚の火葬場
人間、焼かれれば当然「骨」になる。
僕はこれまでにも、幾度の葬儀で人が骨になった姿を見たことがあったが、自分の母親が骨になった姿を見た時のショックは計り知れない。
僕はお袋の火葬の間、ある本に書いてあった一文を思い出していた。
葬儀で自分の肉親が骨の姿になったのを見た時に、「ああ、自分もいずれこうなるんだ。」と思ったら、不思議と悲しみが消えていった。と
実際、骨になったお袋を見た姉たちは号泣していた。特に次女の姉は泣き崩れ、「お母さん!」と声を出し、熱い骨に向かって手を出してしまった。
そこには冷静な自分がいた、泣き崩れる姉に僕は、「俺たちもよ、いずれこうなるんだよ。」と呟いた。
姉は僕を睨みつけ「お前はよくそんなことが言えるな」と怒気をぶつけてきたが、僕は先に思い出した一文のおかげで、「お袋の身体はなくなったが魂は自分の心のなかに生きていくんだ」と、静かな心を保つことが出来たのだった。
お袋の葬儀は通夜・告別式で約800人が参列してくれ、自分でいうのもなんだが、立派な葬儀になった。
後日、参列者の人たちからは「立派な葬儀だったね」「素敵な式でした」といった声をいただいたのは、嬉しい気持ちになったのを記憶している。
以前にも話した通り、親父が墓のデザインを凝りすぎたおかげで、母が亡くなった直後はまだお墓は完成していない。
納骨までの間、自宅で荼毘に伏したお袋の祭壇に、よく手を合わせに行っていた。
ここで感動の出来事があった、なんと山梨県は今村本家の菩提寺である妙学寺の古屋智妙お上人が、平塚の自宅まで供養に来てくれたのだった。自宅の小さな祭壇の前で、ものすごいお経をあげていただいた。
古屋お上人は「克子さんあっての、善美さんだからね」と言葉を残し、お茶もそこそこに山梨県に帰っていったのだ。本物の法力を持つお上人様、今でも忘れられない大切な恩人である。
お墓の完成は四十九日にも間に合わず、百箇日にようやく納骨の儀がしめやかに執り行われたのだ。
お袋の納骨が終わったあと、親父から相談を受けた、「墓に観音様を立てられないかな」と。
先述通りお袋はクリスチャンで、マリア様を信仰していた。親父は「墓にマリア様を立てるわけにはいかないから、代わりに観音様を建ててくれ」と、観音菩薩様は慈愛の存在なのだ。
親父のせめてものお袋への想いを現したこの出来事に、僕は驚きと感動を覚えた。
お寺にも相談して快諾してくれたので、仲間の石材屋さんに頼んで「穏やかな顔にしてくれと」と言って作ってもらった。
僕はその観音様を「聖マリア観音」と呼んでいる。
今村善美家の墓右端がマリア観音
こうして、母のためにできることはすべてやったと思う。
生きてるうちは、仕事が忙しく姉と嫁に任せてばかりだったが、お袋が亡くなった時は自分がすべてやったという自負がある。
母が亡くなってもう14年くらい経つが、月命日の墓参りも、これまでほぼ欠かしたことがない。
その一方で、
お袋が亡くなってひと息ついた時から、親父に変化があった。
まさに「魂が抜けたような状態」になったのだ。
僕は悲しむ間もなく母のことに奔走していたが、その間、あれだけ現場で騒いでいた親父が、プツっと現場に来なくなった。
あまりの状態に、二人の姉が、「お父さんは、私たちじゃもうだめだから、お前が一緒にいて欲しい」と、頼み込んできた。
こうして、僕と親父は毎日のように一緒に夜メシを共にした。
行きなれた居酒屋や、時には親父が作ってくれた肴を食べながら酒を飲み、毎回のように、お袋との昔話を聞かされたのだ。
その時の親父との話が、この「飯場の子」の僕の生まれる前の事などを知るきっかけになったのだ。
しばらくが経ち、親父の飲み仲間が見かねて夜の街に連れ出すようになった。
すると、あれだけ毎日のようにあった「お誘い」が、がパタリと消えた。
こうなったらもう僕はお払い箱。勝手なもんだ。
そのころから、父が急激に息を吹き返した。いい方向だったらよかったのだが、残念なことに親父はそうじゃなかった。
元気は回復したものの、さらに切れやすくなり、現場でとにかく狂ったようにわめきだしたのだ。
あの荻野ですら、「もう今の社長の姿は見たくない、前は言ってることに筋が通ってたけど、今は何を言っても伝わらない」と泣きをいれた。
僕も、心身ともに限界に近かった。
毎日のように親父とぶつかって、社内の火消し、現場の対応、クレーム処理。
現場では人も足りない。
寝ても覚めても緊張が抜けない。ストレスで胃が焼けそうだった。
親父は、自分の手で築いてきた信用を、会社を、人材を、まるで、自分の手で壊している。
どうにもならない憤り。
毎日、悔しくて、歯を食いしばって、それでも前に進まなきゃならなかった。
まさに40代の入りぐちは、お袋との別れから始まり、さらに荒れ狂う親父との闘い。
あの時が、本当の試練の始まりだったと、振り返っても思うのだ。




































