ポジティブ思考よっち社長

ポジティブ思考よっち社長

地域笑顔創造企業を目指す50代社長です。ポジティブ思考が生きがいです。

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飯場の子31 「仕事の師である二人の叔父」




 甲斐組に入社し、右も左もわからぬまま怒涛の如くの日々を過ごしていた。

年の後半である11月から翌年の4月くらいまでの約半年間は土建屋の繁忙期でもあり、抱える仕事量も一層多くなる。

笑えないが、その当時3月は60日と揶揄された時代であった。

飯場の生活にも慣れてきた頃、地方からの出稼ぎ組が入ってくる。飯場は大所帯となり、常時30名くらいまで膨れ上がるのだった。


飯場の宿舎【イメージ】


ほとんどが北海道、青森、山形の衆であった。特に山形の衆は昔なじみの人が多く、僕の作業着姿を見て「おおーヨッチくん!」と歓喜の声を上げてくれたのだった。




飯場での暮らし【イメージ】


初めて、年度末の忙しさを経験し、昼間は現場で監督補助を黙々と行い、夜は完成検査に向けての書類作成に勤しむ、まさしく3月は60日を体験した。

若さだけで乗り切れたようなものだが、その過酷さにはいささか参るものがあった。

一方、その3月の引き渡し検査を越えれば、土建屋は一旦落ち着くのだ。

この時期を使って、会社の皆で毎年恒例の湯河原の温泉ホテルに慰安旅行なども行っていた。

【湯河原温泉ホテル東横】


仕事も落ち着いている入社半年を過ぎた5月のある日、常務から呼び出しを受けた。「おい、ちょっと付き合え」。

『何だろう。』と思いながら車に乗せられて着いたところ、そこは当時の平塚では親分格で通っていた日比谷建設という会社だった。

いわゆる、そこの社長と専務に甲斐組の二代目として入社した僕に『ご挨拶』をさせに行ったのだ。

叔父から、『日比谷のオヤジさん、昨年入社した、うちの二代目です。どうぞよろしくお願いします。』と、僕を紹介する。

流石に土建屋の親分格だった日比谷のオヤジさんはハクのあるしゃがれ声で『おお、マンちゃん(父の呼び名)の倅かよ、いい男だな。頑張ってくれよ。』と、声をかけてくれたのだ。

しばらくの談笑のあと、叔父から「タカちゃん(その会社の専務の呼び名)、うちの二代目をナデシコにどうかなって思ってるんだよ。」と、いきなり訳の分からない単語が出てくる。僕は黙って聞いてるしかなかった。

今でもそうだが、どこの地域にも建設業協会が存在しており、平塚の建設協会には「なでしこ会」という建設業二世会(次期後継者の会)があった。

当然ながら会は、ほぼ社長の実子や身内衆で構成されている。

僕の叔父も同会のメンバーであったが、二代目である僕の入社とともに、交代させようと、父と相談していたようだった。

入会には推薦者が必要になる、そこで日比谷建設の専務に推薦して頂きたい、というお願いの意味も含まれていたようなのだ。

叔父の後押しもあり、無事に推薦人になってもらい、僕が初めて「なでしこ会」の昼例会に参加したのは、平成3年の7月くらい、20歳になったばかりだったと思う。

しかしながらその会もまた個性的なメンバーであった。当然、僕よりも一回り以上は年長者の大先輩方であり、見た目は短髪やらパンチパーマのイカついお兄さんたちが20人ほどずらっと並んでいる光景だった。

そこで常務(叔父もパンチパーマ)が笑顔で唐突にこんな挨拶を始める。

「えー、私は今日をもって、お世話になったなでしこ会を卒業させていただき、二代目のほうに席を譲ります。長い間お世話になりました」と。

その挨拶に「センちゃんよ~(叔父の呼び名)寂しいじゃんかよ。」と突っ込まれた叔父はこう続ける。
「これからは、この二代目がしっかり皆さんとよいお付き合いしますんで、よろしく頼みますよ」と。

「うーん、この年齢差の中でうまくやれるのか。」と困惑している僕に構う事なく、簡単なメンバー交代のようなことが行われ、僕は「なでしこ会」に入会することになった。

『なでしこ会』は平塚建設業協会の下部組織であるので、やる事は後継者の親睦や様々なイベントでの実働部隊である。一番大きなイベントは平塚市防災訓練での演習であった。

これは中々大きなイベントで総勢30名くらいの工作隊を編成して倒壊家屋から人命救助をするなど、本格的な演習だった。

初の会社以外の団体活動。

慣れない当初、ヤンチャ時代やラグビー部で培った上下関係の経験が発揮され、年がやたら若いとの後押しがあり、それなりに先輩方から目をかけてもらっていた。

しかし、現実社会の厳しさも経験する事になる。

それは大人の「嫌がらせ」だったのだ。

当時、甲斐組はまだまだ新参の土建屋であり、暴れ者の親父が率いる「イケイケの甲斐組」が疎ましかった会社もあったのだ。当然ながら「敵視」されているのである。

少数ではあったが、そんな人たちからの『嫌がらせ』とは、元気よく挨拶をしてもこれ見よがしに『無視』をされたり、わざと僕に聞こえるように『会社の悪口』を聞かされるのであった。

正直いって悔しかったし、若さもあったので、そうゆう先輩には、僕も反抗的な態度を出してしまっていたと思う。

が、中には「甲斐組の親父がああだからオマエには敵も多いと思うが、オマエは親父さんと同じようにしたらダメだ。ヨッチのキャラを活かして自分の味方をつくっていけ。」と、真剣に助言をくれる先輩もいたのは本当に嬉しかった。

こうした人たちのおかげで、僕は会社では経験できない、同業者との付き合いや社会での所作を学び、大人の世界を学ばせてもらったのだ。

一方、本業の仕事に関しては、甲斐組は怒涛の最中だった。


若さがゆえ朝はいつも眠いが、気合いを入れて6時に起床。
出社の支度をしたあと食堂に向かい朝食。卵、のり、おしんこに白米と味噌汁といった簡素なメニューをかっこんで、事務所へ向かう。

当時の事務所は平屋のプレハブで年季も入っており、本社屋とはとても言えない代物だった。しかし、神棚のそれはいつも綺麗にしており立派であった。

朝の一番乗りはいつも専務なのである。叔父は神棚の榊の水を変えたり、手入れを必ずしていた。そして柏手を打ち一日の安全を祈願する。

僕が入社してからしばらく経ち、この神棚の手入れを叔父から引き継いたのだ。叔父の専務は『いいか、これは大事な役目だ、お前は会社の二代目だからな、毎日神棚に安全の祈願をしろ。絶対に粗末にするな。』と念押しされた。ある言った意味で、二人の叔父は僕の師であった。


同期の荻野や先輩のヤッさんと、今日の現場の再確認をして、測量道具などを用意して、置き場へいく。

置き場はすでに専務やフルヤさんが仕切っており、若い衆の声や、ピーピーと鳴り響くトラックのバック音で、まさに鉄火の事く段取りをして、各現場へ向かうのであった。

当時の現場は平塚市内が殆どで3、4か所であった。

僕が初めて監督補助として、ついた現場は、国道129号線の歩道の下に雨水管を入れる現場だった。
大沼ヤッさん先輩から写真の取り方、師匠の常務からはトランシット(位置を測量する機械)、レベル(高さを測量する機械)の使い方を教わる。
測量表が書いてある野帳を与えられ、自分で関数電卓を使った。

そう、予備校の勉強から逃げた僕が、数学に向き合うわけだが、実際仕事に使う目的意識がしっかりしているものには人一倍努力するタイプで、測量学の本とか引っ張り出して勉強。スポンジのように吸収していった。


【夕方の打ち合わせ】

【左が常務(男前なのだ)机にビールが日課であった】



こうして少しずつ現場に慣れていっている最中、ある事件が起きる。

甲斐組は一昨年前くらいから県の橋の工事を受注していた。
橋の名前は「土安橋」。会社の近くの橋の架け替え事業であり、足掛け4年にわたる工事であった。
甲斐組始まって以来の大型工事で技術的に大変難しい仕事だったのだが、チャレンジャーな親父はその仕事を請けたのだ。

現場代理人として一番技術力のある常務の叔父が入る。そこに若手である僕と大沼ヤッさんと荻野が加わり、4人体制で仕事をするのだが、ヤッさんや荻野は、他の現場が忙しいと、そちらに応援に引っ張られる。


【仮設橋の基礎になるH鋼の検測】手前が常務、奥が荻野氏


【著者 土安橋工事 監督補助】


しかし、叔父は僕だけは他の現場に行かせなかった。多分、この現場を経験させおきたいと考えていたと思う。

平成3年の秋だった。そんな折、常務が「体の調子が悪いんだ。」と突如言い出したのだ。

夏ぐらいに一度検査をしたところ異常は見つからなかったのだが、年の暮れにいよいよ我慢できないほど調子が悪いとなり、再度検査することに。

数日後のこと。
僕は突然、実家に呼ばれる。そこにはオヤジ、おふくろや姉までいる。
「なんだこれ、ただごとじゃない」と瞬時に悟った。

叔父は、末期のすい臓がんだった。

働き盛りの46歳。
本人には病名を伝えないまま入院となる。

叔父は、技術の基礎や現場のプライドを体で教えてくれた人。

そんな叔父の病に、僕は「あの現場を守るのはもう自分しかいない」と気を引き締めるのだが、まだ経験も実績もない。

常務とやってきた、半年くらいの時間、こうして常務の代理として僕が現場を担当することになったのだ。

僕は毎日病院に通い、現場の写真を現像したものを持って行き、叔父に報告してはアドバイスを受けた。

叔父はそれが楽しみだったみたいで、ベッドの上でも現場と変わらぬほど、情熱深く僕に色々指南してくれた。
「この工程が終わったらそれをやれ」「この時は気を付けろ」と。


叔父は年明けに手術することになった。
しかし、ガンはすでに思った以上に進行しており、「もう駄目だ」ということでそのまま腹を閉じたという。
手術後に宣告された余命は3か月。

叔父も自分自身もうだめだと悟っていたと思うが、それでも気丈に「早く現場に戻りたい」という。

橋の引き渡し検査は3月上旬に終わるのだが、継続事業であり、また新年度からは引き継ぎの工事が待っている。
なんとか叔父に安心させたく、僕は必死に働き、無事検査で合格を受けた。叔父は心から喜んでくれた。

3月の後半に慰安旅行で湯河原に行く。甲斐組が定宿にしている「湯河原ホテル東横」だ。
叔父はかなり痩せて弱っていたが、笑顔を絶やさず社員の皆と楽しく宴会を過ごしていた。

そして僕に
「ヨシヒロ、お前しかいない、頼むぞ」と。真正面に向き合い言葉を交わした。

大切な思い出を残し、叔父はその直後の平成4年4月9日、息を引き取った。享年46歳。

若すぎる弟との別れ、三兄弟でやってきた父の喪失感は、今でも想像出来ない自分がいる。

叔父と現場で仕事ができたのは、わずか2年だった。

しかし、土木技術者としての心意気や情熱は一生分もらい、それは間違いなく今でも僕の原動力になっている。

飯場の子 第9章 30話

「いよいよ甲斐組社員となる」

 


 

 前述したが、人生初の挫折と敗北を機に、僕は父が経営する株式会社甲斐組に入社した。


 

まずは当時の建設産業について紹介する。

時は平成2年10月、西暦は1990年でありバブル景気が崩壊する直前であった、


(バブル景気の崩壊は1991年~1993年となっている)国内の建設投資費は81.4兆円(うち公共事業は25.7兆円)であり、ほぼ史上最高水準であった。


ちなみにバブル崩壊を機に建設投資費は下がり続け、2010年には41.9兆円の最低水準になり建設産業は極寒の時代を迎えることになる。


甚大災害である2011年の東日本大震災を機に建設投資費は徐々にその数字を回復して2021年は66.6兆円(公共事業は23.39兆円)にまで回復した。

 




僕が入社した当時の甲斐組は、まさに建設バブルの最中であり、火を吹くような忙しさだったのだ。


 


会社の体制は今まで話した通り、父が社長で、叔父である専務の今村登氏、常務の今村千蔵氏、母の克子と姉である由紀、また叔母のノリコさんが事務及び経理を担当していた、まさに昭和スタイルの完全な家族経営だった。



【イメージ】


 

他に現場監督が2名いて現場の施工管理ができる技術者は社長含め5名程度、そこに1年先輩の大沼さん(通称ヤッさん)と半年先に入社した同期の荻野宏治「ヘギン」が監督助手を務めていた。



【入社時の大沼ヤッさん先輩】

 


 職人は父の高校時代の同級生である「フルヤさん」が職人のカシラであり、飯場の宿舎長もしていた、このフルヤさんも元々は相当なワルで迫力のあるカシラだったのだが、話は大変面白く、冗談も言い合える人であったのだ。



【職人頭のフルヤさん】



飯場の住人は10名くらいだったと思う、それぞれに地元の人ではなく脛に傷もつ人もいた。社員の総勢は常時20人くらいだった。

 

甲斐組の公共工事の格付けは県市ともにBランクで、舗装と土木に特化しており、売上は年商5~6億円くらい、それでも基本的に直営施工であったので当然利益率は高く、今ではないが高額納税が地域版の紙面で公開される時代で、甲斐組の納税額は地元建設会社の中でもかなり上位にいたらしい。


 

そんななかでの僕の入社。周囲の社員からは「社長のせがれだ」、「とうとう2代目が入ってきた」という注目や歓迎の声が聞こえてきた。


 

当然、入社式なんてない、研修期間などもあるはずもない。会社の作業着の正式な着方と安全靴の履き方を教わったくらい。ただ名刺を渡された時は、「ああ、社会人になったんだ。」と、背筋が伸びた気がした。


 

最初のショックは会社の公休日であった。考えられないが第1・3日曜日、月に2日しかないのだ。勤務時間は朝7時~17時。で、あるが監督助手の若手社員は幹部の叔父達が翌日の現場割り振りを兼ねた飲みニケーションがある程度、落ち着くまで退社出来ないのであった。



【当時の編み上げの安全靴】土木屋だな

 

「働く」が正義の時代。

ある程度は覚悟していたが、「こんなに休みがないのか」と、建設業界の慣例の壁に早々とぶち当たるのだ。

 

入社したての僕は、自宅から通う事になり、朝は社長である父の運転手を兼ねていた、乗っていた車は最上級グレードのトヨタクラウン。珍しく車両電話も付いており、まさに土建屋のオヤジ仕様であった。

 

さすがに社長出勤で自宅を出るのが8時くらい、会社か現場に直行するのだが、これがはバツが悪かった。同級の荻野はすでに飯場に住んでいて、7時から置き場などで段取りに勤しんでいる。

 

現場につくも、荻野は横目に僕をみて明らかに不満な表情を表していた。

行きは社長であるオヤジと出社して、帰りは誰かしらに自宅まで送ってもらう日々が続いた。

 

しかし、その状況に嫌気がさした僕は入社から1か月後、社長であるオヤジに頼んで「俺も飯場に入れて欲しい」と自ら志願し、飯場に入ることにな

 

しかしだ、当時の甲斐組の飯場は、まだまだ良好な環境ではなかった。まずはトイレが汲み取り式便所。これには参る。風呂も大きくもなく同時に4人くらいしか入れない。

 

また、この飯場には秋には地方からの出稼ぎの人たちが集まり、飯場がいっぱいになる。小さい飯場に、30人くらい住むこともあり、心身ともに落ち着かない環境だった。

 

基本的には一人部屋はあまりなく、相部屋になる、僕は半年先に入社していた荻野と同部屋になるのだ。そうすると荻野は先輩風をビュンビュン吹かせ、「飯場のしきたり」なんかを偉そうに語り始める。


 

ある日、仕事がおわり、着ていた作業着を部屋の中で脱いで風呂に入ったことがあった。が、風呂から出ると作業服がこれ見よがしに玄関の土間に打ち投げられていた。 

 

僕はさすがに腹を立て、『なんでこんな事するんだよ!』と食ってかかった。

すると荻野は横目で僕を睨みつけ「服は土間で脱いでから部屋に入れと教わったんだ!!」と言い返す、「だったら先にそれを言えよ!』となり、取っ組みあいの大ゲンカ。


 

しかし、流石に竹馬の友よ。ケンカした後は必ず、仲直りはするのだった。


 

1年先輩の大沼さんこと「ヤッさん」は自宅が近く、通勤組で飯場に住んでいなかったが、僕たち3人は仕事では常に行動を共にしていた。


 

仕事は怒涛の如くの一日で、寝坊などしていると、専務かフルヤさんが飯場の部屋にタタキ起こしにくるのだ。眠い目をこすりながら洗面所で顔を洗い、作業着に着替えて、仕事モードにスイッチを入れる。

 


出勤するとまずはタイムカードを打刻する事から始まる、そして黒板の番割を確認して置き場に向かう。置き場で、職人の皆におはようございます!」の挨拶をしてはダンプトラックなどに大声を出しながら必要な資機材を積み込んで、各現場へ行くのだ。

 

現場につけば大きな声で通行規制から始まり、バタバタと仕事がはじまる。ボケっとしていると「おい!邪魔だ!」と怒鳴られる。必死で先回りしていた。


 

右も左もわからない新人の最初にやらされる仕事は舗装工事のホーキマン(掃き掃除)や、それこそ交通誘導員も不足していたので、赤い棒を持ってガードマンをやらせられたり。




【イメージ】

 

とにかく仕事の用語を覚えるのがやっとで、常務から渡される野帳(ヤチョウ・測量につかうメモ帳)に必死に書き込んでいた。大変なのだがは目的さえ定めると、前のめりに学びたくなるので、それが楽しくもあったのだ。


 

現場を終えた夕方、若手3人が事務所で日報を書いていると、事務所のテーブルで番割りをしている常務やフルヤさんなど、幹部連中らにほぼ毎日「おい、冷たいビール何本か買ってこい」と命ぜられる。



【事務所でふざける著者 隣は荻野氏】

 

先ほどの飲みながら打ち合わせが始まるわけだ。

 


若い僕たち3人は、上司がミーティングを続ける手前、先に帰るわけにはいかない。

大体、19時になると、顔色伺い「そろそろあがってもいいですか」声をかけ、ようやくタイムカードを打刻し退社する。

 

しかしこれでその日が終わるわけではない。

 

時々ではあるが、いい気分になった常務が飯場の部屋に20時すぎに飲みへ誘いに来るのだ。

 

現場でへとへとになるまで働いて、事務所を上がり飯場の食堂でメシもたらふく食べた後、もう横になってテレビを見ている時間。

 

それでも「おお、オマエらこれから付き合え」とやってくる。

 

『えー、マジですか?』なのだが、会社の大幹部にそう誘われたら断るわけにはいかない。すぐに寝巻きから着替えて外出準備。僕か荻野の運転で常務の行きつけのスナックに連れていかれ、ウイスキーの水割りをお付き合いするのだった。



【イメージ】

 

お供は荻野と二人、どちらかがアルコールは飲まないようにして、常務やお客さんをクルマで自宅まで送る。そんな日も多かったが、夜の時間はまた人付き合い的な勉強にもなった。叔父である常務は色々な意味で社会勉強も伝えたかったとのだと、今になり思う。


 

こうした入社と共に、火を吹くような怒涛の日々に耐えられたのは、年の近い、このヤッさん先輩と荻野という同僚がそばにいてくれたからだと今でも思う。本当にありがたかったし、心強かった。

2人がいてくれたこと、3人でいられたことを今でもすごく感謝している。


 

そしてその二人は、今も甲斐組グループの幹部として共に仕事をしてくれているのだ。

飯場の子 8章29話「人生初の挫折と敗北」



 今まで見てきた通り、僕は優等生ではないながらも、一応活発な学生生活を送ってくることができた。

飯場の子として育ち、ヤンチャにラグビーにと、常に何かに集中し、常に何かに目標を持ちながら突き進んできた。
 
そんな僕だったのだが、人生の中で初の目標を失い挫折という経験を味わう事になる。



父のたっての願いは「息子を日本大学の土木学科に行かせる」こと。

そのため僕も日本大学の付属高校に入り、同大学への進学を目指すはずなのだが、元来の勉強嫌いは変わる事もなく、成績は学年でも最下位のグループに属していた。
 
ラグビーの県大会最中ではあるが、高校3年生の10月に日本大学の付属高校では統一テストという試験があった。

その結果で推薦進学ができるか否かが決まるという、すごく大事なテストなのだ。
 
テストは受けるも、結果はボロボロ。当然ながら、付属高校でも推薦枠に入れなかった。
 
ダメ元で一般受験に望みをかけ、日本大学と東京農業大学を受験したのだが、当然ながらすべて敗北。

[画像はイメージ]


結果的に現役での大学進学は叶わなかった。
 
それでも、家業を継ぐ長男として父の希望でもある日大の土木系学科に入らないとと、困惑しながら迎えた高校卒業式。

3年間の学び舎は入学した時よりひとまわり小さく感じた。懐かしいラグビーに情熱をかけた日々、まさに青春を謳歌したグラウンドと母校に別れを告げた。

[当時の日大藤沢高と日本大学農獣医学部]



「大学進学しなければ…」

浪人生となったら、まずは予備校に通うしかない。まったくお馬鹿さんな僕は予備校に入れば大学に進学できるという勝手な図式を描いていた。

そんな考えなので予備校選びも遊び感覚で、同じく浪人生になった中学からのワル仲間である「シゲ」と遊びたいがため、藤沢にある「YMCA予備校」に行こうと、これまた簡単適当に決めたのだ。


[当時の予備校の冊子]

 
しかし、大学受験を舐めていた僕はその勘違いを早々に思い知らされることになる。

予備校に通っている浪人生は僕とは全く違う人種であった、いわゆる「人間受験マシーン」の集合体なのである。

会話で聴こえてくるのは偏差値やら、合格率やら、何時間勉強したやらの話ばかりで、会話に入っていけない。ポツネンと一人で立ちすくんでいた。

科目の講義は90分。講師の言っていることが、外国語に聴こえ、全く理解不能、完全なるフリーズ状態になってしまう。


イメージ


当たり前である。学問の基礎がまったくできていない。頭は中学生ぐらいの簡単な方程式で止まっているのだ。

 講義のラスト、20分くらいの小テストが毎度ある。テスト用紙が配られ、講師の「はじめ」の合図でみんな一気に解き始める。

[イメージ]


そのシャーペンを走らせる「カリカリカリカリ…」という音が徐々に僕の心を蝕んでいくのを感じた。

[全てがぼやけて見えた]


これまで名だたる不良連中やら、ラグビーの猛者たちに揉まれ、色んな場面に対峙してきた。

若者ながらに根拠のない自信を強く持っていた僕であったが、人生のなかで本気で「逃げ出したい。」と下を向いてしまったのだ。


[イメージ]


人間は一旦下を向いてしまうと自力で上を向くことは、なかなかできない。
 
はじめて「行き詰った。」僕は、いわゆる今でいう「うつ病」になってしまったのだ。

予備校に通い1か月もたたず、完全にノックアウトで不登校。

その拒絶反応はすごいもので、予備校の門を見るだけでめまいが起きるのである。そして僕は「浪人生」ではなく「半端者」になってしまった。
 
その後、僕は藤沢駅をウロウロしては、喫茶店やゲームセンターなどで時間をつぶし、何もしない日々を送る。予備校には体の具合が悪いと言い続けていた。

だからと言っては何だが僕は「不登校」になってしまう学生の気持ちが少しは理解できる。

流石に予備校から母親にも連絡が入りサボりがバレたが、叱咤されるもどうしようも無く、寝ても覚めても頭の中がぼーっとした日々が続いていた。

完全なる「敗北」であった。
 


…しかし、突然にそんな生活から脱却するキッカケが起きる。
 
このころ暇を持て余す僕は、時々平塚市のはずれにある甲斐組の本社へバスで行き、飯場にちょこちょこ顔を出すようになっていた、中学からのワル仲間、通称「ヘギン」こと荻野が4月から甲斐組に正式入社していたのだ。


[イメージ]


仕事が終わった彼を訪ねて「どうしたもんか。。」と飯場で泣き言を聞いてもらっていた。
 
そうしたある日、会社のクルマを「ヘギン」と二人で洗車したことがあった。が、その洗車している時の集中状態が非常に楽しく、そこはかとない充実感を抱いたのだ。
 
その瞬間、「あ、俺このままじゃだめだ。」という意思が湧いた。
前にも行けない後ろにもいけない状態から脱しないと。と真剣に思ったのであった。
 
そうなれば腹をくくり、両親に大学進学を諦めることを伝えると決めた。
 
その時、同時に思案した事があった。
それは「日本列島旅修行」だった。
 
大学に行くはずの時間を旅修行で人生経験をつむんだ!と思いついたのだ。

そこで、3年間と時間を決めて、全国を住み込みのアルバイトをしながら、1か月くらいおきに場所を変え、1年で12回、3年で36か所を回り、大きくなって帰って来ようと考えたのだ。
 
その計画に本気になり、日本地図を買ってきては広げて、静岡から始まるルートなんかもノートに書き始めて計画を練っていく。




止まっていた自分に、新たな目標ができた。その壮大な計画づくりのおかげで「うつ状態」からも脱却できたのだ。
 
そんな旅修行を、ひと通り頭に描き終えた8月のある日、両親に決意表明。
 
「オレ、申し訳ないけど大学には行きたくない、予備校も辞める。これから日本一周旅をして色んな経験を積んでくる。」
 
そう伝えた。オヤジは黙って聞いていた。お袋は「大学には行ってほしい」と涙ながらに話す。気丈なお袋の涙声には心に針が刺さるような思いがした。
 
中学校でヤンチャ、高校でラグビーに出会い、ようやく更生したのに、大学に行かずにまたダメになるのか、と思っていたに違いない。

黙って聞いていた父親が激怒した。
 
「大学には行かない、仕事もしない、遊び歩きたいとは何事だ!お前の同級生の荻野は毎日泥だらけになって現場でしごかれながらやってるのに、てめえがほっつき歩くとはどういうことだ」と。

 そして、父親はまくしたてるようにこんな選択を迫って来た。
 
「てめえ、今この場で、大学に行くか、うちの会社に入るか、さもなければ勘当してやるから明日から家を出ていくか、この場で決めろ。」

土建屋の親方である暴れ者のオヤジの啖呵は半端なものではなかった。
 
その勢いに気押された僕は、居直る事など出来るはずもなく、その場で、「分かった…オレ、会社に入るよ。」となったのだ。
 
 オヤジから「二代目だからと、特別扱いはしない、飯場詰めからやるんだ。」と言われた僕は、腹を決めた。

運転免許は取らせてほしいと頼み、自動車学校に通い始めた、やたら運転慣れしていた僕に、教官は「君なー、無免でかなり運転してただろ」と、からかわれた。自動車免許は、やく1か月で取得出来た。
 
選んだ道に、後悔はなかった。ただ大学進学を願っていたお袋の涙には心から「すまない。」と思った。


こうして平成2年10月に19歳の飯場の子は「飯場の住人」となり、甲斐組に入社する。

挫折と敗北をバネにして、土建屋の二代目として新たな人生のステージに踏み出したのだ。



飯場の子 第7章 28話
「怪我と運命の11月26日」


 高校時代をラグビーに費やした僕は、普通の高校生活をエンジョイするような、バイトや合コンなどを楽しんだという思い出もない。
 
しかし、その分、他の学生には出来なかった、ハードで熱い経験をしたという自負はある。
 
そう、ラグビーと向き合いがむしゃらにやってきた。

【練習試合のワンシーン】左筆者

 
いよいよ僕らも最高学年になったのだ、「ノムラ主将」率いる日大藤沢ラグビー部30期の闘いが始まった。


【30期メンバー】

 
 遡るが、僕は2年の12月のある日、監督から呼ばれた。「ボス。お前はフッカーをやれ。」といきなりのポジションチェンジを告げられたのだ。正直、面食らった、ラグビー経験者ならわかると思うが、同じフロントローでもプロップとフッカーはかなり役目が違うのだ。
 
プロップからフッカーへの転向、そこには同期の「ヨシダ」がいる。当然レギュラー争いになるのだが、複雑な気持ちがした。


【中央が吉田(大)】

 
今までスクラムを組むたびに、隣りで力を合わせてきた仲間が、いきなりライバルになる。二人で真正面に向き合い話しあった。「正々堂々とレギュラーを取り合おう、恨みっこなしだ。」と。
 
自分でいうのもなんだが、僕らの代は強かった。
 
春の県大会も優勝候補筆頭として、神奈川新聞で報道されるほどだったのだ。



 【公式戦】
チームは自信にあふれていた、今年こそ宿敵である相模台工業を打倒して全国大会へ行くのだと、全員が確信していた。


【新人戦にて初のHOで公式戦】

【新人戦 東海大相模 23-3で勝利】

 
自信を持って、挑んだ春の県大会、フッカーになった僕は残念ながらリザーブ(補欠)であったが、我がチームは順調に勝ち進んでいく、そして準々決勝の相手は法政二高になった。強豪校ではあるが、決して引けは取らない。
 
試合の前日、練習後にメンバーの発表があった、僕はその試合に右プロップで出場することになったのだ。スクラムでは負けない自信は十分にあった。 
 
5月の土砂降りの雨の日、グラウンドコンディションは最悪。試合会場は保土ヶ谷ラグビー場である。雨の中のキックオフ、泥だらけの試合で僕たちのチームはミスを連発してしまう。
 
結果は、相手に決められたペナルティゴール1本、0対3でまさかの敗退であった。法政側はこの大番狂わせに阿鼻叫喚していた。
 
ノーサイドのホイッスルの後、ずぶ濡れで泥まみれのグラウンド上で「マジかよ…」と呟いたのを覚えている。


【春の関東大会予選まさかの敗退】保土ヶ谷ラグビー場

 
「優勝候補筆頭」とまでいわれていたのに、関東大会さえも出場できなかった。
 
まさに自分たちを過信していたのだと思う。
 
この敗北の意味を受け止めなければならない。僕たちは夏に向け、気合いを入れ直して必死に練習を続けていった。
 
 そのころ、僕にはもう1つ大きな出来事があった。6月半ばごろに、国体(オール神奈川)選抜の選考メンバーが部内で発表されるのだ。
 
監督から推薦者が呼ばれる中、なんと僕の名前があがったのだ、同期の仲間から「おおー!」と驚きの声があがった、僕自身が一番驚いて、「あの…何かの間違いじゃ。」と監督に呟いたら、部員の皆が大爆笑になった。
 
この年、うちの部からは僕を含めて6人が国体選抜メンバーになった。


【オール神奈川選抜メンバー】

 
選抜メンバーは県内各校から集まり、その数は60名はいたろうか。その中からセレクションを受けて25名がオール神奈川メンバーとなるのだ。
 
神奈川中から、腕がなる猛者が集まっていた。皆、オール神奈川を目指してギラギラしているのだ。
 
合同練習が始まる、メンバーは言わずもがな学校がバラバラ。そのため、お互いどこの学校か分からないのだ。そうすると時折、「オマエどこだよ。」とイキがったヤツが出てくることもあった。そんな時に「あー、オレ日藤だよ」というと、「あ、すみません日藤ですか。」と、いきなり敬語に変わるのだ。それほど日藤のカンバンは光っていた。
 
実際、練習でスクラムを組むと、見た目はイキがっている猛者たちも、はっきり言って、「手ごたえがない。」確かに全国レベルの強豪校と練習試合を繰り返してきた自分は「こんなに差があるんだ。」と驚いた。それだけ日藤で、厳しい練習を重ね、鍛えられていたという事が初めて分かった瞬間でもあった。
 
60人ほどいたメンバーが半分くらいまで絞られていったのだが、僕は必死に食らいつき、その中に残り続けた。
 
が、ある日事件が起きる。
 
最終選考に選ばれるラストの練習試合は雨の日だった。ぬかるんだグラウンドで、左足にタックルをくらった。「バキバキ」といういやな音がした。本来だったら曲がらない方向に曲がっている足。激しい痛みとともに崩れ落ちた。左足の靭帯をかなり酷く痛めてしまったのだ。
当然、試合は退場となり、そのまま病院送りでギプス固定となった。
 
僕のオール神奈川は幻に終わった。初めて自分のラグビー選手としての実力を認められかけていた時の出来事であり、情けない気持ちと自信を失いかけていた。
 
 監督からは一言、「情けない奴じゃ。」と言われた。期待に応えられなかった悔しさに、黙って頭を下げるしかなかった。
 
オール神奈川の正式メンバーにはテクニシャンフランカーの「ニシカワ」、俊足ウイングの副将である「スガヌマ」の2名が選ばれたのだった。
 
最終学年の夏が始まった、左足を痛めていた僕は、とにかくリハビリとウエイトトレーニングと走り込みを徹底するべきなのだが、「試合に出ないといけない」と、焦っていた。ギプスが取れた直後から、テーピングを巻きながら練習に参加していたのだ。結果、夏の間に同じ部分の靭帯を3回痛めることになる。


【怪我を庇いながら練習に出続けていた】



【3年時の菅平合宿】ほぼ負け無しの30期

 
秋の全国大会県予選を目の前にして、試合に出れる状態ではなくなったのだ。
 
平成元年度、全国高校ラグビー大会神奈川県予選、98校からの頂点を決める、全国一激戦の大会である。いよいよここまで来たんだ。

3年にわたる厳しい上下関係と、すさまじき猛練習、そして監督や部員である仲間との絆。すべてをかけた闘いが始まるのだ。
 
その大会にリザーブにも入れなかった僕に、松久保監督は「花園までになんとかしろ」と声を掛けてきてくれた。その言葉に、涙が出そうになった。
 
僕ら日藤ラグビー部は3回戦からの出場となる。順調に勝ち進み、準々決勝では6強の一角である桐蔭学園に、接戦を制し16対3で勝利した。

準決勝にコマをすすめ、春に惜敗した法政二高と激突する。しかも会場は保土ヶ谷ラグビー場である。
 
僕はリザーブでもなかったので、同級生の生徒と共に、芝生のバックスタンドで試合を見ていた。春の惜敗から、菅平合宿で茗渓学園に負けた以外は全勝の同期メンバーである。仲間を信じていた。

【練習に明け暮れた日々】


キックオフから両チーム全力での戦いであった。まさに互角に近い勝負だった、やはり法政二は強かったのだ。大接戦の末、ノーサイドのホイッスルがグラウンドに鳴り響く。崩れる法政二の選手たち。結果、14対6で勝利し、決勝進出を決めた瞬間であった。
 
一緒に試合を見ていた同級生から「ボス!よかったな。花園に行けよ。」と声をかけてくれた。笑顔で「ありがとう」と答えながら、メインスタンドの方へ向かっていった。
 
試合が終わり日藤フィフティーンがメインスタンドに挨拶している後姿を、一人歩きながら眺めていた。


【当時の保土ヶ谷ラグビー場】


その姿を見た時、何とも言えない思いが、胸にこみあげてきて、大粒の涙が止まらなく流れたのだ。生まれて初めての“嬉し泣”という経験だった。エンジのジャージのメンバーの姿が、今までのなかで最高にカッコよく見えた。
 
ウイングのマムシこと「スギウラ」が振り返り、僕を見つけ「ボスーー!!」と、泣きながら抱きついてきた。その瞬間、メンバー全員に囲まれて抱き合い涙した。心の底から自分もこの一員なんだということが最高に誇らしかった。
 
この話をすると、いつも涙が止まらなくなる。
 
 一方、僕たちと対戦する相手を決めるもうひとつの準決勝では、波乱が起きていた。
なんと相模台工が慶応に負けたのだ。つまり、僕たちは決勝で慶応と対戦することになったわけだ。崩れる相模台工の選手たち。その試合をともに観ていた法政二のメンバーは「俺たちの分まで花園で大暴れしてくれ。」と言葉を残し会場を後にした。
 
運命の平成元年11月26日、決勝戦の日。
秋晴れのもと、いよいよ僕たちが「天下」を取る日が来たと試合前から意気揚々としていた。
 
相手は宿敵の「相模台工業」ではないが慶應義塾も手強い。しかも相模台工業を破り、乗りに乗っているのだ、相手にとって不足はない。
 
試合会場は神奈川の頂点を決める三ツ沢競技場である。会場は両校の応援で、超満員になっていた。
 
キックオフと同時に神奈川県のトップを決める60分の死闘が始まった。


【平成元年度 神奈川県決勝戦】三ツ沢競技場


さすがは慶應の伝統芸ともいえるタックルに一進一退の攻防戦となった。前半はリードを許したが、それほどの不安はない、しかし後半に追い上げ同点となるも、そのままノーサイドになった。

【同点トライの瞬間 フルバック高橋】

 
結果は7対7の同点で両校優勝。

うなだれる日藤、歓喜をあげる慶應。そこには両者の気持ちが表れていた。
 
全国大会の出場権はくじ引きになる。くじは、そのままグラウンドで行われるのだ。

水を打ったような三ツ沢競技場、全ての皆が、息を飲むその瞬間。

慶應のキャプテンが、両手を高々と突き上げた…


【決勝戦 両校優勝の記念写真】


僕の高校時代はラグビーに始まりラグビーに終わったと言っても過言ではない。

そして人生の転機にもなったと今でも思う。松久保監督をはじめ同期の仲間や多くの先輩や後輩たち、語り切れない想い出は本当に僕の宝物なのだ。

そして僕は今でも日藤ラグビー部OB会や平塚市ラグビーフットボール協会の一員としてラグビーにかかわって生きている。

飯場の子 第7章 27話「ラグビーに与えてもらった宝物」




 

 

 高校の運動部、当時は強豪校になるほど上下関係は厳しく、さらに部員は個性豊かな面々になる。

 

 我が日大藤沢ラグビー部も面白い仲間が揃っていた。ここで同期の仲間に触れてみたい。


 僕たちの代のキャプテンになる心優しき男「ノムラ」、小田原出身で登下校も三年間一緒だった「フジ」、京都からの使者「イマムラシン」、あるいった意味ムードメーカー「ショウヘイ」、横須賀の変態少年「オダ」、保土ヶ谷の熱血漢「ユウジ」、しっかり者の「バーバー」、俊足ウイングで名を馳せた「スガヌマ」、藤沢の遊び人「ヨーキさん」などなど。他にも沢山いるのだが、個性的な仲間だらけの同期30期である。


部室内の同期(2年時)


 飯場の子「ヨッチ」は、中学時代はまともにスポーツなどしていない、ご存じの通りヤンチャの時代から、いきなりガチの体育会運動部に入り、体力もなく練習にはとてもついていけないのだ。ただ持ち前の?ワルなキャラと愛嬌モノで同期内では早々と「ボス」とのニックネームをつけられ、なんとなく同期内のムードメーカーとなる。

 

 先輩からはイジられキャラで、演芸マシーン3号(1,2号は大先輩にいるのだ)と名付けられ、現役世代だけではなく数年上のOB諸兄先輩まで「ボス」はラグビーの素質とは全く違う、別な意味でその存在を覚えてもらうようになっていくのだった。


菅原合宿で1学年上の先輩と(イジられ)

 

 しかし元不良のヤマっ気は残しており、1年の時は厳しさに堪え切れず練習をサボるために学校は休むは、ほかにも数々の問題を起こすのだが、松久保監督の愛の制裁で救ってもらうのだ。

 

ここで「鬼の松久保」と恐れられた恩師についても触れてみる。



恩師55歳くらいですね(部誌より)

 

 松久保監督は、生粋の薩摩隼人、鹿児島大学を卒業後、いきなり日本大学藤沢高等学校の体育教師として赴任させられ、そのまま42年間に渡り日大藤沢の教員及びラグビー部監督として、人生の多くの時間を教師と部の指導者として費やした。

 

 当時、監督は50歳くらい、部を率いて25年。赴任したての頃はどうしようもないワル高校だった頃の部員には手を焼いたと聞く。しかし、その猛者たちをラグビーを通して指導し、県内トップクラスのラグビー部に育て上げたのだ。社会に役立つ人間を育てる。を柱にしていた真の教育者だったと思う。

また、行き場のなくなったどうしようもない生徒をラグビー部に引き受けて、なんとか卒業させる事も多々あったと、僕がOBになってから他の教員や大先輩からも教えてもらった。

 

 そのような存在なので、運動部以外の生徒にも恐れられてはいたのだが、体育の授業の時間は部の指導とはちがい、やたら優しく丁寧な言葉遣いのギャップには苦笑いしてしまった。ユーモアも多々あり、誰にでも怖い存在ではなく、部員やそれ以外の問題生徒には容赦のない鉄拳を叩きこむのだ。

 

 僕が中学時代にヤンチャをしていたことも監督は知っていて、そんな体力もスポーツ経験もない自分でも、蔑視することもなく皆と同じように扱ってくれた。ただ、たまに「おい、ヨシヒロ。お前はまだ平塚のチンピラと付き合っているんか。」と喝を入れられることもあった。


菅原合宿で保護者と(部誌より)

 

 僕がOBとなってからも正月に恩師の自宅に行った時には、よく昔話を語ってくれた。その時に「手を出すのは、分かってくれる者しか出来ない。それはその生徒や部員の眼を見ればわかる。そのような部員も何人もいた。救ってやれなかったことが悔やまれると。」しみじみ二人で“黒ぢょか”で芋焼酎の熱燗を汲みあい、語り合った。


いまも尊い存在の大恩師である。


黒ぢょか

 

 

 ラグビーについてだが、1年時はとにかく厳しい練習についていけず、辞めたくなった時もあったが、同期の仲間が支えてくれた。ラグビーというスポーツは簡単に言えば「陣取り合戦」なのだが様々な体形や個性を持つポジションに分かれる。スクラムを組むFWは体格とチカラがモノを言う。バックスはスピードとパスやキックの技と視野の広さが求められる。そして全員に必要なのはタックルに向かう度胸なのだ。



同期の裕二と下は吉田ちょく

 

 僕はガタイだけはよかったのでFWのスクラムの最前列であるプロップのポジションを当てられていた。

 

 各々の個性が複雑に絡み合い、フルコンタクトでぶつかり合うまさに“格闘技”なのだ。しかし一人だけのチカラでは勝つことはできない。わがままなプレイは通用しないのだ。


校内練習試合

 

 ヤンチャ時代は男一匹の勝負が出来る。また暴れる事にも慣れてはいたのだが、モールなどで鍛えている相手に揉みくちゃにされたら、手も足も出せない。しまいには倒され、踏みつけられて体もココロもぼろぼろになる。威勢やハッタリだけでは全く通用しない世界。

独りよがりの考え、ラグビーにはそれが通用しない事を練習や試合を通して学んだ。

 

3年生が引退して、卒業。4月になり晴れて2年生となった。

 

 ラグビー部の同期の仲間と、「この1年間よく頑張ったなぁ。」と、お互いを讃えあったのだが、新1年生が入部してくるも、まだ「例の儀式」が終わっていない。僕らは慣れてきた部の仕事を黙々とこなし、1年生をお客さん扱いしながら、春の県大会に参戦していくのであった。

 

 2年生にもなると、同期との仲間関係はさらに強くなり、また先輩とも同じ釜の飯を食う仲間として絆は深くなるものだ。



桜咲く2年時に裕二と。(ジャージは新1年)

 

ハラシナ主将、率いる新チームは春の県大会でベスト8で敗退したため、関東大会への出場は出来なかった。

 

 ちなみに、あの「ラグパンレース」が行われるのは、梅雨時期の6月。2年生になった僕たちも当然、例に違わず「あの儀式」をしっかりと受けたのだ。詳しい場面は省くが、僕はなんとか合格し、罰ゲームのメンバーにはならなかった。

 

 晴れて僕らも「しもべ」から「人間」になれた時は、ようやく日々の仕事から解放される喜びは大きかったのだが、これから始まる1年生の過酷な生活に同情する気持ちも同時に生まれるのだった。

 

2年の夏の菅平合宿あたりから、かなりラグビーを楽しいと思い始めた。


2年の菅平合宿(真ん中著者、右隣は1学年下の北村)


 夏が過ぎて、秋の県大会あたりになると、補欠の候補に入れるくらいになるようになっていた。ポジションは変わらず「フロントロー」であるプロップ。

最前列でスクラムを組み合う役割を担っていた。自分で言うのもなんだが、スクラムとタックルはそれなりにできたと思う。



練習試合(校内合宿)

 

 その頃、勉強の方はというと、毎日ラグビーをするために学校に行っていたようなものだったため、正直なところ当時の授業のことはほとんど記憶にない。

 

テストの成績はいつも何科目か赤点があり、補習を受けなければならない問題児だった。

 

この問題児は、2年の2学期の中間テストで、見事にカンニング事件を起こしてしまう。

 

テスト終了後に、後ろから回って来た答案用紙を一気に写したところが見つかり、大問題に発展してしまう。担任のフルヤ先生に呼び出されたが、「カンニングくらいなら、大した事でもないな。」と僕はタカをくくっていたのだが、全科目ゼロ点扱いになると宣言され、目の前が真っ暗になった。

 

そんな僕をフルヤ先生は、ラグビー部の松久保監督のもとに連行する。

 

体育教員室に入った時に、張り詰めた空気を感じた。

 

「ああ、ヤバイ。」

 

 僕に向き合った時に鬼の形相であった監督は、正座の僕をバチバチに殴るのだった。しかしこれは愛の制裁だったのだ。

 

 その後、母親が学校に呼び出され生活指導の先生に謝罪する。

 

 学年主任の先生からは「本来なら停学の対象にもなるのだけれど、松久保先生にあれだけ制裁を受けているので、本人も反省していると思う。今回だけは停学にはしない。」との処分であった。

 

 松久保監督はあえて別の教師の前で、これでもか。とバチバチに殴ったのだったと思う。そこには間違いなく救済の愛があったのだ。

 

話を部活に戻そう。

秋の県大会も準々決勝(ベスト8)からの試合会場は、横浜の保土ヶ谷ラグビー場。神奈川県の高校ラガーにとって、まずはこの「保土ヶ谷」に行くことが目標になる。



29期の総勢(ハラシナ主将)(部誌より)

 

そして決勝の舞台は三ツ沢競技場。

 

 3年生にとっては最後の闘い。順調に勝ち上がるも、準決勝であの宿敵の相模台工業と激突、昨年の先輩たちの雪辱を果たそうとするが、0対38惜しくも準決勝で敗退。結果はベスト4で「またも敗れたり。」



全国大会 神奈川県予選準決勝 (保土ヶ谷G)

 

 こうして僕たちは先輩たちから「OBになる俺たちを、来年こそ花園に連れて行け、お前達の代なら出来る」。という夢を託された。そして、いよいよ「僕たちの出番」を迎えることになる。

 

 僕がラグビーに与えてもらった「自分を犠牲にしても、人を活かしてこそ、生かされること。」という精神は、今でも僕の心の宝物なのだ。