飯場の子 第9章 30話
「いよいよ甲斐組社員となる」
前述したが、人生初の挫折と敗北を機に、僕は父が経営する株式会社甲斐組に入社した。
まずは当時の建設産業について紹介する。
時は平成2年10月、西暦は1990年でありバブル景気が崩壊する直前であった、
(バブル景気の崩壊は1991年~1993年となっている)国内の建設投資費は81.4兆円(うち公共事業は25.7兆円)であり、ほぼ史上最高水準であった。
ちなみにバブル崩壊を機に建設投資費は下がり続け、2010年には41.9兆円の最低水準になり建設産業は極寒の時代を迎えることになる。
甚大災害である2011年の東日本大震災を機に建設投資費は徐々にその数字を回復して2021年は66.6兆円(公共事業は23.39兆円)にまで回復した。
僕が入社した当時の甲斐組は、まさに建設バブルの最中であり、火を吹くような忙しさだったのだ。
会社の体制は今まで話した通り、父が社長で、叔父である専務の今村登氏、常務の今村千蔵氏、母の克子と姉である由紀、また叔母のノリコさんが事務及び経理を担当していた、まさに昭和スタイルの完全な家族経営だった。
【イメージ】
他に現場監督が2名いて現場の施工管理ができる技術者は社長含め5名程度、そこに1年先輩の大沼さん(通称ヤッさん)と半年先に入社した同期の荻野宏治「ヘギン」が監督助手を務めていた。
【入社時の大沼ヤッさん先輩】
職人は父の高校時代の同級生である「フルヤさん」が職人のカシラであり、飯場の宿舎長もしていた、このフルヤさんも元々は相当なワルで迫力のあるカシラだったのだが、話は大変面白く、冗談も言い合える人であったのだ。
【職人頭のフルヤさん】
飯場の住人は10名くらいだったと思う、それぞれに地元の人ではなく脛に傷もつ人もいた。社員の総勢は常時20人くらいだった。
甲斐組の公共工事の格付けは県市ともにBランクで、舗装と土木に特化しており、売上は年商5~6億円くらい、それでも基本的に直営施工であったので当然利益率は高く、今ではないが高額納税が地域版の紙面で公開される時代で、甲斐組の納税額は地元建設会社の中でもかなり上位にいたらしい。
そんななかでの僕の入社。周囲の社員からは「社長のせがれだ」、「とうとう2代目が入ってきた」という注目や歓迎の声が聞こえてきた。
当然、入社式なんてない、研修期間などもあるはずもない。会社の作業着の正式な着方と安全靴の履き方を教わったくらい。ただ名刺を渡された時は、「ああ、社会人になったんだ。」と、背筋が伸びた気がした。
最初のショックは会社の公休日であった。考えられないが第1・3日曜日、月に2日しかないのだ。勤務時間は朝7時~17時。で、あるが監督助手の若手社員は幹部の叔父達が翌日の現場割り振りを兼ねた飲みニケーションがある程度、落ち着くまで退社出来ないのであった。
【当時の編み上げの安全靴】土木屋だな
「働く」が正義の時代。
ある程度は覚悟していたが、「こんなに休みがないのか」と、建設業界の慣例の壁に早々とぶち当たるのだ。
入社したての僕は、自宅から通う事になり、朝は社長である父の運転手を兼ねていた、乗っていた車は最上級グレードの白いトヨタクラウン。珍しく車両電話も付いており、まさに土建屋のオヤジ仕様であった。
さすがに社長出勤で自宅を出るのが8時くらい、会社か現場に直行するのだが、これが僕にはバツが悪かった。同級の荻野はすでに飯場に住んでいて、7時から置き場などで段取りに勤しんでいる。
現場につくも、荻野は横目に僕をみて明らかに不満な表情を表していた。
行きは社長であるオヤジと出社して、帰りは誰かしらに自宅まで送ってもらう日々が続いた。
しかし、その状況に嫌気がさした僕は入社から1か月後、社長であるオヤジに頼んで「俺も飯場に入れて欲しい」と自ら志願し、飯場に入ることになる。
しかしだ、当時の甲斐組の飯場は、まだまだ良好な環境ではなかった。まずはトイレが汲み取り式便所。これには参る。風呂も大きくもなく同時に4人くらいしか入れない。
また、この飯場には秋には地方からの出稼ぎの人たちが集まり、飯場がいっぱいになる。小さい飯場に、30人くらい住むこともあり、心身ともに落ち着かない環境だった。
基本的には一人部屋はあまりなく、相部屋になる、僕は半年先に入社していた荻野と同部屋になるのだ。そうすると荻野は先輩風をビュンビュン吹かせ、「飯場のしきたり」なんかを偉そうに語り始める。
ある日、仕事がおわり、着ていた作業着を部屋の中で脱いで風呂に入ったことがあった。が、風呂から出ると作業服がこれ見よがしに玄関の土間に打ち投げられていた。
僕はさすがに腹を立て、『なんでこんな事するんだよ!』と食ってかかった。
すると荻野は横目で僕を睨みつけ「服は土間で脱いでから部屋に入れと教わったんだ!!」と言い返す、「だったら先にそれを言えよ!』となり、取っ組みあいの大ゲンカ。
しかし、流石に竹馬の友よ。ケンカした後は必ず、仲直りはするのだった。
1年先輩の大沼さんこと「ヤッさん」は自宅が近く、通勤組で飯場に住んでいなかったが、僕たち3人は仕事では常に行動を共にしていた。
仕事は怒涛の如くの一日で、寝坊などしていると、専務かフルヤさんが飯場の部屋にタタキ起こしにくるのだ。眠い目をこすりながら洗面所で顔を洗い、作業着に着替えて、仕事モードにスイッチを入れる。
出勤するとまずはタイムカードを打刻する事から始まる、そして黒板の番割を確認して置き場に向かう。置き場で、職人の皆に「おはようございます!」の挨拶をしてはダンプトラックなどに大声を出しながら必要な資機材を積み込んで、各現場へ行くのだ。
現場につけば大きな声で通行規制から始まり、バタバタと仕事がはじまる。ボケっとしていると「おい!邪魔だ!」と怒鳴られる。必死で先回りしていた。
右も左もわからない新人の最初にやらされる仕事は舗装工事のホーキマン(掃き掃除)や、それこそ交通誘導員も不足していたので、赤い棒を持ってガードマンをやらせられたり。
【イメージ】
とにかく仕事の用語を覚えるのがやっとで、常務から渡される野帳(ヤチョウ・測量につかうメモ帳)に必死に書き込んでいた。大変なのだが僕は目的さえ定めると、前のめりに学びたくなるので、それが楽しくもあったのだ。
現場を終えた夕方、若手3人が事務所で日報を書いていると、事務所のテーブルで番割りをしている常務やフルヤさんなど、幹部連中らにほぼ毎日「おい、冷たいビール何本か買ってこい」と命ぜられる。
【事務所でふざける著者 隣は荻野氏】
先ほどの飲みながら打ち合わせが始まるわけだ。
若い僕たち3人は、上司がミーティングを続ける手前、先に帰るわけにはいかない。
大体、19時になると、顔色伺い「そろそろあがってもいいですか」と声をかけ、ようやくタイムカードを打刻し退社する。
しかし、これでその日が終わるわけではない。
時々ではあるが、いい気分になった常務が飯場の部屋に20時すぎに飲みへ誘いに来るのだ。
現場でへとへとになるまで働いて、事務所を上がり飯場の食堂でメシもたらふく食べた後、もう横になってテレビを見ている時間。
それでも「おお、オマエらこれから付き合え」とやってくる。
『えー、マジですか?』なのだが、会社の大幹部にそう誘われたら断るわけにはいかない。すぐに寝巻きから着替えて外出準備。僕か荻野の運転で常務の行きつけのスナックに連れていかれ、ウイスキーの水割りをお付き合いするのだった。
【イメージ】
お供は荻野と二人、どちらかがアルコールは飲まないようにして、常務やお客さんをクルマで自宅まで送る。そんな日も多かったが、夜の時間はまた人付き合い的な勉強にもなった。叔父である常務は色々な意味で社会勉強も伝えたかったとのだと、今になり思う。
こうした入社と共に、火を吹くような怒涛の日々に耐えられたのは、年の近い、このヤッさん先輩と荻野という同僚がそばにいてくれたからだと今でも思う。本当にありがたかったし、心強かった。
2人がいてくれたこと、3人でいられたことを今でもすごく感謝している。
そしてその二人は、今も甲斐組グループの幹部として共に仕事をしてくれているのだ。
【新人戦 東海大相模 23-3で勝利】
飯場の子 第7章 27話「ラグビーに与えてもらった宝物」
高校の運動部、当時は強豪校になるほど上下関係は厳しく、さらに部員は個性豊かな面々になる。
我が日大藤沢ラグビー部も面白い仲間が揃っていた。ここで同期の仲間に触れてみたい。
僕たちの代のキャプテンになる心優しき男「ノムラ」、小田原出身で登下校も三年間一緒だった「フジ」、京都からの使者「イマムラシン」、あるいった意味ムードメーカー「ショウヘイ」、横須賀の変態少年「オダ」、保土ヶ谷の熱血漢「ユウジ」、しっかり者の「バーバー」、俊足ウイングで名を馳せた「スガヌマ」、藤沢の遊び人「ヨーキさん」などなど。他にも沢山いるのだが、個性的な仲間だらけの同期30期である。
部室内の同期(2年時)
飯場の子「ヨッチ」は、中学時代はまともにスポーツなどしていない、ご存じの通りヤンチャの時代から、いきなりガチの体育会運動部に入り、体力もなく練習にはとてもついていけないのだ。ただ持ち前の?ワルなキャラと愛嬌モノで同期内では早々と「ボス」とのニックネームをつけられ、なんとなく同期内のムードメーカーとなる。
先輩からはイジられキャラで、演芸マシーン3号(1,2号は大先輩にいるのだ)と名付けられ、現役世代だけではなく数年上のOB諸兄先輩まで「ボス」はラグビーの素質とは全く違う、別な意味でその存在を覚えてもらうようになっていくのだった。
菅原合宿で1学年上の先輩と(イジられ)
しかし元不良のヤマっ気は残しており、1年の時は厳しさに堪え切れず練習をサボるために学校は休むは、ほかにも数々の問題を起こすのだが、松久保監督の愛の制裁で救ってもらうのだ。
ここで「鬼の松久保」と恐れられた恩師についても触れてみる。
恩師55歳くらいですね(部誌より)
松久保監督は、生粋の薩摩隼人、鹿児島大学を卒業後、いきなり日本大学藤沢高等学校の体育教師として赴任させられ、そのまま42年間に渡り日大藤沢の教員及びラグビー部監督として、人生の多くの時間を教師と部の指導者として費やした。
当時、監督は50歳くらい、部を率いて25年。赴任したての頃はどうしようもないワル高校だった頃の部員には手を焼いたと聞く。しかし、その猛者たちをラグビーを通して指導し、県内トップクラスのラグビー部に育て上げたのだ。社会に役立つ人間を育てる。を柱にしていた真の教育者だったと思う。
また、行き場のなくなったどうしようもない生徒をラグビー部に引き受けて、なんとか卒業させる事も多々あったと、僕がOBになってから他の教員や大先輩からも教えてもらった。
そのような存在なので、運動部以外の生徒にも恐れられてはいたのだが、体育の授業の時間は部の指導とはちがい、やたら優しく丁寧な言葉遣いのギャップには苦笑いしてしまった。ユーモアも多々あり、誰にでも怖い存在ではなく、部員やそれ以外の問題生徒には容赦のない鉄拳を叩きこむのだ。
僕が中学時代にヤンチャをしていたことも監督は知っていて、そんな体力もスポーツ経験もない自分でも、蔑視することもなく皆と同じように扱ってくれた。ただ、たまに「おい、ヨシヒロ。お前はまだ平塚のチンピラと付き合っているんか。」と喝を入れられることもあった。
菅原合宿で保護者と(部誌より)
僕がOBとなってからも正月に恩師の自宅に行った時には、よく昔話を語ってくれた。その時に「手を出すのは、分かってくれる者しか出来ない。それはその生徒や部員の眼を見ればわかる。そのような部員も何人もいた。救ってやれなかったことが悔やまれると。」しみじみ二人で“黒ぢょか”で芋焼酎の熱燗を汲みあい、語り合った。
いまも尊い存在の大恩師である。
黒ぢょか
ラグビーについてだが、1年時はとにかく厳しい練習についていけず、辞めたくなった時もあったが、同期の仲間が支えてくれた。ラグビーというスポーツは簡単に言えば「陣取り合戦」なのだが様々な体形や個性を持つポジションに分かれる。スクラムを組むFWは体格とチカラがモノを言う。バックスはスピードとパスやキックの技と視野の広さが求められる。そして全員に必要なのはタックルに向かう度胸なのだ。
同期の裕二と下は吉田ちょく
僕はガタイだけはよかったのでFWのスクラムの最前列であるプロップのポジションを当てられていた。
各々の個性が複雑に絡み合い、フルコンタクトでぶつかり合うまさに“格闘技”なのだ。しかし一人だけのチカラでは勝つことはできない。わがままなプレイは通用しないのだ。
校内練習試合
ヤンチャ時代は男一匹の勝負が出来る。また暴れる事にも慣れてはいたのだが、モールなどで鍛えている相手に揉みくちゃにされたら、手も足も出せない。しまいには倒され、踏みつけられて体もココロもぼろぼろになる。威勢やハッタリだけでは全く通用しない世界。
独りよがりの考え、ラグビーにはそれが通用しない事を練習や試合を通して学んだ。
3年生が引退して、卒業。4月になり晴れて2年生となった。
ラグビー部の同期の仲間と、「この1年間よく頑張ったなぁ。」と、お互いを讃えあったのだが、新1年生が入部してくるも、まだ「例の儀式」が終わっていない。僕らは慣れてきた部の仕事を黙々とこなし、1年生をお客さん扱いしながら、春の県大会に参戦していくのであった。
2年生にもなると、同期との仲間関係はさらに強くなり、また先輩とも同じ釜の飯を食う仲間として絆は深くなるものだ。
桜咲く2年時に裕二と。(ジャージは新1年)
ハラシナ主将、率いる新チームは春の県大会でベスト8で敗退したため、関東大会への出場は出来なかった。
ちなみに、あの「ラグパンレース」が行われるのは、梅雨時期の6月。2年生になった僕たちも当然、例に違わず「あの儀式」をしっかりと受けたのだ。詳しい場面は省くが、僕はなんとか合格し、罰ゲームのメンバーにはならなかった。
晴れて僕らも「しもべ」から「人間」になれた時は、ようやく日々の仕事から解放される喜びは大きかったのだが、これから始まる1年生の過酷な生活に同情する気持ちも同時に生まれるのだった。
2年の夏の菅平合宿あたりから、かなりラグビーを楽しいと思い始めた。
2年の菅平合宿(真ん中著者、右隣は1学年下の北村)
夏が過ぎて、秋の県大会あたりになると、補欠の候補に入れるくらいになるようになっていた。ポジションは変わらず「フロントロー」であるプロップ。
最前列でスクラムを組み合う役割を担っていた。自分で言うのもなんだが、スクラムとタックルはそれなりにできたと思う。
練習試合(校内合宿)
その頃、勉強の方はというと、毎日ラグビーをするために学校に行っていたようなものだったため、正直なところ当時の授業のことはほとんど記憶にない。
テストの成績はいつも何科目か赤点があり、補習を受けなければならない問題児だった。
この問題児は、2年の2学期の中間テストで、見事にカンニング事件を起こしてしまう。
テスト終了後に、後ろから回って来た答案用紙を一気に写したところが見つかり、大問題に発展してしまう。担任のフルヤ先生に呼び出されたが、「カンニングくらいなら、大した事でもないな。」と僕はタカをくくっていたのだが、全科目ゼロ点扱いになると宣言され、目の前が真っ暗になった。
そんな僕をフルヤ先生は、ラグビー部の松久保監督のもとに連行する。
体育教員室に入った時に、張り詰めた空気を感じた。
「ああ、ヤバイ。」
僕に向き合った時に鬼の形相であった監督は、正座の僕をバチバチに殴るのだった。しかしこれは愛の制裁だったのだ。
その後、母親が学校に呼び出され生活指導の先生に謝罪する。
学年主任の先生からは「本来なら停学の対象にもなるのだけれど、松久保先生にあれだけ制裁を受けているので、本人も反省していると思う。今回だけは停学にはしない。」との処分であった。
松久保監督はあえて別の教師の前で、これでもか。とバチバチに殴ったのだったと思う。そこには間違いなく救済の愛があったのだ。
話を部活に戻そう。
秋の県大会も準々決勝(ベスト8)からの試合会場は、横浜の保土ヶ谷ラグビー場。神奈川県の高校ラガーにとって、まずはこの「保土ヶ谷」に行くことが目標になる。
29期の総勢(ハラシナ主将)(部誌より)
そして決勝の舞台は三ツ沢競技場。
3年生にとっては最後の闘い。順調に勝ち上がるも、準決勝であの宿敵の相模台工業と激突、昨年の先輩たちの雪辱を果たそうとするが、0対38惜しくも準決勝で敗退。結果はベスト4で「またも敗れたり。」
全国大会 神奈川県予選準決勝 (保土ヶ谷G)
こうして僕たちは先輩たちから「OBになる俺たちを、来年こそ花園に連れて行け、お前達の代なら出来る」。という夢を託された。そして、いよいよ「僕たちの出番」を迎えることになる。
僕がラグビーに与えてもらった「自分を犠牲にしても、人を活かしてこそ、生かされること。」という精神は、今でも僕の心の宝物なのだ。