太平洋戦争コメント4 | リベラルブログ・生活保護者の色々な記事

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腎臓病と不安神経症で生活保護者。社会やニュース、その他、様々なこと、思ったこと、感じたこと色々なことをブログ記事にしていきたいと思っています。

はまかかさん、≫瀬島氏のインタビュー読みましたがなんでこの人が言っている事が100%本当のことだと言えるのですか?確かにこの人「はこう言っているのかもしれませんがそれを絶対事実だという貴方が理解できません。疑わしいでしょう。本当かもしれません。つまり100%ではない。だけども貴方は100%信じているその根拠をお聞きしたい。>瀬島隆三の履歴です。
【陸軍軍人時代】
瀬島は、富山県西砺波郡松沢村鷲島(現在の小矢部市鷲島)の農家に生まれた。旧制富山県立砺波中学校、陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校44期を首席で卒業し、昭和天皇から恩賜の銀時計を受けた。陸軍大学校51期も首席で卒業し、昭和天皇から恩賜の軍刀を受けた。御前講演のテーマは「日本武将ノ統帥ニ就テ」。削除
2007/10/31(水) 午後 6:45masao返信する
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太平洋戦争時は、大本営参謀としてガダルカナル撤収作戦、ニューギニア作戦などを担当する。最終階級は陸軍中佐であった。1945年7月関東軍参謀に転出。8月の無条件降伏後、ソ連軍との停戦交渉におもむくも、シベリアへ11年間抑留される[1]。この間、連合国側から極東国際軍事裁判に証人として出廷することを命じられ、1946年9月17日に草場辰巳、松村知勝とともにウラジオストクから空路東京へ護送され、ソ連側証人として出廷させられている。
後年瀬島は、シベリア抑留について、日本の軍人や民間人の帰国を規定したポツダム宣言(9条)違反であり、日ソ中立条約を破っての対日参戦とともに、スターリンの犯罪であったと述べている。また、日独伊三国同盟の締結についても、断じて実施すべきではなかったと述懐している[2]。削除
2007/10/31(水) 午後 6:47masao返信する
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上の続き【実業家時代】
シベリア抑留から帰還後、1958年に伊藤忠商事に入社する。入社3年目にして業務部長に抜擢(1961年)され、翌1962年取締役業務本部長、半年後に常務、1968年に専務、1972年に副社長、1977年に副会長、1978年に会長に就任する。帝国陸軍の参謀本部の組織をモデルにした「瀬島機関」と呼ばれる直属の部下を率いて、伊藤忠商事の総合商社化などに辣腕をふるった。[3]

1981年に相談役、1987年に特別顧問に就く。この間、中曽根康弘政権(1982年 - 1987年)のブレーンとして土光臨調委員などを務め政治の世界でも活躍した。1984年勲一等瑞宝章を受章。他にも亜細亜大学理事長、財団法人千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会会長、財団法人太平洋戦争戦没者慰霊協会名誉会長などの公職を歴任した。

2000年に伊藤忠商事特別顧問を退任。2007年9月4日午前0時55分、老衰のため東京都調布市の私邸において死去した。享年95。逝去後、従三位が贈られた。

2007年10月17日、築地本願寺において伊藤忠商事と亜細亜学園主催による合同葬が執り行われた。削除
2007/10/31(水) 午後 6:49masao返信する
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上の続き【人物】
1979年、瀬島龍三夫妻を媒酌人として昭和天皇の孫・東久邇優子(東久邇宮稔彦王第一王子盛厚王の子)と伊藤忠商事社員との結婚式が執り行われることとなった。それを受けて、スリランカ大統領来日歓迎晩餐会が催された際、昭和天皇は瀬島龍三夫妻を特別に呼び、「瀬島は戦前戦後と大変御苦労であった。これからも体に気をつけて国家、社会のために尽くすように。それから、今度お世話になる東久邇の優子は私の孫である。小さいときに母(東久邇成子)と死に別れ、大変かわいそうな孫である。自分はこういう立場にいるので十分な面倒が見られず、長く心に懸かっていた。このたび立派に結婚することができ、自分も皇后も大変喜んでいる。どうか宜しくお願いする」という言葉を瀬島に贈った。これを聞いた瀬島は「陛下よりお言葉を賜ったことで、積年の苦労が全て吹き飛んだ」と周囲に漏らしていたという。東久邇優子の結婚披露宴には皇太子明仁親王、同妃美智子(現在の天皇、皇后)をはじめ全皇族が出席した。削除
2007/10/31(水) 午後 6:51masao返信する
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*ただし、瀬島自身は晩年、フジテレビの番組『新・平成日本のよふけ』の中で「瀬島機関」の存在そのものを否定、マスコミの作り話と語っていた。
注上>瀬島隆三の履歴です。は、>瀬島龍三の履歴です。の間違い。

はまかかさん、と言うように、戦後も中曽根首相のブレーンを務め、何より昭和天皇本人より絶大な信頼を受けている事実を考えると、瀬島龍三の東京新聞でのインタビューは信じられると確信します。
≫仮に本当だとしてもこの人は好きになれないですね。>私も瀬島は嫌いです。731部隊との関係も挙げられているからです。≫なんかしゃべりすぎではないですか?逆に信用できない人物のような気がします。あくまで印象ですが。≫信用はあると思います。履歴を見ても。信用が無ければ就けない要職に就いているからです。削除
2007/10/31(水) 午後 7:19masao返信する
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≫この人は天皇に責任が全部あるといっているんでしょうか?細かいニュアンスが読み取れないので難しいですけど。>晩餐会の出来事を見ても分かるように、瀬島は天皇を敬愛していた。だから天皇に責任があるとは言っていない。ただ自分が経験した事実を答えただけなのだ。≫この人自身責任逃れしようとしてはいませんかね。>これも無いだろう。言ったように、ただ経験した事実を答えただけなのだ。削除
2007/10/31(水) 午後 7:20masao返信する

【瀬島龍三インタビュー】
【東京新聞出版社が平成7年5月13日に出版した、東京新聞・戦後50年取材班編が出した、「元大本営参謀の太平洋戦争・瀬島隆三インタビュー」である。この27ページから抜粋して書く。
聞き手・東京新聞編集局長佐藤殻、同局次長酒向安武、経済部記者大沢賢
【昭和天皇の実像】
― 「参謀本部」というと何かいかめしい、近寄りがたい感じがします。明治憲法(大日本帝国憲法)では統帥権が独立しており、軍隊は天皇に直属し、参謀総長は天皇を補佐する立場にありました。瀬島さんは参謀本部に入られて昭和天皇の実像に接する機会が多かったかと思いますが、実際に天皇と参謀本部のつながりはどんな具合になっていたのでしょうか。瀬島さんは当時の「雲の上]の実情をご存じの、数少ない「生き証人」です。削除
2007/10/31(水) 午後 7:30masao返信する
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【瀬島氏】
私が参謀本部に参りましたのは、昭和14年11月。当時もう日支事変がおきておりましたから、参謀総長は毎日日参でしたね。私はその際の上奏文の起草、それと下問奉答資料をつくる任務をしばらくやっておりました。当時、軍隊を動かす時は必ず陛下の御裁可が必要で、これなしには一個中隊さえ動かすことは出来なかった。陸軍大臣、参謀総長だけでは、日本から満州へ、あるいは満州から日本へ軍隊を移動させることは、一切できない仕組みになっていたのです。参謀総長は拝謁(はいえつ)して奏上し、ご下問にお答えする。そして、御了解を得た上で命令文を別途に侍従武官を通じて提出し、御著名をいただく。それが1つの作戦業務でありました。削除
2007/10/31(水) 午後 7:32masao返信する
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天皇陛下はよく勉強されてました。前日奏上したことと、ご下問に対する答えが合わないと、それをご指摘になるのです。「よきに計らえ」式にやっておられるように思われがちですが、全然違うのですね。
―どんなご下問が多かったのですか。
【瀬島氏】
例えば、戦争が始まってから全アジアの軍から毎日電報が入ります。「軍事機密至急親展」という赤い判子のついてある電報が一番重要な電報。それは大体、参謀総長宛に各軍司令官から来ます。この電報は夜遅くても、参謀本部の将校が宮中の当時の侍従に届けることになっていました。ある時、陛下が御寝所に入られたということで届けなかったところ、おとがめがありましたね。削除
2007/10/31(水) 午後 7:33masao返信する
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陛下はお手元にビルマ方面ならビルマ方面の地図をお持ちになっていて、電報に入っている地名をご自身で印を付けられていたようです。侍従武官室と作戦課との間の直通電話で「ただいま電報をご覧になって地名がよくわからんがどこだと聞いておられる」と、侍従武官から問い合わせがあったことも度々でした。何ヶ月に一度は地図を取り換えるので、お届けに上がったこともありますよ。削除
2007/10/31(水) 午後 7:35masao返信する
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―それだけご熱心だと、奉答資料の作成には相当神経を使われたでしょう。
【瀬島氏】
陛下は科学者でもありましたから、正確を尊ばれましたね。例えば、陛下が杉山参謀総長に「ソロモン方面の軍への補給はむずかしいようだが、今兵はいくらいるのか」とお尋ねになる。それは何個師団とかじゃなくて、何万何千かというお尋ねなんです。杉山総長がアバウトにお答えすると、「もっと正確な数字を報告せよ」とおっしゃる。それは次の拝謁の時に、もって行かなくてはならない。
以降略
以上、著書から抜粋。削除
2007/10/31(水) 午後 7:36masao返信する
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てつさん>『インチキ極まりない、これ以上卑怯な改ざんは無いことをやっているから、いつまで経っても侵略したアジアの人たちが、「日本人は侵略戦争を謝れ!」と言ってくるのです。』
≫事実確認もせず、とりあえず謝って賠償金も支払っているにも関わらずいつまでも謝れといってきていますよね?中国と韓国は。これはたかりといわれてもしかたないのでは?>事実確認をしていないのは我々日本人のほうです。中国も韓国も体験した本人や遺族、殺された白骨遺体など事実を日本に突きつけて抗議しています。
≫あなたの言うアジアはどこの地域を指すのですか?いわゆる特定アジアのことですか?>いわゆるアラブなどのアジアは含まれません。中国・朝鮮半島を含んだ主に環太平洋です。

≫中国と韓国以外に執拗に謝れと言ってくる国は有るのでしょうか?
まず朝鮮。それからフィリピン人の従軍慰安婦等、個別に裁判で日本を訴えています。中国・韓国朝鮮が執拗に言ってくるのは、韓国朝鮮は日帝36年の植民地支配。中国は、南京大虐殺、731部隊等、日本兵の虐殺の度合いが酷く、他の侵略した地域に比べて犯した罪が深く大きいから執拗に言ってくるんだと思削除
2007/10/31(水) 午後 8:23masao返信する
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『>生産性は莫大です。天皇が4つの責任をとれば、戦争の見方も「侵略戦争」で統一されるでしょう』
≫何が生産的なのか?>天皇が4つの責任を取れば、右翼やcoffee、あなた方のような戦争犯罪否定者は、日本の戦争犯罪を認めるようになるでしょう。そうすれば、我々のような国内での争いは無くなり、アジア諸国とももっと交流するようになる。中国・韓国からの経済事業が増え企業は儲かる。政治的にも日本の地位は上がり、常任理事国になれると思う。これらにより、日本の力が増大し、力が国内・海外でぶつからないので効率的にさまざまな分野に集中することができる。削除
2007/10/31(水) 午後 8:24masao返信する
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『>民主主義なら言論の自由は保障されているはずだろう?』
≫では、現在の日本は民主主義ではないですね。>民主主義だが大変弱い。とても未熟な民主主義だ。【天皇が国民の上にいる。だから民主ではないとも言える。】日本市民が、天皇の戦争責任を取らせれば、市民が天皇を動かした事になるので、民主になる。【そのとき日本に本物の民主主義が誕生するだろう。】
『>嫌な事でも受け止めなければならない。2度と侵略者にならない為に。』
≫侵略というのが事実であればね。>【100%事実です】削除
2007/10/31(水) 午後 8:25masao返信する
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てつさん、『>でもそれより黙っていて何もしないと、「虐殺など無い」という卑怯な日本人によって歴史が改ざんされてしまいますからね、黙っているわけにはいかないのでしょう』
≫むしろ、黙っていて何もしないと、「虐殺が有った」という卑怯な中国人によって歴史が改ざんされてしまいますから、右翼と言われる人達は黙っているわけにいかなくなったのでしょう>←こういうことをいうので日本人は卑怯だと言うのです。私の言う「卑怯な日本人とはあなたの事です。」
『>日本軍人を自己批判をしていない為』
≫他人でしょう?あなたは日本軍人だったのですか?>他人でも虐殺した血が僕にもあなたにも流れている。だからその血を断ち切るために日本軍人を批判するのです。批判とは分離する行為だからです。

≫天皇には戦争による死者(戦死、補給途絶による餓死・病死、空襲・原爆の犠牲者、沖縄やサイパンのような戦闘に巻き込まれて亡くなった住民)に対する倫理的な責任はあるように思います。しかし、法的な責任は無いように思います。残念ながら。>道義的責任があります 。削除
2007/10/31(水) 午後 8:38masao返信する


ossanzettoさん、お答えしましょう。それからredpurge、これは君への答えともなるので自分への答えだと思って読んでもらいたい。

≫Coffee殿のブログから飛んできましたが、
瀬島インタビューのどこに天皇陛下が直接戦争の指揮
を執った証拠があるのか、不明なので明らかにしてください。>

>瀬島インタビューのどこにヒロヒト天皇の直接戦争の指揮を執った証拠があるかですが、それは、まず、
【当時、軍隊を動かす時は必ず陛下の御裁可が必要で、これなしには一個中隊さえ動かすことは出来なかった。陸軍大臣、参謀総長だけでは、日本から満州へ、あるいは満州から日本へ軍隊を移動させることは、一切できない仕組みになっていたのです。参謀総長は拝謁(はいえつ)して奏上し、ご下問にお答えする。そして、御了解を得た上で命令文を別途に侍従武官を通じて提出し、御著名をいただく。】と言う所と、削除
2007/10/31(水) 午後 10:29masao返信する
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瀬島氏【前日奏上したことと、ご下問に対する答えが合わないと、それをご指摘になるのです。「よきに計らえ」式にやっておられるように思われがちですが、全然違うのですね。】

>これを解説すると、全ての軍隊はヒロヒト天皇の許可無く動かす事はできなかったとある。そしてヒロヒト天皇は、「よきに計らえ」しこではなく科学者の性格もよるのか、細かく質問して、その答えが前日と違う時はそれを指摘する等の、全てを把握して、了解の著名をしていた、ということだ。それは、明治憲法第55条の『 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責メニ任ス
凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス』という、天皇が、国務大臣の輔弼(輔弼(ほひつ)は、大日本帝国憲法の観念で、天皇の行為としてなされ、あるいは、なされざるべきことについて進言し、その全責任を負うこと。)のイメージをくつがえす姿である事が分かる。即ち、ヒロヒト天皇は、国務大臣(軍参謀総長)の助言を受けて天皇としての行為をしていたのではなく、むしろ、自分が国務大臣(軍参謀総長)を動かしていた、ということが分かるのである。削除
2007/10/31(水) 午後 10:30masao返信する
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また、
【【瀬島氏】
例えば、戦争が始まってから全アジアの軍から毎日電報が入ります。「軍事機密至急親展」という赤い判子のついてある電報が一番重要な電報。それは大体、参謀総長宛に各軍司令官から来ます。この電報は夜遅くても、参謀本部の将校が宮中の当時の侍従に届けることになっていました。ある時、陛下が御寝所に入られたということで届けなかったところ、おとがめがありましたね。 】

>という箇所を見ると、ヒロヒト天皇は、参謀総長宛の「軍事機密至急親展」という一番重要な電報を、毎日見ており、ヒロヒト天皇が寝所に入ったことで届けなかった時はそれをとがめた、と言っている。このことからも、ヒロヒトが、毎日情報を受け取って、分からない所は質問して、戦争の状況を完全に把握していたことを示している。
これらのことから、『ヒロヒトが常に直接戦争の指揮を執っていたことが伺える。削除
2007/10/31(水) 午後 10:31masao返信する
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≫いつ、いかなる時の作戦を陛下が立案し、実行させ、
その首尾と事後フォローがどうされたのか具体的に示して
下さい。>

については
【【瀬島氏】
陛下は科学者でもありましたから、正確を尊ばれましたね。例えば、陛下が杉山参謀総長に「ソロモン方面の軍への補給はむずかしいようだが、今兵はいくらいるのか」とお尋ねになる。それは何個師団とかじゃなくて、何万何千かというお尋ねなんです。杉山総長がアバウトにお答えすると、「もっと正確な数字を報告せよ」とおっしゃる。それは次の拝謁の時に、もって行かなくてはならない。】

>と言う箇所を見れば、瀬島の『陛下が杉山参謀総長に「ソロモン方面の軍への補給はむずかしいようだが、今兵はいくらいるのか」とお尋ねになる。』という箇所がある。これは、この文の入り方からみて、杉山参謀総長がソロモン方面の報告をヒロヒトにしてからの質問というより、いきなりヒロヒトのほうから、杉山参謀総長にソロモン方面の質問を投げかけたことが分かる。削除
2007/10/31(水) 午後 10:33masao返信する
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それは、ヒロヒトが杉山参謀総長に『それは何個師団とかじゃなくて、何万何千かというお尋ねなんです。』という細かな質問をしたとき、『杉山総長がアバウトにお答えすると、』という杉山参謀総長のアバウトの答えることから見て、杉山がアバウトに答えたのは、「ソロモン方面の資料を事前に用意していなかった」、または、「ソロモン方面のイメージが頭に無かった」ことを示している。これは、杉山参謀総長が、ソロモン方面に関して、【ヒロヒトからいきなり質問されたことを伺わせる。】即ち、【ヒロヒトは、自分から杉山参謀総長に質問して、ソロモン方面の不備があると、兵を増強するなりさせていた可能性が高いことを示している。】削除
2007/10/31(水) 午後 10:38masao返信する
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故人の悪口を言うのは卑怯ですが、仕方が無い。
先ず天皇の裁可が無ければ兵隊一人動かせない。
というのは絶対に嘘で、柳条湖事件、張鼓峰事件、
ノモンハン事件、・・・・現場の独断で交戦した事例など、
枚挙にいとまがありません。削除
2007/10/31(水) 午後 10:38[ - ]返信する
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ただそれは、おそらく、『ソロモン方面に兵を増強しろ!』というような指示ではなく、杉山参謀総長が後から『何万何千です。』と答えると、毎日「軍事機密至急親展」を見ているので敵の情報も知っているヒロヒトから『敵は何万何千いるのであろう?我が軍は2万ほど少ないがそれで勝てるのか?』というような聞き方をして、杉山参謀総長が『それでは後1万ほど兵を送ることにします。』というような、ドイツのヒトラーが『ここに何万何千兵を送れ!』という指揮をしたのとは違って、杉山参謀総長に不備な所の質問を投げかけることで、【杉山自身が、自然と、『こうしなければ行けない』と思うような指揮を執っていたということだ。だから、表面的にはヒロヒトが指揮を執っているようには見えないのだ。】しかし実際は、【杉山参謀総長を通して、ヒロヒトは全軍を動かしていたのだ!】削除
2007/10/31(水) 午後 10:39masao返信する



ossanzettoさん、 ≫故人の悪口を言うのは卑怯ですが、仕方が無い。
先ず天皇の裁可が無ければ兵隊一人動かせない。
というのは絶対に嘘で、柳条湖事件、張鼓峰事件、
ノモンハン事件、・・・・現場の独断で交戦した事例など、
枚挙にいとまがありません。>と言う事ですが、瀬島龍三はインタビューで、【私が参謀本部に参りましたのは、昭和14年11月。当時もう日支事変がおきておりましたから、参謀総長は毎日日参でしたね。私はその際の上奏文の起草、それと下問奉答資料をつくる任務をしばらくやっておりました。当時、軍隊を動かす時は必ず陛下の御裁可が必要で、これなしには一個中隊さえ動かすことは出来なかった。】と言っており、「柳条湖事件、張鼓峰事件、ノモンハン事件」が起きた後で参謀本部に入っている。従って、瀬島が参謀本部に入る前のヒロヒトの言動に関しては、他の資料から推し量るしかない。削除
2007/11/3(土) 午後 9:36masao返信する
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しかし瀬島が、【当時、軍隊を動かす時は必ず陛下の御裁可が必要で、これなしには一個中隊さえ動かすことは出来なかった。】と言っている事から見て、瀬島が来る前から、上で書いた↑≪全ての軍隊はヒロヒト天皇の許可無く動かす事はできなかったとある。そしてヒロヒト天皇は、「よきに計らえ」しこではなく科学者の性格もよるのか、細かく質問して、その答えが前日と違う時はそれを指摘する等の、全てを把握して、了解の著名をしていた、≫という行動をして、既に全軍の指揮していた、と考えて良いだろう。その上で「柳条湖事件、張鼓峰事件、ノモンハン事件、」でヒロヒトがどう関わっていたのかを検証してみたい。削除
2007/11/3(土) 午後 9:41masao返信する
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しかしその前に、これらの事件を調べるうちに、奇妙な事に気がついた。それは、関東軍が、関わっている事件、大虐殺の殆どが、関東軍司令官の指示ではなく、下級士官の独断で行ったとされる点だ。軍隊は、完全な階級社会である。上官の命令なくして下士官が独断で軍を動かすなどできない。また独断で戦争を仕掛ければ必ず重罪となる。しかし「柳条湖事件、張鼓峰事件、ノモンハン事件」とも、多大な成果を挙げているわけでも無いのに、独断で行動した兵士は責任を取っていないのである。これは、最高司令官、またヒロヒトも知っていたからではないかとの疑いを持たざるを得ない。削除
2007/11/3(土) 午後 9:42masao返信する
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ossanzettoさん、≫まず張鼓峰事件ですが、
【昭和13年6月13日 ソ連人民委員部極東部長官(GPU長官)リュシコフ政治大将が、満州国琿春県に亡命した。これが動機であったとは明言できないが7月9日 10数名のソ連兵が張鼓峰頂上に現れその兵力は次第に増加した。
ソ連兵増強の確認を古城守備隊より受けた朝鮮軍(軍司令官 小磯國昭大将)は、第19師団の一部派遣を準備した。7月13日 第19師団からソ連兵約40名が張鼓峰を占領中で、着々陣地構築中である旨報告を受けた朝鮮軍は、多田参謀本部次長、東條陸軍次官、磯谷関東軍参謀長あてに発電した。
7月16日 大陸令第154号をもって朝鮮軍司令官に次のように命令した。「張鼓峰付近に於けるソ軍の不法越境に対し、所要に応じ在鮮の隷下部隊を国境近く集中することを得。但し実力の行使は命令に依る。」削除
2007/11/3(土) 午後 10:33masao返信する
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7月20日 閑院宮参謀総長が武力行使について上奏裁可を仰ごうとした。その際陛下から、『現在の情勢に於いて万々一にも真面目な対ソ戦が起きた場合、どう処置を付ける考えか』との御下問、特に支那事変拡大中の我が国力・経済力について御軫念の程を拝察されるお言葉があり、裁可を仰ぐのを自発的に取りやめ、朝鮮軍に対し大陸指第204号にて事実上の武力行使中止を命じた。これで張鼓峰事件は不拡大方針をもって打ち切ることができるかに見えた。

7月29日 ソ連軍が新たに張鼓峰北方2キロの沙草峰南方の国境を越えて陣地の構築を開始したことを確認した第19師団長・尾高亀蔵中将は、ソ連の新たな進攻と見なして2個小隊をもって独断これを攻撃駆逐した後、紛争を避けるため後方に退いた。するとソ連増援部隊が沙草峰一帯を占領、さらにブリュッヘル司令官の命令により第40狙撃師団主力が前進、第39狙撃軍団と沿海集団飛行隊が戦闘態勢に置かれた。尾高師団長が沙草峰方面へのソ連軍の越境を新たな事件として独断攻撃を加えたことにより、事態は急激に発展する。削除
2007/11/3(土) 午後 10:35masao返信する
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7月30日 第19師団は2個大隊余をもって沙草峰及び沙草峰方面のソ連軍に夜襲を敢行、一帯の稜線を占領した。これに対しソ連軍は、第40狙撃師団主力をもって全面攻撃を加えてきたが、日本軍はこれをすべて撃退した。
ソ連軍は8月6日から軍団主力をもって総攻撃を開始。ソ連国防人民委員ヴォロシロフはシュテルン大将を軍団長に任命、3個狙撃師団と1個機械化旅団をもって日本軍の撃滅と国境回復を命じた。以後5日間激戦が続いた。圧倒的な戦力差の中で第19師団は専守防御に徹し、強烈な砲撃、執拗な戦車攻撃などに耐え陣地を固守して奮戦、張鼓峰・沙草峰両高地を死守してはいたが、損害増加により戦力の限界が危ぶまれていた。

中央部においても、ともかく一度当面のソ連軍を撃退して面目も達したのだから、いつまでも苦しい防御戦闘を継続する必要もないではないか、軍は自主的に、ある時期をみて兵を撤収することが適当ではないか、という意見が有力になっていた。削除
2007/11/3(土) 午後 10:36masao返信する
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こうした中でモスクワでの停戦協議が成立したのは8月11日のことである。】というのが張鼓峰事件で、ヒロヒトはこの戦いで、
【8月15日1400 閑院宮参謀総長は、張鼓峰事件終結に関し委細上奏申し上げたところ、「今回張鼓峰事件において、わが将兵が困難なる状況の下に寡兵これに当り、自重隠忍克くその任務を完うせるは満足に思う。尚死傷者に対し哀矜の情に勝えず。この旨将兵に申し伝えよ。」との優渥なる勅語を賜った。
このお言葉は参軍第502号によって朝鮮軍に電報され、軍から関係諸隊に伝達された。】
という事で、ヒロヒトは、張鼓峰事件前は、『大陸指第204号にて事実上の武力行使中止を命じた。』にも関わらず、張鼓峰事件終結後には、【自重隠忍克くその任務を完うせるは満足に思う。尚死傷者に対し哀矜の情に勝えず。この旨将兵に申し伝えよ。】と褒め称えている。しかし、明治憲法には、削除
2007/11/3(土) 午後 10:37masao返信する
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第11条
天皇ハ陸海軍ヲ統帥(とうすい)ス
備考;統帥=軍隊を支配下におき率いること==⇒統帥権。

第12条
天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額(へいがく)ヲ定ム
備考;兵額=兵士の人数。

第13条
天皇ハ戦(たたかい)ヲ宣(せん)シ和ヲ講(こう)シ及諸般ノ条約ヲ締結(ていけつ)ス
備考;諸般=いろいろ

第3条
天皇ハ神聖(しんせい)ニシテ侵(おか)スヘカラス
備考;神聖=けがれなく尊いこと。清らかで冒しがたいこと。

第4条
天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権(とうちけん)ヲ総攬(そうらん)シ此(この)ノ憲法ノ条規(じょうき)ニ依(よ)リ之(これ)ヲ行フ
備考;元首=国際法上,外部に向かって国家を代表する資格をもつ国家機関。君主国では君主,共和国では大統領。総攬=一手に握って掌握(しょうあく=手の中におさめること。物事を意のままにすること)すること。

とあり、陸海軍の統帥の天皇の命令は絶対に冒してはならないとあるのも関わらず、ヒロヒトは罰するどころか褒め称えている。これは何故なのか。削除
2007/11/3(土) 午後 10:38masao返信する
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【おそらくヒロヒトは、懸念を表明しながらも、ソ連側と戦うことになっても良い、と暗黙に裁可を与えていたからではないだろうか。】その証拠は張鼓峰事件の日本軍の戦力にある。

【===== 戦果と損失 =====

日本軍 ソ連軍
戦闘兵力 6814名 15000名
動員兵力 8862名 32000名
火砲 37門 237門
戦車 - 285両
航空支援 - 250機
戦死 526名 792名
戦傷 914名 2752名
戦病 - 527名
死傷率 21.1% 27.1%
戦車破壊 96両
砲 〃 16門
機関銃〃 3丁
飛行機撃墜 3機
鹵獲小銃 105丁
〃自動小銃 3丁
〃機関銃 22丁

ソ連軍の損害は、1993年に秘密指定解除によって公表された統計調査による。】

とあり、動員兵力8862人という大人数で、第19師団長・尾高亀蔵中将が独断で仕掛けるには余りにも規模が大き過ぎるからである。削除
2007/11/3(土) 午後 10:40masao返信する
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この規模から見て、関東軍司令官が、知らないはずはなく、司令官が知っていたとすると、当然上に瀬島インタビューの、【戦争が始まってから全アジアの軍から毎日電報が入ります。「軍事機密至急親展」という赤い判子のついてある電報が一番重要な電報。それは大体、参謀総長宛に各軍司令官から来ます。この電報は夜遅くても、参謀本部の将校が宮中の当時の侍従に届けることになっていました。ある時、陛下が御寝所に入られたということで届けなかったところ、おとがめがありましたね。】というヒロヒトが『知らないはずが無い。』【従って張鼓峰事件はヒロヒトの裁可により始めた戦争であると断ずる。】削除
2007/11/3(土) 午後 10:41masao返信する
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ossanzettoさん、次に「 ノモンハン事件」ですが、

【「満ソ国境紛争処理要綱」
1938年に起こった張鼓峰事件は、満州とソ連の国境でおこった紛争だったが、関東軍・満州国軍ではなく日本の朝鮮軍が戦った。この事件でソ連側が多くを得たことに不満を感じた関東軍は、係争地を譲らないための方針を独自に作成した。それが「満ソ国境紛争処理要綱」である。
「満ソ国境紛争処理要綱」は辻政信参謀が起草し、1939年4月に植田謙吉関東軍司令官が示達した。要綱は、「国境線明確ならざる地域に於ては、防衛司令官に於て自主的に国境線を認定」し、「万一衝突せば、兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期す」として、日本側主張の国境線を直接軍事力で維持する好戦的方針を示していた。この要領を東京の大本営は黙認し、政府は関知しなかった。】削除
2007/11/4(日) 午前 0:56masao返信する
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また、
【ノモンハン事件は植田関東軍司令官、磯谷廉介参謀長の消極論に対して、参謀の辻政信、服部卓四郎らが強硬論を唱え、参謀本部を説得して進めたものだった。圧倒的なソ連軍の航空機と戦備のまえに、無暴な作戦を進め、あまつさえ敗戦の因を現地の連隊長に押しつけ、自殺を強要するという、これらの幕僚の無責任さはその後の日本軍の退廃の予兆だった。しかも植田と磯谷は予備役に編入されて責任はとったのに、 辻も服部も閑職に追われただけで、のちに東條によって重用されたのは、 東條人事の専横さを裏づけるものとして汚点になった。】

【===== 関東軍の決心と陸軍中央部 =====

関東軍 司令部要員 軍司令官 植田 謙吉 大将(10)
軍参謀長 磯谷 廉介 中将(16)
参謀副長 矢野 音三郎 少将(22)
高級参謀 寺田 雅雄 大佐(29 作戦課長)
作戦主任 服部 卓四郎 中佐(34 作戦班長)
作戦参謀 辻 政信 少佐(36)】削除
2007/11/4(日) 午前 0:58masao返信する
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【関東軍の「国境」に対処する方式が辻政信参謀の起案による「満ソ国境処理要綱」である。この要項の好戦的な性格が、ノモンハンの国境紛争を拡大し、避けることのできた紛争を、甚大な被害を伴う一大会戦としてしまった、といえるのである。
「満ソ国境処理要綱」は全8条で、「関作令(関東軍作戦命令)第1488号」として1939年4月に発令されている】削除
2007/11/4(日) 午前 0:59masao返信する
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【【資料7-1】関東軍「満ソ国境紛争処理要綱」(1939年4月25日示達)
方 針
一 軍は侵さす侵さしめさるを満洲防衛の根本の基調とす 之か為満「ソ」国境に於る 「ソ」軍 (外蒙軍を含む)の不法行為に対しては周到なる準備の下に徹底的に之を膺懲し「ソ」軍を慴 伏せしめ其の野望を初動に於て封殺破摧す
要 領
二 敵の不法行為に対しては 断固徹底的に膺懲することに依りてのみ事件の頻発又は拡大 を防 止し得ることは「ソ」軍の特性と過去の実績とに徴し極めて明瞭なる所以を部下 に徹底し特 に第一線部隊に於ては国境接壌の特性を認識し国境付近に生起する小戦の 要領を教育し苟く も戦へは兵力の多寡非理の如何に拘らす必勝を期す
三 国境線明瞭なる地点に於ては 我より進んて彼を侵ささる如く厳に自戒すると共に彼の 越境 を認めたる時は周到なる計画準備の下に十分なる兵力を用ひ此を急襲殱滅す
右の目的を達成する為一時的に「ソ」領に進入し又は「ソ」兵を満領内に誘致滞留せ しむる ことを得 此際我か死傷者等を「ソ」領内に遺留せさることに関し万全を期す ると共に勉め て彼側の屍体、俘虜等を獲得す削除
2007/11/4(日) 午前 1:02masao返信する
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四 国境線明確ならさる地域に於ては防衛司令官に於て自主的に国境線を認定して之を第 一線部 隊に明示し無用の紛糾惹起を防止すると共に第一線の任務達成を容易ならしむ 而て右地域内 に於ては必要以外の行動を為ささると共に苟くも行動の要ある場合に於 ては至厳なる警戒と 周到なる部署とを以てし万一衝突せは兵力の多寡竝に国境の如何に拘らす必勝を期す
六 事件発生せは速かに之を報告通報すると共に爾後に於ける処理の経過を適時報告通報し神速適 切なる対策に上下左右遺憾なきを期す
七 国境に位置する第一線部隊は能く国境接壌の特性を認識し無用の事端を惹起せさるこ とに対 しては万全を期すると共に常に彼の動静を明かにし万一紛争惹起せは任務に基 き断固として 積極果敢に行動し其結果派生すへき事態の収拾処理に関しては上級司令 部に信倚し意を安ん して唯第一線現状に於ける必勝に専念し万全を期す削除
2007/11/4(日) 午前 1:04masao返信する
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【八 従来の指示通諜等は爾今一切之を廃棄す】
備考 第四項に於て防衛司令官か自主的に認定指示したる国境線は速やかに報告するものとす
出典:防衛庁防衛研修所戦史室・戦史叢書27『関東軍(1)』(朝雲新聞社、1969年)、 424- 425頁所収。】

【この要項の問題点は大きく2つある。
・方針自体が政治的ではなく軍事的であった。
・守備なのだから、紛争は出来るだけ穏便な形で抑える方向であるべきなのに、やり方自体が勇ましく叩き伏せる方向であった。

この要項は外務省が作ったのではなく、軍が勝手に作ったからこうなったのだ。
しかし、より根本的な問題は、いやしくも高レベルの政治問題であるこの国境政策に対して、当時の政府が何も言わなかったこと、及び【天皇も何も言わなかったことである。】削除
2007/11/4(日) 午前 1:04masao返信する
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【「満ソ国境紛争処理要綱」の出だしにはこうありました。
「軍(関東軍)は侵さず、侵さしめざるを満州防衛の基本方針とする」
つまり、ソ連軍(外蒙軍含む)が優勢であるとは言えども、国境線に関してはお互いにこれを侵さず侵されずという形を取るというものでした。
しかし、そこから先が問題でした。
「万一ソ連軍が越境して来た時には、周到なる準備計画の下に徹底的にこれを膺懲(ようちょう:懲らしめ思い知らせること)せしめ、ソ連の不法なる野望を初動において粉砕する」
つまり、ソ連軍がもし国境を越えて満州国に入ってきたら、関東軍は戦力を集中してこれを撃滅するというものでした。
「そのためには、一時的にソ連領に侵入したり、ソ連軍を満州国領内に誘致、滞留せしむるも可」
「国境線不明瞭なりし地域においては、現地防衛司令官が自主的に国境線を認定し、第一線部隊に指示すると同時に、戦力の多寡国境線の如何なりとも必勝を期す」削除
2007/11/4(日) 午前 1:06masao返信する
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つまり、満州国政府ひいては日本政府とソ連政府が外交で話し合うべき国境線を、現地司令官が勝手に判断して国境と主張し、勝手に判断した国境をソ連軍が越えるよう仕向けることができ、そこを越えたソ連軍を排除するためには、天皇の命令が無ければできないはずの軍の国境線の越境をしてもよいと言っているのです。 】

【(関東軍作戦課員)が「満ソ国境紛争処理要綱」を起草したのは、1939(昭和14)年3月またはそれ以前と思われる。関東軍司令官植田謙吉はこれに同意した。その後、東京で師団長会議が開かれ、関東軍からは磯谷参謀長が出席したが、その際に「満ソ国境処理要綱」案を参謀本部に提出した。陸軍省へは、「ハルハ河国境説」を正式に承認するよう要請したと言われる(矢島前掲書p16~17)。
ところが、参謀本部は多忙を極めていたこともあろうが、「処理要綱」の検討を即座にはせず放置していた。削除
2007/11/4(日) 午前 1:07masao返信する
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関東軍では、参謀本部から特に反対されなかったのでこれを認可されたものとして、4月に「関東軍作戦命令第1488号」として発令し、既述のように4月25日には新京に兵団長をあつめ植田関東軍司令官自らが直接に「下達」した。これ以後は「隷下の司団長としてこれ(満ソ国境処理要綱)を実行しなければ命令違反となる」(北川前掲書 p126)ということになったのである。
したがって最前線の将兵たちが、ハルハ河国境を信じ、それを「越境」して我が方へ侵入してくるモンゴル騎兵を「急襲殲滅」せんとし、「必勝を期」したのは当然なのである。そうしなければ、命令違反となるのだ。削除
2007/11/4(日) 午前 1:10masao返信する
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関東軍の立場からすれば、参謀本部へ正式な形式によって「満ソ国境処理要綱」案を提出してあって、認可を待っていた。師団長会議がおそらく3月末~4月初にあり、数日~1週間程度待ったのではないか(これについては目下資料なし)。特に咎めれらる点も注意もなかったのでそのまま受理されたものと理解して満州へ帰った、というのはありうることだ。(参謀本部で未検討であることを、うすうすは知っていても、それをいいことに、頬被りして、受理されたものと理解するというやり方をした、ということも考えられる。)
当時の参謀本部作戦課長の稲田正純大佐は、戦後、雑誌「別冊知性」の論文で、次のようなあいまいな説明をしている。
当時の情勢上、