


ossanzettoさん、≫まず張鼓峰事件ですが、
【昭和13年6月13日 ソ連人民委員部極東部長官(GPU長官)リュシコフ政治大将が、満州国琿春県に亡命した。これが動機であったとは明言できないが7月9日 10数名のソ連兵が張鼓峰頂上に現れその兵力は次第に増加した。
ソ連兵増強の確認を古城守備隊より受けた朝鮮軍(軍司令官 小磯國昭大将)は、第19師団の一部派遣を準備した。7月13日 第19師団からソ連兵約40名が張鼓峰を占領中で、着々陣地構築中である旨報告を受けた朝鮮軍は、多田参謀本部次長、東條陸軍次官、磯谷関東軍参謀長あてに発電した。
7月16日 大陸令第154号をもって朝鮮軍司令官に次のように命令した。「張鼓峰付近に於けるソ軍の不法越境に対し、所要に応じ在鮮の隷下部隊を国境近く集中することを得。但し実力の行使は命令に依る。」
【昭和13年6月13日 ソ連人民委員部極東部長官(GPU長官)リュシコフ政治大将が、満州国琿春県に亡命した。これが動機であったとは明言できないが7月9日 10数名のソ連兵が張鼓峰頂上に現れその兵力は次第に増加した。
ソ連兵増強の確認を古城守備隊より受けた朝鮮軍(軍司令官 小磯國昭大将)は、第19師団の一部派遣を準備した。7月13日 第19師団からソ連兵約40名が張鼓峰を占領中で、着々陣地構築中である旨報告を受けた朝鮮軍は、多田参謀本部次長、東條陸軍次官、磯谷関東軍参謀長あてに発電した。
7月16日 大陸令第154号をもって朝鮮軍司令官に次のように命令した。「張鼓峰付近に於けるソ軍の不法越境に対し、所要に応じ在鮮の隷下部隊を国境近く集中することを得。但し実力の行使は命令に依る。」

7月20日 閑院宮参謀総長が武力行使について上奏裁可を仰ごうとした。その際陛下から、『現在の情勢に於いて万々一にも真面目な対ソ戦が起きた場合、どう処置を付ける考えか』との御下問、特に支那事変拡大中の我が国力・経済力について御軫念の程を拝察されるお言葉があり、裁可を仰ぐのを自発的に取りやめ、朝鮮軍に対し大陸指第204号にて事実上の武力行使中止を命じた。これで張鼓峰事件は不拡大方針をもって打ち切ることができるかに見えた。
7月29日 ソ連軍が新たに張鼓峰北方2キロの沙草峰南方の国境を越えて陣地の構築を開始したことを確認した第19師団長・尾高亀蔵中将は、ソ連の新たな進攻と見なして2個小隊をもって独断これを攻撃駆逐した後、紛争を避けるため後方に退いた。するとソ連増援部隊が沙草峰一帯を占領、さらにブリュッヘル司令官の命令により第40狙撃師団主力が前進、第39狙撃軍団と沿海集団飛行隊が戦闘態勢に置かれた。尾高師団長が沙草峰方面へのソ連軍の越境を新たな事件として独断攻撃を加えたことにより、事態は急激に発展する。
7月29日 ソ連軍が新たに張鼓峰北方2キロの沙草峰南方の国境を越えて陣地の構築を開始したことを確認した第19師団長・尾高亀蔵中将は、ソ連の新たな進攻と見なして2個小隊をもって独断これを攻撃駆逐した後、紛争を避けるため後方に退いた。するとソ連増援部隊が沙草峰一帯を占領、さらにブリュッヘル司令官の命令により第40狙撃師団主力が前進、第39狙撃軍団と沿海集団飛行隊が戦闘態勢に置かれた。尾高師団長が沙草峰方面へのソ連軍の越境を新たな事件として独断攻撃を加えたことにより、事態は急激に発展する。

7月30日 第19師団は2個大隊余をもって沙草峰及び沙草峰方面のソ連軍に夜襲を敢行、一帯の稜線を占領した。これに対しソ連軍は、第40狙撃師団主力をもって全面攻撃を加えてきたが、日本軍はこれをすべて撃退した。
ソ連軍は8月6日から軍団主力をもって総攻撃を開始。ソ連国防人民委員ヴォロシロフはシュテルン大将を軍団長に任命、3個狙撃師団と1個機械化旅団をもって日本軍の撃滅と国境回復を命じた。以後5日間激戦が続いた。圧倒的な戦力差の中で第19師団は専守防御に徹し、強烈な砲撃、執拗な戦車攻撃などに耐え陣地を固守して奮戦、張鼓峰・沙草峰両高地を死守してはいたが、損害増加により戦力の限界が危ぶまれていた。
中央部においても、ともかく一度当面のソ連軍を撃退して面目も達したのだから、いつまでも苦しい防御戦闘を継続する必要もないではないか、軍は自主的に、ある時期をみて兵を撤収することが適当ではないか、という意見が有力になっていた。
ソ連軍は8月6日から軍団主力をもって総攻撃を開始。ソ連国防人民委員ヴォロシロフはシュテルン大将を軍団長に任命、3個狙撃師団と1個機械化旅団をもって日本軍の撃滅と国境回復を命じた。以後5日間激戦が続いた。圧倒的な戦力差の中で第19師団は専守防御に徹し、強烈な砲撃、執拗な戦車攻撃などに耐え陣地を固守して奮戦、張鼓峰・沙草峰両高地を死守してはいたが、損害増加により戦力の限界が危ぶまれていた。
中央部においても、ともかく一度当面のソ連軍を撃退して面目も達したのだから、いつまでも苦しい防御戦闘を継続する必要もないではないか、軍は自主的に、ある時期をみて兵を撤収することが適当ではないか、という意見が有力になっていた。

こうした中でモスクワでの停戦協議が成立したのは8月11日のことである。】というのが張鼓峰事件で、ヒロヒトはこの戦いで、
【8月15日1400 閑院宮参謀総長は、張鼓峰事件終結に関し委細上奏申し上げたところ、「今回張鼓峰事件において、わが将兵が困難なる状況の下に寡兵これに当り、自重隠忍克くその任務を完うせるは満足に思う。尚死傷者に対し哀矜の情に勝えず。この旨将兵に申し伝えよ。」との優渥なる勅語を賜った。
このお言葉は参軍第502号によって朝鮮軍に電報され、軍から関係諸隊に伝達された。】
という事で、ヒロヒトは、張鼓峰事件前は、『大陸指第204号にて事実上の武力行使中止を命じた。』にも関わらず、張鼓峰事件終結後には、【自重隠忍克くその任務を完うせるは満足に思う。尚死傷者に対し哀矜の情に勝えず。この旨将兵に申し伝えよ。】と褒め称えている。しかし、明治憲法には、
【8月15日1400 閑院宮参謀総長は、張鼓峰事件終結に関し委細上奏申し上げたところ、「今回張鼓峰事件において、わが将兵が困難なる状況の下に寡兵これに当り、自重隠忍克くその任務を完うせるは満足に思う。尚死傷者に対し哀矜の情に勝えず。この旨将兵に申し伝えよ。」との優渥なる勅語を賜った。
このお言葉は参軍第502号によって朝鮮軍に電報され、軍から関係諸隊に伝達された。】
という事で、ヒロヒトは、張鼓峰事件前は、『大陸指第204号にて事実上の武力行使中止を命じた。』にも関わらず、張鼓峰事件終結後には、【自重隠忍克くその任務を完うせるは満足に思う。尚死傷者に対し哀矜の情に勝えず。この旨将兵に申し伝えよ。】と褒め称えている。しかし、明治憲法には、

第11条
天皇ハ陸海軍ヲ統帥(とうすい)ス
備考;統帥=軍隊を支配下におき率いること==⇒統帥権。
第12条
天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額(へいがく)ヲ定ム
備考;兵額=兵士の人数。
第13条
天皇ハ戦(たたかい)ヲ宣(せん)シ和ヲ講(こう)シ及諸般ノ条約ヲ締結(ていけつ)ス
備考;諸般=いろいろ
第3条
天皇ハ神聖(しんせい)ニシテ侵(おか)スヘカラス
備考;神聖=けがれなく尊いこと。清らかで冒しがたいこと。
第4条
天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権(とうちけん)ヲ総攬(そうらん)シ此(この)ノ憲法ノ条規(じょうき)ニ依(よ)リ之(これ)ヲ行フ
備考;元首=国際法上,外部に向かって国家を代表する資格をもつ国家機関。君主国では君主,共和国では大統領。総攬=一手に握って掌握(しょうあく=手の中におさめること。物事を意のままにすること)すること。
とあり、陸海軍の統帥の天皇の命令は絶対に冒してはならないとあるのも関わらず、ヒロヒトは罰するどころか褒め称えている。これは何故なのか。
天皇ハ陸海軍ヲ統帥(とうすい)ス
備考;統帥=軍隊を支配下におき率いること==⇒統帥権。
第12条
天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額(へいがく)ヲ定ム
備考;兵額=兵士の人数。
第13条
天皇ハ戦(たたかい)ヲ宣(せん)シ和ヲ講(こう)シ及諸般ノ条約ヲ締結(ていけつ)ス
備考;諸般=いろいろ
第3条
天皇ハ神聖(しんせい)ニシテ侵(おか)スヘカラス
備考;神聖=けがれなく尊いこと。清らかで冒しがたいこと。
第4条
天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権(とうちけん)ヲ総攬(そうらん)シ此(この)ノ憲法ノ条規(じょうき)ニ依(よ)リ之(これ)ヲ行フ
備考;元首=国際法上,外部に向かって国家を代表する資格をもつ国家機関。君主国では君主,共和国では大統領。総攬=一手に握って掌握(しょうあく=手の中におさめること。物事を意のままにすること)すること。
とあり、陸海軍の統帥の天皇の命令は絶対に冒してはならないとあるのも関わらず、ヒロヒトは罰するどころか褒め称えている。これは何故なのか。

【おそらくヒロヒトは、懸念を表明しながらも、ソ連側と戦うことになっても良い、と暗黙に裁可を与えていたからではないだろうか。】その証拠は張鼓峰事件の日本軍の戦力にある。
【===== 戦果と損失 =====
日本軍 ソ連軍
戦闘兵力 6814名 15000名
動員兵力 8862名 32000名
火砲 37門 237門
戦車 - 285両
航空支援 - 250機
戦死 526名 792名
戦傷 914名 2752名
戦病 - 527名
死傷率 21.1% 27.1%
戦車破壊 96両
砲 〃 16門
機関銃〃 3丁
飛行機撃墜 3機
鹵獲小銃 105丁
〃自動小銃 3丁
〃機関銃 22丁
ソ連軍の損害は、1993年に秘密指定解除によって公表された統計調査による。】
とあり、動員兵力8862人という大人数で、第19師団長・尾高亀蔵中将が独断で仕掛けるには余りにも規模が大き過ぎるからである。
【===== 戦果と損失 =====
日本軍 ソ連軍
戦闘兵力 6814名 15000名
動員兵力 8862名 32000名
火砲 37門 237門
戦車 - 285両
航空支援 - 250機
戦死 526名 792名
戦傷 914名 2752名
戦病 - 527名
死傷率 21.1% 27.1%
戦車破壊 96両
砲 〃 16門
機関銃〃 3丁
飛行機撃墜 3機
鹵獲小銃 105丁
〃自動小銃 3丁
〃機関銃 22丁
ソ連軍の損害は、1993年に秘密指定解除によって公表された統計調査による。】
とあり、動員兵力8862人という大人数で、第19師団長・尾高亀蔵中将が独断で仕掛けるには余りにも規模が大き過ぎるからである。


ossanzettoさん、次に「 ノモンハン事件」ですが、
【「満ソ国境紛争処理要綱」
1938年に起こった張鼓峰事件は、満州とソ連の国境でおこった紛争だったが、関東軍・満州国軍ではなく日本の朝鮮軍が戦った。この事件でソ連側が多くを得たことに不満を感じた関東軍は、係争地を譲らないための方針を独自に作成した。それが「満ソ国境紛争処理要綱」である。
「満ソ国境紛争処理要綱」は辻政信参謀が起草し、1939年4月に植田謙吉関東軍司令官が示達した。要綱は、「国境線明確ならざる地域に於ては、防衛司令官に於て自主的に国境線を認定」し、「万一衝突せば、兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期す」として、日本側主張の国境線を直接軍事力で維持する好戦的方針を示していた。この要領を東京の大本営は黙認し、政府は関知しなかった。】
【「満ソ国境紛争処理要綱」
1938年に起こった張鼓峰事件は、満州とソ連の国境でおこった紛争だったが、関東軍・満州国軍ではなく日本の朝鮮軍が戦った。この事件でソ連側が多くを得たことに不満を感じた関東軍は、係争地を譲らないための方針を独自に作成した。それが「満ソ国境紛争処理要綱」である。
「満ソ国境紛争処理要綱」は辻政信参謀が起草し、1939年4月に植田謙吉関東軍司令官が示達した。要綱は、「国境線明確ならざる地域に於ては、防衛司令官に於て自主的に国境線を認定」し、「万一衝突せば、兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期す」として、日本側主張の国境線を直接軍事力で維持する好戦的方針を示していた。この要領を東京の大本営は黙認し、政府は関知しなかった。】

また、
【ノモンハン事件は植田関東軍司令官、磯谷廉介参謀長の消極論に対して、参謀の辻政信、服部卓四郎らが強硬論を唱え、参謀本部を説得して進めたものだった。圧倒的なソ連軍の航空機と戦備のまえに、無暴な作戦を進め、あまつさえ敗戦の因を現地の連隊長に押しつけ、自殺を強要するという、これらの幕僚の無責任さはその後の日本軍の退廃の予兆だった。しかも植田と磯谷は予備役に編入されて責任はとったのに、 辻も服部も閑職に追われただけで、のちに東條によって重用されたのは、 東條人事の専横さを裏づけるものとして汚点になった。】
【===== 関東軍の決心と陸軍中央部 =====
関東軍 司令部要員 軍司令官 植田 謙吉 大将(10)
軍参謀長 磯谷 廉介 中将(16)
参謀副長 矢野 音三郎 少将(22)
高級参謀 寺田 雅雄 大佐(29 作戦課長)
作戦主任 服部 卓四郎 中佐(34 作戦班長)
作戦参謀 辻 政信 少佐(36)】
【ノモンハン事件は植田関東軍司令官、磯谷廉介参謀長の消極論に対して、参謀の辻政信、服部卓四郎らが強硬論を唱え、参謀本部を説得して進めたものだった。圧倒的なソ連軍の航空機と戦備のまえに、無暴な作戦を進め、あまつさえ敗戦の因を現地の連隊長に押しつけ、自殺を強要するという、これらの幕僚の無責任さはその後の日本軍の退廃の予兆だった。しかも植田と磯谷は予備役に編入されて責任はとったのに、 辻も服部も閑職に追われただけで、のちに東條によって重用されたのは、 東條人事の専横さを裏づけるものとして汚点になった。】
【===== 関東軍の決心と陸軍中央部 =====
関東軍 司令部要員 軍司令官 植田 謙吉 大将(10)
軍参謀長 磯谷 廉介 中将(16)
参謀副長 矢野 音三郎 少将(22)
高級参謀 寺田 雅雄 大佐(29 作戦課長)
作戦主任 服部 卓四郎 中佐(34 作戦班長)
作戦参謀 辻 政信 少佐(36)】


【【資料7-1】関東軍「満ソ国境紛争処理要綱」(1939年4月25日示達)
方 針
一 軍は侵さす侵さしめさるを満洲防衛の根本の基調とす 之か為満「ソ」国境に於る 「ソ」軍 (外蒙軍を含む)の不法行為に対しては周到なる準備の下に徹底的に之を膺懲し「ソ」軍を慴 伏せしめ其の野望を初動に於て封殺破摧す
要 領
二 敵の不法行為に対しては 断固徹底的に膺懲することに依りてのみ事件の頻発又は拡大 を防 止し得ることは「ソ」軍の特性と過去の実績とに徴し極めて明瞭なる所以を部下 に徹底し特 に第一線部隊に於ては国境接壌の特性を認識し国境付近に生起する小戦の 要領を教育し苟く も戦へは兵力の多寡非理の如何に拘らす必勝を期す
三 国境線明瞭なる地点に於ては 我より進んて彼を侵ささる如く厳に自戒すると共に彼の 越境 を認めたる時は周到なる計画準備の下に十分なる兵力を用ひ此を急襲殱滅す
右の目的を達成する為一時的に「ソ」領に進入し又は「ソ」兵を満領内に誘致滞留せ しむる ことを得 此際我か死傷者等を「ソ」領内に遺留せさることに関し万全を期す ると共に勉め て彼側の屍体、俘虜等を獲得す
方 針
一 軍は侵さす侵さしめさるを満洲防衛の根本の基調とす 之か為満「ソ」国境に於る 「ソ」軍 (外蒙軍を含む)の不法行為に対しては周到なる準備の下に徹底的に之を膺懲し「ソ」軍を慴 伏せしめ其の野望を初動に於て封殺破摧す
要 領
二 敵の不法行為に対しては 断固徹底的に膺懲することに依りてのみ事件の頻発又は拡大 を防 止し得ることは「ソ」軍の特性と過去の実績とに徴し極めて明瞭なる所以を部下 に徹底し特 に第一線部隊に於ては国境接壌の特性を認識し国境付近に生起する小戦の 要領を教育し苟く も戦へは兵力の多寡非理の如何に拘らす必勝を期す
三 国境線明瞭なる地点に於ては 我より進んて彼を侵ささる如く厳に自戒すると共に彼の 越境 を認めたる時は周到なる計画準備の下に十分なる兵力を用ひ此を急襲殱滅す
右の目的を達成する為一時的に「ソ」領に進入し又は「ソ」兵を満領内に誘致滞留せ しむる ことを得 此際我か死傷者等を「ソ」領内に遺留せさることに関し万全を期す ると共に勉め て彼側の屍体、俘虜等を獲得す

四 国境線明確ならさる地域に於ては防衛司令官に於て自主的に国境線を認定して之を第 一線部 隊に明示し無用の紛糾惹起を防止すると共に第一線の任務達成を容易ならしむ 而て右地域内 に於ては必要以外の行動を為ささると共に苟くも行動の要ある場合に於 ては至厳なる警戒と 周到なる部署とを以てし万一衝突せは兵力の多寡竝に国境の如何に拘らす必勝を期す
六 事件発生せは速かに之を報告通報すると共に爾後に於ける処理の経過を適時報告通報し神速適 切なる対策に上下左右遺憾なきを期す
七 国境に位置する第一線部隊は能く国境接壌の特性を認識し無用の事端を惹起せさるこ とに対 しては万全を期すると共に常に彼の動静を明かにし万一紛争惹起せは任務に基 き断固として 積極果敢に行動し其結果派生すへき事態の収拾処理に関しては上級司令 部に信倚し意を安ん して唯第一線現状に於ける必勝に専念し万全を期す
六 事件発生せは速かに之を報告通報すると共に爾後に於ける処理の経過を適時報告通報し神速適 切なる対策に上下左右遺憾なきを期す
七 国境に位置する第一線部隊は能く国境接壌の特性を認識し無用の事端を惹起せさるこ とに対 しては万全を期すると共に常に彼の動静を明かにし万一紛争惹起せは任務に基 き断固として 積極果敢に行動し其結果派生すへき事態の収拾処理に関しては上級司令 部に信倚し意を安ん して唯第一線現状に於ける必勝に専念し万全を期す

【八 従来の指示通諜等は爾今一切之を廃棄す】
備考 第四項に於て防衛司令官か自主的に認定指示したる国境線は速やかに報告するものとす
出典:防衛庁防衛研修所戦史室・戦史叢書27『関東軍(1)』(朝雲新聞社、1969年)、 424- 425頁所収。】
【この要項の問題点は大きく2つある。
・方針自体が政治的ではなく軍事的であった。
・守備なのだから、紛争は出来るだけ穏便な形で抑える方向であるべきなのに、やり方自体が勇ましく叩き伏せる方向であった。
この要項は外務省が作ったのではなく、軍が勝手に作ったからこうなったのだ。
しかし、より根本的な問題は、いやしくも高レベルの政治問題であるこの国境政策に対して、当時の政府が何も言わなかったこと、及び【天皇も何も言わなかったことである。】
備考 第四項に於て防衛司令官か自主的に認定指示したる国境線は速やかに報告するものとす
出典:防衛庁防衛研修所戦史室・戦史叢書27『関東軍(1)』(朝雲新聞社、1969年)、 424- 425頁所収。】
【この要項の問題点は大きく2つある。
・方針自体が政治的ではなく軍事的であった。
・守備なのだから、紛争は出来るだけ穏便な形で抑える方向であるべきなのに、やり方自体が勇ましく叩き伏せる方向であった。
この要項は外務省が作ったのではなく、軍が勝手に作ったからこうなったのだ。
しかし、より根本的な問題は、いやしくも高レベルの政治問題であるこの国境政策に対して、当時の政府が何も言わなかったこと、及び【天皇も何も言わなかったことである。】

【「満ソ国境紛争処理要綱」の出だしにはこうありました。
「軍(関東軍)は侵さず、侵さしめざるを満州防衛の基本方針とする」
つまり、ソ連軍(外蒙軍含む)が優勢であるとは言えども、国境線に関してはお互いにこれを侵さず侵されずという形を取るというものでした。
しかし、そこから先が問題でした。
「万一ソ連軍が越境して来た時には、周到なる準備計画の下に徹底的にこれを膺懲(ようちょう:懲らしめ思い知らせること)せしめ、ソ連の不法なる野望を初動において粉砕する」
つまり、ソ連軍がもし国境を越えて満州国に入ってきたら、関東軍は戦力を集中してこれを撃滅するというものでした。
「そのためには、一時的にソ連領に侵入したり、ソ連軍を満州国領内に誘致、滞留せしむるも可」
「国境線不明瞭なりし地域においては、現地防衛司令官が自主的に国境線を認定し、第一線部隊に指示すると同時に、戦力の多寡国境線の如何なりとも必勝を期す」
「軍(関東軍)は侵さず、侵さしめざるを満州防衛の基本方針とする」
つまり、ソ連軍(外蒙軍含む)が優勢であるとは言えども、国境線に関してはお互いにこれを侵さず侵されずという形を取るというものでした。
しかし、そこから先が問題でした。
「万一ソ連軍が越境して来た時には、周到なる準備計画の下に徹底的にこれを膺懲(ようちょう:懲らしめ思い知らせること)せしめ、ソ連の不法なる野望を初動において粉砕する」
つまり、ソ連軍がもし国境を越えて満州国に入ってきたら、関東軍は戦力を集中してこれを撃滅するというものでした。
「そのためには、一時的にソ連領に侵入したり、ソ連軍を満州国領内に誘致、滞留せしむるも可」
「国境線不明瞭なりし地域においては、現地防衛司令官が自主的に国境線を認定し、第一線部隊に指示すると同時に、戦力の多寡国境線の如何なりとも必勝を期す」

つまり、満州国政府ひいては日本政府とソ連政府が外交で話し合うべき国境線を、現地司令官が勝手に判断して国境と主張し、勝手に判断した国境をソ連軍が越えるよう仕向けることができ、そこを越えたソ連軍を排除するためには、天皇の命令が無ければできないはずの軍の国境線の越境をしてもよいと言っているのです。 】
【(関東軍作戦課員)が「満ソ国境紛争処理要綱」を起草したのは、1939(昭和14)年3月またはそれ以前と思われる。関東軍司令官植田謙吉はこれに同意した。その後、東京で師団長会議が開かれ、関東軍からは磯谷参謀長が出席したが、その際に「満ソ国境処理要綱」案を参謀本部に提出した。陸軍省へは、「ハルハ河国境説」を正式に承認するよう要請したと言われる(矢島前掲書p16~17)。
ところが、参謀本部は多忙を極めていたこともあろうが、「処理要綱」の検討を即座にはせず放置していた。
【(関東軍作戦課員)が「満ソ国境紛争処理要綱」を起草したのは、1939(昭和14)年3月またはそれ以前と思われる。関東軍司令官植田謙吉はこれに同意した。その後、東京で師団長会議が開かれ、関東軍からは磯谷参謀長が出席したが、その際に「満ソ国境処理要綱」案を参謀本部に提出した。陸軍省へは、「ハルハ河国境説」を正式に承認するよう要請したと言われる(矢島前掲書p16~17)。
ところが、参謀本部は多忙を極めていたこともあろうが、「処理要綱」の検討を即座にはせず放置していた。


関東軍の立場からすれば、参謀本部へ正式な形式によって「満ソ国境処理要綱」案を提出してあって、認可を待っていた。師団長会議がおそらく3月末~4月初にあり、数日~1週間程度待ったのではないか(これについては目下資料なし)。特に咎めれらる点も注意もなかったのでそのまま受理されたものと理解して満州へ帰った、というのはありうることだ。(参謀本部で未検討であることを、うすうすは知っていても、それをいいことに、頬被りして、受理されたものと理解するというやり方をした、ということも考えられる。)
当時の参謀本部作戦課長の稲田正純大佐は、戦後、雑誌「別冊知性」の論文で、次のようなあいまいな説明をしている。
当時の情勢上、北辺においては極力平静を維持する必要があったので、紛争が起こった場合など、単に関東軍限りの立場において兵力使用の適否と限度を判断してはならなかったのである。
この問題につき中央としては如何なる程度まで関東軍の裁量に委すべきやは、情勢を勘案して明確に律する必要があり、これが中央の同軍に対する重要な統帥事項であった。
当時の参謀本部作戦課長の稲田正純大佐は、戦後、雑誌「別冊知性」の論文で、次のようなあいまいな説明をしている。
当時の情勢上、北辺においては極力平静を維持する必要があったので、紛争が起こった場合など、単に関東軍限りの立場において兵力使用の適否と限度を判断してはならなかったのである。
この問題につき中央としては如何なる程度まで関東軍の裁量に委すべきやは、情勢を勘案して明確に律する必要があり、これが中央の同軍に対する重要な統帥事項であった。


【この戦いの結果は悲惨なものであった。《これまでに明らかにされている第6軍軍医部調整の資料では、第二次ノモンハン事件にかんして、出動人員 58,925人、うち戦死7,720人、戦傷8,664人、戦病2,363人、生死不明1,021人、計19,768人となっている。正しくは、第一次事件の損耗、安岡支援および高級部隊の損耗、満州国軍の損耗もこれに加えなければならない。さらにいえば帰還後の捕虜となったものの処分も。
これを第23師団に限っていえば、師団軍医部の調査によると事件の全期間をとおして、出動人員15,975人中の損耗 (戦死戦病) は12,230人、実に76パーセントに達したという。》ノモンハン事件がこれほどまでの規模になってしまった原因は、杜撰な計画を立てそれを強行した服部大佐と辻少佐、それを支持した関東軍、そして、関東軍の行動を明確に統制できなかった参謀本部にある。特に服部大佐と辻少佐の責任は大きい。「朕の命令なしに一兵たりとも動かしてはならぬ」という天皇の意向も、日増しに悪化する英米との関係もおかまいなしである。】
これを第23師団に限っていえば、師団軍医部の調査によると事件の全期間をとおして、出動人員15,975人中の損耗 (戦死戦病) は12,230人、実に76パーセントに達したという。》ノモンハン事件がこれほどまでの規模になってしまった原因は、杜撰な計画を立てそれを強行した服部大佐と辻少佐、それを支持した関東軍、そして、関東軍の行動を明確に統制できなかった参謀本部にある。特に服部大佐と辻少佐の責任は大きい。「朕の命令なしに一兵たりとも動かしてはならぬ」という天皇の意向も、日増しに悪化する英米との関係もおかまいなしである。】

【そもそも、日本-満州国が「ハルハ河国境説を取り始めたのはいつからか」という重大問題がある。国境の主張は国としてもっとも基本的な主張の1つであるからである。つまり、日本帝国憲法下では、天皇の裁可にかかわる問題だということである。満州里会議で日本はハルハ河説を主張したのは間違いのないことである。だが、それは天皇裁可に達しないところで主張されていた。
天皇、内閣・政府、参謀本部、関東軍、満州国政府のそれぞれのレベルで、この問題がどのように扱われ、結論が出され、認識されていたか。矢島光允『ノモンハン全戦史』(自然と科学社 1988年 p16)に引用してある額田旦『陸軍省人事局長の回想』(著者は当時陸軍省補任課長であった人物)という書物によると、
天皇、内閣・政府、参謀本部、関東軍、満州国政府のそれぞれのレベルで、この問題がどのように扱われ、結論が出され、認識されていたか。矢島光允『ノモンハン全戦史』(自然と科学社 1988年 p16)に引用してある額田旦『陸軍省人事局長の回想』(著者は当時陸軍省補任課長であった人物)という書物によると、

* 天皇→「国境線を明示する必要はないのか」と畑侍従武官長に発言。
* 内閣→不明
* 参謀本部→不明だが、稲田作戦課長は後に、「大本営から関東軍へ国境を明示したことはない。関東軍に任せていた。」と語った。
* 陸軍省→陸軍大臣が関東軍へハルハ河国境説を指示。これは、「外交折衝上必要あるときは、ハルハ河の線を以て国境と主張すること」という内容。
* 関東軍→陸軍大臣より「ハルハ河国境」を明示されたので、それに従った。 などが判明する。】
【しかももっとも責任を負うべきであったのは、関東軍の作戦班長服部卓四郎中佐と班員の辻政信少佐であった。かれらの机上プランにより、猪突猛進した結果、惨敗したのである。しかしかれらは、連隊長・第一線部隊長らに責任を転嫁し、自決を命じ、証拠の隠滅を図った。この二人は、いったん更迭されたが、太平洋戦争が始まると、大本営作戦課長および班長に起用され、戦争全体について無謀な作戦を立案し、専断行為を繰り返すのである。】
* 内閣→不明
* 参謀本部→不明だが、稲田作戦課長は後に、「大本営から関東軍へ国境を明示したことはない。関東軍に任せていた。」と語った。
* 陸軍省→陸軍大臣が関東軍へハルハ河国境説を指示。これは、「外交折衝上必要あるときは、ハルハ河の線を以て国境と主張すること」という内容。
* 関東軍→陸軍大臣より「ハルハ河国境」を明示されたので、それに従った。 などが判明する。】
【しかももっとも責任を負うべきであったのは、関東軍の作戦班長服部卓四郎中佐と班員の辻政信少佐であった。かれらの机上プランにより、猪突猛進した結果、惨敗したのである。しかしかれらは、連隊長・第一線部隊長らに責任を転嫁し、自決を命じ、証拠の隠滅を図った。この二人は、いったん更迭されたが、太平洋戦争が始まると、大本営作戦課長および班長に起用され、戦争全体について無謀な作戦を立案し、専断行為を繰り返すのである。】


特に、「満ソ国境紛争処理要綱」の【八 従来の指示通諜等は爾今一切之を廃棄す】は、【今までの指示・通達は今から後、今後一切これを廃棄する】と書かれており、
第11条
天皇ハ陸海軍ヲ統帥(とうすい)ス
第13条
天皇ハ戦(たたかい)ヲ宣(せん)シ和ヲ講(こう)シ及諸般ノ条約ヲ締結(ていけつ)ス
第3条
天皇ハ神聖(しんせい)ニシテ侵(おか)スヘカラス
第4条
天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権(とうちけん)ヲ総攬(そうらん)シ此(この)ノ憲法ノ条規(じょうき)ニ依(よ)リ之(これ)ヲ行フ
備考;総攬=一手に握って掌握(しょうあく=手の中におさめること。物事を意のままにすること)すること。
という天皇に対し、完全に反逆し無視する重大な行為を「満ソ国境紛争処理要綱」に入れたということであり、関東軍の作戦班長服部卓四郎中佐と班員の辻政信少佐が処罰されなかったのは、ヒロヒトがこの「満ソ国境紛争処理要綱」を暗黙に了承した。
第11条
天皇ハ陸海軍ヲ統帥(とうすい)ス
第13条
天皇ハ戦(たたかい)ヲ宣(せん)シ和ヲ講(こう)シ及諸般ノ条約ヲ締結(ていけつ)ス
第3条
天皇ハ神聖(しんせい)ニシテ侵(おか)スヘカラス
第4条
天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権(とうちけん)ヲ総攬(そうらん)シ此(この)ノ憲法ノ条規(じょうき)ニ依(よ)リ之(これ)ヲ行フ
備考;総攬=一手に握って掌握(しょうあく=手の中におさめること。物事を意のままにすること)すること。
という天皇に対し、完全に反逆し無視する重大な行為を「満ソ国境紛争処理要綱」に入れたということであり、関東軍の作戦班長服部卓四郎中佐と班員の辻政信少佐が処罰されなかったのは、ヒロヒトがこの「満ソ国境紛争処理要綱」を暗黙に了承した。

「愛国の花」の花子です。なんか大変そう。でもmasaoさんの言っていることは大筋で正しいと思います。戦争を奉勅命令で遂行し、負けてきても放置して、終戦でも阿南惟幾陸軍大臣にだけ割腹自決させたのはいかがなものでしょうか。潔さがないですよね。軍人にばかり罪を押し付け、天皇や元老重臣に責任がないなんて、どう考えてもおかしいのでは。masaoさん頑張ってね。某陸軍少佐の孫、花子より
ossanzettoさん、 ≫先ず天皇の裁可が無ければ兵隊一人動かせない。
というのは絶対に嘘で、柳条湖事件、張鼓峰事件、
ノモンハン事件、・・・・現場の独断で交戦した事例など、
枚挙にいとまがありません。
> 柳条湖事件ですが、
【柳条湖事件は、河本大佐の後任の関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と関東軍作戦参謀石原莞爾中佐が首謀しておこなわれた。奉天特務機関補佐官花谷正少佐、張学良軍事顧問補佐官今田新太郎大尉らが爆破工作を指揮し、河本末守中尉らが工作を実行した。第二次世界大戦後に発表された花谷の手記によると、関東軍司令官本庄繁中将、朝鮮軍司令官林銑十郎中将、参謀本部第1部長建川美次少将、参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らも、この謀略に賛同していた。】
というのは絶対に嘘で、柳条湖事件、張鼓峰事件、
ノモンハン事件、・・・・現場の独断で交戦した事例など、
枚挙にいとまがありません。
> 柳条湖事件ですが、
【柳条湖事件は、河本大佐の後任の関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と関東軍作戦参謀石原莞爾中佐が首謀しておこなわれた。奉天特務機関補佐官花谷正少佐、張学良軍事顧問補佐官今田新太郎大尉らが爆破工作を指揮し、河本末守中尉らが工作を実行した。第二次世界大戦後に発表された花谷の手記によると、関東軍司令官本庄繁中将、朝鮮軍司令官林銑十郎中将、参謀本部第1部長建川美次少将、参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らも、この謀略に賛同していた。】

また【日本政府は、事件の翌19日に緊急閣議を開いた。南次郎陸軍大臣はこれを関東軍の自衛行為と強調したが、幣原喜重郎外務大臣(男爵)は関東軍の謀略なのではと疑惑を表明、外交活動による解決を図ろうとした。しかし、21日、林銑十郎中将の率いる朝鮮駐屯軍が、独断で越境し満州に侵攻したため、現地における企業爆破事件であった柳条湖事件が国際的な事変に拡大した。21日の閣議では「事変とみなす」ことに決し、24日の閣議では「此上事変を拡大せしめざることに極力努むるの方針」を決した。林銑十郎は大命(宣戦の詔勅)を待たずに行動したことから、独断越境司令官などと呼ばれた。】
【満州事変が起こった際、朝鮮軍司令官の職にあった林は、強硬派の参謀・神田正種の進言を入れて、中央の指示なしに(天皇の勅裁を受けていない移動は死刑もあり得る重罪である)朝鮮派遣軍を満州に進め「越境将軍」の異名をとった。】
【満州事変が起こった際、朝鮮軍司令官の職にあった林は、強硬派の参謀・神田正種の進言を入れて、中央の指示なしに(天皇の勅裁を受けていない移動は死刑もあり得る重罪である)朝鮮派遣軍を満州に進め「越境将軍」の異名をとった。】

【軍の指揮・命令権を持つ昭和天皇は、「満州事変」に際して、関東軍の軍事行動を容認し、翌年一月には同軍将兵を最大限にたたえる勅語まで発表。当時の天皇制政府は特別な戦費も支出しています。】
という事でこれも今までと同じパターンである。張鼓峰事件同様、関東軍司令官本庄繁中将、朝鮮軍司令官林銑十郎中将は、詔勅(詔書・勅書など、天皇の意思を表示する文書の総称。)を待たずして朝鮮派遣軍を満州に送って、死刑もありうる重罪を犯しているのもかかわらず、ヒロヒトは罰するどころか最大限に称える勅語をまで発表し、特別な戦費まで出している。何故罰せず褒めることまでしたか。これは今まで同様、ヒロヒトがあらかじめ知っていたのを例のごとく暗黙の了解で与えたからに他ならない。そうでなければ天皇を無視した関東軍司令官本庄繁中将、朝鮮軍司令官林銑十郎中将を罰しないはずは無いからである。
という事でこれも今までと同じパターンである。張鼓峰事件同様、関東軍司令官本庄繁中将、朝鮮軍司令官林銑十郎中将は、詔勅(詔書・勅書など、天皇の意思を表示する文書の総称。)を待たずして朝鮮派遣軍を満州に送って、死刑もありうる重罪を犯しているのもかかわらず、ヒロヒトは罰するどころか最大限に称える勅語をまで発表し、特別な戦費まで出している。何故罰せず褒めることまでしたか。これは今まで同様、ヒロヒトがあらかじめ知っていたのを例のごとく暗黙の了解で与えたからに他ならない。そうでなければ天皇を無視した関東軍司令官本庄繁中将、朝鮮軍司令官林銑十郎中将を罰しないはずは無いからである。


天皇はこれに対し、「田中の話はさっぱりわからぬ。もう田中の話は聞きたくない」「それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうか」(『昭和天皇独白録』による)と田中を強く叱責されたため、7月2日、田中は涙を流して辞表を提出し、内閣総辞職した(1929年)】
【狭心症の既往があった田中に天皇の叱責はやはり堪えた。内閣総辞職から3ヵ月もたたない1929年9月28日、田中は貴族院議員当選祝賀会に主賓として出席するが、見るからに元気がなかった。そして翌29日午前6時、田中は急性の狭心症で帰らぬ人となった。】
【昭和天皇は、田中を叱責したことが内閣総辞職につながったばかりか、死に追いやる結果にもなったかもしれないということに責任を痛感し、以後は政府の方針に不満があっても一切口を挟まなくなった。】ということで、
ヒロヒトが田中儀一首相を叱責して内閣総辞職させたのは、田中首相が『国際的な信用を保つために容疑者を軍法会議によって厳罰に処すべきと主張した』ことで、首謀者を調べれば、その頂点にヒロヒト自身がいることが明らかになるのを防いだためと思われる。
【狭心症の既往があった田中に天皇の叱責はやはり堪えた。内閣総辞職から3ヵ月もたたない1929年9月28日、田中は貴族院議員当選祝賀会に主賓として出席するが、見るからに元気がなかった。そして翌29日午前6時、田中は急性の狭心症で帰らぬ人となった。】
【昭和天皇は、田中を叱責したことが内閣総辞職につながったばかりか、死に追いやる結果にもなったかもしれないということに責任を痛感し、以後は政府の方針に不満があっても一切口を挟まなくなった。】ということで、
ヒロヒトが田中儀一首相を叱責して内閣総辞職させたのは、田中首相が『国際的な信用を保つために容疑者を軍法会議によって厳罰に処すべきと主張した』ことで、首謀者を調べれば、その頂点にヒロヒト自身がいることが明らかになるのを防いだためと思われる。

ということで『第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス』ヒロヒトからすると、真相を明らかにする事は当然だからである。
ヒロヒトは、この田中儀一首相の死をきっかけに、ヒロヒトの、表向きには“暗黙の了解”という姿勢を執るようになったと思われる。即ち、【ヒロヒトはいかなる事件にも最高指揮者として関わっていたのである。】
ヒロヒトは、この田中儀一首相の死をきっかけに、ヒロヒトの、表向きには“暗黙の了解”という姿勢を執るようになったと思われる。即ち、【ヒロヒトはいかなる事件にも最高指揮者として関わっていたのである。】



>たとえ卑怯者と呼ばれても殺人者になるよりましではないですか。
あなたは日本軍を侵略者と定義していますから、日本人3人の命より中国人1人の命の方が大事に思えるかもしれませんが、この人が敵を殺さなかったために殺された味方がいたかもしれません。1人を殺していたら3人助かったかもしれないのです。だとすると、1人殺さなかったために3人死なせたことになります。仮定の話ですけどね。
あなたは日本軍を侵略者と定義していますから、日本人3人の命より中国人1人の命の方が大事に思えるかもしれませんが、この人が敵を殺さなかったために殺された味方がいたかもしれません。1人を殺していたら3人助かったかもしれないのです。だとすると、1人殺さなかったために3人死なせたことになります。仮定の話ですけどね。
2007/10/30(火) 午後 9:36[ gea_jp
先ず天皇の裁可が無ければ兵隊一人動かせない。
というのは絶対に嘘で、柳条湖事件、張鼓峰事件、
ノモンハン事件、・・・・現場の独断で交戦した事例など、
枚挙にいとまがありません。>と言う事ですが、瀬島龍三はインタビューで、【私が参謀本部に参りましたのは、昭和14年11月。当時もう日支事変がおきておりましたから、参謀総長は毎日日参でしたね。私はその際の上奏文の起草、それと下問奉答資料をつくる任務をしばらくやっておりました。当時、軍隊を動かす時は必ず陛下の御裁可が必要で、これなしには一個中隊さえ動かすことは出来なかった。】と言っており、「柳条湖事件、張鼓峰事件、ノモンハン事件」が起きた後で参謀本部に入っている。従って、瀬島が参謀本部に入る前のヒロヒトの言動に関しては、他の資料から推し量るしかない。