どうも、AKIです。

 

訪問ありがとうございます。

 

今回の内容は、

『和多志がブログを再開できるようになったワケ』

についてです。

 

以前、ブログの再開を機に、

こちらの記事にて、

ブログを再開するにあたって、

決め手になったことをいくつか紹介させて頂きました。

 

 

 

しかしこの過去記事はあくまでも、

やろう!と思えたきっかけであり、

それ以前に、実は、

文章を綴ることすら儘ならない状態が続いておりました。

 

このブログ再開の決め手とは別に、

文章を綴る力を取り戻せたきっかけがありました。

 

そしてこの内容は、

和多志に限った話ではないかもしれないということで、

今回はそちらをご紹介します。


 

 

 

 

さて早速、今回の核心に触れていきます。

 

それは、和多志自身、

望まぬ状況、望まぬ出来事に触れる度に、

自らを一切豊かにしないどころか、

心身を弱体させるような

蔑視、軽視や呵責を無意識にしてしまう

思考癖、パターンがあったということです。

 

この癖に氣付き、

それが実は嘘だと看破できたことで、

力を取り戻せたかのように、

不思議と文章を綴れるようになり、

このブログを再開することができるようになりました。

 

具体的には、

空腹な状況に苛まれるたびに、

「自分が無能だから自分すら満たすことができないのだ」とか、

「なんて自分は情けないんだ」などという

卑下した見方をしていたんですね。

 

挙句の果てには、

過去の失敗や状況まで引っ張り出して、

何やってもダメだとか、

何やっても上手くいかないとか、

責めてたんですね。

ピークに達してた時は、

宇宙に喧嘩まで吹っ掛けてました汗

 

 

こうしたことを、

空腹で苦しい状況や

特に、「要求される対価が支払えないことで、

欲しいものが手に入らない」

といった状況で、

無意識レベルで繰り返し行っていたんですね。

 

 

実はこれ、

今年2024年4月末くらいまでの

和多志の話です。(;^ω^)

 

かなり最近のことですよね?笑

 

しかもそれ以前にブログで自分でも、

自分を愛する~だとか、

自分を大切にすること~だとか、

蔑ろにしない~だとか、

いうことを書いてて、

その本人がこうした心理状態だったんですよ笑

 

ホントに、

「氣付いたこと or 分かっていること」=「出来ること」

ではない、ということが、

身に染みて痛感させられましたね。

 

 

 

で、望まぬ状況や出来事、

苦しいと感じる状況や出来事が繰り返されるたびに、

 

その思考癖・パターンも同時に繰り返されるので、

 

嫌でも「あれ?なんか変な癖があるな?」

と氣付かされるに至ったんですね。

 

そして、

その癖が出てた時にどういう思考をしていたかを

深堀してみたんです。

 

 

で、その思考をよくよく観ると、

「これ嘘じゃないか?

というより自分の考えですらないかもしれないぞ?」

ということに氣付かされるわけです。

 

何故ならば、

 

出来事は出来事、

状況は状況でしかなく、 

和多志達は誰しもそれらによって

『存在価値』が揺らぐことはないということも

同時に知っているからです。

 

 

自身を取り巻く出来事や状況と

そこから導き出されたかの様に見える自己評価は、

一見関係のあるようで、

実際は関係のないものばかりです。

 

どちらかと言えば、

そうした出来事や状況と関係があるのは、

自身の握りしめている価値観や観念、

思考癖・パターンの方なのではないかと思います。

 

つまり、その状況や出来事を通して、

手放した方が楽になる癖やパターンを

繰り返し教えてくれているというわけです。

 

 

話を戻すと、

和多志の中にある思考癖・パターンをよくよく観ると、

知らぬ間に誰かや作品等からインストールしてしまった

嘘偽りでしかない価値観や考え方やセリフや、

誰かが決めた評価基準と、

それに準じて生まれた評価がありました。 

 

 

上手くいかなかった、

できなかった、失敗した、

という出来事はただの出来事です。

ただの事実に過ぎず、

次からはこうしようという発見こそあれ、

それ以上の意味を持ちません。
 

厄介なのはそこから、

歪んだ物差しで自分を測り、

自分に蔑んだ評価を与える癖です。

 

そうした出来事から、

「やっぱり自分は何をやってもダメだ」とか

「自分は無能(無力)だ」とか

「生きる価値がない」だとか

「ダメな人間だ」とか

「宇宙に嫌われてるんだ」とか

「こんな自分なんて」とか

 

そういった蔑んだ自己評価や、

あり得ないことまでをも持ち出して

自分に繰り返し言い裁いていたことです。

 

改めて考えれば、

これ、全部嘘だよなと、

看破したんです。

 

今の自分でもできること、

やれてることはあるし、

そもそも何ができるかできないかで人の価値は決まらないし、

生きる価値があるから生きているわけだし、

実際にダメなのではなく、

そんな自分をダメだと思っている見方をしているだけだし、

「こんな自分なんて」と

自分を軽んじた見方を勝手にしていただけです。

 

そして、こうした思考癖が、

自分の本来の能力を封じていた、

自分を弱体化させていたんですね。

 

それに氣付いてから、

そうした考えは、

無意味どころか、

有害でしかないということにも氣付き、

 

それからは、

そうした思考癖が出る度に、

それらは虚偽で、

出来事とはなんら無関係だと、

以降の思考を中断し、

意識を切り替えるようにすることで、

自己弱体化させずに済むようになり、

凄く楽になりました。

 

 

改めて言いますが、

出来事は出来事、

状況は状況でしかなく、 

和多志達は誰しもそれによって存在価値が揺らぐことはありません。 

もし揺らぐのだとしたら、

出来事や状況に条件反射して

蔑視や呵責といった自己弱体化の思考癖が働いているだけです。 

 

都度その思考の嘘と無意味さと有害性を看破すれば

癖は静かに消えます。

 

もしも今、

望まぬ状況や望まぬ出来事が

繰り返されている様に感じるのだとしたら、

それに付随して条件反射して起こる自己弱体化の癖や、

もはや有害でしかないにもかかわらず握りしめて離さない

古い価値観やその連鎖パターンを看破するよう、

脱ぎ捨てるよう揺さぶられている

大チャンスなのかもしれません。

 

 

見方を変えれば、

状況や出来事が自分を苦しめているのではなく、

自分を苦しめるような、

弱体させるような価値観や思考癖・パターンが、

その状況や出来事に自らを遭遇させ続けている。

ということかもしれないとも言い換えられるわけです。

 

どちらにせよ、

自己弱体化は生きる上で無意味などころか

有害でしかないものだと思います。 

 

これにメリットがあるとすれば、

他者からの励まし(そんなことないよ)や

情けを掛けてもらえる可能性があることでしょうか。 

 

そういう主人公登場作品沢山ありますしね。

影響を受けて育ったのかもしれません。

悲劇のヒロイン的なやつです。

 

ですが、作者の都合で描かれた様に現実が作用することは

経験上ないと実感していますし、

自己弱体化の癖を握りしめている有用性は皆無に等しいでしょう。 

 

また、現実とは異なり、

「こんな時そうして欲しかった」が詰め込まれているのが

フィクションの特徴でもあると思いますので、

価値観の受け売りや、

自己との重ね合わせには注意ですね。

 

 

あとは、

「何もしたくない」という本当の氣持ちと

「何かをしなければ」という葛藤から

自分を逃がすために、

何も出来ない自分を演じさせている場合もあります。

 

「何もしたくない」

という自分を素直に許すことが出来ない人が

こうなるのかもしれませんね。

経験済みです。(;^ω^)


 

想定よりもかなり長くなってしまいましたが、

これが今の和多志が文章を再び綴れるようになった、

最大のきっかけです。

 

今では本来の力を取り戻してきている、

或いはそれ以上の力が湧いて出てきている、

といった感じでしょうか。

 

 

こうした有害な思考癖・パターンの嘘を看破して、

自己弱体化を無効化し、

美味しいものを食べたら、

この内容もX(旧Twitter)で

まとめることができました。

 

今回はそれをより深堀させた内容に

仕上げることにしました。

 

 

今回の記事に何か思い当たる節がある人は

何か取り戻せる力があるかもしれません。

 

もしも今何かで挫折していたり、

失敗して落ち込んでいたり、

繰り返し同じような現実に苛まれている方がいらっしゃれば、

もしかしたら、

今回の内容が参考になることがあるかもしれません。

 

個人的に、

自信をつけるとか、経験を積むとか以前に、

自分を弱体化させる思考癖やパターンや価値観から、

自分を解放させておくことの方が

大切なのではないかなと感じています。

 

それにより、何度転んだとしても、

そこからどれだけの時間が掛かろうとも、

無限に何度でも立ち上がれるのではないかなと思います。

 

 

「人生最大の栄光は、一度も転ばないことではなく、転ぶたびに立ち上がることにある」

by 元南アフリカの大統領 ネルソン・マンデラ

 

 

書きながら思い出しましたが、

今の自分を恥じたりするのももうやめましたね。

自分を貫いてるが故に今も無職ですが、

「だからなに?」というスタンスです。

 

正直、少し前の自分は、

仕事と呼べるものや、

提供できることを持っていない自分を恥じていました。

(求められた対価を支払えず、

欲しいものが手に入れられない自分を

恥じていたとも言い換えられます)

 

けれども、それは、

自分と似たような人を

恥だと捉えることと同義であり、

他人に対しても歪んだ色眼鏡で

蔑視してしまうことでもあると氣付かされ、

相手の”本当”が見えなくなることは、

望んでいないことなので、

やめることにしました。

 

というより、

本心から自分を恥じているのではなく、

古い価値観に自分を照らし合わせた時に恥じが生じるんですよね。

(「仕事をしている人が偉い」だとか、「無職はダメだ」とか)

なので、古い価値観で自分を照らし合わせて評価するという癖からも

解放させたといった方が正確ですね。

 

 

こうしたこともすべてが、

自分を愛することです。

 

そして、自分を大切にしている人は、

他の存在をも雑に扱うことはできません。

 

自分の何かを恥じている人、蔑んでいる人は、

他人のそれをも恥じた目、蔑みの目で見てしまいます。

 

誰かを雑に扱う人は、

自分自身を雑に扱っているものです。 

 

とはいえ、

雑に扱われた側が、悲しみだけでなく、

もし怒りを感じるなら、

無意識に自分で自らを軽視する癖が出来事に条件反射して、

悲しみつつその自己軽視癖には蓋をして、

他責にしている可能性があります。

 

それが怒りの正体だからです。

 

 

自分を軽視・蔑視する癖がない人が、

他者に雑に扱われた場合、

ただその人から去るのみです。 

 

しかし、自分を軽視・蔑視する癖を持つ者が

他者に雑に扱われた場合、怒りが自他に湧きます。

 

こうした違いが出てくるわけですね。

自己軽視癖を持ちつつも、

それが虚偽だと深い部分ではきちんと分かってる葛藤の正体が

怒りかもしれないです。

 

 

傲慢、人を見下す、他者を批判する。 

こうした心理の中にも、

自己蔑視癖や自分を無価値だと捉える価値観が隠れていますね。

 

その虚偽に騙されて自分で自分にそうだと信じ込ませているから、

他者より優位に立つことで、

嘘をまた別の新しい嘘で塗り替えることで

自分の価値をでっちあげ、安心感を得ようとしているのです。

 

逆を言えば、こうした自己蔑視癖のない人は、

人を見下したり、

他者を批判したり決めつけたりなどしないでしょう。 

 

如何なる存在にも敬意を持ち、

他者を何かの枠組みに型嵌めすることもない。 

当然、優越感や劣等感とも無縁。 

 

自分を大切にするということは、

簡単な様で実に奥深いことだと常々感じています。

 

 

 

さてさて、今回は以上となります。

 

最後までお読み頂きありがとうございました♪

 

より豊かな在り方を選択するきっかけ等になれば幸いです^^

 

 

最後に、今回の記事の内容にも重なる部分があると感じる

素晴らしい歌詞の、個人的に大好きでオススメな、

水樹奈々さんの一曲をご紹介して終わりにします。

 

ちなみに、この曲は、

今回の記事の内容に氣付いていく中で出逢えた曲です。

物凄いシンクロを感じ、勇氣付けられました♪


それではまた!

 

 

『水樹奈々「FINAL COMMANDER」(NANA MIZUKI LIVE HEROES 2023 -BLADE MODE -)』

(youtubeより転載)

 

 

 

 

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