前回の続きです
長崎定番観光をしようと、出島に向かいます。
本当はここで、お昼を食べる予定にしていたんですが、
お昼になったけど、暑くて水分ばっかり摂っていたら
全然お腹空かない
でもなぜかこのお店の前を通ったとき、引き寄せられるものがあり
「食べられるかも!」と入店決定
パフェとグラタン専門店 ハワイさんです
コチラのお店は、1958(昭和33)年に先代が長崎県大村市で創業
(現オーナー母方のご実家)
1961(昭和36)年にアメリカでアイスクリームに
カットフルーツなどを添えて食べられていた「サンデー」をヒントに
考案した、約30種類のパフェの提供を開始。
当時、サンデーに倣ってカットフルーツを使ったパフェを
東京・銀座の千疋屋が提供していましたが、
先代はケーキ店も経営していたことから、
こちらお店のパフェにはゼリーやプリン、ケーキやアイスクリームといった
さまざまな洋菓子を添えたものだったそうで
現在日本で提供されているパフェのルーツとなっていて
日本のパフェ発祥のお店だったんですね
「マツコの知らない世界」では、フルーツが美味しいパフェの世界!で紹介されたとか
見ていますが記憶になかった私です(笑)
お昼過ぎに行ったので、客足は落ち着いていました。
窓際席に座らせていただきました。
目の前には、出島内にある、1878年(明治11年)に建てられた、
現存する日本最古のキリスト教(プロテスタント)の神学校・旧出島神学校が見えます。
メニューは常時グラタン3種と、パフェなど
最初はグラタンを食べようと思ったけど、
やはり暑さで胃が受け付けず
さっぱりしたしたものを所望
そんな時、目に飛び込んできたのがコチラ!!
ジェラートが選べるセレブパフェ
・さちのかいちご
・日替わりジェラート(この日は肥後グリーンメロン)
・オーガニックレモンヨーグルトの
3種類。
そして、私が選んだのはコチラ
肥後グリーンメロンのジェラートのセレブパフェ 1300円
1層目は、ファンダンショコラソフトクリーム
砂糖は70%カットらしいんですが、そんな感じがしない濃厚なソフトクリーム
チョコもめっちゃ柔らかくって美味しかった
ジェラートは、水を使わない果汁100%
砂糖の甘さではないので、甘いのが苦手な私でも
スッキリバクバク行けた
最後には、フレッシュフルーツ登場
これがまた、この時の私の体に力を与えてくれました
ここのジェラートは、マジに美味しかった!!
泊まったホテルからも、5分圏内
また是非、行きたいお店認定です
お店を出た後は、ぐるっと回って出島へ突入
まずは、こちらは出島完成当初(1636年)の護岸石垣。
近年の発掘調査で、発見されたものです。
出島入り口に行く途中に、こんな素敵な橋にも出会えました
出島橋です
現役の鉄製道路橋としては日本最古といわれている橋です。
1890年(明治23年)に、こことは違う場所に架けられて完成。
1910年(明治43年)に、老朽化した旧出島橋の代わりに現在位置に移設され、
出島橋になりました。
横浜の歴史的建造物でもよく見るプレート
まさか長崎でも見れるとは♪
出嶋ってなっていますね
このプレートがまた素晴らしい!!
この後のレポは、
かなりめんどくさく(笑)
自分の趣味に走って、歴史を簡単に
語っておりますので
お写真だけ見て、こんな場所が長崎にあるんだなって思っていただけたら幸いです。
出島橋を渡ると、いよいよ見えてきます!
出島の街並み
当時と同じように、橋を渡って出島に潜入です
時は鎖国時代。
1634年江戸幕府が対外政策の一環として、
長崎に築造した日本初の本格的な人工島。
1636年から1639年までは対ポルトガル貿易
1641年から1859年まではオランダ東インド会社を通して
対オランダ貿易が行われた。
日本で唯一、ヨーロッパとの貿易の窓口として機能していた。
※Wikipediaより一部抜粋
当時の出島の地図です※写真はお借りしました
陸とつながっているのは、橋のみ。
今は周辺、埋め立てられてビルだらけですが、当時は海でした。
出入りはかなり厳しかったようです。
中に集められたオランダ人も、一部の人を覗いては、
そう簡単には島から外に出られませんでした。
日本人も同じように、島の外から中へは入れなったそうです。
特に女性は、島には出入り禁止。
但し遊女だけは、女子でも出入りできたそうですσ(^_^;)アセアセ...
いつの時代もお盛んね(笑)
まずは、明治の建物のご紹介
旧出島神学校
出島教会に隣接した英学校として、1878年(明治11年)に建てられました。
1883年(明治16年)には、出島聖公会神学校となり、
現存する日本最古のキリスト教(プロテスタント)の神学校です。
現在は、出島資料館として利用されています。
旧長崎内外クラブ
1899年(明治32年)に、長崎に暮らす外国人と日本人の交流の場として、
長崎内外クラブが設立されました。
コチラも建物は、1903年(明治36年)も建てられたものです。
現在は、1階を長崎の食をテーマにしたレストラン、
2階を、居留地時代の展示室となっています。
1965年(昭和40年)に設置された橋とぶどう棚です。
1700年代に書かれた絵図に、描かれていたということで
再現されたそうです。
かなり古い石塀と鉄扉がありました。
元々ここにあったものか、移築したものか、調べましたがは不明でした
出島のオランダ商館は廃止され、領事館が設置された出島が居留地となった時代。
1866年(慶応2年)に設置された地番が書かれた石です。
【十 十一番】と書かれているのがはっきり読み取れます。
出島の他にも、グラバー園周辺にも地番堺石が当時のまま残っていました。
コチラは当時の出島を再現したジオラマ
高校時代、37年前ですねσ(^_^;)アセアセ...
この出島に来たときは
ここまで立派ではないジオラマと、この池に鯉が泳いでいるだけの場所で
『なんじゃこりゃ!!!』って騒いで(笑)
つまらなくて、即退散した私たちです
旧出島神学校と旧長崎内外クラブの先は、復元した建物のゾーンとなっています。
たくさんあるので、一部ご紹介
筆者蘭人部屋
オランダ商館員の住居で、筆者とは書記的な役割をする人で
帳簿などの整理をする事務的役割の方が数名、住んでいた建物だそうです。
2階の窓の手摺は、、当時オランダでよく使われていた、
緑色の塗料が使われ、窓はガラスとなっています。
現在は、当時のオランダの様子を知れる資料館となっています。
カピタン部屋
カピタンとは、商館長のこと。
商館長の住まいの他、商館事務所やお客様をもてなす場として機能していたそうです。
2階は、当時のお部屋が再現されています。
ヘルト部屋
ヘルトとは、次席商館長の呼称です。
2階が住まいで、商館長に仕える日本人の使用人も一部使っていたそうです。
屋上に物見台が作られ、ここから湾の船を眺める様子が、
多くの絵画に描かれているそうです。
乙名(おとな)詰所
乙名とは、出島の管理をしていた日本側の有力町人や奉行が選任した人の事で、
貿易事務一切を行うとともに、オランダ商館員の監視役でもありました。
乙名の詰め所でもありますが、他に金庫番役員や見張り番人の詰め所でもあったそうです。
たぶん1時間以上、しかもかなり端折って(笑)
駆け足で見て回りました
何せ時間がなかったのでσ(^_^;)アセアセ...
高校時代に来たときは、ホント何もなくってσ(^_^;)アセアセ...
こういう貴重な資料が揃った場所になって本当に良かったです
さて、次は長崎市内1番だと思われます
観光地に向けて出発です
続きはまた後ほど