長崎一人旅・長崎の悲しい歴史を辿って | ゆず×ぽんのてくてく・とことこ♡

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前回からの続きですウインク

 

 

 

 

モーニングを食べて、ホテル出発です!!

 

 

ここから先、歴史的遺構や出来事など

かなりめんどくさく(笑)

 自分の趣味に走って、説明しております。

やはり長崎観光をする上で、今回行った場所は、

外してはいけないことだと思っておりますので。

 お写真だけ見て、こんな痕跡や遺構が

長崎にあるんだなって

心の片隅に少しでも残していただけると

嬉しいです。

 

 

さて、ちんちん電車に乗って、長崎駅より先へ一気に移動ですダッシュ

 

 

 

サンタクララ協会跡

サンタ・クララ教会は、キリシタン全盛期の1603年に完成しました。

この地・浦上で唯一の教会でしたが、その後の禁教令により破壊されました。

破壊後、教会跡地は潜伏キリシタンの秘かな信仰の場所となり、

盆踊りと称して、集まって祈りを捧げていたそうです。

 

 

長崎には、この様に跡地に記念碑がとにかくたくさんあります。

禁止令によって、破壊されたことと

原爆によって、無くなってしまったものも多く存在しています。

 

 

 

如己堂

永井隆博士の病室兼書斎です

 

永井隆博士とは、放射線医学の研究による白血病を患ってしまいました。

そんな時、長崎に原爆が落ち重傷を負いました。

そんな状態でも、自分の命を顧みず負傷者救護や長崎の復興のため、

最後まで医師としての使命を貫いた方だそうです。

こちらの如己堂は、原爆で無一文となったにも関わらず

浦上の人々やカトリック信者仲間達のご厚意によって、

博士のための新しい住まいとして建てられたものです。

 

こちらの建物は、浦上の違う場所から移築されたものだそうです。

 

 

カトリック浦上教会(浦上天主堂)

キリシタン弾圧は、江戸幕府同様明治に入っても行われていました。

1873年、キリシタン弾圧の禁制廃止。

それによって、自由を得た浦上の信徒達によって建設が計画されましたが、

なかなか資金が集まらず、20年余りの時を経て、1895年にようやく建設着手。

初代の教会は、1914年に完成しました。

当時は「東洋一の教会」と言われていましたが、

1945年に原爆により建物は破壊してしまいました

原爆投下後の浦上天主堂周辺の写真です。

画像はネットからお借りしました。

 

長崎原爆遺跡の浦上天主堂の旧鐘楼です

浦上天主堂敷地内に、今も保管されています。

 

被爆し、破壊された銅像もありました。

 

教会横には資料館もあって、原爆により破壊されたものが展示されています。

 

 

 

 

この日、教会の見学はミサの為できませんでした。

※ネットよりお写真をお借りしました。

今現在、また長崎旅を考えているので、

その際に訪れたいと思いますニコニコ

 

 

浦上天主堂内には、キスリスト教弾圧で処刑された

日本二十六聖人の1人、最年少12歳で処刑されたルドビコ茨木の銅像もあります。

 

 

 

 

爆心地公園

原子爆弾落下中心地碑です

 

1945年8月9日11時02分。

アメリカのB29爆撃機から投下された

原子爆弾は松山町171番地の上空約500mで

炸裂し、一瞬のうちに多くの尊い人命を

奪いました。

死者  73,884人  
重軽傷者 74,909人  
合計 148,793人  
罹災人員 120,820人 (半径4キロ以内の全焼全壊家屋の世帯員数)
罹災戸数 18,409戸 (半径4キロ以内の全戸数。市内総戸数の約36%)
全焼 11,574戸 (半径4キロ以内。市内の約3分の1に当る)
全壊 1,326戸 (半径1キロ以内を全壊と見なしたもの)
半壊 5,509戸 (全焼全壊を除く半径4キロ以内を半壊と見なしたもの)

昭和25年7月発表

 

 

松山町の方は、たった1名の子供(防空壕に避難中だった)を残して全滅だったそうです。

 

 

原爆地公園には、原爆により破壊された浦上天主堂の外壁が保管されています。

 

原爆当時の地層も、最近の調査で発掘されたそうです。

 

横を流れる浦上川

原爆直後は、おびただしい遺体で埋め尽くされていたそうです。

 

川の石垣は、原爆当時のものだそうです。

原爆遺跡として、今もそのまま残しているそうです。

 

 

平和公園

エスカレーターが、ホント嬉しかったですσ(^_^;)アセアセ...

何せ、この界隈高低差が激しくアセアセ

観光2時間ほどで、かなりの疲労感が・・・

(惨劇の凄さを見てしまったので、結構心もきつかった・・・)

 

平和記念像

 

高校時代に来て、2度目の訪問

その時は・・・ホントごめんなさい!!

この銅像を見て、同級生(女子)に似てるって大笑いしていましたえーん

今思うと、なんてことをしていたんでしょうか魂(ホント知性がない高校だったので。。。)

 

平和の泉の前にある、原爆の日のある少女の手記です

 

原爆が起きた時、被爆者は水を求めて彷徨いました。

長崎の鐘には、多くのペットボトルが供えられていました。

 

平和記念像の前は、原爆当時刑務所がありました。

爆心地に最も近い、公共の建物でした。

高さ4mの壁は、根元を残しすべて崩壊。

受刑者や職員、全員が即死だったそうです。

 

 

 

 

 

この時点で、かなりブルー悲しい

 

 

 

 

なのに、ゆずちゃん

ここにきて追い打ちをかける場所へ向かいましたニヤリ

 

日本二十六聖人殉教地

長崎駅の目の前にある、西坂公園内にあります。

 

この場所は、とても悲しい悲劇が起こった場所です。

 

 

時代は、豊臣秀吉の時代

豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、

京阪地方へ伝導していたフランシスコ会宣教師6人と、

日本人信徒18人が捕まります。

 

見せしめのために、処刑をされることとなった24人は、

キリストが十字架に架けられたゴルゴタの丘に似ていることから

信者達がこの地を処刑の場に願い出たと言われていて、

関西から、約800km離れた長崎まで徒歩で連行されたそうです。

その際に、世話をしていた2名も、処刑されることを望み、最終的に26人が

この地で、十字架にはりつけにされ、処刑されました。

 

26人中10代が5名もいました。

 

この記事を書く上で、いろんなことを調べたんですが

知れば知るほど、胸が熱くなります。

(尚、私は実家が真言宗で、私は全くの無宗教です^^)

 

 

 

 

 

ブルーな気分の上乗せをした私えーん

もうお昼なのに、ご飯も食べたくないアセアセ

 

 

 

よし!テンション上がる場所に行こう(笑)

 

途中、ドリンクが足りなくなって

長崎銘茶・そのぎ茶購入照れ

 

スッキリした味わいで、美味しかったルンルン

 

向かった先は、長崎の夜景を見れる事で有名な稲生山へ続くロープ―ウェイの駅に隣接する

淵神社です。

なかなか立派な場所で、御朱印が頂きたかったんですが

どうもこちらの淵神社は、事前に御朱印予約を入れないと頂けないらしくアセアセ

あえなく断念ガーンガーン

 

 

 

 

しかし、何故私がここでテンション上がったかというと・・・ニヤリ

こちら宝珠幼稚園

 

長崎出身・福山雅治さんが通っていた幼稚園なんですよラブラブラブラブラブ

 

これだけを見たくて、

バスと徒歩で、ここに向かいました爆  笑

 

 

超ミーハー!

超テンション上がった!!

 

重くなっていた心が、一気に花開きました照れ照れ照れ

 

 

 

ちなみに、ゆずの二人が通っていた、幼稚園見学も行っております(笑)

 

 

 

 

テンション上げたところで、

この後は、定番長崎観光に向かいます爆  笑

 

 

続きは、また後日ウインク

 

 

今回は、食レポもございませんので

コメ欄は閉じさせていただきますお願い