改めて、幸せについて 幸せ論の違和感 | 彼は彼で、必死で生きてる           

彼は彼で、必死で生きてる           

良いも悪いも善も悪も
優れているも劣っているも
社会や時代が引っ張った
一本の線の上か下か。あるいは右か左か。

静かに目や耳を澄ませた時
見えてくるもの聞こえてくるものって
何なのだろう?

雪、講義など続いて、ご無沙汰してしまいました。

改めて、幸せ論です。

お金を持っていることと、幸せはあまり関係ない、
なんて言います。

幸せとは、今幸せであると感じることなんて聞いたことがあります。

いつもいつも、なんだか何かの違和感を感じてしまって、
なにか見落としているような気がしていましたが、
ちょっときづいたことがあります。

幸せな気持を感じることとお金持をもっていることは関係ない。
それって、つまり、

一銭もなくても、幸せにはなれる。裏返すと、
幸せな気分に包まれても、一銭もないこともある。

要するに、
幸せな気分の時間に包まれることができるとしても、
それは、明日の暮らしを保証してくれるものではないってこと。

幸せな気分のまま貧しくなり、
幸せな気分のまま死んでいくこともできる。

ある程度生活が保障されていると感じている人達と、
未来を描くことができない不安の中にいる人では、
求めるものはおそらく「別物」です。

「足るを知る」のは、最低限のことが足りている人達のための言葉。

よい友達に出会うより、よい友達になろうとすることだ、なんて言葉も、
無視され殴られる毎日を送っている子どもには全く役に立たない。

高級車の乗り心地、シートの素材に関する話なんて、
おんぼろ車をやっと手に入れた人には
何の役にも立たないのと同じように。

そんなことを思いながら改めて幸せについて考えます。
幸せな気持は個人個人、差があって比較はできなくても、
幸せな気持を手に入れやすい段階というのがあるような気がします。

自分が中の下、または、下の上あたりにいる感覚。
生活がぎりぎりでもなんとかなっていて、
そして、上を見て夢を描くことができて、
夢にむかって動き出せる実感、
動き出しているという実感を感じる時。

動いて、攻めて、手に入れて、昇っていける気持。

物を持ちすぎて、動けず守って、油断すると下ってしまう気持の
逆です。

 今日はこれで終わりにしますが、
 今日の頭の中を通り過ぎていったものを
 ここに書いてみました。

明日は明日の風が吹くのか、
僕にはわからないのですが。