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司法試験情報局(LAW-WAVE)

司法試験・予備試験・ロースクール入試の情報サイトです。司法試験関係の情報がメインですが、広く勉強方法(方法論)一般についても書いています。※ブログは完全に終了しました。コメントなどは受け付けておりません。ご了承ください。

このブログでは、

・手を広げる=拡散型の勉強法を批判して、

・手を広げない=集約型の勉強法をおすすめしてきました。

 

その際、主な論拠として、教材を潰すこととの関連性を重視してきました。

 

すなわち、

 

①手を広げなければ

    ↓

②教材を完全に潰すことができる

 

あるいは、

 

①教材を完全に潰すためには

    ↓

②手を広げてはいけない

 

という関係を強調してきました。

 

しかし、手を広げないことの意義は、実はそれだけではないのです。

手を広げないことの最大の意義は、失敗した場合に修正がしやすい点にあります。

 

試験合格に必要なのは、何度も書いているように、

 

①目的への正しい方向性

②目的までの距離を埋める必要最小限の努力

 

この2つです。

 

しかし、どんな優秀な受験生でも、最初から最後まで正しい方向(①)を貫けるわけではありません。

 

人間は不完全性がデフォルトです。どんな人間にも誤解や失敗はつきものです。

むしろ、不完全な人間にとって、失敗は常に約束されているとさえ言っていいでしょう。

 

そのとき重要なのは、ただ失敗することではなく、正当に失敗することです。

 

正当に失敗し続けること、すなわち、正当にトライアンドエラーを繰り返すことができれば、スタート段階で目的に照準が合っていなくても、失敗の過程で徐々に照準が合っていきます。

 

たとえば、的に向かって弓矢を放つとします。

最初に放った矢が、的から右側に10m逸れていれば、さすがに次は左を狙わざるを得ません。

次に放った矢が的の右側に5m逸れれば、次は更に左を狙います。

左に逸れれば、次は右です。

 

このように、実際に矢を放って、実際に的を外すことで、徐々に的に近づいていくことは、正確に的を射るための最も合理的で最良の方法なのです。

 

一方で、何本もの矢を一斉に放ったり、矢が外れた先をしっかりと確認しなければ、その「失敗」は教訓になりません。次にどちらに向かって矢を放てばいいか、これでは分かりません。

 

正当に失敗することが大事だというのは、そういう意味です。

 

きちんと失敗するために何より必要なことは、失敗の原因が明らかになっていることです。

失敗の原因が明らかであれば、少なくとも、次にまた同じ手段を取る人はいないでしょう。

右に矢が逸れたと判明すれば、どんな人でも必ず次は左を狙います。

この当たり前のことこそが、一番重要なのです。

 

では、失敗の原因を明らかにするには、何が必要でしょうか。

 

それは、教材でも方法でも、何かひとつに手段を絞って、はっきりと「○○についてはやり切った」というものを持つことです。

 

これができれば、原因の明らかな失敗、すなわち、正当な失敗ができます。

 

いくつか例を挙げます。

たとえば、当ブログの忠告を無視して、「俺はあくまでも基本書主義で行くのだ」と決めた人がいたとします。そうやって彼は、勉強時間の9割以上を基本書読みに充てて試験に臨んだとします。

 

また、「過去問なんか必要ない。答練だけで合格できる」という人がいたとします。そうやって彼は、答練中心主義を完全に貫いて試験に臨んだとします。

 

このブログをお読みの方の中には、私がこういうタイプの受験生を即、見込みがないと判断すると思われる方がいるかもしれません。

 

しかし、実はそうでもないのです。

 

こういう自分のやり方を明確に定め、貫くタイプは、実はなかなか見込みがあります。

自分のやり方をとことん貫くタイプの受験生は、そのやり方で失敗した場合、自分のやり方を貫いて失敗してしまったが故に、失敗という現実に対して、自らの非を明白に認めざるを得なくなります

 

そのため、自分のやり方を捨てざるを得なくなり、方向転換できるようになる人が多いのです。

 

自分のやり方とアイデンティティーは、深いところで結びついています自分のやり方を変えるには、このアイデンティティーが根底から破壊される必要があるのです。

 

自分のやり方が明確に定まっている人、自分のやり方に過剰なまでの自信を持っている人、自分のやり方をとことん貫く根気のある人は、案外勇気がある人だといえるのです。

 

なぜなら、それで落ちたら、自分にも周りにも言い訳ができなくなるからです。そうなったら、自分の大事なアイデンティティーを放棄せざるを得なくなるからです。

 

一方で、根源的に勇気を欠く人は、逆に失敗の原因をボカそうと様々な布石を打つ傾向があります。予め原因を分散しておけば、失敗した場合にアイデンティティーが傷つくのを防げるからです。

勇気を欠く人は、無意識的にこういった「リスク分散」をしていることが多いです。

 

基本書主義を納得いくまでやり切って失敗すれば、別の方向に活路を見出さざるを得なくなります。

答練を納得するまで受けて不合格になれば、やっぱり過去問はやっておくべきだったと思うでしょう。

 

このように、正当に失敗することができれば、失敗→修正ができるのです。

 

私がことあるごとに手を広げないことを推奨するのには、このような意味もあったわけです。

基本書主義、インプット重視主義、論証主義、あてはめ主義、判例主義、過去問主義etc・・・どんな方針でも、とことんやり切ったうえで失敗すれば、失敗→修正のサイクルに入ることができます。

 

まさに、失敗は成功の母なのです。

 

逆にいうと、「○○についてはやり切った」といえるものを何一つ持たないまま失敗してしまうと、失敗の原因が特定できず、失敗→修正のサイクルに入ることができません

 

なんとなく漠然と色んなことをやって、なんとなく漠然と「失敗」したら、判断材料が何もないので、自分が一体どちらに方向転換すればいいのか、正当な指針が何も生みだせません。

 

何ひとつやり切っていないのですから、指針など出てきようがありません。

 

基本書を適当に読んで & メイン問題集を適当に解いて & サブ問題集を適当に解いて、判例百選を適当に読んで & 調査官解説を適当に読んで & 演習書をテキストに勉強会を組んで、サブノートを作って & 論証を書き直して & 良さげなレジュメを集めまくって & 条文の素読をして、予備校の講座をいくつも受けて & 答練を受けて & 模試を受けて & 過去問を適当に解いて、etc・・・

 

…なんてことをやってきた人が「失敗」したからといって、何を教訓として学び取れるというのでしょう。

ここから学び取れるものは何もありません。

 

先ほどの弓矢の例でいえば、「失敗の原因を特定」するとは、勇気をもって矢を放つことに他なりません。それはつまり、自分の放った矢が的に命中していない事実を、どんなに嫌でも自分の目で確認することです。

 

手を広げる受験生とは、その意味で、矢を放つこと自体を回避する人だともいえます。そもそも彼らには、自分が的を外した事実を認識したくない(失敗の原因をできるだけ明確にしたくない)という気持ちが常にあるわけですから、彼らが矢を放つことを躊躇するのは当然です。

 

このような形で曖昧に「失敗」した人は、多くの場合、落ちた年と同じことをまたやり始めます

 

自分が落ちたのは、

・基本書をちゃんと読んでいなかったからだ。

・問題集をちゃんと解いていなかったからだ。

・判例集をちゃんと検討していなかったからだ。

・演習書を、テキストを、ノートを、講座を、答練を、過去問を・・・

今度こそちゃんとやりさえすれば、全部ちゃんとやりさえすれば・・・

漠然と手を広げて「失敗」した人が立てられる指針は、せいぜいこの程度のものです。

当然、このような漠然とした指針を貫く(やり切る)ことは不可能です。

したがって彼らは、次の年もまた同じような形で失敗するのです。

このように、失敗する(三振・五振する)人は、たいてい3回(5回)とも同じように失敗します

 

色々な失敗の仕方をする人はかなり珍しいです。

というか、そういう人を私は見たことがありません。

 

そもそも、色々なやり方で失敗することができないからこそ、最後まで失敗し続けるのです。

色々なやり方で失敗し続けることができるということは、逆説的ながら、その人が最後まで失敗し続けることはできないことを意味します

手を広げず、失敗の原因を特定してしまう人は、自分の方法を修正せざるを得なくなります。

 

これはつまり、アイデンティティーを捨てる=自己変革せざるを得なくなるということです。

 

こうして失敗→修正のサイクルに入っていくことができる人は、いずれ目的地に必ず到達せざるを得ません。

 

これこそが正当な失敗です。

しかし、手を広げて、失敗の原因を曖昧にしてしまうと、いつまでも修正のステージに入れません。

 

これはつまり、アイデンティティに執着し続ける=自己変革できないということです。

 

修正できないということは、すなわち、自分の枠から外に出ることが永遠にできないということです。

こういう人は、自分の枠の中をぐるぐると回りつづけます。

 

手を広げる=何ひとつ完璧にしないことは、このような負のサイクルへの入口なのです。

手を広げる=拡散型の勉強法の恐ろしさは、まさにここにあります。

まとめます。

 

つまり、本当に大事なのは、失敗しないことではなく、正しく失敗することです。

手を広げることが問題なのは、それでは正しく失敗することができないからです。

 

手を広げなければ、正しく失敗することができます。

それが、失敗が宿命づけられた不完全な人間にとっての、唯一の成功への道なのです。

 

 


 

刑法 第5版 (有斐閣双書プリマ・シリーズ)/有斐閣
¥2,835
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総論・各論が1冊にまとまった刑法の概説書です。

 

板倉先生は、行為無価値&判例実務寄りの立場で有名な人です。

前田刑法が判例に近いというのとは別の意味で、理論的な骨格が判例・実務に近い本です。

 

少し古めですが、まだ改訂は続けられていますし、概説書の割に記述が非常に平易なので、受験対策本としての有用性は現在でも失われていないと思います。

 

通読用の概説書としては、山口刑法 よりはるかにおすすめできます。

 

おすすめ度⇒B

 

 

 


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このブログで何度もおすすめしている司法協会のテキストです。

本書の位置づけは微妙ですが、入門書あるいは概説書だと思います。

 

司法協会のテキストはなるべく紹介する方針なので採り上げましたが、正直、本書はイマイチです。


さすがに薄すぎて無味乾燥です。

総論部分に一部「なるほど」と思う記述もありましたが、各論などは無味乾燥の極地です。

一通り勉強し終わった受験生でないと、逆に通読が難しい本だと思います。

 

刑法総論講義案 という名著を生み出した司法協会ですから、各論でも(ある意味各論こそ)同様のコンセプトで基本書を出版して欲しいところです。

おすすめ度⇒C

 

 

 

刑法各論 第6版 (法律学講座双書)/弘文堂
¥4,200
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刑法各論の基本書としては、受験界で人気No.1のテキストです。


記述が非常に分かりやすいです。

特に、各構成要件の冒頭部分の保護法益の解説は秀逸です。

法律学者の中でもひときわ文章力が秀でた先生なので、内容的には同じことが書いてあっても、通常のテキストでは得られない理解ができてしまうところが本書の凄いところです。

 

普段予備校本しか使わない受験生にも、これだけは持っておいて損はないよと言いたくなる学者本が何冊かありますが、本書はそんなテキストです。

 

予備校本で固めている人にも、辞書としておすすめしておきます。

 

ちなみに、同じ西田先生の刑法総論について。

相変わらずの文章力で、記述は読みやすく、思いがけない部分で疑問が解消したりもしますが、全体的に講義調で、各論に比べると、基本書としてまとまりに欠ける本です。

そもそも結果無価値なので、総論は不要(おすすめ度⇒C)でしょう。

おすすめ度⇒A

 

 

 

先日、「出題趣旨と再現答案ではどちらが重要か」というご質問をいただきました。

 

結論からいうと、私は、再現答案のほうが圧倒的に重要だと思っています。出題趣旨も有益な教材だとは思いますが、重要度としては、再現答案>>>出題趣旨と考えています。

以下、理由を述べます。


理由①


第一に、私たちが通らなければならない試験は、相対評価の試験であって、絶対評価の試験ではないからです。

「新司法試験はあてはめ勝負」は本当か でも書きましたが、出題趣旨は、絶対評価の見地から、試験委員が「願わくばできて欲しかった」ことばかりが書いてある、一種の完全解です。

もし、完全解を書くことに十分な実行可能性があるのなら、完全解を目指すこと(真に受けること)にも問題はありません。

しかし、完全解を書くことは、トップ合格者にすらできないのが現実です。トップ合格者にすら書けない完全解を過度に真に受けるのは、司法試験のような相対的に受からざるを得ない(実践解を目指さざるを得ない)試験において、著しく誤った認識と言わざるを得ません。

↑このように「完全解を目指してはダメだよ」といくら忠告しても、多くの受験生が出題趣旨をはじめとする完全解を有難がる理由は、受験生たちが一つの信仰を持っているからです。

その信仰とは、「大は小を兼ねる教」です。

 

ほとんどの受験生が、大(出題趣旨)をやれば小(合格)が実現できると信じています。

しかし、こと司法試験においてその関係は成立しません。合格することと完全解を書くことは、目指すゴール自体が違うからです。再現答案をきちんと読みさえすれば、そんなことは誰にでもすぐに分かるはずです(この辺りの事情がよく分かっていない人は、例外なく再現答案分析から逃げています)。

しかし、多くの受験生は「大は小を兼ねる教」を信仰し続けています。なぜでしょうか。

 

私が思うに、それは、受験生の目的意識が希薄なせいです。受験生の真の目的は合格であるはずです。すなわち、「小」こそが目指すゴールであるはずです。ところが、真の目的が何だったかを忘れてしまうと、いつの間にか「大」すなわち「過去問を完璧にマスターすること」が目的化されてしまうのです。ここでは、合格のための手段に過ぎない過去問マスターが、盲目的な信仰対象として神の座に祭り上げられています。

それにしても、目的意識が希薄だからといって、なぜ出題趣旨(≒過去問の完全マスター)が神格化されるのでしょうか。

 

それは、多くの宗教(特に新興宗教)の信者に特有の、ある欲求がそこにあるからです。
その欲求とは、そこで考えるのを止めにしたいという欲求です。つまりは思考停止の欲求です。「過去問が大事なんだろ」「だったら過去問を完璧にしてやるよ」「それでいいだろ。もう何にも言うな」という思考態度です。

 

ようするに、彼らは、それ以上考えるのが面倒くさいのです。つまりは、不断に目的に迫り続ける緊張感から解放されたいのです。そういった緊張感から解放されて、「これをやっておけば文句ないよな」という素材、つまりは「大」が欲しいのです。それ以上思考し続ける必要がなくなるような完璧な武器が欲しいのです。これは明らかに宗教に特有の思考停止の態度です。


理由②


第二に、出題趣旨に書かれている内容には偏りがあるからです。

答案に書かれるべき要素を、基本―応用の二層構造に分けるとします。

「基本」とは、その答案が条文などの確定的要素(=基本)からきちんと展開されているかや、その受験生にリーガルマインド(法的思考能力)が備わっているかといった、具体的な文字情報として表現しにくい、しかしおよそ法律家という法律家すべてに要求される基礎的な能力のことです。

「応用」とは、基本をクリアした後の、基本からの展開・帰結のことです。

文字の形で具体的に表現することが可能な(容易な)事柄という意味を含めたいです。


言うまでもなく、学者の関心は、極端なまでに応用に偏っています。

出題趣旨に書かれていることも、基本的には応用に偏っていると思います。

なぜ彼らの関心が応用ばかりに偏るのか
それには2つの理由があります。

一つは、それが彼らの仕事だからです。
ローの授業にもそれは端的に表れています。学者は学生に基本を教えることより、応用を研究することを本業としています。そのため、本来基本を教えるべきローの授業も、彼らにとって関心のある応用ばかりになってしまいます。


二つ目は、多くの場合、専門家の視界からは基本は消えてしまうからです。
私がブログでことあるごとに条文の重要性を説いていますが、そして、ほぼ全ての受験生もさすがにそれには同意してくれていると思いますが、学者さんで私ほど条文の重要性を強調する人は稀です。

それは、彼らが条文の重要性を知らないからではありません。むしろその逆で、彼らにとって条文の重要性など、もはや語る必要がないくらいに当たり前になっているからです。彼らが条文(基本)を軽視しているように見えるのは、彼らが条文の重要性を知りすぎているからなのです。

「人が生きるに必要なものは何か?」と聞かれたとき、「お金」あるいは「人間関係」と答える人は多いと思いますが、ここで「空気」と答える人は稀でしょう。しかし、全てをゼロベースで地球環境から創り上げる必要がある人にとっては、空気や水は全てに優先して必要なものです。

 

ところが、すでに地球環境に慣れてしまった人にとっては、もはやそれはあまりにも当たり前すぎて、想起すらされなくなります。そういう人が「空気」と答えるには、相当の意識的な作業を要します。

この点が専門家に助言を乞う際の最大の要注意点です。自分が初心者だった頃を思い出して、その観点から基本に立ち戻って指導ができるような専門家は、極めて内省力の高い人です。そんな専門家は稀にしか存在しません。全国のロースクール教育の惨状をみれば、それは誰の目にも明らかなことです。

私が申し上げたいのは、その「惨状」を引き起こしている当の張本人が、出題趣旨の話になった途端になぜか突然豹変して、今度は最も重要な当たり前のこと(=基本)を受験生に向かって語り始めてくれるようになる・・・なんて信じるのは、控えめに言っても能天気にすぎるでしょ、ということです。

そんな豹変力が彼らにあるわけがないではないですか

彼らにそんな能力があったなら、ロースクールの指導力不足問題など発生するはずがありません。

一度冷静になって彼らの普段の仕事ぶりを思い返してください。つまり、試験委員の仕事以外の仕事をしているときの彼らの仕事ぶりを、です。果たして彼らは、学生たちに基本を教えられているでしょうか。そうやって学生たちを、試験に合格する人間に育て上げているでしょうか。もちろん答えは「できていない」です。指導力不足が問題視されるほど「できていない」のです。

 

その指導力不足問題の当の当の当事者が書いているのが、出題趣旨なんですよ。一体どうやったらそれが手離しで礼賛できる資料になるのでしょうか。同じ主体が行っている同じような仕事なのに、日常と非日常では、そんなに仕事の質が変わるんでしょうか。それとも彼らはスーパーマンなんでしょうか。変身でもするんでしょうか。皆さん、ほんともういい加減目を覚ましてください。。

話を戻します。

 

受験生が身につけるべき最優先の能力は、圧倒的に基本のほうです。

こちらの記事のコメント欄(無題①②③) で就職面接を例に挙げて書きましたが、司法試験は「答え」よりも「答え方」のほうがはるかに大事な試験です(私はそう信じています)。

司法試験では、どんなに知識的な正解を並べても、受からない人は永遠に受かりません。

一方で、論点落としをしようが途中答案を書こうが、受かる人はあっさりと受かります。

これはまさに、司法試験の評価の核心が、知識(答え)それ自体にはないことの何よりの証左です。

ところが、出題趣旨に書かれている内容は、「これこれを書いて欲しかった」というような具体的文字情報に変換できる知識の話ばかりです。出題趣旨に書かれているのは、基本をクリアした後にくる応用という名の加点自由の話ばかりなのです。

受験生が出題趣旨を過度に有難がるのは、
彼らが司法試験の問いに答えることを、答案上に一定の正しい知識を置いてくることだと勘違いしているからに他なりません。

しかし、繰り返しますが、司法試験は答えよりも「答え方」が大事な試験です。

 

私は就職面接と似たようなものだと思っています。当局が用意している具体的問題や、差し当たり提示される答えは、受験者の「答え方」を引っ張り出すためのエサ(きっかけ)に過ぎない。もちろんエサにも配点はありますが、面接官は、もっぱら受験者の「答え方」のほうしか見ていません

世の中にはこういう類の「試験」があります。たしかに、
ペーパーテストとしては特殊かもしれません。センター試験や私大入試などの知識を置いてくることが全ての、良く言えば簡明な、悪く言えば単細胞な試験に慣れてしまっている人にとっては、大きな違和感を覚えるものだと思います。それくらい通常の試験とは異なるものです。しかし、だからこそ、受験生は、司法試験の持つこの異質性にもっと自覚的になる必要があるのです。

私たちは、具体的な文字情報に表現される以前の、書かれざる基本をこそ重視すべきです。法の用い方、事案へのアプローチの仕方、問いに対する答え方・・・こういった基本的な行為態様こそが、具体的文字情報に分岐する以前の、全ての法律家に要求される普遍的な能力だからです。

優秀な合格答案には、何よりもこの「基本」が、形としてよく示されています。一方の出題趣旨が教えてくれるのは、具体的な文字情報として表現しやすい「応用」ばかりです。

踊る大捜査線の青島刑事の名言ですが、全ての事件は会議室ではなく現場で起きています。

それなのに、出題趣旨に書かれている内容といったら、現場から遠く離れた会議室で、しかも後出しジャンケンの形で考え出された、現場感覚の欠落したアドバイスばかりです。具体的に「これこれを書いてほしかった」と言語化・可視化できるものばかりです。

星の王子様ではないですが、本当に大事なものは、目に見えない部分にこそあるはずです。

もちろん、ここで述べた「基本」が、100%言葉にできないものだとは言いません。しかし、具体的表現として「これこれを書いてくれ」と言い切れるものでないことは確かでしょう。


それにもし、その「基本」が何らかの形で言葉に表すことができるとしても(もちろん一定程度は表せると思いますが)、その言葉は、試験の度に、毎度毎度同じものでなければならないはずです。

なぜなら、本当に大事なことは一つだからです。

その一つが書けないから受からないのが不合格者であり、その一つが書けたから受かったのが合格者です。つまり、私たちはその一つをこそ書けるようにしなければならないわけです。

この点で、出題趣旨のような毎度毎度具体的なことが、つまり毎度毎度違うことが述べられている資料が、教材として二次的価値しか持たないのは当然です。

ここで非常に大事な話をします。

毎度毎度「違うこと」が書かれているということは、どういうことを意味するのでしょうか。

それは、本当に大事なことは、そこには一切書かれていない、ということに他なりません。

これは、強調してもし過ぎることがないというほどの重要なポイントです。

 

たとえば、ある人があなたに対して様々な仕事上・人生上のアドバイスをしてくれるとしましょう。

そのとき、その人のアドバイスが毎度毎度「違う」のであれば、その人は、本当に大事なことはあなたに何ひとつ教えていないということです。

 

あなたがアドバイスをする側になった場合も同様です。

本当に大切な人に、本当に大切なアドバイスをするのなら、あなたはその人に対して、ほとんど毎回同じことを言うはずです。同じことを何度も言わないのなら、あなたは本当に大切なアドバイスは何ひとつしていないということです。

 

もちろん色々な話もするかもしれません。しかし、本当に大切なこと、一番大切なことを、どこかの機会に1回だけするなんてことは絶対にあり得ない。一番大切なことは、一番大切だからこそ、たいていは一つしかないのであり、その「一つ」は繰り返し語られるものなのです。

 

司法試験では、ある一定以上の実力に到達すると、たとえば憲法なら憲法を毎年毎年同じことしか聞いてこないと捉えるようになる受験生が多いです。凄い人になると(辰已の合格者講義で聴いたのですが)全ての科目がおしなべて一つのことしか聞いてきていないと感じるようになった人もいるようです(私も半分はそうなっています)。

 

初学者の頃は、司法試験は実力が上がれば上がるほど、多様な出題に多様な形で対応できるようになると思われているわけですが、実際は逆なのです。真の実力者になると、司法試験の出題は多様ではなく、単一のものに感じられてくるのです。
 

処理手順で考えると分かりやすいです。皆さんも初学者の頃は、一つ一つの問題に対して一問一問場当たり的な対応しかできなかったと思います。それが中級者以上になると、人権パターンのような科目ごとの処理ができるようになります。そして、真の実力者になると、それさえも抽象化され、法の普遍的処理パターンにまで到達する(人も一部にいる)のです。

 

つまり、司法試験では、実力が向上すればするほど、使用する武器の数は減っていくのです。

 

このように、多様→単一と戦い方が収斂していくのが、司法試験における実力の向上です。

反対に、多様の次元に留まり続け、戦う度に武器を増やしていってしまう人が、悪い意味で「実力者」と呼ばれる人たちです。

「多様→単一」とは、言いかえれば「答え→答え方」の移行のことですし、「知識の習得→能力の修得」への移行だともいえます。
 

出題趣旨に書かれているのは、多様な「答え」「知識」ばかりです。読んでみれば一目瞭然です。そこには毎度毎度「違うこと」が書かれているのが分かります。

 

司法試験で本当に大事な「一つ」のこと、つまり「答え方」「能力」のことは、出題趣旨にはほとんど書かれていません(でも全く書かれていないわけではないからそこに注意を向けるべき)。


皆さんが司法試験に合格していないのは、出題趣旨に書いてあることが書けなかったからではありません。皆さんが司法試験に合格していないのは、出題趣旨に書かれる以前の、本当に大切な一つのことが書けていないからです。

 

その「一つ」とは何か。それが書かれているのは、間違いなく出題趣旨ではなく答案です。


理由③


第三に、私たちが実際の本試験で求められているのは、答案の形で解答を書くことであって、問題にコメントすることではないからです。

司法試験の論文試験が、他人の書いた答案にに適切なコメントを与える能力それ自体を評価の対象にしているのであれば、出題趣旨はど真ん中の教材かもしれません。しかし、私たちが司法試験で求められるのは、他人の答案を読んで
出題趣旨を発表することではなく、答案を作成することです

 

この端的な事実を忘れてはいけません。

理由②で述べた「一つ」というのも、間違いなく答案の形でこそ示されるもののはずです。もっと踏み込んで言ってしまえば、答案の形でしか示されないものだと私は考えます。

野球選手になりたい人が、野球をそっちのけに解説者の真似事をしていても、野球ができるようにはなりません。野球ができるようになりたいなら、当然ですが、野球をしなければなりません。その上で、解説者のコメントを参考にすることはもちろん有益です。しかし、両者の価値の大小を取り違えてはいけません。

問題に対してなされた
コメントは、いかなる意味でも論文試験の答案そのものではありません。

私たちは、問題にコメントを加えるのではなく、問題に解答しなければならないのです。

こういった、自らに求められている行為態様が何だったのかを忘れないようにすることが大事です。

少しだけ寄り道します。

 

もし、法務省が明確な形で正解の答案そのものを提示してくれるとしたらどうでしょう。

「正解」の「答案」ですから、なるほどそれは極めて貴重な資料になり得るでしょう。場合によっては、再現答案を凌ぐ価値を持つかもしれません。

しかし、それは絶対にやってはならないというのが、今も昔も変わらない法務省の一貫した姿勢です。

 

法務省は、司法試験の歴史の中で幾度も、「答案の形で正解を提示することは、受験生を答案の暗記に走らせ、受験テクニックを助長させ、ひいては受験競争を過熱させることになるので、絶対にできない」という趣旨のことを述べ続けています。

 

答案の形での「正解」を明らかにすることは絶対にしない、というスタンスを取り続けています。

この姿勢が意味するところはとても重要です。

 

なぜなら、これは裏を返せば、出題趣旨という単なるコメントを示したくらいでは、受験生に真の正解を読み取られる危険性はない、と法務省が自信を持って判断しているということに他ならないからです。

 

答案は、絶対に出さない(絶対に)。

でも、出題趣旨だったらいくらでも出すよ。

 

↑これが法務省の一貫したスタンスです。

 

ようするに、出題趣旨なんか読んだところで、真の正解は絶対に分かりっこないよ」と法務省が高をくくってしまえる程度の情報しか書かれていないからこそ、出題趣旨は堂々と受験生に公表されている。そう考える他はありません。

 

法務省の姿勢からいっても、このことは明らかだと言わざるを得ません。
出題趣旨と、答案で表現しうる真の正解とには、かくも大きな違いがあるわけです。

 

最後に、再現答案よりも出題趣旨に圧倒的な価値があると思い込んでいる権威主義受験生にも簡単に理解ができる思考実験を示して終わりにしましょう。

あり得ない話ですが、もし、法務省が、正解の答案を発表したとすればどうでしょう。

私は再三、最も重要な真の正解は答案の形でしか表現できない、と言ってきました。

しかるに、この答案はただの答案ではなく正解答案です。とすると、この答案には司法試験の真の正解が、つまりはこのエントリーで述べた「基本」が、しっかりとその姿を現していることになります。

 

となれば、私はこの答案を、最低でも再現答案と同等か、場合によってはそれ以上の貴重な教材として扱うことになるはずです。いずれにしても、文字通り第一級の資料として扱うことになるはずです。

 

権威主義者の皆さんも、ここは当然そうされることでしょう(対立が解消されて嬉しいです)。

対立が解消されたところで、ここでひとつ質問です。

では、この正解答案は、再現答案 vs. 出題趣旨、果たしてどちらにより似ているでしょうか?

 

答えは・・・もちろん言うまでもないでしょう。

こっちは・・・おぉ、ずいぶん似てる。トップレベルになると、問題によってはかなりそっくりなのまであるじゃん。

やっぱ凄いな○○○○。えーと、で、そっちは・・・なんだそれ、全然違うじゃん(苦笑。

・・・と、このように、出題趣旨に真の正解が示されていると見做すことは
到底できません。

残念ながら、出題趣旨は再現答案に劣位した教材なのです

 




 

 

【雑感】

 

試験は、問いに答えること が全てです。

 

「問い」を「答え」に言いかえることができるか。「問い」と「答え」をイコールで結ぶことができるか。

これが試験の全てです(だから、確固とした「答え」が予め存在するものしか試験にはなりません)。

 

問いと答え問題と解答だけが試験の実質です。

 

試験勉強で本当に大事なのは、「問題」と「解答」の2つだけです。

「過去問が大事だ」というときの「過去問」とは、過去問の「問題」と「解答」のことです。

 

「問題」と「解答」と「出題趣旨」ではありません(笑)。

 

ここに「問題→解答」を繋げる思考過程(→)を含めても構いませんが、これは目に見えないものです。

 

相対評価の試験では、これがもう少し具体化されて、

相対的に読み取ることが必要(可能)な程度の問題文

相対的にアウトプットすることが必要(可能)な程度の解答

の2つのイメージが大事になります。

 

いずれにしても、絶対に逃げてはいけないのは、「問題」と「解答」の2つだけです。

 

この2つ以外は、すべて補助的な役割しかありません

「補助的」というのは、誰にとっても大事だとは言えないということです。

皆さんは、単なる補助教材に逃げないように注意してください。



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ちなみに、もちろん、どれだけ逃げても合格することは可能です。

たまたま受かるのでいいのなら、それでも全然受かります。

 

合格者の大半は、自分が「たまたま組」だなんて露ほども自覚していない「たまたま組」です。

そういうことをちょっとでも反省してみる態度がなかったからこそ、長いこと苦労したんだという自覚が、「たまたま合格者」には決定的に欠けています。きっと合格して舞い上がっちゃってるんでしょう。

 

今年もたくさんの合格者が誕生し、めいめいが勝手気ままな必勝法を説き始めました。

「私はこんな教材を使ったよ」「私はこんなやり方で勉強したよ」と、具体的なことを書き連ねています。

皆、自分がしてきたことをただ列挙して、それをそのまま確実に受かる方法だと言っています。

 

でも、残念ながら、↑これは全部嘘なのです。

その人がしてきた具体的なことは、せいぜいその人にとっての真実でしかないからです。

 

【選択という名の自己愛】

 

具体的な手段は、それが具体的になればなるほど、その人に密着したものになっていきます。

なぜなら、具体的なものには、その人の選択(自己愛)が反映されているからです。

 

自分が好んで選択したものに、人は執着します。

 

幼児期に「○○ちゃん、どっちが食べたい?」などと、幸せいっぱいに語りかけられていた時期からこの選択という名の自己愛は発動していたはずです。そういう経験を生まれてから何十年と繰り返していく中で、人は、成人した頃には完全に自己愛の奴隷となり果てているのです。

 

人は、何に対しても自己愛を発動できるわけではありません。

人が自己愛を発動できるのは、具体的なものです。もっと正確にいうと、具体的に選んだものです。

たとえば、「民訴といえばこの一冊だ」とか、「出題趣旨を徹底的に参照した」とかいったものです。

 

一方で、そういう具体性を欠くものに対して、人は執着することができません。

たとえば、「過去問が大事だ」とか、「条文が大事だ」とか、そういう皆が当然やっているとしか思えない個性のカケラもないものに、人は執着することができません。

なぜか執着できないかというと、それは、あまりにも当たり前に過ぎることだからです。

あまりにも当たり前のことには、選択の余地がないからです。

 

選択できないものを、人は愛しません。

 

今まで、私は、本当のこと(=当たり前のこと)を、繰り返し繰り返し説明してきました。自分でいうのも何ですが、これ以上ないくらい懇切丁寧に、粘り強く本当のことを語ってきました。しかし、それでも、ほとんどの受験生は、私の語る「当たり前」に、聞く耳を持ってはくれませんでした。聞く耳を持たず、具体的なほうへ具体的なほうへと逃げていってしまいました。

なぜ彼らは、「当たり前」に耳を傾けないのでしょうか。

なぜ彼らは、最初から最後まで、具体的なことにしか興味を示さないのでしょうか。

それは、「当たり前」をしたところで、それでは少しも自己愛が満たされないからです。

 

「当たり前」のことなんかしても、少しも気持ちよくなりません。

日々の勉強を気持ちよいものにするには、「当たり前」なんかしていてはダメなのです。

 

合格者も同じです。せっかく合格したのだから、ひとまず自分は留保して、皆に役立つことを語ればいいのに、ほとんどの合格者はそうしません。自分がやってきたことを少しもアレンジせず、そのままの形で延々と語り続けます。かけがえのない自分が選択した、自己愛たっぷりの「僕の方法」を繰り返すばかりです。

試しに合格者のブログを見てみてください。

そこに書かれているのは、「僕はこうしたのっ!」「僕はこうしたのっ!」のオンパレードです。

なぜ彼らは、「当たり前」の話をしないのでしょうか。
なぜ彼らは、自分がしてきた具体的なことしか語ろうとしないのでしょうか。

 

それは、「当たり前」を言ったところで、それでは少しも自己愛が満たされないからです。

 

かけがえのない自分が聞いてもらいたいのは、具体的に選択した自分の話です。

抽象的な「当たり前」の話しをしても、そこには「かけがえのない自分」が出てきません。

そんなことをしていたら、少しも気持ちよくなりません。

受験生、合格者がともに、「当たり前」から逃げるのは、そういう理由です。

すべては選択という名の自己愛によって決められているのです。

ちなみに、自己愛の反対は、あえていえば真理です。
本当のこと、あたりまえのことです。

そして、自己愛と真理は反比例しています。どちらかを取れば、必ずもう一方が犠牲になります。

正しい話は、正しいから正しいのであって、そこに自分が介在する余地はないからです。

話は、正しくなっていけばいくほど、語り手(自分)の存在はどうでもよいものになっていくのです。
 

正しい話に「自分」は必要ありません。それは、裏を返せば、自分を消去すればするほど、話は正しく、当たり前になっていくということでもあります。

このように、「選択という名の自己愛」と「真実」は両立しません

どちらか一方しか選択できないのです(あっ、ここにも「選択」が・・・)。

これが、司法試験という人生を賭けたビッグゲームがもつ、解決困難なジレンマなのだと思います。


 

最後に、ある合格者がアドバイザーとしての資格を有しているか否かの判断基準を示しておきます。

優秀なアドバイザーは、皆に必要なもの」と「自分に必要なもの」の区別ができている人です。

自分の経験だけに頼ってものを語らない人です。

それができている合格者は極めて稀にしか存在しません。

ほとんどの合格者が、アドバイザーとしては信頼に値しない存在です。

<判断基準>

自分がしたことだけを、10個20個と列挙している人

皆がすべきことと、自分がすべきこと(したこと)を、明確に区別していない人

皆がすべきことの中に、試験傾向に合った過去問と条文の2つを入れていない人

皆がすべきことの中に、過去問(問題と解答)と条文以外のものを入れている人

自分が合格することと、皆が合格することは、全然別のことだと分かっていない人

 

該当項目が一つでもあれば、その合格者は信頼に値しないと思ってください。

そういう合格者の語る「確実に合格する方法」は、すべて嘘話です。

この辺に十分気をつけて、その合格者の自己愛の発露に付き合ってあげてください。