短答で判例学習はどこまで必要か | 司法試験情報局(LAW-WAVE)

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判例百選のエントリー で、

 

> たしかに、百選掲載の重要判例を知っていることは(特に短答では)必須かもしれません。

> しかし、だからといって、百選を使用することまでが必須とは言えないと思います。

 

と書きました。

 

今回は特に短答試験について、もう少しこの点を突っ込みたいと思います。

 

 

【短答で判例学習はどこまで必要か】

 

短答試験において、たしかに、判例の要旨・ポイントを事前に知識として記憶しておくことは、肢を切る際の前提となっていると思います。この点で、判例のポイントを学習することは必須です。

 

しかし、知っておかなければならないのはあくまでも「ポイント」であって、百選やその他判例集のバカ長い判旨を全部事前に覚えておかなければならない訳ではありません。

要旨やポイントを覚えるだけなら、百選のような判例集ではなく、基本書や予備校本・短答六法などのテキストに掲載された判例部分で十分間に合います

 

もっとも、時折、判旨の隅々まで覚えていなければ答えられないような(テキストに掲載されたものでは間に合わないような)細かい知識が出題されることがあります。こういう細かい知識(肢)についてはどう対処するべきなのでしょうか。

 

私の意見は、そういう細かい知識については事前に押さえることは諦めて、現場思考で対処することに決めるというものです。その結果、正答できなかったとしても構わない、と考えるべきです。

 

受験生は往々にして、全てが終わったゴール地点(100点満点の正解を知ることが可能になった地点)から対策を考えがちです。いわば、絶対評価的な観点から対策を考えがちです。

 

しかし、論文試験と同様()、

全てが終わったゴール地点に立って(立ったつもりになって)、後づけ的に、「事前にこの知識を覚えていれば、この問題は解けた」と考える絶対評価的な観点(絵空事的観点)と、

これから問題を解かなければならないスタート地点に立って(立ったつもりになって)、「この問題が解けるには、どのような対策をすればよいか」と考える相対評価的な観点(実践的観点)は、

きちんと分けて考えられるべきです。

 

論文試験における相対評価の重要性については⇒「新司法試験はあてはめ勝負」は本当か というエントリーをご覧ください。

 

①その肢の知識を事前に知識として押さえておくことは、本当に可能なのか?

(事前準備の限界を考える発想があるか)
②その肢を知識として知らなかったら、本当にその問題は解けないのか?

(現場思考という手段を考慮に入れているか)
③その問題を落としたら、本当に短答を突破することができないのか?

(合格ラインという発想があるか)

 

試験対策は、こういった相対評価的な観点から組み立てられなければなりません。

 

知識で抑えにかかろうとする前に、まずは上記の3つの基準を検討してみることをおすすめします。

①②③すべてに「○」がつくのであれば、事前に知識として押さえておくことは正当といえます。

 

もっと言えば、相対評価の観点から、事前に知識として押さえること(正解すること)無理そうな肢(問題)については、「そんな問題は正当に落とさなければならない」と考えるべきなのです。

「満点を取る必要はない」そして「満点を取ってはいけない」のが(相対評価の)試験勉強だからです。

 

このような相対評価の観点に立って考えれば、細かい判旨を事前に覚えておくなどということが、いかに無駄なことであり、また同時に無理なことであるかが分かってくるはずです。

 

受験生にはそれ以前にやるべきことが明らかにあると思います。

 

肢別本 のときにも書きましたが、受験生のほとんどは、本当は肢別本すら満足に潰せていません。

そんな状況の中、「あれも知ってたらいいな、これも知ってたらいいな」と基本書やら判例集やら事例研究やら・・・様々な教材に際限なく手を広げまくっているのが司法試験受験生の実態です。

 

受験生は、このあたりでいい加減、「できたらいいな」という願望と、「実際はどこまでできるのか」という厳しい現実を、きちんと仕分けられるようになるべきです。

 

肢別本を潰し切ることは、本当はすごいことです。様々な教材に逃げ回っているから(要は本当に受かりたいと思っていないから)いつまでもその事実が分からないだけで、ひとたびその事実を知れば、あれもこれもと手を広げまくることは、恥ずかしくてできなくなるに違いありません。