Yodo and abduction② | より良い日本と子供達の未来のために。

より良い日本と子供達の未来のために。

北朝鮮による拉致事件の被害者救出の署名活動や拉致事件啓発の為のネットラジオ運営。

第一章拉致問題の間隙

【アラビア海にて】

2002年9月17日、イラン、アラブ首長国連邦、オマーンなどに囲まれた北アラビア海・オマーン湾近海。日本からおよそ7000キロ離れたこの海域で、海上自衛隊(海目)の補給艦「とわだ」は、前年に成立した「テロ対策特別法』に装づいて、族艦とともに、アメリカ海作性艇への燃料補給を行っていた。母港である広島県の呉を出港して約三ヶ月を経過していた。
費熊のアラビア海にも「秋」はくる。連日四十度を超えていた気温も、9月に人のて三十度前後にまで下がり始め、以前に比べて作薬中の発壮量も減ったせいか、この日、日焼けした来員たちも
談々とスムーズに作業を進めていた。アメリカ海軍艦艇にパイプを渡し、数時間かけて無料で燃料を提供する。
いつもと同じ単調な作業である。この時、乗員たちにとってこっていた点があるとすれば、修らで、日本から乗り込んできた防衛庁担当の取材団がその作業を見つめていることだった。
NHK社会部記者の小貫武も、この取材団の一員として乗員たちの動きを見つめていた。社会部での担当は無任所の"遊軍だが、つい一ヶ月前まで防衛庁を担当していた記者として、日本が戦後初めて行っている他国への軍事支援、その現場がどうなのているかをこの目で見でおきたい、という希望がかなえられたのである。記者として仕事を始めて12年余り、中東方面へは別めての出張だった。
取材団は、日中、補給艦の作業をこの目で見て、タ刻には補給鑑の士官室に集まって、を幹部からこの日の作業の総括、翌日以降の日程などのレクチャーを受けた。
今日やるべき取材をおおむね終えた、という安堵感を得たその時のことだ。
「とわだ」士官室の小さなテーブルの上に管置かれた、A四判のに記されたペーパーに記された文字が、目に飛び込んできた。その時の衝撃は、まさに不意打ちとも言えるものだった。
「有本恵子さんら八人死亡」
北朝鮮のピョンヤン(平壊)で行われた日朝首脳会談の結果を知らせるニュースの見出しだった。
日本の通信社が1日に2回、遠洋で活動する船舶向けに配信している記事。それが、違くアラビア海の海自の艦艇にも電送されてきていたのである。17日が日朝首脳会談の日だという意識はあったが、リアルタイムでニュースを見られる環境にもなく、どこか遠いところで進められている会議、というくらいにしか思っていなかっただけに、余計に衝撃は大きかった。
アラビア海と日本の時差は5時間。日本はすでに深夜である。東京・渋谷のNHKニュースセンターはいつ果てるともしれない喧噪の中にあるだろうと、容易に想像できた。記事は、北朝鮮のキム・ジョンイル(金正日)総書記が、小泉首相に対し、日本人拉致を盟めた上で、拉致被害者13
人のうち有本さんら8人が死亡したと伝えた、と記していた。
「くそっ、本当に許せないヤツらだな」
記事を呆然と見つめる取材団の傍らで、若い隊員がつぶやいた。
またある幹部は「これは日本に対する譲歩ではない。脅しとも受け止められる。情報の信憑性も疑わしい。またこうした交渉と並行して彼らは軍備を怠らない。やはり軽々に信用してはいけない国なんです」と、記者団に私見を語った。
怒りとも、それを通り越した呆れともつかない様々な言葉が頭上を交錯する中で、小貫は「しまった」と思った。それは、大きなうねりに取り残されまいとする記者としての本能的な感覚と言っ
てもよい。前年(2001年)来、奄美大島沖で起きた不審船事件の取材を続けてきた。
防衛庁を担当する前は、警視庁公安部担当記者として、北朝鮮向けの戦略物資の不正輸出事件などを取材した経験もある。北朝鮮をめぐる案件には、それなりに関わってきたつもりでいた自分が、今、拉致問題取材に何の協力もできない遊隔地、アラビア海にいる。そして、北朝鮮のトップから、こんな発言が出ると的確に予測出来なかった自分を顧みると、冷や汗が流れた。
アラビア海での取材を終え、帰国してから自分が何をなすべきか、考えをめぐらせてみたが、具体的にな答えは何も出ない。
補給艦の甲板に出て、イリジウム衛星電話を使い、防衛庁担当デスクの本保晃に連絡を取った。
深夜であるはずの日本への電話だったが、呼び出し音は、ほどなく本保の声に切り替わった。しかし、洋上からの電話は通信状態が悪く、言いたいことを言えず、閉きたいことを開けないまま、何
度も切れてはかけ直しを余能なくされる。ようやく一定の通信状態が保たれた時、衣保は、受話器の向こうの部下に向かって、いつもより一つテンションの高い声で要点を繰り返した。この取材は何ヵ月続くかわからないぞ。局内は大変なことになっている。北朝鮮は拉致を認めたばかりか、俺美大島沖の東シナ海の不審船も『自分たちの工作船だった』と認め、再発防止を言明した。さらに弾道ミサイルの発射実験も凍結すると言っている」
なす術もない状況の中で、焦りだけが小貫の心の中を支配していった。

【遊軍キャップとのやりとり】

小貫は、アラビア海に出張に行く直前の9月初め、NHK放送センター二階の社会部居室で遊軍キャップ兼警察庁担当デスクでもある西村睦生から呼び止められた時のことを鮮明に記憶している。
西村は、1981年に入局し、前の年まで警視庁キャップを務めていた。小質も、警視庁公安部を担当していた最後の1年は、西村に仕えた。西村はこう切り出した。
「今度の首脳会談で北朝鮮は拉致を認めると思うか。未確認情報で被害者が政府訪朝団の前に現れるのでは、といった話もあるんだが」
小聞は、即座に「拉致をハッキリと認めることはないんじゃないですか。自らさらけ出すものは最小限にして、日本には最大限の要求をしてきます、きっと。相手は北明鮮ですよ。どれだけ前進が見込めるか、個人的には疑問に思います」と答えた。
西村は、警視庁キャップ時代から、具体性に欠ける報告にはなかなか納得しないのが持ち味だった。取り繕っても見透かされる、後輩記者にとっては厳しいキャツプだった。小貫は西村がいつものように何か腑に落ちない表情でいたのを感じ取ったが、その時は、これまでの拉致問題への対応から見て、北期鲜は木で鼻をくくったような対応しかしてこないのではないかと様信していたので
ある。
北朝鲜は、91年から92年にかけて進められた日朝国交正常化交渉で、大隊航空機爆破事件(1987年)のキム・ヒョンヒ(金賢姫)元死刑囚の教育係とされたリウンヘ(李恩恵)、つまり拉致機告者の一人である田口人重子さんの消息を日本から尋ねられ、「侮辱であり会談の破製行為」と言葉を極めて日本側を非難、結局、国交正常化交渉を中断させてしまった経締がある。
さらに「拉致」という案件に触れた時の過剰反応はその後も続く。97年2月に政府が横田めぐみさんを拉致被害者と認定した時には、「わが方は拉致やテロなどの人権蹂躙とはまったく関係のない国である」「共和国を謀略をもって害するための卑劣な政治謀略劇だ」などと突っぱねてみせた。
同じ年の11月、在日朝鮮人帰国者の日本人配偶者、つまり日本人妻を一時帰国させるなど、若干の歩み寄りを見せたこともある。拉致に関しては、同時期に
同時期に訪朝した与党三党訪朝団に対し、朝鮮労働党のキム・ヨンスン(金容淳)書記(当時)が次のように述べている。
「一般行方不明者ならどこの国にもいる。拉致疑惑はわが国とは関係ないが、調査を行う」
キム書記は、拉致疑惑を認めるわけではないが、「行方不者を探すというのならば調査に協力をしてあげましょう、と言ったのである。これを当時「一歩前進」と受の止める向きもあったが、結局のところ、北朝鮮は、拉致に同脳会談に至るまで拉致については何も認めなかった。
 そして日朝首脳に至るまで被害者の消息などまったく伝えて来なかったことは言うまでもない。
北朝鮮は、その後、2000年から2001年にかけて、イギリス、ドイツ、イタリアといった主要先進国と電撃的に国交を樹立、
2000年6月には、ビョンヤンで南北首溢会能が開かれ、キム・ジョンイル総書記がキム・デジュン(金大中)韓国大統領(当時)と包容してみせた。
好転しない国内経済を活性化させるために、外国が手を差し伸べてくれるのを期待しているような傾向も見受けられた。しかし、国交の樹立と、拉致という国家犯罪を認めてしまうのは別間題、これまでの流れを勘案すると、拉致を丸ごと認めるという結論をあらかじめ導き出すのは、やはり難しかった。
「北朝鮮が自らに不利なことを、そうやすやすと認めるはずがない」誤った「見立て」を西村に伝えてしまったという後ろめたさもあり、アラビア海での取村を終えて、成田空港から社会部に帰る小貫の足取りは重かった。

【空前の取材態勢】

9月22日、小貫が社会部に帰ると、予想通り過去に例のない取材態勢が敷かれていた。拉致被害者の家族一人一人を、社会部の記者が担当し、これら家族の住む福井、新潟でも地元局のNHKの記者たちが取材に走り回っていた。そして、被害者家族を支援してきた「救う会」の会見にも複数の記者を出し、「救う会教行部の個別取材も燃心に行われていた。警視庁、警察庁担当の記者が当局に日夜取材をかけるのはもちろん、1週間後の29日になつてNHKスベシャルを放送するという。一部の取材クルーは、何日も前から韓国に飛び、証言を集めて回っているということだった。
亡命した北制鮮の元工作員、外交官らから、拉致の背景についての証言を集めて回っているということだった。いったい何人の社会部記者が拉致取材に投入されているのか、数えるのも難しいくらいだった。
「これじゃあ、自分が取材に入る余地はないな」主な取材対象には、同僚の記者たちがすでにびっしりと張りつき、連日、大量の情報が社会部に送り込まれてきている。今さら自分がが介入しても、余計な混乱を招くだけだ。小貫は、アラビア海での取材結果をニュースリポートとして放送した後,NHKスペシャルの制作や、連日行われる拉致被害者家族の会見取材の支援を続けていたが、後から合流しただけに「手伝い」の域を出るものではなかった。10月に入り5人の拉致被害者が北朝鮮から帰国しても、なかなか自分でテーマを掘り起こして取材をする、という方向には進めなかった。
拉致事件といっても、ケースは様々である。自分でないと追及できない案件があるんじゃないか。
連日活躍する同僚たちを横目に見ながら、模索の日々が続いた。

【北朝鮮が示した拉致の全体像】

北朝鮮が拉致をしたと認めた日本人はあわせて13人。77年から87年にかけて拉致は行われ、このうち5名は生存、8名は死亡と北朝鮮側は伝えてきた。被害者ごとに拉致の経締を要約すると次のようになる(姓は2003年9月時点でのもの)。

松木 薫さん  80年、ヨーロッパから北朝鮮に拉致「96年に死亡」と通告される

  石岡亨さん  80年、ヨーロッパから北朝鮮に拉致「88年に死亡と通告される

有本恵子さん  83年、ヨーロッパから北朝鮮に拉致「88年に死亡」と通告される
「93年に死亡」と通告される

横田めぐみさん  77年、日本沿岸から工作員が連行「93年に死亡」と通告される

曽我ひとみさん  78年、日本沿岸から工作員が連行  生存(のち帰国)

田口八重子さん  78年、日本沿岸から工作員が連行「86年に死亡」と通告される

原敕晁さん  80年日本沿岸から工作員が連行「86年に死亡」と通告される

地村保志さん  78年、日本沿岸から工作員が連行 生存(のち帰国)

浜本富貴恵さん  78年、日本沿岸から工作員が連行  生存(のち帰国)

蓮池薫さん78年、日本沿岸から工作員が連行  生存(のち帰国)

奥土祐木子さん  78年、日本沿岸から工作員が連行  生存(のち帰国)

市川修一さん  78年、日本沿岸から工作員が連行 「79年に死亡」と通告される

増元るみ子さん  78年、日本沿岸から工作員が連行 「81年に死亡」と通告される

(久米裕さん曽我ミヨシさんについて、北朝鮮は「入国そのもの」を認めていない)

この被害者たち、そして被害者家族たちの怒り慨嘆をどれほど聞いてきたことだろう。あまりにも長く重い時間が流れすぎていた。その反動もあってか、各メディアはこぞって取材を展開、大々的な報道を繰り広げていた。
取材で被害者とその家族に寄り添うのは当然である。拉致事件ならば、辛酸をなめ尽くした被害者とその家族に寄り添い取材を進めていくのは定石だろう。
しかし、そうした立場からの取材は、同僚の記者たちが総力を挙げてやっていることを、小貫は、十分すぎるくらい理解していた。「ならば、こっちは加害者の側を徹底的に追及してみるか」
この場合「加害者」とは、北朝鮮工作員、そして北朝鮮という国家そのものである。加害者側の意図や背景をつまびらかにしていくことも、最終的には、被害者の側に立ち、間題解決への糸口を
見いだすことにもつながるのではないか。小貫はそう思って、それぞれの拉致事件の「加害者」に着目した。そして、これまでに手元に集めた各種の資料を前に、頭の体操を始めたのだった。
被害者13人のうち、松木さん、石岡さん、有本さんの3人を除く10人は、いずれも日本に潜入した工作員に暴力的に、あるいは騙し文句を弄されて、工作船に乗せられ北朝鮮に連行されたと考えられている。
これら工作員が誰なのか。原さんのケースだけは、事件後の85年、韓国で検挙された北制鮮工作員が関与していたことが韓国当局の捜査によって判明しており、ニュースや番組でもすでにずいぶん取り上げられている。しかし、他の人のケースはよくはよくわからない。帰国した連池さんが、後に「連行される際、暴力を振るわれた」などとわずかに当時の状況を証言しているが、それ以上のものはない。また、北朝鮮は「拉致は一部の者が勝手にやったこと」とした上で、その責任者二人を処罰したと伝えてきたが、この二人がどんな人物かもまったくわからなかった。
拉致の目的についても北朝鮮側は「工作員が工作員の養成機関で語学教育をさせるため、恣意的に連れてきたもの」などという説明に終始していてすっきりしない。
こうした点をさらに調べようと思っても、北朝鮮という閉鎖国家を前に、アプローチすら不可能なように思えた。
一方、公木さん、石岡さん、有本さん。ヨーロッパで拉致されたとされるこの三人のケースはど
うか。三人の拉致には、北朝鮮に拠点を置く「よど号」ハイジャック犯のグループが間与したとが伝えられている。北朝鮮は、日本政府調査団に対し、三人のケースについて「よど号グルーブとの間
連については解明されていない」と弁明していたが、警視庁は、日朝首脳会談から8日後の9月25日、よど号グループの一人、安部(現姓・魚本公博について、有本さんを拉致した疑いで逮捕状を取得、国際手配をしている。
「よど号グループが、北朝鮮の拉致事件に関与って、どういうこと?」公安情報とは縁遠い一般人にこのからくりを説明するのは、相当根気が要ることだろう。
しかし、ここ数年の間に公安事件を担当した記者ならば、程度の差こそあれ、この「概要」は頭に入っている。小貰もその一人だった。さらに、よど号グループについては、彼らが日本で学生運動をしていた頃から付き合いのある支援者、彼らが日本向けに発行していた維誌の購読などを通じて広がった支援者層、彼らを追い続けてきた警視庁公安部の捜査員など、ざっと思い起こすだけでも相当数の関係者がおり、何より取材アプローチがしやすいように思えた。今一度、微底的に調べ直せば、拉致を引き起こした加害者側の実像に肉迫できるかもしれない。
「よど号グループが拉致の容疑者となるに至る過程を追うことで、拉致を引き起こした北物鮮の姿が浮かび上がってくるかもしれない。すでに何年越しかの付き合いの関係者もおり、取材のスタートも切りやすい」
何はともあれ、手がかりが具体的に頭に浮かぶというのは、取材を進めていく上で重要な必素である。始まりは何とも安直な思考から、と言われればその通りである。それでも、小貫は、自分なりの取材を進めていけそうな「拉致問題の隙間」を見つけたような気持ちになった。この時、日朝首脳会談から一ヶ月余りが経過していた。

【公安記者にとっての「よど号」】

よど号ハイジャック事件は、70年に起きた事件である。学生運動から派生した過激派セクト「赤軍派」の学生たちが世界同時革命を唱え、日航機よど号をハイジャックして北朝鮮に渡ったものだ。日本で初めてのハイジャック事件でもあり、この事件を契機に「ハイジャック防止法」が制定されることになった。警察庁警備局がまとめた資料「極左暴力集団の軌跡」は、事件の経締をこう記している。
大菩薩峠事件(※赤軍派が総理官邸襲撃の準確として山梨県の山中で訓練をしていたところ警察に一斉検挙された事件。1969年)の総括と反省から赤軍派は『日本革命を達成するために、ソ連や中国など社会主義国に国際根拠地を構築し、そこで「世界党~世界赤軍~世界革命戦線」を組織するとともに、日本に逆上陸し、武装蜂起を決行するための軍事拠点をつくる』という「国際根拠地論」を打ち出した。
赤軍派は、この理論の実践として、昭和5年(※1970年)3月31日、東京発福岡行日航
351便「よど号」(乗客・乗務員計129人)が、富士山上空を飛行中、乗客の中にいた赤軍派、田宮高麿ら9人が日本刀、鉄パイプ爆弾等を凶器に同機を乗っ取り、「北朝鮮に行くこと」を要求するハイジャック事件(日航機「よど号」乗っ取り事件)を敢行した
同機は、一旦福岡空港に着陸して、人質のうち婦人、子供、老人を解放したのち
離陸韓国金浦空港に着陸した。
4月3日金浦空港を再度離陸し、同日夕方北朝鮮・平壊空港に着陸、その後身代わりとなった山村政務次官と(当時)と交換に人質の乗客、乗員の一部を解放、4月3日金浦空港を再度離陸し、同日夕方北朝鮮・平壌空港に着陸、山村政務次官と乗務員3人を解放するとともに、犯人らは、同国当局に投降した。
(※注は作者)
犯人グループは、その後、北朝鮮を拠点にし、今も暮らし続けている。その後の彼らの変転が、やがて「拉致」につながっていくのだが、その詳細は後述したい。九人のメンバーのプロフイールと現況は次の通りである。

田宮高麿 1943年生まれ リーダー95年に北朝鮮で死亡
小西隆裕  1944年生まれ サブリーダー 北朝鮮に在住

赤木志郎  1947年生まれ 北朝鮮に在住

若林盛亮  1947年生まれ 北朝鮮に在住

安部公博  1948年生まれ 北朝鮮に在住

吉田金太郎1950年生まれ85年に北朝鮮で病死
岡本武 1945生まれよど号グループは"死亡"と発表、警察は死亡認定せず

田中義三1948年生まれ 96年海外活動中に身柄拘束、現在日本で服役中

柴田泰弘(著書ではイニシャルのみ記載)  1953年生まれ 88年日本潜伏中に逮捕
(※犯行当時少年)

メンバーは、死亡したり、逮捕されたりして、現在も北朝鮮にとどまり続けているのは四人と見られている。彼らについては北朝鮮に「逃亡」し続けたことで時効が停止しており、日本の警察当局は、ハイジャック事件が起きてから三十四年以上が経過した今もなお、彼らが帰国した時に備えて、逮捕状の更新を続け、継続捜査を進めているのである。
この捜査を主に担当しているのは警視庁公安部(警察庁警備局、各道府県警公安担当セクションとあわせて「公安警察」と呼ばれる。)したがって、警視庁公安部担当の記者(取材対象の特異性から一般の事件記者と区分され「公安記者」とも呼ばれる)は、彼らがいつ日本に帰国することになっても、即座に対応できるよう、逮捕予定稿や「よど号事件」そのもののクロノロジー(年表)原稿を常に更新、さらに雑感・近況原稿も書けるようにと、彼らが日本の支援者向けに発行しているニュースレターやホームページに定期的に目を通している。とはいえ、よど号グループがいつ日本に帰ってくるかなど、警察でも正確にわかっているわけではない。別によど号グループだけに限らず、こうしたいつ動きがあるかわからない対象を、担当者引き継ぎを繰り返しながら営々と追い続けるのが、公安記者の仕事である。このあたりが、華々しく「今」を追う捜査一課や二課、生活安全部担当の事件記者とはまったく違うところだ。 警視庁詰めの記者として、他の担当よりも出す原稿の数が少なくとも、上司であるキャップが何も文旬を言わず公安記者の好きにさせるのは、こうした公安事件が「いざ動く」という瞬間に直面した場合、即座に出せる「日頃の蓄積」を期待しているからにほかならない(そこでこけると、他の担当とは比べものにならないくらいの大きな「叱責」が待っているのだけれども)。小貫も、先輩から取材源や資料の引き継ぎを受け、そして後任の記者に同じように引き継ぎを行った元公安記者の一人であった。
きらに「よど号事件」というもののニュースバリユーについても機分触れておくべきだろう。
「よど号事件」は、公安記者にとって、同じ赤軍派を母体に出発し、後にパレスチナの武装組織と連携して数々の国際テロ事件を引き起こした「日本赤軍」とともに、いったん動きがあれば大きなニュースになる最重要の取材項目であった。
30年以上事件をどうして?」と思われる向きもあろうが、これはNHKなどのテレビメディアに限らず、新聞、通信社ほか、どのメディアも同じ傾向にある。
70年安保岡争、学生運動などのある種の「時代・世代の精神」から出発した組織であるせいか、まだデスクあるいはそれ以上の世代に、彼らが引き起こした事件の記憶が鮮明に埋め込まれているせいか、一般の事件とは違ったテンションで扱われるのが通例だ。
特に、よど号ダループについては、「ハイジャック」という桁違いの犯罪事実に「日本初」という装飾語が付されている上、彼らが拠点としている北朝鮮という、警察にとってはほかでもない監視対象国家との関係性も加味されて、公安記者にとって取材意欲をかきたてる存在だったのである。

【欧州三邦人失際・露見の経緯】 

しかし、NHK社会部の歴代公安記者の間で、北朝鮮による拉致事件の文脈で、よど号グループ が営々と語り継がれてきたかというと、実はそうでもない。拉致という国家犯罪の特異で面妖な 兵として、よど号グループが語られ始めたのは、だいたいここ十年弱のことである。彼らが引き起 こしたハイジャック事件からすでに三十四年という時間経過と比較するなら、まだまだ最近のこと と言っても過言ではないだろう。 「そもそも、その拉致によど号グループが関与したとされる有本さんら三人が、北朝鮮に連れてい かれたという事実が、一般人の眼前に提示されたのでさえ、九〇年代に入ってからのことである。 列車で詳述するが、公安警察では、また別の時間が流れていた …)。 この間の事情を、これから始まる取材ストーリーの前提として、通観しておきたい。 有本恵子さん、石岡亨さん、松本薫さんの三人の日本人留学生が、ヨーロッパで消息を絶ったの は、80年代初頭のことである。有本さんが83年、石岡さん、松木さんの二人は、いずれも80 年に、突然、音信不通になったのである。 その後、三人の消息が明らかになったのは、91年1月、毎日新聞社のスクープによってであっ た。毎日新聞は「88年に石岡さんから家族に届いた手紙に、石岡さん、有本さん、松本さんが『事情あって』ピョンヤンで暮らしていると記されていたという事実をつかみ、同月7日付けの紙面で報じたのである。これが、三人がピョンヤンにいると「国民が知ることになった、まさに初報だった。
 では、なぜ、誰が、三人を北朝鮮に連れていったのか。この時点で各メディアは「ヨーロッパに アジトを持つ北朝鮮が工作員養成などの目的で拉致したのではないか」との見所を発したが,そ れ以上の回答を用意できるわけでもなかった。
もちろん、具体的によど号グループの誰々が三人の 連行に関与していた、などと指摘できたメディアは皆無であった。 このため「欧州三邦人失踪事案」は、不可解な現代の神隠し的な出来事として、公安記者の資料ファイルの中に、いったん収められてしまったのである。 

【よど号グループの「妻たち」】 

その後、92年になって、よど号ハイジャック犯たちに妻がいることが判明する。 このよど号グループの妻たちこそが、「よど号と拉致」を語る上で大きなポイントとなってくる。 よど号ハイジャック犯たちは、古くからの知人、日本国内の支援者たちにも、それまで妻たちの存在を隠し続けてきた。
しかし、同年4月、当時のキム・イルソン(金日成主席が、日本からの 時間者に対し「彼ら(よど号ハイジャック犯のこと)には妻も子もいる」と発言したことをきっかけ に、その存在を、日本からの訪問者などに対し、なし崩し的に明かすようになっていく。
 こうして漏れ出した女たちの情報をもとに公安警察は、表たちの過去をさかのぼった。そして驚愕の事実に槻田当たることになる。
妻の多くは北朝鮮の指導思想「チュチェ(主体)
思想」を学ぶ、日本国内の組織「チュチェ思想研究会」の出身者で、いずれも日本人女性、70年代の後半に密かに日本を出国、北朝鮮に入り、よど号グループ合流していたことがわかった。 さらに、そのうち六人は、80年代半ば以降、海外の情報機関から密かに寄せられた情報で 「ヨーロッパ各国を北朝鮮工作員とともに動き回っている」と指摘されていた、「不可解な」6人の 日本人女性グループと合致したのである。
この6人に対しては、外務省が、88年のソウルオリン ピックの直前、テロ警戒の一環として「わが国の国益、公安を書する」ことを理由に、その動きを 封じ込めるためバスボート(旅券)を返すよう求める「旅券返納命令」を出していた。以下、その 命令の内容である。

旅券法第十九条の二第一項の規定に基づく一股旅券の返納命令に関する通知 昭和63年8月6日
                                      外務大臣 宇野 宗佑

次に掲げる者 (※よど号グループの妻たちのこと)は、旅券法第十九条第一項第二号に該当しま すので、その所持する一般旅券を昭和63年8月31日までに最寄りの在外公館又は外務大 臣に返納するよう命じます。
この処分に不服のある場合は、行政不服審査法の定めるところに従い、この公告の日から起算して60日以内に外務大臣に審査請求をすることが出来ます。 
1、( 妻たちの氏名、生年月日、旅券申請上の住所)

2、返納すべき旅券(※妻たちの旅券の旅券番号、発行年月日、旅券名義人) 

3、返納すべき理由 昭和57年以来の北朝鮮工作員と認められる人物と接触する等の海外に おける行動にかんがみ、旅券法第十三条第一項第五号にいう著しく且つ直接に日本国の利益又は 公安を害する行動を行う虞があると認めるに足りる相当の理由がある者であることが、本一般旅 券の発行の後に判明した。(※は筆者)

その後、彼女たちの海外での動きは確認されなくなり、その消息が注目されていたが、92年に 突如、よど号グループの妻としてその存在が急浮上したのだった。
 警視庁公安部は,妻たちの存在発覚の翌年、93年に、「旅券返納命令」に応していないことを 理由に、失たちに対し旅券法違反容疑で逮捕状を取得、国際手配を行った。これを契機に、妻たち は、一転して日本からの訪問者の前にも姿を現すようになり、自らよど号グループの機関誌に論文 を投稿し、国際手配の「不当性」を訴え、そして「人道帰国」運動に携わっていくようになる。人 道帰国運動とは、要するによど号グループのうち「罪のない」妻子を先行して日本に帰国させると いうもので、これが、妻たちを「北朝鮮の工作員」と見る公安警察の神経を越推でし、さらに相 の目を温める一因ともなった。
こうした経で、公安 が突き止めたハイジャックの美たちは次の通りである(現在、ハイ ジャック犯との間に生まれた子供たちとともに、すでに日本に帰国している人もいるが、少なくとも。 くは州だ にとどまってい)

こうした経緯で、公安警察が突き止めたハイジャック犯の妻たちは次の通りである(現在、ハイ ジャック犯との間に生まれた子供たちとともに、すでに日本に帰国している人物もいるが、少なくとも 三人はまだ北朝鮮にとどまっている)。

森順子   (田宮高麿の妻、旅券法違反容疑で国際手配、北朝鮮に在住)

 魚本民子 (安部公博の妻、すでに帰国、旅券法違反の罪で起訴) 

田中協子 (旧姓水谷、田中義三の妻、旅券法違反容疑で国際手配、北朝鮮に在住) 

若林佐喜子 (旧姓黒田、若林盛亮の妻、2004年5月旅券法違反容疑で逮捕状、北朝鮮に在住)


K.T  (小西隆裕の妻、すでに帰国、旅券法違反の罪で判決確定済み)

A.K  (赤木志郎の妻、すでに帰国、旅券法違反の罪で判決確定済み) 

F.K (岡本武の妻、よど号グループは岡本とともに、"死亡"と発表)

八尾恵 (S.Y「柴田泰弘」の元妻、1998年日本で飲食店店主をしていた時に逮捕、略式命令)

【妻たちの拉致疑惑】

それでは、この「妻たち」の存在が有本さんら留学生に失踪との関連で語られ始めたのは、いつ頃、どのような形をもって、であったのだろうか。 
公安警察がよど号グループのカップリングを特定し、逮捕状を取得したのが93年その翌年の94年3月に「週刊文春」に掲載された「日本人留学生失踪事件 平壌に連行したのは『よど号』の妻たちだった」というタイトルの記事が、調べうるり限りで言えば「妻たちの拉致疑惑」世間に 提示した最初のものである。様々な新聞・雑誌記事を渉猟しても、これ以前にはよど号グループと失踪した留学生を、「北朝鮮による拉致」という概念でハッキリと結びつけた記事は 存在しない。 
記事には、石岡さん、松木さんの二人が失踪直前、よど号グループのリーダー田宮高麿の 妻・森 順子、若林盛亮の妻・若林佐喜子の二人と接点があったこと、石岡さんと森、若林の三人がスペイ ンパルセロナの動物園で邂逅し、その瞬間を石岡さんの友人が記念写真に収めていたこと、など が書かれていた。そして、当該記念写真そのものを移し、夫たちがキム・ユーチョル、暗号でKYCと呼ばれる北朝鮮工作員と一緒に、80年代、ヨーロッパ各地で動き回っていたことが各国の 情報機関によって確認されている、などと記されている。関係者への独自取材のくだりもあるが、 明らかに公安警察が持つ情報と、その強いサジェスチョンによって世に出された記事と推測される。 
ちなみに、この写真は、拉致に対する関心・報道量ともにかつてとは比べものにならない今とな っては、非常にポピュラーなもので、バルセロナの動物園のベンチで、向かって右端に石岡さん、 真ん中に森、左端に若林が座っているというものである。02年以降、テレビや新聞で見たことが ある人も多いのではないだろうか。 さらに、この記事が世間に提示されたのと平仄(びょうそく)を合わせるように、同じ94年、警察庁警備局 は、その業務内容を一般向けに紹介するパンフレット「焦点」で、「「よど号ハイジャック犯人は 今!」という特集を掲載した。その最終頁には、こう書き記されている。

「『よど号』犯人グループは、警察捜査活動に反発して『無罪合意帰国 』を声高に叫び、国内支援グループも『人道的帰国運動』を進めています。 
しかし、『無罪』を叫ぶ彼(女)の陰で、「妻たち」の一部が関与したと見られる日本 ムザムザとむざむざと 人失事案の存在を忘れることはできません。 失踪した邦人の一人の(母親70歳)は、 あたら青春を しかし、「無罪」を叫ぶ彼(女)ので、

ムザムザとむざむざと

             あたら青春を
            
                     彼の地に埋めし

                   囚われの吾子

と、子を思う気持ちを切々と訴えています」 「焦点」平成6年通巻248号) 

いわば、メディアと警察の合作により、ここ にようやく「よど号」が拉致という文脈で一般 的に語られる素地ができたように見える。 しかし、番察庁のパンフレットには、有本さんら
の拉致はあくまで「日本人失踪事案」という表現で記されており、しかも何かの証拠を突き付けるというよりは、肉親の情をテコに、よど号グループの不当性を訴える形式を取っている。つまり、この当時は、それが限界だったのである。
現在わたしたちが知っている日朝首脳会談でのキム・ジョンイル総書記の謝罪も、拉致被害者を、めぐる様々な情報も、当たり前のことだが、この当時、公安警察も含めても知るよしもなかった。 
公安警察内部でも、当時は、ビョンヤンで「囚われ」の身となった有本さんら留学生が、 仮に記者会見でも行って「自分の意思でピョンヤンにやってきました」と話したらどうしよう、という戸感いがあったという。
よど号グループというつの政治党派のオルグ、つまり「同志獲得活動」に 呼応しただけだと言われてしまえば、留学生を「被害者」という構図で捉えることが献しくなるか らである。
よど号グループの妻たちと失踪した留学生との接点。そして妻たちと北朝鮮工作員との接点。二つの点が放つ光は、おぼろげながら拉致という構図を浮かび上がらせてはいたが、「被害 者」当人が出てきて否定されれば、法技術論上どうしても拉致容疑での事件として立件できなくなってしまう。
 事件として立件できないとなると、事件記者の端くれである公安記者としても、何とも動きにくい。事件にできない疑惑を、疑惑として報じるにはそれなりの覚悟が必要であり、覚悟を決めるに は、当時、手持ちの情報が少なすぎた。 こうした理由から「よど号」は、公安記者にとって、帰国ハイジャック犯人として逮捕、とい ういわば「歴史の落とし前」をつけるためには依然として大きな存在だったものの、拉致いう文脈で語るには何か大きなきっかけでも
なければ手の出しにくい存在として、しばらくはあり続けたのである。

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