Yodo and Abduction | より良い日本と子供達の未来のために。

より良い日本と子供達の未来のために。

北朝鮮による拉致事件の被害者救出の署名活動や拉致事件啓発の為のネットラジオ運営。

はじめに
「授業が終わって、阪急六甲にあった大学の校門をでて、暮れなずむ神戸港を眼下に見ながら坂道を降りてゆく⋯⋯もしかして(当時、有本さんと)すれ違ったことも何度かあったのかもしれません。
去年(2003年)2月、通訳業をしている高校時代の同級生からメールが届いた。高校卒業二十五周年を機につくられた同級生のメーリングリスト。
そこに寄せられた一通だった。メールを書いた同級生の女性は、高校を卒業したあと、神戸の大学に進学した。その大学で、授業は一緒にならなかったそうだが、有本さんと同じ学年だったという。
そうか、有本さんは自分たちとまったくの同学年だったのだ!と気づく。
有本恵子さん。今では多くの方が御存じこ通り、北朝鮮に拉致された被害者の一人だ。
大学を出て1982年からロンドンに留学し、
コペンハーゲンのカストロップ空港で目撃されたのを最後に行方がわからなくなった。
当時23歳だった。
幾つもの証拠や証言から北朝鮮に渡っ
たことは間違いなかった。
そして2003年9月17日、ピヨンヤンで行われた初めての日朝首脳会談で、北朝鮮が有本さんを含む13人の日本人拉致を認めたことで、北朝鮮に行ったのが本人の自発的な意思ではなく拉致だったことが決定的となった。
メールの中で同級生の女性は、次のように当時を振り返っている。
「みなさんも経験したと思いますが、82年は女子の大卒の就職が大変難しかった頃です。イギリスで日本人女性に北朝鮮での市場調査とか言われてだまされて北朝鮮に渡ったようですが、私も同じ立場だったらどうなっていたかわからないと思います。
いつまでも親に心配をかけたくない、早
く就職して、独立したい。そして今と違って、北朝鮮という国のことはあまり知られていなかった。
私の意識のなかでも、共産圏の一つぐらいの認識でした⋯⋯」
留学中だった有本恵子さんを北朝鮮へと誘った日本人女性。それは、かつて日本で初めてのハイ
ジャック事件(よど号ハイジャック事件)を起こし、北朝鮮にとどまっている日本人グループの妻だった。
すでに帰国している元妻がそのことを証言していた。有本さんだけでなく、1980年にスペインで失踪した石岡亨さん、松木薫さんの拉致にも妻たちが関与したと見られている。
北朝鮮による日本人拉致事件に、日本人が深く関わっていたのだ。
ここで、少しだけ、よど号ハイジャック事件について触れておきたい。
―事件が起きたのは、1970(昭和45)年3月31日。EXP070(大阪万博)が開幕
して間もない春休みの出来事だった。日本革命を唱える赤軍派の学生ら九人が、羽田発福岡行の日本航空3351便の旅客機(ボーイング727型機、愛称=よど号)を富士山上空付近でハイジャックした。
よど号は、福同空港、キンポ(金浦)空港を経てピョンヤンへと向かった。犯行グループは、キンポ空港で当時の山村新治郎運輸政務次官が乗客の身代わりとして人質になると、乗客と客室乗務員を解放。機内に残った山村政務次官と機長ら三人の乗員も、ピョンヤン到着後に解放され、よど号とともに帰国するという経過をたどった。
赤軍派の九人は、そのまま、"日本から近くて遠い国、「北朝鮮」にとどまった。
かつて日本が植民地支配した朝鮮半島は、戦後アメリカとソビエトによって北緯三十八度線を挟んで南北に分轄統治され、やがて大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が誕生。
日本は、1965(昭和40)年に韓国との国交を正常化したが、北朝鮮との間にいまだに国交ない。
よど号のハイジャック犯たちは、1970年、その北朝鮮に入り、厚いベールの向こう側へと"消えた"。
それから、もう三十年余り。有本さんの行方がわからなくなってからも、すでに二十年以上の年月がすぎている。なんら罪のない被害者にとって、また家族にとって、あまりにも長く、重い歳月だ。なぜ、これほどまでに理不尽なことが起きてしまったのか。
ハイジャック犯の妻となった日本人女性たちとは何者なのか。その「よど号グループ」が、なぜ、どのようにして、拉致に関わるよ
うになっていったのか。
今回の取材の目的は、ひとえに、ベールの向こう倒に隠されている事実を少しでも解き明かすことにあった。
そしてできできることなら、北朝鮮に行ったままの拉致被害者の安否情報にまでたどり着くことができないかという思いもあった。そのため取材班は、よど号グループの足跡を追って、日本の各地はもとより世界の各地を、文字通り駆け回ることになった。
よど号グループと拉致。
この本は2003年5月31日と6月1日の二夜にわたって放送したN日Kスペシャル『よど号と拉致』の取材過程を、社会部記者の中嶋太一(現・警視庁担当キャップ)、小貫武、山崎真一の三人と、番組部ディレクターの春原雄策が分担して執筆し、まとめたものだ。
その取材は必然的に三十年以上前にまでさかのぼる。そのため取材チームは、今回その時代時代に、日本、北朝鮮、韓国そして欧米の国々の社会に流れていた空気のようなもの、歴史やその時々の社会情勢を背景にした国家や市民の意識、をも取材することになった。
半世紀以上にわたって国交がない日本と北朝鮮の歴史に、想いを巡らせながら。
そして両国が、新しい関係を築くことを願いつつ。
そうした想いは、取材に協力してくださっ方々も同じだったと考えている。
ご協力に対し、取材班一同、心から御礼を申し上げたぃ。
なお、本文中、よど号グループのメンバーについては呼称を略した。すでに刑事裁判の判決が確定したメンバーなどについては、イニシャル表記とした(2006年6月1日現在)。

2004年6月

報道局科学文化部副部長(前,社会部デスク)
                                                       
                                                                   本保 晃