Yodo and abduction③ | より良い日本と子供達の未来のために。

より良い日本と子供達の未来のために。

北朝鮮による拉致事件の被害者救出の署名活動や拉致事件啓発の為のネットラジオ運営。


【高沢勝司氏と「宿命」  】


この「妻たちの拉致疑惑」の初報があってから、さらに四年が経過した九八年。 この年、それまでとは比較にならない迫真力でよど号グループによる拉放惑を指摘する国が 出版された。「宿命 「よど号」亡命者たちの秘密工作」(新潮社)がそれである。 著者の高沢暗司氏は、この中で、よど号グループがハイジャックを敢行する前史から語り起こし ビョンヤンで朝鮮労働党によって思想改造され、やがて日本人妻を娶り、ピョンヤン郊外の革命村を拠点にし、国際手配を受けておらず各国情報機関に知られていない妻たちを中心に海外活動をす るようになり、北朝鮮の意向を受けた「獲得工作」として日本人留学生を北朝鮮に連行したという 経緯を詳述している。

   さらに、推論を交えながら、よど号グループのうち、岡本武、吉田金太郎の二名が、半ば「馬油」 の形で、仲間の手によって「謀殺」されたというストーリーを導いているのである。 「高沢氏自身は、学生運動家出身であり、八九年以降、何度も北朝鮮との間の往来を重ね、当初は 仲間としての立場でよど号グループと面会を繰り返し、「飛期二十年」「祖国と民族を語る」「女たちのピョンヤン」といった、よど号グループを支援する立場から著作を執筆、編集してきた人物だ った。その高沢氏が、反旗を翻して、よど号のこれまでを厳しく指外する作を世に回ったのは、95年末、友人でもあった田宮高麿が死亡したことがきっかけであったという。高沢氏は、田宮の死亡そのものにも北朝鮮による「謀殺」のにおいを感じ取っていたという。直接、よど号グループのメ ンバーと対面し、話し合い、生の言葉を聞いてきた人物の内部告発とも言えるだけに、『宿命』は、 説得力を持っていた。 

『宿命』は、公安記者の間では出版直後からベストセラーになった。小貫も、公安記者として取材を始めて二年目で、文字通り寝る間も惜しんで「宿命」を熟読した一人であった。

  しかし、それをそのまま書き写して原稿を書くわけにはいかない。この本は取材の参考になる

としても、結局は、当局が刑事事件として立件しないと動けない、という習い性が身に染みついていたのである。これは、おそらく、当時、同業他社のほとんどの記者にも共通する感情であった さらに、小貫には、公安記者として、気になる点もあった。「宿命」には、どう考えても 公安 警察がまとめた資料を入手しなければ書けないくだりや写真等も多数存在するのである。この本を 出版するまで、その内心は別にして、外形的な所作からすれば「よど号側」と目されてしかるべき 南沢氏に、公安警察が資料を提供することがあったのだろうか。あるいは公安警察は高沢氏を「(報提供の)協力者」とするため、情報を引き出す見返りとして、何ものかを提供したのである うか、当時、この疑問に回答を与えてくれたのは、よど号グループの支援活動を続けている歩いてる男性だった。

「あれ(『宿命』のこと)は八尾恵さんの裁判で国側、つまり警察庁・外務省から提出された記録を骨格にしているんだよ。実はそれら証拠の写しを私が高沢氏の居所へ運んだんだ。


【八尾恵元店主の裁判とは】

 八尾恵元店主は、よど号ハイジャック犯の1人、柴田泰弘の元妻である。77年に北朝鮮に渡り S・yと結婚、84年に日本に潜入帰国した。その後、横須賀市で飲食店を経営していたが、88年偽名によるアパートの賃貸借契約をしたなどとして神奈川県警に逮捕された(のち本件不起訴、 別の公正証書原本不実記載事件のみ略式命令)。日朝首脳会談に先立つ2002年3月、有本恵子さん の拉致に関与したと証言した人物である。 

  日本に帰国した、よど号ハイジャック犯・赤木志郎の妻の刑事裁判の法廷で行われたその証言は、 上ど号グループの「同志獲得工作」として、八尾元店主が、ハイジャック犯の一人である安部公博 そして北朝鮮工作員であるキム・ユーチョルとともに、有本さんを拉致した、という内容であった。 八尾元店主は、83年当時ヨーロッパで知り合った有本さんに対し、「市場調査(マーケットリサー チ)」の仕事があると嘘の話を持ちかけ、安部とともに工作員に引き渡したというのである この法廷証言の前年から、警視庁公安部、さらには東京地検公安部も、八尾元店主の事情聴取を 密かに開始し、同様の供述を録取していた。 「結局、この供述をもとに警視庁公安部も、安部について、有本さんの「誘拐容疑」での逮捕状取 尚、国際手配に至った。いわば「加害者」側から、有本さんが北朝鮮に行ったのは本人の同意によ るものではなく、よど号グループと北朝鮮工作員の合作による「騙し」の手口が生んだ結果である、という供述が飛び出したのである。有本さんを「被害者」とする構図を補強するもので、八尾元店主の供述が、捜査を前に進めるのに重要な(ほとんど唯一の)要因であったことは、誰の目にも疑いがない。

今多くの人たちの記憶に「よど号グループが北朝鮮による控致の一部に関与した」という一項 が刻み込まれているとするならば、それは、八尾元店主の証言をめぐる報道によるところが極めて 大きいのではないだろうか。

 そしてこの「法廷証言」と「事件化」、こうしたオフィシャルな動きは、公安記者にとっても大 きな意味を持っていた。これまであくまで疑惑としてくすぶり続けてきた「よど号 と拉致」を「原稿に書くべきテーマ」に位置づけさせたからである。 その八尾元店主の「裁判記録」とは何か。

小貫が取材した支援者の男性が言う「裁判」とは、2002年の「有本さん拉致」証言が飛び出した裁判とは別物である。 88年に神奈川県警の捜査を受けて釈放された後、八尾元店主は、この間の警察の捜査を「不当」 とし、後に他のよど号グループの妻と同様に発令された外務からの「旅券返納命令」の取消を求 め、行政訴訟を提起した。訴訟は90年代半ばまで続いた。 

  当時、八尾元店主は、北朝鮮とのつながりも、またよど号グループとのつながりも秘匿し続けて いた。しかし、訴えられた国側、つまり警察庁・外務省としては、八尾元店主に敗訴するわけには いがない。 いかない。敗訴すればその時点で行政行為の正当性を疑われることになる。そこで、警察庁は、海 外の情報機関から寄せられた情報も含め、それまで密かに集め続けてきた捜査資料の一部を準備書面化し、法廷に提出した。内容は、当のことながら、応元店主とよど号ハイジャックや(後にその妻とわかる)女たち、そして北朝鮮工作員との関係を証明する各種資料や、北朝鮮の国家体制そのものの危険性を指弾するものである。

   支援者の男性が指摘する、高沢氏が「宿命」執筆のため活用した「裁判記録」とは、これらの資料群のことであった。 八尾元店主は、これら裁判の中で国側と対決、組織の一員としてよど号グループを守り抜いたが、 高沢氏の宿命」が出版された98年頃から、子供の帰国をめぐって、よど号グループと対立して いくようになる。さらに、今度は逆に、自らと北朝鮮・よど号グループとの関わりを週刊誌などで 明らかにしていった。 そして、ついに、2002年の「有本さん拉致」を認める法廷証言に至ったのである。

さらに同 年、八尾元店主は、「謝罪します」(文藝春秋)という著書を出版し、有本さんらに河川いるととも に、北朝鮮に残してきた、柴田泰弘との間に生まれた子供たちを早期帰国させるよう訴えている(八尾元店主を本書が実名で取り上げるのは、元店主がこのように、本名で公の出版活動をしていることなどによる)。この本の中にも「宿命」と同様に、八尾元店主に関連した各訴訟で国側が提出した証拠 を下敷きにしているくだりが見受けられる。 

 公安警察の監視対象であり、その対極にあるよど号グループ。その仲間であった高沢氏と八尾元 店主。二人の告発者が、かつての「同志」を攻撃する論拠の一つにしたのが、当の公安警察の資料 だというところに、皮肉な緑を感じざるを得ない。


【まずは資料収集から】 


小貫は、警視庁安部を担当していた頃から、こうした資料、つまり八尾元店主の「裁判記録」 が、よど号グループの解剖には欠かせないものだと感じていた。しかし、実際に資料を集めるまで には至らなかった。その理由の一つは、97年から2000年までの三年間の担当期間中、「よど号による拉致」が事件化という方向にはピクリとも動かなかったことに尽きる。

 このため資料については「いずれ事態が大きく動くことになれば、その時に集めればいい」と 考えていた。2002年10月末、今がまさに「その時」であった。北朝鮮による拉致に急速に関心が高まる中、これまでニュースで断片的に伝えられてきた「よど号と拉致」をトータルにまとめ直すだけ でも、意味があるように思えた。その一方で、「資料を集めても、結局「宿命」や「神卵します」 の二番煎じをテレビでやることにならないか」という思いも頭をかすめたことは確かだ。 

 しかし『宿命』も『謝罪します』も、いわば よど号グループのかつての支援者やメンバーが、個 人の目線で書き進めている書物である。それだけに迫真性のある記述も続くのだが、拉致問題を第 一の前提として、まったくの第三者が資料を見た場合、何が見えてくるか。彼らと違う「歴史の流れ」を提示することもできるのではないか。 

  頭の中には、書物だけでは得られないたくさんのクエスチョンマークが舞っていた。よど号グル ープが拉致に関与したのは、欧州で不明となった三邦人だけなのか。妻たちはなぜヨーロッパで活 動し、それを支援したキム・ユーチョルという工作員は何者なのか。よど号グループは工作員とどう結びついたのか。

なぜ海外で日本人の獲得工作にり出したのか。そして、日本の警察は よど号と景」という命題をいつの時点から意識し始め、勤いていたのか。公安記者時代の怠慢を大いに反省するとともに、これから切り込まなければならないテーマは幾つもある。と自らを震い立たせた。

 そのためにはまず資料である。取材を進めていく基礎がないと何も始まらない。おそらくこの 取材は、自分1人の手には余るだろう。仲聞を募っていくにも、説得材料がないと仕方がない。し かし、小貫自身、公安記者時代に高沢氏に会い、率直に「資料をお持ちならば、見せてもらえませ んか」と尋ねたことがあるのだが、にべもなく断られた経緯がある。小貫は、後任の公安記者、田 中淳則に連絡を取った 。

 田中はこの時、入局して丸10年。脂の乗りきった仕事ぶりで、日朝首脳会談以降、警視庁情報をもとに、拉致関連の独自ニュースを次々に出稿していた。その田中によると、高沢氏は最近、体調 を崩しているので接触は難しいのではないか、という。また、八尾元店主も、本当に信用したごく 一部のメディアにしか取材を許さないということで、「いきなり話を聞こうとしたって拒絶される だけですよ」と釘を刺された。 

「ならば別の取材ルートを探すまで」 

情報は、集められるところから集め尽くして、難しい取材先にはその後で乾坤一擲の質問をする、 というのが取材の定石である。小貫は、かつて公安記者として取材して回っていた頃、何度も世話 になったことのある複数の関係者に電話をかけ始めた。


『Yodo and abduction』

第二章【支援者の渦中へ】に続く