COVID-19 | 雨の日には雨の中を 風の日には風の中を☆レジリエンスを高めよう!

雨の日には雨の中を 風の日には風の中を☆レジリエンスを高めよう!

明治大学商学部F&I卒業後、金融不動産業を経て、今は不動産会社でEA執行役員(秘書)の傍ら塾講師・物流パートの複業をやっています。
自分と向き合い、高めた結果、素敵な1歳上の女性Yと出会い婚約しました。柳のような前向きしなやかな精神(レジリエンス)を綴っています。


Healing on Monday!


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こんにちは、M.Y.がナビゲートしています。いつもありがとうございます。



飯食ってワークアウトして笑って寝よう

Can you play a music?


さ、新型コロナでいよいよ都内は戒厳令レベルにやばくなってきました。


【COVID-19 対策】


・マスク

・手洗い - New!)ウエルパス消毒

・Stay home

・Social distancing


A little kindness goes a long way. で買い占めなどせず、すべて皆さんのちょっとした思いやりのある行動が大きな効果をもたらします。Linkedinでもフォロワーさんをはじめ呼びかけています。



毎日帰宅したら、ゆうちゃんがチューしながらスルスルとネクタイも外してくれてたんですが(子どもみたいでしょ、笑)、現在帰宅チューは省略中というか、


お互いの頬と頬を触れ合わせるあのチューです、左右やってそして消毒シャワーを軽く浴びせられます( ̄▽ ̄ )ひんやり〜的な。笑



そんな愛しの妻や娘たちを守るべく、また自分自身を守るべく、男に生まれてきたからには心身ともに強くありたいという性があります。



強さとは、身体的に、単に格闘系で強いというのもありですが、私的にはそれだけでなくサバイバルや震災時にも生き抜ける強い身体、病気に強い身体など、事故ってもなお蘇る治癒力だとか強靭な肉体など、そんな身体そのものが本来持ちうる強さの本質を追求し高めたい。


私的には、そのためのワークアウト修練です。それを継続するということはまた精神力でもあり、つまり心を鍛えることにも繋がっています。


KIDさんやベルナルド、一流格闘家であっても病気に負けてしまったり心が折れてしまったり、しかしそれが本来人間らしい弱さでもあったりします。



僕自身もまた同じだからこそ、とりわけ2年前に事故って死の淵から生還し以来、そのような強さを追い求めるようになりました。事故から自身の強さを見いだしたというか逆に自信というか希望に繋がって、まさに、不幸中の幸い、でした。



それまでの鍛える目的って、僕は学生時代は山岳とワンゲルをしていましたが、社会人になってからは質実ともに見掛け倒し的なワークアウトで、強さよりただスマートで単にカッコ良い身体を求めてた部分が大半を占めていましたから。


しかし、それも全然ありです。身体を動かすこと自体がすでに、強さや健康のための重要なtipsですからね。






・Sinus Bradycardia

僕自身が生理的なサイナスブラディカルディアであるため、一般的な人よりも脈拍がかなりスローであるため、長くを何かを持続することが出来ます。たとえば、運動や仕事など、ダブルワークをしていた頃はそんな持久力を自身の知り得た特性を逆に利用していたわけです。


言い換えるとスロースターターであり、ウォーミングアップが長いためインターバルなくしても終業に近づくにつれようやく本領を発揮するような感じです。



大学時代に僕は、山岳ワンゲルの他に、激しい運動を毎日の朝晩かつ4年間継続的にしていました。ただ義務的にせざるを得なかっただけなのですが、それがためSinus Bradycardiaになった最大要因と僕自身では思います。


僕の場合は、病的なものではなく生理的なSinus Bradycardiaのため、修練の末にたどり着いた賜物であるとも思います。



激しい運動とは、、なんとかあの頂上へ、、!ってまさに山岳と同じだった。例えば、5階建階段のみかつ三分割制階段の建物の5階に1件だけとかあるわけです。運動というか仕事による運動です。


練馬の光が丘団地と旧 田柄自衛隊駐屯地官舎です。


僕が担当していたのは、8区と10区で一つの区域でした。



10区田柄 現在の旧自衛隊官舎では、1号棟〜22号棟の計22棟を担当、5階建てでエレベーターなしという古物でした。


足に負担がかかり過ぎるためお気に入りがNIKEの厚底。僕が大学入学して、区域を引き継いだのは、法大を卒業する先輩でした。



最大で5階まで登り詰め投入しては降りてきて、また5階まで、の繰り返しを毎日20棟分。投入所在階数まちまちではあるもののおよそ100階分で、かつそれが三分割階段ですから

300階、かつ朝晩ですから600階分毎日駆け登っては駆け降りた。


回顧的には、当時、日によってはもうダメだ登れない!と思った時がやっぱりあって、それでもゆっくり歩いてでも最後まで必ずやり通しました。


その中で当時からうっすらと次第に目覚める違和感を感じて、このペースならいけるとか、今日は調子悪いなと思っていても徐々に軽快さが増してきたりと。


田柄を終えて一度インターバル的に営業所に帰還して事実上の中継、積んで光が丘に行く経路。


光が丘は階段のみ低層建物もたくさんありますが、高層はエレベーターがありますから田柄の比ではないほど楽でしたね。



光が丘では、僕が担当していた区域は、いちょう通り東3-7-1〜11群と、大通り中央3-9-1、さらにコーシャハイム系3-3-5〜9群の計24棟。


3-7-1と3-9-1のダブル30階建てを30階から一気に駆け降りてくるのが、とりわけ爽快だった。


3-7-1も3-9-1も、中央にエレベーターと内階段でその周りを居室がぐるっと囲む、当時では近代的な作りの建物で僕は好きでした。高層を中央に配置しその周りを低層群が囲む団地は、夜になると居室の光が散りばめた星のように一斉にきらめいた景色で美しく、


名にし負わばでまさに、光が丘、と思ったものです。



それは自分との戦いであったし、あほだから今日は昨日より早くとか、正確な配達で不配なくして自己更新タイムを自分自身と競いつつ、かつ最速で誰より早く帰還するみたいなことしてたんですね。。


仲間とかはもう相手にならなかったくらい(そもそも仲間はそんなこと目指してなかっただけ、笑)


それがため、

「君が毎日この付近やってるの?すごいねびっくりカクカクシカジカ・・ぜひうちに来ないか」


田柄駐屯地では自衛隊に何度も勧誘された。まだ19の時。いや僕は興味ないねとお断りしていたものであの当時では思いもよりませんでしたが、今の内心ではあのラブコールを受けても面白かったかなとも思います。


光が丘では集金に伺ったときや配達中にもおやつとかお土産とか、何度もいただきました。


3-7-7だったかな、そこにきれいな親切な奥さんがいて、これ食べてください的なおやつとラブレターがドアノブにぶら下げてあって笑、そのメモは地獄の日々の中での思い出として今まなお所持しています。


倉庫にあるため今度UPしようと思います。



身体が変われば心も変わる。自分を知ることで、心が変わり身体も変わる、やがては自分自身も変わる。世界を変えるより、自分が変わるほうがはるかに豊か。


この時期が訪れると、いつも書いてることです。



20代の頃は不動産の春商戦なんかは、それこそ夜中まで仕事やっていて逆に楽しかったものです。近所の居酒屋が閉店してそのお店の人達が帰る頃に、一緒に?帰ったり、笑。


苦痛ではなかったし、ちまたでは過労死もありますが、僕は過労死出来ないんじゃないかって思っています。失言になるかも知れません。




今日が人生の最後の日でも 50年後でも あなたに出会えて 誰よりも幸せだったと



年をひとつ重ねるたびに、過去が愛おしくも狂おしかったり、愛された記憶、失った記憶、温かな家、、あなたには返る場所がありますか。


そんなふうに思うのは、やっぱり時間は巻き戻すことができないからなのだ、と。


Keep movin’!