今回は引き続き本郷座の筋書を紹介したいと思います。
大正11年1月 本郷座 二の替り
演目:
一、鵺退治
二、郡幸内
三、三人吉三巴白浪
四、乗合船
前回の筋書はこちら
小芝居の一座らしく前回の公演を終えて14日から仕切り直しで始めたのがこの二の替り公演となります。
座組も前回と変わらず演目のみが変わり訥子が郡幸内、源之助が三人吉三巴白浪、市十郎が鵺退治、そして月前半に野崎村を出した九蔵に代わり團之助が乗合船とそれぞれの出し物を出す形となりました。
主な配役一覧
歌舞伎座で上演された時の筋書
内容としては源頼政が帝を悩ます鵺を退治して恋仲である菖蒲の前を妻に娶る事を許され褒美として宝刀を授与されるという至ってシンプルな演目になります。
五代目尾上菊五郎の猪早太
六代目尾上梅幸の菖蒲の前
大歌舞伎でも中々出ないだけに小芝居の出し物としてはかなり珍しい演目でしたが配役を見ても分かる通り市十郎の出し物である為か何も書かれてはいませんでした。
良くも悪くも古臭い昔ながらの芝居でありながら主役に相応しい立派な顔と長寿もあって地方民や都会の一部の通に好まれた父眼玉と違い、幼き日は九代目一門、成長してからは左團次一門で育ち古典から新作まで幅広くこなせるバイプレーヤーでありながらも主役を張れる程の人気も父親程の存在感も無かった市十郎は劇評としても特段注目する程では無かったのが分かります。
元の外題を狭間軍紀成海録といい、明治3年8月に守田座で初演された演目となります。
内容としては外題から何となく分かるかと思いますが桶狭間の戦いを題材にした物で今回は郡幸内に関わる部分のみの見取り上演となり元織田家の家臣である郡幸内が今川義元の輿に向かって鉄砲を打つも失敗し捕えられてしまい激しい詰問や妻のおみつや倅の幸松が拷問されても吐かないものの、代わって現れた岡崎正行が主家への忠義を認めた上で優しく諭すとようやく白状し、岡崎もその忠義を認めて打ち首ではなく自害と言う形で彼の名誉を守るという話になっています。
初演時の三代目澤村田之助の三浦左馬之助
今回は郡幸内を訥子、熊井段平を莚三、葛山弾右衛門を松十郎、おみつを歌門、幸松を琴玉、岡崎正行を市十郎がそれぞれ務めています。
こちらの演目は五代目尾上菊五郎の為に書き下ろした事もあり、戦場での大立廻りと捕らえられた今川本陣詮議の場での家族を拷問されても口を割らないで今川方へ抵抗するという異なる2つの場面での演じ分けが売り物でしたが立廻りはいざ知らずそれ以外はあまり得意ではない訥子がどう演じたのか気になりますが劇評では
「訥子は幸内一役、今川義元の供まわりを相手の大立廻りと白洲の強情で充分気を吐き」
と今回の二の替りではこの役のみだけであったのも幸いしたのか今川本陣詮議の場も共に悪い出来では無かった様子が分かります。
訥子の郡幸内
正直劇評が訥子のみしか評価しておらず歌門や市十郎の演技がどうであったかは不明ですが、只でさえ原稿の文字数が少ない小芝居の劇評の中で客が求める大立廻りはきちんと見せた上ででもきちんと芝居も見せた訥子が良かった点さえ書けばそれ以上はくどくど書く必要もない…という判断もあったのかも知れません。
二番目に上演された三人吉三巴白浪はお馴染み河竹黙阿弥の代表作の2つとして知られる世話物の演目となります。
歌舞伎座で初めて上演された時の筋書
こちらは源之助の出し物ですが彼とこの演目の関係は深く江戸時代の初演以来大歌舞伎で上演が途絶えていたこの演目を明治32年1月に明治座で初代市川左團次の和尚吉三、二代目市川権十郎のお坊吉三、源之助のお嬢吉三という配役で復活させ、團菊率いる歌舞伎座相手に大勝するという番狂わせを起こした程の当たり演目でした。これは初演の四代目小團次(左團次の養父)の和尚吉三、九代目團十郎(権十郎の師匠)のお坊吉三、八代目半四郎(幾つかの当たり役を源之助が継承)のお嬢吉三を意識して宛てた配役もさる事ながら、源之助のお嬢吉三が絶品だったらしく、彼の芸風を色濃く継いだ三代目尾上多賀之丞はお嬢吉三について
「お嬢吉三もよかったね。寺の場のよさなんてものはねえ。欄間から降りて来て「お坊か」「お嬢か」「あ、久しぶり」でさっと尻をまくってね、「会いたかったねえ」なんてとこなんかはもう・・・。」(「歌舞伎」第11号より引用)
と台詞廻しから漂う濃厚な色気に思わず絶句する程の上手さであったと回想しています。
そんな源之助が今回もお嬢吉三を務めた他、お坊吉三を團之助、和尚吉三を九蔵、釜屋武兵衛を長五郎、手代十三を幹尾、長沼六郎を莚三、夏川のおとせを長五郎がそれぞれ務めています。
さて、上記の様に絶賛されている源之助ですが訥子同様二の替り公演はこの一役のみであった事からかなり余裕があったのか
「源之助はお嬢吉三一役で、持味を発揮してゐた」
とかなり短いながらも評価されています。
大正10年1月に横浜座で演じた時の源之助のお嬢吉三
一方吉三の残りの2人の内、和尚吉三を演じた九蔵は
「九蔵の和尚吉三は乱塔場の殺しに凄みと情合があってよい」
と自身の出し物とは言えお光という謎の配役であった前回とは打って変わって今回は実父團蔵が色濃く影響を受けた小團次に所縁のあるこちらの役がきちんと嵌まっているとして特に巣鴨吉祥院裏手墓地の場でのおとせ・十三郎殺しが高く評価されています。
九蔵の和尚吉三
そしてこの一座では何かと良い役を貰えている團之助は師匠團十郎が演じたお坊吉三を演じ
「團の助はお坊吉三もよかった」
と具体的な言及はありませんでしたが良かったと評価されています。
團之助のお坊吉三
余談ですがこの團之助と九蔵はこの後脂の乗り切った50代になって小芝居の衰退という一大危機に直面し九蔵は一足早く小芝居から足を洗い大正15年に実父團蔵を崇拝していた吉右衛門の招きもあり彼の一座に客分で加入しました。対して團之助は東京では大国座や公園劇場に入って活躍しつつ末端とは言え九代目一門という矜持もあったのか市川三升の三升座に加わり地方へ赴いたり、新之助と共に壽座に顔を出したりと斜陽の市川宗家に尽くした上で昭和10年になってようやく吉右衛門一座に加わりました。
そのせいか吉右衛門一座での立ち位置では先に入った九蔵の方が吉右衛門の贔屓もありやや優遇されており、後から加入した團之助は専ら老け役を宛がわれておりここまで見ると九蔵は上手く立ちまわったと言えますが共に健康とあって戦後まで生き残ると立場は逆転し團之助は吉右衛門一座を離れて劇界の長老として引く手数多になり成田屋一門としても十一代目團十郎の口上に列席出来たり人間国宝などの栄典に恵まれる幸せな晩年を送った一方で九蔵の方は昭和18年に團蔵の名跡こそ襲名出来ましたが戦後に入り彼と同格の芝鶴や八百蔵の加入により立場が段々と危うくなり庇護者たる吉右衛門亡き後は後継者たる幸四郎、歌右衛門、勘三郎の3人の内、芝鶴と八百蔵と共に東宝へ移籍した幸四郎や早くから自身の一門を形成し音羽屋との共演も多かった勘三郎からは見向きもされず結局的に歌右衛門に付きましたが役が付かない等と不遇となり、最後は引退公演を華々しく行った直後に自ら命を絶ってしまう悲劇的な最期を遂げました。
そんな両者がこの時は中堅の花形として互いに切磋琢磨していたのを見ると何が運命の明暗を分けたのかと考えさせられる物があります。
さて、稍暗い話になりましたが話を戻して大切の乗合船は以前に新富座の筋書で紹介した事がある常磐津の舞踊演目となります。
新富座で上演された時の筋書
今回は上述の通り團之助の出し物として出されたらしく、才蔵亀吉を團之助、箱屋伊助を幹尾、芸者小はるを扇女、大工長吉を左門、萬歳鶴太夫を鯉三郎、通人壽仙を團三郎がそれぞれ務めています。
團之助が舞踊を出来るというのは意外な気がしますが劇評では彼について
「乗合の才蔵で思ふさまの踊りぬいて見物を喜ばせた」
と非常に達者な踊りで見物にも好評で劇評からすると全幕のお坊吉三より出来が良かったとさえ書かれておりかなり高く評価しているのが分かります。
そして劇評は続けて幹尾以下他の役者達についても
「幹尾の十三と勝五郎のおとせは上出来」
「鯉三郎の萬歳、團三郎の通人がよかった」
と何れも舞踊に特別秀でた役者でもないにも関わらず、出来が良かったと評価しました。
この様に二の替り公演も序幕の鵺退治以外は概ね好評でしたが入りについてまでは言及しておらずどんな入りであったかは不明となっています。そしてこの二の替り公演は本郷座の内部工事の都合もあり25日までの11日間とやや短い期間で終わりました。
新聞などの報道によれば当初の予定では
新富座:歌舞伎の旗艦劇場
明治座:控え櫓
本郷座:新派の旗艦劇場
辰巳劇場:小芝居の劇場
の様な割り振りを想定していたようですがこれには当時苦境に陥っていた市村座を貸し小屋として松竹が年に何ヶ月か借り受けるという話を前提に組まれていた物で程なくしてその話がおしゃかになると本郷座は役者の割り振りの関係もあり新派と歌舞伎が同居する今まで通りの劇場として焼失まで機能する事となります。
残念ながらこの後の本郷座の筋書は大正13年まで所有していないのでまだ間が空きますが演芸画報などで公演の様子はフォローしていく予定です。