大正7年1月 歌舞伎座 三代目中村雀右衛門襲名披露 東京編 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は久しぶりに歌舞伎座の筋書を紹介したいと思います。

 

大正7年1月 歌舞伎座

 

演目:

一、花の御所

二、国性爺合戦
三、新版歌祭文
四、初音里恋仮名文
五、寿靱猿

 

11月の團十郎追善公演以来となった歌舞伎座は2年前と同じく三代目中村雀右衛門の東京での襲名披露公演として幕を開けました。

 

参考までに2年前の實川延若の襲名披露公演の筋書

 

同じく浪花座での襲名披露公演の筋書

 

座組も10月以来の出演となる仁左衛門を始め幹部役者が勢揃いした他、左團次一門の小團次が参加する等襲名公演に相応しい手堅い陣容になりました。

 

主な配役一覧

 
花の御所

 
一番目の花の御所は応仁の乱を舞台に堀美雄が榎本虎彦の遺作を輔弼した新作時代物です。と、ここで私のブログを普段ご覧になられてる方はふと既視感にとらわれたかと思います。
 
あれっ?これってこの前南座で紹介してた九代将軍の母と同じじゃね?っと。
 
御明察の通り、この演目は大森痴雪がこの作品に手を加えた九代将軍の母と原作を同じとする兄弟作品に当たります。どうやら大谷竹次郎が歌舞伎座の上演を前に大森痴雪にこの演目の概要を教えて作らせる一方で堀美雄にも同じく教えて書かせた結果この様に2つの演目が生まれる事になりました。その為か幕切れを除けば話の展開は全く同じとなっています。
 
九代将軍の母が上演された南座の筋書
今回は榎本が書くに当たって人物を当て込んだ通り日野富子を歌右衛門、熊谷直定を羽左衛門、足利義政を八百蔵、熊谷直純を仁左衛門、足利義視を亀蔵、侍女さつきを源之助がそれぞれ務めています。
しかし、南座での不評ぶりは既に劇評家の中では周知の事実として広まっていたらしく、劇評では
 
そもそも演じてなんかいなかったが如く一言も触れない(演芸画報)
 
見たく無いので午後1時開演の所を午後2時から観劇する(朝日新聞)
 
とまさかの評価拒否という劇評にあるまじき行為を取っています。
その為、他の観劇した劇評に当たってみると生前の榎本が当て嵌めて書き得意役の淀君に似た役にしただけあって富子の歌右衛門は福助と違ってかなり好評で南座では凄味の抜けた清玄と酷評された羽左衛門の熊谷直定も法界坊に似てるとこちらも評価されています。
 
歌右衛門の富子と羽左衛門の直定
 
因みに仁左衛門の熊谷直純についてはいつもの仁左衛門らしく老け役として演じていましたが、公演途中に病気の為休演となり、三代目中村鶴蔵に代わりました。この三代目中村鶴蔵について初めて聞いた方もいると思うので説明したいと思います。彼は中村とある様に元は十三代目中村勘三郎の門人として歌舞伎界に入りました。しかし、前に触れた通りこの頃の勘三郎は中村座を既に手放して久しく息子の明石も役者としては微妙であり明治28年に勘三郎が亡くなると忽ち出番に窮して止む無く市川段四郎の弟子に入り市川喜三造と改名しました。この時師匠を猿之助に選んだ事がツキの始まりでそのまま師匠に付き従い東京座~歌舞伎座と大劇場の劇場へ出演し続ける事が出来修行の場としては至極恵まれた環境で過ごしました。そして明治44年、師匠の同意の元で衰運著しい中村家に戻り、かの名優三代目中村仲蔵の前名でもある中村鶴蔵を三代目として襲名しました。その後は二代目左團次一座に加わる一方で時折歌舞伎座にも顔を出し師匠とも度々共演を重ねていました。そんな彼が仁左衛門の代役を務めると聞いて当初は不安の声もあったそうですが鶴蔵は直純を見事に演じきって評価を上げ大谷竹次郎は以後彼を重要な役柄に当てるなど四代目片岡市蔵と共に渋い脇役として歌舞伎座には欠かせない存在になりました。
 
しかし、これらの評価はいずれも役者単体の話であり演目全体としては
 
「(九代将軍の母と今回のとどちらが優れているか)それを論じる程問題にならなかったのであります
 
と南座の時にも言われた様に余りに筋自体が単調過ぎて面白く無かったらしく不評でした。
そしてこの演目の後に雀右衛門襲名披露口上が行われ歌右衛門、仁左衛門を両脇に3名のみの口上を行いました。
 
口上での雀右衛門
 
 
国姓爺合戦
 
続いて中幕の国性爺合戦は近松門左衛門が南明の抵抗運動の指導者である鄭成功の話を元に正徳5年に書き下ろした時代物の演目です。初演の際には文楽の竹本座で17カ月連続で上演した程の当たり演目となり、程なくして歌舞伎化され二代目市川團十郎が演じて当たった事から現在も三段目の甘輝館の場が盛んに上演されています。
この大正7年は竹本座で17ヶ月連続で上演してから丁度200年という節目の年だとして同じ月にかつて竹本座があった道頓堀の浪花座では同じく国性爺合戦が延若が和藤内、鴈治郎が甘輝で演じられていました。
奇しくもいつぞやと同じ競演という形となりましたがこちらの歌舞伎座ではとくにこれと言ってアナウンスは無く更にはこの演目の中でも一番栄える場面である楼門をカットして演じられており同じ演目でも東西の微妙な温度差が感じられます。
今回は和藤内に歌右衛門、錦祥女を雀右衛門、和藤内の母を段四郎、甘輝を仁左衛門がそれぞれ務めています。羽左衛門の和藤内は正式な役としてはこれが初役でしたが、実は明治33年11月の歌舞伎座で伯父菊五郎が病気の為に休演した際、九代目團十郎の勧めで代役で1度務めた事があり急な代役にも関わらず難なく務め上げて激賞された事があり事実上2度目と言えました。
そんな事もあり初めて本役とあってかなり期待されたらしく本人もそれに応えて
 
羽左衛門の和藤内、笠と松火を持って石橋の上にかけての出は好貴模様、但しかけたまま「南無三、紅が」といったが、そこで立ち上る方が形も好からう。(中略)甘輝と応対は手強かった、母の自害に驚きと悲しみは見えていた
 
羽左衛門の和藤内は少し和唐内の方になるが入込がなしに紅流しの石橋の場からゆえぶらぶらせずによし
 
と下の画像の出については意見はあったものの、概ね好評でした。
 
羽左衛門の和藤内
 
仁左衛門の甘輝
 
 
そして夫と異母弟の板挟みになった末に自らの命を絶つ事で2人の仲を取り持つ烈女の先駆けともいえる錦祥女を演じた雀右衛門は
 
雀右衛門の錦祥女、楼門が出ぬので仕所が少ないが、死を決して、先づ母に取りつき、上へあがって鏡で夫の姿を見、更に上手へ入ろうとして柱に取りついて振り返るまで行き届いていた。
 
と見栄えする楼門がカットされているという欠点を気にする事なく熱演し、大阪で同じ役を演じている福助よりも評価されています。
更に錦祥女と共に自害する和藤内の母を演じた段四郎もまた良かったらしく
 
段四郎の母は縄にかかりながら夫妻の間立入る難役、慈悲は一徹しなかったが、仕ぐさは相当であった。
 
と加役でありながらもいつぞやの覚寿、皐月に並んで評価されています。
 
この様に三者揃って好評でしたがあまり東京では上演されにくい演目故かはたまた楼門なども出ないなど一幕物にした故か劇評の評価に反して見物からのウケはそこまでではなかった様です。
 
新版歌祭文
 
そして同じく中幕の新版歌祭文は以前にも紹介した事がある近松半二の世話物演目です。
 
市村座で上演された時の筋書
今回は雀右衛門襲名披露演目という事で雀右衛門が主役といえるおみつを演じた他、普段ならお光を演じる歌右衛門がお染に回り、久松は羽左衛門、平作を仁左衛門、下男十兵衛を歌六、油屋後家おつねを源之助が務めるなど襲名披露に相応しい重厚な配役となりました。
さて劇評では雀右衛門に花を持たせる為にお染に回った歌右衛門について
 
歌右衛門のお染はいつまでも若い娘形、豊艶な趣きは雪鼎の筆より派手な牡丹。
 
と彼の格であれば普段は演じない様な娘役を演じた事でその妖艶さが却って注目されて雀右衛門に負けない程の評価を受けています。
そして得意の二枚目役である久松を演じた羽左衛門は
 
羽左衛門の久松は声が濁っていたが、三四尺の菖蒲
 
と台詞廻しに少し難があったようですがこちらも評価されています。
因みに余談ですが久松は最後駕籠に乗って舞台花道を通って退場しますが公演2日目に籠を担ぐ駕舁役に猿之助と亀蔵が出演していました。こうした役は本来なら名題下の役者が務めるのですが今回は襲名とあって御馳走で出演しました。しかし、若い猿之助はいざ知らず亀蔵は不慣れな事もあって花道途中でバランスを崩し土間に転倒してしまい羽左衛門も危やく客席に投げ出されかけた所を見物に支えられて事無きことを得ました。言うまでもなく普段温厚な羽左衛門もこのハプニングには激怒してしまい2人は敢え無くクビになり翌日から別の役者が務める事になった様です。
 
羽左衛門の久松と歌右衛門のお染
 
そしてそんな2人の好演に支えられて得意の娘役であるおみつを演じた雀右衛門は
 
大阪式の濃密な、繊細な然も自然で行く芸風が好く、その声、その顔のしほらしく、髪切ってのの後の出は姿の上に一層哀れさが増した
 
先ず婚礼の喜びの思入もいそいそして、しかも微細、自然で隙間が無かった。おそめに対する妬も面白かったが、小玉を受取りに行って、幾度にも取って捨てたのは丁寧過ぎる、一度に投げたが好い。髪切っての出は姿の上の哀れに乏しかったが、仕ぐさは相当、堤の上の別にも梅にかかった紙鳶(たこ)にさはって顔を掩ふのは好かった。
 
と婚礼の幸せから一転して許嫁に女がいる事への嫉妬、絶望、そして2人が心中まで考えていると知ってからの未練を断っての出家、そして別れと複雑な役柄を見事に演じきり絶賛されています。特に娘役においては絶対の自信と腕がある歌右衛門と面と向かってのぶつかり合いの上でこの高評価は彼自身の長年にわたる芸の蓄積の賜物と言えました。
 
雀右衛門のおみつ
 
そして得意の老け役である久作を演じた仁左衛門も
 
仁左衛門の久作は老熟しきって自然の面白味、但し大阪付近の百姓にしてはのんびりした所が無く、油屋の後家に梅を渡すのも一考の間も無い位早かったが、それ丈に思ひやりが十分であった。幕切れにすべってお光に介抱され、その袖の蔭で拝むのもあはれであった。
 
とこちらもいつもの写実癖に拘ったらしき部分は批判されているものの、得意の老け役とあって難なく演じて雀右衛門の襲名に花を添えました。
とこの様に雀右衛門以下全員が役を理解して演じきった上に雀右衛門の熱演もあってこの公演一番の当たり演目になった様です。
 
初音里恋仮名文
 
二番目の初音里恋仮名文はこちらも以前に市村座の筋書で1度紹介した小さん金五郎物の世話物の演目です。
 
以前紹介した市村座の筋書

 

内容については仁左衛門の出し物とあって曽我物に無理くり当て嵌めた市村座の時とは異なり、中村宗十郎が演じた時の型に基づいて金五郎と小さんの恋仲に嫉妬しつつ、金江金左衛門の計らいで小さんを手に入れる事に成功するも一角と小さんの秘密を知り直後に一角の持つ宝刀を奪いに来た金五郎にわざと討たれて実は一角と小さんは兄妹の仲である事を知り身の浅はかさに苛まれた一角はわざと討たれて妹の身を任せるという話になっています。

そして今回は秋月一角を仁左衛門、金江金五郎を羽左衛門、額の小さんを歌右衛門、金江金左衛門を段四郎がそれぞれ務めています。
さて、このブログを最初からみられている方は既にご存知だとは思いますが仁左衛門と言えばあるあるだったのが見慣れない演目を持ち出して来ては「○○の型」とよく分からない演じ方や演出を行い大失敗するのが定番でした。大正5年1月辺りを最後にそうした奇行は収まりつつありましたが忘れたころにやって来るのが何たらとある様に久々にこの悪癖が炸裂したらしく劇評でも演目自体について
 
筋も通らぬ様にて面白からず
 
どんな名型であったにしても、時代遅れのこの狂言では人気が寄らず
 
とかなり辛辣な評価をされています。一方役者単体として見てみると仁左衛門は
 
仁左衛門は金五郎の二度目の侵入からの出、小さんの恋を知っての怒り、切らうとして切れぬ未練、相合傘で行くのを見ての癪、仰山で無くて、をかし味は十分であった。
 
と宗十郎の型に独自の研究を重ねた事もあってか評価されています。しかし歌右衛門はと言うと
 
歌右衛門の小さんは浮世絵なら三代目豊国といふ所で、豊嬌であるが、張を現はず婀娜な所が姿に見えぬ。
 
と慣れない遊女役が仇となり不評で見物からはわざわざ歌右衛門を使うべきではないという批判もある程でした。
この様に久しぶりに仁左衛門の悪癖が炸裂した形になり、更に運の悪い事に唯一好評だった仁左衛門も途中で病気により休演した事でその良さも失われた結果大ゴケしてしまいました。
 
寿靱猿
 
そして大切の寿靱猿は段四郎親子のお馴染みの舞踊で詳しい劇評は残っていませんが、「皆々大出来」とある所を見ると好評だった様です。
 
段四郎の猿曳駒太夫
 
この様に一番目及び二番目は揃っての大不評であり見物の入りにも影響を及ぼし多くの日が売り切れにはならなかったそうです。しかし、不入りかと言えばそうではなく雀右衛門の襲名とそれに伴う熱演もあってか雀右衛門の贔屓連の後押しもあり一定の見物層は訪れた事から大入りにこそならないものの赤字にはならない=常に7~8割は入るという感じでした。
この後雀右衛門は東京での襲名披露第2弾という事で左團次のいる明治座へと出演し3月の新富座出演まで東京に滞在する事になります。
そして以前の中座の番付紹介の際に触れましたが松竹と帝国劇場の提携第3弾としてまず12月の帝国劇場に仁左衛門が出演した見返りに松竹は歌舞伎座に帝国劇場の幹部役者を招聘する事になります。2月の歌舞伎座の筋書も持っているので改めて紹介したいと思います。