大正3年1月 市村座 六代目尾上菊五郎の春興鏡獅子初演 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は歌舞伎座と同じ月に行われた市村座の筋書を紹介したいと思います。

 

大正3年1月 市村座

 

演目:

一、寿万歳
二、蝶千鳥宝来曽我
三、春興鏡獅子
四、初音里梅仮名文
五、吉例曽我礎

 

前回の歌舞伎座引越公演を経て今まさに二長町時代と呼ばれた全盛期を迎えようとしている市村座の筋書です。

新作は春興鏡獅子を新作とカウントしても2つと少なく新作が多い歌舞伎座との差別化を図ると共に公演全体が実は曽我物となっています。  

 

参考までに歌舞伎座の引越公演

 

寿万歳

 

まず序幕の寿万歳は市村座の初春公演でよく演じられていた演目で外題にも「櫓狂言」と銘打ってあります。

いくら田村が古き良き歌舞伎の歌舞伎興行の様式を守っていたとはいえ、後年曽我物は上演してもこの演目は2度と再演されなかっただけに大正3年に限り何でわざわざこんなみんな忘れていた古い狂言を持ち出してきたのか本人も詳細は語っていませんが、推測を交えれば前々回に紹介した浪花座で五代目中村明石を招いて中村座の櫓狂言である猿若舞を演じた事に対する意趣返しではないかと思われます。

それだけに演目そのものにはさほどの意味はなく一座総出演という賑やかしの意味合いが強い演目でした。

 

蝶千鳥宝来曽我

 

続く蝶千鳥宝来曽我は外題に曽我と銘打っていて慶応2年に初演された「富士三升扇曽我」を改題した作品で地方の地歌舞伎では今でもよく上演されますが大歌舞伎では滅多に上演されない珍しい演目です。物語は対面の前日譚となっていて主人公の曽我兄弟の養父の曽我祐信と吉右衛門演じる鬼王新左衛門が幼くして死罪になろうとしている一万丸(十郎)と筥王丸(五郎)の助命をする話らしく劇評では吉右衛門が「馬上で駆けつけて兄弟を助けるという大役がこの人にはまっている」と短いながらも評価されています。

前述の様にこの公演の演目は寿万歳と春興鏡獅子を除くと全て曽我物で統一されている異色のラインナップになっていて新作の曽我物を出したのも対面の前日譚を描く事で事実上の通し演目にしている意図が伺えます。

 

春興鏡獅子

 

そして今公演最大の目玉の一つはこの春興鏡獅子でした。

この演目は元々九代目市川團十郎が初演した演目ですが、九代目は一度演じたきりでその後前にも紹介したように1人2役であった小姓弥生と獅子の精を2役に分けて更に小姓弥生を九代目の娘である翠扇と紅梅で、獅子の精を九代目の弟子である幸四郎と段四郎のそれぞれ2人で演じられましたがあまり評判は良くありませんでした。

 

六代目尾上菊五郎は翠扇からこの演目を習い初演通り前半の小姓弥生と後半の獅子の精を1人2役で演じました。

この判断は良かったらしく劇評では

 

前半の御殿の場

奥女中の瑞々しく若くて嬌態のあるのが良い

 

花道の引っ込みも良い

 

後半の獅子の舞の場

後ジテも実に品位がある

 

と手放しで称賛されています。

 

彌生姿の菊五郎

 

元々これまでの市村座の公演でもどれも舞踊の演目の評判は押しなべて良かったですがいずれも三津五郎との共演物が多く今回の春興鏡獅子の成功で「踊りの菊五郎」という評価が定着し以後の演目においても菊五郎単体での舞踊演目が増えていくきっかけになりました。

また「演劇五十年史」によれば当時の市村座の中で菊五郎は意外にも時代物で新境地を開いた吉右衛門に常に一歩劣るような境遇だったそうです。振り返ってみると歌舞伎座でも市村座でも常に新作演目に挑戦し続けお家芸の世話物狂言でも偉大な父五代目を意識するあまり写実風の解釈に基づく演技に走ったりと一種の迷走状態にありました。

そんな中この春興鏡獅子の成功によりメキメキ評価を上げ始め吉右衛門に並び、やがて一歩先を行くような所まで到達しました。

この時からようやくスランプを脱して芸の時分の花が咲き始めたと言えると思います。

 

前にも紹介した昭和10年に撮影された六代目尾上菊五郎の春興鏡獅子

 

初音里梅仮名文

 

二番目の初音里梅仮名文は元の外題を東都名物錦絵始といい、江戸末期に書かれた小さん金五郎物と呼ばれる作品群である世話物狂言の一つです。一応シリーズ物と書いてはいますが統一性は皆無でその時々によって都合よく小さんと金五郎を当てはめて別の物語になる事がしばしばあり、六代目菊五郎の曽祖父に当たる三代目尾上菊五郎が安政2年6月の河原崎座で演じた時は外題が裏模様菊伊達染に変わり伽羅先代萩の早変わり物、今でいう伊達の十役のような演目で演じられ大入りとなったそうです。

東京では明治22年1月に市村座で五代目尾上菊五郎によって上演されていますが今回は物語の筋を幾らでも変えられるのを逆手にとって本筋である小さんと金五郎が宝剣を取り戻すというのだけを残して舞台の設定を曽我物に当てはめて曽我の宝剣友切丸を探すという曽我物の一環として上演されました。

言うまでもなく次の対面につなげる為の作品となっているのと同時に主役の曽我兄弟を守田兄弟に演じさせる関係上、何処かで菊五郎と吉右衛門主演の一幕を拵える必要があったのをここで実現させたという形になっています。主役の金五郎を勘彌が、小さんを芙雀が務めて吉右衛門は畠山重忠と金五郎の兄全之進の二役、菊五郎も鳥目の一角こと秋月一角と源頼朝の二役を演じています。

無論主役は小さん、金五郎の代わりに宝剣を取返しにいく秋月一角で小さんを許す場面や後半の宝剣を奪い返す大立ち廻りなどは劇評でも「呼吸が馬鹿に良い」、「昔の芝居の面影あって懐かしい」とそれなりに好評だったそうです。

また吉右衛門の重忠も「重忠と鬼王、両方とも良い(中略)頼もしい役者と褒めてやらねばならない」と菊五郎に負けず劣らずの好演で存在感を示した様です。

 

吉例曽我礎

 

最後が前回の歌舞伎座でも触れた「吉例曽我礎」です。

 

参考までに歌舞伎座の筋書

 

ベテランばかりの重厚な配役である歌舞伎座に対してこちらは若さで勝負と言わんばかりに主役の五郎・十郎の曽我兄弟役を実際の兄弟である三津五郎・勘彌兄弟に当てて相手役の工藤祐経には榮三郎、脇の化粧坂少将に芙雀、大磯の虎に国太郎を当てて主役クラスの菊五郎・吉右衛門を近江小藤太、八幡三郎に配置する意表を突く配役をして話題となりました。

これまでの2つの演目を曽我物に統一して物語性を高めた上にこの配役が功を奏した事もあり今まで舞踊物では他の追随を許さない程の評価を受けていたものの肝心の丸本物などでは小柄な体格と高い声質などから「素っ頓狂」とか「貧相」などと常に低評価に甘んじていた三津五郎は「小粒だが團十郎以来の理想の型、上々」と絶賛され、弟勘彌も「貧相だが柔らかみのある芸」と評価され、脇に回った菊吉も「この一場を飾る」と堅実な演技でサポートし、意外にも前評判が一番低かった工藤祐経役の榮三郎も「調子よく品位ある」と主役が押し並べて好評され「歌舞伎座よりも市村座の方に軍配が上がった」と称されるほどの大当たり演目になりました。

 

上記の結果からも分かる様に歌舞伎座との競演である対面での好評もあって公演成績も大入りを記録しました。

三宅周太朗の言葉を借りれば俗に言う二長町時代という全盛期はこの大正3年から始まったといっていいらしくそう意味ではこの公演は「二長町時代の始まり」ともいえる歴史的な公演と言えるかと思います。