大正4年8月 歌舞伎座 元祖納涼歌舞伎と児太郎の春興鏡獅子 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は歌舞伎座の若手公演を紹介したいと思います。

 

大正4年8月 歌舞伎座

 

演目:

一、豊公大仏供養        
二、春興鏡獅子        
三、乳房榎

 

4月公演での大入りして成功させた歌舞伎座は5月、6月と劇場を閉めて幹部役者達をしばらく開放して自由気儘にさせていました。

そして7月には打てば大入り間違いなし状態にあった市村座の役者達を三度借り受けて公演を打ちこちらも大入りで大成功に終わりました。

2月以来大入り快進撃が続く歌舞伎座はいよいよ松竹が手に入れて以来、初めてとなる8月公演の実施に踏み切りました。

今でこそ8月と言えば納涼歌舞伎という事で若手主体の公演月になっていますがそれが定着したのは今は亡き十八代目中村勘三郎と十代目坂東三津五郎が31年前の平成2年に始めたのがきっかけでまだ30年ちょっとの歴史しかありません。

戦後の8月というと昭和36年から55年まで三波春夫歌謡ショーが開かれ、その後56年から新派、SKD、時代劇役者公演などこれまた30年近く歌舞伎が行われていないのが当たり前の不入り月でした。

 

その為、戦前に至っては8月はいつも地方巡業で休場となっていて明治22年の開場からこの大正4年まで8月公演が行われたのは明治43年の市村座の若手芝居ただ1度きりでした。それだけに大正時代において8月に公演を打つというのが今と違ってどれか未知数な物だったかがお分かりいただけると思います。

それだけに色々な対策が施されたらしく、巻末の「俳優楽屋話」によると

 

・夕方5時の開幕

・東西と正面の桟敷席下にガラス鉢に金魚を入れて置く

・夜芝居の為、電灯を設置

・更には数十台の扇風機も設置

 

と夏ならでは趣向を取り入れ、観劇料も普段の半額に値下げされました。

 

主な配役一覧

 

さてそんなリスクを背負って行われた今回の公演は壽美蔵、児太郎、亀蔵という新進気鋭の若手に紅若、團八といったベテラン勢が支え、中堅所に大阪から毎度おなじみ芝雀、延二郎に加えて今回は壽三郎が加入した東西混成の座組となりました。

 

豊公大仏供養 

 

一番目の豊公大仏供養は聴き慣れない演目名だと思いますが、九代目團十郎の唯一の女弟子で團十郎をして「男であったら俺の相手役にしていた」と言わしめ「女團洲」の異名をとった初代市川九女八が演じた物を輔弼が得意な榎本虎彦が手を加えてた演目です。

榎本は主として前半部分の明智家の宝刀を巡る下りなどを幾つか書き足したものの大筋は九女八の時と変わらず彼女が主演だった為、主役も明智光秀の娘の盛姫で親の仇である秀吉の命を狙うという筋になっています。

結論から言ってしまうとオチがまんま寿曽我対面のパロディになっていて「女対面」という感じです。(前半も宝刀の友切丸を探す曽我兄弟のパロディになっています)

今回は関西組の出し物で盛姫に芝雀、秀吉を延二郎が演じています。

 

一見すると姫役には定評のある芝雀に万能役者である延二郎なので申し分無いかと見えますが劇評だと

 

芝雀「偽狂から大仏供養の場に紛れ込む所は良いが太閤と詰開になってからワクワクしていて烈女らしからず

 

延二郎「まるで嵌まらず

 

そして作品自体も

 

とてもまともに見ている事の出来ない芝居でした。

 

こんな辻褄の合わない芝居

 

と不評でした。

美しさにおいては劣らないものの、女團洲と呼ばれる程九代目に似て貫禄を持っていた九女八に当て込んで書かれただけに単なる姫役ではないニンを求められる役でありどちらか所言うと同じ姫役を得意としながらも美しさと貫禄を持つ歌右衛門辺りが適役だったと言えます。そう考えると「初々しいところに味がある芝雀には無理な役柄なり」との指摘通り、ミスキャストの結果だったと言えます。

 

 

春興鏡獅子

 

そして二番目の春興鏡獅子は歌右衛門の養子である児太郎が初役で挑んみました。

幾分フィクションは入ってる為に鵜呑みには出来ませんがロクに資料も読まず軽く見積もって二桁以上の間違えを平気で書く小谷野とは違い丹念に福助未亡人を始めとする彼の関係者に取材して書かれた「ある女形の一生」によると今回の鏡獅子を松竹から打診された歌右衛門は初めての主演を務める息子の為に幾度も児太郎に意志があるか確認した上で前回の東京座公演同様に既に一度演じていた菊五郎に稽古を頼んだそうです。

 

参考までに菊五郎初演の市村座の筋書

 

しかし、菊五郎から

 

自分としては反対だ、もう少し腕が出来、十分に稽古を積んでからの事からにして、当分延期してはどうだ?」(ある女形の一生)

 

と言われて一時は立ち消えになったそうですが、ショックの余りに飯が喉に通らないほど落胆している児太郎を見てられない親バカな歌右衛門は田村成義に頭を下げてまで根回しをして菊五郎を説得して息子の晴れ舞台の御膳立てをしたそうです。

そして9日間にも及ぶ市川翠扇と菊五郎の猛稽古を受けて本番に臨んだそうです。この甲斐もあってか

 

御小姓姿美しく踊りもふっくりよく長い間を少しも焦り気味なく疲れ気味なく勤めしは大出来なり

 

 

と前半の部分は高評価されています。それに対して獅子の精となる後半部分になると

 

後ジテの白頭は重そうであった

 

「(後半の)獅子の精が乗り移るという所に狂言の趣意があるなればそこが大事なれど備わるをまだ求むべからず

 

と流石に連日の稽古の疲れが隠せなかったようです。とは言え、初役で演じたとは思えない充実ぶりに

 

これを出世芸の始めとすべし

 

と劇評も褒めたたえるなど成功裡に終わりました。

 

乳房榎

 

最後の乳房榎は言うまでもなく延二郎が前年9月に中座で3役早変わりで上演したものの再演になります。

 

以前紹介した中座の番付

 

今回も前と同じく蟒三次、重信の亡霊、正介の三役早変わりに挑戦しています。

また磯貝浪江には前回同様に壽三郎が演じています。

 

既に大阪で大当たりした演目だけに目の肥えた東京の見物も本水のケレンに水中での三役早変わりまで見せた延二郎に

 

ある人我が見る桟敷に来て、ここは涼しいこれで本水の滝を見て、おまけに芝居まで見やうとは贅沢過ぐるぞと言われたるがその言葉の如し

 

と遠回しに賛辞を送っています。

余談ですが、最近下手糞なイタコ芸と他人の著作の丸写ししか芸がない中川こと室田君が出した本の中でこの公演について触れていてまた無知を晒しているので指摘したいと思います。

まず、事実だけ述べるとこの公演の真っ最中の8月7日に大谷竹次郎の長男である栄次郎が日光の中禅寺湖でボートに乗ってる最中に転覆して溺死するという痛ましい事故が起きました。

この事に絡めて室田君は以下の様に書いています。

 

しかし、『怪談乳房榎』のせいで息子が死んだとの思いが残り、大谷の存命中は歌舞伎座で上演されることはなかった」(松竹と東宝)

 

この話、一見すると確かに大谷の存命中に「歌舞伎座では」怪談乳房榎は上演されておらず本当のように見えますが、実は大谷竹次郎が栄次郎の事故死の原因を怪談乳房榎のせいだと述べている文章は何処にも存在しません。

 

大谷竹次郎が怪談乳房榎について述べたのは後にも先にも後年に劇評家の三宅周太朗との対談で述べた

 

「乳房の榎」もあれっきり出しません。私はあの時舞台で本水を遣ふ「水」を見て、すぐと倅を連想したので、あれ以来あの芝居は出しませんよ。」(俳優対談奇より抜粋)

 

と語っているのみで内容を見てもあくまで「息子の死を思い出すから嫌だ」と述べているだけに過ぎず、この演目が原因だとは一言も述べていません。

 

実はここの部分について室田君は「大谷竹次郎演劇六十年」という本から文体だけ変えて内容を書き写しているのです。

 

具体的にどれくらいそっくりかというと

 

大谷の長男・栄次郎が十五歳になり京都の中学校に通っていたが、夏休みに東京に出て来た。(中略)大谷は栄次郎に同世代の若い役者ががんばっているところを見せようと、舞台稽古を見学させ「お前も児太郎に負けないよう一生懸命に勉強しろ」と声をかけた。」(松竹と東宝)

 

大谷は、当時京都の中学に入っていた十五歳の栄次郎が夏休みで東京へ来ていたのを舞台稽古に連れに来て、「どうだ、お前と一つしか年の上でない児太郎が、かうして立派に鏡獅子を踊ってのけて、お父さんの手助けをしてくれる。お前も児太郎に負けないやう、一生懸命勉強してくれんといかん」」(大谷竹次郎演劇六十年)

 

大谷は〈一生の一番の痛手といふとこれでした〉と後年、振り返っている。〈それっきり芝居の仕事を止めようとさえ思った〉。だが、栄次郎の遺体と共に東京駅に着くと、歌右衛門や新派の伊井蓉峰、河井武雄ら幹部役者が出迎えてくれた。さらに京都へ帰ると、大阪から鴈治郎が駆けつけた。名優たちからの悔みの言葉を聞いて大谷は〈これは仕事のおかげだ、何も大谷がえらいんじゃない。仕事をしているから、それを認めて誰もが皆こんなにしてくれるのだ〉と悟り、仕事を止めようとの思いを断ち切った。」(松竹と東宝)

 

私の一生の一番の痛手といふとこれでした。それで、もうそれっきり芝居の仕事を止めようとさへ思った、ところが日光方面では非常に同乗してくれて、汽車さえわざわざ特別車両を一つつけてくれて東京へ廻してくれる騒ぎです。東京駅へそれが廻ると、夏の暑い盛りを歌右衛門、伊井、河合と一流の役者諸君が揃って出迎えてくれてくやみを言ってくれる、京都へ着くと大阪から鴈治郎その他、駅長まで迎へに出てくれています。これを見て、つくづく私は、これは仕事のおかげだ、何も大谷がえらいんじゃない。仕事をしているから、それを認めて誰もが皆こんなにしてくれるのだと悟ると、これは仕事は止められない。やっと元気を出して仕事を始めた」(大谷竹次郎演劇六十年)

 

とご覧の様に酷い有様です。

さて、上記の様に怪談乳房榎が栄次郎の死の原因だと言い張る室田君ですが元の本である大谷竹次郎演劇六十年には栄次郎と怪談乳房榎の関係についてはこう記されています。

 

栄次郎は父大谷にいましめられた鏡獅子よりむしろ大滝に興味を持ったのではあるまいか」(大谷竹次郎演劇六十年)

 

「(栄次郎の遺体と対面後)日光山を下って行ったが、ふと振り返って大崖道の青葉の影に滝の音を聴いたのである。それは華厳の滝であったが彼の脳裏によみがえってきたのは歌舞伎座の舞台の「乳房榎」の大滝の音であった」(同)

 

そう、元の本で書かれているのはこのたった2箇所であり、しかも大谷の発言ではなく脇屋光伸というライターが書いた推測混じりの地の文章に過ぎないのです。

この件についての大谷のインタビューも掲載されていますが何処にも乳房榎のちの字も出てきません。あくまで栄次郎の死を乳房榎に結び付けているのは地の文を書いたライターの憶測に過ぎないのです。これを室田君は読解力が無いのか、はたまた大谷のイタコにでもなった気でいるのか上記の訳の分からない文章を書いている訳です。

 

因みに延若は栄次郎が亡くなった直後にも関わらず何事もなかったかのように翌月の9月には横浜座で再び演じていてその後も大正12年8月に南座で、昭和2年9月に浪花座でも再び上演しています。

また延若以外の役者によっても乳房榎は普通に上演されており大正10年7月に麻布南座で二代目河原崎権十郎が9月の本郷座では四代目市川九蔵がそれぞれ上演しています。

もし大谷竹次郎が栄次郎の死を乳房榎に原因を求めているとするなら何故そのような演目をよりにもよって栄次郎の死の直後、しかも松竹の経営となった横浜座の杮落し公演で上演を許可したのか説明が出来ません。仮に大谷が公演の演目決めに関与していなくても社長の息子が亡くなって四十九日も経たないうちに亡くなる原因になった不吉な演目をわざわざ上演する意図が不明です。

つまり戦後も長らく怪談乳房榎が上演されなかった理由はただ単に舞台で使う本水を見ると息子の死を思い出す竹次郎が嫌がっただけに過ぎず、大谷栄次郎の死の原因とは全く関係がないと言えます。

上記の事からも栄次郎の死と乳房榎は全くの無関係であり、栄次郎の死を乳房榎が原因の一つと匂わせた脇屋光伸もあまりに短絡的ですし、それを竹次郎の考えかの様に書き換える室田くんに至ってはただの無知蒙昧である事を自ら証明していて何を言わんやです。

 

さて話を元に戻すと延二郎は上記の様に9月に松竹が買収し再開場した横浜座の杮落し公演に出演した後、10月になって大阪に戻り休む間もなく浪花座で父の名跡である實川延若を襲名することになります。

 

この様に一番目の豊公大仏供養こそ不評だったものの、残りの2つは当たった事から今回の公演は大入りにこそならなかったものの、そこそこの入りを収めたそうです。

芝居不向きの月にもかかわらず良好な結果に手応えを感じた松竹は翌年以降も継続的に夏公演を実施していく事となりました。

 

そして大役である春興鏡獅子を見事演じた児太郎は今回の成功で子役から一気に若手女形への道をかけ進み、翌年の五代目中村福助襲名に繋がる事になります。

延二郎、児太郎共に大名跡を襲名する前にその実力を惜しみ無く発揮した実りある公演になったと言えると思います。