私はそもそもオーディション番組は好きな方だと思っていて、

プデュシリーズは少なくとも初回は見ます。

 

No No Girlsというのは、ちゃんみなプロデュースのオーディション番組であり、

今年1月までyoutube等を通じて放送されておりました。

 

私はもう30代半ばの中年男性なので、

ちゃんみなに関する情報もほぼ持っていなく、

 

かつ、No No Girlsのオーディションコンセプト

見た目・体型・声・年齢等に「No」をつきつけられたり、

自分自身を否定してきた参加者たちを、

才能を殺さないで、

世界で活躍できるガールズグループへと導いていく

というのも、なんかちょっと偽善ぽいというか、うがった目で見ており、

 

でも、暇だから見てみるかと思い見始めたわけです。

 

 

まず、最初から参加者のレベルの高さに驚きます。

とりあえず、歌がみんなうまい。

当たり前なんだけど、なんかちょっと普通のオーディションと

ベクトルの違う歌のうまさ。

 

また、通常のオーディションと異なる点は、

体型で様々で、容姿にフォーカスされてない。

要するに、容姿が画一化された美の概念に囚われてない。

 

言葉で読むのと、映像で見るのは、インパクトが全然異なるのですが、

私はそのことに結構な衝撃を受けたわけです。

 

 

一方で、韓国系のオーディション番組になると、

みんな細くて、可愛いことが、暗黙の基準として存在するので、

逆にその基準値から少し外れた、若干太ってる子や、かわいくない子がいると、

 

「太くない?」とか

「歌はうまいけど、かわいくないから落ちるね。」とかが、

 

無意識的に声に出てくるわけです。

 

しかし、No No Girlsは、

私が今まで見ていたオーディション番組の異常性と、

歌とダンスで表現するスキルがいくら高くても

容姿を理由に表舞台に上がることができなかった人がどれだけいたのか、

ということを気づかせ、

 

オーディション番組におけるルッキズムの時代は終わった。

と思ったわけです。(私の中で)

 

 

 

と、軽々しく「ルッキズムの時代は終わった。」と思いつつ、

 

そもそもルッキズムって何だっけ?

 

と自問自答し始めたわけです。

 

 

結論としては、

「ルッキズム」は拡大解釈されすぎて問題の本質がよくわからなくなってる。

ということがわかりました。

 

 

元々の「ルッキズム」という言葉は、

学術的には「外見に基づく偏見や差別」と定義されています。

 

そのため、広義な意味のルッキズムでは、

肌の色、外見から判別される性別、人種、障害者であることによる、

偏見や差別も含まれることになります。

(もちろん、それらはセクシズムや、レイシズムという分類にもなるわけですが)

 

今日議論される「ルッキズム」は

自分の外見が原因で不当な扱いを受けているが、

性別や人種といった問題では回収できないこと、と定義されます。

 

なので、外見を理由に「不採用になった。」とか、

「昇進させてもらえなかった。」とかが、

学術的な「ルッキズム」の例にあたります。

 

また、ルッキズムについては

「許容されて残っている最後の差別」という言い方がされることもあるようで、

 

まぁ確かに考えてみれば、

「外見的に魅力のない人」というカテゴリを作って、

そこに属する人の差別を禁止する法律なんかは作れないですし、

誰もそのカテゴリに入りたくないので、実質的な対処が難しいわけです。

 

 

 

他方、広く昨今一般的に使われている「ルッキズム」は、

「いろんな場面で外見を評価されること自体の不当性」

を指していると考えられています。

言い換えると、「外見至上主義」にあたります。

 

水原希子が「ルッキズム」に触れていて、

「お前が言う?」みたいになったことがありましたが、

自身のインタビューでも丁寧に「ルッキズム(外見至上主義)」と

注釈が加えられています。

(ただ、水原希子くらい美人じゃないと、外見至上主義を批判できないという

 裏返しでもありますね。)

 

※以下、参照

 

 

 

この「ルッキズム(外見至上主義)」という言葉はSNSの普及と共に

インフレ的に拡大した概念であると考えられ、

一般人も大衆に顔を晒し、見た目が大事な評価の一部となっていることが原因でしょう。

 

ここでの「ルッキズム(外見至上主義)」は、

外見の良さだけが最大価値であるかのように語られることへの違和感が

人々にあるから浸透したものだと考えられますが、

そうすると本来的な「ルッキズム」の問題が見えにくくなるという弊害があります。

 

 


水原希子め!!!!!!!!!!!!

 

 

さて、No No Girlsにおける、

「ルッキズム」の時代は終わった。という用法についてですが、

これは学術的な意味での正しい使い方と自分では理解しております。

 

従来(少なくとも私が見ていた)オーディション番組は、

外見に基づく選考基準による、不公正な差別が存在していたわけです。

「ルッキズム」の積極的な肯定ですね。

 

それは、エンターテインメントの性質上、

差別ではないという反論もあるかもしれませんが、

パフォーマンスが人々を鼓舞することや勇気づけることにあるとすれば、

容姿は必要条件ではないでしょう。

 

しかし、その「ルッキズム」の選考基準を外すだけで、

スキルに溢れた、今までチャンスをもらえなかった候補者が集まってくるし、

素晴らしいガールズグループが生まれた(私の感想)というのは、

「ルッキズム」の時代の終わり。だと言えます。

 

No No Girlsからデビューした「HANA」が

これからどれだけ世間に認知されていくかまだわかりませんが、

彼女たちが新しい形のガールズグループとして活躍することは

ルッキズムを含む、不公正な差別を受けた人たちに、

勇気と感動を与えると思っています。

 

 

ご興味ある方は是非youtubeで。

 

 

 

参考文献:現代思想 2021年11月号 特集=「ルッキズムを考える」

https://www.amazon.co.jp/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%80%9D%E6%83%B3-2021%E5%B9%B411%E6%9C%88%E5%8F%B7-%E7%89%B9%E9%9B%86-%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AD%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%82%92%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B-%E8%A5%BF%E5%80%89%E5%AE%9F%E5%AD%A3/dp/4791714210/ref=sr_1_1?crid=1IFIR93KCF8S9&dib=eyJ2IjoiMSJ9.IYow0nsUa3j7m13vfH-ygO9ngEgaGeBRDxEzDBT6Z391n5-tv5kX9cErJyqI3RAm9bkJwQyL9ecGybcHv0_S0Emes1N7GgnkLSSIMxZurt1_GOLK6Z5t5yeREUM_Qrh2msCvceIbL9XXGfMNxfTd34AGXzXaDmGabZJJ9v3d3RccsHzx6vL1bwsaa-qxCHSTk2pS4C8w_0jFXJNgrsbqs-Jc5P_f4eG7qsSdlDnhL-Y.8JWq-XmehTOEY5J47GSr_Pvh46TJ1V524pmk32L0NpA&dib_tag=se&keywords=%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AD%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%82%92%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B&qid=1744119355&sprefix=%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AD%E3%82%BA%E3%83%A0%2Caps%2C145&sr=8-1

 

 

皆さん、感じていますか?風の時代の到来。

 

 

 

最近、副収入か何かによって大いなる富を築いているであろう知り合いがいて、

その人について(悪い意味で)言及していたら、

 

「今はね風の時代だから。」と友人に言われました。

 

 

 

(………?)

 

ヘルベルト•フォン•スダヤン on X: "ドラマから流行語大賞、というのなら 「ふてほど」 よりは 「虎に翼」「とらつば」 じゃないかなあ。  セリフなら「はて」「すん」 いや、「不適切にもほどがある」も最高に楽しかったけれど。知名度なら朝ドラかも。 https://t.co ...

 

 

 

「そうやってね、ネットの普及や、新しいメディアの形によって

 急にお金を稼ぐ人が増えてるでしょ。それが風の時代なんだって。」

 

 

と、説明もされて、

元々「風の時代」については、小馬鹿にしている側の人間だったのですが、

『あぁ、そういう時代性のことを風の時代としてラベリングしているのか。』と

妙に納得したわけです。

 

 

 

で、ブログの内容としては、もうこれ以上でも何でもないのですが、

私の心の動きと、認識したことによる納得感について、心理学的な観点で

理解が進んだので、キーボードを叩いています。

 

 

 

まず、そのために「公平世界信念」について、お話しようと思います。

 

 

 

新興宗教っぽいですね。

 

 

公平世界信念というのは、

「世界は基本的に公平で、良い行いには報いがあり、悪い行いには罰がある」

という信念を、人々が持つ傾向にあるとする社会心理学的な理論です。

 

 

桃太郎でいうところの、

人々に悪行を働く悪い鬼は→退治される

悪い鬼を退治したから→桃太郎は金銀財宝をもらえる

という感じです。

 

 

 

また、こうした信念に基づき、人は出来事に対して何かしらの推論をすることがわかっています。

 

 

例えば、

車の運転中に街路樹が倒れてきて、運転していた男性がかなりの大けがを負ったとして、

 

その男性が、窃盗の罪で起訴されて判決待ちの人間である場合、

『この事故が起こったのは男性の日ごろの行いのせいだ。』と推論をして、

 

 

一方で、事故に遭った被害者が、周囲から尊敬される善人であった場合、

『この事故の経験を糧にして、より良い人生を送るに違いない。』と

将来的な埋め合わせを予想するわけです。

 

こうした非合理的で直感的な因果推論は幼少期においてよく見れて、

成長するにつれて、より論理的な因果推論をするようになるそうですが、

感情が高ぶっていたり、あまりにも不公正の程度が著しい場合には、

こうした非論理的な推論が行われやすいそうです。

 

 

この信念には、宗教的な思想なども関係しているようですが、

無宗教が多くを占めるにも関わらず日本人はアメリカ人よりも、

この推論をする傾向が強いようです。

(昔話などの勧善懲悪の世界観に子供のころから慣れ親しんでいるからという説もあります。)

 

 

 

 

さて、で、何が言いたいかというと、

 

 

この推論は色んなところに適応可能で、かなりの納得感を得られることに気づきました。

 

 

 

例えば、youtuberやtiktokerが急に収入を得て、大金持ちになっている場合、

『これは努力や才能の枠を超えて、ある種の運やトレンドによって成功を収めているだけでは?(どこかでうまくいかなくなるに違いない)』

と、疑念を感じ、

 

 

そういう人が不意に足元をすくわれると(例えばフワちゃんとか、てんちむとか)、

『やっぱり!そういう人にはこういう結末がまってるんだ!』と妙に納得したり。

 

 

 

逆に、水泳選手の池江璃花子選手が白血病になった時は、

『こんなに頑張っている人がかわいそう!報われてほしい!』と感じ、

 

 

パリ五輪への出場が決まった時は、『あぁ!本当に良かった!』と思うわけです。

 

 

 

 

 

ただ実際のところ、

それらについては、別に因果関係は無いわけです。

 

 

 

そして、こうした公平世界信念的な思考が悪いほうに働くと、

 

似たような仕事なのに外資だからって、そんなにお金もらえるの?とか、

 

 

私のほうが良い大学出ているのに、あんなFラン大学卒が

あんなに良い会社に転職しやがって。とかそういう風になるわけです。

 

因果関係が見いだせないから。

 

 

ただですね、そうやって暮らすのってどう考えても

精神衛生上良くない。そういう人たちがヤフコメ民とかになるわけです。

 

 

ただ、それらを解決する、また新しい心理的な作用が存在し、

それを「システム正当化理論」というそうです。

 

 

 

自身が感じている現状の不公正を、公平世界信念のみによる

ふさわしさの視点のみで認識しようとすると、

自己非難や劣等感にさいなまれてしまうので、

 

それらに対して心理的に折り合いをつけようとするプロセスを

「システム正当化理論」と言います。

 

 

現状のシステムを「公正」なものと無意識的に合理化することで、

心理的安寧を得る効果があるそうです。

 

 

 

例えば、パワハラが横行している会社に就職したとしても、

『この業界はそもそもパワハラが多いから、仕方ない。』と考えたり、

 

不当な差別などを受けていても、

『そういう社会なのだから、変わらない。』と考えたり、

 

 

そうすることで、不公正や不安定な状態を、システム全体として構造的に

そうなんだと理解し、心理的安寧を得られるようです。

 

 

 

 

そこで、私は思ったわけです。

これが風の時代だ。と。

 

 

 

 

 

何となく、構造化されている。

 

新しい方法で、思いもよらない手段で、富を手にする人がいて、

でも、それは既にシステムとして成立しているのだろう。という

無意識か、やんわりと感じているものを、

時代として区切ることで、ラベリングしている。

 

それが「風の時代」ってことか。と思ったわけです。

 

 

 

別に、スピ由来な純粋な風の時代の定義とかはどうでもいいのですが、

どこかに、新しい時代、新しい構造を区切るアイディアがあることで、

そのシステムを受けいれやすくする作用があるんだと感じました。

 

 

同様の作用として、日本においては元号が当てはまります。

 

「もう令和だよ?」とか、

「いや、それ昭和すぎるでしょ。」とかも、

原理としては同じで、

 

もう既にシステムが変わっているし、慣習が変わってきていることを

元号が無い場合においては、それを無意識的に何となく感じるはずですが、

(もしくは、90年代、とか、00年代という区切りなのかもしれません)

 

それらをラベリングして、言語化することで、無意識から意識として、

認知し、既存の秩序を正当化するわけです。

 

 

ただ、グローバル化がこれだけ既に進んでしまった世界ですから、

日本のみの元号で、世界の変化を語ることはできないため、

「風の時代」のほうが地球単位では納得感がありますよね(無いけど)。

 

 

こうして、

「今はね風の時代だから。」という言葉に何となく納得感が得られることは解明できたものの、

それが私たちが無意識的に新しい秩序を正当化して

心の安定を図っているのだとしたら、それで良いのか。と

立ち止まることも必要なのかもしれないですね。(は?)

 

 

私は静岡出身ですし、物心ついた頃から「さわやか」のハンバーグを食べており、

「さわやか」のハンバーグは故郷の味であり、間違いなくおいしいです。

 

 

さる中、たまに

「さわやかのハンバーグはそこまでおいしくない。」という意見などを耳にすると

 

 

え?いやいやいやいやいやいや!

さわやかのハンバーグ!ファミレスのハンバーグですから!

そもそも、あなたが勝手に持ち上げて!勝手に下げてるだけですから!!!!

やめてください!そういうものじゃないですからね!勘違いしないでくださいね!

 

と私の中のさわやかハンバーグ過激派が目を覚まし、叫び始めるわけです。

 

大体、好意的な感想を耳にすることが多いですが、

なんていうか、それでもなお、おいしいんですけど、そういうものじゃなくて、

もうほんとガストにハンバーグ食べに行くくらいの気持ちでさわやかに触れ合ってほしいんですよ。私は。

 

 

で、本題に移ろうと思いますが、

最近見ますね。MBTI。ESFJとか、INFJとか。

で、見ますね。

 

「えー!ESFPだってー!あたってる。うける。」とか、

「全然あたってない。」とか、

「こないだやった時から、結果変わってた。」とか。

 

 

そういうものじゃないから!!!!!!!!!!!!!!

そういうものじゃないから!!!!!!!!!!!!!!

 

大事なことなので2回言いました。

 

 

 

私はMBTIの正式な団体「MBTI協会」が行っているセッションに15000円ほどのお金を

支払い参加したことがあるほど、MBTIへ傾倒していた時期があり、

勝手に脳内で「こいつは絶対INFJ。」とか決めつけながら、人とコミュニケーションをとっていました。

(今でもやる)

 

 

また、MBTIタイプ入門という、セッション受講者が強制的に購入させられる教本などもあり、

このありがたい御本にははこう記されているわけです。

 

 

「MBTIの実施・利用そのものの誤用は、人の成長を妨げたり、心を不要に傷つけることにもなりかねません。

 当然MBTIを占いやゲームのように用いることは厳禁です。」

 

 

お前ら!MBTIは占いやゲームじゃねぇんだよ!!!

人の成長を妨げるんだぞ!!!!

 

 

(と言いつつも、MBTI自体は心理学として確立された学問でもないので、占いと大して変わらないという批判もあります。)

 

 

 

では一体、MBTIとは何なのかということですが、

自己理解と他者理解のツールということになります。

 

そのため、質問事項に解答して出てきたタイプはあくまでも目安であり、

その後は自分の性格や行動と照らし合わせて、自己で診断されたタイプを変えることができます。

 

 

MBTI協会主催のセッションに参加すると、最初は診断テストを受けたのち、

診断結果に基づいてグループワークを行い、いかに人の考え方が違うか、や

同じ性質の人が集まると議論があまり進行しない、ということを身をもって体験します。

 

 

私は、人類は皆自分と同じ考え方をしているのだろう、と28歳くらいまで思っていて(ヤバイ)、

 

そのため、

「なんでこの人たちは意味がないとわかっていながら、雑談を永遠にできるんだろう。」とか、

「え、どっからどう見ても大丈夫なのに、なんで大丈夫?ってこの人聞いてくるの?偽善?」とか

世の中を歪みきった視点で見ていたのですが、

 

あー、考え方の癖が違うだけか、と改めて気づかされたのが、MBTIを受けてからになります。

 

 

ようするに、自分はこういう考え方をしてしまう癖があるんだ、とか、

この人はこういう考え方の癖があるから、こういう発言になっているだけなんだ、とか

そういうことに気づかせてもらえるツールとしてMBTIを使うことが正しい使い方になります。

 

職場の会議なんかでも、よくあると思います。

「こいつはなんでこんな頭が悪いんだ、そんなこと今関係ないじゃないか。」と思ったりすること。

でも、相手からもあなたはそう思われてる可能性もあるわけで、

それも単に考え方の癖や、大事にしている点が違うだけなんですよね。

 

そう思うと、たとえ効率的じゃなかったりしても、相手が大切にしたいことはなんなんだろう。と

まずは考えてあげることができると思いませんか。

 

 

また、昨今流行している診断ツールの弊害は、他の診断結果が見えにくい点にあるのではないかという風に考えています。

MBTIには各タイプを一覧で載せた表(4×4)があり、自分の診断されたタイプと他のタイプを比較することができるので、

もしかすると自分はこちらかも?という風に他のタイプを検証することが可能です。

 

そのため、そもそも診断結果に「合ってる」とか「合ってない」という概念自体が生じません。

 

 

私も一度自分のタイプを変えましたが、最初の診断結果から3年後くらいに気が付いて、

自分の判断により、自己認識を変えたということになります。

 

なので、診断ごとに、とか、一日ごとに、とかで自己のタイプが変わるものじゃないです。

自己認識が毎日ころころ変わる人、普通に怖いですよね。

 

 

 

一方で、人はとっつきやすく、理解しやすいものを消費する傾向にあることも十分にわかっており、

こうしてほとんど誰も読まないブログで声を上げたところで、マスに勝てない....ッ!!!!!!ともがきながらも、

さすがに、この潮流に口を出さずにいられなかったため、キーボードを叩きました。

 

MBTIを誤用している人がいたら、あぁせっかくの人間的成長の機会を逃している可哀想な人。。。。と

冷たい目で見る側の人間に皆様がなるよう、お祈り申し上げます。

 

 

 

(私はINTPです。)

 

若い時は何かとブレやすい。

 

 

私も20代半ばあたりは、色んな人(主にホモ)から色んな影響を受けて、

(もっとオシャレにならなきゃ!)

(もっと筋肉つけなきゃ!)

(もっとお金稼がなきゃ!)

と、日々なんか漠然とした向上心というか、なんか葛藤をしていたわけです。

 

オシャレな人は見たらわかるし、筋肉だって見たらわかる。

お金を稼いでいる人は何故か年収とかをいきなり喋り始める。

 

 

そもそも、私は根っからの負けず嫌いで、自慢はしないまでも

自分がある程度保障された立ち位置にいないと嫌な性格であるせいで、

そのホモからの圧から多大な影響を受けていたわけです。

 

 

で、そのホモから感じる圧に関して、自己の思考が歪むので、

ホモの瘴気と心の中で呼んでいました。

 

しろちち@C103日曜西け28b委託 on X: "即ち、「汚染耐性」と言いながら、ナウシカ達は腐海の瘴気 には耐えられず濃度によっては即死してしまいますし、直接瘴気に晒されずとも、長期的に大地の毒が体内に溜まった結果生じる「石化の病」からは逃れられません。  https://t ...

(自称年収3000万のホモに出会った時の私)

 

 

 

感じていたホモの瘴気と現時点でのもう少し大きな視点での分析に

一定のまとまりが出たので、今これを書いています。

 

 

ホモの瘴気の正体は、心理学用語でいう外的適応というものだそうで、

外的適応:家庭、学校、職場など社会や現実の要求に応じて、

     役割を守って実際に行動すること。

 

ということだそうです。

 

 

ホモの小さなコミュニティというのは、同じ価値観を共有していることが多く、

例を挙げるとすると、私がアジアのパーティーホモと呼称している、

アジアで行われるホモイベントに必ず参加するホモのコミュニティは

以下の価値観を共有しています。

(ただの主観です。個人的な意見ではなく、個人的な意見です。)

 

 

 

左下は人権が無いと共に、物体としては認知してもらえません。

また、このコミュニティは最も関係性が希薄であるため、重要視されるのは見た目のみ。

あとは、おちんちんが大きければ、みんなが欲しがる最高のセックスのおもちゃになれます。

 

ただ、共通の価値観として、セックスのおもちゃとしてしか相手を見ていません。

みんな最高のセックスのおもちゃとセックスするために自分を右上に持っていきます。

そして、自分も最高のセックスのおもちゃになるわけです。

 

 

また別の例として、よくあるホモのコミュニティとして、

もう少し関係性が深くなってくると、可視化しやすく評価しやすい要素として収入が追加されます。

 

 

 

これも価値観としての一つのサンプルとなります。

この価値観に属するコミュニティも、やはり右上に行くほほベターであり、

市場価値が上がります。

 

 

何かしらのコミュニティというのは、共通の価値観を共有し、

右上に行く(そのコミュニティから尊敬や、一目置かれようとする)ことが

外的適応ということになります。

 

また、このコミュニティと同様の価値観を有していなくても、

周囲が一定の価値観を持っていると、

その価値観に適応しない限りは相手の価値観を変えるほうが困難なので、

そのコミュニティからは軽視される原因となったりもします。

 

 

で、私は漠然と、右上に行くことが幸せになるための近道なのか、

という疑問を呈していたわけですが(自分の中で)、

単なる自分の負け惜しみなのでは?とも思ったりしていたわです。

 

 

それを解く仮説として、登場します。皆さん大好きマズローの欲求5段階説。

 

 

要はかなり単純で、ホモの瘴気にあてられたとして、自己を向上させようとしたとしても、

4段階目の「承認欲求」しか満たすことができないわけです。

 

また、ホモは安定的なパートナーを見つけられないことも多く、

「社会的欲求」と「承認欲求」を満たすことに模索し、

「自己実現」のために必要な、

本当に自分がやるべきことは何なのか?

どういう生き方をしていくべきか?という

思考に到達できないことも多いのでは、と考えたわけです。

 

 

 

加齢に伴い、人間が抱える課題として、いかに「外的適応」から「内的適応」に

切り替えていくかという点も挙げられるらしく。

所説ありますが、少なくとも「自己実現」を満たすためには、

「内的適応」をしていく必要があるようです。

 

内的適応:自分の心・気持ちなど内面からの期待や欲求に応えることで、

     幸福感や満足感を味わい、自己受容により精神的な安定を図る。

 

 

ホモの瘴気にあてられてるな、、、、と感じたときは、

一旦そこから離れてみて、自己につけれられているレッテルが無くなっても

そのまま仲良くしてくれる人は誰なのか。とか、

 

自分が生きていく上で重要視することは何なのか、

そのために何をするべきなのか、という点に向けて日々行動することで、

結果として、自己実現の欲求が満たされると思うわけです。

 

 

幸せの定義というのは人それぞれですが、

ホモの瘴気にあてられていると、結果として自己実現の欲求は満たされないのかぁ、

というのをマズローの欲求5段階説から感じたのでした。

 

 

以上

 

 

最近、イギリスに留学していた時に知り合った人と

再会する機会に恵まれている。

 

再来週にも留学中の友人が日本を訪れることになり、

会う予定になっている。

 

ただ、メッセージで

「その週は私の誕生日です!お祝いできたら嬉しいな!!!」と言われ、

 

(お祝いって何。。。。?シャンパン開けるってこと??

 え?何を期待してるの???)となり、

 

別にご馳走は、そもそもするつもりだったんだけど、

誕生日のお祝いって人によってレベルが違うので、

永遠にモヤモヤし続けているという話です。

 

 

 

私個人としては、誕生日はお祝いをされたくない寄りの人間で、

SNSからも誕生日情報は全て隠すように努めています。

 

ここからは個人攻撃ではなく、本当に個人としての意見であるので、

変な感情を抱いてほしくないという前置きをしつつ、

(そういう前置きをしながら、個人攻撃であるケースもあるので、

 世の中は難しいですね。)

 

SNSで誕生日に気づくような間柄の人に、

誕生日を祝われても別に嬉しくないという考えが第一にあります。

 

まず、「誕生日を祝う」という行為自体が

「その人が生まれてきて嬉しい、生まれてきてありがとう」という

感謝を込めて行うものだと考えています。非常に重い考えです。

 

その最たる例として挙げられるのが、

「親から子への誕生祝い」であり、

「子から親の誕生祝い」ということでしょう。

 

あなたが生まれて嬉しい。

あなたがいなければ私がいなかったありがとう。

ということだと考えています。

 

 

 

 

しかし、成人になるに連れ、子は親から自立し、

人生のステージは移っていくわけです。

 

そして、家族よりも友人や恋人と会う機会が増えていくにつれ、

本来の主旨が形骸化し、

「トリアエズ トモダチ タンジョウビ イワウ」という、

短絡的な誕生日祝いになっているのではないかと推測します。

 

私としては、形骸的な誕生日祝いよりかは、

日ごろから遊んでくれるとか、食事をしてくれるとか、

何気ない気遣いをしてくれるとか、そういうことの方に

重きを置きたいので、長期的な視点で見たときに、

誕生日というものは点でしかなく、重要性は低いわけです。

 

そのため、自分に対して誕生日祝いをしてもらう必要が無いと考えています。

 

ただ、お世話になっている相手に、

好意を示す手段として誕生日を祝うというのは効果的であるため、

近しい友人や恋人の誕生日は「お祝い」というほどのことはしませんが、

食事をするとか、手紙を送るということはするようにしています。

(牧場物語でも誕生日にプレゼントを渡すと効果が高いですよね。あれと同じです。)

 

 

 

 

こうした、自己の誕生日に対する考え方とは別に、

もう1つは誕生日に対する価値観の差異により、他人ともめたく無いため、

自分の誕生日を祝ってもらいたくないという考えもあります。

 

図示すると、世の中の誕生日に対する主義は四分類することができ、

以下のようになります。

 

 

厳密には、「誕生日を祝いたくないけど、祝われたい」という人間も

いるかもしれませんが、そういう人は世の中の摂理から逸脱している人間なので、

除外します。

 

 

このうち①について、私は「誕生日過激派」と呼んでいます。

 

 

このゾーンに属する人は「誕生日過激派」が全員を占める

グループに属していない限り、誕生日を祝うことを推奨していません。

 

このグループで年間を通じてひっきりなしに行われるのは、

誕生日を祝う連鎖です、一度誕生日を祝ったら最後、

永遠にそのループから抜け出すことはできません。

 

私はそういうグループを見たことがありますが、

やはり過激だなと常々感じていました。

 

こうした集団は、誰の誕生日のほうが豪勢だった、とか、

手がかかっていた、といったやはり本来の誕生日の主旨からは逸脱したことで、

揉めたりするケースも散見されます。これも形骸化の弊害ですね。

(私の誕生日にはビデオメッセージが無かった!!!!とかもあります。)

 

 

そして、この「誕生日過激派」と相性が悪いのが、

②誕生日を祝ってもいいし、祝われなくてもいいの「日和見主義者」です。

 

この二つの主義は非常に相性が悪いです。全体的な相関性は以下の通りです。

 

 

 

②はそもそも積極的に祝われに行かないスタンスなので、

①と対立することがありません。

 

③の「日和見主義者」は、「誕生日過激派」ほど誕生日に対する

情熱が無いくせに、祝われることに疑問を感じません。

 

「まぁ、なんか祝ってくれるみたいだし、いっか~。」

くらいにしか考えていません。

 

誕生日過激派に祝われたら、永遠のループに取り込まれるとも知らず、

両手を広げて誕生日祝いを享受します。

 

しかし、そうするとどうなるでしょうか、

誕生日過激派としては、もちろん誕生日を祝ったのだから、

こちらの誕生日を祝ってもらえると信じています。

 

ただし、日和見主義者としては、

実は誕生日にそこまで重きを置いていないケースが多いです。

 

誰かが企画してくれたら。とか、タイミングが合えば。

くらいにしか考えていません。

 

その結果、誕生日過激派の誕生日を祝わないことにより、

両者間で揉めたりします。

 

こうしたことが世界で多分1秒に1回くらいの頻度で発生していると、

非常に強いバイアスの上で確信しています。

 

ちなみに、②と③の間においては、誕生日に対する比重が重くないので、

双方揉めることはありません。

④は地蔵なので、どこふく風です。

 

 

 

私は「誕生日過激派」に対して、

ネガティブなイメージを持っているかというとそういうことではなく、

個人の思想なので尊重するべきだと思っていますが、

その誕生日無限ループには取り込まれたくないので、

誕生日を祝われることは積極的にお断りしています。

 

何事も人には大切にしたい主義主張があります。

「クリスマス過激派」とか、「記念日過激派」とか、

クリスマス過激派に巻き込まれて、テロを受けた結果、

破局に至ったケースも今までありました。

 

そんな私は「お正月過激派」です。

お正月最高ですよね。あと3か月もしないうちにお正月です。

身を清め、おせち料理の準備をしながら、除夜の鐘を聞く。

痛みを少し感じるピリッとした寒さの中で飲む、甘酒がたまりませんよね。

 

あー!早くお正月こねえかなーーーーー!!!!