「ありがとう」と~~きみにーーーいわれ~~ると

 

なんだぁぁあか せぇええつなあぁあああい

 

 

 

 

って感じで。はい。

 

 

智子(母親)、現在絶賛失踪中です。

 

 

皆さん見ましたか!?

Tシャツが乾くまで

(巷ではTかわって言うらしいですね。ちぃかわっぽくてかわいい!)

 

 

 

そう!智子も!失踪しております!サザエでございます!

(でも元気です!安心してください!)

 

 

 

世の中には、本当に失踪する人いるわけなのですが。

 

 

 

 

 

この失踪と、私の性格と、ブログをそんなに書かなくなったことは

関係ないようで密に関係しておりまして。

 

 

 

 

 

気づけば私が小学生の時から智子はよく失踪していたわけです。

 

なんかどこにいってんだか、死んでんだかよくわからず。

 

 

私は子供ですので、やはり親がいきなり生死不明の連絡が取れない状態というのは

なかなか堪えるわけです。

 

 

(なんてかわいそうな私!!!!)

 

 

マンションの階段の踊り場から

母親の携帯に何回かかけて、ようやく繋がって、

(生きてたぁ;;)なんて、安心するわけです。

 

 

 

で、突然ある日帰ってきて、良かったぁ、、、

なんてなることを数回繰り返しました。

 

 

 

 

自分が中学3年あたりから智子はうつ病を発症し、失踪を経て入院。

退院して帰ってきたころにはこいつは誰だ。というくらい

チルな女になっていたわけです。放任を超えた放任。

薬でキマったチルBBA。

 

 

そのころから、母親、、、、というより、一人の人間としての

チルBBA「智子」が私の中で誕生したわけです。

 

 

上京と共に、チルBBAからの呪縛を逃れ、青春を謳歌していたわけですが、

色々な事情により、齢32にして智子と同居を開始。

 

 

そして、去年の今頃ですが、

智子が極度鬱の最中、遺書をラインに残して、突如失踪したんですよね。

ちょっと重すぎるのと、智子にも関わる問題なので、

あれなんですけど。

 

 

 

さすがに動転し警察に相談すると共に、智子に電話をかけまくったわけですが、

それと同時に幼少期に失踪する母親のことも思い出したわけです。

 

 

 

 

(あーーーこんなこと、昔もあったなーーーーーーーピェン)と。

 

 

 

 

同日に、浜松市の海岸沿いで智子は警察に保護されたわけですが、

私にとっては、色々と自己を見つめ直す機会ともなったわけです。

 

 

 

 

 

私は別に心理学者でもなんでもないですし、

幼少期の経験が人の人格を必ずしも形成するとは思っていないのですが、

母と子の繋がりというのは、やはり人間関係形成の基礎となると考えることは、

大きくは間違っていないとは思っています。

 

 

 

 

 

まぁ、今思うと

人間関係の面で色んな不自由なことあったんですけど。

 

 

タイトルにあるとおり

「ひさしぶり」って言われると、

なんか胸に刺さるような感覚があって(厳密には過去形)、

 

 

「ひさしぶり」を重く取り過ぎてたんですよね。

相手が望む頻度で自分が会ってないことを伝えられてるように感じていて

(もちろん、笑顔でひさしぶり!と返しますが)

 

 

なので、人が離れていること、

もしくは、自分の気持ちが人から離れていること、

に対する過剰な反応があったのかなと感じます。

 

 

そのせいで、

なるべくならば、突然人間関係の距離を近づけたくないとか、

「ひさしぶり」と言われない程度の距離感で関係を長く続けられると安心とか、

そういう人との関わり方の癖があったと思っています。

 

 

 

 

さて、今現在ですが、

「智子」が昔のトラウマを呼び覚ましてくれたおかげで、

今は本当に人間関係、オールオッケーです!

あ、嘘です、嫌いな人もいます!それも含めてオッケーです!

上司はクソ!!!!!!!!!!!!!

 

 

 

仮に原因が智子であろうとなかろうと、

人が失踪するとか、いきなりいなくなるとか普通無いんで!

 

いや、あるけど、あるけどね。生きてると

 

 

でも、どこかで多分人は乗り越えられるんじゃないかな。

多分、その一つの経験を全部にあてはめてると、

人生の楽しいこと、少しずつ失っちゃうわけで。

 

 

 

だから、たくさん「ひさしぶり!」って言えばいいし、

それってあなたに会えてうれしい!ってことだし、

そんな単純なことよくわからずに、物事をこねくり回して

くさくさ考えて生きてたから、

くさくさしたブログを書いて発散していたわけです。

 

 

あれはですね、魂の叫びだったわけです。私なりの。

「私を知って!!!!!!!!!!!!」という。

 

 

今は、正直そういう負のエネルギーがもうなくて、ブログを書くことも

なくなってしまったので、全然書いてなかったわけです。

というか、そもそも私自体を全部外に出してます。今は。

そのまま。

 

 

そんなに人って他人のことどうも思ってないし。そもそも。

し、別に普通に見た通り、会った通り感じてくれればそれが真実です。

よろしくお願いいたします。

 

 

 

さて、智子ですが、

去年の失踪事件からほぼ1年ほど入院し、先月?退院しました。

 

 

 

彼女は単なるうつ病ではなく、

躁鬱病なので、広末涼子だと思ってあげてください。

 

 

 

退院するのは、普通元気になったから退院するわけですが、

元気なわけではなく、躁状態だったのです。

その辺、もうむずいすね。躁か鬱しかないです。智子は。

 

 

 

皆さん躁のイメージつきづらいと思いますが、

だいたい夜中の4時に寝て、朝6時に起き、

スーパーでいきなり10袋分、約8万円の買い物をし、

一日中どこかに電話をかけまくっているような状態だと思ってください。

 

 

 

それが躁です!!!!!!

同情するなら金をくれ!!!!!!!!!!!!!

 

 

 

そして、ある日、さすがに金がやべぇだろ!普通に!

となり、大喧嘩の末、

 

智子は「一人になりたい!!!!!!!!!!!」と発狂し

失踪しました。

 

 

 

 

3日ほど経ったころ、電話もつながらなくなったため、

さすがに死んだか。やべぇ。となり、

 

 

躁とはいえ、精神病、

竹内結子も家族で食事中にクローゼットで亡くなってたって聞いたし、

と思い、警察に届け出を出しました。

 

 

 

そして、そのことを本人に伝えたところ

突如ラインが既読になり、

 

「今は一人で元気にしています!

 今は自分のためにお金を使って幸せです!!

 10月末頃には帰るので、届け出は取り下げてください!!!」

と書いてありました。

 

 

ということで、元気です。元気に失踪しています。

私ですか?私は疲れてます。お気遣いありがとうございます。

 

 

 

 

さて、話は続き、我が家はプライバシーのため、

智子と私の自室には、外側に鍵がかけられるようになっています。

 

 

「一人になりたい!!!!!!!!!!!」と出ていった智子ですが、

自室には鍵をしっかりかけていかれました。

失踪から、既に1週間が経過しました。

 

 

 

 

そして、数日前から、家の中で異臭がし始めました。

どうやら智子の部屋の中には買ってきた生肉が取り残されているようです。

 

 

 

なので、今私は鍵の救急車を呼んで、

鍵を壊してもらうのを待ちながら、このブログを書いています。

なぜなら、このタイミングで書くのがふさわしいと感じたからです。

 

 

 

あと、なんか今までのブログはちょっと賢く思われたいとかそういう

邪念がありましたが、もうそういうのもありません。

 

 

 

 

It's ME!!!!!

 

忘年会シーズンですね!どうですか!飲んでますか!?

二日酔いにならない薬開発してもらえませんかね!?

 

 

先日、既に退職している入社当初の上司と、現在同じ部署にいる50代女性と

3人で飲んだのですが、あんまり楽しくなかった。

 

 

 

私は基本的に飲み会はプライベートでも、職場飲みでも、

一律に楽しめるタイプですし、

「そもそも楽しめるように自分はベストを尽くしたのか。」と内省する

謙虚さも持ち合わせていますし。(?)

 

一方で、その飲み会に関しては、まぁなんか飲み会の最中に、

別に「うわー、つまんねー。」とかそういうことになるわけでもなく、

なんか終わった後に、

じんわりと「え、なんかなんだったのこの時間、、、」となる飲み会で。

 

 

まぁ、そもそも飲み会の主旨が、

「うちの会社で失われたビジネスが、なぜ無くなったのか

当時ビジネスをしていた人に聞いてみよう!」というものだったので、

どう考えてもつまんなさそう感は全然否めないのですが、

俺ならそれすら楽しめる!!!!

という意気込みで挑んだのが良くなかったのかもしれません。

 

ということで、

ここで何故面白くなかったのか分析した結果をお伝えしようと思います。

結論としては「今を生きていない飲み会」だから

なんですけど、以下箇条書きでまとめます。

 

 

1.昔話と世代ギャップのせいで誰の話かわからない

 

伝統的な日系企業あるあるだと思いますが、

会社飲みで大して仲良く無い人が会話する時って、

共通の知り合いの話を永遠に話して、今はどうなったらしい。とか

当時は何をしていたよね。とかそういうなんか事実ベースを

ひたすら並べるだけで時間を殺すというテクニックがよく用いられます。

 

 

 

当の本人たちは別に目的が一致(時間を殺す)しているので、

いいんですけど、それを傍から聞いている20歳くらい下の自分としては、

「えーそんな人がいたんですね!」としか言うすべが無く、

まぁそれはそれで僕自身はいいんだけど(入社してからずっとやってる)、

いい歳した大人がそのコミュニケーション術でいいの。

一人完全に取り残されてる人おるけど。とは思うわけです。

 

 

 

例えば、プライベートにおいても、

3人中2人しかわかんない話題って極力避けるか、

本当に話す必要があれば、一言挟んだりしますよね、

「ちょっとごめんだけど」的な。

 

 

 

その構図がわかっていながらも続けるってどうなんだろ、と

感じるわけですが、次に、

 

 

 

2.コントリビューションの非対称性+無関心

 

という問題があり。

 

ようは、別に年齢が下であれば下であるほど、

誰かが話についていけなくてもいいわけです。

 

特に、かつての上司部下の関係ですから、

それも仕方ないですよね。

 

 

 

これも、普通なら会社飲みであってもプライベート飲みでも、

あんまり発生しないことだと思います。

飲み会自体が「懇親」を目的としているので、

誰かが置いてけぼりとかにならないように

各々が基本的には気を使っていることが前提にあるから

じゃないかと思います。

 

 

 

で、なんか結構地獄だったのが、

今同じ部署で働いている女性が、

「●●くんはなんか運動で頑張っているのよね!動画とか見せたら?」とか

言われて、

 

 

(絶対興味無いやろ。このおっさん)と思いながらも、

動画を見せるわけですが、

 

 

「へーこれは難しそうだね。」という反応は返ってくるが

いくらでも広げられるトピックスではあるとは思うものの、

(いつからやってるの?とか、なんでやってるの?とか)

別にコントリビュートする必要もなく、関心も無いので、

そこで会話は終わるわけです。

こちらの身を削り損というか、個人情報の出し損みたいな感じになるわけで。

 

 

3.その場にいる個人に意識が向いていない

 

終盤になると、50代女性の「私は降格されたショック」みたいな話になり、

(どう反応したらいいんや。)と困る私でしたが、

 

 

退職したおじさんと、降格されたおばさんとの飲み会だから、

多分誰も今の自分にフォーカスされたくなくて、

結局は昔の組織とか、人間の話に終始していたんだなということに気づく。

 

 

いや、別に趣味の話とかしたらいいんじゃないですか。と思うんですけど、

サラリーマンはなんか当たり障りのない会話をするスキルを

磨きすぎているのかもしれない。

 

 

いや、もしくは本当に昔の組織か、人間の話をしたいのかもしれない。

 

 

で、結局終わってみると、

別に相手のこともよくわかんないし、自分のことを話してみたものの

特段広がっていくわけでもないので、では、質問役に徹するかとなるわけで。

 

かといって、

「○○さんは週末何してるんですか!?」とか、そういう話をするのも、

なんか変な空気感があった(気がする。)

と思うと、なんか自分のせいだった気もしないこともない。

 

 

 

が、冷静に考えると、

このおじさん昔から全然面白くないおっさんだったな、とか思って。

こうやって色々言語化しようとしてみたものの、

単純につまんないおっさんと飲んだからつまんなかっただけかもしれない。と

思ったりもする。

 

 

「1月も飲もう!」と言われたが、

つまんなかったので、もう行きたくありません。とはっきりお伝えしようと思う。

数カ月前に

「クロスフィットをテーマにブログ書いてよ。」と 

リクエストをいただきました。

 

そこから、僕も

『そもそも、なんでクロスフィット続けてるんだろ。』と

ぼんやり考えていました。

 

 

一般的に言われてるようなクロスフィットの魅力を挙げても

単なる二番煎じになっちゃうし、ということで、

自分なりの観点で書きたいなと思っていたら、

気づけばこのタイミングになってしまいました。 

 

 

 

まず、僕は幼少期から体が弱く、小児喘息もあったため、

運動をまともにさせてもらえず、蝶よ花よと過保護に育てられました。

 

小学校も病院から通っていた時期もあったし、

小児科に入院していた子供たちとも友達でした。

 

 

それに、やたらと繊細だったりするので、

運動の時に注意されたことを、今の今まですごい覚えている。

 

幼稚園の体操教室では、真面目にやってるつもりだったのに、
「屈伸が浅い!」と注意されたことが嫌でトラウマになり、

最初の挫折を味わう(心が弱い)。


水泳教室では、別に水泳自体は得意で楽しかったものの、
先生からの報告に「このままだとすぐ3級に上がれそうですね!」と

いう一文があったのを、母親がなぜか勘違いし、

「来週からは3級のクラスに行きなさい!」と戸惑う私をよそに、

飛び級を強制(多分、国語能力が低い)。

 

水泳帽のワッペンも3級の色に付け替わり、

子供の自分はそれに従い、3級のクラスに出席。

 

もちろん先生も突如現れた僕に「こいつ誰だ?」となったものの、
なぜか「まぁいいや。」となり(何故?)、3級のクラスで水泳。

しかし、案の定ついていけず、そこから嫌になってやめた気がする。


小学校のマラソン大会も参加はさせてもらえたものの、

喘息持ちの自分は何故かジャージの長ズボンで走らされ、
(予防になるのか?)、なんか変に目立って恥ずかしかったのも覚えている。
とにかく、運動には嫌な思い出しかない。


小学校3、4年生になると、
喘息を治すには体重を増やすことが大事という医師のアドバイスのもと、
祖母はたくさん僕にご飯を食べさせ、気づけば虚弱体質の私は
立派な優良肥満児へと変化していった。

 

デブが痩せるための体操教室にも父親に連れていかれ屈辱を受けた。




(小学生で多分70kgある。)


今も運動をしていて、少し体重が増えると動きづらいのだから、
肥満児が何かまともに運動ができるはずもなく、
それなりに得意だった水泳も、体型を冷やかされるのではないかという気持ちで、
あまり好きでもなくなっていった。

逆上がりもできなかった。デブに逆上がりは無理だ。

結果として、自分は運動神経が悪いし、何をやってもうまくできないのだから、
体育とか運動はあきらめようと思うようになった。


スポーツ庁が実施している「全国体育能力調査」によると、
小学生の男子においては、

体育の授業が「楽しい」か「やや楽しい」と回答する割合が約95%
「やや楽しくない」か「楽しくない」と回答する割合が約5%。

中学生男子になるともう少し楽しくない割合が増えて、
約9%程度が「やや楽しくない」か「楽しくない」と回答する。


(出典:大修館書店 どうして「体育嫌い」なんだろう)

小学校から中学生にかけて、その割合が増える背景には
高学年になるにつれて、体育という授業そのものの競技性が増すことが

一つの要因とされているようで、
確かに目に見えて運動経験の差というのを、見せつけられるようになる。

長距離走だったり、

勝ち負けの決まる球技だったり、

跳び箱だったり、

運動が得意じゃない人は、目に見える形で醜態を晒さなければならない。


特に、自分の出身の静岡はやたらと体育の授業でサッカーをすることが多く、
あいつらは子供の時からどっかの少年団に入って、

サッカーをやってたりするので、なんかみんなやたらうまい。

野球なんてほとんどやらない。男ならサッカーだ。

僕の場合は、人と接触するスポーツがそもそも苦手なのと、

脚でボールを蹴るという行為が理解できず、

サッカー少年団に入ったもののすぐやめた。

あのロングソックスを履く時間がたまらなく嫌だった。泣いてた。

 

体育の授業はゴールキーパーとゴール際でおしゃべりするか、

なんかサッカーボールをあたかも追ってるような感じで、

ボール付近をジョギングするくらいしかやることがなく、

それもなんか苦痛だった。


「全国体育能力調査」での設問で
「今後どのようなことがあれば、今より体育・保健体育の授業が楽しくなるか」を

 訪ねると、トップ4は以下である。
 ①自分のペースで行うことができたら
 ②できないことができるようになったら
 ③人と比較されないようになったら
 ④自分に合った場やルールが用意されてたら




(出典:大修館書店 どうして「体育嫌い」なんだろう)


あえて、結論から言うと、
もうこれはクロスフィットなのである。


クロスフィットはこれのどれもしっかり満たしている。
●どうなりたいかは人それぞれだけど、どんなペースでやってもいい
●できなかったことは少しずつできるようになる。
●競技であれば比較はあるけど、みんなでトレーニングする分には比べられることもない

●できないことは、重さや回数を下げて一緒にトレーニングできる


なので、クロスフィットは自分にとっては、
体育嫌いだった子供の自分に対するセラピーなのかもしれないと思い始めている。


大人になると、別に誰かとスポーツをする機会もないし、

醜態を晒す必要も無いので、
何かスポーツしてるの?と聞かれても

「自分は運動神経悪いんですよね。」と開き直っていて、
そういうコンプレックスは自己の中に内包する形で処理をしてきたように思う。

性格上、コンプレックスは解消できるよう努力する方なので、
自己肯定感はそれなりに高く維持していたつもりだけど、


運動に関しては、初めからできないものと、決めつけていたし、
クロスフィットを始めて、本当につい最近まで、むしろ今でも少し、
自分ができるようになることは、

他の人だったらもっと早くできるようになることで、
自分なんかがこうして運動をしていること自体が

なんか場違いなように感じることも多々ある。

 

クロスフィットが強い人は、運動経験がもともとあって、

始めたばかりでもすぐ強くなる。
運動神経の悪い自分は、みんなと同じようにはできないんだろうな

というブレーキがかかるわけである。

だから、なんとなく言い訳っぽくブレーキをかけてたし、

真剣にやってできない方が辛いし、と逃げていたわけである。


でも、そんな中、突然救世主というのは現れるもので、
運動経験は無いが、5年間クロスフィットを続けたクロスフィッターが
今年クロスフィットの全国大会に出るんだということを知り、

あー、結局自分の可能性にブレーキをかけるのも、活かすのも自分次第なのか、

と思い、そこから自分もちょっと自分の限界に対して向き合って、
まずは「NO」を自分に突きつけないことから始めてみるべきなんだと

気持ちを切り替えられた。

 

できると思ってないことを、できるはずがないのだ。

 

僕は全国大会に出たいとかそういうわけではないものの、
せめて自分にはできないとか、そういう風に思うのをやめようと思ったのである。

そして、私も一人のNO NO GIRLSだったんだなと、つい最近気づいた。

 



参照:

 

 

 


そう気持ちを切り替えたタイミングで丁度よく、

「この大会に出ろ!」という強い推奨をいただき、
先日の小さな大会というか、イベントに出させてもらい、
競技としてクロスフィットに取り組むことの魅力や、
仲間と一緒にアドバイスしあえる環境というのも

自分の知らなかったクロスフィットの一面ですごく楽しいことに気づけた。

 


体育嫌いこそクロスフィットを始めたほうがいいのかもしれない。
 

 

「貸したお金は返ってこないと思いなさい。」

 

 

 

私は幼少期から、祖母に何故かこう言われてきたし、

やたらと覚えています。

 

当時は幼心に、

「金の貸し借りの話をするなんて、殺伐とした家だなぁ。」と思ったものの、

金銭的なリスクに対する教えではなく、

『人との関わり方の本質』に近い言葉だと、成長するにつれて

理解するようになりました。

 

ようは、

返ってこないようなお金は貸してはいけないよ。

あげたつもりで貸しなさい。

ということでしょう。

 

それはお金だけではなく、時間や労力、気遣いなど、

あらゆる“与える行為”に通じるものだと感じています。

 

この教えの影響かどうかはわかりませんが、

私は自然と、何かをして「あげた」と自分が思うようなことは

あまりしないようにしてきました。

それが自分なりの処世術となっていたのかと思います。

 

 

さて、タイトルにある"Taker "や"Giver"ですが、

私がベトナムから帰国した4年前くらいから、周囲の友人から

耳にするようになったと感じています。

 

ざっくりとした定義としては、

・Taker = 何かを受け取ってばかりいる人、

・Giver = 何かを与えて精神をすり減らしている人

というように使われているようです。

 

例文としては、

「あの人はTakerだから、一緒にいると疲れる。」だったり、

「私はGiverだから、いつも損してる。」という感じかと思います。

 

もともとの出典は2013年にアメリカで出版された

"GIVE & TAKE"というビジネス書のようです。

 

 

 

 

この本自体は「情けは人の為ならず」のような考え方を、

ビジネスの視点から整理した良書で、私も参考になりました。

 

この本の中の内容は違和感はないものの、

むしろ、その後広まった「Taker/Giver」という言葉が、

人間関係を単純にラベリングする道具として使われている現状には、

もやっとしたものを感じています。

 

ですので今回は、ビジネス書の内容ではなく、

日常の中でのこの言葉の扱われ方について、個人的に考えました。

 

 

まず、

Giverとか、Takerなんてものは見方の問題であって、

誰かは誰かのGiverであって、

誰かは誰かのTakerなわけです。

 

 

確かに、1:1の関係において、

その相手はTakerかもしれないけど、

それを、その人に備わった性質であるかのように決めつけるのは

ちょっと乱暴なのではないでしょうか。

 

あなただって、誰かとの関係性においてはTakerなのでは?

ということで。

 

 

 

そもそも、

ビジネスとしての概念である

Give&Takeをプライベートの概念として持ち出したら

歪みが生じるのも当然なのではと思うのです。

 

 

私は人間関係というのは、もう少しなんかぼやっとしたものと

捉えています。

 

ただ一緒に過ごす時間や、積み重ねた時間で何となく構築されて、

結果的に、それが少しずつ自分の人生を豊かにしてくれるものだと

思っています。

 

世の中、これだけの時間的な選択肢、人間の選択肢がある中で、

選択肢を自分に使ってくれているだけで、

十分ありがたいのではないでしょうか。

限られているわけですので、人の命は。

 

他者と時間を過ごしている時点で、

お互いに与え、与えられている関係なのです。

 

そういう関係性の中に、

「情報をくれたか。」とか、「誕生日を祝ってくれたか。」とか、

みたいな物差しを持ち込むと、おかしくなるわけです。

 

 

 

さて、そもそも日本語にはもっとふさわしい表現があり。

 

 

   オ~ン

 

 

恩ってめちゃ良くないですか。

時の流れを感じるし、深みもありますよね。

GiverとかTakerとか鼻で笑っちゃうくらいの重みもありますよね。

 

恩というのは、

「返す」ものでもあり、忘れずに背負っていくような感覚かと思います。

 

 

私は、10歳まで祖母と暮らしてきたこともあり、

いわゆる"おばあちゃん子"であります。

 

今でも、週末は時間を作り、祖母と一緒に時間を過ごすことで

長年もらってきた「恩」を少しでも返していければと思っています。

 

天気の良い週末には、車椅子で近所の公園に行ったりするわけですが、

これも恩返しだなぁ~。と思いながらやっていると、

 

「孫と一緒にお散歩できるなんて、私は世界一幸せ。

 もういつ死んでもいいわね。」とポツリ。

 

私は恩返しをしているつもりで、

また祖母から新しい恩をもらってしまうわけで、

果たして恩というものは返せるものなのだろうか、と。

 

 

「貸したお金は返ってこないと思いなさい。」

と言っていた本人ですし、

返してもらおうとも思っていないから、そうなるのでしょう。

 

 

TakerとかGiverとか人をラベル付けするのも

一つの考え方ですが、

 

過ごした時間に感謝をし、

与えられたものを忘れずに、できる限り返していけるように

生きていきたいと思っています。

 

また、大切な人に何かがあったとき、
すぐに手を差し伸べられるだけの余力と余白を持った人間でありたいと

思うわけです。

集団は人を縛る😡😡😡😡😡😡

 

 

私はグループチャットで、「誕生日おめでとう!」のメッセージが

飛び交うのが少し苦手です。(お友達の皆さん、個人攻撃ではありません。)

 

同調圧力のようなものを感じるし、

後出しでメッセージしたら"ついで"感が出るのも、なんか嫌です。

 

色紙とかとも似てて、相手との関係性がメッセージという形で

可視化されやすいところも苦手。

(おめでとう!というスタンプだけで済ますとか)

 

お祝いメッセージを送らないのも一つの回答ですが、

意図があって送っていないのか、

意図が無くて送っていないのかも受け取り手は判別がつかないわけです。

 

単に送るのを忘れちゃっても相手によっては、

「お祝いメッセージ●●ちゃんからは来なかったな。」とも、

思われかねないし、これって現代の呪いじゃない?と思ったりもします。

 

受け取った場合も一人一人のメッセージにちゃんと返信するのも手間だし、

じゃあ、「一通り出揃った感じのところでまとめてお礼するか。」という

機械的な感じになってる自分自身に客観的に気づくところもなんか嫌ですね。


こうした一連の嫌だなぁ。の正体は、「集団の一員である」ということが、

自分の行動や感情に影響を与えているからかもしれません。


そんな“集団と個人の力学”をエンターテインメントとして描いているのが

Netflixの『デビルズプラン』!!見ていますか!?(急な展開)

 

私はシーズン1は全て鑑賞、シーズン2は現在絶賛鑑賞中です!!!!

 


『デビルズプラン』とは?

 

『デビルズプラン』は、Netflixで配信されている韓国のリアリティショーで、

知力・戦略・人間関係が入り混じる心理ゲーム番組です。

参加者は、囲碁棋士や医師、プロゲーマー、俳優、弁護士など、

知性と個性に富んだ14人(シーズン1は12人)。

参加者は密閉された空間に閉じ込められ、「個人戦」と「チーム戦」による

ゲームを繰り返しながら、最終的には個人優勝を目指していきます。
 

デビルズプランの特殊なところとしては、

個人的な同盟をゲーム外で組むことが容認されており、

同盟の実態が勝ち負けに大いに影響します。

 

例えば、チーム戦において、別チームではあるが同盟である参加者に、

ゲームを左右する決定的な情報を流すことで、

自チームは一番になれなくとも、個人を陥れることができたりします。

 

ゲームそのものより、

人間性や心理性がこの番組のエンターテインメントとしての本質だと思っています。

 

シーズン1とシーズン2が出ていますが、

シーズン2では、分断がよりしやすい構造になっており、

おそらくシーズン2の参加者はよりストレスを受けやすくなっています。

 

 

シーズン1と2の決定的な違い:

監獄棟に送られる「人数」
 

デビルズプランでは、プレイされたゲームの結果に基づいて

下位の参加者は「監獄棟」と呼ばれる、

監獄のような宿舎で、質素な食事(パンやお粥)を与えられて

一晩を過ごさなければなりません。

 

シーズン1と2では、「監獄棟に送られる人数」が大きく異なっています。

シーズン1では、下位2人だけが監獄棟に送られ、寝食を共にしますが、
シーズン2では、下位6人が監獄棟に送られ、

更にそのうち1人が監獄棟でプレイするゲームを経て脱落します。

 

そのため、監獄棟と、監獄棟ではない宿舎(通常宿舎)の参加者で

グループ化が発生しやすくなっています。

この違いは、ゲームだけでなく、

参加者同士の心理的分断にも大きく影響しています。

グループ化は、なぜ人を分断するのか?
 

心理学では、人をランダムに2つのグループに分けるだけで、

互いを差別し始めるということが知られています。

◆ タジフェルの「最小条件集団実験」
まったく意味のない基準(たとえばコインの裏表など)で

2つのグループに分けられた被験者たちが、自分のグループにより

多くの報酬を与え、相手には少なくするように行動した。
理由も根拠もないのに「自分たち側を優遇し、他者を下げる」傾向が、

人間にはあるということを示している。

◆ シャリフの「ロバーズ・ケーブ実験」
少年たちをキャンプで2つのグループに分けて競わせた結果、

対立心と敵意が自然に生まれた。しかし、最終的に「水道トラブル」などの

共通の問題に対処させることで、両者は協力し、関係が改善された。
この実験は、敵対関係も共通目標があれば乗り越えられることを示している。



デビルズプランに見る

「集団」と「対立」の構造
 

シーズン1:
シーズン1では12人の参加者のうち監獄棟に送られるのは2人だけです。

それ以外の10人は「通常の宿舎」で普段通り生活します。

 

監獄棟の2人の絆は深まる可能性がある一方で、

通常宿舎の10人にとっては彼らは“あくまで少数派”の扱いとなります。

また人は、自集団を高く評価し、他集団を低く評価する傾向にあるため、

監獄棟に送られた2人を"劣っている"とラベリングする傾向が強くなるとも

考えられます。

こうした状況は監獄棟の参加者には精神的負担を強いる一方で、

通常宿舎に残る参加者への精神的負担は大きくありません。

 

また、監獄棟に送られるのは2人だけであるため、

通常宿舎の参加者がマジョリティである構造は

シーズン終盤においても変化はありません。

シーズン2:
シーズン2では、14人の参加者のうち監獄棟に送られるのは6人で、

それ以外の8人は通常宿舎で生活します。

さらに、監獄棟に送られた参加者は、別途用意されたゲームで

最下位となると、脱落をさせられます。(シーズン1には無い)

 

この時点で6:8というグループとしての分断が生まれるため、

シーズン1には無かった監獄棟vs通常宿舎という対立構造が

最初から非常に強くなります。

 

また、ゲームの勝利点(ピース)は、番組を通して持ち越され、

かつ、ピースを使用することでゲームを有利に進められるため、

多くのピースを持っている参加者(=通常宿舎)がゲームを優位に進め、

ピースが少ない参加者(=監獄棟)が不利となることが多いです。

 

さらに、通常宿舎のチームが同盟を組んでいるため、

監獄棟の参加者がゲームに勝利し、監獄棟から抜け出すことが

構造上しにくくなっています。(資本主義やな)

 

 

監獄棟に新しく来た参加者が

マイノリティとして誕生する

 

監獄棟に移動することになる参加者は、毎日行われるゲーム結果に応じて

下位6人が送られますが、前述の通り監獄棟にいる参加者は固定化しやすいです。

そのため、監獄棟にいる参加者のほとんどは、前日も監獄棟で過ごしており、

新たに監獄棟に送られた参加者は完全なマイノリティとして誕生します。

 

「敵対しているチームにいた参加者が、

 脱落者を決めるゲームにマイノリティとして参加するとどうなるのか?」

 

展開は想像にお任せしますが、

そこで見られる人間性や、行動が、非常に人間の本質的なところを

映し出している気がして、何とも言えない嫌な気持ちにさせられるのも、

この番組の優れているところだと思っています。

 

まだ、途中までしか見ていませんが、

今後は監獄棟の人数が6名で固定である以上、

どこかを境に、監獄棟がマジョリティとなり、通常宿舎はマイノリティに

変わるタイミングが発生します。

また、今までのグループ化だけでは対応しきれなくなり、

監獄棟や通常宿舎のグループの垣根に囚われない同盟が誕生することも

大いに予想されます。

 

そういった点も非常に見どころだと思っています。

 

話の出だしとして、誕生日おめでとうのグループチャットに触れましたが、

まぁ実際のところ提言するほど、気にしているというわけではないのですが、

総じてグループというのは、個人の行動に影響を与えているとは感じます。

 

それは、「誕生日おめでとう!」という小さなものから、

国籍や、国を跨いだ、もしくは国家内の大きな分断まで、

人間にとっては切り離せないものであり、面白いものだなと、

なるべく自分の心理状況もグループの観点からも

俯瞰的に捉えられるようになりたいと思っております。

 

あと「いつメン」というグループの呪いも涙が出そうなくらい苦手です。

ごめんなさいすいません。

いつメンだけはやめてください。よろしくお願いします。