大山祇神社の祭神が大山祇神ではない!? | “縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

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暁玲華さんに一霊四魂を鑑定してもらいましたら、四魂の一つを授けてくれたのが

三嶋大社事代主命だとのことでした。

 

私にとって三嶋大社のご祭神は

大山祇神なので、

不思議に思い調べてみると、

 

両方の神がご祭神になっています。

 

そして、Wikipediaによると祭神は

時代によって変遷してきたことがわかりました。

 

 

『三嶋大社の祭神に関しては、古くは

大山祇命祭神説・事代主神祭神説が存在した。

 

大山祇命説は、鎌倉時代の『東関紀行』に始まって『源平盛衰記』『釈日本紀』『二十一社記』『日本書紀纂疏』等の諸史料に見える説である。

 

三嶋神が伊予国一宮の大山祇神社(大三島神)

に由来するという伝説に基づき、

事代主神説が唱えられるまでは

広く定着していた。

 

一方の事代主神説は、江戸時代後期の

平田篤胤の『古史伝』での主張に始まる説である。

 

室町時代の『二十二社本縁』に

「都波八重事代主神(中略)伊豆賀茂郡坐三島神、伊予国坐三島神同体坐云」

(都波八重事代主神は、伊豆国賀茂郡に坐す三島神で、伊予国に坐す三島神(=大山祇神社)と同じと云う)

の記載に基づく。

 

この記述は伊予の国の大山祇神社の主祭神も

事代主神としてしまっている。

 

江戸時代までの祭神は大山祇命とされていたが、

幕末に事代主神説が国学者の支持を得たため、

明治6年(1873年)に事代主神に改められた。

 

その後大正期に入って

大山祇命説が再浮上したため、

2柱説が昭和27年(1952年)に

制定されて現在に至っている。』 

 

 

 

 

これで見ると、事代主命説は幕末の

平田篤胤に始まったばかりで、

 

それ以前には多くの古文書に大山祇神が

主祭神と記録されていたようです。

 

大山祇神説の方が圧倒的に

優勢に見えました。

 

なおかつ、平田篤胤の「この記述は

伊予の国の大山祇神社の主祭神も

事代主神としてしまっている」として、

 

平田篤胤の説はあり得ないと

断定しているかのようでした。

 

 

ですが、いつものように振り子に聞いてみると、

暁玲華さんが言うように

三嶋大社の祭神は事代主命とのことです。

 

どういうことなのか不思議に思っていましたが、

少し経ったときにふと、大山祇神社の祭神が

誰なのか聞いてみようと思い立ちました。

 

大山祇神社の祭神は聞くまでもなく、

大山祇神であるはずなのに。

 

 

ところが、なんと、振り子によると

大山祇神社の祭神も事代主命だと出ました。

 

そんなバカな!

 

神名そのものが神社名になっているのに、

本当は違う別の神だなんて。

 

全国にある山祇神社の総本社なのに。

 

私も最初は信じられませんでしたが、

そのうちに

「さもありなん」と思うようになりました。

 

 

神社の祭神は時代により変えられてきました。

出雲大社しかり、です。

 

国家の宗廟、伊勢神宮内宮の祭神も

変えられてきた(と私は考えている)のですから。

 

神社業界こそ、

何でもありの世界なのかもしれません。

 

 

それならばと、では大山祇神が祀られている

大元の神社はどこなのか問うと、

 

こちらも意外なことに、

富士山本宮浅間大社との答えです。

 

富士山本宮浅間大社の主祭神については

以前に、本殿の千木が外削ぎなので

男神であり、それは

天照大神ではないかと考えました。

 

 

 

しかし、コノハナサクヤヒメの父親である

大山祇神だった、

天照大神は元宮である

山宮浅間神社の方だと出ました。

 

(公式には富士山本宮浅間大社の主祭神は

コノハナサクヤヒメで、

瓊瓊杵尊と大山祇神が配神になっています)

 

富士山本宮浅間大社のご神体が

富士山なのですから、

 

山の神である大山祇神が祭神であるのは

いたって当然のことです。

 

後世、誰かの何かの思惑によって

コノハナサクヤヒメに変えられたのでしょう。

 

 

人間界が三次元で、

霊界が四次元、そして

神界が五次元以上とすると、

 

人間界と神界はかけ離れているので

人間たちが祭神をくるくる変えても、

神界の神々にはどうでもいいこと

なのだと思います。

 

神々はまったく関知しないで

自分の世界を生きているのではないでしょうか。

 

 

また、「神を封印する」というと

神を閉じ込めるイメージがありましたが、

 

そんなことはなく、ただ

神と人間とが接触できないように遮断する、

 

神界と人間界をつないでいた

扉を閉じるだけだと考えるようになりました。

 

神々自体をどうこうするなんてことは

できないと思います。

 

 

それはともかく、

 

神社の祭神の名前などはどうでもいいから、

神社に行って直接接することが大事だ

と言っていながら、

 

重要な神社ではどうしても

こだわってしまいます。

 

 

 

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