ノモンハンの真実 | “縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”の粉砕

“縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”の粉砕

第一ステップ:戦後の常識の徹底的な破壊(GHQの洗脳解除)
第二ステップ:弥生以降の常識の破壊(大陸思想の廃棄)
第三ステップ:奥底に眠っている縄文人DNAの起動

前回、終戦間際に不可侵条約を破って

ソ連軍が攻め込んできた経緯を取り上げました。

 

 

 

ヤルタ会談での約束を果たすために

 

「約束の期限ギリギリでようやく実行に移したのですが、

そこにも先の大戦に関わる別のウソ(=誤った認識)

隠されていました」

 

と最後に書きました。

誤った認識、それが

 

「ノモンハン事件」についてです。

 

 

 

司馬遼太郎はじめとした一般的な見方は

 

「1939年に起こったノモンハン事件は、

日本陸軍が満蒙国境地帯で、

 

ソ連軍の圧倒的に優れた機械化部隊と戦って

完敗した事件である。

 

近代化されたソ連軍に対して、

旧式の貧弱な装備をまとった日本軍

 

ソ連の戦車に肉弾攻撃を挑み、

殲滅された

 

といったところで、私もそうだと思っていました。

ところが、これがまったくの誤りでした。

 

真実は、

 

ノモンハンで日本軍の強さを骨身にしみて知り、

ソ連は恐くて、期限ギリギリまで

 

参戦できなかったのです。

 

 

なぜこんなおかしな誤った認識が流布しているのか?

 

当時の状況をまとめると、

 

①ソ連軍23万に対して日本軍は2万人と圧倒的に少なかった 

 

②少数なのに日本軍はソ連軍を圧倒していた 

 

③甚大な損失が続いてもソ連軍は兵力を投入し続けたので、さすがの日本軍も劣勢になった 

 

④日本軍は不拡大方針で援軍を送らなかった

 

⑤日本軍が深刻な状況になってようやく大本営は増援軍派遣を決めた

 

⑥それを知り恐れたスターリンはドイツに停戦仲介を依頼した

 

⑦直前の甚大な損害で恐れを抱いていた日本政府も停戦交渉に応じた

 

⑧スターリンは強気の条件をとりあえず出したら、戦況不利だと勘違いしていた日本側はソ連の条件を呑んでしまった

 

⑨実戦では負けていたが政治駆け引きで勝ったソ連は「ノモンハンはソ連の大勝利」を宣伝し定着していった 

 

といったところです。

 

 

②の初期の対戦では日本が圧倒していた様子は、

 

『ソ連軍の戦車は走行射撃もできない低レベルであり、

戦車戦になると日本軍の戦車に

 

太刀打ちできなかったケースが多く、

ソ連の戦車は日本軍のきわめて高性能の速射砲・高射砲の

標的となり、八〇〇台が破壊された。

 

それに対して日本軍の戦車の損害は

二九台である。

 

空中戦でもソ連の戦闘機は低性能のお粗末なものであり、

日本の戦闘機に比べればまったくお話にならなかった。

 

ソ連軍の撃墜された飛行機一六七三機に対し、

日本軍の撃墜された飛行機はその一〇分の一の

 

一七九機だった』

 

(堀井雄三著 PHP文庫 『世界最強だった日本陸軍』初版16~17ページ)

 

相手の10分の1の戦力と言ったら、普通は

持ちこたえることはできず、戦さになりません。

 

その圧倒的少数なのに、逆に

相手に10倍の損害を与えた!

 

信じられないような、一方的な戦いでした。

スターリンが恐れるのも無理からぬことです。

 

これだけの差が出たのは戦車や戦闘機の優劣よりも、

技術や訓練の差が大きかったように思います。 

 

 

④については、

 

『八月二十日以降、ソ連軍がいかなる犠牲をも厭わない

人海戦術とでもいってよい大攻勢をかけてきたために、

 

日本側の戦死傷は急増した。

 

ノモンハン事件全体における日本軍の犠牲は、

大部分がこの時期の、

 

わずか数日間の戦闘に集中しているといってよい。

 

これは日本側がノモンハン事件に際して終始、

不拡大方針を貫き、

 

侵入してきた敵軍を追い払うことに主眼を置いて、

現地に増援軍を派遣しなかったために生じた悲劇である。』

(同上14ページ) 

 

 

⑤で日本軍が深刻な状況になってようやく

大本営は増援軍派遣を決め、

 

『日本軍一〇万の精強部隊がノモンハン付近に集結した。

これを見てスターリンは恐怖に震え上がった。

 

一個師団わずか二万の少数の日本軍を相手に、

二十三万のソ連の大軍がこれだけ

 

苦戦を強いられているというのに、このうえさらに

一〇万の日本軍の増援部隊を相手に戦えば、

 

ソ連軍は壊滅するだろう』

(同上 35ページ) 

 

 

ということで、

⑦スターリンは停戦仲介をドイツに依頼し、

 

日本は戦闘に関しては有利だったのに勘違いして、

不利な条件で停戦合意してしまいます。

 

それを知った現地の日本軍将兵の反応は、

 

『「さあ、これからいよいよ反撃だ」

 

一九三九年八月下旬、大本営はノモンハンに

一〇万の増援を決定し、

 

関東軍の意気はあがった。

 

八月二十日からのソ連の大攻勢によって

壊滅に近い打撃を受けたとはいえ、

 

実際に戦っていたのは第二三師団のみであり、

関東軍には「増援があれば勝てる」という確信があった。

 

 

ところがその矢先の九月十五日、

日ソ間に停戦協定が成立し、

 

現地の将兵は地団駄を踏んで悔しがった。』

(同上 18ページ)

 

これが実態でした。

 

これは完全に日本政府と大本営の

状況判断ミスです。

 

(停戦交渉妥結の2日後にソ連はポーランドに侵攻しています。東の日本に後顧の憂いなく、作戦を実行することができました。日本の交渉担当者はそれを聞いて、してやられたと悔しがったそうです)

 

 

政治で負けたとは言え、しかし、

ソ連に「日本軍恐るべし」の念をたたき込みました。

 

そのトラウマがなければソ連はもっと早くに決断して、

たとえば北海道にまで進軍してきて、

 

日本も分断国家になった可能性があります。

その意味では、悔しい思いはしたものの、

 

彼らの奮戦日本を守ったことは確かです。

 

 

『後日談であるが、

終戦直後の八月十六~十八日にかけて、

 

張家口の北方で日本軍歩兵二五〇〇名は

ソ連軍一万名以上と戦い、

 

七十余名が戦死したが、

五〇〇名以上のソ連兵を倒し、

 

ソ連装甲車群を破壊し、

敵の攻撃続行を不可能にした。』

(同上 12ページ)

 

ノモンハンから6年後でも、

やっぱり

 

日本軍の圧勝です。

 

 

このとき指揮していたのが、以前取り上げた

陸軍中将根元博です。

 

 

 

蛇足ながら、

ソ連軍の驚くべき実態について。

 

日本軍が 『破壊された敵の戦車や装甲車の中を見ると、

兵士の逃亡を防ぐために、足首を鎖で縛りつけていたり、

 

外から錠をして内から

出られないようにしたりしていたのである。

 

さらにまたソ連軍には背後に督戦隊が控えていて、

敗走してくる味方の兵士を射殺したり、

 

あるいは火炎放射器で焼き殺したりしていた。』

(同上 41ページ)

 

で縛ったりをかけたりと、

非人間的極まりない扱いです。

 

 

督戦隊については以前書きました。

 

 

 

ソ連だけでなく、中国でもアメリカでも見られました。

 

彼ら大陸人神経には、

理解しがたいものがあります。