岡本太郎と沖縄と時間感覚 | “縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

“縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

第一ステップ:戦後の常識の徹底的な破壊(GHQの洗脳解除)
第二ステップ:弥生以降の常識の破壊(大陸思想の廃棄)
第三ステップ:奥底に眠っている縄文人DNAの起動

 

『文化とは何だろう。

 

土地の風土によって盛りあがり崩れる岩石や、

その養分と空気を吸って生い育つ植物のような、

 

根をはったものが本当だと考える。

 

・・・

 

ところが日本の過去の文化の多くは、

大陸で凝結した珠玉が、

 

そのまま移されたものであり、

またその巧みなアプリケーションである』

 

(岡本太郎著 中公文庫 『沖縄文化論-

忘れられた日本』 9刷203ページ)

 

 

奈良時代(=弥生)以降の「文化」は

ニセモノだ

 

と、岡本太郎は言っています。

 

 

縄文土器に魅せられた岡本太郎

沖縄でやはり、

 

縄文人を感じたようです。

 

『十三年前、

はじめてこの島を訪れたときのことだ。

 

沖縄の友人と約束して待っていたが、

二時間たっても来ない。

 

こちらはセッカチだから、ジリジリし、

カンカンになっているのだが、

 

やがて彼はにこにこ笑いながら、

人のよさそうな顔で、ゆったりとあらわれた。

 

そのとたんに、私はとても愉快になって

思わず笑いだしてしまった。

 

時間など超越して、まったく悪気のない顔で

再会を喜んでいる彼の方が、

 

人間的に本当ではないか

と思ってしまったのだ』

 

(同上247~248ページ) 

 

 

岡本太郎がもともと縄文人に

親近感があったこともあるのでしょうが、

 

その沖縄の人の表情には一瞬で

怒りを溶かしてしまう威力があったのでしょう。

 

沖縄の人たちの印象を次のように綴っています。

 

 

『沖縄の人たちはいい。

私は大好きだ。

 

色はやや黒く、

目はギョロッと鋭い。

 

全体に分厚い感じ。

 

中にはひどく毛深い人がいて、

胸毛どころか、

 

二の腕から手の甲、指にまで

黒い毛が密生していたりする。

 

いかにも逞しく、ちょっとこわいようだが、

よく見ると、こんな柔和な表情があるだろうか

 

と思われるほど、何ともいえない優しさと

あたたかさが感じられる。

 

・・・

 

誰に会っても、底ぬけに善良だ。

これでピントがあっているんだろうか、

 

とちょっと心配なくらいだ。』

 

(同上35~36ページ) 

 

 

一言で言えば、

「とても大らか」です。

 

 

ここでちょっと脱線しますが、日本人の

時間感覚について考察してみます。

 

沖縄の人たちが縄文人のDNAを本州人よりも

多く受け継いでいることを考えると、

 

日本人はもともと時間にも

大らかだったと思われます。

 

それなのに今の日本人は

「時間厳守民族」です。

 

約束の時間を守り、鉄道の発車時刻の正確さ

には他国の人たちも驚くほどです。

 

これをどう解釈したらいいのか?

 

 

もちろん、現代がビジネス社会だからですが、

それならば、

 

そのビジネスを持ち込んだ本国の方が

厳重に時間を守ろうとしなければおかしいです。

 

もともとは時間に大らかだった日本人がなぜ、

ビジネスの本場よりも時間を守ろうとするのか?

 

この矛盾というか謎も、

 

日本人のアイデンティティは縄文人である

ことが答えではないかと考えています。

 

 

それでは、その縄文人とは

どういう人たちだったのか?

 

彼らの本質は何なのか?

私は

 

「妥協しない自立した個人」なのではないかと、

今の時点では考えています。

 

縄文時代に彼らは

「基本的に個の文化であり、

 

“団体”という概念がなく、だから

人に合わせるということが基本的にない

 

超個人主義者たちだった」ようです。

 

 

 

その「妥協しない自立した個人」が

ビジネスをする場面になると、

 

ビジネスにとって重要な「時間」に対しても

妥協を許さない、ということなのではないか。

 

それで、時間を守ることにこだわる。

 

 

環境が変われば、その都度、

その性情にしたがった姿を見せる。

 

たとえば、武士の時代になったら、

「サムライ」になる。「武士道」になる。

 

「妥協しない自立した個人」として

対象を極めようとして打ち込み、

 

「道」になる。

 

「茶道」や「歌道」や「柔道」などなど。

 

だから、ビジネスを極めるには

肝となる、時間を厳守する。

 

 

(では、超個人主義だったのに今の日本人は

なぜ、異常に「世間体」を気にするのか?

 

矛盾しています。

 

でも、ただ単に「縄文エネルギー」から途切れて、

浮き草状態になっただけのことなのか?

 

ハスは沼の底に根があってそこから葉や花が

伸びてくるから水に流されることはないが、

 

浮き草は流れに漂うしかない。

 

多くの日本人が、世間という沼に浮かぶ

浮き草人間になってしまったのか!?)

 

 

これの真偽はともかくとして、

 

われわれの根底にある性情を探り、

それを発掘し、開放して、

 

縄文の精神を明らかにしていくことが

これから求められていくと考えています。

 

 

岡本太郎も同じことを言っています。

 

『勿論近代はすでにわれわれのものであり、

その基準・体系にまきこまれるのは

 

無理ないのだが、しかし

身も魂もそうであることはできない。

 

根柢のところで、われわれは

やはり違っている。

 

何かのこる。

 

同じ近代生活、

同じスジの考え方をしても、

 

その底にもっている初源的な感動には

何か異質なものがある。

 

それはいつでももどってくる。

 

そして隙間風のような、

奇妙な空虚感をよびおこすのだ。

 

その正体をつきとめなければ、

われわれはついに存在の底の底から

 

充実しないで、

終わってしまうだろう』

 

(同上68~69ページ)

 

 

日本人の奥にある本質を明らかにすることは、

すぐに対処を迫られる緊急なことではないが、

 

とても重要なことです。

 

こういうことは往々にして後回しにされますが、

本当はこういうことこそ、

 

最優先課題です。