「思考」はランプの影絵のようなもの | “縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

“縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

第一ステップ:戦後の常識の徹底的な破壊(GHQの洗脳解除)
第二ステップ:弥生以降の常識の破壊(大陸思想の廃棄)
第三ステップ:奥底に眠っている縄文人DNAの起動

昨日はCHIEさんの

 

人間の本質は魂であり、

魂は「光」である。

 

その「光」が強ければ強いほど

喜びは大きくなるが、

 

また、苦しみも強くなる。

 

という見事な指摘でした。

 

 

その続きもまた、見事です。

 

 

『人ってランプのように

肉体という入れ物の中に光が入っていて、

 

ランプの【入れ物】と【光】、

これは全くの別物なのに、

 

ほとんどの人がこの2つを

同じものだと思っている。

 

ほとんどの人が「あ、ランプだ」と

認識するのだろうけど、私は

 

【入れ物】の中に入ってる【光】として

認識するんです。

 

なんてことのない話ですが、

スピリチュアルってこの視点の話で、

 

不思議な能力でも何でもなく、

単にものの見方が違う能力なんです。』

 

 

CHIEさんは人を

「光」の存在として見ているという

 

見え方の違いを

わかりやすく説明しています。

 

このあとがまた素晴らしい。

 

 

『そして、思考というのはランプの入れ物についた

模様のようなもの。

 

そして自分が思っていること、信じているものが

光により外の世界に映し出される。

 

この全ての現実を創っているのは

思考。

 

思考があなたの光に

影を落としているだけの話。』

 

 

ランプの入れ物についた模様

に自分の魂の光が当たって、

 

外に映し出された影が思考

 

 

思考は、ランプの影絵

のようなものだということです。

 

どういう模様がついているか、

どういう「ものの見方」をしているか、

 

それによって、影絵は決まってしまう。

 

模様を変えない限り、

考え方のクセを変えない限り、

 

同じ思考を繰り返してしまう。

 

 

「影」ですから、思考は

それだけのものに過ぎない。

 

「思考」は本質ではない、

ことは確かですね。

 

魂が本質です。

 

 

いっそのこと、模様なんて

全部なくしてしまう。

 

そうすれば、「光」だけ

になります。

 

さえぎるものが何もないから

光も強く、いっそう明るくなる。

 

それが一番いいように

思います。

 

光としての自分を思い出す