「真我」の誤解 ② | “縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

“縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

第一ステップ:戦後の常識の徹底的な破壊(GHQの洗脳解除)
第二ステップ:弥生以降の常識の破壊(大陸思想の廃棄)
第三ステップ:奥底に眠っている縄文人DNAの起動

昨日のつづきです。

 

「真我」の誤解 ①

 

 

幻想の自分・「自我」を放棄して、

ありのままの状態・「真我」に到達

 

という方向に対して、

存続の危機を感じた「自我」が

 

サバイバル作戦を立てて逆襲に転じ、

「真我」をねじ曲げようとします。

 

 

『「自我の内側奥深くには、

私本来の光り輝く”真我”という姿がある」 

 

これなら、自我が消えてもなお

「光り輝く個性」、つまり「真我」という名の

 

「何か」を残すことができる。

 

つまり、自我は「個」の消失を避けるため、

「真我」に何か新しい「定義」をもたせ、

 

そこに「個としての性質・自我」を継承させた。

 

この「何か」のことを人は「魂」と呼んでみたり、

「霊」と言ってみたり、「心」と名づけてみたり、

「意識体」などと解釈したりする。

 

どんな名称であれ、そこに「定義づけ」を行い

「個としての性質」を維持させようとするんだ。

 

でも、「個」である以上、これは「真我」ではなく、

「真我のふりをした自我」なんだ。』

 

 

「自我」はなんと、”敵”である「真我」を

自分の別形態にすり替えてしまう。

 

実は、私も長い間、

この「罠」にかかっていました。

 

正直のところ、今でもまだ少し

残っているかもしれません。

 

「本当の自分」はこんなもんじゃない。

光り輝くダイヤモンドのような存在、

 

それが「本当の自分」であり、

「真我」であり、

 

そこにたどり着くことができる、

と念じてきました。

 

 

それは「個」としての進化形であり、

「全体」ではなく、

 

あくまでも「個」。

 

 

これは最初、誰でも通らなければならない

道なのかもしれません。

 

この「個」としての「自我」を離れることは、

至難の業です。

 

たいていの人がこの「罠」に

はまっているのかもしれません。

 

 

「自我」を離れ、

「全体」に溶け込む。

 

これが一つの「悟り」

なのだと思います。

 

ここを黒斎さんは次のように書いています。

 

 

『自我(エゴ)という名の壁がなくなったとき、

 

壁の内にあった「空間(本当の自分)」と、

壁の外にあった「空間(大いなる存在)」が一つとなり、

 

存在本来の姿(全体)となる。

 

 

壁が消えたそのとき、

 

”幻想の自分”の内側深くにあったもの、および

”幻想の自分”を包み込んでいたあらゆるものこそが、

 

本当の自分であったこと、

本来の命の姿であったことに気づき、

 

自分が”すべて”であることを知る。

 

 

”自分”の意味が、自我(分離・思考)から、

真我(統合・宇宙)へ逆転する。』

 

(~雲黒斎著 サンマーク出版刊

 『あの世に聞いた、この世の仕組み』より~)

 

 

「悟り」のありようがわかりました。

 

あとは、その境地に到達するだけです。