自分を見つめるもう一つの自分 | “縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

“縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

第一ステップ:戦後の常識の徹底的な破壊(GHQの洗脳解除)
第二ステップ:弥生以降の常識の破壊(大陸思想の廃棄)
第三ステップ:奥底に眠っている縄文人DNAの起動

私は自己嫌悪に陥ることがよくありました。

 

自分で行動をしながら、同時に

「なんでこんなことをしてるんだろう」

とか、

「どうしてこういうふうにしか

ふるまえないんだろう」

などとよく考えましたが、

 

それは顕在意識で

考えているのだと思います。

これには「イヤだ」という感情を伴っています。

 

 

それとは別に、

 

上から自分自身を見ている自分がいる

という漠然とした感じを持つことも

ときどきありました。

 

これには感情は伴わないで、

ただ眺めているだけという感じです。

 

この「上から眺めている自分」って

どういうことなんだろうと

不思議な気持ちでした。

 

今現在の自分とは別の、

「本当の自分」が見ているのかな

とも思いましたが、

しっくりはしませんでした。

 

あまりにも漠然としていて、

はっきりと意識するでもなく

過ごしてきました。

 

皆さんにも似たような経験が

あるかもしれません。

 

 

 

最近、仮ですが一応結論が出ました。

 

感情を伴う意識と、

感情を伴わない「目」は、

全然異質のものだと思います。

 

 

 

人間という存在について次のように

考えています。

 

人間は

一つの「根源」から発生し、

 

それがこの世に出てきて

「身体」という物質になる。

 

その中間にあって両方の性質を

あわせ持つ「霊」が存在して、

両者をつないでいる。

 

そして三者それぞれには

「意識」が付随している。

 

 

 

さきほどの自己嫌悪しているのは、

「身体」に付随している

「顕在意識」という意識で、

 

一方、上から見ているのは

「霊」の目だと思います。

 

「霊」の意識ではなく、

ただの「目」だけだと思います。

 

 

身体には目があって、

外の世界を見ていますが、

 

「霊」にも目があって、

心の世界を見ているのだと思います。

 

だから、目で見ているだけなので、

感情が伴わないのだと思います。

 

 

わかりにくいかもしれませんが、

こう考えたら、スッキリしました。

 

 

 

人間という存在は、

 

「根源」から出たエネルギーが、

「霊」という媒体を通ると、

「身体」を持った人間になる。

 

というイメージですが、

 

中間にあって両者をとりもつ

「霊」が、

人間の中枢であり、

 

人間が生きていくなかで

心の世界を見つめて、

見守っているのだと思います。

 

 

それで、この「霊」の目で見ることが、

「悟り」への第一歩だと思います。