エピソード 見城徹といじめ | “縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

“縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

第一ステップ:戦後の常識の徹底的な破壊(GHQの洗脳解除)
第二ステップ:弥生以降の常識の破壊(大陸思想の廃棄)
第三ステップ:奥底に眠っている縄文人DNAの起動

 

見城徹と言えば、「強気」 「大胆」 「無謀」などなど。

見るからに「こわもて」の人物ですので、

小中学校生の頃いじめに遭っていたのを読み

ほんとうに意外でした。

 

『僕は劣等感にまみれた少年時代を送った。

 

当時の僕がどんなことに劣等感を抱いていたかというと、

まず顔である。僕は自分の顔が世界でいちばん醜いと

思っていた。そして身体が小さいことだ。

 

勉強は、小学校の1年から3年、4年まではできたと思う。

だが5年、6年は最悪だった。担任の女性教師が、

なぜか僕を激しく嫌ったからだ。

 

教師に嫌われていただけでなく、ほかの子どもたちからも

いじめられていた。要は僕の存在が、なんというか、

目障りだったのだろう。小学生とは思えないような量の

本を読んでいたし、子どものころから自意識過剰だった。

 

感受性は自意識からくるものだ。その自意識の発露の仕方が、

「こいつは俺たちとは違う」というシグナルとなり、

鼻につくのだろう。

 

僕は身体が小さくケンカも弱かったから、

殴られたり、屈辱的なあだ名ではやし立てられたりと、

いろいろな悲しい目に遭った。

 

中学生になれば多少はいじめも減るかと思っていたが、

同じ小学校だった連中がほとんどそのまま同じ中学に

進んだので、完全になくなることはなかった。

 

いつも5人くらいがグループとなって、執拗に

僕をいじめ続けた。中学校は小高い山の麓に建っていて、

その山の中腹には古ぼけた神社がある。ときどき僕は

神社の裏に呼びだされ、その連中から殴られていた。

 

変化は中学2年の夏にやってきた。

いつもの連中から、その山の中腹の神社に呼び出された。

もう何度目かわからない。これ以上、同じことが続くのは

かなわないと思った。

 

自分が反撃の意志を見せない限り、ずっと殴られ続けるだろう。

もう殴られっぱなしになるのはやめよう。

たとえその結果、自分が死んだっていい。

相手を殺してもかまわない。

 

僕は神社に向かう前、道に落ちていた鉄製のパイプのような

ものを拾い、鞄に入れた。神社に着くと、待っていたやつらは

例によって難癖をつけてきた。

 

僕は鉄パイプを鞄から出して握りしめ、

「俺は本気だ。死んでもいい。やるか!」

と言って、やつらのほうに突き出した。

彼らは一瞬ひるみ、そして逃げていった。

 

その日を境に、いじめはぷつりとやんだ。

このとき僕は本当に死んでもいいと思っていた。

本気で死を覚悟したことで、状況が変わったのだ。

 

この経験は僕に、何かを変えるためには、

死んでもいいと覚悟を決めなくてはいけないことを

教えてくれた。』

 

このエピソードで2つのことが印象的です。

 

一つは、見城氏も言うように、死んでもいいと

「本気で」覚悟を決めてやったら、

もの凄い力を発揮しするということ。

そして、大抵のことは実現すること。

 

もう一つは、後天的に身につける第二の天性は、

生まれつきの第一の天性、すなわち「本当の自分」

とは関係なく、形づくられること。

時にはまったく逆の性質につくられることもあること。

 

あれほど本来は力強い見城氏でさえ、

一時的にはいじめられ、殴られても反撃しない人格を

つくり上げ、その人格で生きていたこと。

「本当の自分」を押しやって。

 

しかしいつか、第一の天性である「本当の自分」が

充分に成熟したときに、それまで支配していた

第二の天性を突き破り、押しやって、

蛇のように古い皮を投げ棄てる時がくることを。

 

このことをビリー・マイヤーは、

『人間の最大の敵は自分自身であり、

常に自分自身との戦いが何より激しい戦いとなる。

それに勝てば生涯最大の勝利となる。』

と言った。

 

人間は、この戦いをするために、

敢えて本当の自分とは違った

第二の天性を身につけるのかもしれません。

 

それが大切な経験なのかもしれません。

最初から本当の自分だったら、楽かもしれませんが、

新たな経験にはなりません。いろいろな経験をするために、

苦難が必要なのだと思います。

 

順調な生活では経験になりません。

そして人間は生まれ変わるとき、親を選んで、

環境を選んで生まれてくるようです。

 

ですから、本当の自分ではなく、

第二の天性をつくって苦しむことも、

自分で「計画」して出てくるのかもしれませんね。

 

~見城徹著 幻冬舎刊 『読書という荒野』より~