『あんたならできる。』
この言葉、僕の大好きな映画『サマーウォーズ』の中で、とある事件が起きた時に、主人公『夏希』ちゃんの祖母である『栄(さかえ)』おばあちゃんが友人知人に力を発揮してもらうための電話でなんどもなんどもしゃべっていた言葉。
栄おばあちゃんの陣内(じんのうち)家は大河ドラマ、真田丸でも出てきた旧武田家家臣の一族で、上田合戦にも参戦してるみたいなので、きっと真田家とも縁深い家系なんだと思う。そんな陣内家の取りまとめ役の栄おばあちゃんは、国のいろんなお偉いさん達と縁を持っていて、その人達をとある事件の時に直接電話をかけて力づけまくっていた。
初めて、この映画を見たのは何年前だったのか思い出せない。
でも初めて見たときに涙腺が崩壊したことは今でもはっきり覚えている。
テレビの画面がゆがんで見えて、ティッシュはたくさん減っていくし、たまたま1人で見ていたので終わった後に目が赤くなっていたのを誰にも見られず良かったとその時は思った。
改めて今、なぜあんなにも涙が止まらなかったのだろうかと考えると、思い当たるのはフリーターで自分の可能性なんてこれっぽちも感じることができず、そんな中で将来の夢なんてみることもできずに、不安で不安でたまらなかったあの時の自分が一番言われたかった言葉だったんだと思う。
『あんたならできる。』
劇中で、栄おばあちゃんは何度も何度もいろんな人に、真剣に言う。
描写の中では、理由を伝えていたシーンもあるのだが、最終的に何度も何度もカットが切り変わって
「あんたならできる!」
「あんたならできるよ!」
「大丈夫、あんたならできる。」
と、「あんたならできる」しかしゃべっていない。
言葉で言うだけなら簡単に言える言葉。
「大丈夫だよ。あなたならできるよ。」
でも、ただの言葉だけなら、これほど空虚で無責任な言葉ない。
そんな感じがもし相手に伝わったとしたら、言葉とは間逆のメッセージなること間違いなしだ。
僕が栄おばあちゃんの言葉から感じたのは、
無条件の信頼であり、心の底からこの言葉を言っている自分への責任であり、ぶっちゃけていうなら論理的な言語を越えた根拠なんて説明できないところをしっかりと相手にメッセージとして伝えている部分だ。
それを感じることが出来たのは、細田守監督をはじめ、声を当てていらっしゃった声優さんの力によるものもあると思う。
これをあえて言葉として表現するなら、
「大丈夫!あなたならできるよ。(根拠なんてうまく言葉で言えないけど、私はあなたができるってそう知ってるから。)」
が近い。
書いてて思った。
もしかしたら、信頼しているよりも、『(あなたが)すでにそうであることを(私は)知っている』が近いかも知れない。
過去フリーターだった時の僕は、きっと自分の可能性を信じたかったんだと思う。
でも、両親の離婚から経済的理由による学歴のキャリアからのドロップアウト、周囲を見渡せば自分の才能を仕事にしようと夢に向かって歩む友がいてそれがとてつもなく輝いてみえるのだが、それでいて現状何をどうしていいのか知識もお金も頼れると感じる人もない状態。
あえていうなら人生が詰んだ。
と勘違いしている状態。(実際に今の僕がいる以上あれは勘違い)
そこからのスタートで信じようにも自分が信じられない、理由を探せば信じれない理由が腐るほど思い浮かぶような状態。でもだからこそ、誰かに心の底から根拠もなく、「お前ならやれる!」と逃げずに言って欲しかったんだと思う。(自分は逃げてたくせにね)
今の仕事をしていて思うのは、人は時々何も信じられなくなるぐらい凹むこともあるってこと。
僕はそれを身を持って、実体験で学んだ。
時々、そんな感じでどうしようもなく、自分が信じられなくなったり、自分を否定したくなっているクライアントさんや友人、知人と会うこともある。
心のどこかで自分の可能性を信じたいけど、信じることができなくて、なんとか頑張って結果を出してみたものの、誰かと比べるとあの人の方がキラキラしてて、まぶしくって。自分が創ったものがとても小さく残念に見える。
本当は愛着があって、気持ちを込めて、全力で創ったものが、もろくはかなくちっぽけなものに見えてしかたない。
「見て!こんなの出来たよ。今まで出来なかったけどこんなの創ることが出来たよ!すごいでしょ!」
ちょっぴり胸を張って、少し誇らしげにそう言いたい。
でも、誰かを見ると、何かと比べると、自分以外の何かがもっとすごそうだと感じると、やっぱり自分のは・・・って感じちゃう。
すると、自分のことが認めたいのに認められなくって、やってもやっても、まだまだまだまだって。今度はアレやってみよう。こっちだったらいけるか?ちょっとぐらい無理したって大丈夫!ってしてるうちにどんどん本当の自分からかけ離れていくような気がして、そんなことも感じないようになって、最後には気づくこともなくなって、
どーーーーせ、自分なんて。。。って
そんな自分が嫌になる。
キライになる。
好きになんてなれるわけないし、
誰が好きになってくれるの?
自分だって自分のことが嫌いなのに!!!!
こうなると自分の心のドアに鉄のシャッターを降ろし、自分の可能性なんて、自分の夢なんて、自分の本当の声なんて感じることができなくなってしまう。
僕が感じたのはきっと、栄おばあちゃんの言葉がそういう壁をぶち破って、
「(私が自分の責任でもってそう思っているんだ!お前、文句あるか!)大丈夫、あんたならやれる!」
って、頭でっかちになって、うじうじしてたツンデレなややこしくてめんどくさい昔の僕の何かをぶち壊す、風穴を開けてくれるようなそんなメッセージ思えたんだ。
だからかもしれない。
時に、僕は言ってしまうことがある。
20代をほぼほぼ丸々、カウンセリングやコーチングを学ぶことに使い、今では古神道の流れを組むヒーリングまでやっちゃうセラピストとしてあるまじき行為かもしれない、
傲慢で、エゴ的で、自分勝手な言葉を。
「大丈夫、あなたなら大丈夫(やれる)。」
って。
もちろん誰にでもいつでも言うわけじゃないし、むしろほとんど言わないことの方が多いかもしれない。
本当は、自分で感じれるようにサポートして、僕が言わなくったって、自分が満足するような結果を自分で創ってもらって、有無を言わさずに自分で自分を大丈夫だ!と思えるようなサポートするのが適切だろうと思っている僕もいるから。
でもね、少なくとも、過去の何にも可能性を自分に感じることができずに、動くことも出来なかった僕は、初めて出会った、カウンセラーの先生に、もらった言葉で人生が変わった。
しかもそれは、カウンセリングを受けた時の言葉ではなく、単にカウンセリング学校説明会の質疑応答のちょっとしたやりとり。
「二十歳そこそこの若造が本当にプロのカウンセラーとしてやれるんですか?」
と聴いた質問の答えだった。
「人は皆さん違いますし、絶対なんてことは確約できませんが、私は少なくとも森さんの聴く姿勢やお話を伝えてくれる姿を見るに素敵なカウンセラーになれると感じましたよ。」
人生が変わった。変わりました。
まだなんの勉強もしてないわけですよ。
単なる営業トークだったのかもしれません。
でもね、そう言って欲しかったんですよ。
ちゃんとした大人に初めて言われた救われた様なひと言だったんですよ。会ってから1時間も経ってない相手に言われた一言で人生が変わった。
実際に学校に入ってその先生にその言葉を頂いたお礼を伝えたら、覚えてもらっていなかったようなそんな言葉で。
たぶんね。先生の言葉だったかもしれないけど、僕の心の奥で隠れてる本当は自分を信じたい自分の声を先生が代弁してくれた気がして、自分の本当の理解者がいてくれたような気がして、孤軍奮闘してる声無き声を拾い上げてくれたような気がしたんです。
僕はね自分で自分の可能性を信じたかったんだよ。
本気でやればできるよ!って
無理、できない、可能性無い、否定、否定、否定、の自分を否定して欲しかったんです。
僕は相手の人が自分を信じられなくなってても、僕はその人を信じてたり(知ってたり)するわけだから結果的には、あなたよりあなたを知ってることになる。その上であなたの心の奥に隠れている小さな小さな声の味方になる。
僕はよくいう。あなたの味方であるのは間違いないけど、自分を否定したがるあなたの味方ではなく、あなたの心の奥の、本当に大切にしたい自分の声を発している子の味方だって。
奥の方で誰も見向きもしてくれないけど一生懸命、「誰かこの声を聴いて!受け取って代弁して!」
と叫んでるような声の味方だって。
自分が信じれなくて、でも信じたくて、本当は自分でそう思いたいんだけど、そう言ってしまって無理だったらどうしようと思っちゃってる時、
そんでもって僕から見て「いや、大丈夫でしょ。やれるでしょ。」ってどうーしようもなく感じちゃった時、
しかも僕の前にやってきてこれは言って欲しいとしか思えないよね。って感じちゃうとやっぱり声を大にして面と向かって何度でもいうと思います。
「あんたはやれるよ。やれないわけないやん(何言ってんだよ。なんか文句あんのかこら←心の声ね(笑))!」
ってね。