1981年9月。森家の2人目の長男のとして産まれました。
自営で職人の父(パチンコ大好き、外面良し、お金に無頓着)と、専業主婦の母(愛情深いが自己犠牲が過ぎる誰かの為なら(特に子どもたちの為なら)めちゃくちゃ頑張る人)、8歳上の姉に、2歳下の弟(勇気)の5人家族でした。
両親の田舎が長崎県の五島列島という島で、隠れキリシタンの多かった土地柄もあってか、家族はキリスト教(カトリック)を信仰していました。僕も小学生時代はほぼ毎週日曜日に教会に行っていた記憶があります。今でもクリスマスイブの夜だけ教会に行く不真面目な教徒になってしまいました。最近はなんなら神社の方が良く行きますし、もちろんお寺も遠慮なく行くので、信仰は典型的な日本人に近いと思います。
父のことで覚えているのはパチンコ狂。一応仕事はしているんだろうけど、よく母に仕事の車代(交通費)をせがんでいたのを覚えています。のちに複数人の証言で遊び代に消えていた事がよくあったことを知りました。お陰でうちはよくお金がないと思っていたし、貧乏だと思っていました。子ども達を連れて遊びに行ってくれたことも確かにあるんだろうけど、ほとんど母か父の弟子のお兄さん達と遊びに連れて行ってもらってました。
小学校高学年ぐらいになるとパチンコそのものを死ぬ程憎んでました。なので今までパチンコをやったことが1度もないのです。小さい時には父に連れられて行ったことはあるみたいなのですが、物心ついてからはお店に入ったこともないです。友達がやってたりするのはいいけど、自分がやろうとは思わなくなりました。お陰でギャンブル全般が基本的には嫌いでした。ですが投資などの話を聴いたり学ぶことは好きです。でも考えてみると、自分が就職もしたことがなく、個人の自営業しかしたことがないのはこの家庭環境だったからかもしれません。
<ターニングポイント1>
・元気と名付けられる。
これで名前の1人歩きと、病気の時に
「元気のくせに病気なんて・・・。」
と言われることが確定しました。
今でも
・「良い名前だね」
・「覚えやすい名前だね。」
・「一度聴いたら忘れないね。」
・「お名前は聴いたことが(FBなどで見たことが)あります」
とよく言われます。
小学校はそれなりに勉強ができ、それなりにスポーツもできて、名前の通り良く言えば「明るい」が、悪く言えば「うるさい」子ども。
学級委員とか、児童会会長とか前に出たがりな子どもでした。
小さい頃の夢は医者。理由は周囲の大人に稼げる(お金持ちになれる)と言われたことと、頭が良くないとなれないと言われたこと。貧乏は嫌だったし、頭が良くないとなれないのに元気にはなれると言われたことが嬉しかったんですよね。
中学校は少し出たがりが落ち着き、その他はそのままの延長で、変わったところはバスケ部に入るところぐらい。ただ、中2の時に軽いイジメにあい、仲の良かったグループから無視されるという経験をしました。その間は当時所属していたバスケットボールのクラブ活動の為に学校に行く日々。クラブの中でも微妙にイジメの影響を引きずっていましたが、1、2ヶ月でイジメも終わったような気がしますが、あんまり人を心の底から信じなくなったかもしれません。
高校は9割ぐらいの生徒が大学に行くような、でもそこまでハイレベルというわけでもないそこそこの高校に入りました。高校生活では今でも続く仲の良い親友と呼べる友達が出来ました。
高2の終わりまではそれなりに充実した高校生活を送り、
恋愛にバイトにバンド(ドラム)に合唱部と、なんやかんやといろいろあって楽しい時間でした。
<ターニングポイント2>
高3のころになると、父と母が不仲が決定的になる。
進路調査では自分の中で、当たり前の様に大学を希望していたのだが、父親と進路について会話するも
「そんなお金はうちにない。」と一蹴され諦めました。
奨学金などもあったのですが、自分の中でも
「(進学は)無理なんだ。。。(人生終わった感)」
という気持ちが強く、どうやったら大学にいけるか?なんて調べる気力もありませんでした。担任も願書の締め切りが全て終わった後に
「お前(進路)どうすんだ?」
と聴いてくるような放任主義だったので、諦めモードのまま日々を過ごしていました。
それまでは、一応学校内の成績では上位2割ぐらいには入っていたのですが、自分の中で勉強の意味をなくしてしまい、そこからは遅刻、早退、欠席は当たり前で、体育をするためと、友達や彼女に会いに学校に通っていました。
調査票は進学希望で出していたのですが、担任の放任主義もあって、結局就職活動などへの情報もサポートもなく、進路未定のまま卒業することになりました。
センター試験の日にクラスに4人、うち3人は推薦で大学が決まった人ばかりで、
「元気なにやってん?w」
と哀れみと苦笑いの声かけは、てきとうに笑って返していましたが当時は胸に来るものがありました。
今の自分で過去にタイムスリップできるなら、自分次第で人生を選んでいたかもしれませんが、あの時は無理だったんですよね。
ただ、高校生活の最後の冬に、
<のちのち生きてくるターニングポイント3>
卒業間近の12月にたまたま現在のパートナー(後輩)と付き合うことになりました。
そして、プチ引きこもりのフリーター時代。
結局、父と母が離婚することになり、姉はすでに結婚していたので、母と弟の3人暮らしが始まりました。
高校時代のお陰で音楽は好きになっており、少しでも音楽関係のバイトができればとカラオケボックスのバイトを始めました。深夜のバイト。大学生になっている友達となるべく会いたくなかったので遊びの時間がズレることと、時給の関係で選ぶことに。
このころは『てきとー』に生きていました。
てきとうに合わせて、
てきとうなノリで、
すべては薄っぺらい、
ぺらぺらのてきとーが1番合うと思います。
その場、その瞬間よければすべてOK。
刹那主義。
でも根が臆病なので大したこともできず、何をしていたかあんまり覚えていないけど、あっという間だった気がします。
アルバイトのバイト仲間の人達のお陰でギリギリ自分を保ててたと思います。今でもあの時の人達には感謝があります。
2年近くもそんな生活をしていると、大学に行く友人達からは再び、苦笑いと哀れみ混じりで
「お前、将来どうーするの?」
と言われたりすることがありました。
この時は、悔しくて悲しくて、見返すために見下すために、漠然と将来を考え始めました。自分より先に行っている友達に負けないために(勝つ為に)どうすればいいか?と考えた時に狭い知識では死ぬ程憎んでいる現状を作った原因(だと決めつけていた)父を思い出すことになります。
手に職を持って社長になるしかないと思い、昔から好きだったゲームと好きだった音楽を掛け合わせた仕事が出来ないか?とゲームやなんかのBGMを作る、サウンドクリエーターという仕事を考え始めました。
確か20歳になりたての秋のころ、ある情報を発見します。
それは大手ゲーム会社が作る専門学校の情報でした。当時ゲームも音ゲーと呼ばれるジャンルの盛り上がりもあり、そこに通うと成績優秀者はその大手企業に正社員待遇(給料は院卒と同等)で入社でき、しかも学費全額返還という太っ腹な情報を手にいれるしかし学費は3年で300万。入学金と初年度だけでも100万強はかかりました。適当に生きてきた自分に貯金はそんなにないしどーしたもんか?と考えたところ、ストレートに大学院に行って卒業すると考えると24歳。今は20歳ということで、4ヶ年計画を立てました。
そしたらあいつらに追いつけるし、しかも秋入学というのもあるじゃないかと。
というわけで、
4ヵ年計画としては、
最初の1年は秋まで貯金することにする。
そして秋には入学し、入学後は死ぬ気で勉強とバイトを両立させて成績優秀者に入る。
で、見事大手企業に入社、肩書きGET。そこからは30歳までぶっちぎりで働いて独立し社長で人生バラ色になる。
そうなるとあいつらを見返せる見下せる。
という安易な考えを計画と考えていました。
その為に必要なことは、
・その1
社長なので社会人としてのビジネスマナーと言葉使いということで、たまたま友達に紹介してもらっていた某ドーム球場のVIPルームの接客の仕事でいつも以上に言葉使いなどを意識して働くことにしました。
・その2
サウンドクリエーターはパソコンを使って作るはず。なので必要なのはパソコンの知識のはず。
入学してからパソコンの使い方を覚えていたら遅れを取る。なのでパソコンの勉強をしながらバイトできないかと考えていたところ、奇跡が起きて家から徒歩2分のところに自作PCショップがオープンすることに。
オープニングスタッフの求人情報を雑誌を見ても乗っていなかったのですが気がつけばオープンしており、諦められなかった僕は今度は店の偵察に行きました。
すると手書きの求人情報を発見。電話するとすぐに面接で採用になりました。これは後でわかるのですが、求人誌に乗せる経費がなかったためでした。
入ってみるとパソコンの素人は僕だけ。でも素人のお客様様の気持ちはわかるので、素人のお客様専門の接客担当のようになってました。ここでpcの知識の基礎を手に入れます。
・その3、その4
入学後の体力。と、お金。
学業にアルバイトと両立するためには必然的に睡眠時間が減ります。
なのでなれるためにあえてカラオケの深夜のバイトを続けることにし、そしてついでに他のバイトも始めてお金を貯める。一石二鳥作戦を決行!
基本、
11:00~20:00はパソコンショップ。
22:00~3:30(実質4時)までカラオケボックス。
週末は野球やコンサートなどがある日に、14:00~22:00までVIPの接客という仕事をしていました。
でも、そんな生活を送り始める20歳でした。