限界小説研究会BLOG -4ページ目

彼ら彼女らのゆるい/もろい共同体とその後について ――朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』

彼ら彼女らのゆるい/もろい共同体とその後について
――朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』
海老原豊


 今、共同体はもろくなっている。それは、人と人との繋がりが希薄になっている、という意味ではない。繋がりは濃密なのだ。そして、ゆるくなっている。だが、それゆえにもろくなっている。人は細切れにされ、ばら撒かれ、遍在している。ユビキタス化といってもいいかもしれない。繋ぐのはネットワークだ。グレッグ・イーガンの『順列都市』の世界は、ある意味で、すでに到来しているのかもしれない。

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 現代日本の学校教育現場および労働現場において評価される基準が、かつてのような能力主義(メリトクラシー)から、コミュニケーション能力やさらには「人間力」(あるいは○○力)といったような人間の行為ふるまい全般へと引き延ばされ拡散されたハイパー・メリトクラシーに変容している。この経緯を社会学的に分析したのは本田由紀だが、それを引き継ぐ形で笠井潔は『例外社会』(2009年)の「例外社会と復岐する実存」と題する章で、「複存」という概念を提案している。メリトクラシーからハイパー・メリトクラシーへと「労働の意味が変貌した事実」と、「自己同一的な主体の衰弱」の関係を指摘し、つまるところ「自己同一的で輪郭鮮明な私は「終わり」を決定できない私に解体され、亡霊のような無数のもう一人の私と曖昧に同在するように」なり、このような人間の存在形態を笠井は「可能性の分岐に応じて複数の私が隣在するという意味で、仮に復岐実存、略して複存としよう」(604)と述べている。
 メリトクラシーからハイパー・メリトクラシーへ、実存から複存へ。アイデンティティと承認をめぐるシステムにこのような変化が起こっているという指摘は様々な論者がしている。東京大学の修士論文を加筆訂正したうえで出版した古市憲寿『希望難民ご一行様』(2010年)は、「ピースボート」という世界一周クルーズを実施する団体への参与観察を通じ、若者たちを漠然とした「セカイヘーワ」へと自己啓発を促し、あるいは自身の中の可能性を際限なく発掘するように駆り立てる若者の背後にある社会構造を分析している。古市が冒頭から主張するのは、若者に「あきらめさせろ」ということだ。若者に向かって「あきらめろ」、というのではない。若者に不断の自己啓発と努力を強いるハイパー・メリトクラシー社会に向かって若者を「あきらめさせろ」、と。結果としてあきらめた若者がたどり着くのは、ピースボート終了後にできた「セカイヘーワ」抜きの仲間同士のゆるい共同体であり、若者たちはそこでそこそこ楽しくやれるのではないかと古市はいうが、同書「解説、というか反論」を担当している本田由紀がいみじくも指摘しているように、このようなゆるい共同体はもろいものでもある。もろいものである理由は大きく分けて二つある。そしてこの二つはもちろん連動している。
 一つは格差社会的な正規雇用/非正規雇用の分割からゆるい共同体が完全に無縁ではないことだろう。論者によっては、無縁どころか格差社会の構造に積極的に組み込まれていると指摘するものもいる。正規雇用で所得が高いものほど現状に不全感を覚え更なる努力を求めるのに比べて、非正規雇用でかつ所得が低いものほど現状に満足している所得格差を意欲格差が相関している現状は、自己肯定の感覚が所得の低さを埋め合わせている「やりがい搾取」(阿部真大)の構造と連動していることには容易に気がつく。かくしてゆるい共同体はハイテンションな自己啓発(鈴木謙介)を通過し、足りない賃金を埋め合わせるための承認を供給してくれるわけだ。しかし、繰り返すがこの共同体はもろい。容易に企業のロジックに絡み取られ、バイク便ライダーのように心身ともに燃え尽きる(バーンアウト)可能性が高い。本人の気持ち「この場所は自分にとってかけがえのない場所だ」とは裏腹に、企業の論理は「この場所で働けるのは何もあなただけではない」ため、労働力の代わりはいくらでも供給できる。そもそもこのような代替可能なものとして発案されたのが非正規雇用ではなかったのか。
 ゆるい共同体が同時にもろいものであるもう一つの理由は、共同体が共同体成員に承認を与えるその構造が、かつてのような超越性をもった神のような存在からのトップダウンのそれではなく、成員同士のネットワーク状コミュニケーションによるボトムアップのそれであることだろう。「繋がりの社会性」(北田暁大)や「コミュニケーションの網状化」(荻上チキ)といわれる、このコミュニケーションのネットワークによる承認システムの問題点は、簡単にいえばコミュニケーションのためのコミュニケーションといったようにコミュニケーションが合目的化されることだ。潤滑なコミュニケーションをもとめるあまり、そこにつどう人たちは半ば必然的に、そして本質的な構造として、先鋭的な形式化をする。形式化されたコミュニケーションはその特徴として、土井隆義が「優しい関係」(『友だち地獄』)や、内藤朝雄が「ノリは神聖にして侵すべからず」といったように、やがてコミュニケーションの場=空気そのものに支配的な力が及ぼす。共同体成員は他の成員への過剰なまでの同調を通じ、その場の空気を呼吸し、空気を創出していく。この空気の創出に大きな役割を果たしたのがポケベル‐ピッチ‐ケータイと段階的な進化発展を遂げ、社会に浸透していった個人で使用するポータブル・メディア・テクノロジーだろう。ケータイは「ポケットにむき出しの刃物を入れている気分」(原田曜平『近頃の若者はなぜダメなのか』)だと若者がいうとき、誰にでも繋がれるケータイは、常に誰かに繋がっていなければならないという圧力とあわさって、自らの身体の一部がまるで昆虫の触覚のように具現化したものとして認識されている。このとき、ケータイは、とてもゆるい共同体に自らを繋ぎとめる、非常にもろい身体的感覚器官の一部となっている。
 ゆるい共同体の二つ目のもろさの問題点は、内藤朝雄が『いじめの社会理論』で理論化したような、中間共同体における過同調圧力を原因とするいじめとして表出する。内藤によればいじめは近代学校という社会制度そのものに本質的に内在しているものであるので、ケータイ以前/以後という分割を素直に当てはめるわけにはいかない。内藤はいじめの例として古くは第二次世界大戦中までさかのぼっている。非国民という言葉が今でいうKYに相当しているという内藤の指摘は、しかし現代が新しい戦争状態=世界内線であるという笠井潔を連想させまいか。21世紀的戦争の影響下に、若者や学校に通う子どもがある。彼ら彼女らは銃をもって人殺しをするわけではないが、むき出しの刃物=ケータイは常に懐に忍ばせている。

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 学校を舞台にしたいじめ小説は数あるが、そのうち白岩玄『野ブタ。をプロデュース』(2004年)や木堂椎『りはめより100倍恐ろしい』(2006年)などはゆるい共同体の二つ目のもろさに焦点をあてたものだといえる。学校(学級・部活)といった小さな共同体内におけるコミュニケーション・ヒエララルキー=スクール・カーストを積極的に描こうとするこれらの作品は、現代の教室を生きる子ども達の現実を切り取ったものだ。純文学では暴力的ないじめは出てこないがスクール・カーストや同調圧力の力学を作品に取り込んだ綿矢りさ『蹴りたい背中』(2007年)、熾烈ないじめを描写した川上未映子『ヘヴン』(2009年)、サブカルチャーでは一貫してスクール・カーストへの注意を払っている辻村深月の諸作品、ライトノベルというジャンルの中でスクール・カースト小説の形式化を図った田中ロミオ『AURA~魔竜院光牙最後の闘い~』(2008年)など、枚挙に暇がない。
 ここで簡単に紹介したいのは、第22回小説すばる新人賞を受賞した朝井リョウのデビュー作『桐島、部活やめるってよ』(2010年)だ。バレー部のキャプテン・桐島が「部活をやめるってよ」という話が桐島と直接的・間接的に関わる人間たちの間で伝わっていく。六つ(実質五つ)の章ごとに視点人物を変えるので、五人の主要登場人物が出てくるが、そこに問題の桐島は含まれていない。タイトルが「桐島が部活をやめる」という事実確認的な文ではなく、あくまで「やめるってよ」という伝文体であることがはっきりと示しているように、作者は桐島をあえて視点人物からはずしナラティブに彼の不在を貫くことで、桐島の存在感を逆に高めることに成功している。運動部のキャプテンであることは桐島をスクール・カーストの上位に位置づけるも、クラブの中である時期から「浮いて」しまい、桐島は「やめる」ことを選ぶ。とはいえ最後まで、本当に桐島がやめるかどうかまでは明示されていない。最初と最後の章の視点人物となっている菊池宏樹が、それまでサボることで逃げていた野球部の練習に向かう様子が描かれ本書は終わるのだが、菊池は桐島に「お前はやり直せる」と伝える決意をすることから、今後、桐島がクラブに戻ってくる可能性はあるともいえる。
 桐島がクラブからはじかれてしまった原因は、クラブ内人間関係の挫折、つまりはゆるい共同体がもろくも壊れてしまったためだ。この危機に対して『桐島』を構成する五つのナラティブが提示する処方箋は、「自分の好きなことをやる」という極めてシンプルなものだ。各章の視点人物は、それぞれクラブに所属している。菊池宏樹は野球部(ただし、今はサボっている)。小泉風助はバレー部で、桐島の支え(だった)。沢島亜矢はブラスバンド部、前田涼也は映画部、宮部美果はソフトボール部。彼ら彼女らは桐島のようにスクール・カーストの上に必ずしも位置しているわけではない。沢島は「真ん中」ぐらいで、たまたま一緒にいる志乃という女友だちは、本来は「上」だけれども人間関係にはじかれたために沢島といる。志乃本人だけでなく、沢島もそのことはよく理解している。映画部の前田は、友だちの武文と作った映画が映画甲子園に入賞し全校集会で表彰されるが、「陽炎~いつまでも君を待つ~」というタイトルまでよみあげられ、嘲笑的な笑いのさざなみが全生徒の間に広がるのを目にする。表彰をされたからといってクラス内で尊敬を勝ち取れるわけもなく、「なかった」ことにされる。前田は武文とともに、そのことに諦めている。沢島にしろ前田にしろ、彼らの中ではスクール・カーストは半ば仕方がないものとして共有されている。
 野球部から逃げるためにサボり続け、ふらふらと友だちの間を遊んで歩く菊池は、スクール・カーストの「上」にいる。運動ができイケメンである彼には彼女もいて、セックスもする。しかし彼にはどうしようもなくうらやましく思うときがある。それは沢島や前田やそして桐島や、何かひとつのことに没入をしているものの姿が目に入るときだ。菊池はどうしようもない焦燥感にかられる。先述したように、菊池は最後に野球部に戻る決意をする。彼の背中を押したのが、新作映画の撮影を始めた前田だった。といっても二人の間で何か大きな事件があったわけではなく、前田が落としたカメラのレンズのふたに菊池が気づき、拾って声をかけて返したというただそれだけ。前田視点であれば、「僕は、初めて喋ったな、今、と思っていた。あのグループの人達とは接する機会もなかったし、接してはいけないと思っていた」(118)となるこの出来事は菊池の世界では、「きっとレンズの向こうに映るバドミントン部は、この目で見るより遥かに美しいのだろう。だけど、そのレンズを覗く映画部の二人の横顔は、/ひかりだった。/ひかりそのもののようだった」(196)となる。菊池は、自分の好きなものに夢中になる姿に、純粋に心をうたれている。それはスクール・カーストを超えている。
『桐島』の新しさはここにある。ゆるい/もろい共同体のもろさを所与のものと前提し、共同体からの排除=「桐島、部活やめるってよ」を出発点にしつつ、もろさをカヴァーする可能性を模索している。そしてサボり休部状態である菊池が野球部に復活することを通じ、一つの道を示したわけだが、しかし、それで全てが解決したと楽観できるほど社会は単純ではない。先ほどゆるい共同体のもろさの原因を二つ指摘した。このうちの二つ目、合目的的化された形式的コミュニケーションはある意味で、学校と非常に相性がよい。しかし一つ目のやりがいや格差社会といった労働の問題系は、二つ目ほど直接に学校生活に現れるわけではない。もちろん職業・キャリア教育という形で関連しているのは事実だが、子ども達の主たる関心ごとではないことが多いし、そしてなにより『桐島』は学校と連動した労働を描くことはそもそも意図していない。だから一つ目の観点が抜け落ちていると『桐島』を責めようとは思わないが、『桐島』の登場人物たちが数年後、どのような労働者となっているのかを考えることは必要である。それは菊池が彼女である沙奈に向ける視線、それも非常に冷徹な視線を読むと見えてくる。「俺の彼女はかわいい。確かにかわいい。/だけどたぶん、それだけだ」(176)と菊池は思う。サッカーの時間、菊池からのパスを生かせなかった映画部の武文のことを、沙奈は馬鹿にする。「てか映画とか作っとる時点でサッカー抜きでキモーい」(177)。しかし菊池は思う。「沙奈はきっと、これからずっとああいう価値観で生きていくんだろうな、と思った。[…]ダサいかダサくないかでとりあえず人をふるいにかけて、ランク付けして、目立ったモン勝ちで、そういうふうにしか考えられないんだろうな。/だけどお前だってそうだろうが」(178)と、自分に向かって問いかける。
 菊池にとって彼女・沙奈は「かわいい」だけじゃだめなのだ。かわいそうとすら思われてしまう。この「かわいい」が、消費社会のキーワードであることは大塚英志を紐解けばすぐにわかる。消費社会は、当たり前だが、労働者の存在を前提としている。大半の人間が、労働をし得た賃金を消費にまわす。金の使い方ばかりを考えてきて、どのような働き方があるのかもっと考えてこなかったツケがワーキング・プアや派遣切りといった形で表出したのだとも考えられる。「かわいい」彼女が何を生産することができるのか。一つのものに夢中になることで「やりがい」を得ることができたとしても、果たしてどのような環境であれば「やりがい」を搾取されることなく、それをやりつづけることができるのか。菊池と沙奈の対立は、今後、『桐島』の彼ら彼女らが社会に出て行くときに直面する対立でもある。そして『桐島』という複合的ナラティブ自体は、この対立を示してはいるが、答えとなっているわけではない。彼らと彼女らのゆるい/もろい共同体のその後について考えていく必要がある。

桐島、部活やめるってよ/朝井 リョウ

¥1,260
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POWER OF TOWER/『フロントミッション エボルヴ』

POWER OF TOWER/『フロントミッション エボルヴ』
藤田直哉



 塔が、崩壊した。
 塔とは、何か。一義的には、ワールドトレードセンターである。だが、象徴的にはもっと大きなものである。ユングの原型論では、それは「統合」の象徴である。
 あるいは創世記に現れる「バベルの塔」は何を意味していたか。それは神に向かって建設されていく塔であり、人間の驕りの象徴のようなものであった。その塔は崩壊し、人々は分裂し、別々の言葉を話すようになった。聖書の影響が強い文化圏では、「塔」と言えばこのような過去にありえたかもしれない「統合」を意味しているだろう。そしてそれが崩壊し、世界はバラバラになり、分裂と混乱が訪れた。
 その象徴としての「塔」、統合の象徴としての「塔」が、バラバラになった宗教と文化によってさらに崩壊させられた。2001年の9月11日のことである。イスラム教徒は、キリスト教徒と同じ、旧約聖書を聖典としているにも関わらず。いやむしろ、同じ聖典をベースにしているからこそ、その象徴的な攻撃の意味が理解できるだろう、とでも言うかのように。

 スクウェア・エニックスの新作、『フロントミッション エボルヴ』はお世辞にも出来がいい作品とは言えない。映像の荒さ、操作性の悪さ、ストーリーの練れてなさ、などなど、問題点を指摘するとキリがないだろう。それでもここで取り上げてみたいと思ったのは、その内容の象徴するところが興味深かったからだ。
 この作品は、ニューヨークに謎の軍隊が攻撃を仕掛けてくるところから始まる。未来世界を舞台にしているこの作品は、軌道エレベーターが存在している。そして、ニューヨークに存在する軌道エレベーターという「塔」が崩壊させられる。そして戦いが始まる。
 明らかに911の反復である。2001年以降、911の記憶を想起させるハリウッド映画群の出現は映画好きなら誰しも知っていることだとは思うが、ゲームの世界もまた911の記憶に侵されている。全世界で大ヒットした『グランド・セフト・オートⅢ』の、ニューヨークを模したリバティシティでの無法、あるいは『Call of duty4:modern warfare』でのテロリストたちとの戦い。『Cod4』はなぜか悪玉がソ連になる点や、ゲリラ戦やテロとの戦いに応じていないのではないかというゲームシステムへの不満はあるものの、見事な作品であった。他にも、『アンチャーテッド2』などにおいて、戦争と内戦で崩壊している都市の物語内容とは無関係に思える出現など、ゲームにおいて戦争の出現する頻度が高まっている。日本においても『メタルギアソリッド4』などがそのような状況に呼応している。(次回限界小説研究会論集『サブカルチャー戦争 「セカイ系」から「世界内戦へ」』所収の拙稿は、そのような911以後の映画と『メタルギアソリッド4』について論じたものとなっている。この文章もまた、その内容の問題意識の延長線上で書かれている)
 フロントミッションシリーズは、基本的に現代の現実の延長線上にある未来を描いている。ロボット物なのに硬派な戦争観を描いている本シリーズを筆者はとても好んでいる。シリーズ第三作では、オープニングタイトルに、一兵卒がくたびれて一人荒廃した都市の中に立ち、「人類は何も学ばない」というペシミスティックな言葉が出たのは痛切に印象に残っている。それは中学生・高校生がプレイするゲームの中であまりにペシミスティックだった。そしてそのシビアさこそが、スクウェアが他のゲーム会社と一線を画している美徳であった。
 本作の世界観では、世界はOCU、USN、大漢中、ザーフトラ、ECなどに分割されている。まるで原理主義の衝突のような本作は、それぞれの軍隊が敵対したかと思うと連合する。最終ステージである軌道エレベーター「バベルの塔」において、様々な国家・民族の人々が手を組むのはお約束と言ったところであろうか。
 さて、ネタを明かしてしまうが、本作は軌道エレベーターの頂点にある衛星からの攻撃兵器「ダモクレスの剣」を手にした武装集団が、自らが「敵」となることで世界の統一を願うというものである。この物語は、星新一の、世界が統一するために「宇宙人の侵略」という嘘の戦争を作り出して、人類を連帯させようとしたショートショートに近いアイデアである。人間が敵を作り出さないと集団を形成できない生き物であるという点を抉るものである。
 そして「ダモクレスの剣」をコントロールする「神」のような存在はAIである。これもよくある話なので省略しよう。そして最終的に、その「神」=AIが破壊され、「塔」は残る。軌道エレベーターは、「塔」として統合の象徴であると共に、宇宙と無限のフロンティアの象徴である。それは破壊されないで維持される。
 最終章「NO BORDER」において、地球を見下ろす主人公は、地球には国境はないのだと感慨を漏らす。だが、このなんと安易な結末か。ジョン・レノンの「イマジン」にまで退行するかのようなこの陳腐な結末にはさすがに違和感を禁じえなかった。
 そもそもが、「バベル」は統合の象徴であるのに、イスラム系の人物は、やはりその作戦に参加しているようには見えないのだ。まぁこれは言いがかりに近い部分があるので、百歩譲ったとしても、「神」を殺してしまい、地球には国境がないとしても、現に民族や文化・風習の違いによる対立は存在し続けている。宇宙から地球を人々が見てからもう何十年も経っている。国境が人為的な「虚構」に過ぎないことなど誰もが知っている。だが、その「虚構」が現実的な力を持ち続けてしまっているということもまた事実なのだ。「神」を殺せば、さらに混乱と対立が深まるのではないか。
 いや、そうではないという見方もできるだろう。結局のところ、イスラム教とキリスト教も一神教である。「一神教的構造」を破壊すればそれが解決になると言うのかもしれない。だがそれもまたありえないことである。一神教的構造を批判したポストモダン文化の成れの果てにはトライブ闘争が依然として続いている。人々が集団を形成し、対立するという本質には何も変化がない。
 さて、本作にはEDGEシステムというシステムが導入されている。戦闘の際に意識のスピードを上げて周囲をスローにするこのシステムは、戦局をひっくり返すのに重要な役割を果たす(この戦闘は、すぐに死ぬし、戦略が重要で、なかなかにシビアで面白く、EDGEの使い方で勝敗は決する)。このEDGEシステムは、人々の内面に接続されており、それによる支配とコントロールが可能な設定となっている。だがこのシステムのコントロールは、恋人による「呼びかけ」で乗り越えられる程度のものでしかない。この甘さとクリシェな展開にはうんざりする。かつてのスクウェアの持っていたシビアさが徹底して失われてしまっている。それならば、伊藤計劃『ハーモニー』のように、人類全体の内面のコントロールと意識の消失により、人々の闘争を全面的に集結させるという、極端な突き詰めまで何故行けないのか。このような極端な状況との対峙がなければ、現在にこのような設定の物語は力を持つことができないだろう。「愛」で解決するような甘さは徹底して退けられなければならない。その「愛」の感情を作り出し、コントロールすることこそが、内面管理システムの深刻な問題であるからだ。

 ここからは半ば愚痴めくが、最近のスクウェア・エニックスのゲームは、どうも詰めが甘い。特にストーリー面での詰めが甘いように感じられてならない。『FF13』も面白く、クライマックスも盛り上がったが、何か一つ足りないという気にさせる。スーパーファミコンからPS1の頃のスクウェアのゲームは、本当に素晴らしいものであった。それはゲームという形でしか表すことのできない世界の真実がこの中にあるのではないかと錯覚し、熱中してしまうほどの作品群だった。当然、僕は若かった。今のほうが知恵がついてしまったということはあるだろう。だが、『ゼノギアス』や『FF7』での、後半部の、世界の全てが何度もひっくり返されるような怒涛の展開はどこにいったのか。『FF10』にも、世界の根幹を揺るがす秘密が存在していたではないか。『FF4~6』もまた、後半は怒涛の展開であったのではないか。
 これは僕の勝手な印象にすぎないのだが、『FF4~7』には本当にヒリヒリするような切迫感があった。それは決して分かりやすい物語ではなかった。筋は明確には分からないが、とにかく後半には怒涛の展開が起こり、えらいことになるというテンションが存在していた。そして、スクウェア作品の魅力とは、この(相対的に)妥協しないヒリヒリした限界にまで作品が突き進んでいくというそのドライブ感にあったのではないか。塔やボス、戦闘などは、全て「メタファー」として様々な連関をもたらし、それが超現実主義のように、我々を謎の陶酔に連れて行くという、至福の感覚があった。とにかく、わけの分からない果てに連れて行かれるという感覚があった。
 その魅力が、今は薄まってしまっている。ゲーム業界のハリウッド化にともなって、最大公約数的な、冒険のできない物語しか企画が通らなくなっているのかもしれない。しかし、それは、僕たちがスクウェアのゲームに求めていたものではないのだ。もちろん、ネットゲーム的に、永遠にゲーム内にいるプレイヤーや、コミュニケーションを志向するプレイヤー、そしてラスボスより強いボスなどのやりこみの要素などは充実してきているだろうし、そういうユーザーが増えてきていることは理解している。とはいえ、肝心の物語が弱くなっているのではないか。スクウェアのゲームに、「ゲーム」という形でしか体験できない「物語」を超えた何かの陶酔を感じてきた人間にとって、それが失われてきているのは、単純に惜しい部分がある。スクウェアの魅力とは、シビアさと、極限まで行き着くヒリヒリした部分にあるのではないだろうか。
 『FF13』の映像は、ムービーも含めて、本当に素晴らしいレベルに達していたし、戦闘システムも魅力的であった。だが、ストーリーの「表層性」には詰めの甘さを感じずにはいられない。同じような詰めの甘さが本作にも感じられる。ゲームが、大人もプレイするものであり、そしてコミュニケーション志向ではなく映像志向の作品が物語を伴うものであるならば、その「物語」には、ゲームという形でしかできない、味わえない、行き着くところまで行き着くような冒険をして欲しいと、一ユーザーとしての筆者は、我侭にも思ってしまうのだ。それが、ゲーム黎明期故に可能であったことであり、現在の大作の現場では難しいのかもしれないとも思いつつ、かつてのスクウェア作品で味わった熱狂的な陶酔に「世界の真実」すらあるのではないかと勘違いしていた筆者のようなプレイヤーが再び現れるような、ユーザーを信用し、全力で中学生や高校生に「世界の真実がここにあるのかも」と錯覚させるような作品が現れて欲しいと、心から願うばかりである。

フロントミッション エボルヴ/スクウェア・エニックス

¥8,190
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『シナオシ』 /再試回路

『シナオシ』/再試回路
蔓葉信博



1.世界

 佐津木学園の女子高生である《私》は、とある人物の来訪によって自分が一度は死に、そして時をさかのぼって「今見かずみ」としてよみがえったことを思い出す。
死後の世界というべきところに舞い込んだ《僕》は、その世界の《案内人》、ナヴィと出会い、死語の世界の不思議な仕組みを知る。この世界にはしばしば、死ぬべき時ではないのに死んでしまった人間が舞い込むことがある。その場合、死後の世界の《案内人》によって、その人間は現世に舞い戻ることができるというのだ。殺すべきではない人を殺してしまったという罪を背負っていた《僕》。かつての行いを「為直す」ために、《僕》は《シナオシ》としてよみがえる決意をする。
 そうして《僕》はナヴィの力を借りて、今見かずみとして生き返る。それが今の《私》。だから、《私》は《僕》が犯した殺人を止めなくてはならない。ナヴィによれば、どうやら殺人が行われる期日はもうまもなくだというのだ。しかし、かつての自分の記憶はすでにない。殺人を犯した《僕》は男子学生で、自分のことを「僕」という一人称で表現するぐらいなのだ。そんなおぼろげな手がかりをもとに、ナヴィとまだ起きぬ事件を追い求め、つきとめた《僕》の正体とは……。
 前作『キリサキ』は、死後の世界から舞い戻った人間が、連続殺人事件の真相を追い求める話で、西澤保彦『人格転移の殺人』を思わせる人格入れ替えの錯綜ぶりと、その錯綜を支えていた緻密な設定が評価された作品であった。この『キリサキ』でも、その設定を巧みに使い、読者をめくるめく世界地平へと誘ってくれる。よき推理小説読者ならば、こうした異世界設定を援用した作品をいくつも思い浮かべることができよう。たとえば先にあげた『人格転移の殺人』以外にも乾くるみ『マリオネット症候群』などは、あたかも悪意に満ちた『キリサキ』のような話で、作中の錯綜ぶりは『キリサキ』に引けを取らないものだった。それらの作品の世界設定は、容易に頭の中に描けるような代物ではないことは指摘しておきたい。ライトノベルだけでなく、多くの小説が登場人物の魅力によってその人気を保っていることは事実だが、見方を変えてみれば、そうした世界設定も十分魅力ある登場「世界」だといえはしまいか。『キリサキ』や『シナオシ』もそうだが、『人格転移の殺人』などは作中の世界設定の説明に数十ページも割いている。大袈裟なことをいえば、この世界の仕組みは裏の主人公なのだ。

2.回路

 死後の世界の時間は、万人にとって川上から川下に流れるような客観的なものではなく、個々人の認識によって決められる。川をどこから渡るかは、個々人の立ち位置によって決まるものだ。空から俯瞰してみれば、それら個々人の軌跡はあたかも緻密に入り組んだ回路のようなものとなろう。《ナヴィ》にいわせれば、死後の世界の時間とはそういうものであるらしい。そのような『シナオシ』での世界設定は、SFではよく知られた世界設定であることが判明するのだが、これは前作の設定を拡充した設定といえる。人格の入れ替えそのものの技巧は前作のほうが複雑であったが、今回はその世界設定を導入することで、簡単な回路を二重写しにする必要が生じる。その重ね合わせられた回路は、前作同様複雑な模様を描く。
 こうした作品の回路を自分で再現することは、推理小説が読者に事件の謎を解くための推理ととても近いものを感じさせる。作中にあるSF的世界設定の道具立てを、読者は拾い集めて、自分の頭の中で回路を再現してみる。その回路は果たして作中の不可思議な現象とぴったり一致するかどうか。実際に作中の主人公も、その世界設定をもとに捜査をはじめ、かつての自分を絞り込んでいく。その行為は推理小説で探偵役が行う推理と等しい。もちろん厳密な本格推理小説と違い、SF的世界設定が公平に推理できるようにできているとは限らないわけだが、読了後にその世界が緻密な回路で成り立っていたことが判明した時、その論理的な構成力に読者は舌を巻くことだろう。もし手元に紙と筆記用具があるのなら《僕》と《私》を含めた登場人物たちの時間割りを作ってみるといい。出来上がった構図にほれぼれすることだろう。もちろん、さらにつきつめて考えるとこの世界設定には多くの余詰めがある。「存在するはずのない人間」は基本的に殺人を犯すことはできないことや、「存在するはずのない人間」が関与した事件はどこまで存在しなかったこととして判定されるか。はたまた、「存在するはずのない人間」の連鎖の始まりはどこか。そこは『シナオシ』だけでは、世界設定の余詰めとなるが、これはより一層の設定拡充の可能性である。まだまだ、この世界の可能性は広がるということだ。

3.陥穽

 われわれが生きている日常の「現実感」というものは、かつて考えられていた基盤をすでに失ったあとの残留物でしかない。いや、かつてあった確固たる基盤というものが、その時代における一種の欺瞞によって捏造されていた代物だったわけで、その欺瞞がついに暴露されてしまったはての荒野の世界。それが今の現実なのだろう。そうした喪失感と隣り合わせの現実感を東浩紀は、「ゲーム的リアリズム」という概念で描き出そうとする。東浩紀は雑誌「ファウスト」vol.6 SIDE-Aの「ゲーム的リアリズムの誕生」において『九十九十九』『All You Need Is Kill』を題材に、「ゲーム的リアリズム」というものについて考えを巡らす。あたかも「ゲームの現象学」のようなその考察の射程に、この『シナオシ』も含まれるべきだろう。
 そこで『シナオシ』からひとつの問題を見いだすことはたやすい。事件を「為直す」ことによって、かつてあった過去を変容させてしまったわけではない。登場人物にとって、東浩紀風にいえば「キャラクター」にとって解決されただけでしかない。一個人としての解決が、はたして読者にとっての解決となっているだろうか。そこに欠けているのは、もうひとつの世界の犠牲があって当事者の安寧を確保できたという自覚だ。その自覚は世界の回路を俯瞰できるものにしか実感できない。東浩紀の「キャラクター」と「プレイヤー」の区別はその実感の有無による。「キャラクター」にとっては平穏であっても、読者にとってはそうではあるまい。そしてこの《シナオシ》という存在は、「キャラクター」から限りなく「プレイヤー」としての立場を獲得できる存在として設定されている。しかし、そこには深紅のジャケットを踏み台にした戦士のような決意がまだない。かといって、自覚があればよいというものでもないのだが……。

4.輪郭

 その一方で『シナオシ』には新しい可能性が秘められている。たとえば他人の身体に乗り移ったとしても人格に残っている記憶、かつてあった自分の想いは新しい自分を束縛する。それが作中では重要な犯行動機として提示される。個を確立させているのは人格と肉体だ、というのは近代科学の基本である。しかし、精神医学や認知科学の研究、生命科学の発展によって近代科学の基盤を改めて問い直されている。記憶は物理的なものなのか、精神的なものなのか。過去は降り積もるものなのか、過ぎゆくものなのか。そのはざまに生きる登場人物の揺らぎが哀切さとして描かれている。いかに、物語が「為直さ」れようとも取り返しのつかないもがあるという証なのだ。だから、この作品の白眉は《僕》が誰なのかを突き止める犯人当てではない。むしろそれは手がかりのひとつなのだ。その世界設定に翻弄される登場人物たちの思いがけない情感の軌跡、そしてその結論としての犯行動機を、読者は二重写しにされた回路を通じてはじめて知ることができるのだ。
 ライトノベルと呼ばれる作品群は、イラストが多用されているという外在的理由や、作中の登場人物設定が漫画やアニメといった別の媒体の借り物を使っているからとか、われわれに内在するそういった漫画・アニメ的な記憶が呼び起こされる読み物だから、若者向けなのではない。それらは、あくまでも方法であって、目的ではない。その目的とは、若者でしか感じ取ることのできないつかみどころのない感傷や、抽象的な飢餓感、やり場のない空虚、破滅的な愉悦、そういたものの輪郭を描き出すことなのだ。そうした多感な輪郭と作品世界の論理的構成力とが見事に重なり合った『キリサキ』は、新しい小説像を知るための試験石といえよう。