限界小説研究会BLOG -3ページ目

戦争を描くアニメとしての『魔法少女リリカルなのはStrikerS』


戦争を描くアニメとしての『魔法少女リリカルなのはStrikerS』
小森 健太朗




 筆者は、このたび刊行された『サブカルチャー戦争』に、「Wから00へ」と「モナドロギーからみた『図書館戦争』」という二本の論を寄稿している。前者は、主に「ガンダムSEED」連作、後者は有川浩の『図書館戦争』シリーズの考察を主題とするものだ。もともと私がこの論集に寄稿しようと思っていたのは、ゼロ年代のアニメの中で、戦争の描きかたが悪い三大ワーストアニメとして、《ガンダムSEED DESTINY》《図書館戦争》《魔法少女リリカルなのはStrikerS》の三作品をあげたことがあり、その三作の戦争観について考察するものだった。その過程で、「ガンダム」に関しては《ダブルオー》も視野に入れて考えた方がよく、さらに、比較考察のためには90年代のヒット作である《ガンダムW》も視野に入れた方がよいという考えから、独立した論を書くことにした。また、『図書館戦争』についても、単独で一本書くべきだと判断し、論を書いた。
 そうすると、あと残ってしまったのが、《魔法少女リリカルなのはStrikerS》に関する考察である。それについてこの小稿で簡単にとりあげることにしたい。

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 二〇〇九年十二月に同人誌として刊行した、筆者と長谷川壌との対談誌「二〇〇〇年代テレビアニメ対談」中の《魔法少女リリカルなのは》を主題とした節で以下のような発言がある。

小森「二〇〇〇年代の萌えアニメに燃え・熱血を加味した作品というと、『舞-HiME』なんかもありますが、やはりこの『リリカルなのは』が二〇〇〇年代の王道をいった作品として突出していると思います」
長谷川「前半はカードキャプターさくらっぽい魔法アイテム集めだったのが、後半は一転ライバルキャラとの死闘、そして黒幕との戦いという、前半と後半で別作品と言ってもいいくらいの温度差がありましたけどね。前半で萌えを印象付けたからこそ、後半の熱いバトルにも萌えを感じられたのかもしれません。もっとも私は彼女たちの使う魔法の形がビームっぽかったので、MS少女の具現版のように見てました。ほら、なのはは色的にウイングで、フェイトは武器的にデスサイズ(笑)」
小森「ただし、戦争の描き方がまずいというのは、二期のA'sから感じていた要素で、その放映時にe-NOVELSでなのは評論を書いたのですが、そこで述べたことのポイントのひとつは、なのはが『話を聞いて』と敵の少女に言い終わらないうちに必殺技を発射しているのをみて、力をもったなのはが、ネオコン・アメリカのように傲慢な存在に変貌しつつあるということです」
長谷川「話を聞いてくれないから、ぶん殴って放心状態にしてから話を聞かせるんですね。アメリカの外交政策の建て前の話ですか? でも、A'sでは本当に戦争しているわけじゃないんですよね。むしろ戦争に見立てている。とある国々(ヴォルケンリッター)が借金状態の国庫(夜天の魔導書)を再生させるのにかなりの量の金(魔力)が必要だからと、近所のお金持ち(なのは達)から暴力でもって奪って行ったら、なのはたちの後ろ盾が総出でひとのもん勝手に持ってくなやゴルァって喧嘩を売りに来た話ですからね。……いつかのドイツの状況に似てなくはない」
小森「ところが三期では、なのはの変貌ぶりはもっと甚だしいところまでいった。なのはは武装魔法軍隊を率いて、新兵を指導する教官になっている。警護しているビルはまるでニューヨークの国連ビルだし、それに襲撃をかけてくるのは、さながらイスラム過激派のようです。で、テロリストたちを撃破して自分たちの正義を信じて疑わないというのは、私としては、戦争の描き方が悪い三大ワーストアニメに数えないといけなくなりました。ちなみに残りのふたつのワーストは『図書館戦争』と『ガンダムSEED DESTINY』ですが」
長谷川「『図書館戦争』は主人公側に守るべき国民が存在しませんし、『ガンダムSEED DESTINY』は守るべき国家がありませんからね。『図書館戦争』は双方の自己満足ですからまだしも、『SEED DESTINY』はテロリストの全面勝利で終わりますから問題外というか、戦争を理解していないとしか言いようがありません。敵キャラクターを綺麗に描き過ぎて殺すに殺せなくなってしまったなんて、いったいどこの少年誌のジレンマなんでしょうね、ほんと」

 右のように、筆者はゼロ年代(2000年-2009年)のアニメに関して、戦争の描き方がまずいワースト作品として、『機動戦士ガンダムSEED(続篇のDESTINYを含む)』『図書館戦争』『魔法少女リリカルなのはStrikerS』の三作をあげている。数ある戦争が描かれたアニメの中で、なぜことさらにこの三作がとりあげられたかについて、対談者の長谷川壌はそこである程度理由と根拠を示しているが、筆者の側では、その対談では充分に根拠と理由を示せなかったので、この稿であらためて考察することにしたい。
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 《魔法少女リリカルなのは》について、その二期が放送中の、二〇〇六年五月に、筆者はe-Novelsの「週刊書評」コーナーでとりあげて論じたことがある(「なのはなははなのな、はななのはなのは」)。その評で筆者は、一期の《なのは》の出来のよさを称揚しながらも、二期《なのは》の戦争の描きかたについていくつか苦言を呈している。
 そのひとつは、二期《なのは》のバトルが、一期と異なり、最終的に味方側にノーダメージで収束・解決してしまう点を衝いて、戦争アニメの描きかたのモラルとして疑問があると述べている。多くのバトルアニメ作品同様、《なのは》でも、できれば避けたい戦いを選ばざるをえないのは、戦うのを余儀なくされる状況に主人公たちが追い込まれるからだ。その点では、一期《なのは》も、二期《なのは》も、なのはたちが戦いに突入せざるをえない状況は設定されている。しかし、バトルを終えた後の結末の収支では、一期と二期は大きく異なり、一期では、なのはの親友フェイトにとっては、母を失い、大事なものを喪失し、各所に被害を出していた。それに対して、二期の結末は、コミックス版のラストで次のような総括がある。「それにしても闇の書事件ってさ 第一級ロストギア関連事件なのに 終わってみれば死者0名 おまけに レア能力つきの魔導騎士と 即戦力レベルの 配下レベルの配下4名までゲットして」。この結末に関して、e-Novelsの書評で筆者は、次のように述べた。
”このセリフにも、二期の展開がいかにご都合主義的だったかが反映されている。あれだけの大事件が発生して犠牲がゼロ、すべてが都合よく収束しすぎているのだ。”(「なのはなははなのな、はななのはなのは」)
 単にこれは結末の予定調和に基づくご都合主義を批判した言ではなく、ギリギリの状況で戦争を選ばざるをえないジレンマと葛藤が、この結末では無効化されてしまうと考えてのことだ。「はやく戦争になーれ」と願うドロシー・カタロニア(《ガンダムW》)のような人物を除いて、アニメの世界でも戦争という選択肢は極力回避が求められるのが普通だが、やむなく戦争という選択をするとき、戦いに犠牲はつきものと覚悟しなければならない。その犠牲を考慮にいれてなおも戦わないといけないからその選択が重みをもつのであって、《なのは》二期の結末のように、戦いを選んでみても結果としてノーダメージで収束しては、戦争がお気楽に選べる選択肢にされているのに等しい。先の書評でもその点を指摘してこう述べている。”こと戦争アニメに関しては、戦争の後、ノーダメージで平和な日常に復帰する作品は、自分にはアモラル--モラルに反する--と思える。たとえこちらの側に非がなくても、たとえ一方的に相手側が悪だったとしても、戦いに突入してしまったときには、それによるなんらかの犠牲を覚悟しなければならない。その犠牲がまったくなく、主人公が勝利して、戦争前となんの変わりのない日常が回復するだけなら、戦争を選択することになんらのマイナス、デメリットがないことになる。要するに戦争が気軽に選択できる選択肢となってしまう。”
 この点とあいまって、一期で戦いに巻き込まれて魔法バトル力を身につけ成長したなのはは、一期の初めにはなかった力を得て、二期の序盤で既に傲慢なふるまいをし始めているのが見受けられる。二期序盤で、なのはが相手に対して、「話を聞いて!」と叫びながら、そう言いおわらないうちに相手にむけて必殺技を放つ場面について、書評では以下のように述べた。”「話を聞いて」と言いおわった後相手の反応を待たず、ひと呼吸の間すらおかず、なのははレイジングハートの光線を発射している。要するにこのときのなのはは、相手の話を聞く気がまったくなかった。ただ「話を聞いて」というのは、ポーズとして言明されたにすぎない。”
 この《なのは》二期に関する書評は、三期《なのは》の方向性を予見したものになっていると言える。というのもこの書評を発表した後に放送された三期《なのは》では、冒頭の小森・長谷川対談で述べられたような、より拡大した戦争描写の弊が見受けられるからである。
 ところで、右の《なのは》評に異論を唱えている論がある。安井健二による「『魔法少女リリカルなのは』にみる例外状態と神的暴力」である。安井は、笠井潔の『例外社会』などを手掛かりにして、筆者の「なのは」論を批判し乗り越えようとしている。その安井の論がどの程度妥当性をもつだろうか。以下、簡単ながら順を追って検討することにした。まず、安井の論では、一期の《なのは》において、シュミットの言う〈例外状態〉が出現しているという筆者の言に関しては肯定されている。筆者は長谷川壌との対談で以下のように述べている。

 魔法の力というのは、現行の警察権力や軍では制御できない超越的な力でしょう。その力をふるって専横をふるう者がいた一期なのはのような状況の場合、法の支配と秩序が及ばない、シュミットの言う例外状態が出現しているわけです。その状態で、秩序回復のために力をふるうことを決断したなのはは、二〇〇〇年代の数あるアニメでも最もノーブルな決意をした尊ぶべき戦士だと思う。(小森×長谷川)

 右の小森の把握に対応して、安井は以下のように述べる。

 『魔法少女リリカルなのは』の第一期においては、現行法、あるいは警察権力などの手が及ばない「魔法」という、特殊な能力を用いた戦争状態がおき、それゆえに例外状態の発生が確認される。このときに「主権」を持つのは誰なのか。それは、事件の発生した世界の住人でありながら、「魔法」に通じており、唯一その状況に決断を下せる存在、つまり、高町なのはがシュミットの言うところの主権者である。(安井144頁)

 ここまでは小森の把握に一致し、その上で安井は、なのはのふるう暴力について、ベンヤミンの暴力論に基づいて、次のように論を進める。

 ベンヤミンは暴力と法及び正義との関係として、「神話的暴力」と「神的暴力」の二つをあげている。さらに「神話的暴力」の中には、法措定的暴力と法維持的暴力があるとしている。(安井142頁)

 その上で安井の論では、時空を管理し、秩序を維持しようとする《なのは》作中の「時空管理局」を「神話的暴力」の体現としている。そして作中の「時空管理局」のふるう力は、正義と言えるものばかりでなく、新たな戦力を獲得するために超法規的な取引に応じているあたりを指摘して、「時空管理局」の「利己的判断」や「いびつな側面が見え隠れしている」と安井は指摘している。
 それに対比される、ベンヤミンの言う「神的暴力」に関して、ニオベ伝説の滅罪的な性格に着目し、一期のなのはがふるう暴力は、「滅罪的」であり、したがって「神的暴力」であると安井は位置づけている(安井146頁)。こと《なのは》の一期の把握に関しては、筆者と安井の把握の間に大きなズレはない。
 だが、筆者と安井の把握は、二期と三期の《なのは》の暴力論に関して、大きく異なってくる。

 第二期に移って、なのはは冒頭の第一話からいきなり敵に襲われることになる。敵の少女=ヴィータは名を名乗らず、しかも、ともすればなのはを上回る力を持って襲いかかって来たのである。これに対し、なのはははじめ、防御に徹し、ヴィータとの言葉のみの対話を試みている。しかし、ヴィータはこれを黙殺し、さらなる危害を加えようとした。ここで、冒頭の小森の論の中で出てきた、話を聞いてといい終わらないうちに必殺技、というシーンが出てくる。確かに、ここだけ切り取ってみれば、ネオコン・アメリカ的な、まず相手の頭を押さえてから交渉する、という上から目線な行動にも見て取れる。だが、前述したように、かなり長い間、なのはは防御体制のみをつらぬいており、ヴィータの猛攻をこれ以上防ぐのは危険、と判断したために攻勢に出たと解釈するほうが正しいだろう。(安井149頁)

 この場面の解釈だけで言えば、安井のこの指摘は一定の正当性がある。ただ、この場面の解釈は、両様にとることができ、どちらかの論が正しいと断じるわけにはいかない。また、この箇所の解釈の相違は、さほどの大きな意味をもたない。
 また、筆者は長谷川壌との対談において、以下のように述べている。

 (なのはは)自分の教練についてこない新兵に対して「少し頭を冷やそうか」と鉄拳制裁を加える。そのときのなのはの表情は、販売されたDVD版ではかわいい顔に修正されてしまいましたが、もとの放映版では死んだ魚のような目をしている。このダークな顔を描いた原画マンは、力をもったなのはの堕落に鋭敏に対応していたのだと思う。(小森×長谷川)

 安井はこの点を取り上げて、「ああいった崩れた作画は、第一期、第二期のときから割合よく散見されるものであり、今回に限ってダークな部分を嗅ぎつけたとか、そういう意図で作画されたものではない」(安井154頁)と反論している。この指摘はそのとおりかもしれないが、現に崩れた作画があるときに、そこに物語の意図を読み込む解釈の自由はある程度許されるだろう。筆者の解釈はたしかに安井の言うように「かなり穿った見方」であるだろうが、そこに意味を読み込む解釈の自由は許容されてよいと考える。ただ、この点は見解の相違として流すことができるものであり、深刻な意見対立をもたらすものではない。
 安井の論で問題なのは、三期のなのはの暴力を、〈神的暴力〉であると強引に位置づけ、小森の論に反論しようとしているところだ。右に引用した、小森による三期なのはの力の堕落の指摘に関しては、安井は「この指摘は、それほど間違っているわけではない」(安井151頁)と、その妥当性を認めている。なのはが、新兵教育などでふるっている暴力などに関して、安井もまた、それを単に正義の暴力と同定するわけにはいかないと認めている。
 三期《なのは》で最大の敵となるスカリエッティに関して、安井は次のように述べている。

 第三期の敵であるナンバーズ及びスカリエッティには、おおよそ、政治目的というものが存在しない。政治目的とは、言い換えれば、自分が信じる正義の社会を達成することである。自分の行いこそがが正義であるという確信犯のもとで、殺人や暴行などの手段を行使するからこそのテロリズムである。では、スカリエッティ達にはそれがあったのだろうか。……(中略)……スカリエッティに政治目的があるのであれば、それから先の未来について触れていなければならない。いわゆる、破壊の後の再生である。しかし、スカリエッティにはそれがない。純粋に、彼には探求欲と破壊願望しかなく、内に秘めた正義などは微塵もない純粋な悪なのである。(安井152頁)

 このように安井は、スカリエッティを純粋な悪と措定した上で、それを倒すためのなのはの暴力は正義であって、したがって「神的暴力」であると述べている(安井153頁)。この安井の措定は、ベンヤミンの規定を参照しても、「神的暴力」の正しい把握とは言えないものが含まれている。ベンヤミンは「神話的な暴力には神的な暴力が対立する」と述べ、前者は「法を措定」し、「境界を設定する」ものであるとする。それに対する「神的な暴力」は、「法を破壊」し、「限界を認めない」(ベンヤミン59頁)。これ以前の安井の論では必ずしもそうではなかったが、この箇所で安井は、なのはの暴力を擁護するために、それが正義の暴力であり、したがって「神的暴力」にあたるものだとする牽強附会に陥っているとおぼしい。
 むしろ安井が三期《なのは》擁護の根拠にしようとした、敵・スカリエッティが純粋な破壊しか望んでいない描写にこそ、三期《なのは》の戦争の描きかたの病弊が集約されるところであると指摘することができる。
 ストーリーに則していえば、たしかにスカリエッティの喋る台詞やその行動からは、純粋な破壊を望んでいるとして思えない。だが、そのような人物が自殺することはあっても、多くの同調者を得て、対立する政治勢力を指導する立場になることは普通はありえない。本当の意図を隠して同調者を集めていたとしても、偽りのプロパガンダのみで、反権力組織を育成・拡大することは難しいだろう。スカリエッティの一派が強大化したのは、その主張に共鳴・同感するところが多かったためであり、それは現時点で権力をもっている〈時空管理局〉への不満、打倒願望などを梃子として、多くの賛同者を集めていったとおぼしい。つまり、そこには、現権力に従属・追従することに代わる行動原理なりなんらかの理想が提示されていたはずであり、たとえスカリエッティの本心が純粋な自殺願望だったとしても、その理念を核としては反権力運動は強大化しえなかっただろう。「純粋に、彼には探求欲と破壊願望しかなく、内に秘めた正義などは微塵もない純粋な悪なのである」とする安井のスカリエッティ把握は皮相的であると言える。
 だが、物語内でスカリエッティは、純粋な悪としてレッテルを張られ、排除されてしまう。この排除を、法秩序の維持や法を構成し措定することとは異なるから、「神話的暴力」ではなく、したがって「神的な暴力」であるとする安井の論は強弁でしかない。
 むしろ対立者を、「純粋な悪」と措定して抹殺される存在としかみなさない排除には、「正義」を執行する側の自己神化として危険な、異分子排除につながるものがある。それが、《ガンダムSEED》や《図書館戦争》と通底する、《魔法少女リリカルなのは》三期の、戦争描写の弊であると言える。


(註)アニメ作品については、《 》を用いて、他と区別した。

引用・参考文献 

安井健二「『魔法少女リリカルなのは』にみる例外状態と神的暴力」(『近畿大学日本語・日本文学』第12号)2010年3月
小森健太朗・長谷川壌「2000年代テレビアニメ対談」2009年12月
小森健太朗「なのはなははなのな、はななのはなのは」(e-NOVELS週刊書評)2006年3月

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ミステリ・映画・戦争――『サブカルチャー戦争』の余白に

ミステリ・映画・戦争――『サブカルチャー戦争』の余白に
渡邉大輔



 私たち限界小説研究会は、来月、3冊目となる批評論集『サブカルチャー戦争 「セカイ系」から「世界内戦」へ』(南雲堂)を刊行する。今回の評論集で私たちは、「戦争」をひとつのキーコンセプトにして、さまざまなサブカルチャー分野(小説、SF、映画、漫画、アニメ……)の表象に見られるその文化史的・精神史的な変容を跡づけた。今回のエッセイは、その論集にも通じる形で、本研究会の活動とも深い関わりの深い「(本格)ミステリ」と、私の最近の活動分野である「映画」との関係について簡単に記してみたい。
 例えば、<メフィスト系>や<ファウスト系>などと呼ばれる新しいタイプの作家が台頭した二〇〇〇年代を経て、現代ミステリは、いうまでもなく、いま、かつてない流動化と多様化を深めている。この研究会が現在、ミステリ専門誌『ジャーロ』(光文社)で連載している評論レビュー「謎のリアリティ ミステリ×モバイル×サバイバル」もまた、そうした現代ミステリ(小説)と他ジャンル(現代詩、広告、SF、格差社会……)とのハイブリッドな関係性を考察し、「モバイル」(情報環境)と「サバイバル」(社会環境)に囲繞されたわたしたちの文学的・ミステリ的感性をより更新していくことを目的としている。それらも踏まえて、ここでは、野崎まどのライトノベル『[映]アムリタ』(メディアワークス文庫、〇九年)と、中島哲也監督(湊かなえ原作)の映画『告白』(一〇年)を取り上げ、「ミステリ」と「映画」、そして「戦争」との関わりを述べていこう。



 さて、まず「ミステリと映画」という主題でいえば、そもそも今日のコンテンツ文化において、ある意味でこれほど親密な関わりを持ったジャンルもない。というのも、ここ数年の間、映画にせよ、あるいはテレビドラマやテレビアニメにせよ、原作ものオリジナルものを問わず、総じて「(本格)ミステリ」という物語類型や手法は、国内外の映像作品の中で盛んに用いられ、いくつもの大ヒット作や話題作を生み出してきたからだ。例えば、最近ではテレビをつけると、必ずといってよいほど、どこかの連続ドラマでミステリものをやっている。さらに、狭義のミステリという定義を離れ、サスペンスやサイコホラー、刑事ドラマ、ハードボイルド、ノワールなどの隣接諸ジャンルまで含めれば、その影響関係と人気ぶりはますます顕著なものとなるだろう。『トリック』『時効警察』『ガリレオ』『チーム・バチスタの栄光』『名探偵の掟』『熱海の捜査官』……。これは映画についても同様だ。二一世紀の今日、映像の世界は明らかにミステリを必要としているといってよい。
 とはいえ、ミステリと映画の「蜜月関係」は、実は何もいまに始まったことではない。むしろ、ある意味では、ミステリないし「探偵物語」の歴史こそが、現在にまでいたる国内外の物語映画(フィクション映画)の基盤の一つを築き上げたともいえるからだ。その関係を簡単に振り返っておこう。例えば、ハリウッドすらも映画製作を始めて間もない一九一〇年代に、ヨーロッパやアメリカで大流行した「連続活劇serial(s)」というジャンルがある。これは、現在のアクション映画やサスペンス映画の起源ともいうべき一〇~二〇分程度の短編活劇シリーズの総称だが、ここには、たいてい颯爽とした「名探偵」が主人公として登場し、財宝を盗み殺人を犯す悪役の「怪盗」(犯人)と痛快な追跡劇を繰り広げる。それゆえに、同時代(大正期)の日本では、このジャンルは「探偵活劇」とも呼ばれて大いに人気を博し、さらに、こうしたハリウッドの「連続活劇」(探偵活劇)の持つモダンな物語技法は、山本喜久男が『日本映画における外国映画の影響』でいうように、後の日本映画の質的発展に大きな影響を与えたのだ。
 また、こうした連続活劇/探偵活劇の元祖的作品とも呼べる『ジゴマ』Gigomar(一一年)というフランスの犯罪映画の与えた影響にも触れねばならない。名探偵ポーリンと神出鬼没の悪漢ジゴマの戦いを描くこの作品は、もともとはレオン・サージー原作のいわゆる「ロマン・フィユトン」(探偵小説の起源ともいえる通俗的な新聞連載小説)の映画化だが、大正初年の日本でとりわけ児童を中心に空前の大ヒットを記録し、映画のノベライズ版をはじめ出版界に未曾有の探偵小説ブームをもたらすことになる。ちなみに、この『ジゴマ』に熱狂していた数多くの子供のうちの一人が、当時中学生の平井太郎少年――後の江戸川乱歩だった(江戸川乱歩『探偵小説四十年』など参照)。日本の探偵小説的想像力には明確にある種の「映画的」感性が流れ込んでいる。さらに、『ジゴマ』の物語の持つ強烈な反道徳性(猟奇性)に彼ら児童が悪感化を受けるのを恐れた当時の警察当局は、すぐさま映画の上映禁止措置を取るのだが、これはいい換えれば、渡来して間もない「映画」という新奇なメディアが、日本で初めて国家によって公式にその存在を認められた端緒であり(それまでは幻燈や演劇などと一緒くたにされていた)、『ジゴマ』という一つの探偵活劇映画によって、日本では本格的に「映画」が制度化されたということもできるのだ(A・ジェロー「『ジゴマ』と映画の〝発見〟」参照)。
以上のように、古今を通じてミステリと映画はしばしば近しい間柄にあるが、どうやらそこには、偶然以上に、両ジャンルの深い構造的な要因があるように思える。それを結びつける、重要な精神史的基盤となっているのが、ほかならぬ「戦争」なのだ。どういうことか。
 それはまず、「謎と論理的解明」というコードに基づいた文学であるミステリと、いわゆるオリジナルなき複製メディアの代表者である映画とが、どちらも徹底して一種の「形式」を元手とするジャンルである点に由来する。思えば、ハリウッド映画の古典的様式が確立したのと、クリスティやクイーンら英米系大戦間本格ミステリの黄金期の到来とは、ほぼ同時期の二〇世紀初頭だった。笠井潔が『探偵小説論』連作や『探偵小説と二〇世紀精神』などの一連のミステリ評論で説得的に敷衍してきたように、ここには明らかに時代的必然性がある。すなわち、二〇世紀という時代は、それ以前の一九世紀的な諸々の価値体系――濃密で合理的な内面(実質)を持った「人間」像や啓蒙的な市民社会像などの意味づけが絶え間なく再審に付され、そうした実質の安定性を枠づける「形式」そのものが空虚に自走・肥大化していった過程だと要約できる。そうした形式主義精神を瀰漫させたものこそ、二〇世紀初頭の「世界/絶対戦争」としての第一次世界大戦(グレート・ウォー)であった。詳細は、『サブカルチャー戦争』所収の拙稿「コミュニケーション社会における戦争=文学」をぜひ参照していただきたいが、いずれにせよ、第一次大戦の塹壕戦でそれまでの戦争にはなかった膨大な屍体がゴミの山のように積み上げられた光景は、近代社会に一九世紀的な「人間」像とは異なる、空虚な主体性のイメージを派生させた。登場人物(人間)の濃密性や人生が「トリック」や「死体」のようなコードや記号性に還元されてしまう本格ミステリや、古典芸術の固有性(アウラ)が剥奪され、無数に同じ作品をコピー可能な「複製芸術」としての映画の台頭は、いずれもそうした「二〇世紀精神」=形式主義を強く反映させていると見てよい。
 それから語りの技法という点でいえば、こうした形式性は、例えば、映画のPOVショット(主観ショット)と、本格ミステリの「叙述トリック」「操りトリック」との相似性にも比せられるはずだ。我孫子武丸の『探偵映画』(九〇年)や米澤穂信『愚者のエンドロール』(〇二年)、生垣真太郎の『フレームアウト』(〇三年)など、「映画」(映画撮影)を題材にした現代ミステリも少なくないが、このPOVショットと叙述トリックの類似も、ミステリと映画という形式的な表現の、それ自体「形式的」な親近性を物語っている。
 また、この両者の関係性を翻って現代の文脈に置き換えて見るとどうか。例えば、冒頭で述べた、現代の映像作品にミステリ的形式性が強く求められる理由を、わたしはこう解釈する。映画(やテレビ)といった表象メディアは、イメージ(視覚性)を記号として用いるがゆえに、言語のようなコードを使う小説などの表現よりも、本来、体系的な物語を語るのに向いていない。だからこそ、D・W・グリフィスを筆頭に、黄金時代のハリウッドは、映画(映像)で秩序だった物語を語る手法を無数に編み出してきた。しかし、特殊視覚効果技術をはじめとして多様な映像表現の可能性を手に入れた現代映画は、次第によくも悪くも、複雑な物語よりもスペクタクルなイメージを見せることのほうに重きを置くようになってきた(しかも、これはいうまでもなく、湾岸戦争以降の高度に「スペクタクル化」した現代の戦争形態にも当て嵌まることだろう。この点については、本論集で藤田直哉が詳細に論じている)。実際、現代映画における「物語力」の弱体化は、昨今よく指摘されるところである。つまり、ここで召喚されてくるのが、「謎と論理的解明」という強固な形式性(お約束性)が共通理解となっているミステリというジャンルの強固なコード性なのではないか。かつてトマ・ナルスジャックは、いみじくもミステリを「読ませる機械」と呼んだ。昨今の映画やドラマでのミステリ・ブームとは、いわば「物語」の失墜した映像世界に、再び強力で簡便な「物語システム」=「読ませる(見せる)機械」をインストールしようと試みているのだと考えることができる。さらにいえば、それは文学の世界でも同様だろう。二〇〇〇年代にその存在感を増してきたライトノベル(キャラクター小説)が典型的だが、既存の小説的コードをはみ出す現代の文学ジャンルにおいても、ミステリは格好の「読ませる機械」としての機能を存分に発揮してくれる。こうして、二〇世紀を体現したミステリは、いままったく新たな文化的背景の中で求められているのである。



 さて、前置きが長くなったが、『[映]アムリタ』と『告白』である。しかし、以上の話を踏まえると、この両作の浅からぬ関係性が理解されるはずだ。例えば、一方で、映画製作を題材にしたシニカルな青春ミステリ『[映]アムリタ』は、いかにもキャラクター小説のお約束を踏まえた世界設定と西尾維新あたりから影響を受けていそうな語り口が印象的な作品である。かたや『告白』のほうは、これまで『下妻物語』(〇四年)や『パコと魔法の絵本』(〇八年)など多彩な視覚効果を駆使した奔放なイメージ世界の構築を得意とする中堅映画作家の最新作だ(本作でも特徴的なスロー撮影をはじめ独自の映像表現を発揮させている)。ライトノベル(文学)とスペクタクル映像(映画)。現代で最も先端的な表現を展開するこの二つのジャンルの新人とベテラン作家がともにミステリという形式に仮託したのは、ひとまず「物語」がその歯止めを失い、容易にその外部へと自堕落に溢れ出す現代文化の中で、再び新たな説話的「函数」(コード)を獲得するための契機なのではなかっただろうか。
 しかし、同時に興味深いのは、他方で、やはり野崎も中島も、そうしたミステリ形式の持つ「物語システム」としての機能を全面的に信じてはいないように思える点だ。例えば、『[映]アムリタ』は、付き合い始めたばかりの恋人を事故で亡くした天才少女・最早とその仲間たちが、大学の映画サークルで恋人が残した脚本を使いアマチュア映画を作ろうとする物語。主人公(語り手)の大学生・二見は、最早の撮る不思議な力を持った映画と、彼女の恋人の死の秘密を推理で探ろうとするのだが、物語はいったん彼の推理によって解決したと思われた矢先、最後の最後で大きなどんでん返しを迎える。いわばこれは一種の「操り系」のミステリなのだが、面白いのは、ラストでその「操り」の真相が暴かれるきっかけとなるのが、主人公がミニシアターで映画を観ている場面であることだろう。ここで作者の野崎は、ミステリの構造的本質=「操り」の不可避性と、映画における構造的本質=イメージへの主観的没入(による「操り」の不可避性)を鮮烈にオーヴァーラップさせるとともに、そのいかにもキャラクター小説的な設定によって、その両者をシニカルに相対化してみせている。
 あるいは、『告白』。本作も、その題名が暗示するように、ある女性教師(松たか子)をはじめ複数の登場人物の「告白」によって構成されている。「告白」とは、言うまでもなく本来は最も近代文学的なモティーフ(主観=内面)であり、同時にそれがある種の「形式性」(言文一致)による擬制であったことを暴いたのが、かつての文芸批評であった(ミステリ評論でいう「後期クイーン的問題」もこの問題の派生形である)。しかし、中島がキッチュな演出で描いていくのは、こちらも、彼らの痛切な「告白」の一つひとつが、その背後で無数の他者による「操り」に翻弄されているだけでなく、さらにその両方が、インターネットの裏サイトや携帯電話といったフラットな情報ツールの介入によって、なし崩しに脱臼されていく風景だといえる。ここでは詳述できないが、映画のラスト、女性教師と、彼女の娘を「殺した」教え子の渡辺(西井幸人)が携帯電話で最後の「告白」を交わし合うシークエンスは、物語的な迫真性以上に、その『告白』という物語(映画)そのものが、ミステリという二〇世紀的な形式性と、スペクタクルな映像表現、ネット的なリアリティといった二一世紀的な脱・形式性とのはざまで揺れ動く姿ゆえに、ある意味で「迫真的」なのだ。
 野崎と中島がミステリと映画で描くのは、こうした二一世紀的リアリティとミステリ形式の新たな拮抗関係である。こうしたサブカルチャー表象の変遷を広義の「戦争論」の文脈で纏め上げたのが『サブカルチャー戦争』である。ぜひ発売を楽しみに待っていていただきたい。
サブカルチャー戦争 「セカイ系」から「世界内戦」へ/笠井潔

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[映]アムリタ (メディアワークス文庫 の 1-1)/野崎 まど

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告白 (双葉文庫) (双葉文庫 み 21-1)/湊 かなえ

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『探偵小説論』と『サブカルチャー戦争』

『探偵小説論』と『サブカルチャー戦争』
飯田一史




こんど「戦争」をテーマにした評論の共著を出すことになった。
『サブカルチャー戦争 「セカイ系」から「世界内戦」へ』
というタイトルである(12月初旬に、南雲堂から刊行予定)。

宣伝めいたことをするのは苦手だが、すこし内容に関係することを書こうと思う。

個人的には「戦争」一般には興味がない。
論集自体、たとえば軍事的な考証を中心にしているわけではなく、具体的に兵器や戦術のあれこれには踏み込んではいない。ミリオタの方がそういう視点から読むなら、満足は得がたいかとは思う(誤解のないように言えば、ミリオタの物の見方は尊敬しています)。よくもわるくも、サブカルチャー評論、文芸評論の本だからだ。

では21世紀の戦争、あるいは2010年代の戦争をサブカルチャー評論ないし文芸評論の文脈でどうとらえうるか、ということをいちおう主題においている『サブカルチャー戦争』は、どういう読み方があるのか。何を考える手がかりになるのか。

一例として、笠井潔の探偵小説論の文脈から線を引いてみたい。
しばしば「人間が描けていない」「登場人物が記号的(累計的)」などと批判の対象になってきた本格ミステリ、なかでもクイーンやクリスティに代表される英米の本格ミステリ黄金期の作品(笠井の用語では「大戦間探偵小説」)は、第一次大戦において人類がはじめて遭遇した大量死の経験からうまれたものだ、というのが笠井の立論だった。

詳細は笠井の著作にあたってほしいが、かいつまんでいえば、19世紀的な「人間」としての尊厳ある死ではなく、モノのように、ゴミのように、“数”として死ぬのが20世紀の人間の死である。そしてそのはじまりは第一次世界大戦だった。
ヒトとヒトとの関係がモノとモノとの関係として映ずる「物象化」作用の全面化が、20世紀的な死の内実である。
だから、本格ミステリに対して「人間が描けていない」「人間の死を軽んじている」などという者は、人間が数や記号としての死ぬ20世紀的必然を理解していない。記号のように死に、道具のように殺されることこそ、20世紀の死をもっとも体現しているというのに。

つまり笠井のミステリ論においては、現実に起こった二度の世界大戦と、小説においていかに人間を(ひとの死を)表象すべきかという問題とがひもづいていた。

――では、20世紀の戦争が19世紀の戦争と異なるように、21世紀の戦争が20世紀とはちがうものになっているなら?

20世紀的な死の描かれ方の時代は終わり、前時代の人間には奇妙に思え、嫌悪の対象になるものこそが、いまや支持を受けているはずだ。
かつて本格ミステリが“高尚な文学”の批評家たちからさげすまれたのと同様の現象が起こっているはずだ。

笠井が社会思想書『例外社会』でカール・シュミットの「世界内戦」という概念を拡張してバブル崩壊以降の日本社会の変容を捉えようとしたことは、戦争と死をめぐる『探偵小説論』シリーズの問題意識を重ねあわせて読まれなければならない。
そしてまた、こんど刊行される『サブカルチャー戦争』がタイトルに「戦争」という語を含み、サブタイトルを「セカイ系から世界内戦へ」とした遠景には、以上のような文脈が、ひとつにはある。
『探偵小説論序説』をふくめればすでにシリーズ4冊が刊行され、現在も継続中の「探偵小説論」にくらべればさすがに(分量的に)まとまった論述とは言いがたいが、収録された「東のエデン」論で笠井の現在の問題意識、何に注視しているのかはうかがい知ることができるだろう。


もちろん、論者によって問題意識はことなる。
だから、ここで書いたような文脈“だけ”を期待して読んでも、それはそれで肩すかしにあうと思う。
しかし、論者それぞれに、これまでと現在では何がことなっているのか? 問うているつもりだ。

笠井の探偵小説論の背景には、『敗戦後論』の加藤典洋や『戦争論』の西谷修らとの交流があった。もちろん、最終的なアウトプットはそれぞれの責任でなされている。結論も、力点の置き方もそれぞれちがう。けれどお互いの議論を深め、問題を提起しあう「場」があったことはまちがいない。限界小説研究会もそのような場として機能することを望んできた。
そして『サブカルチャー戦争』はそんなふうに誰かを触発し、また読者からレスポンスによって論者が触発されるような材料であればよいと思って、編まれた。

興味をもたれたら、読んでいただければ。
twitterのハッシュタグは#genkaiだそうです。

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